文章表現におけるサスペンスについて(3)

サスペンスとしての構成


野浪正隆

のなみまさたか

1. はじめに


1.1 前方読みと後方読み

 文章を読む場合に、一読しておわりということが多く、すぐに再読三読することは少ないが、一読の過程*1 を反省すれば、そこに二種の読みがあったことに気づく。

 題名・著者・(目次)・本文と書かれてある順にしたがって読み進めていくのが「前方読み」である。「語り手」に対応する「聞き手」*2 が「次はこうなるのではないか」と予測し、「視点人物」に視点を重ねた「視点読者」*3 が、即時に作品世界を体験していく。*4

 対して「後方読み」は、読みおわった後、「聞き手」自身が不明に思って文章の該当部分を読みかえすという読みである。例えば、「今読んだ段落に結局何が書いてあったのか、よくわからないからもう一度読もう」とか、「なぜここで主人公はこんなことをしでかしたのだろう、ああ、前の場面のあれが原因か」とか、実際に読みなおしたり、思い浮かべたりしているというように、本文を読み進めていく中でも「後方読み」をすることがある。文章中のある箇所にたいして、「前方読み」が行われている時、その箇所が先行文脈にどう組み込まれるかという「後方読み」が同時に行われていると考えておく方がよいようである。

 読みおわった時点で行う「後方読み」は、大「後方読み」と名付けておく。現在までの文章研究は、この大「後方読み」の研究であるといえる。ロラン・バルトは「S/Z」(1970)*5 で「前方読み」を意識した大「後方読み」的構造分析を行った。

 疑問やその答え、またその疑問を準備したり、その答えを遅らせたりすることのできるさまざまな付属物を多様な仕方で分節する機能、すなわち、謎を課し、それを解く機能を持つ単位の全体を解釈学的コード code hermeneutique と呼ぶことにしよう

 文章中に仕組まれた多くの疑問は、再読の時点では、疑問ではなくなっている。つまり、解釈学的コードは、即時読みの「前方読み」の時点に認めることができるのである。

1.2 「前方読み」を研究対象にする場合の問題点

 「前方読み」は読者の即時の精神活動であるから、具体的客観的にとらえることができず、自然科学研究的なアプローチは難しい。*6

 現段階では、研究者の内省によって「読み」の大まかな活動状況を記述するにとどまるが、「確かに、そういうふうに考えながら読んでいる」と認めることができれば、主観による資料であっても(共同主観的)客観性を持つことになりはしないだろうか。

 実際、よい書き手は、「ここをこう書けば、読者はこう反応するであろう」ということを知って書いている。読者の「読み」の実態を知って書いている。読者は自覚しないまま「読み」を行っている。母国語の文法を知らなくても、母国語を話したり聞いたりすることはできるが、文法を知ることで、母国語にたいする認識がいっそう深まるように、読み」の実態を知ることで、「読み」がいっそう深まりはしないか、「書き」がいっそう自在になりはしないかと考えている。


2. 実際の読みの過程と構成としてのサスペンス

 第1章で述べた「前方読み」と「後方読み」が、実際の「読み」の過程でどう働いているか、以下記述する。

2.1 テキスト

夕方の三十分 黒田三郎*7

01 コンロから御飯をおろす
02 卵を割ってかきまぜる
03 合間にウィスキーをひと口飲む
04 折り紙で赤い鶴を折る
05 ネギを切る
06 一畳に足りない台所につっ立ったままで
07 夕方の三十分

08 僕は腕のいいコックで
09 酒飲みで
10 オトーチャマ
11 小さなユリの御機嫌とりまで
12 いっぺんにやらなきゃならん
13 半日他人の家で暮らしたので
14 小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う

15 「ホンヨンデェ オトーチャマ」
16 「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
17 「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」
18 卵焼きをかえそうと
19 一心不乱のところへ
20 あわててユリが駆けこんでくる
21 「オシッコデルノー オトーチャマ」
22 だんだん僕は不機嫌になってくる

23 化学調味料をひとさじ
24 フライパンをひとゆすり
25 ウィスキーをがぶりとひと口
26 だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
27 「ハヤクココキッテヨー オトー」
28 「ハヤクー」

29 かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
30 「自分でしなさい 自分でェ」
31 かんしゃくもちの娘がやりかえす
32 「ヨッパライ グズ ジジイ」
33 おやじが怒って娘のお尻をたたく
34 小さなユリが泣く
35 大きな大きな声で泣く

36 それから
37 やがて
38 しずかで美しい時間が
39 やってくる
40 おやじは素直にやさしくなる
41 小さなユリも素直にやさしくなる
42 食卓に向かい合ってふたりすわる

2.2 「前方読み」「後方読み」の実際

 詩であるので、「聞き手」は、「誰が・何時・何処で・何故・何のために・どの様に・何を・どうしたか」という話題に対して、 詩人のとらえかた(趣意)が、明示(あるいは暗示)されているであろうと予測して読みはじめる。

 題名「夕方の三十分」から、夕方の三十分に起こった(あるいはいつも起こる)事態がこの詩に描かれていると予測する。

 01〜02……文末がともに「おろす」「かきまぜる」と、 動詞の終止形である。終止形は現在時を示すというが、先行文脈ないしその文中に「時の提示」がなければ、「不定時」を示すにとどまり、過去なのか現在なのか未来なのかは後続文脈によって決定される。01〜02は、ある日の夕方の三十分のできごとであると読むか、いつもの夕方の三十分のできごとであると読むか、この二行だけでは解らない。題名「夕方の三十分」をもとにしても、時は不定のままである。

