詩織平成9年度号全作品
土井美香
「あのーすみません。もしかしてあなた瀬川香澄さん?」私が尋ねると、彼女は、
「ええ、そうですけど。」と不思議そうな顔をして答えました。「私内田笙子。覚えてない?」
世の中はそんなに悪くない。小学校6年生にしてそんなことを考えるほど私はこまっしゃくれた子供でした。教室の他の子供達より、少しばかり勉強ができるとか、ピアノが弾けるとか、走りが速いとか、そういうことは当然のこととして常に意識していましたし、みんなが、私に憧れに似た気持ちを抱いていることは分かっていました。だから、学級委員に選ばれたり、クラスの人気投票で1位になったりするのですから。しかし、人の上に立ち続けるというのは、なかなか大変なことなのです。そのために、私はみんなの知らないところでの努力を決して怠りませんでした。それと同時に、私には人を魅きつけて離さない生まれもった何かがあると信じてもいました。すべては順調にいっていました。あの子が来るまでは、私は思い通りの毎日を送っていたのです。
その子は、10月の少し肌寒い日にやってきました。先生と一緒に教室に入ってきて、
「こんにちは、私は瀬川香澄といいます。仲良くして下さいね。」とにっこり笑って、みんなの前であいさつをした時、私は何だかいやな予感がしました。彼女はその日、常に話題の中心にいました。「私のママはね、昔女優をしていたのよ。とても優しくて美人なの。よく私のためにおいしいケーキを焼いてくれるわ。」「パパは貿易会社に勤めていて、いつも外国のおみやげをいっぱい買ってきてくれるわ。」「私の家のお庭には、すっごく大きいシェパードがいるのよ。かわいいからみにきてね。」彼女の口からは、誰もが思わず溜め息をつくようなお話が次々とでてきました。私は、教室での自分の存在が少しずつ色あせていくのを感じていました。転入1日目にして、私は彼女に教室での1位の座を簡単に奪われてしまったのです。今まで私に向けられていた羨望の眼差しは、彼女に向けられるようになりました。
その日の放課後、クラスの中でも特におしゃべり好きの由紀ちゃんが、「今日、香澄ちゃんの家に遊びに行きたい。」と言ったので、「私も、私も。」と女の子数人が集まってきました。私が遠くから見ていると、彼女は突然決まったことにとまどっている様子でしたが、「うん、いいよ。でもまだ引っ越しの荷物が全然片付いていないから、家の中には入れてあげられないの。門の外から見るだけでもいい?」と言いました。彼女の言葉にみんな同意して、それぞれに帰る準備を始めました。「笙子さんもいくよね。」1人のお友達が私に向かって言いました。私はこの言葉を待っていました。「うーん、どうしようかなぁ。」言いながら私は、みんなが私の存在を忘れていないことにほっとしていました。「えー、一緒にいこーよー。」私は自信を取り戻しました。みんなが私を誘わないわけがないのです。「うん、じゃあいこうかな。」うれしさから湧き上がる笑みを、きゅっと唇を引き締めて抑えながら言いました。私は、好奇心をかきたてられながらも、誘われなければいっていなかったことでしょう。
彼女の家に着いた時、私達は目を疑いました。門の外から見る家は、私達が想像していたよりもずっと立派でずっと素敵で、まさに私達が思い描く夢の城だったのです。お庭は広くて芝生が敷き詰められ、家の中からはピアノのメロディーが心地好く流れていました。「あれはママが弾いているのよ。上手でしょう。」その声に、私ははっと我にかえりました。「すごーい、これが香澄ちゃんの家なの? いいなー。」「香澄ちゃんの家ってお金持ちなんだねぇ。」「こんなところに住でみたーい。」みんな口々に感嘆の声をあげました。「そうかなー、普通だよ。」と言う彼女の誇らしげな顔を見ながら、私は彼女に負けたことを認めざるを得ませんでした。そして初めて、私はこれまで今の彼女のような顔をいつもしていたのだと気付きました。あんまりイイ顔ではありませんでした。彼女が「ごめんね。また今度遊びに来てね。その時はママにおいしいケーキを焼いておいてもらうから。」と言ったので、「今度はきっとね。」と念をおして私達はそのまま帰ることにしました。「香澄ちゃんバイバーイ。」「バイバーイ。また明日学校でね。」彼女は私達が見えなくなるまで、ずっと手を振っていました。
「すごかったねー。」「うらやましいねー。」「今度は絶対家の中も見せてもらおうね。」興奮冷めやらぬ様子で、帰る道では彼女についての会話が途切れることはありませんでした。私は彼女の家に行ったことを少し後悔しながら、とぼとぼとみんなの後をついて歩きました。何だかみんなのようにはしゃぐ気にはなれませんでした。お友達の1人が「笙子さんどうかしたの?」と話しかけてくれましたが、私は「ううん、何でもないよ。」と言うしかありませんでした。
次の日も、教室は朝から彼女のうわさでもちきりでした。昨日彼女の家に行った子は、まるで自分のことのように自慢気に話をふくらませていました。彼女が教室のドアを開けて「おはよー。」と明るく入ってくると、たちまち彼女の席の周りには女の子の輪ができました。
「今日も香澄ちゃんの家に行ってもいい? もう家の中で遊べるの?」「まだだめよ。それに今日はママが少し風邪気味なの。みんなにうつると悪いから、ママが元気になったらきてね。」「そうなの、残念ね。」こんなやりとりが休み時間毎に続きました。私は、その輪に加わるきっかけを失って、1人で自分の席からその様子を横目で眺めていました。これまでは、あの輪の中心にいるのは私だったのにとぼんやり考えながら、自分のプライドの高さに嫌気がさしていました。そうです。きっかけを失ったというより、誰かが私を誘ってくれたらあの輪の中に入ってもいいのに、というつまらないプライドが邪魔をして私を1人にしていたのです。
すると、彼女の方から放課後になって、突然私に話しかけてきました。「笙子ちゃん、2人で一緒に帰ろう。」私が驚いて「由紀ちゃん達と帰らないの?」と聞くと、彼女は「私、あの子たち苦手なの。」と私だけに聞こえるくらいの小声で言いました。
帰り道で、私は、彼女がお父さんの仕事の都合でこれまで何度も転校を経験してきたことを知りました。彼女は、東京、福岡、北海道など、移り住んできた色々な土地の話をしてくれました。私は思い切ってさっきから気になっていたことを尋ねました。
「どうして私と2人で帰ろうと思ったの?」
「どうしてって、笙子ちゃんとお友達になりたかったかったからよ。」
「どうして私なんかとお友達になりたいの?」
「理由なんてないわ。あえて言うなら、何だか私と似てる気がしたからよ。」
「どこらへんが?」
「大人ぶってるけど本当はすごく子供なところ。自分のことがあんまり好きじゃないところ。」
私はその言葉を聞いて、彼女は自分のことを初めて理解してくれる子だと思いました。彼女となら本当の友達になれると思いました。これまで感じていた焦燥感や圧迫感のようなものは不思議となくなっていました。別れ目になる曲がり角で私達は手を振って別れました。その日以来、私達は学校ではいつも一緒に行動するようになり、将来のことや、気になる男の子のことなんかも話しあう仲になりました。
それから数日の間は、何事もなく過ぎました。相変わらず彼女はクラスの中心にいましたが、私はそんな彼女を見ても以前のような目を向けることは決してありませんでした。むしろ彼女と私が特別な友達になれたことを誇らしく思っていました。
彼女が転入してきてから1週間程たった日のことです。朝、私が登校して来ると、教室はいつになくざわざわしていました。次はみんな何の話題を仕入れたのかしらと思っていると、由紀ちゃんが怖い顔でやって来て、「ねぇねぇ笙子さんは知ってたの?」と言いました。私は何のことだか全く分からず、「何を?」と言おうとした時ガラッと教室のドアがあいていつも通り彼女が明るい声で「おはよー。」と言いながら入ってきました。その瞬間、教室がシンと静まり、みんなの視線が一斉に彼女に注がれたのです。彼女はそんなことには気付かない様子で、私の方に向かって歩いてきました。すると、近くにいた由紀ちゃんが、突然怖い顔に戻って、彼女に向かって大声で「ウソツキ!」と言いました。私は驚いて、すぐに「どうして?」と尋ねましたが、彼女はというと、全く平然とした顔をしていました。それを見た由紀ちゃんは、ますます興奮した様子で、教室中に聞こえるくらいの声をあげてまくしたてました。「あなたみんなに謝りなさいよ。自分が何をしたか分かってるでしょう。私達みんなをだましてたのよ。そんなことをして何が楽しいの?」「一体なんだっていうの?」みんなの視線をあびながら私が口をはさむと「笙子さん本当に何もしらないの?」と今度は私に向かってさらに激しい口調で話し始めました。
「昨日私達、この子を驚かそうと思って、約束もせずにいきなりこの子の家に行ったのよ。だって、遊びに来て来てっていつも言う割には全然家の中に入れてくれなかったでしょう。それで呼び鈴を押したら女の人が出てきたわ。私達この子のお母さんだと思って、『こんにちは香澄ちゃんいますか?』って聞いたら、その女の人何て言ったと思う? 不思議そうな顔をして、『この家にはそんな子はいないわよ。』って言ったわ。『えっ、ここって瀬川香澄ちゃんの家じゃないんですか?』ってまた聞いたら、『ここは確かに瀬川という名字だけれど、そんな子は知らないわ。ここには私と夫しか住んでいないのよ。何かの間違いじゃない?』ですって。私達わけがわからなかったわ。この前行った時は確かにあの家だったのに、どうして全然知らない人の家になってるの? そんなのおかしいじゃない。最初っからこの子の家じゃなかったのよ。この子が私達をだましてたのよ。これまで自慢気に話していたことはきっと全部うそだったのよ。」教室中の空気がはりつめてシーンとしていました。私はあまりのことに驚きとショックを隠せませんでした。彼女は、由紀ちゃんやその他の子達が「何とか言いなさいよ。」と責めても口を開こうとはしませんでした。しかし、それがまたみんなの怒りを増す結果となりました。
その日、私は初めて彼女と一緒に帰りませんでした。私は彼女に対して腹が立つというよりも裏切られたことに深いショックをうけていました。私は彼女のことを親友だと思っていたのに、彼女にとって私はそうではなかったのです。どうして彼女はあんなにすぐばれてしまうようなうそをついたのでしょう。どうして私にまで。どうして。どうして。そのことがずっと頭からはなれませんでした。
次の日から彼女に話しかける子は全くいなくなりました。由紀ちゃん達は彼女をにらみながらコソコソと悪口を言っているようでした。男の子たちからも何かする度にたたかれたり、蹴られたり、あからさまにいじわるをされるようになりました。私はさすがに仲間には入りませんでしたが、そんな彼女のことを気にはしながら見てみぬふりをしていました。私の周りはまたにぎやかになり、彼女との距離は次第に大きくなっていきました。
転入してきた日がうそのように彼女はいつも教室では1人ぼっちでした。それでも彼女は毎日休まずに学校に来ていました。
学芸会の出し物で、私達のクラスは「白雪姫」の劇をすることになりました。もちろん私はみんなからお姫様役に選ばれました。彼女が転入してくる以前の特別な存在に戻ったのです。本来なら喜ばしいことなのですが、何かひっかかるものを感じました。彼女はというと、男の子達に森に住むカラスの役を無理やり押しつけられ、悲しそうに下を向いて座っていました。劇の練習をしている時も、彼女ばかりが男の子達から「もっと鳴け、もっと鳴け。」とからかわれ、「カーカー、カーカー。」と彼女がいう度に女の子達は笑って指差しました。私はそんな彼女をみるのもいやでしたし、みんなに対してもうんざりしていました。しかし、自分から注意する勇気もなく、そのまま数日が過ぎました。
劇の発表を2日後に控えた日の放課後、由紀ちゃん達と一緒に帰りながら忘れ物をしたことを思い出した私は1人で教室に戻りました。教室は、みんなが帰った後でがらんとしていました。私は急いで教室の後ろのロッカーから忘れ物を取ろうと走り寄りました。その時、ちょっとした不注意から、ロッカーの前におかれていた劇に使う背景のセットを壊してしまったのです。私は真っ青になりました。どうしよう、劇は二日後なのに。今から作り直してたら間に合わない。それに、私が壊したなんて言ったらみんなから何て言われるか。こんなことを考えながら、どうしていいか分からずオロオロしている時私はドアの方に人の気配を感じて、ぱっと振り向きました。そこには彼女が1人で立っていました。私は思わず「このことは誰にも言わないで! お願い!」と叫びました。後から考えると随分勝手な話です。彼女がいじめられて助けを求めている時は黙って見ていて、いざ自分がピンチに立たされた時は彼女に助けてもらおうなんて。でも、その時の私はとにかく必死だったのです。彼女は静かにうなずきました。「うん、みんなには黙っていてあげる。」そう言って帰っていった彼女を私はぼーっと見送りました。
その夜は、不安でなかなか寝付けませんでした。彼女は本当にみんなに言わないでいてくれるでしょうか。
次の日、私は学校を休もうかとも考えましたが、そんなことをすると余計に怪しまれると思って、いつも通り登校しました。教室に入ると、思っていた通りみんなは大騒ぎしていました。「どうせあなたがやったんでしょう。」「本当のこと言いなさいよ。」「あなたが放課後1人で教室の方へ行くのを見た子がいるのよ。」彼女が教室の真ん中でみんなに囲まれて責められていました。由紀ちゃんがドアの前でかたまっている私に気付いて、「笙子さんおはよう。見てこれ。」と壊れたセットを指差しました。「あっ、そう言えば昨日の放課後笙子さんも1人で教室に来たはずだよね。」私は背中にびっしょりと汗をかきながら、どう答えていいのか分からず立ちつくしていました。すると彼女が言ったのです。「これ壊したの笙子ちゃんよ。昨日私見たもん。」みんなの視線が一瞬にして私に注がれるのが分かりました。また彼女に裏切られた、そう思いました。でも違ったのです。
「うそよ。笙子さんがそんなことするはずないじゃない。またこの子がうそついてるのよ。自分がやったのに笙子さんのせいにしようとしているのよ。」と由紀ちゃんが言うと、みんなは彼女がやったと決めつけ、また彼女を責め始めました。女の子にはさんざん罵倒され、男の子からはたたかれたり蹴られたりしながらも、彼女はじっと耐えていました。そして、恐くて何もできないでいる私の方を見てにこっと笑ったのです。彼女には分かっていたのです。「笙子ちゃんがやった。」といえば、うそをついてきた自分が疑われるということが。私は見ていられなくなって教室から逃げ出しました。
その日以来、彼女は学校に来なくなりました。
数日たってから、私は先生に住所を聞いて、思い切って彼女に会いに彼女の本当の家に行きました。そこは2階建の古いアパートで、小さな電灯が暗い廊下をわずかに照らしていました。呼び鈴を押すと、彼女のお母さんらしきひとが忙しそうに出てきました。
「あのー、私は香澄ちゃんと同じクラスの内田笙子といいます。香澄ちゃんいますか?」
「ええ、いるんだけど、具合が悪いみたいで寝てるのよ。またあの子学校でみんなにうそついたんじゃない? 転校する度にうそをついて、それがばれるとあーやって学校を休みだすのよ。悪い癖ね。さあ、あがってちょうだいあの子は奥の部屋にいるわ。また引っ越すんでそこら中ちらかってるけど。」
「えっ、もう引っ越すんですか? この前ここに来たばかりなのに?」
「そうなのよ。1週間後にね。せっかくあの子にもあなたみたいなお友達ができたばかりでかわいそうなんだけれど、父親の仕事の都合で仕方がないのよ。」
私は彼女の部屋のふすまをゆっくりと開きました。彼女は向こう側を向いて、すっぽりと頭から布団をかぶって寝ていました。私は小さな声で彼女に話しかけました。
「もう引っ越しちゃうんだってね。」
何の反応もありませんでしたが、私は話続けました。
「香澄ちゃん、ごめんね。この前は本当にごめんなさい。あんなことになると思わなくて……これ、お母さんからもらった私の宝物のオルゴールなの。こんなことで許してもらえるとは思ってないけど、よかったら受けとってね。じゃあ、私帰るね。学校で会おうね。」
布団がもぞもぞと動きました。私は香澄ちゃんがこちらを向くのかと期待しましたが、とうとう彼女は一度もこちらを向いてはくれませんでした。私は彼女の家から帰る道で、彼女は私には本当のことを話してくれていたのかもしれないと思い、薄情者の自分が恥ずかしくなりました。
それからも、彼女は1度も学校には来ませんでした。彼女の存在は次第にみんなの会話からは消えていき、いつもの教室に戻っていきました。
そしてとうとう1週間がたち、彼女が引っ越す日がきました。私は最後にもう1度彼女に謝ろうと、放課後走って彼女の家にいきました。しかし、言った時にはもう家の中には何もなく、もちろん彼女の姿もありませんでした。後悔ばかりが残る後味の悪いお別れでした。
それから10年後、私は短大を卒業してすぐ、ある広告代理店に就職し、すでに2年が過ぎていました。来年度の新入社員を決定する為の面接関係の書類を整理していた私は、そこに「瀬川香澄」の名前を見つけてもしやと思いました。10年間ずっと忘れたことのない名前です。再びあの苦い思い出が甦ってきました。
そして面接の日、私達は再会したのです。面接室に彼女が入ってきた時、私は一目見てあの「瀬川香澄」その人だと確信しました。面接が終わった後、私は彼女をおいかけて後ろから声をかけました。
「あのー、すみません。もしかしてあなた瀬川香澄さん?」私が尋ねると、彼女は、
「ええ、そうですけど。」と不思議そうな顔をして答えました。「私、内田笙子。覚えてない?」
すると彼女はすぐににこっと笑って 言いました。
「あー、思い出したわ。宝物のオルゴールをくれた笙子ちゃんでしょう。あのオルゴール今でも大切に持ってるわ。あの時は素直に受け取れなくてごめんなさい。」
「そんなこといいのよ。私がひどいことしたんだから当り前だわ。10年前は気まずい別れ方をしてしまったわね。私ずっとあなたにお礼がいいたかったの。あの時私をかばってくれてありがとう。でもあなたのせいになってしまって……」
「もういいのよ。10年も前のことじゃない。それに、私はあんなことにはなれっこになってたから。あの頃の私は転校してばかりで、お友達とすぐに離れないといけなくてとても寂しい思いをしたわ。だからあんなすぐにばれるうそをついてまで少しの間でもたくさんのお友達に囲まれていたかったんだと思うわ。今思えばそれがお友達のいない原因だったのにね。でも、あなたとは親友になれた気がするわ。あそこには1ヶ月もいなかったのに、あなたのことだけはよく覚えているもの。」
「今からでも親友になれるかしら?」
「なれるわよ、きっと。」
10年前の出来事がうそのように、何か胸につかえていたものがなくなった気がして、私達はうちとけて話をすることができました。10年前、友達を信じて思ったことをぶつけていたら、あんなにお互い傷付くことはなかったかもしれませんむ。しかし、今から思えばそれもあの頃の私達には必要な経験だったのでしょう。今こうして、やっと素直にあの頃を振り返ることができてとてもうれしいのですから。
私が彼女に、「今はどうしているの?」と尋ねると、彼女はあの頃と同じ笑顔でにっこり笑って答えました。「えーっとねぇ、この前トム・クルーズと婚約して、ロサンゼルスに家を買ってもらったのよ。また今度遊びに来てちょうだい。それでねぇ………
根本智樹
五棟102号の川端のババアに、今日もボールをとられてしまった。これで今シーズンで6個目になる。ボール1個が70円だから、420円もババアにとられてしまった。小学5年生のおれ達にはけっこうな値段なのだ。
「これは仕返ししてやらないといかんな。」
と、一番野球の下手なゴンが言い出した時は少しびっくりしたけど、自分達の球場を守るためには立ち上がらんとあかん、とみんな戦う決意をしたのだった。
今、ババアの魔の手が伸びている球場というのは、おれ達の住む桜井谷団地の三棟と五棟の間にある公園のことで、ここで5年生のおれとカッちゃんとゴンと大介、4年生の太一と正夫の6人で毎日庭球野球をしているのだ。たまに6年生の藤本君や悟ちゃんが入ることもあったけど、毎日必ず来るのはこの6人だ。
おれ達の野球は独特のルールがあって、例えばゴロも落とさないで取れば、ファーストに投げないでもアウトになるし、ランナーにタッチしないでもボールを直接ぶつけられたらアウトになる、という具合だ。でもこんなルールは隣の南小学校でもあるみたいで、おれ達自慢のルールは、ホームランタイトル制だ。これは一月を一シーズンとして、そのシーズンで一番ホームランを多く打った者に牛乳キャップ50枚が与えられる制度だ。これは阪神ファンのカッちゃんが考えついた。
昨シーズンのホームラン王はおれで、おれは巨人ファンなので
「やっぱり巨人は強いわ。去年の阪神の優勝はまぐれやったんや。」
と言ってしまい、カッちゃんとけんかになってしまった。次の日に仲直りしたけど、怒りに燃えるカッちゃんは絶好調で、おれは2本差をつけられている。尊敬する原選手のためにもがんばらないと、カッちゃんや正夫に巨人の悪口を言われてしまいそうだ。
こんなふうに、おれ達はホームランに全てをかけているのだけれど、このホームランのことで川端のババアともめているのだ。さっきも言ったけど、おれ達の球場は団地の中の公園なので、ホームランが五棟のベランダに入ってしまうことがある。
こんな時は打ったバッターがあやまりに行くのだけれど、素直にあやまればたいていボールを返してくれる。先週だったと思うけど、201号の東さんのおばあちゃんはおれがあやまりに行くと、
「これ、みんなで食べんねで」
と言ってあめ玉の包みを渡してくれた。
おれ達は怒られるとばかり思っていたので少しほっとしたけれど、何だか気持ち悪かったので、
「なあ、おばあちゃん、怒らへんでもええのか?」
と聞いてしまった。おばあちゃんは少しあっけに取られたようだったけど、すぐにまたニコニコ顔にもどって
「あほ。悪さしない子供なんかおるかいな。何を言っとるんや、この子は。」
と言ってヒャハヒャハ笑いだした。入れ歯が今にもはずれそうだったし、そのまま死んじゃいそうなぐらいの勢いだったので、おれはさっきより気持ち悪くなって逃げるようにして公園へ戻った。でも、それから東さんのおばあちゃんが大好きになった。
それに比べて、川端のババアはつくずく腹が立つ。202号の清水さんも、一日に三回ボールが入った時は少しお説教されたけど、後は笑ってゆるしてくれる。でもあのババアには初めて入った時から怒鳴り散らされたし、次からはボールを返してくれなくなった。
あの家に初めて放りこんだ、デブの大介だった。大介はデブだから足は遅いし、運動も苦手だったけど力は強いから、たまにボールがバットに当たるとすごい打球をかっ飛ばす。 この時のホームランもものすごいライナーで、ババアの家の網戸にぶち当たった。
「ドカベン君、やったやないか。」
ゴンが監督みたいに、ベースを一周してきた大介を出迎えた。ピッチャーのカッちゃんは江川投手のまねをして、ガックリと肩を落として座り込んでいる。
「ぼく、メチャクチャうれしいわ。」
大介は目を線にして、べたーと笑った。その顔が朝潮にそっくりなんだけど、あいつは泣き虫だから言わないことにしている。
「よし、その調子でボール取ってこい。」
代わりにおれはそう言うと、大介は「うん。」とうなずいて走って行った。
帰ってくるのが遅いので、少し変だと思いはじめた頃に大介は戻ってきた。行く時は走って行ったのに、ずいぶんとぼとぼ歩いて戻ってくるので、おかしいなと思ったらやっぱり泣いていた。
「怒られた。」
大介はそう言うと、女みたいに両手で顔をかくした。でもボールは返ってきたので、おれ達はかまわずに試合を続けることにした。
それからすぐだった。今度はおれが同じ場所に放りこんだ。
「よっしゃ、行ってまいりまっ。」
おれはみんなにそう言うと、走ってボールを取りに行った。
公園から五棟の正面にまわって、一番左の階段を5段ほど上ると、右手の方向に102号がある。ドアの右側の呼び鈴を押して、「すいませーん」と言おうとした時だった。
「またアンタらか! さっきも言うたけどな、もうボールは返さへん、さっさと帰り!」
ドアが開くと同時に、太ったババアが飛び出してきてこう言った。あんまり急だったので、おれは何も言えなくて、馬鹿みたいにつっ立っていると、
「分かったんか? 分かったんやったら返事くらいしたらどうや。だいたいこんな所で野球すること自体が……」
ババアがやたら早口でまくし立ててきた。おれは説教慣れしているので、いつものように聞き流したつもりだけど、この時はすごく腹が立った。
担任の山本先生にはよく怒られるけど、いくら怒られても腹は立たない。逆にこのババアには怒られなくても腹が立ちそうだ。だいたいババアのくせに口紅だけは妙に赤くて、それがまた、しゃべる度にゆがむのでやたらと気持ちが悪い。口だけじゃなくて肉にうもれた細い眼も意地悪そうだし、茶色に染めた髪も最低だ。とにかく頭の先から足の先まで腹が立つ。
そんなことを考えていたら、ようやくババアの説教も終わった。実際は5分もかからなかったと思うけど、なにせ同じことばかり言うものだから、ずいぶん長い間そこに立っていたように感じた。
「あんまりひどいようやったら、学校に言いつけるからな!」
ババアは最後にこう言うと、乱暴にドアを閉めた。サビのついたドアがギャイーン、バターンとすごくいやな音をたてた。あんまり悔しかったからドアにションベンをかけてやろうかと思ったけど、上の階から宅配便のおじさんが降りてきたのでやめておいた。
その日から今日まで、川端のババアの家に入ったボールは一球も返ってこない。ボールを返さないだけならガマンするけど、おれ達の声がうるさいとか言って、最近学校へ文句を言いに行ったらしい。
これはどうにかせんとあかんなと思っていたけど、みんなには言い出せずにいた。だから今日ゴンが仕返しを言い出した時はあいつを少し見直した。おれだけじゃなくて、みんなもゴンを見直したみたいだった。
実際にどんな仕返しをするかはあした話し合うことにして、今日のところは家に帰ることにした。
次の日、おれは朝から落ち着かなくて失敗ばかりだった。きのうからババアへの仕返しのことばっかり考えていて、たて笛は忘れるし、給食はこぼすし、さんざんだ。
放課後が近づくにつれて、ますますそのことで頭がいっぱいになってきた。6時間目の国語の時間には、机の上に算数の教科書を広げていたので、山本先生にどつかれてしまった。
「そんなに算数がやりたいならやらせたろ。ただし廊下でな。」
先生に言われて、おれは算数の教科書を持って廊下に立っていた。立たされるのは慣れっこだけど、高瀬舞に笑われたのが恥ずかしい。
「この前のドッジボール大会で、せっかくポイントあげたのになあ……」
少しがっかりして4年生側の教室を見ると、チビっこい奴が教室から出てきた。正夫だった。正夫はすぐにおれのことを見つけたみたいで、スポーツ刈りの頭をかきながらフニャーッと笑った。
長い長い学校が終わると、おれはゴンといっしょに裏山の神社へ向かった。いつもの公園だと作戦がバレるかもしれないので、作戦会議はあまり人がこない所ですることにしたのだ。
神社の石段を登っていくと、カッちゃんと大介と太一は先に来ていて、ほこらの前で座っていた。
「正夫は来んかもしれん。」
太一が少し厳しい顔で言った。
「あいつ、漢字の宿題を三日続けて忘れたから、残ってやらされているんや。」
「ほんなら、あいつの分の食料いらんかったな。」
ゴンはビニール袋に“うまい棒"を12本入れて持ってきているのだ。あいつの父さんはおかし問屋に勤めていて、家にたくさん持って帰ってくれるらしい。それにゴン自身も気前がいいので、どんどんおれ達に配ってくれて、厚かましい大介なんかはわざわざ家までもらいに行ったりしている。
「正夫の分、ぼくがもらう。」
やっぱり大介の奴がこう言ったので、おれは
「やめとけ、また太る。」
と言ってやった。
「そうや。太る、太る。」
太一も調子に乗ってこう言ったので、大介は少し怒ったみたいだったけど、本当のことだから仕方ない。すると、
「そんなことより、早いとこ始めまへんか。」
とカッちゃんがおっさんみたいな言い方をしたので、みんな思わず笑ってしまった。大介も機嫌を直したみたいだった。
「どないして、ババアに痛い目見させたらよろしいやろか。」
今度はカッちゃんがおっさんの言い方をした時は、みんな笑わなかったけど、太一はよっぽど気に入ったみたいで、半ズボンからでた太ももをぺしぺしたたいて笑っていた。
みんながあーだ、こーだ言い合っている間、おれは鳥居のそばの狛犬を眺めていた。つり上がった目といい、大きくさけた口といい、何だか川端のババアに似ている。そう言えばカッちゃんはあいつのことを“ブルドックババア"って言ってたなあ、なんて思っていたら、
「ポストに何か放りこもう。」
とカッちゃんが提案した。それを聞いて、おれはしっぺをくらったみたいにびりびりっときて、
「犬や! 犬を放り込むんや!」
とかなり大きな声をあげてしまった。
「それもポストなんかやない。家の中に放り込んでやるんや!」
それまでぼーっとしていたおれがいきなりわめきだしたので、みんなあっけに取られたみたいだけど、「これはいける」って感じで力強くうなずいた。カッちゃんだけが「少しやりすぎちゃうか」って感じで、とんがったあごをなでていたので、
「あのババアに手加減したらあきまへん。これぐらいでちょうどぐらいでっせ。」
と今度はおれがおっさんの言い方で言うと、カッちゃんも納得したみたいで、変にまじめ
な顔をして、
「ほな、それいきまひょか。」
とおっさん口調で答えた。
何をするかが決まったら、今度はそれをどうやってするかを考えないといけなかった。とりあえず、放りこむ犬はすぐに“臭そうな犬"に決まった。
この“臭そうな犬"というのはこの辺に住みついている野良犬のことで、こいつは野良のくせにやけに人慣れしている。女子は“コロ"とか呼んでいたけど、茶色とねずみ色のまじった汚い色をしているので、おれ達はこいつを“臭そうな犬"と呼んでいる。今までも頭に袋をかぶせたり、いろいろいたずらをしてきたので今回もこいつを使おうということになった。
さて、問題はこいつをどうやって家の中に放りこむかだ。まさか呼び鈴を押して、ドアが開いたところを投げ込む訳にはいかないだろう。それはそれでおもしろいかもしれないけど、誰がやったのかはバレバレだ。バレて2,3発どつかれるのは覚悟しているけれど、やったその場でつかまるのは格好悪い。やっぱり一度は逃走しないといけない。
誰もいい考えが浮かばないらしくて、作戦会議はずいぶん静かになってしまった。草むらから聞こえる虫の声がやけにうるさい。太一の奴は、交尾中のとんぼが気になって仕方ないみたいで、そっちの方ばかり見ている。あいつはどうも飽きっぽい。
みんながすっかり黙り込んでいると、
「なあ、ベランダに入れたらどうやろ。」
ゴンがすごいアイデアを思いついた。
「今の時期やったらガラス戸も開いているから、うまいことベランダから家の中に追いやったらええんとちゃうか。」
「でもベランダに柵があるやんけ。どうやってベランダに犬入れんねん。」
カッちゃんが反論したけど、ゴンは少し考えてから答えた。
「犬を箱か何かに入れて、一人が柵の上に登って、下からそいつに渡したったら大丈夫やろ。」
ゴンは普段はおとなしくて野球も一番下手だけど、あいつはおれと違って頭がいいので、こんな時はすごく役に立つ。おれがいつもの倍ぐらい感心していると、
「それからピンポンダッシュでもやっといて、ババアの注意をそっちにひきつけといたら完ぺきやと思う。」
授業中に当てられた時みたいに、ゴンは首を右に傾けながら付け足した。
ゴンの完璧な作戦に、誰も文句をつけられるはずはなかった。文句言いのカッちゃんもすっかり感心したみたいで、ニヤッと笑ってうなずいた。
最後に、この作戦をいつ決行するかっていう話になったけど、土日や夕方は周りに大人が多いから、平日の昼間がいいということになった。ちょうど来週の火曜日が開校記念日で休みだったので、その日の2時を作戦開始時間にした。
ここまで決まると、もうみんなノリノリで、来週の火曜日が待ち遠しくてたまらなくなってきた。大介なんかすっかり赤い顔をしているし、カッちゃんは興奮して鼻血を出してしまった。そういうおれも、はしゃぎすぎて舌をかんでしまい、少し泣きそうになった。
こんな感じでワアワアやっていたら、周りはすっかり暗くなっていて、急いで帰ることにした。鳥居をくぐって階段の前まで来ると、下から登ってくる奴が見えた。
「ごめん、おそなった。」
正夫が女みたいな高い声で言ったので、おれは、
「あほ。今から帰るところじゃ。」
といったけど、さっき舌をかんだおかげで変な発音になってしまった。
「まあ、そう怒りなや。」
正夫はそう言うと、昼に廊下で立たされた時と同じ顔で笑った。
決戦の日の1時ごろ、大介は大きなダンボール箱をかかえて迎えに来た。おれは親に見つからないように冷蔵庫からハムのパックを取り出すと、いつものように「いってきまっ」と言って玄関を出た。
おれと大介は犬係になっていたので、作戦開始までに“臭そうな犬"をつかまえて、箱に入れておかなければならないのだ。
「あいつどこにおるやろ。」
歩きながら大介が聞いてきたので、
「どうせいつもの場所やろ。」
と答えて、その場所へと向かった。
臭そうな犬のいる場所というのは、十七棟の裏の芝生のことで、あいつは今ぐらいの時間たいていそこでねそべっている。おれと大介は冷蔵庫からとってきたハムを食べながら、ゆっくりと十七棟の方へ歩いていた。
駐車場のわきを通って十七棟の裏へまわると、臭そうな犬はそこで昼寝をしていた。
「おーい、臭そうな犬。」
と呼ぶと首だけ起こしてこっちを見たけど、またすぐに寝てしまった。
仕方がないのですぐそばまで行って、鼻先にハムを置いてやると、むっくり起き上がって一口で食べた。それで「もっとくれ」って感じでさかんにしっぽをふった。
それを見て、おれ達はニヤリと笑って、今度は直接あげずに、ダンボール箱の中にハムを入れておいた。すると臭そうな犬は自分からのそのそとダンボール箱の中へ入っていった。
「今や、ふたしめろ!」
おれがそう言うと、大介は普段の3倍ぐらいのすばやさでふたをしめると、その上からガムテープでふうをした。
臭そうな犬は短くガウガウガウとほえた後、すっかりおとなしくなった。たぶん眠たかったんだろう。今から少しひどいことをするので、おわびにダンボール箱に十センチぐらいの穴をあけて、そこから残りのハムを入れてやった。
思ったより簡単に犬がつかまったので、少し時間があまってしまった。だけど二人とも何だか落ち着かなかったので、少し早いけど公園へ行くことにした。
おれと大介が公園へ着くと、他のメンバーもすっかり集まっていて、カッちゃんを中心にした最後の確認をしているところだった。
「きのうはあんまりねむれんかった。」
ゴンが赤い目をこすりながら言うと、
「おれもねられんかった。」
正夫もめずらしく神経質なことを言った。
「だからさっきまでねとった。」
いつもだったらここで大笑いになるんだけど、正夫以外はみんな緊張ぎみでヘナヘナとなさけない笑い方をした。人のことを言えないくせに、おれはみんながうまくやれるか心配になってきた。正夫だけがいつも通りフニャフニャしていて、それがかえって頼もしく見えるのが不思議だった。
「予定より早いけど、そろそろやってしまおうや。」
昼過ぎから天気が悪くなるって言ってたし、それに何もしないでじっと待ってるのがつらくておれがこう言うと、
「そうやな。」
とカッちゃんは低い声で言い、ゴン、大介、太一の3人も黙ってうなずいた。やっぱり正夫だけはフニャフニャして笑っていた。
おれはババアに気付かれないように、そっとベランダの柵に登り、カッちゃんと正夫は表側へ向かった。この二人は呼び鈴を押して逃げる役、おれ達がピンポンダッシュと呼んでいるいたずらをして、ババアを引きつける役だった。ゴンと太一は見張り役で少し離れた場所にひかえていた。
そっと首を伸ばして家の中を見ると、ババアはお茶を飲みながらワイドショーを見ている。おれは今から行う作戦のことを考えると何だかゾクゾクしてきて、尻の穴がかゆくなってきた。下にいる大介も真っ赤な顔をして、今にも笑い出してしまいそうなのを必死でこらえているみたいだった。
「ババア、覚悟しとけ。」
おれが心の中で言った時、
「ピンポーン」
呼び鈴が鳴った。ババアは立ち上がりもしないで、
「どなたー?」
ときたない声をだした。もちろん返事はない。ババアがもう一度「どなたー?」と言いながら玄関の方へ歩き出したのを見て、
「大介!」
おれは短く叫び、大介も、
「OK!」
と声は小さいけど力強く返事して、ダンボール箱をおれにわたした。
大介の汗でにちゃにちゃするダンボールを受け取ったおれは、ふうのガムテープをひきはがし、ダンボールごとベランダに投げ込んだ。ダンボールは「ごそっ」とベランダに落ちて、はずみでふたがはずれた。そして中か臭そうな犬がのそのそとはい出てきた。
「よっしゃ逃げよう。」
おれはババアの反応が見たかったけど、大介がせかすので逃げることにした。背中の方で「ぐぎゃー」っていう怪物みたいな声が聞こえた。おれはもどって様子を見に行こうとしたけど、大介がシャツをひっぱってじゃまをするので、仕方ないので二人で逃げた。打ち合せでは裏山でみんなと合流することになっていた。
逃げている間、おれと大介は何も話さずただ一生懸命走った。本当は飛び上がりたい気分だったけど、なぜか二人ともそんなことはしなかった。でも、やっぱり自然と口元がだらしなくなって困った。がまんして目だけつり上げていたから、ずいぶん気持ち悪い顔になってただろう。
でぶの大介に合わせてゆっくり走ったから、おれ達が裏山に着いた時はみんなそろっていた。みんな笑いたいのをがまんして、わざと怒ったようにしているのがおかしかった。
「やったな。」
おれはできるだけ静かに言った。
「うん、やった。」「よくやった。」「うまくやった。」「やったね。」「やった、やった。」
みんなもぼそぼそとつぶやくように言った。
それから少しの間みんな黙っていた。でも正夫ががまんできずに鼻をヒクヒク鳴らしはじめたのを合図に、みんな大笑いになった。あのババアが悲鳴をあげているところを想像すると、うれしくておかしくてたまらなかった。ゴンは笑いすぎて泣いていたし、カッちゃんは笑いながら二発もへをこいた。
太一のやつが調子にのって、服をぬいでまっ裸になっておどりだすと、みんなもおんなじようにしていっしょにインディアンみたいなおどりをした。もちろんおれもやったけど、今考えると何であんなはずかしいことをしたのかよくわからない。とりあえずそれぐらいうれしかったということだ。
しばらくおどった後、裸のまんまがけの所まで行った。そこからみんなで下に向かって立ちションをしてやった。そしたら雨がポツポツ降り出したので、急いで服を着て家へ帰った。雨はどんどん強くなって、家に着いた時はびしょぬれになっていた。
次の日、朝起きたらまだ雨がふってた。覚悟はできていたけど、なんとなく学校へ行きたくない気分だった。いつものようにカッちゃんが迎えに来て二人で登校したんだけど、あんまり話をしなかった。
朝の会の時、やっぱりおれ達は放課後に職員室へ行くように言われた。ビンタの二,三発はもらうんだろうなと思ったら、ほっぺたのあたりがじんじんしてきた。あんなことしなけりゃよかったと少し思ったりした。
昼休みに廊下で正夫に会ったけど、あいつだけはいつものようにフニャフニャしていた。もしかしたら、あいつはすごいやつかもしれない。
その日はなんだかぼーっとしているうちに放課後になってしまった。逃げたら余計怒られると思ったので、おれはカッちゃんとゴンと大介と職員室へ向かった。
職員室へ行くと、教頭に廊下で待っておくように言われた。しばらくすると太一と正夫もやって来て、それを見た教頭はたばこの火をもみ消して、めんどうくさそうに廊下へ出てきた。
それからは予想通り、いつもよりきびし目のおしおきが待っていた。教頭の同じことばかり言う説教を二十分ぐらい聞いた後、ビンタが三発、それから一時間ぐらい廊下で正座させられた。この日は、おれと正夫以外はみんな泣いていた。大介と太一は最初から泣いていたし、普段いばっているカッちゃんは一発目のビンタで泣き出した。それにつられてゴンも涙をこぼしてしまった。おれも二回ぐらい泣きそうになったけど、教頭の口ぐせで、「だいたやなー、おまい達はやなー。」
ていうのがおかしくて泣かずにすんだ。それに泣いたらあのババアに負けたような気がしてがまんしていた。正夫もさすがにフニャフニャしてなかったけど、わりと平気な顔をしていた。
そんなわけで、おれ達が帰るころにはもう日がくれかかっていた。雲の間から少しだけ夕焼けが見えていたけど、あんまりきれいじゃないなと思った。みんなもあんまり元気がなかったので、おれは
「このままやったらくやしいから、もう一回ババアに仕返ししようや。」
てみんなに言った。だけどみんな何も言わないで、情けない顔でヘナヘナ笑っただけだった。いかりや長介みたいに「だめだこりゃ。」って言おうとしたけど、やっぱりやめておいた。
この日、家へ帰ると五時になっていた。遊びに行く気がしなかったので、夕ごはんまでずっとテレビを見ていた。
それから二週間ぐらい、おれ達はあの場所で野球をしなかった。言っておくけど、川端のババアが恐くなったり、教頭に怒られてこりたんじゃない。おれ達はそんなに弱くない。ドッジボール大会の練習で学校に残ったり、裏山の基地づくりがいそがしかっただけで、決してババアにびびってなんかいないのだ。
その日、おれ達は久しぶりに球場へやってきた。ババアの家に洗濯物が干してなかったけど、おれはわざと気づかないふりをした。反省したり、びびったりしたわけじゃないけど、みんなあの家に近付きたくなさそうだった。よく見るとベランダの植木ばちもなくなっていたみたいだったけど、みんなには言わないでさっさと試合を始めた。
この試合で、おれは第一打席でホームランを打った。打球は原選手みたいに高く上がって、201号の東さんのおばあちゃんの家へすいこまれていった。
「よっしゃー、これで一本差や。」
おれはわざとゆっくりベースを一周すると東さんの家へボールを取りに走って行った。 一階と二階の間のおどり場まで行くと、おばあちゃんが玄関を開けて待っていてくれてるのが見えた。ちゃんと手にはボールを持っていた。
「あんたら最近どうしてたんや。来やんかったやないの。」
おばあちゃんは変にニヤニヤしながら言った。あのことは知っているはずなのに。
「すんません、どうもありがとう。」
おれは質問には答えないでお礼だけ言ってボールを受け取った。あんまり無愛想にもできないから、あいまいに笑っておいて球場の方に戻ろうとした。
「ああ、ちょっと待ち。あんな、下の川端さん引越さはったん知っとるか。」
おばあちゃんの言葉を聞いた時、おれはなぜか「やられた」と思った。
「それ、いつやったん。」
「この前の日曜日やから、四日前や。」
「そっか、おおきに。」
もう一回おばあちゃんにお礼を言って、おれは球場にもどった。そして、みんなにそのことを報告した。
みんなもっと喜ぶかと思っていたら、案外あっさりしていた。特に喜びもしないし、かといってさびしそうにもしていなかった。なんとなく複雑な気持ちだったから、あっさりしているように見えたのかもしれない。
それからすぐに試合を再開して、その日も6時近くまで野球をして家に帰った。おれが良かったのは第一打席だけで、後は言いたくないぐらいさんざんな結果だった。
その夜、ババアのことをいろいろと考えた。もしかして、おれ達のせいで引越したのだったらひどいことをしてしまった。でも帰りにもう一回おばあちゃんの所へよった時に、川端のババアがおれ達を嫌っていなかったと聞いた。それどころか、けっこう気に入っていたようだった。なんでもババアは十二年前に息子さんを交通事故で亡くしたそうだ。十歳といえばおれ達と同じ年だ。そう考えるとやっぱりおれ達は悪いことをしてきたと思う。でもあのことを学校へ言いつけたし、ババアは最後までババアだった。後のおしおきを考えると、あの勝負はおれ達の負けだった。引越してしまえば仕返しはできないから、ババアの勝ち逃げみたいなもんだ。やっぱり悔しいもんは悔しい。
いろいろ考えているうちに何がなんだかわからなくなってきた。おれはバカだから考えてもどうせわかりっこない。だから、とっとと寝ることにした。いつものように寝つくのははやかった。
次の日は朝からばかにいい天気だった。カッちゃんがいつもと同じ時間に迎えに来て、いつものように二人で学校へ向かった。歩きながら、おれはきのうの夜に考えたことをしゃべった。
カッちゃんは何も言わないで黙って聞いていた。おれといっしょでたぶんよくわからなくなっていたんだと思う。
「まあ、これからボールが減らんですむやろう。」
しばらくして、カッちゃんが変に明るい声で言った。
「それもそうやな。」
おれもそう答えたけど、話がそれ以上続かなかった。遅刻するわけではなかったけど、学校まで走って行った。
柳浩太郎
「いやっ、マンジきよったでぇ〜!」
「みんなー、元気だしていこう!」
「うぉーーい。さぁーこーーい!」
こんな風にして、緑が丘中の練習は、本当の開始となる。マンジというのは野球部の顧問のニックネームで、本当の名前は分からない。マンジが職員室から出てくるまで部員たちは、すごくリラックスして、キャッチボールをしているのである。しかし、出てくるやいなや、にわかに、練習は活気づく。マンジが部員に恐れられているのは、間違いのない事実である。
また、隣の南中には、フジタという顧問がいた。フジタは、バリバリの精神主義者であるマンジとは違い、理論的な野球を目指す人だった。職員室の彼の机の上には『BaseBall Magagine』が積み上げられてあり、英語教諭であるとは、到底、察しがつかない。そんなフジタの机の乱雑さは、南中では有名であった。
このマンジとフジタは、隣の中学校同士であるにもかかわらず、非常に仲がよろしくなかった。二人の野球に対する情熱は大したものであり、それ故、正反対の野球理論をもつ二人の衝突はやむを得ない、と言えばやむを得なかった。大会なんかになると、それは顕著にあらわれた。選手も一生懸命であるが、それ以上に監督同士が火花を散らしているので、普段はそれほど怒ることのないフジタも緑が丘中戦になると、選手のミスに対して、
「それぐらい練習でやってるやろー!」
「もっと、よー見て打てんのか!」
と、罵声を浴びせる。監督のそんな大人げない姿を見せられる選手は、たまったもんではないだろう。
いろいろあるが、この辺で話を緑が丘中に戻そう。マンジが恐れられていた理由はこんな感じである。まず、ノックのときの彼は、
「ショート! ボール見てんのかぁー!!」
どかっ、ぼこっ。
「そんな送球では、アウトにならんぞ!」
ばちっ。
「このぐらいの打球、止めろや〜!」
がこっ、べしっ。
と、こんな具合に、とにかく、よく手を出すのである。バッティング練習でも、
「自分の打てるタマに手ぇ出さんでどない すんねん!!」
ばこっ。
「今のボールとちゃうんか? よー見んかい!!」
バッシーン。
部員たちが可哀相になるぐらいの風景であった。とくに、ノックを打つマンジの横にいるキャッチャーの子は、キャプテンであるらしく、ことあるごとにキックやパンチを浴びせられ、ときにはバットでおしりを打たれたりもした。これでは恐がられて当たり前であるが、その練習風景のなかには、それとは別の雰囲気もあった。
またマンジは、体育教師という肩書きも持ち合わせていた。その授業の様子は、部活の時のマンジとは程遠く、感じのいい、オモロイおっちゃんだった。でも、おもしろがられているのはカワイイ部員たちのおかげであると言っても過言ではない。というのは、マンジのギャグはたいてい部員をネタに使ったものであったし、しょうもないことを言ってみんなをひかせてしまった時は、部員のほうを見て、`笑え'とばかりに視線を投げ付け、あたかも自分はおもしろいことを言っているという態度を見せるのである。だから、マンジは、一般生徒(緑が丘中では、野球部員以外の生徒はこう呼ばれていた。)には、大変好かれていたのである。一方、そんな体育の授業中も野球部員たちはというと、雑用をやらされたり、怒られたり、笑いのネタにされたりしていた。
しかし、部員たちもただ怒られたり、人気者マンジをつくりあげる道具として使われたりしているだけではなかった。
マンジには、ひとつ、目に見える弱点があった。それは、すこ〜しだけ、頭がウスいことである。つまり、“ハゲ"なのである。練習の時には、必ずキャップをかぶっているので、あまり気にならないが、“帽子をかぶると、ハゲる。"という妙なうわさも流れたりした。が、ある雨の日、室内練習の時、それは起こった。ストレッチについてマンジが熱弁している時、真横に体を倒し、そしてまた起こすという動き。ラジオ体操にもあるやつだ。横にいった時キャップがとれ、同時に、頭の横から上へもっていっていた髪の毛も下へ垂れ、起きた時には、マンジの頭は落ち武者のごとく乱れていた。その時のマンジの焦りようといったら、ひどいものであった。みんな、ここぞとばかりに、大笑いしたり、
「監督、今の動きよく分からなかったんで もう一回お願いしま〜す(笑)。」
なんて、イジワルく、アンコールしてみたりしてた。さすがのマンジもその日は何も言わなかった。が、もちろん次の日は、ノック、そして怒鳴り声の嵐であった。こんな風にして、緑が丘中野球部は、厳しく、楽しく、毎日の練習を続けていった。
そうして、その年の三年生の最後の試合が近づいてきた。この学年は今までで一番といってもいいぐらい、マンジによく怒られた学年であった。同時に、それは、マンジの期待のあらわれであり、そしてこの学年は、それに応えることのできる学年であった。新チーム結成以来の緑が丘中の成績は、新人戦・県三位、春季大会・県準優勝と、素晴らしいものであった。この最後の夏季大会も当然、県大会にコマをすすめるものと、周囲の中学までが信じて疑わなかった。
しかし、地区大会の二週間前、練習中のことだった。試合が近づいているので、練習もより実戦的なものになっていた。ランナーを置いてのノック中に、ファーストの選手がランナーと交錯し、アキレス腱を痛めるという大怪我を負った。彼は俊足巧打のチームの不動のトップバッターであった。これだけでもチームにとって、かなりの痛手であるのに、こういう時に限って、悪いことは続くものである。翌日には、内野フライの処理の際に、セカンドの選手とショートの選手が衝突し、セカンドの選手の肋骨に亀裂が入った。この選手のプレーは“派手さはないが堅実"というやつで、しばしば、チームを救ってきた。チームの要であるこの二人を大切な試合の前に失うことは、他の部員に大きなショックを与えるのに十分な、十分すぎる事件であり、ともすれば、部員たちのやる気までも奪いかねないものであった。また、ショックを受けていたのは、マンジも同様であった。口にこそ出さないが、あきらかに元気をなくしていた。
そんな時、チームを引っ張っていったのはマンジに一番ドツかれていた、あのキャッチャーのキャプテンだった。彼は、新チーム結成当初から、キャプテンを任されていた。人望は厚く、信頼されてはいたが、守備面に不安があり、よくみんなの足を引っ張ってもいた。そんな彼は、必然的に、マンジの標的とされ、よく怒られ、そしてドツかれた。マンジのアツい指導のおかげで彼は、大変強くなり、四番に座るまでに成長し、まさにチームの大黒柱となっていた。彼は、
「F井も、S口も、県大会までいけば、なんとか試合できる言うとったで! みんな、あいつらとまた野球したいやろ?」
「よーーしゃっ! 練習しようぜ。」
と、呼び掛けた。そのコトバにみんなも、
「また、みんなで野球しようやないか。」
「ヨーシャ、頑張ろうぜ!」
と、(ちょっとくさいが……)同調し、チームはひとつになった。そんな部員たちを見て、マンジは、たくましさを感じ、また部員たちのことが好きになっていくのであった。ココロというものを重んじる彼は、
「よ〜し、よう言うたぞ! それでこそオレの教え子や!」
と言って、とっても喜んでいた。
こんなこともあり、大会直前まで、今まで以上に厳しい練習が続けられた。
二週間は、あっという間に過ぎてしまい、最後の大会が幕を開けた。
「もうここまで来たら、オレがどんだけ口で言うてもしゃーない。あと仕上げするのは、おまえらや! 悔いの残らんようにやれよ。今まで自分のやってきたことに自信を持ってやるんや! 今日は勝つぞぉー!」
「おぅーーーー!!」
ついに試合は始まった。
初戦の相手は、北中だった。北中には新チームになってから一度も負けていなかったので、不安を抱えるチームであったが、選手の中には、
「一回戦は楽勝やな。ラッキー、ラッキー!」
なんて言ってる子もいた。マンジはそれについて、なにも怒ったりはしなかった。いつもなら、大きな声で、
「アホかーっ! どんなときでも油断すんなっていってるやろ。」
と、選手をビッとさせるのに、今日は黙ったままだった。その時、
「油断しとったら、やられるで。しっかりヤろうや。」
キャプテンが落ち着いた口調で、言った。マンジは、今日の勝利をその時確信した。キャプテンが静かにそう言った時、マンジは人知れず微笑みを浮かべていたのだ。
その微笑みのとおり、一回戦は、エースがきっちり抑え、打線もつながり、完璧ともいえるゲーム運びで勝利をおさめた。チームは勢いづいた。
しかし、戦力の揃わない緑が丘中は、二・三回戦と、苦戦を強いられたが、なんとか勝ち上がることができ、いよいよ準決勝、南中戦を迎えた。
南中は、ベストメンバーでこの大会にのぞんでおり、ここまでも二試合をコールド勝ちしてチームの勢いは、まさに絶頂だった。試合前の両監督の会話はこんな感じだった。
「先生、どうですか、調子は? レギュラー二人の故障は残念でしたね。でも、さすがですよね。ここまで勝ち上がって来られたんですから…」
「いや〜、フジタくんとこは、調子がいいね〜。ウチも頑張らんと、今度は本当に足をすくわれてしまうよ。」
「いえいえ、お互いベストを尽くしましょうね。」
フジタは、しゃべっている間、ず〜っと、苦戦を強いられているマンジが可哀相でたまらない、といった表情で、ニヤニヤしながらマンジの顔を見、いつの間に伸ばしたのか分からないヒゲをなでていた。今度勝つのはウチですよとでも言いたげだった。
試合は緑が丘中の先攻で始まった。早くも一回の表裏の攻撃に勢いの差がでた。
緑が丘中、先頭はS口。いつもならここから、先制パンチを浴びせ、自分たちのペースにもちこむというのが、緑が丘中のリズムであった。しかし、今日の先頭は彼ではなかった。そして、代わりの先頭バッターは、あっさりセカンドゴロを打ってベンチに返ってきた。続く二番も初球を引っ掛けて、サードゴロ。チームの打点王である三番バッターもライトへフライを打ち上げて、チェンジとなった。
一方、南中は、先頭バッターこそ倒れたものの、二番,三番の連打で、1アウト2・3塁のチャンスを迎えた。
「ええぞ〜。二人ともかえしたれー!!」
フジタの大きな声が、バッターボックスの四番バッターにむけられた。それに応え四番は見事にボールを左中間へと運び、二人のランナーを迎え入れた。続く五番もセンター前に弾き返し、チャンスを広げると、六番にもタイムリーが飛び出し、結局、南中は一回裏に四点を先制した。
一回裏の守りから返ってきた選手たちにマンジカら、いつものように大きな怒鳴り声が飛んだ。
「コラーッ! ダラダラ戻ってくんなー。」
しかし、それ以上叱ることはしなかった。マンジは、あることを期待していた。が、なにも起こらず、二回表の攻撃が始まった。
この回の先頭は、そう、四番キャプテンからであった。マンジは彼から、意気消沈している選手たちに、一回戦のように檄が飛ぶことを期待したのである。自分が言うのは簡単であるが、キャプテンからのほうが、選手たちも元気がでるのではと思ったから…しかし、彼の口から、そんなコトバはきかれなかった。
「今日で負けてしまうのか…」
と、ガッカリしているマンジの耳に快音が聞こえた。
カキィーーン!
キャプテンの打球はグングンのび、レフトスタンドに入った。ファーストベースを回ったところで彼は、大きく飛び上がり。ベンチにむかってガッツポーズをして見せた。すると、沈んでいた他の選手たちも、飛び上がり勝ったかのように喜んだ。緑が丘中の選手はすっかり元気を取り戻した。彼はコトバではなく、バットで、マンジの見事に応えてみせたのである。マンジは、この頼れるキャプテンにココロの中で精一杯感謝した。このホームランを足掛かりに、五・六番にも鋭いアタリが飛び出した。チャンスを迎えたが、次のバッターは、あえなく三振した。続くバッターもいいアタリではあったが、野手の正面をつき、得点を挙げることはできなかった。流れというものは、簡単に変わる時もあるが、勢いの差があるだけに、緑が丘中に一気に傾くことはなかったようである。
しかし、南中のおせおせムードは取り払われた。二回以降、南中の追加点は三回の一点だけであった。緑が丘中は、ジワジワとペースをつかみ、確実に点差を詰めた。そして、ついに六回表を終えたところで、五対五の同点とし、試合を振り出しに戻したのである。
「ヨッシャーーッ!!追いついたでぇ。みんなぁー、勝つぞぉー!」
「あったりまえやーー!」
マンジもこの時ばかりは、「イケる。」と思った。いや、チームの勝利を確信した。そして、このチームの監督をしている自分を、世界一の幸せ者だとも思った。
六回裏を三者凡退できってとり、選手たちは、意気揚々とベンチに引き上げてきた。もうまるで、自分たちが勝ったかのように。当然、マンジも、そして、キャプテンも…
七回表、この攻撃できっちり勝ち越して、裏の南中の攻撃を抑えて勝つ、緑が丘中全員が思い描いたシナリオであった。決して、気がゆるんだり、油断したりしたわけではないのであろうが、こういうときに限って、神様はイジワルなものである。
最終回(中学野球は七回までしかない)、緑が丘中は前の回のいいムードのまま、攻撃を開始した。この回は、八番からだった。彼はチームで一番小柄な選手であったが、ここぞという時に、ラッキーボーイ的存在になることが多かった。そんな彼から攻撃が始まるというのも流れが確かに緑が丘中に傾いていたからだ。彼は初球を思い切りよくたたき、ライト前へと運んだ。これでチームは、ますます勢いづき、全員が自分たちの勝利を信じて疑わなかった。
セオリーどおりいけば、ここは`送りバント'のサインが、マンジカら出されるはずである。しかし、マンジはセオリーよりもチームの勢いを信じて、`打て'のサインを送った。
きぃぃーーん!!
気持ちの良い金属音がグランドに響いた。九番バッターの打球は三遊間を襲った。鋭いアタリだったので、「ぬけた! !」という声も聞こえた。しかし、南中のショートは、その打球にとびついて、見事にキャッチし、セカンドに送り、セカンドはファーストへと転送。ダブルプレイとなってしまった。このプレイで、緑が丘中の勢いは根こそぎ、もぎとられた。一塁側のフジタも、少しヒヤッとしたようだったが、
「ナイス ショート!! よーとったぁ。」と大きな声で褒めた後、ヒゲをさすった。
そして、その裏の南中の攻撃。守備で流れを自分たちに引き寄せた彼らは、前の回の緑が丘中のような雰囲気で、勝利にむかって、まさにチーム一丸となっていた。先頭バッターのアタリはサード正面。しかし、勢いというのは恐ろしいもので、なんでもないアタリであったのに、サードがファンブルしてしまい内野安打となる。この時、マンジには、サードのグラブからこぼれたボールが、自分たちがつかみそこねた“勝利"の二文字のように思えた。
そして、続くバッターのアタリは、緑が丘中ナインを嘲笑うかのように、ライト線をてんてんと転がっていった。
試合後、レフトスタンドの向こうの芝生の上では、円陣を組んで座っている緑が丘中野球部がいた。試合に負けた悔しさから肩を震わせている部員もいた。でも、それだけではなかった。部員たちの流している涙には、寂しさが感じられた。中学校での野球生活が終わったという寂しさ、それにもまして、マンジと一緒に野球をすることができないという寂しさ、これが大きかった。マンジは、その指導法を`古くさい'とか言われても変えることなく、貫き、部員とひとつになることができたのだ。
部員たちは、長い時間、その場を離れようとはしなかった。
吉田恵子
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深い眠りと浅い眠りは1時間半の周期ごとに、交互にやってくるらしい。その眠りが切り替わる瞬間を本人は意識できないが、浅い眠りの間は夢をみる。それを学術的に「レム睡眠」というのだそうだ。レム睡眠に陥ると脳は目覚めているのに体は眠っているので、眼球が動いたり、時には金縛りになっていると錯覚してしまう。夢は一度経験したこと、自分が気にしていることが出てくるのだとフロイトもいっていた。私はあの忘れられない時間ずっとたった一つの夢しかみなかった、そして周期など関係なく絶え間なく、夢を見続けた。本当にたわいのない夢だった。だけどその夢は二度とは戻ってこない、いとおしい夢だった。
目が覚めると六畳の一間の自分の部屋にいた。六畳と言っても本棚、テーブル、机、クローゼット、敷きっぱなしのお布団でもう通り道さえ確保しにくい。テーブルには雑誌が数冊のっている。綾子がテレビの前にいた。
「また綾子の夢だった…」
私は起き上がるといつもするように、寝ている間に見た夢を思い出した。私は眠っている間夢を見続ける。全部綾子の夢だ。それは、綾子とテレビを一緒に見たり、トランプをしたりと、今までしてきたこととほとんど変わらないし、いつでもできることだった。それを綾子に伝えると、綾子は微笑して私に惚れてるなと冗談を言う。私は馬鹿らしくなって枕を投げた。
綾子は一つ年上の従姉だ。家が近く、性格が正反対だったからか気が合い、小さい頃から姉妹のようにいつも一緒にいた。「女の子らしい」「かわいい」という言葉は綾子のために作られた言葉かと思う。彼女は不思議な魅力を持っていて、男も女も犬も猫も、生きものすべてが彼女に魅了された。誰もやってこない私の部屋に自然に溶け込み、気を許せる唯一無二の人間だった。そして、何をするでもなくしゃべりたくなればしゃべり、遊びたくなったら遊ぶ。眠くなったら眠る。私の部屋はそういったことに関して不自由は全くない。ほとんどの物が揃っていたし、戸棚を開ければなんでもあった。綾子も自分の家より私の部屋にいることの方が多かった。前は彼女が短大を卒業して薬局に勤めていたので、綾子が仕事から帰ってき、私は大学から帰ってきて夕方になると私の部屋でふたりで過ごしていたが、今は私と綾子は部屋からでなくなったのでずっと一緒にいた。
「また寝てたの? 美奈ちゃんの好きなお菓子あるから食べよう」
とスナック菓子を差し出した。私はうなずく代わりに毛布を足で蹴ってごろんと綾子の方に向いた。いつのまにかテレビは昔再放送をしていた「グローイング・ペインズ」というアメリカのTVシリーズ番組をやっていた。綾子はテレビを見ながら濡れた髪を無造作に一つにまとめていた。
「このテレビの人、この前『ロミオ&ジュリエット』に出てた人だよ。結構格好良かったな。」
「ああ、その前にホモの役してた人? あれはなかなか体格が良かったね。」
「それはその前の前。前回は『マイ・ルーム』にでてた。私はこっちの方がおもしろかったな。お母さんのお姉さんがね、かわいそうなの。恋人が溺れていることに誰も気が付かないのよ。」
「話がわからないよ。」
綾子は開けたお菓子を食べながら映画の話を始めた。彼女は映画の話が始まると止まらない。それが何度聞いた話だろうと繰り返す。拷問にあっているようなものだ。が、その日は珍しく映画の話がすぐに途切れた。テレビの方をむいて、お菓子を食べ始めた。私は毛布を持ってきて同じようにテレビを見た。テレビと言うより、テレビの光が反射する綾子の顔を下から見ていた。人よりふっくらした頬がもっとふっくらして左右にゆっくり動いていた。くちびるは機械的に上下に運動していた。ひとみはテレビを反射して青くひかり、青白い顔はろう人形のようだった。
「来月に高校の友達が結婚するの。」
全くリズムを崩さずに機械的な唇が動いた。二十歳過ぎてそれは珍しいことではない。子どもできたの、と至極当たり前に聞くとそうらしい、と予想どおりの返事が返ってきた。これは綾子の友達に限ったことではない。
「それで良かったのかな。二十二歳で人生決めるなんて私はつまんないけどな。今は結婚なんか考えたくない。何もしたくない。」
「何もしたくないのは美奈ちゃんだけよ。私はしたかったな、結婚。」
「すればいいでしょ、結婚。」
「ふふ、そうね。…相手がいないね。『卒業』のホフマンみたいのが来たらね。」
「『エレーーーン』って? あんな人がいたら私は逃げるよ。」
「そうかなぁ…」
「そうよ。」
いつのまにかテレビのドラマは終わって明るくなっていた。綾子は濡れた髪をバスタオルで拭き始めた。丁寧に手を上下に動かす。がなかなか髪は乾かなかった。今の会話を一度どこかで聞いたことがあるような気がした。その動作をみてるうちに、私は知らず知らず眠り込んでいた。ぼんやりした意識のなかに高校生の綾子が立っていた。私はまた夢を見ているらしい。綾子は長いさらさらした髪をなびかせ、待ち合わせ場所の校門の前で立っている。私が下校中によく見た光景だ。綾子は一つ年上の先輩と付き合っていた。毎日校門の前で待ち合わせをしていたのか、放課後はいつも綾子はそこにいた。だが、私は教室や下駄箱で友達と話をしていると、先輩が友達と遊んでいたり、女の子と話し込んでいるのを何度となく見かけた。それを綾子に伝え、あんな待たせる奴と付き合う必要はない、と別れることをすすめたこともあるが、綾子はいつも困ったように微笑んで取り合わなかった。今日も綾子は校門の前で一人立っている。来るか来ないか分からない人を待ち続けている。
夢から醒めると綾子は珍しく隣で静かに寝息をたてていた。髪はまだ濡れていた。時間はそんなに経っていないのだろうか。私は綾子をゆっくり揺すった。そして私ははっきりしないまま頭をまた枕に置いた。ひととおり部屋を見回す。本棚、机、机の上のぬいぐるみクローゼットを見渡し、最後に時計を見た。時計は11時35分で止まっていた。故障したのかな、電池がなくなったのかな、まぁ時計はあってもなくても、たいして意味はないのだけど、なければないで気になるものだと考えながら、正面に顔をもどした。一点のしみもないきれいな木目調に5本の線がすべて平行に並んでいた。築20年程のはずなのにこんなにきれいだったのか、と妙に感心してしまった。
「…ん、」
もそっと綾子が起き上がった。
「いつのまに私寝ちゃったんだろう。美奈ちゃん見てると本当に気持ち良さそうでついうとうとしてしまった。」
と毛布をたたみながら言った。私は
「やっぱり綾子の夢だった。」
と今見た夢の話をした。
「不思議だね。私は夢を見ないのに、美奈ちゃんは夢を見続けるなんて。」
綾子は汗を拭いながらそういった。その通りだった。このところ私は夢ばかりみるのに綾子は夢をみない。といっても、人が動いたり、何かしている映像を夢と定義した場合であって、正確には彼女は夢をみている。ただその夢が全面一色になっているからみていないような気がするのだ。彼女は深い緑、限りなく黒に近い深緑が一面に広がっている夢をみる。時々小さな泡が1つ2つ出てきては消えていくだけで、どこを見渡しても深緑なのだそうだ。人を呼んでも誰も来ない。その圧迫感に耐えれずだす声が本当に苦しそうで私は恐くなって、夢中で彼女を揺すり起こす、気が狂っているのかと自分で思うほど綾子の腕をつかんで力いっぱい揺する。起きろ、帰ってこいそう念じながら揺すり続ける。そして綾子が目を開くとやっと安心するのだ。そんなことが何度となく繰り返された。そのたびに私は胸を突かれる思いをし、泣きたくなる。綾子がこのまま戻らなかったらどうしよう。私はたった一人になってしまう。この部屋に一人残されて、綾子の苦しんでる声だけが聞こえてくる…この不安を一度綾子に伝えたことがある。綾子は「私はいつも美奈ちゃんの近くにいるのに」といつもどおりの優しい微笑みを私に向けた。それから、綾子は私のためにその夢をみたくなくて眠ろうとしない。
2
空間に名前をつけるとしたら、私はあの部屋に「世界」と付けるだろう。大切な部屋、大切な人、そして私がいる。それだけのことなのに、そのことが本当に難しいことを頭の隅で感じ取っていた。今動いている歯車が一つでも狂ってしまえば何もかも崩れていく。自分の居場所は本当にここなのか、いつまでここにいていいのか、そんなことばかりが気になってしまった。どれぐらい時間たったのだろう。と『時間』を考えていた。今までは何か口に出してはいけないような気がして言わないようにしていた。だけどその日は何故か気になってしまってしまい、思わず「時間が進まない。時計が壊れてる。」と口に出して聞いてしまった。綾子も時計を見上げた。針はやっぱり11時35分を指していた。
「美奈ちゃん急にどうしたの。」
今頃何を言ってるのという顔で綾子が聞いた。
「時計直さないと時間が分からないよ。」
「時間って、決めるもんじゃないと思うわ。感じるの。だって一日や二日のことが本当に長く思えることだってあるし、逆に長い年月がまるで昨日のことのように思えることだってあるわ。本当に大切なことはその人にとって必要な『時』であって、区切ることではないの。」
「いつの時代よ。今は情報社会だよ。」
「いつの時代もそれは変わらないわよ…今になってやっとそう思うわ。私も『時』を待てばよかったのに…もう待つことができなかった。」
綾子はいつになく饒舌だった。彼女の言いたいことは半分以上分からなかったが、綾子の話は続いた。
「美奈ちゃんもそれは分かっているはず…もう気付きはじめたんじゃないの? ここにいたらいけないって。」
―何を言ってるんだろう、ここは私の部屋なのに―
「ここにいても時計は動かないのよ…美奈ちゃんが電池を抜いてしまったんだから…」
私には綾子の言葉は分からなかった。だが何かを予感していたのだろう。それとももとから知っていたのかもしれない。ただ綾子から目を離せなかった。綾子はいつもと変わらない微笑みを私に向けて、そしてドアから私の部屋を出ていった。追わなければと頭では思いながら体は全く動かなかった。ただ綾子の髪から落ちたしずくが絨毯にしみ込む様子をじっと見ていた。
どの位たって自分が正気に戻ったのか分からない。綾子を追いかけなければ…そのことが頭に浮かんだ。まず着替えよう。今まで全くといっていいほど衣服を気にしなかった私は自分が白いパジャマのような室内着を着ていることに初めて気付いた。私はクローゼットへ歩いていった。そして開けた。
ぼんやりとした意識のなかで綾子の声が聞こえたような気がした。戻ってきてくれたんだと思って起き上がろうとしたら、全身が痛くて動かなかった。頭ががんがんする。少しずつ瞼を開こうとしたら大量の光が入ってきた。
「美奈が…美奈が目を…」それから後は耳に入ってこず、嗚咽が繰り返された。目の前にはおぼろげながら少しやつれた父と泣きじゃくる母の姿があった。私は「綾子は」と聞きたくて口を開こうとしたが唇も口の中も乾ききっていて、声という声にならなかった。母はその声を聞いて「良かったね、苦しかったろう」と私の頭を何度も撫でてくれた。母の手は皺が堅くて少し痛かったが、温かかった。私は独りじゃない、そう思った。また夢でもみてるのだろうか。綾子は何処にいってしまったのだろう。いつも一緒にいたのに…母はそのことに気付いたのか気付いていないのか、
「三日の間にいろいろなことがあったもんね。」
と私に言った。三日? いろいろなこと? 全く意味が分からない。ただはっきりしていることは、どうもこれが現実だということ、もう2度とあの部屋には戻れないということだった。
記憶がはっきりしてきたのはそれから二日ほどたってからのことだった。私は病室にいた、どうやら交通事故で怪我をしたらしいことは母の様子や全身からくる鈍い痛みで分かった。その間中学や高校の友達が何人か見舞いにきてくれた。頭をつよく打ったので記憶障害が起こり顔を見てもすぐに名前がでてこなかったり、友達の話す昔の話が分からないこともあったが、徐々に戻っていった。それは突然でてきた大量の写真を順番に並べる作業に似ていた。その作業が終わったのは三日後の退院の日だった。
3
意識が戻ってからは忙しかった。本来体にはそれほどひどい怪我をしていないので二日間の精密検査を終えるとすぐに退院が決まった。母はそれを聞くと急に張り切りだし、私の身の回りの世話をしてくれた。その間私は何もせず、あの部屋のことばかり考えていた。綾子はあの部屋から出ていって何処へ行ってしまったのだろう。時間がたつにつれてあの部屋の記憶は薄れてあやふやになっていくし、綾子も綾子の家族も病院には来なかった。あの部屋ではずっと一緒だったのに…と一人でぶつぶつ言っていると、母が鞄に私の衣服を入れる手を休めて言った。
「綾ちゃんね、助からなかったの」
「何が?」
「心配かけたら駄目だって、お医者さまに止められてたんだけどね、海に車ごと落ちてね、遺書は見つからないんだけど、どうも自殺じゃないかって警察の人が言ってたよ。あんなにいい子だったのにね。それに綾ちゃんが海に落ちたって聞いて、美奈が真夜中に外に飛びだして交通事故が起きたでしょ。綾ちゃんのお母さん、そりゃ、責任感じてね。」「そう…」
私は11時35分を指す動かない時計を思い出した。綾子の話を聞いて家を飛び出す時にみた時間だった。綾子は全部知っていたに違いない。あの時結婚する友達とは先輩のことだろう。綾子と先輩はまだ続いていたのだ。そして高校の頃と変わらず先輩を待ち続けいたのだ。なのに綾子は全てを知った上で私のそばにいてくれたのだ。深緑の夢を見ながら…
「あんたが生きてただけでも綾ちゃんのお母さん喜んでくれるよ。」
母はそう言うと鞄を持って世話になった医師や看護婦にお礼を言いにいった。私は先に父の車がある駐車場へ行った。悲しいと思うよりも気が抜けたようになって歩くのも面倒で、車に乗り込むと座席に深く腰掛けた。父は運転席から振り返って
「今日はお前の好きな水炊きにしょうな。」
といった。母はなかなか帰ってこなかった。私は車の窓から外を見ていた。通りには車がせわしく往来していたが、ロータリーの横には木々や芝生が広がり、病院の患者がパジャマ姿で散歩やひなたごっこを楽しんでいた。松葉杖で歩く人、車椅子の人、久しぶりにたくさんの人にあった気がした。
病院から家までは車で20分程なのに助手席で母はその間ずっとしゃべり続けた。近所の誰々さんは優しかったやら、あなたのいない間にこんなことが起こったなど、取るに足らない話ばかりだった。運転席では父が相づちをうちながら、いつもよりゆっくりとしたスピードで運転してくれた。私はそんな二人の話を聞いているとどこかくすぐったいような不思議な笑いが次から次へと湧いてきた。どうして綾子は気付かなかったのだろう。私と同じようにたくさんの人が綾子を囲んでいたのに。綾子の言葉が思い出された。今なら分かるような気がした。
――時間って、決めるもんじゃないと思うわ。感じるの。本当に大切なことはその人にとって必要な『時』であって、区切ることではないの。――
私には、綾子の死を受けとめるための時間が必要だった。あの空間はそのためだけにあったのだ。
――私も『時』を待てばよかったのに…もう待つことができなかった。――
綾子は先輩を待って待って待ち疲れたのだろう。心が立直る『時』さえもう待つことができなかった。それなのに私が立直るときを一緒に過ごしてくれた。あの部屋に居てくれた。
私は車が家の前に止まるとまず玄関から自分の部屋へと急いで上がった。あれは睡眠中にみた夢と片付けることができないほど生々しくそして現実的だったからだ。綾子はあの時のまま私の部屋にいるのかもしれない。そっとドアを開けてみる。そこには誰もいなかった。時計の音だけが小刻みに聞こえてくる。私の部屋だった。一週間前と何も変わらない。母が慌てたのだろう、ただクローゼットのドアが少し開いていた。私は、クローゼットの前に立ち扉をゆっくり開けた。正しく衣服が掛けられていた。その内の一着の内ポケットに紙のようなものが少しでているのが見えた。私はそれを取り出してみると、写真が一枚入っていた。去年の冬に余ったフィルムでふざけて撮ったドアップ写真だった。綾子と二人並んでいる手前に大きな私の腕がぼやけて写っていた。私の手でシャターをきったのだ。二人とも変な顔をしていた。裏返すと油性マジックでかかれた「ごめんね」という綾子の字があった。
「ごめんじゃないよ」
私は独り言を言いながら大の字に寝転がった。いつかあの部屋でしたように一通り部屋を見回した。本棚、机、机の上のぬいぐるみクローゼットを見渡し、最後に時計を見た。
「ごめんじゃないよ」
もう一度そういって私は正面に顔を戻した。自然に天井が目に入る。すぐ目の前にある灰色のしみで視線は止まる。
私はそれ以上何も言えず、あふれる涙が左右にこぼれ落ちていった。
河野ちなつ
めったに郵便物の届かないわが家のポストに真っ青な一枚のはがきが届いた。
『第3回個展 あおぞら
皆様お誘いあわせのうえ
いらしてください』
…… お元気でいらっしゃいますか
わたしはつまらない人間だ。改めて言わなくてもそんなことはわかっている。電車の中でこんなことを考えていること自体わたしがいかに白けた人間かわかるだろう。わたしはまたあの陸橋に向かっている。そこに行けばさらに自分がつまらない人間かを思い知ることになるだろう。そのときすでにわたしは8年前のことを思い出していた ……
わたしは大学2回生だった。『一流大学』と俗に呼ばれる学校の経済学部に在籍のわたしにとって“就職難"という言葉はあまり縁のないように思われたし、大学の雰囲気自体それを感じさせなかったためか、つきたい職もはっきりしないままなんとなく自分の研究だけが続いている。大学では週1回の自主ゼミのほかにはサークルにも入らず、時給2500円の塾講師のバイトに明け暮れる毎日だった。
自宅から2時間かかる大学へ行くため、わたしの朝は6時に始まる。ローカル線を乗り継いで本線に乗るころにはラッシュのまっただなかだ。文庫本を開く隙間もない電車で停車駅が近づくたびに空くはずのない座席をうらめしそうににらみ、今日もまた棒になった足を引きずって電車を降りる。
大学はここからバスに乗り換えて30分走ったところにある。駅からは少し小高い丘になっていてバス通学はほとんど必要条件だ。
講義は9時に始まって夕方4時30分に終わる。『一流大学』といっても聞く価値のある授業などほんの一握りで、聞いても聞かなくても変わらないつまらない授業ばかりのためか、およそ200人の受講生があっても特別レポートやテストがない限り8割は学食で友達としゃべっているか、サークルに行ってしまうか、もしくは大学のそばにあるゲーセンで遊んでいる。
なるべく残りの2割に残ろうとしているわたしだがいつも乗る8時23分のバスに乗り遅れると、とたんに授業に出る気を失ってしまう。というのも、あまりにも出席者が少なくて遅刻すると目立ち過ぎるからだ。わたしはそんなときはバスに乗らず駅前のコーヒーショップでモーニングを頼み、次の時間に間に合うバスがくるまでぼんやりしている。この店は全面ガラス張りでカウンター席が外に向いていて、大学方面に向かうバス停がみえるので自分の連れが通ったりするとすぐ分かる。だからここを待ち合わせに使っている人は少なくない。わたしもそのひとりだった。
すべての授業が終わるとバスで駅まで戻って駅のコンコースをくぐり大きな陸橋を渡って駅と反対側にある学習塾に向かう。
陸橋の上はここが陸橋であることを忘れさせるくらい大勢の人でごった返し、そんな隅でもメッキでできた安っぽいペンダントや指輪といったアクセサリーを売っていて、髪の長い外人が高校生のカップルの名前を刻んでいる。またその横ではみすぼらしい中年の男がパンダのおもちゃを売っている。のそのそと動くそのパンダがよっぽど気に入ったのか3歳くらいの赤いリボンの女の子がしきりに見入っていて母親をてこずらせている。その斜めでは20代ぐらいの若い男と女がスケッチブックに向かいながら何か会話を交わしている。似顔絵かなにか描いているらしい。…… 他の人にとっては目的地に向かうための通り道でしかない陸橋が、この人たちにとってはここが目的地であり、生活空間なのだ。そう意識したとき、同じ空間の中に、そこにいるそれぞれの人に彩られたそれぞれの空間があることを意識した。通り道の一つでしかない人にとってもそこにそれぞれの色をおいている。そんな当たり前のことに改めて気づいて、また自分のことがつまらない人間に思えた。
「ね、先生、わたし絵の展覧会で大賞もらったの! 今度見に来てほしいなー」
顔を赤らめ、照れたようにそう言ったのはいつもおとなしく、しかし勉強熱心な小3の女の子だった。
「へえーそうなんだ、この近くでやってるの?」
「ここにくるのと反対の陸橋を降りたら展示してるとこにいけるよー」
ていねいに案内状までくれたので、行かない訳にはいかなくなってしまった。案内状にあった地図を見ると普段から美術展や写真展によく使われている、福祉会館の中にあるやや広めのホールのことだった。
研究仲間でありバイト仲間であるわたしの連れが、いとこがその展覧会に出品しているらしく一緒に見に行った。日曜日の昼だったこともあってホールは以外なほどの人出であった。『第38回市芸術展』と印刷された目録をもらって中に入った。中は、暗い目の照明に白い壁という展示場独特の雰囲気で、絵画、工芸、書道、写真、などの作品が幼児・小学校・中学校・高校・一般の各部門に分かれて展示されていて部門別に大きなパネルで区切られていた。ちょうど受付が真ん中になっていて、どこの部門にも入りやすいよう工夫されている。一般部の中に、芸術の心得など全くないわたしの目にも気になる絵があったが、一般部門はさすがに立派な作品が多いらしく、見るからに『芸術の先生』のような人が作品を批評しているようで、わたしなどは近寄ってはいけない気がした。しかし連れは一般部門の方へ慣れたように入って行ってしまったので仕方なくわたしはそこから離れ、女の子の作品を探し始めた。小学生部門をのぞくと先日の女の子が母親らしいひとに作品を前に写真を撮っていた。ちら、とこちらをみて
「あ! 先生だ!」
女の子がスキップするような軽い足取りでうれしそうにかけてきてわたしの手を取った。
「見てみてー」
半分引きずられながらその子の作品を見ると、『未来のわたしの町』という小学生が誰しも書くであろうテーマで、無重力の乗り物が飛び回っていたり、高層ビルが林立するなどごく普通の小学生が考える『未来図』だったが、極端とも言える遠近法に陰りのない色彩鮮やかなグラデーションが小学生の作品のわりにはなるほど立派な作品だった。そしてこの子の思い描く未来はこの絵のように明るく開けていて、何の不安も心配事もないのだな、と感じた。
「ふうん、すごいな」
女の子はほめられて少し照れたようだ。その横で母親らしき人は『いつもお世話になっております …… きょうはわざわざ…』などとありきたりのあいさつだったがとてもていねいに接してくれた。そしてこちらもていねいに会釈した。
「どこかで習ってるの?」
とたずねると、
「うん、塾のない水曜日と日曜日に2時間づつ。この子も習ってる子なの」
と、隣の人物画を指さした。
「もっと他にも、大人のほうにもあるよ。見た?」
「ん …… いや、今日は君の作品を見に来たから」
「じゃあ一緒に見に行こうよ!」
女の子はまたわたしの手を取って言った。隣で母親が『すみません』と本当に申し訳なさそうな顔をしたので、あまり気を使わせたらいけないとわたしも思って、
「んじゃ、連れてって」
と、乗り気な顔をして見せた。
わざわざ避けて通った一般部門のパネルのところにはさっきのように『芸術家の先生』らしき人はおらず、わたしの連れとそのいとこと思われる女性が楽しそうに話しているのが見えるだけだった。連れはわたしに気がついたが、『なんかいい雰囲気』のふたりの様子を見て軽く右手だけを挙げて作品を見た。中央の立体は竹でできた骨組みにさまざまな色の和紙をはりあわせてあって、和紙にはなにかしら文字が書かれてあった。工芸と書道を組み合わせたものなのだろうが、意外な組み合わせに感心させられた。書かれている名前を見るとわたしの連れのいとこの作品らしい。
奥のほうにさっき気になった作品があったので近寄ると、
「絵だったらこの人はうちの教室の中では一番うまいんだよ」
そして、「あ、あのひと」と指した先を見ると、コーナーの奥に一人受付に座る女性の姿があった。なんだか受付にしては一人でいる様子が不自然なような、寂しいようにも思えてあまり見ないように視線を変え、作品を見た。
駅のプラットホームの絵だった。見たことがあるなと思ったら、すぐそこの駅だった。全体に暗い絵だった。駅自体の色が暗いのに、空も真っ暗だ。さらに停車している電車があるのに、その中に人の気配はない。プラットホームにも人は描かれていない。隣のホームには別の電車が到着しようとしている。
(始発か、終電か?)
と不思議な顔をしていると女の子が言った。「この絵はね、夕方描いてるんだよ」
意外な言葉に驚いてしまった。黒のグラデーションはまさしく夜のものだったからだ。
「でも人が全然いないでしょ。あたしだったら人を描きたくなるんだけどねー。だからすごいなって思うんだ」
「どうして?」
女の子は説明しにくそうにしていたがこう言った。
「そのままの風景じゃないから、かなあ。動いてる人って描きにくいけど、人がいるのに全然いないように見せるのも案外難しいと思う」
なるほどな、と思った。
次の日からラッシュの駅を見る目が変わった。こんなにたくさんひとが歩いているのに絵を描いていたということもだが、こんなにたくさんひとがいる雰囲気をすっかり別の物に変えて描いていた。
ここを歩いている人はそれぞれに別々の思いをもって歩いていて、それが幾つも重なってこの雰囲気を作っている。お互いすれ違うのは知らないもの同士で、でも知らない人の雰囲気を感じながら歩いているのではないか。どまんなかにつっ立ってるおばさん集団が『じゃまだ』と思ってみたり、携帯電話で大声でしゃべっている人を『うるさい奴』だと思ってみたり、ほかにもウォークマンの音漏れ、新聞をおおっぴろげたじゃまさとか、他にもあるに違いない。こんなことは駅に限ったことじゃない、街中を歩いていてもいくらでも感じられる。どうしたって感じるものをどうしたら消し去れるのか、興味があった。
「今度は何を描いてるんですか?」
そんな出来事も忘れ、今まで通りの生活が戻って来ようとしたころ、わたしは例の彼女に再会した。駅前の陸橋の隅で座ってスケッチをしていたのだ。もっともこちらが一方的に知っているだけで、彼女のほうはわたしのことを知らない。さて、どうしよう、と思った瞬間、もう声を掛けていた。
彼女は自分が声を掛けられたとは思ってもみず、一瞬わたしをみて、反対のほうを振り返った。「あなたですよ、突然ごめんなさい」
あまりの唐突さをわたしは詫びた。それでも彼女は反応が鈍かった。
「このあいだ、市展であなたの作品を見せてもらったんですよ。お話しがしたくなって、そうしたらあなたがここにいたから」
「はあ」
気のない返事がひとつ返ってきた。そしてまたエンピツを持ちなおしてスケッチを続けた。
「あなたは雑踏が気にならないようですね」
今度は反応がなかった。
「わたしの塾の生徒があなたの絵をかなりほめてましたよ。わたしもこんなにたくさんの人がいるのに、その雰囲気って、どうやって消したんだろうって気になって」
すると彼女は肩に落ちた髪を耳に掛け直して上目がちに鋭く答えた。
「消したんじゃないわ、そんなものもともとないのよ」
その日から毎日、わたしが塾に向かう時間には彼女は陸橋でスケッチをしていた。でも何か声を掛けづらくなっていた。彼女の鋭い答え方がどこかに引っ掛かって仕方ないのだった。
(彼女は何かもっている)
それが何か知りたかった。
(きっと、このスケッチが終わるまではここにいるはず)
わたしは変な自信をもってそう思った。
しかし、彼女のスケッチはどんどん進んでいるのに、わたしは声が掛けられないままでいた。
(今日こそ)
その日は塾は休みだったが、駅の高架をくぐっていた。彼女を再び見かけた日から5日程立っていたろうか。
「こんにちは」
彼女はわたしを見上げた。この前のこともあってわたしは少しどぎまぎしてしまった。ところが、
「あ …… こんにちは、えっと、この間はごめんなさい」
この前と違って表情は柔らかかった。それをみて安心して話しかけた。
「どう、スケッチはできそうですか?」
と言いながらのぞき込んだら、スクランブルの様子や、ビルの姿がていねいにスケッチされていた。
「ええ、できました。今度は県展に出品するんです」
はにかんで彼女は言った。でもそのスケッチもよくみると人の姿はなかった。
「ここにも人がいないんだね」
独り言のように言ってみた。
彼女は鉛筆をしまいながらわたしの独り言を聞いていた。
「わたしは他人ほど信じられないものはないと思っています」
あまりにも明るい口調でそう切り出したので初め何を言ってるのか分からなかった。そしてわたしはだんだん言葉を失ってしまった。
「わたしには友達がいないんですよ。ずっとそうでした。わたしのことを友達だ、とかなんとかいう人はたくさんいるんです。でもわたしはそういう人達の話の聞き役でしかなかった。わたしがいざ、話を聞いてもらおうとするとみんな逃げちゃうんですよね。自分がめんどくさいのは嫌だけど、自分はラクしたいから人に頼って …… 表面だけの友達。それがいやでわたしは大学に入ってからは人の話も聞くかわりに、自分からも話していこうとしました。でも、わたしが話を合わせるばっかりで、むこうはわたしの話なんか聞いちゃいない。聞くことは授業のこと。宿題のこと。テストのこと。それも聞くだけ聞いたらわたしとの会話はおしまい。その場限りの場つなぎ。便利屋。わたしが話そうとすればするほど聞き流すか逃げるばっかり。ほんとのわたしを知らないで自分のいいように使ってポイ。わたしはいつも使い捨て。都合のいいときにひっぱってきて、要らなくなったらすぐ捨てる。これじゃ昔とかわりないです。まだ昔のほうがましだった。わたしが何をしたっていうのよ! わたしのこと何も知らないくせして!」
そこまで一息にまくし立てて彼女はスクランブルを見つめた。
「わたしは他人の空気なんて感じない。人間がそこにいるというだけ。自分の欲のためにしか自分から動けない人間がそこにいるだけ。わたしにとっては空気でもない、あえて言うなら害を与えるだけのものなの! その点建物や物体は優しい。だれから裏切られてもだれをも裏切らないから ……」
わたしははっきり言って参ってしまった。彼女は雰囲気を消せる技をもっていたのではなかった。それは、人に利用される生き方しか知らなかった彼女の心に起こった表現だった。そんなことにも気がつかなかったわたしには美術に触れる資格も人の心に触れる資格もない …………
「ごめんなさい、つまらない話を聞かせてしまって。でもあなたなら聞いてくれそうだったし、聞き流してくれてもいいと思ったから。忘れてください。それで …… よかったら
わたしのつまらない作品でも見にいらっしゃいませんか? この近くなんです」
そう言って彼女は住所と電話番号の書いたメモをきって渡してくれた。ていねいでさらさらと流れる文字からは彼女の性格が伺えるようだった。
「ごめん、嫌なことを言わせて」
やっとの思いで言ったその一言を彼女が聞いたのか聞かなかったのか、彼女は自分の荷物を抱えて夕闇へと消えてしまった。
わたしはあのときもっと気の利いた一言がなぜ言えなかったか後悔していた。人間は彼女が思っているほど冷たいものじゃないことを教えたかった。しかしわたしのようなつまらない人間ではどだい無理なことのようだった。わたしも所詮彼女の思い描く人間の一人に過ぎないのかもしれない。そしてわたしはどうしても彼女の家までは足が向かなかった。
3カ月が過ぎ、県展も終わったこともあって、いよいよわたしは彼女の家にたずねて行く勇気が出て来た。駅の構内にあるシュークリーム屋でいくらか手土産を買ってメモを片手に彼女の家に向かった。胸が高鳴ってどうしようもなかった。
…… 彼女はいなかった。その代わり彼女の老いた母親が応対してくれた。
「申し訳ありませんねえ、娘は大学をやめて北海道にいったんですよ」
え、と驚いた。
「あの子には都会の地が合わなかったのかも知れませんねえ」
そして、彼女のアトリエに入らせてもらって、今まで描いた絵を見せてもらった。ほとんど風景画、それも都会の風景ばかりだった。非常に殺風景なその描き方は彼女の感じた都会の風景らしかった。人を描いたものがひとつだけあった。それは彼女の父と母の肖像画であった。彼女にとって信頼できるのは最後まで自分の父と母しかいなかった。結局わたしも彼女に何もしてやれなかったことを感じた。わたしはなんてつまらない人間なんだろう…
連絡があったらわたしが謝っていたことを伝えてほしいといい、何かあったら連絡を、とわたしの住所を書いたメモを残してその日は帰った。
彼女がここへ戻って来て、わたしのことを思い出してくれたのは非常にうれしいことだった。しかし8年、という月日の中でわたしは相変わらずつまらない人間のままだった。有名企業に難無く就職できたわたしは何ひとつ苦労する事なく人生を終えそうだ、と感じながら見合い写真にも目を通すこともなく毎日を送っていた。…… わたしのようなつまらない人間では相手がかわいそうだ。それよりもあの日、彼女を救えなかったことが悔やまれてならなかった。こんなわたしを彼女は許してくれるだろうか…
駅を降りて、陸橋を上り始める。気持ちは既に8年前に戻っている。わたしは彼女に会う資格があるのか? そうしていよいよあの場所を過ぎようとしている。あのとき彼女は涙ひとつ見せなかったことを思い出した。立ち止まってもう一度はがきをみた。コバルトブルーのグラデーションはどこまでも澄んでいて北海道でみた青空かなと思った。この鮮やかな色をみると、もう彼女は何かを信じて生きているように思えた。
…… そうしてわたしは彼女の個展を見に行くのをやめた。きっと彼女はわたしが心配しなくとも自分らしく生きて行けるはずだろう。わたしはそう思った。
岩田智美
僕は、今から「あのころ」について、この薄ぺらい紙の上にかこうとしている。それが、どんなことかはわからない。とんでもなく愚かなことかもしれないし、とんでもなく有意義なことかもしれない。不安と期待が僕の心のなかで入り混じっている。(この感覚は、幼稚園に入った頃に似ている、あの気持ちだ。)しかし、僕があのころについて思い出そうとしても、不思議なくらい何も思い出すことができなくなってしまう。頭の奥の方で、ピンポン玉くらいの物体が、ブルブルと震え出して僕の、頭が、鈍く、痛む。僕はそうやっていつも思い出せないままでいた。でも今日は違う。「あのとき」から、明日で十年になろうとしている。十年という年月を一昔として区切るのなら、そう、一昔前のお話し。
そんな前の話か、という人もいるだろうし、たった十年か、という人もいるだろう。「十年」、僕にとってみれば、一年が十個かたまっただけのもので、十年は十年である、と思い続けていた。
そう思いたかった。けど現実に、僕の今、目の前にある十年は、長く重いものだった。
さて、本腰をいれてあのころを、頭の痛みに耐えながらも、かいていくことにしよう。けどまず、
僕の体験したことは、君達には伝わらない。
少し強い言い方だったかもしれないけど、たぶん一面の真理だと思う。何も全て伝わらないとは、言わない。ただ、君達にある、体験・現実と、僕のとはもちろん違う。当たり前だけど、これが意外とわかっていない。僕は、君達に僕の体験を伝えようとする。しかし、君達には、君達の体験・現実・感性・思想 etc … が邪魔をして歪んで伝わる。これは、僕の小説だけでなく全ての小説にいえることだ。「歪むこと」は決して悪いことではない。(むしろ僕は、この歪みから生まれてくるものに期待する。)けれど、作家達は、できるだけ忠実に、歪むことなく、僕達に伝えようと切磋琢磨している。それは、もちろん必要なことであり、僕のように考えている者は、作家として失格だろう。確かに、僕は、文章力が一般に劣っている。そのために、伝えられないことは、多々あるだろう。けど僕が今からかくことは、全身全霊を懸けて、まさに、「死に者狂い」でしようとすることを承知していただきたい。言い訳はここまでにして、それでは始めることにしよう。
「僕たちは裁かれるべきなんだ」
僕が、彼、いやあの時代を思い出そうとするとその言葉を思い出す。個には、充分なまでの時代の象徴の裏面だった。その時代を生きた同年代の人の大半は、この言葉に気づか
ないようにしていた。気づいた人は、不幸だ。だから、できるだけ考えまい、考えまい、としてきた。それが、まかり通った時代だった。今でも、もちろんそのことは許されることだが、その時代は、今よりも、もっと酷かった。全ての人が、何にも束縛されることなく自由に、何もかも忘れて、(我々の原罪までも忘れ)まるで、今が永遠に続くかのようにその時代をむさぼっていた。
「僕たちは裁かれるべきなんだ」
僕は、洗脳でもされんばかりに、 彼の口から幾度となく聴かされた。
そう思う、僕は、薄ぺらくいつもそう答えていた。それから彼は、人生・思想・政治、時にはセックスのことまで説きはじめた。僕は、うんそうだね、と適当に相槌を打ち、時々、反論したりした。反論されると、彼は、少し黙り、今まで以上に激しい口調で、僕に言い返してきた。
そうなると僕は、うんそうだね、その通りだ、君の言う通り、としか言わなくなる。それでも彼は、機関銃のごとく、話しつづけた。彼の言うことは、正しいことが多かった。彼も、自分自身そう思っていた。けど僕達が、人生について語るなんて、あまりにも若かった。十年過ぎた今でもそう思う。
僕が彼に出会ったのは、大学に入って間もなくの頃だった。小さな教室で、ぼくは、いつものように、アンブローズ・ビアスの『琥珀の中の油虫』に読みふけていた。
「君は、アンブローズ・ビアスをよむのかい。」
声がした方を向くと彼がいた。僕は、ああ、とだけ返事をしてまた読みかけようとした。
「それなら、うちにくるといい。いいものを見せてやる。」
僕は、彼に言われるがまま、彼についていくことにした。彼は、大学に程近いアパートに下宿していた。彼の部屋に入ると、圧巻だった。部屋のほとんどが本棚に占められていた。
「実家は、もっと凄いぜ。」
彼はそう言いながら、何かを探していた。あったこれだ、そう言って十数冊の本を取り出した。それは、A・ビアスの本で、その中には英語版も何冊かあった。
「君に何冊か貸してやろう。」
どうして僕にそんなことしてくれるんだい、と聞いたら、
「君のA・ビアスを読む感性が好きなんだ。A・ビアスは、全ての真理を含む言葉の能力を備えていた。」
彼は、小一時間A・ビアスについて賞讃した。僕は、見切りをつけて本を数冊借りて帰ろうとした。
「そういやあ、自己紹介がまだだったな。僕の名前は、間久部国男、何とでも呼んでくれ。」
彼は、玄関でそう言った。僕も自分の名前を言ってその場を去った。
これが彼との最初の出会いだった。
僕は、春が嫌いだった。春という季節は、僕の心をとても鈍らせた。全ての人が終わり始まる、そんな季節なのに、僕だけが、立ち止まったままだった。僕は、そのことについての焦りや戸惑いを18回繰り返してきた。大学に入ると何か変わるかもと淡い期待を寄せていたが、大学のつまらない講義は、この上なく苦痛だったし、周りにいる人も、つまらない人間ばかりだった。結局、僕を変えてくれる要素は、一つもなかった。けど、彼には、僕を変えてくれる雰囲気を持っていた。僕は、彼に魅きつけられていくのを感じた。彼に本を借りては、返し、アパートに入り浸るようになっていたので、僕の両親は何かと心配していたようだった。かれは、必ずといっていいほど、「僕たちは裁かれるべきなんだ。」と言い話を始めた。最初の頃その言葉の意味がわからなく、戸惑ったものだが、時がたつにつれ、その言葉なしでは、聞く気になれなかった。
そうするうちに、季節は、ふくらました風船のような夏がやってこようとしていた。
「あと一年か。」
いつものように彼のアパートで本を読んでいる時、彼はいつものようにハイライトを吸いながら煙とともに呟いた。
「何がだい。」
と僕が問うと彼は、いや何でもない、といってまた煙草を吸い始めた。しばらくの沈黙のあと、
「今日、僕の十九回目の誕生日なんだ。」
彼は煙草をくちゃくちゃに潰しながらそう言った。
「それはおめでとう。何かお祝いするよ。」
「何がめでたいものか。また一つ近づいてしまったんだ。」
「近づくって何がだい。」
「君には失望したよ。」
吐き捨てるように言った。
それから、彼のアパートにいくこともなくなり、彼と話すこともなかった。ただ僕の胸には、「不可解」の文字が、残った。彼は、クニオは、いったいどうしてあのように言ったのか、僕には、さっぱり見当もつかなかった。胸にしこりを残したまま待っていた長い長い夏休みがやってきた。こんなに待っていた夏休みは、今までなかった。一カ月もあのつまらない学生達をみないですむと思うと、心の奥底から喜びが、あふれんばかりだった。ただ、本棚には、クニオから借りた、ドストエフスキーの『白夜』とフィッツジェラルドの『雨の朝パリに死す』が、二冊並んで、ちょこんと超然とあるのが、僕の、唯一の気がかりだった。
その年の夏は、暑い夏だった。雨も一滴も降らず、池の水が干上がり天気予報官も、異常気象、異常気象と繰り返し、一般市民は、水がない、水がない、と水を求めて東奔西走し、暑さのあまり、十二人が死んでしまった、暑い夏だった。
とりあえず、僕はバイトしようと思った。別に何もすることがなくて、時間はたっぷりあった。お金が欲しいわけでもなかったが、お金はあるにこしたことはない。ちょうど近所のコンビニがバイトを募集していたのでそこで働くことになった。
バイトをして、本を読む、その繰り返しで夏休みは終わってしまった。
クニオと「仲直り」したのは、夏休みも終わり、数週間たった、秋というにはまだ暑すぎる、そんな日のことだった。
「この前は悪かったな」
そんなクニオの一言だった。そう言うわけでまたクニオのアパートに入り浸るようになった。クニオはクニオで何も変わることなく例のセリフを言って人生を語り続け、僕は僕でそれを、うん、うんと聞き流し時に反論したりして、その日その日を過ごしていった。僕達にとって最も幸せな時間だった。
暑い夏もいつもいつの間にか過ぎ秋がきて、冬にさしかかろうとしていた。
そんな日だった。大学が終わると僕はいつものように、クニオのアパートに寄った。
「誕生日おめでとう。」
クニオはそういいながら、包みを僕に渡した。僕も全く忘れていた、今日は僕の十九歳の誕生日だった。一瞬とまどいの後、包みをうけとった。
「それにしても、どうして僕の誕生日を知っていたんだい、僕も忘れていたのに。」
僕は彼にそう尋ねた。
「そんなことどうでもいいじゃないか、とにかくおめでとう。」
彼はそう言った。
おめでとう、この言葉は、僕が彼の誕生日にも言った。彼はその言葉を、最低でも不愉快に思ったはずだった。それなのに彼は、僕に「おめでとう」と言う。僕は、彼にそのことをきこうと思ったけどやめた。家に帰って包みを開けると、サイモンアンドガーファンクルのCDとアンブローズ・ビアスの『ありうべきことか』が入っていた。素直に嬉しかった。
コンビニのバイトは、夏休みが終わった後でもちょくちょく、週に一回か二回ぐらい働きにいっていた。深夜だったため大学には支障をきたすことはなかった。レジをうち、商品を並べ、掃除をする、単純な作業だった。たまに、客とのトラブルがあったりするが、別に何の変哲もなく、日常は過ぎ去っていくのだった。
そんな中で僕は、「オンナ」に出会った。そのオンナの名前は、全く思いだせない。顔もそれほど思い出せない。別にこれといった美人でもなく、目をそむけたくなるようなるような顔でもなかったと思う。あまりにもあやふやな記憶だった。そんな彼女と僕はつき合いはじめた。彼女は、バイト仲間だったらしい。
らしい、と書いたのは、彼女と僕は、一度も会ったことがなかったからだ。もしかしたら一度会ったことがあるかもしれないし、何度も会ったことがあるかもしれない。そんな曖昧な中、僕は彼女とつき合い出した。
つき合い出して、7日後キスをして、16日後フェラチオをして、26日後セックスをした。その後は、毎週金曜日、定期的に会って映画を見たり、食事をしたりした後セックスをした。退屈な日々だった。
そこには愛があったのか? ときかれたら、僕は答えに困る。僕は多少なりとも彼女に愛を感じていたかもわからないし、そうではないかもわからないからだ。
そういうわけで、僕が彼女と別れたのは、つき合い始めて78日後のことだった。別れを切り出してきたのは、彼女からだった。
「あなたといっしょにいると疲れるの。」
彼女はそういった。だから別れたい、と言う。別に引き留める必要もなかったし、彼女がそういうなら、ということで別れることにした。
そこには愛があったのか? と聞かれたら、たぶんなかったと思う。
そういうもんだ。
クニオが「俺の実家に遊びにこないか。」と唐突に言った。冬休みに冬休みに入る前のことだった。僕は同意して彼の実家へ行くことになった。彼の家は、大学から三十分ぐらいのところにあり、僕の家よりか近いところにあった。けれど、彼は大学の真近くのアパートに下宿していた。
「朝弱いんだ。それに電車に乗りたくないんだ。」彼はそう言った。
クニオの家は金持ちだった。まず家をみれば一目でわかる。大きい和屋敷だった。大きい門を入って、数分歩かなければ家にはたどりつけなかった。
「お帰り、国男。友達を連れてきたのかい。珍しいわね。ゆっくりしていってね。」
透き通るきれいな声が玄関からきこえ、僕よりか2倍ほど年をとったぐらいの上品できれいな女性が出てきて軽い会話をした。「母さんかい。」と聞くとクニオは何も言わずに靴をぬぎ捨てた。
クニオの部屋は、和屋敷にもかかわらず、フローリングだった。そこには、おびただしいまでの本があった。少なく見積もっても、僕の町の図書館より、本の数は上だろう。
「全部読んだのかい。」と聞くと、
「だいたい、はね。」彼は言った。
柔らかい冬の陽射しが窓から入ってくる。くだらない話をしているうちに、玄関で見た女性がお茶をもって入ってきた。よくよく見ても何とも形容し難い美しさをもっていた。確かに年をとっている。しかし、その年のとり方は積み重なるようにきれいに年をとっていったようだった。彼女は、お茶を置いて出ていった。
「母さんかい。」ともう一度尋ねると、少し黙った後、ああ、と答えた。
「父さんを見せてやろう。」
彼は、そう言って部屋を出て行ったので、僕もそれについていった。大きい襖を開けると、部屋の真ん中にベッドがあり、そこに一人の小さな老人がいた。クニオはその老人に近づき顔をよせ、「ただいま、お父さん。」と冷たく笑いながらつぶやいた。老人は、死んだように眠ったままで、何も答えなかった。
クニオと僕は、彼の部屋に戻り、冷めた紅茶を飲んだ。
「おかしいと思うだろう。父と子があんなに年が離れているなんて。」
彼は遠い目をして言った。僕は、まあ、と答えるだけだった。
あれから、十年たった。僕は三十歳になったが、彼は、ずっと二十歳のままだった。僕は、それなりに妻子をもち、家族をもったが、彼は、永遠に一人だ。
また僕の嫌いな春がやってきた。その年の春は、いつも以上に僕を焦らせていた。何もしない僕に……
その日のことは、よく憶えている。いや、忘れたくてもこびりついて離れない。
僕は、いつものようにクニオのアパートに寄った。ところがチャイムを押しても彼は出てこなかった。ドアのノブを回すと、鍵はかかってなく、開いていた。部屋に入ると、彼は、死んでいた。カーテンのレーンにヒモをかけ、首を吊って死んでいた。それは、あまりにも、美しく、新鮮だった。僕は、芸術品でも見るかのごとく、それをずっとみていた。
「人は、ここまでも美しく、死ねるものなのか。」と感心した。
その後、警察やら何やらが来て、色々調べたようだったが、遺書もなく、ただ不可解な死として片づけられた。ただその日は、彼の二十歳の誕生日だった。
彼の死後、大学が世界が、よりつまらないものになってしまった。そして僕は、何事もなく、二十回目の誕生日をむかえた。
「父には一人息子がいたんだ。その男が今の僕の母である人と結婚したんだ。ある晩、自分の息子がいない時、父は自分の息子の嫁である女性をレイプしたんだ。そして僕を身ごもった。息子は、その事実を知り発狂し、日本刀で自分の体を斬って死んでしまったんだ。」
彼があまりにも、淡々と話すので嘘かと思ったが、クニオの目を見ると事実だとわかった。
「父も母も、最低な人間だ。僕も含めてね。」彼は最後に言った。冬の陽射しは、とけてしまうぐらい柔らかだった。
風が右の頬をそぎ落としていくように、年月は、僕の記憶をはぎ落とす。そのために、僕の書きたかったことは、あまりにも不完全で、断片的すぎた。ピースの足りないジグソーパズルをしているようだった。僕は、彼の死について、深く考えることはなかった。考える必要はない。今ならわかる。僕は、そう思い、十年遅れた結論を出すため、庭に出て木にロープをかけ、そこに首を入れた。空を見上げると、白い月があった。
大須賀幸樹
「今日は普通に帰れるかな? 何かあったら電話するから。」
「そう、じゃあ行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」
何気ない朝の光景。この何でもないやり取りが朱美は何故か大好きだった。朝のすがすがしさのせいかも知れないが、不思議な幸福感が彼女を包んだ。
結婚してもう5年になる。夫、三浦康志は大手旅行代理店に勤める26歳。朱美の一つ年上で、大学時代に知り合い、21歳で彼女は大学を辞めて結婚した。ツアーコンダクターの彼は、仕事柄、家を空けることも少なくない。子供のいない彼女にとって、そんなときに唯一側にいてくれるのが、姉の奈緒であった。4歳年上の彼女は、朱美にとってはたった一人の血のつながった存在である。両親は、朱美が19歳の時に交通事故で亡くなった。悲しみに打ちひしがれている朱美を奈緒はいつも励ましてくれた。そしていつも同じ歌を歌ってくれた。
Ah どれだけ涙流しても
傷ついた心癒せやしない
Ah それなら 少し聞かせてよ
泣いてばかりじゃ
No No Baby No No Baby
涙を拭いたなら
一人じゃないのよ… (☆1)
康志と知り合ったのはちょうどその頃である。彼女を気遣い、どんなときも優しく接してくれた。それは、結婚した今でもちっとも変わらない。たまに見せる彼の愛情は、彼女をとても幸せな気分にした。だから、一人で家にいても、今の生活を朱美は不満に思ったことはなかった。彼女の中には、彼との子供がいた。朱美にとっては、今の生活が自分にとって全てであったのである。自分が不安でいっぱいの時に、いつも側にいてくれた彼が。そして、彼との生活が。
彼との結婚を、奈緒は本当に喜んでくれた。
「とってもいい人じゃない。お姉ちゃんが取っちゃったらどうする?」
「何てこと言うのよ! お姉ちゃんには旦那さんいるじゃない。冗談でもそんなこと言わないでよ。」
「ごめんごめん。すぐムキになるんだから。そんなことできるわけないじゃない。」
そんな、一見何の不安もない夫婦生活を送っているかに見える二人であったが、悲劇への序章はもう始まっていた。それも彼女の最も身近な場所から…
「今日は早く帰れそうだから。」
そう言い残して、康志はいつものように仕事に出かけた。たったそれだけの会話であったfが、、早く帰れると言う彼の言葉にすっかり上機嫌になり、
「それじゃ、晩御飯は期待していてね。」と言って、彼を送り出した。
その日一日は、朱美は夜のことで頭がいっぱいであった。
「今日は、思いっきり贅沢して、フランス料理でも作ってみようかな?」
「でも、彼はあんまり変わったもの、好きじゃないし。」
こんなことを考えながら、朱美は買い物に出かけた。
途中で、近所の人に会った。
「こんにちは。今日も暑くなりそうね。あらお買い物の帰り? 随分買い込んでるわね。」
「ええ。今日は主人が早く帰ってくるものですから。」
「いいわよね。三浦さんのところは仲が良くて。あっ、そうそう。この前、旦那さんを見かけたわよ。何か急いでるみたいだったんで声はかけなかったけど。」
「えっ。それいつのことです。」
ああ、仕事だろうと思い、彼女は何気なく聞いた。しかしその答えは彼女の予期せぬものであった。
「ええと。三日前だったかしら。港南台の駅前で。確か夕方6時頃だったかしら。」
「港南台?」
奈緒の家の近所である。彼の会社からはかなりの距離があるし、一瞬不審に思った。
「彼、どうしてそんな所に…」
7時ごろ、康志は仕事から帰ってきた。
「ただいま。」
「あっ…、お帰り…なさい。」
妻の様子がいつもと違うことに、康志は気がついた。
「どうした? 何かあったか?」
朱美は今日の事を聞こうか迷った。しかし、
「あのね。今日ちょっと聞いたんだけど、康志さん、三日前に港南台にいたって。あんな9ところに何か用事でも?」
と、気がつくと口にしていた。しかし、彼を決して疑ってはいなかった。
それでも、突然のことで康志は上ずった声で、
「えっ。港南台……あぁ、ちょっと仕事。今度のツアーの打ち合せで。」
「でも、夕方になんてどうして。あの日って確か帰るの遅かったよねそんなに時間がかかったの?」
「会社が終わってからだったからね。しかも、結構、打ち合せに手間取ってさ。それから、お姉さんの所に寄ってきたんだ。ほら、朱美にはメシいらないって言っただろ。近所だし、外で食べるのもお金かかるしね。それで転がり込んだってわけ。お姉さんには悪いことしたかな? いきなりだったからね。」
「本当? まさかだれかと浮気とか。」
彼女の口からそんな事を言われ、康志は驚いて朱美を見た。彼女は笑っていたが、その作ったような笑い顔を見て、妙な罪悪感にかられた。
「何心配してんだよ。まさか僕が浮気でもすると思った? まあ一応お姉さんの所も“女"の家だけどね。」
彼のこの一言で、朱美はほっとした。そして、少しでも彼を疑った自分を悔いたのである。
「ははは、冗談よ。一度、こんなこと言ってみたかったの。私、康志さんのこと信じてるからね。」
「朱美のやつ、僕が港南台にいたことを知ってるんだ。」
奈緒は、一瞬動揺したようであった。
「そう。でもあの子はあなたのことを疑ったりしないはずよ。だって、あの子にとってあなたは何より大切な人ですものね。盲目的に信頼しているみたいだし。それで、彼女には何て?」
しかし、表情とは裏腹に彼女の言葉は冷静であった。
「ここに来たことは話したよ。もちろん、夕食を食べに行ったと嘘はついたんだけどね。」
「それならいいわ。だけど、あの子を不安にだけはさせないでね。私が言えるような事じゃないのはわかってる。でも私だって……」
「大丈夫だって。今日は、もうその話はやめよう。」
それから一週間後、康志は仕事で海外に出かけてしまった。彼女にとってはよくあることなので不安はない。ただ、一人で家にいると言いようのない孤独感が彼女を襲う。
朱美はいつものように奈緒に電話をかけた。
「…あっ、お姉ちゃん。私、朱美。康志さんね、また海外に行っちゃったの。で、一人だからお姉ちゃんの所行ってもいい?」
「うん、こっちもヒマだからね。いいよ。」
奈緒の家は、閑静な住宅地の中にある。ちょっと洒落た感じのマンションの5階に彼女は一人暮らしである。夫とは2年前に離婚した。5歳になる娘ともそれ以来会っていないらしい。デパートで働く彼女は、その仕事のせいだろうか、いつも笑顔がまぶしいように見える。しかし、時折見せる疲れ切った表情、その中には、一人でいる孤独、そして何よりも子供に会えない寂しさがあった。ただ、この日も、妹の訪問をとても快く、笑顔で出迎えた。それは、妹に悲しい顔は見せられないという姉としての思いがあるのだろう。
「何か、いつもお姉ちゃんの厄介になってるよね。この前は、康志さんも来たんだって? 夫婦共に迷惑だよね。ごめんね。」
「あぁ…この前ね。全然気にしなくていいから。私、こんなだから結構うれしいんだよね。二人が来てくれるの…」
しばらくして、朱美は洗面所に行った。そこには、奈緒の歯ブラシとともに男物の青いものが一緒にあった。
「あれ。お姉ちゃん、彼氏できた?」
「えっ。」
「だって、この歯ブラシそうじゃない。もう妹の私に黙ってたでしょう。ねえ、どんな人なの?」
この一言に体が固くなるのを奈緒は感じた。
「うん、いい人よ。…すごく…いい人。」
「すごく何? 何かあるの。」
無邪気に尋ねる朱美を見て、奈緒は憐れみさえ感じた。と同時に、自分の罪深さを痛感した。
「ううん、何でもない。……お姉ちゃんもちょっとは幸せにならないとね。いつまでも妹に先越されてたんじゃ、カッコつかないからね。」
そう言いつつ、奈緒は寂しげな笑みを浮かべていた。自分の幸せは、妹の不幸なしには有り得ないことを知りながら。
その夜、奈緒は突然こう言った。
「ねえ。あなたたち夫婦、本当にうまくいってる。」
「えっ、どうしてそんなこと聞くの?」
朱美は、姉の予期せぬ一言に戸惑った。
「別に。ただ何となくね。」
奈緒の家から帰った翌日、朱美は突然激しい頭痛に襲われた。今までも何度か同じような事があった。いつも、気がつくと激しい疲労感に全身が支配され、その間の記憶が待ったくないのである。しかし、今回は今までよりさらに激しい頭痛が襲った。そのまま床に倒れ、意識が朦朧としていく。
気がつくと、彼女はフローリングにうつ伏せになって倒れていた。辺りには食器が散乱し、朱美が大切にしていた観用植物が無残にへし折られていた。
「泥棒?」と思ったが侵入した形跡は全くない。しかも疲労感で体は金縛りにあったように動かなかった。
「まさか、そんな。」
5日後、康志は外国から帰ってきた。朱美は、奈緒の家での事だけを彼に話した。
「先日のことは話さないでおこう。」
康志に余計な心配をかけたくなかったのだ。
もちろん、頭痛のことも彼は知らない。いつも彼の出張中に起こるのである。
「ねえ。お姉ちゃんに彼氏ができたの知ってた?」
「えっ。本当? お姉さんがそんな事を?」
少しあわてて康志は聞き返した。
「うん。この前、お姉ちゃんの所に行ったらね、男物の青い歯ブラシがあったのよ。どんな人かは教えてくれなかったけど、いい人だとは言ってたっけ。あっ、でも、何かその後でちょっと寂しそうにしてたような…」
「あぁ、そう…」
何も知らない妻に、彼は安堵した。
「それから、お姉ちゃんが、遊びに来るのは大歓迎だって。でも、彼氏ができたんじゃ私たちお邪魔だよね。」
「そうだね…」
気のない返事を繰り返す康志を、朱美は不審に思った。
「何、さっきから。ちょっと今日のあなた変よ。何かあるの?」
「うるさいなぁ! 何でもないよ。疲れてるだけだよ。もう寝るから。」
こんな強い口調で彼が怒るのは、滅多にないことである。しかし、この時はまだ、朱美は「疲れている彼にいろいろしゃべりすぎたかな」としか考えなかった。
「今日、残業で遅くなると思うから。御飯も食べておいて。まあ、また連絡するから心配しないでいいけどね。」
そう言って康志は、いつものように会社へ出かけた。
「残業かあ。そうだ。夜中お姉ちゃん家にいってみようかな。」
夕方朱美はいつもの調子で、奈緒に電話をかけた。
「もしもし、私だよ。今からあいてる?」
「えっ、朱美? 何?」
「もう、お姉ちゃんどうしたの。ちゃんと聞いてよ。だから、今日の夜ね…」
「ごめん、今日はちょっと…」
「あっ、この前の彼氏だ。そうでしょう。隠しても無駄だよ。見に行こうかな。」
l「だめ! 本当ごめんね。もういい、切るからね。」
そう言って、奈緒は無愛想に電話を切った。
「どうしたんだろう。今日のお姉ちゃん何か変だったなあ。すごく焦っていたようだったけど…」
しばらくして、再び電話のベルが鳴る。今度は康志の会社からであった。
「三浦さん、お帰りになっておりますでしょうか?」
「いえ今日はまだ。あの、何か……」
「外回りに出て、なかなか戻らないので、お家の方かと思いましてお電話しただけですか'ら。あまりお気になさらないで下さい。」
「どうなの? 朱美は感づいている様子だった?」
「いや。全然そうは見えなかった。次の連休に温泉に誘ってみるつもりだけど。せめてもの罪ほろぼしかな。」
「そう…それならいいんだけど。あの子に限って大丈夫だとは思うけど…、もし、この事をあの子が知ったらと思うとね。
あの子、思い詰めるとちょっとね…本当に朱美には申し訳な
いわね。」
奈緒は、少し後悔したような表情を見せた。
「仕方ないじゃないか、お互いこうなった以上。」
少し口調を強めた康志は、「僕達、もう後には引けない。朱美にはすまないとは思ってるけど、君だって関係を断ち切るのは厭だろ?」と奈緒に詰め寄った。
「それは…」
その週末、突然康志が旅行の話を持ち出した。
「どう、今度の三連休で温泉にでも行ってみない。いつも僕はいろんな所に行ってるけど朱美は何処にも行かないで、ずっと家にいるもんね。たまには、そんなのもいいんじゃないかな?」
「でも、仕事の方は大丈夫? 最近忙しかったじゃない。」
「僕の方は大丈夫。最近夫らしいことあんまりしていなかったし、ね、行こう!」
朱美は、素直に喜んだ。そして、折角だからと思い、奈緒も一緒にと考えた。自分だけ申し訳ないと考えたのである。
「ねえねえ、それじゃあお姉ちゃんたちも誘ってみようよ。正直ね、私、お姉ちゃんの彼氏って人に興味あるんだよね。どう?」
「えっ、お姉さんも。」
康志は不安を隠しきれなかった。朱美が自分達の事に気がついているのではと不安が頭をよぎった。
「ううん。今回は二人だけってことにしようよ。こんなこと滅多にないんだし。夫婦水入らずでさ。」
こう言いつつ、朱美の顔色を伺ってみた。
「そうだね。……何か今から楽しみ。」
無邪気な朱美の顔を見てほっとした半面、言いようのない罪悪感が彼を襲った。しかし、今の彼には、奈緒との関係を断ち切るのはもはや不可能であった。
「今日は仕事、早く終わりそう?」
「うーん。ちょっとわからないなあ。遅くなるようならいつものように連絡するよ。」
「絶対だよ。」
この何気ない一言が二人の大きな転機となってしまうのである。
この日、彼からの連絡は最後までなかった。今までにこんなことは一度もない。と、不意に激しい頭痛が彼女を襲う。康志の出張中以外でこんなことが起こるのは初めてである。そうして、彼女はまた床に倒れ込んだ。
しばらくして朱美は気がついた。今度は部屋の様子がいつもと変りないので安心した。
「この前のは何だったんだろう。やっぱり警察に言った方がいいかな。でも何も取られていないし、彼も心配するだろうし…」
12時ごろ帰宅した康志に、朱美はいつになく激しい口調で尋ねた。
「今日はどうしたの? 連絡くれないなんて。今までこんなことなかったよね。」
そう言いつつ、彼女の心は不安で一杯であった。自分から心が離れていくような気がしていた。
「ここのところちょっと変じゃない。何か仕事でトラブルでもあった? ちゃんと相談してよ。」
「本当、ごめん。どうしても電話かけれなくて。大丈夫、何もないから安心して。」
素直に謝る康志ではあったが、明らかにいつもと様子が違っている。何かそわそわして落ち着かない。「何か隠している」朱美はそう思った。
その夜、朱美は不安で眠れなかった。様々な憶測が頭をよぎる。
「絶対に、彼は何かを隠している。考えてみれば、ここ数ヶ月明らかに何かが変わった。仕事上のトラブル。人間関係。女性関係…」 そこまで考えて、彼女ははっと飛び起きた。これまでに味わったことのない不安感に襲われた。
「それだけは、絶対にない。絶対…」
打ち消すように自分に言い聞かせてみたが、不安感はどんどん増していく。不安と共に、やり場のない怒りがこみ上げてくる。それは、康志に対してではない。自分が造り上げた虚像、康志を誘惑して自分から奪い取る女性の姿に対してであった。彼女の幻想の中だけでどんどん増大していく殺意。それに彼女はまだ気付いてはいなかった。
「誰、私から彼を奪っていくのは? そんなことは絶対にさせない。私には、彼が必要なの。どんなことをしてでも守ってみせる。そして、そんなことをする人は絶対に許さない。」
週末、康志はツアーの打ち合せと言って、出かけてしまった。一人になった朱美に再び不安が襲いかかる。いてもたってもいられない状態であった。そんな時、また激しい痛みが。
……………………………………
気がつくと、朱美は奈緒のマンションの前に立っていた。もう辺りは暗くなっていたが、街灯や家々の灯が妙に明るく、そして不気味に輝いている。
どうやってここまでたどり着いたのかは当然分からない。ぼんやり見上げると、奈緒のO部屋には灯がともっている。朱美はそのままふらふらと5階の奈緒の部屋に向かった。
チャイムを鳴らしてみたが返事がない。カギも掛かっている。「おかしい」とは思ったが、今の彼女には入るのをとがめるような心の余裕はなかった。持っているスペアキーで中に入った。
「誰か来たよ。出なくてもいいの?」
「大丈夫よ、どうせ新聞の勧誘か何かでしょう。それよりも…ねっ…」
玄関には、男物の革靴が一足。しかし、朱美は全く気付かなかった。それが見覚えのあるものにもかかわらず。
「お姉ちゃん、いるんでしょ? ねえ、お姉ちゃん? どこに…………」
寝室の扉を開けた瞬間。彼女は目を疑った。ベッドに横たわっているのは紛れもなく姉の奈緒と夫の康志であった。その光景は、彼女が幻想の中で造り上げたものと全く同じであった。ただ、虚像であった女性が自分の姉であること以外は。しかし、朱美の目にうつる女性はもはや姉の姿ではなかった。顔のない、彼女の中の虚像にすぎなかった。現実を直視したくない、というより直視することさえ不可能なほど、彼女は錯乱し、またその心がそうさせたのである。
朱美の気配に気がついて、二人は飛び起きた。
「お前、どうして…」
「………」
うろたえる康志に対して、奈緒はうつむいたままで何も話そうとしない。ただ、その瞳からは涙があふれている。
再び痛みが彼女を襲い、それから後の記憶は、朱美にはほとんどない。濃い霧の向こうに全てが閉じ込められたように……
ただ、彼女の心の中には、奈緒の言葉だけが鮮明に残されていた。
「朱美、本当にごめんね。……………もうどんなに謝っても許してもらえないよね。…………彼の優しさに甘えた私が全て悪いの。…………でもね。…………………私……だっ…て…………」
霧の向こうから声が聞こえる。
「海だ! 見て、お姉ちゃん! カモメさんがいっぱい。」
「もう、朱美ったら。はしゃぎすぎだよ。でも、ほんときれいだね。着いたらめいっぱい遊ぼうね。」
「うん!」
「お父さん、これもう食べられるかな?」
「そうだね、もういいんじゃないかな。熱いから気をつけて。」
「やったー! お姉ちゃん早く食べようよ。」
その声は次第に大きくなっていく。霧が晴れて、幼い頃からの奈緒との思い出が、フラッシュバックされる。夏休みに泳ぎにいった湘南の海。家族旅行で行ったどこかの湖。遊O覧船の上ではしゃぎまわる二人の少女。河原でバーベキューをしている家族の姿……
それは、紛れもなく幼い頃の朱美と奈緒、そして両親の姿である。そう、朱美にとって奈緒はかけがえのない友達のようなものであった。周りのどんな友達よりも、いつも身近にいて彼女を守ってくれた。
しかし、それらの光景は、しばらくすると真っ赤になって消えていく。海も川も湖も、全てが血で染まったように。
朱美はチャペルの中にいる。ウエディングドレスを着た彼女の隣には奈緒、そして、向こうには、笑顔で立っている康志がいる。とその時、向こうか誰かが歩いてくる。それが朱美自身であることに気がついた瞬間、笑っていた康志の体が崩れ落ちた。純白のタキシードを深紅に染めて。
「何を…」
そう言いかけたとき、もう一人の朱美は目の前にいる。そして、薄笑いを浮かべながら、持っているナイフで奈緒の胸を貫いた。
「どうして……」
そうつぶやくと同時に再び濃い霧が辺りを包む。その中で、朱美はかすかに聞こえる自分の声に気がついた。
「そうやって、私を独りぼっちにしてしまうのね。信じていたのに…結局、私はずっと独りだったってことなの。」
「いいえ、そうじゃない。二人とも私にとってはかけがえのない人。離れていくくらいなら……………」
その時、暗闇の中の黄色い不気味な光が彼女を照らした。そして鈍い音と同時に、彼女の体はふわっと宙に舞い上がる。そこで、彼女の中の時間は止まった。
ずっとかけがえのないもの
安らぎと温もりがある
いつも 居心地のよかった
あの場所へ戻ろうよ
Best of My Friends ……(☆2)
☆1 Dear Friends By Persons
☆2 Dear My Friends By Every Little Thing
中嶋美和
トゥルル、トゥルル、ガチャ。
「あっ、もしもし、お母さんでーす。元気? 突然だけど今度の週末なんか用事ある?」
「えっ、どうしたん。」
「横山のおばちゃんから電話があってな。今年はすごーいいっぱい蛍が飛んでるんだって。去年有理さんが入院してるとき蛍が見たいって言ってたのを覚えとんさって、見にきんせぇってわざわざ知らしてくれんさったんよ。もし暇だったらかえってきんせぇなぁ。」
「ほんとかぁ。」
「多分今週あたりが見られる最後のチャンスだと思うって。」
「う〜ん、考えとくわ。」
「うん。じゃあまた決まったら連絡して。じゃあね。」
去年一年私は病気で入院していた。横山のおばちゃんは入院中よくお見舞いに来てくれた人だ。その豪快で明るい性格に何度励まされたことか。退院したらあれがしたい、これをしようというとりとめのない話を二人でよくしていたものだ。そんな話の一つをおばちゃんは覚えてくれていて連絡してくれたのだ。あのときはいつ退院するかも全く予定が立っていなくて、一つ一つの話が夢物語だった。まさか一年後にこうして元気に一人暮らしをしているとは…でもいざ退院してみると、すべての願いが叶えられる状態になったのに毎日学校に行くのに精一杯だったり、おっくうになったりして忘れていた。
蛍かぁ…
「ほっ、ほっ、ほーたるこい、こっちのみーずはあーまいぞ…」
そんな歌を歌いながら昔はみんなで蛍を捕りに行ったものだ。橋のたもとからはしごを使って川へおりる。それから蛍草をかごの中に入れて網を使って蛍をとる。ゆっくり飛んでいるので小さい子でも簡単にとれた。ときどきふわふわ飛んでいるのを両手でそうっと捕まえて隙間からのぞいたり手から手へ移したりして遊んだ。そうしてしばらく蛍狩りに夢中になり、かご一杯に蛍を入れると満足して家路についた。
そんなふうに遊んでいたのもどのくらいの間だったんだろう。だんだん興味も薄れ、行ってもぼーっと遠くから見るだけで帰ってくるようになり、終には行かなくなった。数年前、蛍の数もずいぶん減ってきたと聞いたけれど、あれからどうなったんだろう…
トゥルル、トゥルル。
「もしもし、お母さん? 今さっき言ってた話なんだけど…」
「次に3番線に到着の列車は16時4分発特急北近畿13号城崎行きです。指定席は…」
午前中は何とかもっていた天気も午後になって風が強くなってきた。天気予報が言っていた台風が近づいているようだ。今年は季節外れの台風がこれまでに2つ上陸した。なんだか週末になる度に台風が来ている気がする。ただでさえ梅雨の季節はうっとうしいのに…「間もなく3番線に列車が到着致します。危険ですので白線の内側におさがりください」
トゥルルルル、トゥルルルル……
…ゴトン。プシュー。
列車の中に乗り込むと適当な席を見つけて座った。列車はゆっくりと動き出す。高層ビル群が後方へと流れ去り今は小さなビルがごちゃごちゃとみえる。
「本日はJR西日本をご利用いただきまして誠にありがとうございます。この列車は特急北近畿13号城崎行きです。ただ今大阪を約3分遅れて運転しております。止まります駅と予想到着時刻をお知らせいたします……尚、本日台風のため三田ー篠山口間は徐行運転を行っております。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけ致します。」
やたら丁寧なアナウンスを聞きながらほっと一息ついて車内を見回してみる。観光シーズンでもない週末の夕方といった時間帯のせいか車内は適度に空いていた。乗客は皆思い思いにくつろぎ始めたようだ。雑誌を読み出す人、背もたれを傾ける人。ほとんどの人が一人で乗車しているせいか話し声は聞こえてこない。そうこうしているうちに車内販売がやってきた。お茶を一本買い窓辺に置く。とりあえずこれで2時間半か3時間後には江原に着くだろう。
「…間もなく三田、三田に到着致します。」
お茶を飲みながら外の景色を眺めていると宝塚を過ぎた辺りからビルやマンションが少しづつ姿を消し、のんびりとした田園風景が広がってくるのがよくわかる。なんだか実家に近づいているんだなと実感してしまう。そうこうしていると、今まで怪しい雲行きながらもちこたえていた空から、とうとう雨が降り始めた。最初はポツ、ポツ、と数個の水滴が窓を濡らすだけだったが、瞬く間に水滴が窓全体を覆ってしまった。窓の外ではたんぼを埋め尽くすように植わっている若い稲が、適度な湿り気を得てくっきりと浮かび上がっている。稲の黄緑ともうすっかり夏の色をしている山との対比がきれいだ…
ふと思い出して鞄の中からプリントの束を取り出す。たまりにたまったレポートをこなすための資料を慌ててコピーしてきたものだ。とりあえず読み始める。しかし目は活字の上を滑るばかりで少しも進まない。仕方がないのでぼんやりと再び窓の外の景色に目を移した。
外の雨はますますひどくなってきていた。窓についていた水滴は集まって細い筋になり、やがて太い帯状になって流れはじめた。線路に沿って流れているほそい川は水かさを増し茶色く濁った水の流れは今にも土手を越えそうな勢いだ。竹の群れている林も強い風を受け林全体がしなっている。だがそれらが伝えるはずの音は列車の中には聞こえてこない。聞こえるのはただ時折唸る冷房の音と、ごとん、ごとんの音だけで、車内は本当に静かだ。
蛍、流れちゃったかもしれないなぁ…
川沿いに住む蛍は、少し雨が降っただけですぐ流されてしまう。小さいときもそれで何度か悔しい思いをした。これだけ降れば帰っても蛍は見られないだろう。でも、それは朝、天気予報を見たときから判っていたことだ。
じゃぁなぜ今ここにいるんだろう…
:
「…間もなく福知山、福知山です。綾部、舞鶴、天橋立方面、北近畿タンゴ鉄道は乗り換えです。乗り換えのご案内を致します…」
…少し眠っていたらしい。夢を見た。小さかったころの夢。祖父と二人並んで座って居間のテレビで大相撲を見ている夢だった。
小さかったころは典型的なおじいちゃん子だった。祖父のあぐらのうえに座って頭をなでてもらいながらよく大相撲を見た。取り組みが白熱してくると力士の動きに合わせるように祖父の体が動くのがおもしろかった。時代劇が好きでそれもよく一緒に見た。お仏壇に参るのも祖父を見ながら覚えたことだ。我ながら古風な小学生だったと思う。晴れていれば外に出て畑を耕し、雨が降れば家で陶芸をするのが祖父の毎日の日課だ。悠々自適。とても穏やかないい顔で話すその姿を見ていつも元気になり、こんな顔になれるように歳を重ねたいと思う…
「お急ぎの中申し訳ございません。列車待ち合わせのため上夜久野でしばらく停車致します。」
…ゴトン。
…そんな祖父と私の間で長年ずっと続いていることがある。運動会、部活の大会、そして大学受験…何かがあるときは家を出発するときに必ず、
「よい、よい、よいっ、よい、よい、よいっ、よい、よい、よい、よい、よい、よい、よいっ。」
と言いながら二人で握手をする。おなかの底から出てくる迫力のある声を聞きながら握手をするとたとえ苦手なことでも不安が消え、さぁ行こうという気持ちになってくる。そして満面の笑顔で送り出してくれる。帰ってくると、
「おぉおぉ帰ってきたかい。」
といつも笑顔で迎えてくれる。
…もしかしたら、あの笑顔を見るために帰ろうとしているのかもしれない。
列車は上夜久野駅を出発し、再び走りだした。雨は相変わらず降り続いている。
…4月5日。この日から正式に大学に復学した。あの日の緊張感は一生忘れられないだろう。復学出来た喜びよりも何よりもまず襲って来た不安。今まで一緒に学んで来た友達はもう、ひとつ上の学年になってしまっている。新しい学年になじめるだろうか。友達は出来るだろうか。何より元気で学校に通い続けられるのだろうか。前の日はいろんな友達に電話をした。遅くまで眠れなかった。そして学校へ。杖をつきながら何とかたどり着く。他の人の目にはどんな風に映っているのだろうか。選考別のガイダンスが始まる時間になった。おそるおそる教室に入り、一番後ろの席に着く。100人ぐらい入れば一杯になる教室はほぼ満席でみんなそれぞれ仲のいい友達同士で三々五々集まり座っていた。お互いが長かった春休みの話でもしているのだろう。教室は活気にあふれていた。なんだか場違いで待ち時間がやけに長かった。やがて教室に担当の先生が入ってこられた。教室は相変わらず騒がしい。先生の一喝が入って説明が始まった。少しほっとして手帳を開く。説明が続けられ途中点呼があった。なぜか名前が呼ばれなかった。それだけのことで重い気持ちになる。重い時間が流れて行く。1時間後ようやく説明が終わった。今までで一番長い1時間じゃなかっただろうか。やっと解放された喜びから明るい人たちの声を聞きながら、疲れた体を立ち上がらせてドアの方へ向かう。こんなんでこの先やって行けるんだろうかと思いながら。
…ガチャ。
「あっ。有理ちゃん?」
どこかで聞いたことのある声がした。聞いたことのある声。顔を上げるとなつかしい顔。
「有理ちゃぁ〜ん。」
休学前からの友達で入院中もずっと手紙をくれていた子だった。心配でずっと待っていてくれていたのだ。思わず涙がこぼれた。一年という時間を一気に飛び越えた気がした。
…あれから三カ月。無我夢中で過ごしてきた。今ではあいさつを交わす人も増え、それなりに学校生活にもリズムが出来てきた。ただ、慣れない生活に毎日ずっと緊張していた気がする。神経をはりつめ、いつもビクビクして…少し疲れているのかもしれない…
「本日はJR西日本をご利用いただきましてありがとうございました。間もなく八鹿、八鹿に到着いたします。八鹿を過ぎますと次は江原に到着致します。」
車掌の声が次の駅を告げた。江原まではあと少しだ。いつの間にか雨も止んでいた。車窓の風景も見慣れたものに変わっている。ガソリンスタンド、スーパーマーケット、小学校のグラウンド…
「本日はお急ぎのところ台風のため列車遅れまして大変ご迷惑をおかけいたしました。次は江原、江原です。本日はJR西日本をご利用いただきまして誠にありがとうございました。お忘れ物などなさいませんようにお気をつけください。」
ホームに降りると雨はすっかり止んでいた。雲の間から星が瞬いているのが見える。大きな伸びをひとつする。頬に当たる風が冷たくて気持ちいい。
改札をでて荷物をかつぎ直すとなつかしい道を歩き始めた。高校時代3年間毎日歩いた道だ。ほとんど何も変わっていない。そしてあのかど。あの角を曲がったら…
勢いよく玄関の戸を開けた。
「ただいまぁ!」
「おばちゃーん。こんばんわーっ。」
「まぁ有理ちゃん! よぉ来てくれたねぇ。元気そうになって。髪伸びたなぁ。」
次の日、大阪に帰るのを一日遅らせて蛍を見に行った。たくさん歩くのはしんどいと、いつもは行かない祖父を誘って。昔話をしながらでこぼこしたたんぼ道を通って蛍のいる小さな森に向かった。
「あっ、ほたる!」
たんぼ道を歩いていると、ちょうど目の高さぐらいを飛んでいる最初の蛍を見つけた。ぼうっとしたひかりを放ち、ふわふわ飛んでいる。やがて一つのひかりは二つになり三つになり…森に入るころには無数の蛍が森全体を覆うように飛んでいた。あるものは低く、あるものは高く木の真上まで。木の陰に隠れたり、現れたり。ゆっくり飛んでいたかと思うと急にスーッと速くなったり。光り方も不規則なようでいて、でも森全体の蛍が一定のリズムで共鳴しあっているようにも見えた。小さいころ見た蛍は小川のほとりだったのに、今日見た蛍は森の中だったから雨にも流されなかったのだろう。こんなたくさんの蛍を見たのは生まれて初めてだった。蛍があんなに高く飛ぶものだということを初めて知った。
「すごい。きれいだねぇ」
「ほんとうに、うつくしいなぁ。」
手の届くような近さで飛び回っている蛍にみとれ、ぼうっとした頭を抱えたまま私たちは家路についた。帰り道祖父は、まだ家の近くに蛍がいたころの話をしてくれた。
「ただ今到着の列車は14時55分発…」
「またかえってきんせぇ〜よ。今度はもうちょっとゆっくりしていきんせぇ。」
「うん。」
最初は午前中に帰ろうと思っていたのに、いつの間にかこの時間になってしまった。列車がゆっくりと動き出す。名残惜しそうな母の姿が列車の窓から少しづつ消えてゆく。そして一つ目の踏切。いつものように祖父がお地蔵さんの横で手をふっている。3年前、はじめて親元を離れ、一人暮らしをする私の不安をみてとったのだろう。ここで見送ってくれて以来、一度も絶えたことのない祖父流のエールだ。なつかしい景色が次から次へと現れ、消えてゆく。町並みがだんだん見慣れないものに変わってゆく。明日からはまた大阪での生活が始まる…
…大丈夫だろうか。
一瞬不安が頭をよぎる。
…まぁ無理せんでもえぇがな。
祖父の声が聞こえてくる。蛍を見た帰り道、並んでぼつぼつ歩きながら、祖父が言ってくれた言葉。まぁ無理せんでもえぇがな。なんだか少し元気が出てきた。何とかなりそうな気がしてきた。そう、無理せんでもえぇがな。それに疲れたらまた帰ってくればいい。私には帰る場所があるのだから。
森美賀
プロローグ 心の叫び
西の空がうっすらと紫色に染まる頃、私はふっ、と下を見下ろした。
街がなんだか騒がしい────。
……そうか、今日は十二月二十五日、クリスマスの日だ。
暖かい明かりに色どられた街に、いろんな人があふれている。
サンタの恰好をした売り子やオルゴールのようにくるくる働く喫茶店のウエイトレス。 そして、キャンドルライトをはさんでみつめあっているのは淡い恋人たち。
みんなとても楽しそうに……、そして幸福そうにこの日を生きている。
一生懸命、生きている。
────でも、そこからすーっと視線を上げてみると……
そう、あなたたちのいる所のずーっと上。十三階建てビルの屋上の淵。
そこにはこの世で安らぎを得ることのできなかったおろかな生き物があなたたちを眺めてたたずんでいる。
もし、この世がもう少し意味のある生きやすいところなら、あるいはうつむかずにいれたかもしれない。
最後の一歩。これを踏み越えることができれば、不安も悩みもない、平安の世界が私に訪れるはずなんだ。
さあ、そろそろ私もみんなのところに行ってみようかな。
1 電車の中
ガタン……ガタンガタン……ガタンガタン……ガタン……
単調な車輪のリズムを聞きながら、私は今、電車の中で人込みにもまれている。
いつもと同じ車両、いつもと同じ顔触れ、そして、いつもと同じ鬱屈とした雰囲気。
みな、何がそんなに不満なのだろう、と思うくらいのしかめ面をして、誰と語り合うでもなく、ある人は下をずっとみつめたまま動かず、ある人はウォークマンで音楽を聞き、ある人は新聞に目を走らせている。
私もその中の一人だ。
窓の方を向き、眼前に迫っては過ぎ去っていく早朝の景色を、ただ……、ただぼうっと眺めている。
この静止画が破られるのは、運転手が急ブレーキをかけた時と、停車駅での乗り降りの時のみだ。
ほら、今電車がキキーっというブレーキ音と共に揺れた。それと同時に私達も一斉に大きく前にかたむく。
迷惑そうな顔をするOL。後ろを振り返るサラリーマン。また、そんなことには全く無関心でいる老人など色々だが、そのささやかな活気も、五秒以内にはまたもとの静寂に戻ってしまう。
そして何事もなかったかのように、自分たちの世界に引き籠もってしまうのだ。
その時、彼らの心の中には、共通してある言葉が宿っているに違いない。
「いつものことだ」、という言葉が。
2 改札にて
長い混沌の時間の後、電車はようやく私の目的地のプラットホームにさしかかった。
周りの乗客もここで降りるらしく、荷物を下ろしたり、出口に近づいたりしている。
この時ばかりは皆、さっきの死んだような目とは違い、異様に殺気だった光を放っている。
なぜなら、ここからが競争だからだ。
いかに早く自分が出口をくぐるか。
そのことだけだ、みなの頭の中にあるのは。
男も女も、老いも若きも関係ない、また容赦ない。
ただ自分が早く出られればそれでいいのだ。
それだけのことだ。
車掌のアナウンスと共にドアが開く。そして、それを合図に黒い塊が一斉に流れ出そうとする。
中には、前に立っているにもかかわらずそこで降りずに、降りないから、と状況もわきまえずに中へ入ろうとするから、塊の流れの抵抗にあって、その場でくるくる回っている人がいる。
端から見ると滑稽だが、その人の壁にぶつかった私は、おかげでイヤリングを片方落としてしまった。
もちろん拾う暇もなく、塊の流れと共に電車の外へおし流されてしまった。
こんなことを毎日繰り返しながら、私は自分の勤めている会社へと向かう。
某大手金融会社。いわゆる一流企業。
電車から流れ出て行き着くところは、まず改札だ。
切符切りの人も、また乗客も、いつもの手続きを難無くこなしてゆく。
挨拶をしていく人もいれば無愛想に通り過ぎる人もいるが、やはり極めて無表情に、また機械的、義務的に歩き去っていく。
関所を通り過ぎた私の後ろでは、切符切りの人の声が虚しく響いていた。
「ありがとうございました。」
3 友人
階段を上がる。と、徐々に朝の、さっきよりは少し強めの光が私の顔にさしてくる。
私は思わず目をつぶった。
あまりの生命力に、私の方が驚いてしまったかのようだ。
しばらくすると、一面光の海だった世界は、だんだんぼやけてにじんできて、一つ二つ横に揺れたかと思うと、いつもの景色がほうと現れる。 いつもの横断歩道、いつもの銀杏並木、そしていつもの私の会社。
左右に流れる車の往来を横切って横断歩道を渡ると、そこから向こうは銀杏並木になっている。もうすっかり黄色く色づいて、それどころかすでに落ちてしまっているものもある。
一時期は銀杏の実が落ちて踏まれて何ともいえない匂いを放っていたが、今ではきれいに清掃されてしまって、銀杏の形跡はあまり残っていない。
私はそんな道を少し寂しく思いながら歩いていく。
もう五分くらい歩いたろうか、後ろから聞き慣れた声がさえずり始めた頃には。
彼女は私の唯一の友達。私とは正反対の性格をもっている少女。
いつも明るくてキャピキャピしていて、それでいてあまりイヤミな所がない。友達も広く浅くにたくさんいる。
そんな彼女が何故、こんな私と友達でいてくれるのか、未だに分からない。
「美子、何ぼーっと歩いてんだ」
彼女の一声。
青いセーターにベージュのズボン、その上から青と赤のチェックのマフラーをし、紺色のコートを器用にはおっている彼女は、いかにも快活という感じで、また、肩までのストレートヘアとよくあい、なんともいえない清潔な感じをかもしだしている。
私といえば、白のブラウスに紺のロングスカート、クリーム色のカーディガンに同系色のコートというさえないスタイル。髪も少しパーマがかかっているからうっとうしい。
私はいつも、彼女をこんなふうに比較の対象として見ている。
自分は他人からそうされるのは嫌いなくせに、私は……
とてもうらやましそうに、またくやしそうに彼女を見るのだ。
結局私も汚れたこの世の一部なんだ……
彼女はそれに気づいているのかいないのかは分からないけれど、時々、涼しげな目で私をみつめる。
その視線が注がれて初めて私は、はっと我に返る。
いつもいつも……、その視線の寒さでやっと目が覚めるのだ。
「ご、ごめん柚香。別に何でもないの。行こ……」
私はありったけの愛想を込めて言い訳する。そういう自分の姿もまた、大嫌いなのだが……
しばらくして彼女は私の肩をぽんっとたたいて、そしてまた一つ私に視線を放ってから歩き始めた。
この時の彼女の目には、もうさきほどの寒さは残っていない。
またいつもの明るいコロコロした声で、何やら最近の流行の話を始めている。
彼女はいい人。私の憧れ。……けれど一番怖い人。
4 心臓の半分
しばらく歩くと、ようやく道の左手に私達の会社が見えてきた。
彼女は窓口業務、私の仕事は内事務ということで、彼女とは一階でさよなら。
私は、というと、エレベーターを使って彼の待つ三階、私達の仕事場へ直行だ。
彼、といっても人間ではない。
相手は鳥、セキセイインコのナル君。
事務仕事で何かとストレスがたまりがちな社員の心をなぐませようと、ある社員の提案で連れてこられたのが彼だ。
私は何故かその世話役を与えられた。
初めはあまりのり気ではなかったのに、一緒に過ごす日々を重ねていくうちに、私は自らすすんで彼の所に行くようになった。
今では、彼がいるから毎日会社に行けるのだと言っていい位、私にとっては大切なものとなっている。
彼がいなければ、私の毎日はあまりにも無意味すぎて、とても生きていけそうにない。 彼は私を批判したりしない。どんな私をも受け止めようとしてくれる。
そしてまた、私の価値基準と一向に違わない。
彼は、食べたいときに食べ、寝たいときに寝るという生活をしている。
素直で正直で、汚れていない。
だから私は安心する。
どんなつらいことがあっても、彼の囀りを聞くと元気になる。
がんばらなくては、という気持ちになる。
彼は私の元気の素。
とても頼りになる心の支え。
そして私の心臓の半分。
ところが、その日の昼休み……
5 白昼の出来事
「キャー、書類がめちゃめちゃ、何これ。」
私と一緒にお昼御飯を食べに行った同僚が先に部屋に入ったなり発した第一声。
私もその声に促されて、中へ駆け込んだ。
見ると、書類の位置はバラバラ、中にはひっかき傷のように破かれたところもあり、被害件数は少ないものの、ある人の机の上の書類は完全にダメにされていた。
その机とは、一番奥の……、堂々とした椅子の存在する、鳥籠に一番近いところ。
この場を見てうろたえていた私達に突然、ばたん、という音があびせかけられた。
部屋のドアが開けられたのだった。
そして間もなく、
「何事だ、これは」という声が続けて入ってきた。
その声というのは、男の人、我等が上司、そしてあの最大に被害を受けた机の主。
彼はいらだたしそうにロマンスグレーの髪を手でくしゃくしゃにしながら自分の机の周りを歩き回った。
そして、きっ、と私達の顔をにらみつけて、
「どうしたことかね、誰がやったのかね。」と、押しつぶしたような声で言った。
「いえ、決して私達では……」と同僚が言い訳をしようとしたが、上司の気持ちが鎮まるはずもない、彼は彼女の言葉がひきがねになったかのように突如として大きな声で怒鳴りつけた。
「しかし現に私の書類はこんなになっているではないか!」
その時、一瞬の沈黙の中に、上司の机の下で囀るものの声があった。
その声を聞いて、私の顔はさっ、と血の気がひいた。
鳥だ! ナルだ……
「チチチ、チチ……」
彼は事態の重大さなど知り得るはずもなく、ただ無邪気にチチチ、チチチと歌い続けていた。
上司はさっきのしかめ面に、さらに憎たらしげな形相を加えて自分の机の下に視線を移した。
そして少し気味の悪い笑みをうかべ、彼を片手でつかみあげた。
「お前の仕業か……ん?」
その時の上司の右手の力が私には少し強まったように思えた。
私はとっさに彼が危ないと思った。
その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
「やめてください、課長。」
私は彼を助けたい一心に上司に向かって抗議の念をぶつけていたのだった。
上司はちらっとこちらを見、ききずてならないといった様子で、私の方に歩んできた。 「なんだと、もう一回言ってみろ。」
上司は少し声を殺していたが、その方が余計に恐ろしいものがあった。
嵐の前の静けさというか何というか……
その圧力におされ、私はとうとう次の言葉が言えなかった。彼を救うための一言が言えなかったのだ。
そのまま黙りこんでしまった私に、上司はここぞとばかりの大声で怒りをあらわにして嵐をまきおこした。
最後の審判をくだしたのだ。
「そもそもお前が悪いんだろう、世話役のお前が。見ろ、鳥籠の入口をとめておくピンがはずれかかってるじゃないか。お前がちゃんとしていたらこんなことには……まあいい。この鳥はもともと遊興だったんだからな。仕事場にこんなものを置いておくからこういう事態が起こったんだ。今日でこの鳥はもとの持ち主に返す。今後一切、仕事場には動物を持ち込まないようにしよう。坂上も、もう動物の世話はせんでいいから、今度からは本職の事務の上でこような失敗をしないよう、気を付けてくれたまえ。」
その言葉を言い終わるとすぐに、上司は机の上の書類を片付け始めた。
私は───。
何も考えられないまま、その場につったっていたような、いないような───。
6 安らぎを求めて
その後をどう過ごし、どこに行き、何をしたかははっきり覚えていないが、気づいたら私は、あるビルの屋上にたたずんでいた。
小さい頃、両親に叱られた時や何か嫌なことがあった時によく登って、そこから見える風景を眺めていたあのビルの屋上に。
「またここに来てしまったのか……」
私は仕方無さそうにつぶやいた。
それから向こうの景色を見た。
向こうにはビルの群れの間からお愛想ばかりに海が見えるのだった。
海はいつも輝いていて生命力にあふれ、小さい心の傷を癒すのには充分なほど清いものであった。
しかし、私は二十三年間生きてきたなかで、傷を身に余るほど受けてきたように思う。 もっと、攻撃をかわせるすべを知っていたなら、痛みに耐えられる強さがあったなら、私はこんなにもボロボロにならなくてすんだろうに。
それから私はふっ、と下を見下ろした。
街が何だか騒がしい───。
……そうか、今日は十二月二十五日、クリスマスの日だ。
こんな日を忘れてしまうほど、私の心はゆとりを失っていたのだろうか───。
中学で人の心の汚さを知り、高校、大学と経て、あまりにも堕落しきった世の中を目の当たりにしてきた間に、人の世の生きにくさを感じるようになった。
ある人は陰で他人の悪口を言い、人を裏切り、ある人はギャンブルに溺れ、ある人は好きでもない人と平気で遊んだりする。
自分の快楽の追求にばかり心をはせている世の中。
そんな世の中を信じられなくなった私は、それからというもの全く他人に心を開いたことはなかった。
何事に対しても興味を失い、心から笑うことを忘れ、毎日がただ早く過ぎればいいという日々が続いた。
そんな時に、やっときれいなものに出会えたと思ったのに、やっと心を開けるものと出会えたと思ったのに……
それも今日、他人の手で切られてしまった。
私は自分の心の安らぎを、自分の手で守り通すことができなかったのだ。
私にはもう何もない。
何も、何も残っていない。
あるのは動物肉体であるこの体だけ……
そう思った時、私は自分の体を柵の外に乗り出していた。
右足がビルの端につき、そして左足がついた。
それから私はまっすぐ前を向いた。
かすかに見える海は今日もやはり清らかだ。
この世がもう少しきれいなところなら、もう少し私にとって意味のある、生きやすいところだったなら、あるいはうつむかずにいれたかもしれない、柚香のように……
でも、もうだめだ。私にはこの世の汚れがこたえすぎる。
最後の一歩。
これを踏み越えることができれば不安も悩みも、悲しみも苦しみもない、平安の世界が私に訪れるはずだ。
私はこの世での敗北者。人生の落伍者。だけど、あっちの世界では───、きっと────。
その時、一陣のビル風がびゅっ、と私に襲いかかった。
まるで私を谷底に誘うように。
私の体は小さく一つ揺れ、大きく二つ揺れ、そして後ろに傾いた後、まっすぐビルの谷間に吸い込まれていった。
「これからは、柚香になるんだ───。」
エピローグ
「只今入りましたニュースです。今日、午後五時二十分頃、東京目黒区にあるビルの屋上から若い女性がとび下り、死亡しました 死亡したのは、大手会社に勤める坂上美子さん、二十六才。坂上さんは顔面を地面に直撃し、判別がつかない状態だったのですが、所持品などから坂上さんと断定されました。関係者の話によりますと、坂上さんは普段から悩んでいる様子もなく、これといったトラブルもなかったということで、自殺とはとても信じられないといった具合です。えー、今日は十二月二十五日、クリスマスということで街は華やいでいるのですが、こんな明るい日に自殺というなんとも皮肉な事件となりました。果たして彼女は最後にこの日の喜びを得ることができたのでしょうか……」
加藤美佳
慶子は大阪ミナミの雑踏の中にいた。つい先程まで久しぶりに友人の弥生と清美の3人で飲みに行っていた。心斎橋で2人と別れた後、道頓堀川に映る赤い灯・青い灯を眺めながら、先程話していたことを思い返していた。
「弥生と清美にはすごく迷惑かけてしまったなあ。大学も休みがちになっとったのに、2人のおかげで前期試験の時も助かりました。ほんまにありがとう。」
「夏休み明ける少し前じゃったけーねえ。いろいろ忙しくて大変だったねえ。ただでさえ、レポートやら試験やらで大変な時期だったのに・・・」
「清美ともよく言っとってんけど、慶子ってほんまに真面目やし、強いよなあ。悲しみを忘れようと思って必死やったんやろうけど、私らの前で全く弱いところみせへんもんなあ。いつも明るく振る舞ってて。」
「今はこうして落ち着いてきたけど、四十九日を過ぎるまではすごく情緒不安定やってんでー。父親って私の中ではそんなに存在感がないと思っとってんけど・・・だから何かに熱中しとかな何かの拍子にもろに崩れそうでこわかってん。」
「うん。私から見ててもそれはすごいわかった。もっと私らに甘えてくれていいんじゃけえね。まあ、慶子には和也君がついとるけーね。和也君とはうまくいっとるんじゃろ。」
「うん、まあね。」
11月も半ばに差しかかり、夜になると寒気を感じる季節になっていた。人々の足並みも寒さのためか、やや速かった。
慶子は千日前を通って、人込みを擦り抜けるようにして家路を急ぎつつ、「また、きちんと悩みを打ち明けんと、強がってしまった。なんでこんなに素直じゃないんやろう。ほんまに友達がいのない奴や。」と自分自身を責めていた。本当はただ落ち着きを装っているだけであって、悩みや不安を人一倍抱えていたのである。
慶子の視野には2人の男性がいた。松岡和也は、一浪して現在O大学の経済学部2回生である。高校時代からのボーイフレンドであり、もうつきあってから4年になる。ぶっきら棒で、我が儘ではあるが、なんとなく、母性本能をくすぐるタイプの男である。高校時代は同じ水泳部だったため、休みの日も毎日一緒だった。和也が浪人していたころに2人の危機が1度は訪れたものの、それをなんとか乗り越え、今でも平穏につづいている。しかし、和也は大学でも水泳部に所属しているため、遠征に行ったり、試合に行ったりと忙しいので、最近ではゆっくり会うことができないでいる。ただダラダラと続いているという感じである。
もう1人は石川徹である。慶子の大学のテニスサークルの先輩で、今年26歳になる社会人である。同好会のOB会で今年の春に知り合い、慶子が密かに慕っている。徹も慶子を意識しており、何度も個人的なデートを重ねている。親友の弥生と清美、もちろん和也にもそのことは内緒にしている。それだけ慶子の中には徹のことを大切にしておきたいという意識が働いている。
今2人を比べて二者択一しようという段階ではないし、そういう目線で二人を位置付けていない。いつもこの現状を考えると頭を抱えてしまうのである。
タイプが全く違い、和也は異性を意識しない、まさにボーイフレンド。徹は大人の恋を夢見る慶子のあこがれの対象。和也に対してはやんちゃ坊主をあやすように。秀才タイプの徹には、やや背伸びをしながらついていくような、そんな無意識の色分けが慶子の中にある。
父の葬式以来の2人の慶子に対する接し方も大いに違っていた。和也はお通夜にも出席してくれ、もちろんお悔やみの言葉も言ってくれたのだが、変にジメジメせずにいつも通りの自然体の態度で接してくれた。それが、慶子にとってはありがたく、和也の前では素直に大泣きしてしまったものだった。
一方徹の方は、折にふれ、優しい言葉をかけてくれ、大いに慰めてもくれた。休日には時間を割いてくれ、気が紛れるようにと、ドライブに連れて行ってくれたりした。しかし徹の前ではなぜか泣くまい、泣くまいと思っていた。それだけまだ裸になって飛び込んでいけないよそよそしさを感じていた。しかし落ち込んでいた慶子にとっては、徹の落ちついた大人らしい優しさに慰められた事は確かである。
「11月20日 午前0時になりました。みなさん、お元気ですか。」
いつものDJの声がスピーカーから流れてきた。慶子は引き出しに大事にしまっておいた栞を取り出し、もう1度、読み返してみた。
「常寂光寺・宝篋院の紅葉、直指庵の想い出草に人生を見た、感激!! 1980.11.20」
父の特徴のある右上がりの文字は何度見てもなつかしく思えた。慶子はベッドに入る前にそれを手帳に挟んで、リュックの中に入れた。
この栞は、父の部屋からたまたま見つけたものである。四十九日を過ぎたころだったろうか。父に借りていた「大地の子」(山崎豊子著)がやっと読み終わったため、別に返す必要もないのだが……と思いつつ、父の部屋に戻しに行ったときのことである。
父の部屋は死後そのままにしてあり、今も本で埋め尽くされている。団塊の世代であった父の本棚には、当時の学生に人気があったと思われる高橋和巳・小田実・柴田翔など今の学生が見向きもしない本が整然と並んでいる。父がどんな学生時代を過ごし、何に悩みそして、母や私をおもいやりながら仕事に励み、若くして死んでいったのかを父が愛した一冊一冊の本が語ってくれているような気がした。そういえば、母が「お父さんは京都が好きで、特に紅葉のシーズンにはよく連れて行ってもらったんやよ。」と言っていたように、父は京都が好きで、よく休日に一人ででも京都に足を運んでいた。こうして改めて見てみると、京都に関する本も随分たくさんある。その中に「京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ」(松原好之著)が目に止まった。とても長いタイトルであり、ぼろぼろになっていたからである。見出しを読んでみると、京大受験に失敗し、京都で浪人生活を送る受験生の甘酸っぱい青春ものであった。内容よりも、その本に栞代わりにしていた「常寂光寺・宝篋院の紅葉、直指庵の想い出草に人生を見た、感激!! 1980.11.20」に興味をもった。慶子はその栞をそっと抜き取って、今までずっと大切に引き出しにしまっておいたのである。考えてみれば、生前の父のことを何も理解していなかったように思う。だから、父の足跡を辿るといえば大袈裟であるが、父がこんなに感激した場所へ自分も行ってみたいと思っていたのである。
11月20日、澄み渡ったきれいな青空が広がっていた。慶子は今日は学校をさぼってしまった。しかし、家を出るとき、母はいつものように笑顔で送り出してくれた。
「行ってらっしゃい、和也君とのんびりと楽しんんでおいで。それから和也君に、また家に遊びにおいでってお母さんが言ってたって伝えといてや。」
「はい、はい。お母さんが寂しがってるって言っといたるわ。」
慶子は母に和也と一緒に行くと言ってしまったのである。生前、父のことをあれだけ煙たがっていたので、なんとなく恥ずかしくて本当のことが言えなかったのである。それに、実際に、和也を誘ってみようと思ったのも事実である。しかし、どうせ寺廻りなんて嫌と言われるに決まっているし、今回はなんとなく一人で行ってみたかったのである。
阪急電車に揺られながら、家からもってきた京都のマップで今日足を運ぶところの位置を確認していた。家には京都のガイドブックもたくさんあったのだが、変に知識をもっておきたくなかったので、あえて見るのは避けていた。慶子は今迄に数回京都に行ったことがある。しかし、家族や友人に連れて行ってもらったという受け身の立場であったため、あまり京都を詳しくは知らない。
電車の中では、家族連れやカップル、仲の良さそうな夫婦などで実ににぎやかであった。
40分程度乗っていただろうか。慶子は嵐山駅に降り立った。渡月橋を渡る風は心地よく、下を流れる桂川にもボートを浮かべる若いカップルでいっぱいだった。
慶子はタレントショップの建ち並ぶ一郭でレンタサイクルを借りてペダルを踏んだ。風が少し冷たくも感じられたが、すがすがしく気持ちが良かった。
慶子は京福電鉄「嵐山駅」を右に見て、両側にみやげ店の並び道をのんびりとこいでいると、若い女の子2人組が同じくのんびりとレンタサイクルを走らせており、慶子が2人の後を追うような形であった。
「もうここ左に曲がったら天竜寺やって。」
「ほんまやー。もっと遠いと思っとったのにやっぱりチャリやとはやいなあ。」と2人の声が聞こえてきた。慶子も回遊式の庭園で名高い天竜寺に立ち寄りたかったが、今日は前を通るだけにした。一刻も早く目的地へ行きたかったからである。
野宮神社の方へ近づくにつれ、先程までの繁華街なみに賑わう喧騒が嘘のようにかき消され、目の前の景色は整然と広がる竹林に変わった。竹のしなやかさが雑踏を呼吸してしまうのであろうか。あるいは、グループ連れもこの見事な竹林の前ではおしゃべりを慎むのであろうか。
そんな思いにふけりながら竹林を後にすると、目の前をトロッコ列車が通過していった。
「お母ちゃん、後でうちらもこれ乗るんやで。」
「窓ガラスなくて寒そうやなあ。」
「今日はまだ暖かいから大丈夫やよ。それに窓ガラスのある車両もあるから。」
通過を待っているあいだ、母と祖母くらいの親子が大きな声で話していた。
赤い車体に黄と黒のコントラストのデザインがかわいらしかった。
線路を渡り、山道をのんびりとペダルを踏んでいくと、やっと、常寂光寺の表門に到着した。
藁葺きの仁王門をくぐって急な階段を上ると本堂まで、覆うばかりに茂るカエデに包まれている。小倉山を背に並ぶ伽藍の高みには均整のとれた美しい姿の多宝塔が建っており、まるで外界との時間の流れに隔たりさえあるような雰囲気が漂っている。
「わあ、すごい。」
「きれいやねえ。」
こんな声があちこちから聞こえてくる。仁王門から上ってきた石段を振り返りながら、みんな口々に言っていた。慶子も同じように振り返ってみると、
「わあ。」と思わず声を出してしまう程見事な紅葉であった。まるでローソクが最後の灯を懸命に誇示するかのように、枯木になる前の「命ある証し」を紅の絵巻として競い合っているような気がした。
慶子はカメラを取り出そうとおもい、リュックを降ろし、チャックを開けかけたが、思いとどまり、もう1度背負いなおした。そして瞬きをするのも惜しむかのように、しばらくじっと赤や黄色の灯を見つめていた。
惜しみながらも、常寂光寺を後にすると、周辺のお店では若い女性で賑わっていた。
「なあ、これむっちゃかわいくない?」と竹で作られた一輪挿しを手にしているロングコートを来た女性の姿が目に映った。
この近辺は景観を損なわないようにと、素朴で洒落た民芸品・茶房が多いようである。慶子は手作りの土鈴や嵯峨野人形が並ぶお店で、かわいい竹細工の人形を母への土産に、そして、隣の信楽焼のお店ではおしゃれなコーヒーカップを自分のために買った。ついでに、お店の人に次にいく宝篋院への行き方を尋ねてみた。
「二尊院の前を通って清涼寺方面に行かれたらおわかりになると思います。……」
「そうですかあ、わかりました。ありがとう。」
「おおきに。」
とても感じの良いおばさんであった。京都の穏やかなのんびりとした話し方が今の慶子には心地よく感じられた。
途中、腹ごしらえをしておこうと思ったのだが、洒落た店構えの食事処はどこもカップルやグループ連れでいっぱいで何となく入りにくそうだった。おそば屋さんでにしんそばを注文した。日頃運動不足のせいか、もうすでに足が少し疲れていた。
清涼寺(嵯峨野釈迦堂)の広い境内を抜け、宝篋院に到着した。
ここはそれ程ポピュラーでないため、訪れる人も多くはない。しかし、参道を覆うもみじが真っ赤に燃え盛っている様はまさに圧巻である。慶子が見取れて立ち尽くしていると、
「きれいやねえ。いろんな種類があるんやねえ。」と、見知らぬおばさんに話しかけられた。
確かにいろんな種類のもみじがあるらしく赤・黄が整然とまるで美しいモデルが美を競い合うかのような百花絢爛ぶりである。無言の中での父の絶賛の意図が手に取るように慶子には解る気がした。
こう紅葉ばかり見せつけられると、晩秋の寂寥感と一人旅の孤独感がどこかに消え、自然の美しさ、生けるものの生命感といったものが慶子の心に迫ってくる。
このこじんまりとした寺はとても心が落ち着いてなかなか去りがたかったが、次の直指庵に向かうことにした。
北に山を臨んで、清閑な畑の中の道をすすんでいくと、直指庵・大覚寺の道しるべにあたった。この界隈は人影もさほどなく、嵯峨野らしさが残っているように感じられた。
大覚寺よりもさらに北へ進むと、ぽつんぽつんと竹細工や和紙などの店が軒を出す静かな小道が続いている。そして、竹林とカエデの木々に囲まれるようにして藁葺きの隠れ寺といった佇まいの直指庵が姿をあらわした。
慶子は入口でもらったばかりの説明書を読んでみた。
「独照性円が絡んだ小庵を江戸末期に近衛家老女津崎村岡が尼寺として再興。いまや悩める現代人の『駆込寺』として知られている。訪れる人々がそれぞれの想いを綴ったノート『想い出草』はあまりにも有名」としるされていた。
古い民家を思わせる本堂は小さくて質素だが、確かに女性が圧倒的に多い。
慶子はまず、縁側に座って中庭を眺めた。竹を背にして幾つかの木が植えてある。嵯峨野はどこを訪れても竹やぶがなくならない場所である。左手をみるとカエデが毎年秋の到来を待つように茂っている。まるで竹の青ともみじの紅とが相互の色合いを強調しあっているかのようである。直指庵は、竹やぶとカエデの丁度接点にあるのである。竹は、春夏秋冬、いつも変わらずしなやかでその姿は青々としている。しかし、カエデは移り行く季節ごとに、その姿を青くもし、紅くもする。つまり竹は、永久不変、変わらぬ来世を表し、カエデは常に移ろう千変万化、現世を表しているのではないか。現世を疎んた人々が、この来世と現世の接点である庵に逃げ込み、また現世に戻っていったのではないか。慶子はそんな考えにふけっていた。
数人のグループの話し声で我に返った。
慶子も早速、その心の痛みが綴られているという『想い出草』に目を通してみることにした。数冊有るうちの既に全頁ぎっしりと書きこまれた古い一冊を手に取ってみた。古いといっても最初の頁がつい最近の日付であった。いかに駆込寺としてここを訪れる人が多いかを物語っている。
「あの人が私のもとから去っていった。あまりにも突然に。どうしたらいいのか解らない。自殺をするつもりで途中ここに立ち寄った。静かなこの境内で自分を見つめ直し、気持ちを整理してみた。うまく言えないけど、自殺を考えた自分がバカらしく思えてきた。
女を磨いてたくましく生きてみよう。
明日東京にかえって出直します。ありがとうございました。K.Y」
「不倫しています。だけど主人も家族も捨てたくない。いやな私……」
生々しくかつ現実的な悩みが連綿とぎっしり綴られていた。ミーハー的な落書きなど全くなく、一つ一つが真摯で身につまされるものばかりであった。記念に書くのではなく、ここに来て悩みを嘘いつわりなく告白することにより、少しは気持ちがやわらぎ、何の解決にならなくても自己を取り戻すことになるのであろうか、と慶子は思った。
隣りで同じようにノートを見ていた男性が一緒に見ていた奥さんらしき人に、「駆け込んで来た人も、これに自分の想いを書くだけやのうて、他の人のんも見て、自分よりも悩んでいる人がいっぱいいてるんやなあ、と思うんかもしれんなあ。」と言っていた。
慶子は手帳に挟んでおいた栞を取り出した。
「常寂光寺・宝篋院の紅葉、直指庵の想い出草に人生を見た、感激!! 1980.11.20」
慶子は今日、父が感激したというこの3つの寺を見てきた。ロマンチストであった父のありし日のことを思うと涙がこみあげてきた。
『想い出草』に書き込んでいる人がいなくなった頃を見計らって、慶子も綴ることにした。
「常寂光寺・宝篋院の紅葉、直指庵の想い出草に人生を見た、感激!!」
今日、17年前にこう記した亡き父と同じ気持ちになることができました。これからは母を助け、力いっぱい生きていこうと思います。また母を連れて是非来たいです。 1987.11.20
いつの間にか師走に入り、街はボーナスセール、クリスマスセール、忘年会と慌ただしかった。慶子たちも、大学の3回生として、そろそろ就職という避けては通れないシーズンを迎えなければならない。
弥生や清美とは相変わらず、食事をしたりするが、最近は以前のようなとりとめのない話よりも、就職や将来の悩みを話す方が多くなった。
和也は、本質的には変わらないものの、「最近きれいになったな」など、これまでに口にすることもなかったことを慶子に言うようになった。和也が大人になったのか、それとも慶子を女として意識してきたのかは解らない。
慶子は最近、徹との別れ文句を頭によぎらせることが多くなってきていた。
堀口奈月
昔からの友人と話すときって、なんで言葉使いまで昔に戻ってしまうんやろ・・・・・受話器から聞こえてくる親友の声を聞きながら、御木はぼんやりとそんなことを考えていた。
電話の相手は水谷という。御木と水谷は、中学二年の時知り合い、今に到るまでの十年間ずっとつるんでいる親友同士である。大学こそ分かれ、就職もちがうところへしたが、手紙や電話が二週間も途切れることはまずない。そして、一旦電話が鳴れば、最低でも二時間は受話器を握ることになるのである。それは、中学時代からの、ふたりの常識であった。
「聞いてる!?御木! またボーっとしててんやろ」
水谷の「聞いてる!?」は、本日五回目である。ずばりいいあてられた御木は、大急ぎで宙にさまよいかけた思考を会話に引き戻した。
「なんでじゃ。ちゃんと聞いとるって。関口とけんかしてんやろ」
深くは聞くなよ、と半ば祈るように言うのも五回目である。
「そーやねん。もー、聞いたってくれ。ただぁ、うちは見合いするゆうただけやで。そしたら・・・・」
「何ぃ!?」
続けようとする水谷を、御木の声が遮った。思考は完全に受話器にへばりついた。
「ええっ! 見合いすんの?水谷が? 男と!?」
「何や、そのしっつれいな驚き方はあ! うちにかて見合い話の一つや二つ来るわ。それとも、おまえの顔は見合える顔ちゃう、とでも言いたいんか? ああ!?」
「いや、それも言いたいけど、あ、いや、ええっと・・・・」
驚きから、すぐには立ち直れず、意味のない感動詞をならべる御木に、
「いつまでやっとんじゃ。ぼけ」
水谷の冷たい声がとんでくる。
「だって。ええっ、なんでえさ。関口は?」
そもそも、その話をしていたのではないのか? 水谷はため息を吐いた。関口とは、ふたりと同じ高校出身の男である。御木は同じクラスにならなかったので知り合いではなかったが、偶然水谷と同じ会社へ入社した彼は、半年前から水谷の彼氏をしている。
「だーかーらー、関口に、見合いするゆうたら、あいつ、『そんなんあかん』とかゆうて急に怒り出しよってんて。うちもだから腹立って『おまえにそんなん言われる筋合いない』ゆうたら、あいつ、店出ていきよってんで。トンカツ定食頼んだ後やったのに。ふつう一人で二人前も食えるかっちゅうねん。まあ、食うてんけどよ。結局。――どない思うよ!?」
「どない思うゆわれても・・・・」
今求められているのは、水谷が二食分食べたことに対する感想か、それとも関口の行動に対する感想だろうか。御木は混乱していた。
「だいたい、半年ぐらいしか付き合ってへんのに何様のつもりやねん。うちが見合いしようがなにしようが関係あらへんやんけ」
(ああ、関口の行動の方か・・・・)
完全に頭がついていっていない御木に、気づいていないのか、水谷は、さらに言葉をつなぐ。酔っているかのような話し方だが、それはいつものことである。
「あいつ、なんて言うた思う? 『そしたら、俺はお前の何や?』やで。彼氏に決まっとるやないけ。あいつ半年前、うちに、お前の彼氏になりたい、とかゆうたくせに自分でゆうたこともう忘れとるんとちゃうか」
(せやった。ほんで水谷の返事が、『なりたきゃ、勝手になれよ』やったっけ。すぐ別れる思てたけど、もう半年にもなんねんなあ。それにしても、彼はいったい水谷のどこに惚れてんやろ。だまされとるんちゃうか。いや、騙されてるのは水谷の方かも――って、今はそんな話ちゃう!)
ようやく頭が会話に戻ってきた御木は、本日六回目の「聞いてる!?」が来る前にあわてて口を開いた。
「でも、ふつう彼氏おったら見合いせんやろ。」
「何でよ」
「何でて。だって、付き合ってんねんやろ。関口と」
関口が怒るのも無理はない、という言外の言葉は、しかし当然のごとく、水谷にとって可聴外の言葉でしかなかった。
「はあ? 彼氏と結婚相手は別やんけ。関口は彼氏やねんから関係あらへんやん」
「・・・・」
御木は、会ったこともない関口のために、思わず「アーメン」とつぶやいた。
朝からよく晴れた土曜日、公園には暇をもてあました人間が数多く集っていた。比較的大きなこの公園の入り口近く「噴水広場」を見渡せるベンチに、御木は、もう一時間近く座っている。いつもなら、こんな機会にはかかさずぼんやりする御木だが、今日は、ずっと「人間ウォッチング」をしていた。これは、高校時代の一時期、御木達が毎日のようにやっていた遊びで、用も無いのに、いや、用が無いからこそ、「人間」を「ウォッチング」する、というものだ。実にくだらないが、時には「人間」の興味深い生態が、見られることも無いではない。噴水の向こう側で、先ほどから女に声を掛けはじめたダークグレーのスーツ姿を観察しながら、隠しもせずに大きなあくびをする。
「オイオイ、二時ゆうたんちゃうんかよ」
既に二時四十五分を指している時計見て、ちいさくつぶやいた。
「十一月十日土曜日笠山公園噴水前に二時」見合いの場所を聞きだしたとき、彼女は、一瞬水谷がからかっているのだと思った。見合いといえば、普通、日本庭園が横にあるような和室で、ししおどしがカコーンと鳴って、「後は、若い人同士、ねっ、」とか何とか親戚の世話好きおばさんが言って、気まずくなった男が、「じゃあ、庭へでも出てみましょうか」とか「やあ、こんなに紅葉が綺麗だ、和華さんも早くいらしゃい」とか・・・・
「・・・・ゆーやつちゃうのお?」
「ぶっ、くっせー。その『やあ』てなんや、やあ、て」
和華さん、もとい水谷は冷たく「いつの時代じゃ、そりゃ」と続けた。そして、十日の見合いは、そんな格式ばったものではなく、近所のおばさんが持ってきた写真の中に「合格圏」顔がいたので、会ってみることにしただけだ、と説明した。
(・・・・そんなんでも見合いって言うんやろか)御木がやはり結局、ぼんやり考えていると三時を知らせる鐘が鳴った。
背中に当たる太陽の陽が心地よい。再び大あくびをして目を開いた時、御木は、公園の入り口からこちらに向かって真っ直ぐ歩いてくる水谷と眼があった。
(げっ、おこってる眼や)
「御木! なにしてんの!」
条件反射のように御木は、すばやく立ち上がった。座っていては危険なのである。
「なにしてんの?、それが久しぶりに会った友達への言葉? もっとこう、感動がこぼれ落ちるような挨拶が・・・・」
「なにしてんのか、聞・い・て・ん・の。聞こえんかったんかあ、友の言葉が。んんっ!?」
御木のかなり無理のある誤魔化しは、やはりあっさりと一蹴されてしまった。水谷は、両手を突き出して御木の頬をつねる真似をしたが、思い直して、やはり本当につねった。
「痛てえ! 許せ、水谷」
もがきながら両手を合わせて拝むジェスチャーをする御木を、上目使いににらみながら水谷は手を離した。
「見合い、見物しにきたんやろ」
頬をさすっていた御木は、わざとらしく片方の口端をつりあげて、さらにわざとらしく、こう言った。
「あら、見合いを見にきたんじゃないわ。相手の顔をみにきたのよ」
「一緒じゃ、ぼけ」
言葉と同時に頭をはたく。御木がそれをよけることが不可能なのは、この十年で実証済みである。
「まあええやん。相手は? おる? もう帰ったんちゃうか」
髪を直しながら御木が言うと、再び掌が側頭部にヒットした。
「なんでじゃ。まだ五分もなってないやんけ」
「へっ? なんで? 二時やろ。待ち合わせ。今、三時やで」
「・・・・うせやん。二時ゆうた? 三時やで」
それでも、御木の真剣な表情を見ると、慌てて鞄から手帳を取り出した。ページを繰る手がピタリと止まった。全身の血が、地面に向かって落ちていく音が聞こえた。
「二時や・・・・・・」
バシュッ
突如あがった盛大な音にふたりはビクウッと肩をゆらして振り返った。噴水が大きく伸び上がったのだ。ちょっとまばたきをしてから水谷の方に視線を戻した御木は、水谷がまだ噴水をみているのに気づいた。
「水谷?」
「おった・・・・」
「え・・・・」
「おった。おったわ。相手。あれや。絶対。絶対そうや」
「どれよ!」
水谷の視線をたどって、もう一度そちらをを見遣った御木は、すぐに嫌な予感に顔をしかめた。ダークグレーのスーツを見つめたまま、
「まさか、あの、ベンチで今目細めてこっち見てる奴・・・・?」
とおそるおそる聞いてみる。
「せや」
同じくその姿を見つめたまま答えた水谷は、次の瞬間、はっと振り返った。
「御木。ぜっったい邪魔すんなよ。余計なことも言うな。あっ、相手見てんからもうええやろ。帰れ、なっ。んじゃ」
一気にこれだけ言うと、もうずんずんと歩き出している。
「ちょっとまてこら」
御木は、水谷の腕を引っ掴んだ。しかし、
「なによっ!?」
振り向いた水谷の顔を見て、すぐに離してしまった。
(女の顔になっとる!)
口に出していれば間違いなくどつきがはいっていたであろう。が、今は、じゃれているひまはない。
「水谷、ちょっと聞け。やめとけ。あいつは。あいつさっき・・・・」
「水谷さん!?」
御木の声をさえぎるように、いや、実際にさえぎって、低い声がとんできた。こちらへ向かって歩いてくるのは、やはりダークグレーのスーツ。先ほどのナンパ男である。
(邪魔すんなよ)
水谷の視線が御木に釘をさす。言葉に出さなかったが、御木にはしっかりとそう聞こえた。
「よかった。水谷さんですよね。はじめまして。久遠です。もう、来られないのかと思っていました」
にっこりと微笑む久遠氏を間近でみて、御木は、
(ヒエエー)
と心の中で叫んでいた。眉間にしわの似合いそうな渋い顔だちは水谷の好みそのままではないか。
しかし、さらなる驚きは、直後にやってきた。右手を口許にあてて首をかしげるようにした水谷が、聞いたことの無いような声で言葉を紡いだのだ。
「ごめんなさいっ。私・・・・時間を勘違いしちゃってて。一時間も遅れるなんて・・・・」
(ナニーッ)
一瞬にして女の顔どころか、女のしぐさと女の言葉使いで完全武装した水谷を、御木は、地球外生物をみるような眼で見詰めた。
(化けてる・・・・すごい。わたしも普段は言葉使い丁寧やけど、そういう次元の問題ちゃうわ。私の敬語なんかあってなきがごとし、オタマジャクシの後ろ足みたいなもんやわ。所詮私はまだオタマジャクシや・・・・)
「うちがカエルや言いたいんかいっ」
水谷が聞いたらそう言って怒ること請け合いだが、もちろん御木は黙っていた。
「こちらは?」
だらしなく口を開けてぼーっとしていた御木に、急に久遠氏が、いぶかしげな眼差しを向けた。
「げっ、あ、つれです。水谷の。はじめまして」
うろたえて思わず挨拶などしてしまったが、すぐにそんな場合ではないと気がついた。
(あかん、このままほっといたら、絶対水谷は騙されるわ。なにが悪いって、この男の顔。これはあかんわ。俳優の――えーっと何て名前やったっけ。こないだテレビで出た時わざわざ水谷が電話してきょった某いう奴系の顔やんけ。さっさと連れて帰ったらんな。どうしよ。今ここでナンパのことバラそか。いやいや、久遠の前でバラしたら、否定されておしまい、やろな。水谷連れて帰るどころか、帰らされんのは私やんけ。よし、ここはひとまず・・・・)
「さあ、帰ろう! 水谷。すぐ帰ろう」
・・・・あまりにも唐突な言い草である。
そして、返事は、「はあ?」では無かった。「ざけんな、ぼけ」というのでもない。水谷の顔をした地球外生物は、手を伸ばして御木の袖口を掴み、甘えるような声で、言ったのだ。
「ええっ御木さん、もう帰っちゃうのぉ? せっかく久しぶりに会ったのにい・・・・」
(・・・・おいおい。眼がそうは言ってねえよ。おまけに、わたしだけ帰るなんて誰もゆうてへんやんけ)
御木はちょっとたじろいだが、ここで負けるわけにはいかない。めずらしくすぐに考えがまとまった。
「それもそうね。水谷さんがまだいるなら、私ももうちょっと一緒にいましょう」
久遠の提案で、三人は池のある方へ坂道を登り始めた。昼間から公園を散歩する「いい年こいた若者達」の姿は、あまりに健康的で、明らかに異様だった。
三人という時点で、既にどこをどう見ても見合いでは無くなっている。あえて言うなら「沈黙」だけが、見合いらしさをとどめているだろうか。先ほどから誰も口をきいていない。
秋の冴えた空気が、三人の間にその存在を主張しはじめたそのとき、
「ちょお、待てよ、水谷」
ついに御木の小声によって、「沈黙」までもが去っていった。御木は、先ほどからずっと、ふたりの距離が久遠から離れる機会を伺っていたのだ。
水谷はそっと彼女に並び、「何よ」と、眼で聞いた。
「さっきのつづき」
水谷は、眉間にしわをつくった。どれのつづきやねん、と言う意味だ。
「あいつはあかん、ゆう話。よう聞け。あいつ水谷が来るちょっと前ナンパしとったんや。 こんなとこで。普通するか? 絶対おかしいって。」
今しかない、と思った御木は、顔を近づけて一気にまくし立てた。水谷も思わず声を発する。
「はあ!?なにゆうとんねん。こんなとこでナンパする奴おるか。しかも久遠さんが? んなあほな。絶対無いけど、もししてたとしても、あの顔で振られる訳無いやん。・・・・あの顔やで!?」
「いや、顔の問題ちゃうて。おかしいやんどう考えても。挙動不審やって」
「考えすぎや」
「お前は考えなさすぎや。私が嘘つくわけないやろが」
「なんなんよ。どうせいっちゅうの」
「あいつはやめとけ」
「なんでよ」
「だーかーらー・・・・」
御木が、げんなりと肩を落としたのと、今まで黙々と先頭を歩いていた久遠が、急に立ち止まったのは同時だった。
(げっ、聞こえたかな?)
御木はちょっと身構えた。が、そういう訳ではないようだ。
「あなたは、」と落ち着いた声でいいつつ久遠が振り返ると、すばやく顔を仮面に戻した水谷が即座に「はい」と返事を返した。
キーキーキーとすぐ近くで金切り声の鳥が鳴き、羽音がして静かになった。
「杉岡武史を知っていますか」
「は?」
突然の質問に、いったいどこからその名前が? という面持で言葉に詰まった水谷の横で、一拍おいて御木が「ああっ!」と感嘆したような声をあげた。さっき名前を思い出せなかった俳優某の名だったからだ。
だまれ、というように御木を一瞥をしてから水谷が口を開きかけると、
「わたしは、彼に似ているといわれる」
眉根を寄せ、唐突に久遠は宣言した。
「そ・・・そうですね。そういえば」
「本当にそう思いますか」
「えっ。ええ。まあ」
何なのだ? 思わず水谷は、友と顔を見合わせた。
「僕はそうは思わない」
再び久遠は宣言した。否、別に宣言している訳ではないのだろうが、そういう口調なのだ。それにしても、いったい何なんだろう。ふたりは同じ表情で久遠をみつめる。頭のなかではぐるぐると疑問が渦巻いている。
(似てる? 似てない? どない答えて欲しいんや。この人。それよりこれが見合いの話題かい。他にもっと何かあるやろが)
「そう、」
(確かに杉岡系の顔やけど、似てるっちゅうのもなあ。イマヲトキメク人気俳優と比べるのんが、そもそも間違ごうとるやろ)
「僕は、」
(当たり前やけど、そら杉岡に似てる、ゆうほども――)
「僕の方がずっとカッコイイと思うのです」
「!!」
TRRRRR TRRRRR TRR
「もしもし? 水谷?」
「おお。御木」
「なんや。機嫌悪いな。どないしたんよ」
「せやろぉ。もー、聞いたってくれ。今日突然、関口の奴見合いするとか言いだっしょってんで。なに考えとんねやろ。普通、女おんのに見合いする? なめとんちゃうけ。『絶対ゆるさん』ゆうたら、まあ、やめるとはゆうとったけど・・・・」
「ちょとまてこら」
「何よ」
「お前この前『関口は彼氏やから関係無い』ゆうて見合いしたんとちゃうんかい」
「・・・・関口と同じことゆうな。御木。うちは、こないだの見合いで思ってん。久遠のあの自意識過剰に「超」がつく性格。あれはいくら顔が良くたって我慢ならん。そうか、――人間、顔とちゃうねんなあ、って」
「・・・・そりゃ勉強になってよかったな。しかもというか、だからというかナンパ男やったしな。で?」
「で? ああ、関口か。だーかーらー、奴を夫候補に昇格さしたっちゅうこと」
「おいおい、その流れはあまりにも関口に失礼やろ」
「なんでよ。だって関口の顔が気に入らんかってんもん。いままでは。でもこないだので考え変わった。関口と結婚してもええなって。だから関口は見合いなんかしたらあかんのや」
御木は、その言葉に、はじめて水谷の関口への愛を見た気がした。――作戦は大成功したのだ。
関口に電話をかけ、見合いする、と言うようにと画策したのは御木である。吉と出るか凶と出るか、はっきりいってどっちでもええか、とも思っていたが、結果はみえていた。十年の付き合いは、伊達ではないのだ。
「聞いてる!?」
水谷の声がとんでくる。
「はいはい、聞いとるって」
関口の電話番号を調べるために引っ張り出してきたままになっていた卒業アルバムを、ペラペラとめくりながら、御木は大あくびをした。
その日、長電話の最高記録は6時間半に塗り替えられた。
小野あゆみ
青空がナイフで切り裂かれ、扉の奥で生木の裂ける音がして、街中のガラスが一瞬に割れだし、畳の上に降ってきた。
「夢か……」
哲太は左目をこすりながらテレビの上に置いてある時計をにらみつける。「飲みすぎたかな。」と一言呟き舌打ちをする。「だるいな。」「頭痛いな。」と独り言を連発。幻想と現実の間に立たされ、どちらを信じるべきか解からない状態がしばらく続いた後、午後1時43分を確認し、畳の上を確認する。勿論畳の上にはガラスの破片など無いのだがつい見回してしまっていた。最近目覚めの良い朝はなく、いつも寝起きの悪い哲太。今日一日何をしようか考え中である。
"ピピッピピッピピッ"
駅のホームで電車を待つ森川のポケベルが鳴った。右手で鞄の中の教科書をかきわけ、送られてきたメッセージを見る。"ヒマダーミヤゾノ"宮園哲太という同じバイト先で働く茶髪の男であった。森川と同じ二十歳でありながらも"宮園君ってオヤジくさい"なんて言われている。しかし、落ち着いていて大人っぽい部分があり、生まれた時から40歳だったかの様に、考え方、人生の生き方をしっかり話す大人の魅力兼ね備えている。が、階段を数段登るとすぐバテるという欠点もある。そんな老人じみた宮園の諦観も含め、最近森川が気になっている人物である。"宮園君や"思いもよらぬ人物からのベルに森川の心は飛び跳ねる。
ベルを見ると即座にホームの中央の立ち食いそば屋の隣の公衆電話で宮園の携帯電話に電話をかける。普段ベルが入っても自分が面倒くさいと電話しない森川だが、今回ばかりは別である。知らず知らずのうちに電話している。
"プルルルル、プルルルルル。"
「はい、高寺です。」
「あれ? 宮園君?」
「何なよー間違えてるよー。高寺ですよー。」
「ごめんなさい。間違えました。スミマセン。」
宮園の電話番号を再確認し、電話をかけ直す。意中の宮園からの突然のベルに気が動転していたのか電話番号を間違えた自分に照れて、笑ってしまう。
「…の6・5・9・4・0。」
ーつーつの数字をゆっくり確実に。今度は大丈夫と一人気合い十分である。
"プルルルル、プルルルル"
「はい。」
「もしもし、宮園君?」
「誰?」
「森川です。ベル打ってくれた?」
「あー打ったで。暇やったんよ。
「森川ちゃん今何してんの?」
「私、今学校から帰る途中やねん。宮園君何してるん?」
「俺か? 俺さっき起きてボーッとしてた。」
「そしたらご飯まだ食べてなかったりする?」
「うん、まだ食ってないけど。」
「私、後30分くらいで駅に着くんやけど……一緒にご飯食べに行こよ。」
「ええよ。俺どうしたらええの?」
「だいたい2時30分頃に駅に着くから駅まで迎えにきてくれる?」
「おーベンツでお迎えにあがるわ。」
勿論ベンツなど持っているはずもなく、中古のトヨタ車でお迎えにあがるのだが宮園はその車をベンツと呼んでいる。"自称ベンツ"格好悪いものである。二人で会う約束をして気分の良い森川は電話かけ間違えの罪も忘れ、いつもの前から2両目の車両に乗り、左から3番目の吊革を右手に持ち、左手で小説を読んでるふりをしながら、脳のコンピューターはどこへ何を食べに行くかを検討中である。眼鏡をかけた色白の駅員に定期を見せ、改札を出ると、洒落たブルーの帽子が目に映った。裸足にサンダルの宮園である。
「ごめん、待った?」
「別に。どこ行く? 俺腹ペコやわ。」
森川は電車の中で考えに考えた言葉を自信満々に口にした。
「中華食べにいこう。」
「森川ちゃんいいとこ突くな。中華か、いいね。中華いいね。」
とりあえず二人の意見は一致し、宮園のベンツに乗り、店へと車を走らせる。
「俺おいしい中華の店知ってるんよ。連れてったるわ。」
森川は宮園の言った言葉に、ちっぽけな男らしさを感じた。表野畳店を左に曲がると小さな店が一軒ある。
"餃子のおいしい店・民民"
ぼろい店だが宮園イチ押しの店である。
「何か怪しい店やな?」
「怪しないって。言っとくけどここの牛肉レタス包みと餃子食ったら毎日通うようになるで。」
「嘘? 食べる食べる。」
森川の激しい表情の変化を楽しみながら駐車場に車を止めようとしたその時、三文字の言葉が目に入った。
定・休・日
「うわーっ。いけてなーい。」
店の定休日など全く考えていなかった宮園は言葉が出ない。ちっぽけな男らしさもこれで帳消しである。
空腹の二人にとってこの状況は痛かった。次の店をあれこれ探すのは面倒くさいので結局最寄りのケンタッキーに行くことにした。腹は満足したが定休日という汚点を残したことに宮園は不満気である。森川はここぞとばかりにパンチをくらわす。
「あー餃子おいしかった。」
宮園はたまらず話題を変える。
「次どこ行く?」
「私おいしい餃子食べたい。」
「定休日やーっちゅうねん。もういい。イライラしてきた。」
「怒った?」
「怒ってない。」
ブルーモード突入であるが、子供をあやすのは女の方が上であった。
「バッティングセンター連れて行ってよ。」
高校時代野球部に所属していた宮園は引退後も野球に対して熱い情熱を抱いていた。バイト中にちらりとかわした野球の話題を森川はちゃんと覚えていて、宮園の機嫌を即座に変えさせた。
「おーええぞ。今度こそええとこ連れてったるわ。」とヤル気満々の宮園。大人びた面の他にこんな単純で無邪気な一面もあるのか、と森川は宮園を新発見した気分であった。
「ガンガン打つでー。」
バッティングセンターへ着くやいなや宮園は素振りをし始めた。"カキーン・カキーン"
次々と鋭い打球を連打する宮園の細いながらにも筋肉のついた腕を見ながら、森川はせつない気持ちになる。その腕できつく抱きしめてほしい……
気分爽快の宮園が汗をふきながら森川にバットを手渡した。恋する女の表情を見られまいと即座に顔をつくりかえた森川は、バットを受け取り負けじと振り回し始めた。当たったり当たらなかったりだが気持ちがいい。バイト中には披露できない自分の姿を宮園にはしっかりとみてもらいたかった。
一球当たれば飛び跳ね、無邪気にはしゃぐ森川を見ていると、宮園の心の中に不思議な感覚が芽生え始めていた。今まで経験したことがないような心境である。森川が気になる。地球は自分中心に回っているはずなのにその軸がぶれ始めている。森川睦月という存在が宮園ワールドに異変を起こした。
「お前ホンマ変わったのう。」
野球部時代からの親友である西出は溜め息とともにこう言った。社会人の西出とフリーターの宮園の時間はすれ違いで、二人ゆっくり話せるのはいつも真夜中の十二時頃からである。二週間に一度ほどお互いの家を行ったり来たりで今夜は宮園が西出を訪ねていた。
「野球以外はやる気なしのお前が早起きしてまで釣りには行くわ、人混み大嫌いやのに遊園地には行くわ、しまいにゃカナヅチのくせに海まで行って。海やで海。俺らが誘っても絶対来えへんかったのに。睦月ちゃんと一緒やったらでかけるんやな。昔は女できても家でゴロゴロしてばっかりやった男がのう……」
「この前くるくる寿司にも行ったぞ。」
「それは絶対嘘やわ。」
宮園は驚くほど好き嫌いの激しい人間であった。キノコ類は"菌だから"と嫌がり、納豆は"腐ってるから"と手をつけず、トマトは"ぐじょぐじょしてる"と顔をしかめた。中でも一番嫌いだったのがほとんどの日本人が大好きな刺身で、生の魚を食べる日本人達を同じ日本人ながらに軽蔑していた。そういう理由で"寿司"という食べ物は宮園にとって魔物であったし、西出にとっても宮園の異様な寿司嫌いは当たり前のことであった。「誰でも普通一個ぐらいは嫌いな食べ物あるやろ? でもアイツ嫌いな食べ物全然無いんよ。何でもうまいうまい言うんやで。恐いやろ? 俺が何でいろんな物食うようになったか言うたら、睦月がうまいうまいって食ってるモン俺食われへんかったらなんか悔しいやん? 負けてないのに負けてるっていうか……だからもう椎茸も食うしトマトも食うし、この前納豆巻きも食った。
「……睦月ちゃんは凄いのう……」
宮園のあまりの変貌ぶりに西出は溜め息を連発した。
"哲太""睦月"と呼び合う仲になり三ヶ月が過ぎた。淡い花柄のワンピースをまとっていた女達は、肩を露出してノースリーブを着ている。息をするだけでにじみ出てくる汗が不快にまとわりついたが、どんな蒸し暑い日も二人のつないだ手が離れることはなかった。睦月の負けず嫌いで何にでもムキになるところや、好奇心旺盛のキラキラした大きな瞳、ポテポテと口紅をぬるしぐさが哲太は大好きで、哲太のかわいい寝起きの悪さや、仕事中に北京鍋をリズムよく振ってチャーハンを作る姿、ハチを追い払ってくれるちっぽけな男らしさが睦月は大好きだった。こんなに誰かを大切に想ったことはなかった。二人の共通の夢である"宮園一家"は、そう遠い話ではないのかもしれない。
その日は珍しく爽やかな晴天で雲一つない青空はどこまでも突き抜けているようだった。日曜日の焼肉レストランは昼間から大忙しで、ましてや星の奇麗な涼しい夜はジョッキを片手に焼肉を食べる客で大賑わいである。
「いらっしゃいませ!」
厨房にまで聞こえるほどの大きな声と愛くるしい笑顔で、睦月は客を迎えていた。
「ご注文の方はよろしいですか?」
「えーっと、ロースと、カルピと、塩タンと、玉子スープと、ビビンバと……」
「以上でよろしいでしょうか? では少々お待ち下さい。」
オーダーをとり終えた睦月は素速くハンディをポケットに直し、左手にトレイを持ち直した。テーブルの間を足早に歩き、丸い大きな目をキョロキョロさせながら、空になった皿やグラスを探しては「すいません、失礼します。」と笑顔でそれをトレイにのせる。実際には「早く帰ってくれ。」と言っているようなものなのだが、客は"愛想のいい店員さん"と睦月の笑顔にいい気分になるのであった。
基本的に睦月は接客が好きで、たまにドジをすることはあっても客とのやりとりには自信があった。皆が嫌がるようなタチの悪い客にも、睦月は快く接客した。文句ばかり言う客が、睦月の笑顔と熱心な態度によって手の平を返したようにいい人になるのが快感で、おもしろくてたまらないのだ。
「睦月、ちょっと来て。」
座敷の暖簾をあげて千春が顔を覗かせていた。この店にはテーブル席とはまた別に座敷があり、ちょっとした小さな部屋として区切られていた。掘りごたつ式のこの座敷のテーブルは居心地が良く、小さな子供連れの客やお年寄りに人気で、和やかな家庭の雰囲気が漂っている。
「何?」
「見てあの客、なんか気持ち悪くない?」
一人客のその男は、大きい体を必死に小さく縮込ませ、クーラーが効いているにもかかわらず黒いシャツは汗でびっしょりだった。白い野球帽を脱ごうともせず、うつむいたまま動かない。特に座敷には似つかわしくない客である。
「ホンマや、何かやばそう。」
勝手にズカズカ入ってきて座ってるねん。すごい落ち着きないし。なんやろ、焼肉強盗かな?」
「なによそれ! 聞いたことない。食い逃げのつもり?」
「あっなるほど。食い逃げしようとしてるんかな?」
千春のつくった"焼肉強盗"と言う言葉にまだ意味はないらしい。
「やる前からあんな怪しい態度とる人はおらんやろう。」
「うーん。とにかく気持ち悪いな、どうしよう、店長に頼もうか。」
「この忙しい時に客の選り好みしてたら怒られるで。私が行ってあげよう。」
「さすが睦月、頼んだ!」
いつもの好奇心と自信が睦月をその男に向かわせた。睦月にとってその男は"ただの変な客"でしかなかった。仕事用の笑顔を作り、愛想よく男に近づく。
「いらっしゃいませ。ご注文の方はよろしいですか?」
男は何もないテーブルから目を離し、ゆっくりと顔をあげ、睦月をジッと見つめた……睦月は動けなかった。声もでない。にこやかな笑顔は瞬時に強張り、冷たい空気が背中をすりぬけた気がする。これは普通の客ではない。この人はおかしい。
赤く血走った目は睦月に焦点を合わせ、少しも動かないが、テーブルの下で男の手は小刻みに震えていた。手の平の汗をズボンで拭い、左手に握りしめていたナイフを右手に持ち替えた。男は自分の身を守るため、人質が欲しかった。金を手に入れるのは容易いことで、窓口の女を殺したら、奥の方にふんぞり返っていたハゲた銀行員が、怯えながら金のつまった鞄を渡してくれた。簡単なことだ。だけど逃げるのはなかなか難しく、警察どもが飢えた野良犬のようにしつこくつきまとう。楽園へ行くためには自分の盾となる人間が必要であった。野良犬たちはもうすぐそこまで来ている。鼻をクンクン動かして血のついたナイフの臭いを嗅いでいる。早くしないと……
ナイフが冷たい空気を切り裂いた。
哲太は玉子スープに襲われていた。哲太のいる"炊き場"という位置は肉を盛るだけの"肉場"と違い、調理技術が必要な場所である。小さい頃から料理に興味を持っていた彼にとって、男が包丁を持ち、鍋を回し、お玉で味見をするのは、ごく自然なことであった。アルバイトでありながら店の味を決める重要な仕事を任されていた。
"ピー"
また伝票が出てきた。哲太の目の前には玉子スープやチャーハンの伝票が1メートル程並んでいる。作っても作っても伝票は減らない。普通なら必死になっているところだが、哲太はいつも余祐だった。余裕のふりをしていた。大きな声で歌を唄いながら自分のテンションを高めていくのだ。
"ピー"
哲太は"抱きしめたい"を唄いながら伝票を手に取った。
「テーブル35、玉子スープ1、担当NO58番」
もちろん哲太は睦月の担当ナンバーを知っていた。58である。
「オッ、睦月や。」
哲太の歌声は一瞬小さくなり、更に大きな声で唄いだした。並んでいる順番通りに料理を出すのが普通なのだが、"58番"を見るといつも勝手に手が動き出す。3番目の玉子スープより、12番目のそれの方が一足早く客のもとに届くのであった。
"ガチャーン"
「あーまたやってる。」
皿の割れる音は日常茶飯事だが、今夜はいつもより多い気がした。忙しさのあまりホールの人間がバタバタしすぎているのかも知れない。
「キャー!」
女の悲鳴が聞こえた。
「喧嘩か? ホールも大変やのう。」
哲太は玉子スープに忙しかった。一秒でも早く睦月の料理を仕上げたかった。店長が青い顔をして厨房の前を走り抜けていった。主任も、他のホールのアルバイトたちも強張った顔で走っていく。座敷に向かっているらしい。ホールのただ事でない様子に哲太は一抹の不安を覚えた。
「宮園君! 睦月が……」
千春は涙目で厨房へ駆けつけて来た。
「睦月に何かあったんか?」
「どうしよう……どうしよう……」
完全に動揺している千春に何を聞いても無駄である。哲太は第一ボタンをはずし、腕まくりをしたまま厨房を飛び出した。
座敷には人だかりができているが静かだった。その山は動こうともせずじっと息を殺している。哲太は主任を押し退けて前に出た。
「睦月!」
信じられない光景が哲太の目に飛び込んできた。座敷の片隅で赤い目の男が左腕で睦月の細い首を締め、右腕で睦月のやわらかい頬にナイフをあてている。白い野球帽が畳の上に転がり、大粒の冷汗が滲んでいる額には、幾筋もの血管が今にも皮膚を突き破りそうだ。
「近寄るな! 近寄るとこいつをすぞ!」
男の言葉に睦月は一瞬ピクリと動いた。冷たいナイフが頬に食い込む。恐怖のあまりに涙も出てこない。正面にいる哲太の目を見つめることしかできなかった。
「俺は女一人殺した。二人目も三人目も同じや。脅しとちゃうぞ。お前らわかってんのか!」
誰一人としてこんな経験をしたことはなかった。現実なのか夢なのか。夜空は星が奇麗で、大きな窓からは花火をする若者たちが見える。座敷の中だけ違う空気が流れていた。
「何が目的や……」
哲太は睦月の目を見つめたまま静かにつぶやいた。
「くるまっ……車と運転手……、それから……」
男はかなり怯えていた。だからこそ何をしでかすかわからない。哲太は男を興奮させないよう、ゆっくりと声をだした。
「わかった。お前の言う通りにする。約束するから……ナイフを離せ……」
「あほか! 車が先や! さっさと用意せんかい!」
何を言っても無駄である。ここは言う通りに従い、男を納得させて落ち着かす事が先決だった。
「俺が車を出す。」
まだ若い長身の店長が言った。歳は二十八だが統率力と判断力に優れていて、店の長となるに相応しい人物である。冷静沈着な店長の行動に哲太は安心と信頼感を覚えた。
「く、くるまが用意できたらお前一人で呼びに来い! ちょっとでも変なことしやがったら……こ、こいつをぶっ殺すぞ!」
右手のナイフは睦月の喉にあてられた。睦月の顔は恐怖で歪んだが、哲太から目を離すことはなかった。
「出ていけ! お前らみんな出ていけ!」
客の一人が携帯電話から110番通報していた。警察が大きなサイレンを鳴らしながら店に到着し、機動隊や救急車までやってきた。いつの間にかマスコミがカメラを片手に殺到している。男を興奮させる条件は全て揃った。
「あーどいてどいて。」
ぞろぞろと警察が店に入ってきた。
「静かにしてくれや! お前ら警察のくせにこの状況がわかれへんのか!」
哲太は重低音をきかした小さな声で怒りをあらわにした。
「はいはいお兄さん落ち着いて。後は私たちに任せてロープの後ろまでさがりなさい。」
座敷の中の男はひどく興奮し始めた。男の荒い鼻息が睦月の前髪を揺らしている。首に巻き付いている男の腕の力は益々強くなり恐怖と息苦しさで死んでしまいそうだった。
「……哲太……哲太。」
キレた男と座敷に取り残された睦月は心の中で何度も何度も哲太の名を叫び続けた。疲労のためか視界がぼやけてよく見えない。
「馬鹿なことはやめてその子を離せ。もう逃げられないぞ!」
「うるさい! 金があったらどうにでもなるんや! 近づいたら殺すぞ!」
一人の太った刑事が無神経に男を宥めている。いつまでも変わらない状況と何もできない自分自身に哲太はイライラしていた。警察はまんざら馬鹿でもない。通報を聞いた時から冷静に仕事を進めていた。銀行強盗の犯人が逃亡中であればすぐに日本全国に指名手配されるが、そんな連絡は全くなかった。念の為一週間分の通報内容を調べていたが、該当するものは一件も見当たらない。そこで警察は精神病院をあたっているところだった。
哲太はロープを乗り越え、睦月の顔が見える所まで近寄ろうとした。
"何かできるはずや。何か……睦月を助けられるのは俺しかおらんのや!"
二人の男が哲太の腕を掴み後ろへ引き摺り戻そうとした。
「待ってくれ! 睦月は俺の女なんや。俺の女なんや! 頼むから……」
「やめなさい君! 警察に任せなさい。」とその時、後ろの方から太い落ち着いた声がした。
「放してあげなさい。あの女の子の恋人ならその子も一緒に話を聞いてもらわないかん。」
「………」
「失礼。自己紹介がまだだったな。私は天の川精神病院院長、小出という者だ。うちの患者が迷惑をかけてすまない。」
「……患者?」
男を説得していた刑事が半ば諦めの面持ちで首を振りながらやって来た。
「だめだ、完全にイカれてる。」
「警部。この方が犯人はうちの患者だと…」
「はーん。やっぱりな。アイツは病院を抜け出してきたということか。」
「はい。あれは夢遊病の一種で、夢と現実が混ざり合う幻想病というものなのです。昼間は正常でも、夜、寝た時に何か強烈な夢をみると、それが現実だと思い込んで我を失なってしまう。自己催眠みたいなモンなのです。今のあいつは脳は寝ているのですが体だけは起きているという状態なのです。」
「そしたらあいつは今寝てるんか? 夢みてるんか?」
「その通り。だから朝がくれば正常に戻るのだが……夜の間は銀行強盗をした殺人犯なのです。」
「どないしたらええんや? あんたの話やったら朝が来たら、太陽が昇ったら睦月は助かるんか?」
「そんな保証はできない。あの男が正常に戻るのは確かでも、夜の間は異常なわけだ。その間に何をするかは私にもわからない。ただ、人質を助けるにはアイツを朝までおとなしくさせておく事だ。ただし我々の目の届く範囲内でな。その範囲内でなるべくアイツの要求をきいてやっておとなしくさせといた方がいいだろう。」
「何やそれ、俺は睦月に何もしてやられへんのか? このまま朝まで動くなっていうんか? そんなアホな話があるかよ! くそったれっが!」
「まあそう興奮しなさんな。」
「興奮してないわ!」
"俺は愛してる女一人もよう守らんのか? 睦月を一生守っていくんは俺なんやぞ。畜生!"
何もしないのが一番だった。ただ時が過ぎるのを待った。男は疲れてきたのか怒鳴ることはなくなったが、睦月を放そうとはしない。睦月はぐったりと目を閉じている。数人の刑事を座敷につけ、小出と太った警部は厨房で熱いコーヒーを飲んでいる。野次馬達は好奇心よりも眠気の方が強まって帰ってしまったのか数人しかいない。しかし、報道陣達だけは根気よく取材を続けている。店長は泣いている千春の肩を抱きながら睦月のことを思い、哲太は座敷の壁にもたれ、身動きひとつせず眉間にシワをよせたまま、睦月のことを想った。
"俺はずっとここにおる。もうすぐ朝や。あと少しや。頑張れよ睦月……"
「何か食い物持ってこんか!」
久々に座敷から怒鳴り声がした時計の針はちょうど午前四時を指している。
「誰かコンビニにでも走らすか……」
座敷のそばに戻ってきた警部はあくび交じりに言った。
「俺がアイツの食い物作る。作らせてくれ! コンビニ行くより早くうまく作るから! その間アンタがしっかり睦月を見といてくれ!」
傍からこの光景を見たなら、哲太が警部に襲いかかっていると思うに違いない。それほど哲太の形相は恐ろしかった。
「わかった。わかったからこの手を離してくれ。く・る・し・い・。」
「しっかり見といてくれよ! 頼んだぞ!」
哲太は大急ぎで厨房に入り、58番の伝票が出た時の様に、超特急で睦月のためにチャーハンを作った。いつも余裕のフリの哲太が初めて真剣な顔でチャーハンを作った。出来は最高だった。
哲太は大盛チャーハンを持って静かに座敷へと入って行った。
「宮園君の顔を見れば女の子も元気付くだろう。」と小出が哲太を運び役に選んだ。もちろん男を興奮させないように厳重に注意された上での運び役である。
「よし、ゆっくりこっちへ持って来い。妙な事しでかしたらこの女をぶっ殺すぞ!」
男は緩めていた左腕に力を入れ直した。睦月はぐったりとしていたが、いきなり首を締められ苦しくって顔をしかめた。
"睦月……"
哲太の両手は震えていた。恐怖ではなく、怒りで。これが武者震いというものなのか。自分自身がなぜか恐い。一体睦月が何をしたというのか、なぜこんな目にあわなければならないのか……あと3歩のところで睦月が目を開いた。目の前に哲太を発見するや否や、どっと涙が溢れてきた。ずっと張りつめていた緊張の糸が切れ、もう自分を支える事はできなかった。溢れてきた大粒の涙はあっと言う間に哲太の姿をも掻き消した。
「……哲太……哲太助けて……哲太あーっ!」
睦月の叫び声を聞き、哲太は理性を失った。料理を投げ捨て、一気に男に襲いかかった。
「なにさらしてんじゃボケ! その汚い手離さんかい! ワレぶっ殺したらあー!」
男の顔面をおもいっきりぶん殴り、腕を取り力の限り座敷の畳に投げつける。右手のナイフが男の手から滑り落ちる。
「この野郎ー!」
男の赤く血走った二つの目が哲太を睨み付けたが哲太の方が有利な体勢である。哲太は間髪を入れず2発、3発と男の顔面を殴り続けた。哲太の右手が赤く染まり、最後の1発をくらわそうとしたその時、哲太は座敷の掘りごたつの掘に右足を踏み外し、膝をついてしまった。
「この野郎!」
男はすぐさま哲太の頭を掴み、テーブルの角へ叩き付けた。ゴーンと鈍い音が響き渡った。騒ぎを聞いた刑事達が一斉に突入してきたが、遅かった。男はナイフを拾って、血で赤く染まった顔に不気味な笑みを浮かべ、その手を振り下ろした。
「睦月、睦月ー!」
薔薇のように胸を赤く染めた睦月がぐったり横たわっている。男は刑事達に取り押さえられ、手錠をかけられている。
「……哲っ…太……」
「睦月! 大丈夫か! もうすぐ病院やからな。」
「……哲太……もっと一緒におりたかった……」
「何ゆうてるねん。一緒や、これからもずっと一緒や。」
「ホンマに?」
「当たり前や……」
「うん。……でも……私もうあかんわ……」
「何ゆうてるねん。大丈夫や……ずっと一緒や……頼む……」
哲太の涙が睦月の頬を濡らした。睦月の脳裏には走馬灯のように二人だけの楽しい思い出が駆け巡った。初めて二人で会ったバッティングセンター、小さなアジの釣り勝負、観覧車のてっぺんでキスをして、二人だけで旅行にも行って、……それから、それから……
「……哲太の赤ちゃん……欲しか…っ……た……」
「睦月? 睦月……睦月ー!」
哲太は睦月を両腕で力一杯抱きしめた……朝の太陽がやわらかに二人を照らし、夜は明けた。
思い目蓋を必死にこじ開け、哲太はテレビの上の時計を見た。
「5時か……」
最近寝起きのいい朝はなく、いつも煙たい朝に目覚てしまう。何か夢を見ていても、どんな夢を見ていたのかは思い出せない。
「まだ早いな。もう少し寝よ。」
一度は蒲団をかぶったもののなかなか寝つけない。こういう時の諦めは素早く、蒲団の上に座って今日一日何をしようかを考える。
「森川さん……誘ってみようかな……」
石井雅美
「はぁ、寒い……」
もう春が近いというのに今日はすごく冷え込んでいる。あー寒い。そりゃ、今、私達がいる所は都会から離れているし、少し高台だから、仕方ないっていうのはわかってるけど、寒いって言わなきゃ立っていられないほど寒いんだこれが。で、最悪なことに私は風邪気味、昨日は熱でうなされて、ベッドの中でウンウン言ってた。
なぜ、女子大生の私がこんな所にいるかというと……バイト。工事現場で交通整理。てっとり早く言うと警備ってやつ。
「えっ、バイト? ん〜、あるよ。行く?」
友達のこの言葉に、内容も聞かずに頷いた自分が恥ずかしい……えーい、一人暮らしは大変なんだ! ……というわけで今日が初出勤。風邪だろうが休めません。昨日よりは楽だしね。
「おーい、工事はじめっからよろしくな。」
工事現場の主任らしきおじさんが言いに来てくれ、私はヘルメットを手にした。森に囲まれた直線二車線の片側通行。めったに車は通らない。そりゃそうだ、見渡した所、木、木、木。一体どこまで森なんだっていうくらいの田舎。急激な冷え込みで出来た朝霧が森を化粧するかのようにうっすらと風に流れている。そういえばこんな風景ってめったに見られない、ちょっと得した気分だ。何もない場所でのーんびり。深呼吸すると空気がうまいっ! なんてのもここなら頷ける。
少ししてガガガガガガ。
静かだった森の中に機械音が響いた。機械の調子が悪いらしく煙まで出てる。
浸ってたのに………
仕事内容は至ってヒマ。勿論、経験のない初心者に忙しい場所を与えるわけもないけど、これが地獄級のヒマ。私はしばらく、このヒマとの戦いに没頭していた。
三時間ほどたった頃(私には倍以上に感じたけど)、次の地獄が待っていた。
……トイレないやん。
そう、ここには何もないのだ。コンビニもないし駅もない……寒さで白くなった顔が青くなっていくのがわかった。出来ないとわかると、逆にしたくなるもので……、う〜。なんとかお昼まで我慢して、工事のおじさんにトイレを聞いてみた。
「トイレ? この辺にはないなぁ。車でも十五分くらい行かなきゃならんし、その車も弁当買いにいっとるしの。」
……絶望的。
「かっかっか、その辺でしぃや。誰もみてへんて。」
笑い事じゃない。しかし、仕方がない、車が帰ってくるまではもたない。渋々、森の中に入っていった。工事の人たちが見えなくなって、念には念をいれてどんどん奥へ入っていった。ぽっかりと開けた空き地、真ん中に古い小屋のような家を発見。地獄に仏。誰も住んでいないようだったし、少し怖かったけど、勝手にトイレを借りた。溜息混じりに小屋を出た時がまた地獄。
……どっちから来たっけ?
あまりに奥へ入ったせいで道路は見えない太陽の位置とかいちいち覚えてないし……困った……でも、ここにいたって始まらない。なんとか歩こうと踏み出した途端。
ぺちっ!
いたっ!
何かが私の頬に当たった。別に痛くなかったけど思わず言葉が出た。
ぺちっ!
また。足下をみると乾燥したドングリが二個転がっていた。
「誰だよ、お前。」
声のする方には、いかにも田舎風の防寒着を着て、木の上から見おろしている少年がいた。「なにするのよ。」
「オラんちで何してた!」
少年は木から飛び降り、見事に両足で着地した……後、勢いあまって転んだ。腰につけていた汚い巾着からドングリがいっぱい散らばった。
「だ、大丈夫?」
あまりの豪快さにうっすら笑いながら歩み寄ると。
「う、うるさい!」
少年はすぐに立ち上がり、クリッとした目の端に、うっすら涙を浮かべながら散らばったドングリを手でかき集めた。
「君、なんていう名前なの?」
「……さく…ら。」
「へぇ、女の子みたいな名前ね。私はね…」
「うっせぇよ、はばぁ!」
げ……こんのガキ。私が不服そうな顔をしていると、言い返すのも待たずに。
「はばぁで十分なんだよ。」
………なんだって?
「服だって女らしくしろってんだ。」
……キれた。
「あんたね。子供だと思ってたら……大体ね、私はまだ二十歳なのよ。誰が……誰がおばさんってぇ?」
……なんてかわいくない。私は感情にまかせて、横にあった巾着を少年にたたきつけた。
少年の反応は意外だった。中には何も入っていないし、そんなに強くぶつけたつもりはないけど……少年の目の端に溜まっていた涙が一気に溢れ、巾着を抱きしめたまま歯を食いしばって、一生懸命に大泣きするのを耐えている。時折、しゃくりあげる少年の仕草に彼の幼さと自分の大人げなさを感じた。
「ご、ごめんね。」
私の良心がチクチクと痛み、咄嗟にドングリを両手で拾い上げて少年に差し出した。泣き崩れる事を拒む少年が、鼻をすすりながら巾着を広げて前に出した。ゆっくりとドングリを巾着に入れ、もう一度謝った。少年はへの字に結んだ口もそのままに、「許してあげる。」っといった感じでこっくりと頷いてくれた。
サクラくんが泣き止むのを待って、私は色々と聞いてみる事にした。なんつっても聞きたい事はいっぱいある。なんだってこんな森の奥にいるのか。道路までの道も聞きたいし。ま、仕事はヒマだし、少しくらいさぼったって平気なのはわかっている。
小屋の入り口の傍らにある少し大きめの石にサクラくんを座らせ、向かいにあるボコッと出ている木の根っこに腰掛けた。
なんでも、この小屋にはお母さんと一緒に住んでいたらしい。周りにある木の実などを取って二人仲良く暮らしていた。
「お母さんは何処にいるの?」
なんとなく、聞いてみた。
サクラくんは急にしょぼんとして、さみしそうにうつむいた。
……なんだなんだ。
サクラくんのお母さんは元々、身体が弱くて病気がちだったそうな。数年前にこの近くに大きな道路ができた頃から(私がさっきまでいた道路のことだ)、咳とかがますますひどくなって、ずっと寝込んでいた。で、そのお母さんも数カ月前に亡くなって、一人で生活していたんだって。その話しを聞いている間、何度も何度も涙がこぼれ落ちた。なぜって、数カ月だよ。こんな小さな子が一人でこんな田舎でって思うと……すごく寂しかったと思う。一緒になって落ち込んでいると。
「これ、おっ母の形見なんだ。」
そう言って、さっきのドングリの入った巾着を見せた。なるほど、ボロボロで汚いわけだ。
そう思うと、また自分を責めたくなった。
「そう落ち込むなよ。別に気にしてねぇし。」
言い終わった時に一度だけにっこり笑った。すごく可愛くて前向きなその笑顔をみた途端、抱きしめたくなる程、心が締め付けられた。あれ? いつの間にか立場が変わってるじゃないか。
「ここを離れて、街に住めば? 一緒に行く?」
気を取り直して、そう言った。サクラくんはまた少し寂しそうに首を横に振った。お母さんとの思い出がいっぱいつまったこの場所を離れたくないのかな? 私もそれ以上は言えなかった。それから少しの間だけど、いろんな事を話した。
サクラくんは都会というものに少なからず興味があって、私の都会話しに好奇心満々で、「すっげー」とか「それでそれで」っといった感じで聞いていた。時間にしたら一時間くらい。
太陽が真上から少し傾きかけた頃。
「そろそろ行かなきゃ。」
私はすっと立ち上がってそう言った。
「……どうろまで送ってやるよ。」
少しの間、何も言わなかった彼をじーっと見つめていると、そう言ってくれた。でもどうした事だろう。行っても行っても、道路につかない。
「ちょっと、こっちでいいの本当に?」
不安になった私は少し、強い口調で言った。
「大丈夫だって、それよりもっと話聞かせてよ。」
どれだけ歩いただろう。同じ風景ばっかりで、本当に疲れてきた。そういえば風邪ひいてたっけ。なんて思ってると、見たことのある小さな小屋が木々の間に見え隠れした。……もしかして、同じ所まわってる? サクラくんは楽しそうに私の前を踊るように歩いている。
「こらっ!」
振り向いた彼の表情が上目遣いだ。
「真面目に送ってくれないの?」
「ちぇっ、わあったよ。」
面倒くさそうに手を頭の後ろに組み、てくてくと今までとは違う方向に歩き出した。私は一度、小屋の近くまで行き、持っていたハンカチを傍にある低めの木の枝に縛り付けた。
「なにやってんだよ。もう送ってやるよ。」
悪びれた様子もない彼に急かされた。よし、後は口紅で木に印をつけていこう。相手は子供だし、もし、同じ事しても次はすぐにわかるはず。最初からこうしておけばよかった。森の中を進む事、あっという間。工事の音が聞こえてきて、道路が見えた。サクラくんともう少し一緒にいたかったけど、おじさんとかに見つかるとやばいから森の中で別れた。サクラくんも何度も振り返ってくれて、嬉しかった。別れ際にもう一度だけ、街に行くことを薦めたけど、やっぱり断られた。
工事のおじさんに遅れた事で少し嫌味を言われたけど……昼食のお弁当を渡されて食べようとしていた。 お腹減った。あーいい天気。おにぎりをもぐもぐ食べていると、森の中からほのかに煙が上がったように見えた。
……また機械の調子わるいのかな?
なんだか悪い予感がした。煙はどんどん濃くなっていく。
「おい、火事じゃないか?」
工事の人達がざわつきだした。
「あ、さっき便所行った時の小屋じゃないか?」
……なんだって?
お弁当を置き、そう言ったおじさんに駆け寄り、睨み付けた。
「あ、悪りぃ、トイレな、森の中にある小屋にあったんだ、俺もさっき見つけたんだけどな。」
……そんな事を聞きたいんじゃない。
「子供……」
言葉が出てこない。
「誰もいなかったけどなぁ。」
……迷っていた時だ。
おじさんは少しいらだったように煙草をくわえ、火をつけた。
……それだ。
私はもう走り出していた。違う意味で目印が役にたった。でも、その小屋がすごく遠くに思えて、走っている時間だって何倍にも思えた。
小屋が燃えている。その前で、一生懸命に自分の服を火に叩きつけているサクラくんがいた。
「サクラくん!」
少し遠いけど、必死に声を出した。なんとか聞こえたみたい。顔中すすだらけになったサクラくんが振り向いた。近づいてみると、涙目になっている事に気付いた。
木を繋ぎ合わせてつくったログハウスのような小屋がモウモウと白い煙を上げている。それは、サクラにとってどんな光景に見えただろう。ぼんやりとしたものでも、大きな母の思い出が失われようとしている。顔が真っ黒になるまで、一人で頑張ったサクラは、大切なものを最後まで守ろうとした結果についたものだろう。
その思いとは別に、水気のない小屋はみるみる火に包まれ、大きな火のかたまりになった。がっくりと膝をつくサクラ。うなだれた顔の下に幾粒かの雫が落ちた。……まだだ。
「さくらっ! まだ! まだ燃え尽きてない!」
火は消えない。そんな事はわかっていた。でも、もしも小さな可能性でも、小さな遺品でも燃え残る可能性があるなら、ただ夏の日の花火を眺めているような事はしない。井戸の場所をサクラに聞き、少し離れたその場所へ走っては、警備用のヘルメットに水を汲み、火の根元へかけ続けた。何度も何度も。サクラは巾着を落としても、拾う様子もなく、手伝ってくれた。
やがて火は消え、小屋は黒い骨組みと屋根だけになった。私とサクラは肩で息をしながら、意味もなく見つめあった。あれほど激しく燃えたんだから、火が消えただけでも奇跡に近かった。もう燃える物がないから消えたのかな。気がつけば私の顔もすすだらけで真っ黒になっていた。
……そうだ何かないかな。
とりあえず火は消えたし、ちょっとまだ白い煙があがってるけど、もう大丈夫みたい。なんとかサクラのお母さんの物が残っていないか小屋の中に入ろうとした。多分、私の人生、この時ほど後悔したことはないと思う。私が小屋の入り口に差し掛かった時、もろくなった屋根がグラリと揺れた。重みに耐えられなくなった柱が、力無く折れる音がした。
「あぶない!」
屋根は私に向かって落ちてくる。突然の恐怖に足も動かない。このままだといけないと思ったけど、そう思うと逆に動けない。次の瞬間、背中に衝撃を覚え、気がつけば小屋の内側へ倒れ込んでいた。
サクラ。
私を助けたのはサクラだった。小さな身体で私に体当たりし、彼はさっき私がいた場所で倒れていた。屋根はそのサクラを包み込むように倒れかかる。
「サクラァ!!!」
すべてがスローモーションに見える。一本の柱がサクラの背中にのしかかるように倒れた。
柱の木にくすぶっていた火がサクラの服へ燃え移る。
「サクラ!!!!」
絶叫にも似た、悲鳴にも似た声にならない声を上げた。
「ありがとう。おねーちゃん。」
サクラの小さな身体を黒く焦げた木々が覆う寸前、彼のはっきりとした声が聞こえた。
……うそ……
信じられなかった。必死で呼びかけたし、柱をどかせようと努力したけど、だめだった。私は絶望と、後悔に支配され、夢遊病者のように立ち尽くし、サクラの落とした巾着を拾い上げて泣いた。抱きしめた巾着の中のドングリが痛い。かまわずに強く抱いた。徐々に意識が遠くなっていった。きっと風邪のせいだ。手のやけどだって痛い。
「おい! 大丈夫か?」
うっすらと目を開けると、救急車の中だった。工事の人が倒れている私を見つけて呼んでくれたらしい。
「サクラ……サクラが下敷きに!」
周囲の人たちは顔を見合わすばかり。何の事かわからないといった表情で私を見つめる。
「熱でうなされているんでしょう。」
救急隊員がいやに冷静な口調で言う。起きあがって、事の一部始終を説明したけど、私の倒れていた所には小屋もその焦げ後も無かったらしい。工事のおじさんの言っていた小屋は私の言っていた小屋とは反対側にある事もわかった。……夢? そう思った瞬間、私は何かを握りしめている事に気付いた。乾燥したドングリ。そして、ボロボロの巾着。手に負ったはずのやけどは消えていた。
サクラ……
少しの間の事が懐かしく感じる。自然と涙がつたった。
私は数日後、サクラと会った森に入った。はげかけの口紅と汚れたハンカチをたどり、少し開けた場所に出た。小屋は無く、そう日がたっていないのに燃えた形跡もなかった。大きな枯れた桜の木。その横に寄り添うように小さな桜の木が大地から延びてきていた。
……まちがいない。あの時、小屋はここにあった。よく見ると、小さな桜の背に焦げたような痕があった。
……そっか。君がサクラくんか。私は巾着をその桜に掛け、その場をあとにした。
帰る時、季節外れのドングリが落ちてきて私の頭にあたった。
「やるよ。」
サクラの声がしたような気がした。
小柳早知子
今になって思えば、早太を愛していたあの頃なんて嘘だったのかもしれない。きっと、私は愛なんて知らなかった。
夏だった。私は早太と出会ってすぐに、恋におちると思った。あれはもう4年も前のことだ。早太に想う人がいることを知るのにも、早太が私を気に入るのにもたいして時間はかからなかった。私たちはそれくらいの距離にいた。初めの頃、私はよくある恋のはじまりを彼と共に楽しもうと思っていた。それが無理なことだとわかるまでに1年かかった。彼に私は若すぎた。彼は、私が彼のものにならないことを知っていたし、自分が私のものにならないことも知っていた。私は早太を愛していた。そう思っていた。けれど、その1年間私は彼への執着にうつつを抜かしていた。ただそれだけのことだったのかもしれない。あれから、2度夏が過ぎ、私は何度か恋をした。
3度目の夏だった。早太と再び出会ってしまった。お互い色々なものを引きずっていたが、気軽な恋ならすぐに始められるくらいの好意はお互いに抱いていた。真剣にならない恋が、一人でいる孤独を満たしてくれることを私はもう知っていた。早太はもう私にとって真剣な恋の対象ではなかった。私と早太とは知らない間柄ではなかった。私たちの間にはもう、友情に近いものが生まれていて、お互いの生活をわずらわせることもないだろうと思っていた。早太には何年も付き合っている恋人がいて、近々結婚するということも、聞いていたが、そんなことは私には関係なかった。私はただ時々彼と寝てみたいと思っていたのだ。
私たちはとても自然に関係をはじめた。そこにはただ安らぎがあった。愛し過ぎないことは、人を安らかな気持ちにさせる。そこには、恋愛に付随する嫉妬や詮索などの醜い感情は生まれてこない。私は心地よい体温に理性を失う事ができた。 私は早太が好きだった。声も瞳も、指も唇も、私にはいつも優しかった。抱きしめあい、私たちは愛してもいないのに愛しているなどと呟いた。私は、彼を抱くことが自分の感覚を退化させず、新しい恋に役立つだろうということを知っていた。早太の存在をそんなふうに利用していた。そして、彼を抱く時はいつも夢中だった。私の彼に対する気持ちはいつもそんなだった。早太も充分理解していたはずだ。私たちの始まりは、深刻さを寄せつけないくらいに簡単すぎた。
最初は月に1度くらい会った。色々なことを話し、楽しい時間を過ごした。次第に合う回数は増えていき、週に1度は会うようになっていた。早太はいつも会いたかったと呟き、優しく口づけをした。私はいつも彼からの愛情をおいしいお酒のように舌の上でころがした。私は早太の体が好きだった。
春になって早太は結婚した。彼は私を抱きしめた。結婚という事実が、私を彼から遠ざけてしまうことを彼は恐れていた。彼は会うたびにすぐに私を抱こうとした。私はうんざりしていた。もう彼と付き合う意味はないわ。私は心の中でそう呟いた。
「どうしてこんなふうになっちゃたの? もう耐えられないわ」
私は言った。すると早太は今までに見せたことのない表情で私を見つめた。
「私を好きになったの?」
「うん」
「どうして? あなたにはもう家庭があるじゃない。それなのにどうして?」
「わからない」
早太はすねた子供のように私にしがみついていた。私は彼の髪をなでながら困り果てた。
「もう会わない方がいいわ」
彼はため息をついて、私を見て力無く微笑んで私の許を去って行った。
それから数カ月、私は一人でいることを楽しんだ。本を読んだり、お酒を飲んだり、料理をしたり、何でもない日常を楽しんだ。時折、早太のことを思い出して暖かい気持ちになった。昔は知ることのなかったいろんな早太を側でみることができた。あんなふうに女の前でふるまえる男の人っていい人だわ。私はそんなふうに思っていた。
だから、再び早太が私の部屋を訪ねて来た時も、少しばかり困った表情を浮かべながらも、彼を部屋に招き入れた。もう彼と寝るつもりはなかった。
「あれからずっと考えていたんだけど……」
私は続きを聞くために早太を見つめた。その瞬間、彼に抱き寄せられ、床に転がった。
「苦しいんだ」
彼は傷ついた表情を浮かべていた。私は彼の頬をなでた。もう今までのままではいられない。私はそんなふうに思っていた。これで終わりにすることはできない。私はそう思い、彼に伝えた。すると早太は、そんなこともう知っていると言って笑った。
早太はいつも私を待っていた。私から早太を呼び出すことはなく、そのことは早太に悔しい思いをさせていた。いつのまにか私も彼を待っていた。待ち続けた彼はいつも私を抱きしめる。私が目の前にいて、確実に自分の腕の中にいることを知り、安心する。私も同じように安心する。私たちはこの時、心から求め合っていたのだ。
早太の妻が妊娠していたことを聞かされた時、とても不思議な気持ちだった。私はそのことで少しも傷ついたりはしなかった。彼を求めることと、彼に自分の生活があることは私には別な世界のことのように思えた。私は彼のために生活の大部分を費やしていたが、自分が彼の生活に入っていくことなんて、考えてもいなかった。私たちは見つめあって、ただ黙っていた。
早太は私を愛していた。けれど、私は彼に愛されることにうつつを抜かしていたにすぎなかった。
「私はあなたの家庭を壊す気はないわ。」
「おれと別れられるのか?」
「どうして別れられないと思うの?」
「おれを自分のものにしたいとは思わないのか?」
「“自分のもの"にされるのは好きよ。早太のものにされる大好きだったわ。でも、あなたを私のものにしようとは思わないの。わかる?」
彼は混乱していた。結婚という事実の上に、子供という物質を積み重ねて、私と彼の距離を広げることを可能にした妻に対して、彼は恐怖すら感じているようだった。何も知らない彼女に私は同情した。彼は私を抱きながら言った。
「他の男には渡さない」
私は今までこれほど求められている自分を感じたことはなかった。
「どうしてそれほど執着してるの? 結婚もして子供もできて、その幸せは何なの? なぜ私も必要とするの?」
「わからないんだ。でもこうせずにはいられない」
悲痛な声だった。
「世の中、わからないことはたくさんあるわ」
「おれとのこともお前にとってはわからないことなんだろう?」
「そうでもないわ」
私は、どんなふうに説明すればこの気持ちを彼に分からせることができるんだろうと考えた。けれど、それは無理だと気づいた。男のものになることを楽しむ、という最も利己的で精神的な女のお遊びを、早太に理解できるはずはなかった。
夏だった。早太の妻が女の子を生んだ。私にはどうしても、この私にうつつを抜かしている男が、他の女性に属しているとは思えなかったが、早太は夫であり、父親になったのだ。早太がどこかへ旅行に行きたいと言ったとき、私は少し悩んだ。これ以上、彼の生活が私に覆いかぶさってくるのは冗談ではなかった。
「子供さえいなければ……」
早太はよく口にした。子供が彼を妻の許へと留めていた。私は、その小さな女性に感謝すらしていた。
旅先で私たちは、普通の恋人同士だった。結婚指輪を外した彼の薬指には、もうすでに夏の日差しが消すことのできない跡をつけていた。その白さに私は、終わりすら感じていた。手をつなぎ、海辺を歩いていた。レストランで夕食をとった。部屋に戻りワインを開けた。早太は満足そうだった。私を独占することに喜びを感じていたのだろう。朝、目が覚めると早太が隣で寝ていた。もう何の感動も私にはなかった。こんなことを確認するために来た訳じゃない。私はため息をついて彼を見つめていた。目を覚ました彼は私を抱こうとした。私は抵抗する気にもならず、彼を見ていた。無我夢中で私を抱きしめる彼を、私は不思議な気持ちで見つめていた。いつもそのことに夢中だった私が珍しくひとつひとつ彼の動きを確認していた。私はどうしてだろうと考えた。早太が変わった訳ではない。私が変わってしまったのだろう。早太にはわからないのかもしれない。私は言った。
「そんなに私を好きになっていたの?」
早太は答えない。困惑した顔だった。彼の苦しみを私は味わい始めていた。苦しみを含む愛情がこんなにも女の心をつかむ力をもっていることを、私は今まで知らなかった。彼は、他に私を引き止める要素をもう持っていなかったのだ。彼がそれを知っていたかどうかは、私には分からない。
しばらく私は家に帰らなかった。女友達の家を転々とした。早太が部屋の前で待っているだろう。それは充分に分かっていた。もう会わないわ。その一言を伝えるためだけに帰るのに少し抵抗があったのかもしれない。けれど、いつまでもほっておくわけにもいかなかった。私の不在が彼にどんな影響を与えているのかも気になっていた。
部屋の前に彼はいた。ただ、私の帰りを待っていた。私は彼を部屋の中に入れた。中に入るなり彼は私を抱きしめた。
「どこにいってたんだ? 毎日待っていたのに」
私は答えなかった。
「何か飲む?」
私は彼から離れた。彼がとても健気に見えた。
「会いたかったんだ。いつも」
グラスにワインを注ぐ私の手を見つめながら早太は言った。
「そう」
「お前を失いたくないんだ。もう終われない」
「それは無理よ。私といるには、あなたはたくさんのものをひきずりすぎてるわ」
早太は言葉を失っていた。私は、このかわいそうな一人の男をかわいらしいとすら思った。
「もう、来ないで。あなたは私に執着しすぎたのよ」
私は彼にそう告げた。
「どうしてなんだ。どうすればいいんだ」
早太は、叫びながら私を押し倒した。彼は私を抱くだろう。私はそれを受け止める。髪をなで、この私を愛し過ぎた男を感じるだろう。彼は私を愛し、私はそれを味わうことを愛していた。ただそれだけのことだった。
日差しは私たちを包み、彼の影を私の上におとしていた。もうすぐ、私たちの夏は終わる。
名村かほり
理紗は皆に好かれている。彼女の周りにはいつも誰かがいて、彼女はとても幸せそうだ。彼女は私のように孤独を感じたことはないだろう。私はそんな彼女がうらやましくて、大嫌いだ。
私と彼女は高校生の頃からの親友である。知り合ったのは、高校に入学して間もない頃で、隣の席になったのがきっかけだった。彼女は目立つタイプではなかったが、美人だった。偶然に同じクラブに入ったこともあって、私たちはすぐに仲良くなった。
「同じ大学に入って、一緒に暮らしたいね。」
何気なく言った私に彼女も乗り気で、
「じゃあ、私はご飯作るから、香菜子は掃除洗濯頼むね。」
と言って笑っていた。
そして今、私たちはその時の言葉どおり一緒に暮らしている。彼女と同じ大学を受けることになったのは本当に偶然で、
「二人とも受かったら、7年間の付き合いになるね。」
と理紗は嬉しそうに話していた。「そうだね」と笑いながらも、私は彼女が落ちることを願っていた。彼女には負けたくなかった。そして、私の望んだとおり、私だけが合格した。理紗はそれでも、素直に私の合格を喜んでくれた。
「香菜子、良かったね。」
たった一言だけだったけれど、その時の理紗の笑顔は本物で、私はどうしようもないほどの敗北感を感じた。どうして、彼女はこんなに素直に喜んでくれるのか。私は自分の醜さを思い知らされたような、そんな気がして、自分で自分が大嫌いになる。そして、私をそんな気持ちにさせる彼女を憎んでしまうのだ。
それでも、現在私が彼女と一緒に暮らしているのは、やっぱり彼女といると、楽しいからだ。学校の友達といるよりも、彼女と一緒にいる時間のほうが多い分、いちばん安心できる相手であることは間違いない。ここに来て一年以上経つが、私たちの共同生活はとてもうまくいっているようにみえた。私がときどき彼女に感じる憎しみを除けば……
「香菜子ー、起きてよ。今日、テストなんでしょ。」
私は上半身だけ起こして、頭を横に振った。私は極端に朝に弱い。低血圧なのである。そう言うと、理紗は「それは言い訳なんだってテレビで言ってたよ」と笑っていたけれど。情けないことだけど、彼女がいなければ、私の遅刻回数はもっと増えていたはずだし、そのせいで落とした単位もあったに違いない。私は彼女のおかげでマシな生活をしていた。彼女は私の親にも信用があり、彼女と一緒だということで、安心しているようだった。
「香菜子、私、今日ちょっと遅くなるから。」
理紗は遅くなるときはいつもこうやって、あらかじめ伝えてくれる。
「うん、晩ご飯は? 私作っとこうか。」
「ううん、いらない。外で食べてくるから。」
どちらかというと外食はあまり好きではないはずの彼女である。
「何?デートとか?」
私が何気なく聞くと、彼女は何も言わずにコーヒーを入れ始めた。この反応はつまり私の勘が当たったことを示している。
「そんな話、聞いてないよ。いつのまにそんな相手見つけたのよ。」
理紗の目を覗き込んで尋ねると、彼女は
「また今度話すから。」
と、照れ臭そうに笑った。私はこんなときの彼女はとても可愛いと思う。理紗は美人だったが、それほどモテるタイプでもなかった。それよりも、男女問わずに誰からも好かれるタイプだ。彼女は誰にでも親切で、さり気なく気を使う女の子である。人見知りはしないけれども、浅い付き合いが多い私に比べて、理紗は、時間はかかってもいつのまにかその相手ととても仲良くなっていて、私は彼女のそういうところにとても憧れていた。そして同時に、いつも敗北感を味わっていた。
理紗が家にいないときは私の晩ご飯はたいてい外で済まされてしまう。今日もその例外ではなくて、バイトを終え、友達とご飯を食べて帰ると、十一時を回っていた。部屋はまだ暗くて、理紗がまだ帰っていないことを示していた。暗がりの中で、手探りで電灯のスイッチをつけると、きれいに片付けられた洗濯物が目に入った。どうやら、理紗は学校からいったんここへ戻ってきて、それから再び出かけたらしかった。それにしても洗濯物を取り入れていくところが何とも彼女らしくて私は思わず笑ってしまった。理紗が遅くなるときは、私の帰りも決まって遅くなることを知っているのだ。私は彼女の律儀さに感心しながら、何か飲みたくなって、冷蔵庫へと向かった。すると、留守電が入ったことを知らせる赤いランプが点灯しているのが目に入った。再生ボタンを押すと、二度ほど切れた電話音が入っていた後、母親の声が入っていた。
「香菜子、同窓会のお知らせの葉書が来てたけどどうする? また電話ください。」
母親の言葉はそれだけで相変わらず用件だけだった。私は受話器を取りかけたが、もう遅いので、明日電話することにして冷蔵庫から出した理紗のジュースを手に取り、窓を開けた。私たちの部屋は三階にあって、眺めは結構よかった。昨日までの大雨が嘘のように空は澄み渡っていて、星が見えた。遠くから電車の音と波の音が聞こえてきて、とても気持ちがいい。テレビでは、アナウンサーが梅雨明け宣言をしていた。遠くから聞こえてくる波の音は、どこまでも澄んでいて、私の心の中のどろどろした部分を少しだけ沖まで運んでいってくれたようだった。
その夜、彼女が帰ったきたのは十二時を少し過ぎた頃だった。終電に間に合うように帰ってきたというのがまた彼女らしい。
「ねえ、香菜子。」
彼女は私が起きているのか確かめるように言った。
「うん、何?」
私が起きているとわかると彼女はほっとしたように言った。
「明日、あいてる?」
「うん、特に予定ないけど。」
「じゃあ、明日、戸田くんに会ってくれない?」
「誰それ? 今日会ってた人? 何でまたそんな急に……」
「香菜子のこと話したら会ってみたいなって言うから。」
「私のこと変人みたいにしゃべったんじゃないよね。」
笑って、理紗を軽くにらむと、彼女はちょっと黙った。そしてその後、
「嘘だって。とても優しくて、いい子だって誉めといたよ。」
と笑った。彼女は本当にそう思ってくれている。私は寝返りをうって壁の方を向いた。「寝たの?」理紗の声に私は何も答えなかった。
私と理紗が待ち合わせをするなんてことはとても久しぶりだった。電車はクーラーが効きすぎていた。外は景色の移り変りと共にだんだん暗くなっていく。まだ夏は始まったばかりだったけれど、日は少しずつ短くなっていて、遠くの山の上の空に夕焼けがかすかに残っていた。それでも流れる空気はちゃんと夏で、電車を降りると息が詰まりそうな風がどっと押し寄せてきた。駅はとにかく混雑していて、この風は夏のせいだけではないのかもしれない。この街の夏は二度目だけどまだ馴染めないものがある。
「香菜子。」
雑踏のなかから澄んだ声が私を呼んだ。振り向くと、理紗がいて、その隣には背の高い感じの良さそうな男の子が立っていた。
「待った? ごめんね。」
「ううん、今来たところだから。」
ありきたりの返事をして、私は理紗の隣に立つ人に目を移した。
「こんにちは。初島香菜子です。」
私がにっこり笑って挨拶すると、彼は照れたように「戸田康介です」と言って笑った。理紗は嬉しそうに私たちのやりとりを見ていた。
私たちは、人通りの多い道沿いにあるこぎれいな店に入った。理紗と私が隣に座り、戸田くんが向かいに座った。注文を済ませた後、理紗と戸田くんは楽しそうに話を始めた。私は二人の会話に適当に相づちを打ちながら、外を眺めた。窓ガラス一枚を隔てて、外には別の時間が流れているようだった。せわしなく歩く人たちの列と楽しそうに話を続ける二人が同時に窓に映っていて、私はとても似合いのカップルだと素直に思った。
「いい人そうだね。どこで見つけたのよ?」
戸田くんと別れてから理紗をからかうと、
「バイトで一緒の人なんだけど。」
と彼女は嬉しそうに答えた。理紗は本当に幸せそうで、私はまたあのどろどろした気持ちが沸き上がってくるのを感じた。
「私もまさか付き合ってもらえるなんて思わなかった。」
どこまでも謙虚な彼女に「よかったね」と言いながら、私は別のことを考えていた。理紗から好きになったんだということ。私は彼女の幸せを壊してしまいたい衝動に駆られていた。彼女が幸せであればあるほど私は嫌な奴になっていく。電車に揺られながらいつのまにか私にもたれて寝てしまった彼女が私のこんな気持ちに気付くことはあるのだろうか。
夏休みが始まったばかりの頃、戸田くんから理紗に電話がかかってきた。理紗はいなくて、私たちは一時間近く話し続けた。電話を切る頃には、私たちはお互いに思ったよりも話が合うことに気付いていた。例えば、彼が高校時代から続けているサッカーのこととか、好きな音楽のこととか、そういう興味のあることがおかしなくらい一緒だった。そしてそれは、同時に、彼と理紗との違いでもあった。理紗はあまりそういうことに興味のない子である。戸田くんは、とてもいい人で、私は改めて理紗の人を見る目の良さに感心した。そして、この一度の偶然が始まりだったことに私はまだ気付いていなかった。
きっかけは、それだけではなかった。戸田くんが手に入れたというサッカーの試合に、理紗が私を誘ったのがいけなかったのだ。
「私、あんまりサッカー好きじゃないし。だから香菜子も一緒に行こうよ。」
理紗の誘いに私は素直に応じた。サッカーの試合はとても面白くて、戸田くんは理紗のいることを忘れたかのように、私と話し続けた。そして、私は理紗がいることを意識しながらも、彼と話し続けた。私はこのとき、とても残酷な喜びに浸っていた。人の彼氏を、それも好きでもない相手を奪ってみても、自分が惨めになるだけだという私の良識はだんだん消えつつあった。
それからの私は、偶然を装って、戸田くんと会うことに熱中した。最初のうちは、彼も理紗にそのことを話していたようだった。けれども、作られた偶然に彼も気付いたらしく、理紗への報告も徐々に減っていた。私はわずかに残っている惨めな気持ちを無視した。何も知らないのは、理紗だけだった。
「香菜子、明日の同窓会、一緒に行くよね。」
理紗が無邪気に尋ねる。
「二次会だけしか出ないけど。」
私の返事に彼女は驚いたようだった。
「何か用事?」
「うん、ちょっとね。」
本当は用事なんかなかったけれど、理紗と一緒に行くのが嫌だった。彼女はそんなことには気付かずに私が一緒に行かないことを残念がっている。理紗の気持ちには嘘偽りがなくて、私はこんな時とても困る。こんなふうに、たまに自分でもなぜ理紗が嫌いなのかわからなくなるときがある。
理紗が一足先に同窓会に出かけた朝、戸田くんから電話がかかったきた。
「理紗ならいないけど。」
「そっか。実はさ、」
ほんの少し間があって、私はそれだけで彼が何を言おうとしているのかわかってしまった。
「理紗と別れようと思って。」
戸田くんには悪いことをしていると思う。彼はとてもいい人だ。けれど決して好きなわけではない。私は自分のしたことを今更になって少し後悔した。でも、起きてしまったことを元に戻すことはできない。それに本当はこれが望んでいた結果なのだ。そして、理紗には戸田くんが彼女よりも私を選んだことを知っていてもらわなければ意味がない。理紗も私の敗北感を味わえばいいのだから。
同窓会の二次会には思ったよりも多くの人数が集まっていた。「どうしてた?」とか「元気?」とかそういうお決まりの挨拶をかわしながら、テーブルを廻っていると、「初島。」と懐かしい声が私を呼んだ。振り向くと、岡野優人という三年間通じて同じクラスだった友達が手招きしていた。彼は私が本音を話せた数少ない友達だった。そういう意味では、彼は理紗よりも私の近くにいたのかもしれなかった。卒業してから、連絡は取っていたものの、顔を見るのはとても久しぶりだった。
「全然変わってないなー。」
彼は嬉しそうにそう言った後、
「今日は来ないのかと思った。山田しか来てなかったから。」
理紗と私はいつも一緒に行動していたのだから彼がそう思うのは当然だった。ただ彼が理紗を見て、私のことを思い出してくれたということがとても嬉しかった。私は端の方で集まっているなかに理紗の姿を見つけた。彼女も私に気付いて、私を呼んだ。
「じゃあね、また後でね。」
名残惜しい気持ちで立ち上がると、
「初島はいつ向こうに戻る?」
と優人が聞いた。
「バイトがあるから、明日の朝には帰るつもりだけど。」
そう答えると、優人はしばらく何か考えた後、
「じゃあ、今週の日曜日は暇?」
と尋ねた。
「今のところ予定ないけど。」
「じゃあ、その日に初島のとこに寄ってから向こう帰ることにする。」
下宿先に帰る途中に私のところへ来てくれるつもりらしい。
「でも、理紗はどうかな。」
「初島はいけるんだろ? それならいいよ。」
私はうなずいた。彼が、理紗がいなくてもいいと言ったことが、私はとても嬉しかった。理紗に勝とうとして頑張ってきたどのことよりも重みがあるような気がした。
戸田くんが理紗に別れ話を切り出したのはその翌々日のことだった。朝から一日中バイトで、疲れてぐったりしているところへ理紗は帰ってきた。
「どこに行ってたの?」
そう聞くと、彼女ははぐらかすように笑って、
「暑いねー。クーラーいれようよ。」
と窓を閉めはじめた。そして、ふいに
「私、今日、別れようって言われちゃったんだけど。」
と私に背中を向けたまま、ひと言いった。
「そう。」
私の声は理紗に届いたかどうかも怪しいくらいにかすれていた。でも彼女にはちゃんと聞こえていたらしく、
「うわ。香菜子、風邪ひいてるんじゃないの? 気をつけなくちゃだめだよ。」
と心配そうな声が返ってきた。そして、彼女は次に食料の入った買物袋を片付けはじめた。
「……それでね、戸田くんは香菜子といるほうが楽しいんだって。」
「別に香菜子のことを恨んでるとかじゃないからね。仕方ないよね、こういうの。」
理紗は元気そうだった。私はじっと理紗を見つめて言った。
「私が慰めることなんてないよね。」
自分でも意地悪だと思える言い方だった。
「うん、ないよ。」
理紗は私の言葉の刺にも気付かずに笑顔で答えた。少しずつ限界が近付いてきていた。どうして理紗は笑ってられるのか、わからない。私のしたことは、彼女にとって意味のないことだったのだろうか。
「何で? どうして、笑っていられるの? ばかみたい。」
理紗は黙ったまま答えてくれない。でも、私は黙っていられなかった。
「理紗はそうやっいつも幸せそうだよね。私は何も知らなかった、どうしようもできなかったみたいな顔して、無意識のうちに人を傷つけてることにも気付かないままで。」
理紗はじっと私を見ていた。
「香菜子は、いつも私のこと幸せでいいなって思ってたんだよね。私はちゃんと気付いてたよ。」
目を反らすことが出来ないくらい、理紗の眼差しは強かった。
「私のこと、悩みなんかない子だって思ってたんだ。どうして、そんなふうに思うの? そんなふうに見られてるから、私はそう振る舞わなくちゃいけなくなっていった。辛いこととかあっても、私にはそんなことがあっちゃいけないんだって、自分に思い込ませてきた。あまり気にしてないふりをすれば、誰も傷つけなくて済むと思ってたから…」
理紗はとても悲しそうな目をしていた。私には返す言葉なんてなかった。理紗の台詞が
あまりにも意外で、彼女の言葉を理解するのに途方も無いくらいの時間がかかりそうだった。
「香菜子にはわかってもらいたかったな。」
優人と会う約束をした日曜日は、この夏一番の暑さだった。理紗がいなくなってから、三日経っていた。ガンガンにクーラーが効いている店で立ち仕事をしていた私は、昼ごろにはすっかり体中がだるくなっていた。優人との約束は三時で、駅まで迎えにいく約束をしていた。時計はようやく一時を回ったところで、店から駅へ直行するには早すぎた。
「お先に失礼します。」
と一声かけて外に出ると、かんかん照りの太陽と熱せられたアスファルトが私を襲った。私はいったん家に帰ることにした。帰ると、中はサウナ状態になっていて、死にそうなくらい暑かった。窓を開けると、生温い風が吹いていたがそれでもないよりはましだった。暑すぎて、波の音もいつもより遠くから聞こえてくるような気がした。私は極力理紗のことは考えないようにしていた。だから窓は閉めたくなかった。こうして、街のざわめきを聞いて、外とつながっていたかった。理紗がいなくなってからというもの、私には時間の感覚が欠如していた。気が付くと、三時になっていて、慌てて家を出ようとしたときに電話がけたたましく鳴り響いた。
「もしもし。優人? 今から行くから。」
優人からだと疑いもなくとった受話器からは、知らない声が聞こえてきた。
「山田理紗さんのお知り合いですか? 実は……」
理紗は信号無視の車に跳ねられたらしかった。そのときの様子のことや彼女がいま意識不明の重体であることを私は冷静に聞いていた。まるで夢のなかにいるようで、現実感がなかった。だからこそ私はこんなに落ち着いていられるのかもしれない。
「初島。」
なぜか優人の声がする。今日会う約束をしていたから彼まで夢のなかに出てきたのだ。それでなければ彼がここにいるはずがない。私はゆっくりと振り返った。彼の手には缶コーヒーとなぜかおにぎりがあって、やっぱり夢なんだと思った。でも手渡されたコーヒーはとても冷たくて、これが夢ではないことを示していた。優人が私をソファーに座らせようとしたけれど、私の足は全然いうことを聞いてくれない。立ち尽くしたままの私に、
「ちょっと外に行こうか。」
と言って優人が背中を押した。座れなかった私の足は今度は軽すぎるくらいに動きだした。外へ出ると、暗やみが辺りを包んでいた。いつのまにこんなに暗くなったんだろう。私は優人に促されるまま、ベンチに腰をおろした。そしておにぎりの包みをはがしているうちに自分が彼を駅まで迎えにいって、ここへ一緒に来てもらったことを思い出した。そろそろ見舞い客も帰る時間らしくて、私は羨ましい気持ちで駐車場から出ていく車の列を眺めていた。優人は私に何と声をかければいいのかわかりかねている様子だった。
「少し落ち着いたか?」
やっとのことで絞りだしたような言葉は私のことを気遣ってくれていて、体中の緊張が一気に解けていくのを感じた。
「私、理紗のこと嫌いだった。だから、これは夢だよね。いつも理紗がいなくなればいいのになんて思ってるから、こんな夢を見るんだよね。」
優人は声を失ったかのようだった。それとも何も言わずに話を聞いてくれようとしているのかもしれない。
「理紗はいつも私より幸せそうで、だから負けたくなかった。」
でも、理紗はそう振る舞っていただけなのだ。私は私の合格を彼女が素直に喜んでくれたときの笑顔を思い出した。彼女はいつでも私の味方だったことも。結局、私は本当の理紗を何一つわかっていなかったのだ。私は彼女に謝りたい気持ちでいっぱいだった。だから 「それは初島が山田のことを認めてたってことだろ。」
という優人の言葉はこの時の私にはよくわからなかった……
夏が終わり、秋の風が吹いている。
私はあの時のことをほとんど覚えていないが、ただ優人の言葉だけは鮮烈に思い出せる。あの言葉の意味をよく考える余裕ができた今、私が理紗に対して抱いていたわけのわからない憎しみは結局そういうものだったのかもしれないと思う。彼女のいいところばかりが目について、羨ましくて、彼女を意識しすぎるあまりに自分を見失っていた。そして彼女を嫌うことで自分を傷つけていた。せめて彼女の欠点が一つでも私に見つけられていたら良かったのかもしれない。結局、私は彼女のきれいなところしか見てあげられなかったのだ。理紗はいつも幸せそうだという先入観が彼女を縛り付けていたのだろう。悩みを打ち明けたくても打ち明けさせなかった私がいた。そして私はまた、合格を喜んでくれた理紗の笑顔を思い出した。本当は彼女も悔しかったのだ。
窓を開けると、遠くに街の明かりが見えた。そしていつもと変わらない穏やかな波の音と電車の音が聞こえてきた。私は私、理紗とは違うのだから。そして、理紗は理紗で私とは違う。明日、彼女は帰ってくる。病院食に飽きたと文句を言っていた彼女にご馳走するため、明日は朝から忙しい。彼女がいなくても料理くらい作れるところを見せてやらないといけない。私は彼女にごめんねを一回しか言っていない。でも彼女はわかってくれたはずだ。私は部屋がきちんと片付いていることを確かめて、眠りに就いた……
西野宏志
今朝も目覚めが悪かった。今でもまだ、鉛のように重くて、怠い。何処がどう悪いのかも分からない。自転車のペダルも、なかなか、思うように運ばないし、そんなことに構ってしまう事自体、煩くって鬱陶しい。交通事故に遭うなら、きっとこういう気分の時なんだろう。遭うなら今だ。ぼんやりそんなことを考えながら、市立図書館に向った。
館内の冷房はきつかったが、自転車を漕いでだらりと気持ちの悪い汗をかいていた僕には、ひんやりしてちょうど良かった。でも、そうはいっても、額やら首回りには、次から次へとじめりとした汗が滲み出てきた。
日頃見ない若い人達が結構いた。
がらんとした吹き抜けのロビーのソファーには、自習室にあぶれたのかそれとも集中力が切れたのか五・六人の高校生が腰を下ろして煙草を吹かしていた。あまり愉しそうに見えなかった。隣に座って一服をした。
外国文学のコーナーには先客がいた。用は日本の近代文学にあったのだけれど、彼女が気になって、一先づ、目の前にあったゲーテの一冊を取り出して無造作にぺージを繰ったこれなら怪しまれないはず。
彼女の外見は、あまり覚えられなかった。多分、顔立ち、髪の毛の長さ、肩幅、背丈、胸、服装もよく見るバランスだったように思う。そういうのはすぐ忘れてしまうみたい。ただ、彼女が縁無しの眼鏡を掛けていたことはしっかり覚えている。僕は眼鏡の似合う女のこが好き。そうは言っても、僕の通っていた高校生の頃によくいた、鈍くさそうだったり、間が抜けていたり、寝癖をつけていて平気で、いつも予習を済ませてるような味気ない眼鏡を掛けた女のこのこととは違う。眼鏡の似合う女のこ特有の深い眼差しと沈思しているような落ち着いたあの雰囲気のことをいうのだ。彼女の縁無しは僕と揃いだった。
彼女が手にしていたのはサガンの赤い背表紙の文庫本だったが、さっと目を通すとそれは書棚に仕舞ってしまい、代わりにカポーティの『遠い声 遠い部屋』を取り出した。その白く細長い指の動作はとてもエレガントだった。
深い藍色の背表紙が並んでいる中で、彼女は誘われるように選び取った、カポーティは僕の大好きな作家の一人。彼の世界をどう思うんだろう。嫌わなきゃいいのにな。
彼女は、僕の方をちらりとも見ないで、貸し出しカウンターに行ってしまった。
狭い狭いカウンターの、橙色の薄明かりの中で、マスターはいつも通り手早くモカのコーヒーを入れてくれた。
「まだちょっと眠そう。」
でもないんだけど、と少し首をかしげて、モカを一口含み酸味を味わってから、煙草をくわえ火を点けた。ここへは高校生の頃通い始めて、ガールフレンドを連れて来たりもした。みんな、小さな、狭くて薄暗く静かなここを気に入ってくれた。
元気ないね、とマスターは古めかしい棚から小さな花の柄のカップを取り出しながら、こっちに背を向けたまま言った。
「ここ十年元気そうだ、なんて言われたことないね。」
振り返ったマスターはくすっと口許に少し笑みをつくって見せた。それからいつもの通り週刊誌を二・三冊ぽんと前のカウンターに置いて席を外してくれた。
その中の一つを手に取り、片肘を突いてぼんやり眺めていると、戦下で暮らす子供達のルポルタージュが掲載されていた。毎日朝から晩まで終わることのない強姦、残虐な拷問、ぬいぐるみ型の小型爆弾、数千万個の地雷、それらの最たる被害者であり、加害者として少年少女の写真も載っていた。彼等は優秀な兵士となるらしい。その瞳は何か恍惚としていて薄っぺらい自信と闘争心がゴテャゴチャと渦巻いていた。でも、その奥はとても渇いていて、掛け替えのない大切なものが剥き出しにされ、ひどく痛めつけられていた。その眼差しはあちこちに突き刺さるばかりで何も見てはいなかった。
インタビューされた心理学者はこうコメントする。「彼等の正常な社会化は極めて困難である。」と。マスターにミックスサンドを注文した。
マスターが別の客に、ひどいもんだな、と言った。
そんな中、いつでもそうするように、ここから僕は彼女に電話をかけた。
部屋に帰ってくるとすぐ、眼鏡を片手で外し、べったりとした白いTシャツを丸め脱ぎ靴下を脱ぎ散らかし、少し丈の短いブルージーンズを脱ぎずりおろし、トイレに駆け込んだ。律義に昼なんて食べなきゃ良かったんだ。ゲエゲエ食べたものを吐いた後も、一度流した綺麗な水面にまで、喉元からだらりと延びた胃液を垂らしながら、白い便座から顔面を突っ込んでしゃがみこんだままでいると、だんだん楽になっていくような気がした。唇が小刻みに震え顳かみが疼く。呼吸が荒く、引き吊っている。腕時計の音が、近くなったり遠くなったりを繰り返す。
顔を洗い伸びている髪をかき上げ念入りにうがいをして出てくると、ベランダの一つしかない窓を開け、小さいけれど、いつも真っ白なシーツを綺麗に敷いてあるベッドに倒れ込んだ。
僕は部屋に、テレビもステレオも置かなかった。あったところで、見ないし聴かないから。ああいう刺激は、とても堪えて疲れる。しんと静まり返って、耳鳴りがするくらいがちょうど良い。
そんな中、いつものとおり、ぼんやりしながら彼女からの電話を待った。ひょっとしたら出掛けていた間にかかってきたかもしれない。僕は待つ。
何の変哲もない白い天井を眺めていると、それがだんだん低くなったり高くなったりした。目をつむると、今度は感覚がぼんやりとして、むやみに堆いケチャップの山が崩れていくように、だんだん身体がとろけていき、遂には水にでもなったようにわっと四方に広がり、ベッドに浸み込んでいった。空間にも散っていってぼんやり浮かび上がりもした。辺り一面、身体でびっしょり水浸しになった。
やがて、ぼくがいなくなってしまった、という不思議な気になる。僕は何の制約も束縛も受けない状態になっていた。僕には何の限界も境界線も存在せず、無限に広がり延びえた。そうしている内に、いつもの通り最後には消えてしまった。
玄関のチャイムがなった。
もう一度チャイムがなった。
ピンポーン。
ひょっとすると彼女かもしれない。ひらべったくツルツルになった僕の意識は部屋の隅を泳ぎながら、そう思ったが、ソレハヨクワカラナイ。あの女のこかもしれない。ソレハスコシワカルキガスル。
僕が彼女を知るずっと前から、彼女は僕のことが気になっていた。そして、僕の方も気になっていたことに彼女は気づいていたのだ。
おもむろに玄関に向かいながら、僕は両手で交互に髪をかき上げ、人差指で丁寧に目脂を取った。左足でサンダルを上から踏みつけたまま、安全キーを外し、ドアのノブを捻った。
「こんにちは。」
彼女は丁寧に会釈した。お辞儀の状態からゆっくりあげた顔は少し含羞んでとても可愛らしかった。眼鏡もちゃんと掛けていた。僕はただ、じっとその瞳を見つめた。彼女の瞳は滲んでしまって、僕と目が合わない。でもそれは、瞳自信が曖昧になっている為ではなくて、僕の深淵を拘える為だった。
願いは叶うということを実感した。世界の本質には、やはり否めない蓋然性というものがあり、どっちにも転びうるものなのだ。そうとも思った。
まあとにかく部屋に上がりなよ、ここは暑いし、と僕はいった。
「でもその前に確かめたいことがあるの。」
そう言って、彼女は笑みを崩さないまま、こくっとうなずいて見せた。
「避妊のこと? でもそんなこと気にしなくていいよ。来てくれて本当に嬉しい。その黄緑のワンピース、すごく感じいいね。あ、黄緑っていうなんてなんかオヤジ臭い。でも本当にいい色だよ。何よりも君にとても似合ってる。
「それにしてもよくここが分かったね。実は僕もずっと君のことが気になって。仕方なかったんだ。ね、気づいてた? 君と僕お揃いの眼鏡なんだよ。何いってるんだろ。僕ってよく変って言われるんだ。当の本人はどこがどう変なのか良く分からないんだけとさ。ここのところ、ずっときつくってさ。初対面でこんなこというのも何だけどすごく参ってて、僕には、指針とか規範とか、覇気とかエネルギーとか、そういった行動するにあたっての核のようなものが欠けてしまっているんだ。もう自分でもうんざりなんだ。もう立ちゆかない。
「よくわからない。誰かに一人ぼっちのぼくを拾い上げて欲しい。僕の欲しいものはたったそれだけなんだ。本当に。さっきからずっとぼくばっかり喋ってる。まあとにかく部屋に上がりなよ、ここはとても暑いし。
「本当に私が来ると思った? 本当にそう思ったの?
あなたやっぱりどうかしてるわ。私はあなたに、あなたの存在に気づいてさえいないのよ。
あなたの存在感がゼロなの。
あなた、いつまでもそんなだと死んでるのと同じよ。」
洗面所で顔をよく洗い、両手の親指と人差指で眉間と顳かみを両方一辺に思いきり押さえつけた。玄関のドアを開けてみると、ムッとする熱気がどんより中へ入ってきた。ドアに挟まっていた何かの請求書が地べたに落ちた。
「さっきからずっと待っている。」正面に広がる景色の前で、声に出してそう言った。
請求書を拾い上げ、部屋に入り、ドアを閉め、鍵をかけ、玄関にしゃがみこんで、踏みつけていたサンダルを元通りに揃え直した。形だけのキッチンに背中をもたれて肘をかけ、煙草を一本時間をかけてゆっくりと吸ってみたが、気分はどうしようもなかった。こんな時、いつも何故か、一頭の恐竜の姿が頭に想い浮かぶ。名前は分からないが、ティラノザウルスとかいった肉食で凶暴な類とは違って、首が長い、図体もとてつもなく大きい、ちっぽけな頭の脳天に鼻の穴が一つきり空いた、薄緑色の草食恐竜のことだ。
恐竜は、シダの原生林を背景にして、写真みたいにただじっとしているだけだ。一頭の巨大な恐竜が重たくずっしり、頭の芯にのしかかる。もううんざりだ。
僕はまたしても我慢し切れず、もう回数を数え返すことのできない、彼女への電話をとり憑かれたかのようにかけた。
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい。」
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい。」
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われてお」がちゃり。
空高く晴れ渡った冬の朝だ。明るくて冷たい。親密でいて遠く突き放す。
巨大な火山のクレーター上空に、ベッドは浮かんでいた。富士だ。クレーターの底は深く、闇に遮られている。大地は、見渡すかぎりの広大な、深い樹海に覆い尽くされていて、空は澄み渡り輝きの中で白く濁っている。太陽のせいだ。沈みかけのうなだれた太陽は、赫く染まろうとしているどころか、今頂点に達したばかりのように若く輝きをたたえている。大地の凡てが繋がり合っている。
ここには誰もいない。雲をすり抜け、遥か下降の大地に眼を滑らせていっても、遠すぎて何も見えない。空いっぱいに視線の弧を描いてみても透き通るだけだ。ここには誰もいない。話し相手になってくれそうな小動物も、浮かんでいるベッドを不思議がる鳥さえも。
樹海は遥か遠く、ざわめきを伝えない。ここは氷りついたように寒い。
どうして僕はこんなところに居なくちゃいけないんだろう。こんなに冷たく寂しいところに。ベッドは動きそうにない。飛び込む勇気もない。ただ覗き込んでは小さなベットの上で、オロオロするだけだ。
まもなく、僕を乗せたまま、ベッドは加速度を持ってクレーターの底へと下降していった。真っ暗な火口がより一層巨大に見え、その暗闇は凡てを一瞬にして呑み込んだ。
皆な、
みんな、
ミンナ…
赤ん坊のように、咽び叫んだ。
しかし、何も返答は無かった。僕自身の声さえも、何も。
目が覚めると真っ暗だった。部屋をあますところなく、闇特有の蒼が浸み込んで空間を落ち着かせていた。床に放りっぱなしの目覚まし時計に視線をやると、ぼんやり光る二つの針が2時20分過ぎを指していたが、ずっと前から止まっていたのを忘れていた。ベッドのすぐ横に置いてある小さなテーブルから腕時計を取ろうとしたが、時刻が分かったところでどうするつもりもないことに気がついて、やめた。代わりに煙草を取り、灰皿も引き寄せた。煙草はあと2本しか残っていなかった。ベッドの隅で開いたままじっとしている小説の残りぺージはまだ随分とあった。観念して、トランクス一枚の格好から白のTシャツと薄いグレーのスウェットを床から拾い上げてベッドの上で、寝ころんだまま着替えた。
外に出てみると、蒼色は部屋の中よりも薄まっていた。どの街頭の明かりもほんのり柔らかく辺りを照らしていた。小道の左右に立ち並ぶどの家もすっかり暗くって寝静まっていた。夕立でも降ったのか、アスファルトはつやのある黒色をしていた。
空はまさに夜空となって町全体に覆いかぶさっていた。おそるおそる見上げてみたが残念ながら、慎ましやかな星星はあまり見られなかった。でも、月が出ていなかったので、僕は言いえぬ安心感を得ることができた。月は嫌いだ。いつ見ても、あれの光は不気味で気持ち悪く、恐ろしい。素直でなく、謙虚でなく、健康でない。あの尊大な面持ちはまるで僕を殺す気だ。そして、奴はどこまでも追いつめる。
誰も通る人はいなかった。通る気配もなかった。歩いていると、涼しく、仄かな湿り気が空気を落ち着かせているのが肌で感じられて気持ち良かった。朝から何も食べず水だけだったが、特に空腹感を感じる訳でも具合が悪い訳でもなく、逆に何も入れていない身体がとても軽く、気分をうきうきさせる位だった。
次の瞬間、身体に裏切られた。
何もない道端で立ち止まってみた。あっという間に僕は立ち止まった。僕は訝って、今度は右手の指を親指から順番にゆっくりと折りたたんでみた。すると右端から順に何の障害も引っ掛かりもなく、とてもスムーズに自然と指が手の中へと折りたたまれていった。戻すときも同じようにいった。次に、立ち止まって屈伸をしてみると、いとも容易く身体は下から上へと立ち戻った。僕はますます嬉しくなって遂には走り始めた。膝は高く上がり、肘だってさらにいくらでも速くに振れる気がする程だ。僕の走る速度は風が切る音が聞こえるくらい知らない間に加速していた。
満足して立ち止まったがさすがに息が切れていた。でも、深く息を吸い込めるのは更に僕をいい気にさせた。一回一回、呼吸される空気は、荒れた喉の奥を冷やし、肺に溜った淀みをすっかり洗い流してくれるようだ。身体中の感覚が新たに研ぎ澄まされたみたいだ。清らかな心持だ。
身体は僕のものだった。身体は僕のために、ちゃんと残されていた。戦慄に酔った。そしてもう一度深呼吸した。
身体をギクシャクさせながら、僕は歩き始めた。道すがら横切った公園がとても小さく感じられた。
何処へ行く、ということはもうどうでも良かった。僕は最後の一本の煙草を取り出し、唇にくわえ、火を点け、深く煙を吸い込み、ゆっくり味わい吐き出した。そして空っぽになった箱を一息にくねりと捻り潰し、すぐ脇の屑籠の真下目がけて思いきり投げつけてやった。今夜はあてなく疲れを知るまで歩くことにした。