 01の「コンロから御飯をおろす」行為は、いつもの行為であるらしいが、02の「卵を割ってかきまぜる」は、「いつもいつも卵を料理に使うことはあるまい」という常識的判断から、 ある日の夕方の三十分のできごとらしいと見当*8 をつけることになる。ただし、いつもの行為かもしれないという可能性は保持される。

●見当1 ある日の夕方の三十分のできごとらしい。
 誰が動作主であるかは、01〜02だけでは解らないが、多分詩人本人であろうと見当をつける。ただし、詩人以外の誰かが動作主である可能性は保持される。
 「動作主を省略した場合は、語り手が自分自身の動作を書く場合が多い」という常識的判断から、視点人物も、多分詩人本人であろうと見当をつける。ただし、詩人以外の誰かが視点人物である可能性は保持される。
 そして、注意深い読者であれば、「黒田三郎という男性の詩人が何故夕飯を作っているのか」という疑問を持つであろう。一人で暮らしているのか、奥さんがたまたま外出しているのか、奥さんと離婚したか、死別したか、お産で入院中か、結核などで長期入院中か*9、あるいは料理が好きなのかと、いくつかの可能性を想起して、後に書いているだろうと予測する。

●見当2 動作主は詩人本人であろう。視点人物も詩人本人であろう。

▼予測1 男性の詩人が夕飯を作っている理由は後続文脈にあるだろう。
 何処で行われているのかは、明示されていないが、題名と01・02とから、この行為は夕飯の用意であろうと見当をつけ、場所は詩人の自宅の台所あたりかと見当をつける。

●見当3 場所は詩人の自宅の台所あたりか。
 行為の目的はとりたてて見当をつける必要はない。
 常識的判断から見当がつけられずに残った話題素が、読者にサスペンデッド状態*10 を発生させる。

◆サスペンデッド状態1 いつのことなのか
 03……「合間に」は時の提示であるが、先行する事態の合間にというだけのことであり、「ある日」か「いつも」かを決定しない。
 「ウィスキーをひと口飲む」という夕飯の用意に必要でない行為から、動作主の性格(酒飲みであるらしい)や、 夕飯の用意に対する動作主の心的態度(「嬉々としながら」やっているのかどうか)に注目する。

◆サスペンデッド状態2 動作主はどんな性格の人間か、どんな心的態度か。
 04……01・02が夕飯の用意に関する行為であるのにたいしては、異質な行為である。

◆サスペンデッド状態3 なんのために折り紙で赤い鶴を折るのか
 05……01・02と同じく夕飯の用意に関する行為である。そして、注意深い読者であれば、「夕飯の献立は何か」という疑問を持つであろう。話題の本筋に関らないかもしれないが、サスペンデッド状態を発生させる。*11

◆サスペンデッド状態4 夕飯の献立は何か
 06〜07……01〜05で叙述された行為の、状況(場所と身体状態と時間)が叙述される。読者は、見当3が妥当であったことを確認することになる。「一畳に足りない台所」は狭い台所である。安アパートを想像する。動作主の経済状態の悪さを感じる。「つっ立ったままで」に動作主の疲労を感じる。

●見当4 動作主は貧しい暮らしをしているのではないか
 07〜10……1文としてとらえると、「夕方の三十分(はいつも)、僕は腕のいいコックで、酒飲みで、オトーチャマ(である)」*12と、ある日の夕方ではなく、いつもの夕方である、と読み補うのが自然である。 もちろん、「(ある日の)夕方の三十分、僕は腕のいいコックで、酒飲みで、オトーチャマ(であった)」である可能性は保持されるが。 サスペンデッド状態1は、「いつものこと」である可能性が大きくなる。
 08〜12……「僕」がどんな人間かを示す。「僕」という一人称代名詞を用いるのであるからまず男であろうと推定できる。「腕のいいコックで」とあるから、01〜07の夕飯の用意の行為者が「僕」という一人称視点人物であることも解り、見当2が妥当であったことを確認することになる。
 「腕のいいコック」に着目すると、自賛であるが、素直なものか皮肉かは解らない。

◆サスペンデッド状態5 自賛は皮肉か
 「酒飲み」は、03があるので、事実そのままに近い自己認定の叙述であるが、自分で自分のことを「酒飲み」と表明する場合は、酒を飲むことが立派なことではないことから、卑下のムードをともなう。「腕のいいコック」で生じたサスペンデッド状態5「自賛は皮肉か」は卑下のムードと結び付いて、皮肉である可能性が高くなる。

●見当5 語り手「僕」は、自分のことを皮肉るような性格である。
 さらに、「小さなユリの御機嫌とりまで」「いっぺんにやらなきゃならん」から、ユリが女の名前であり、「御機嫌取り」しなくてはならないような年齢の女であり、「小さな」であるから、女の子であることが解る。「小さなユリ」が、「僕」を、「オトーチャマ」と呼ぶのであろうから、父と娘の関係であることが解る。
 「ここで機嫌を悪くして、泣かれでもすると困るな」という場合も「御機嫌とり」をするが、ここは自宅で二人きりらしいから、この「御機嫌とり」は、普通の御機嫌とりではないと推定する。「御機嫌とり」に、「僕」の「ユリ」に対する「負い目」(茶化しているが)を感じる。「負い目」を感じない娘に対しては、御機嫌とりは必要ないからである。
 そして、サスペンデッド状態3の、なぜ「折り紙で赤い鶴を折る」のかは、「小さなユリの御機嫌取り」と関係づけられて、解消する。父と娘の関係が示されたのだから、当然「母はどうしたのか、いるのか、いないのか、それはなぜなのか」というサスペンデッド状態が再発生してよいところだが、サスペンデッド状態3の解消の影に隠れて、あまり意識されない。
 12……「やらなきゃならん」から、「僕」の御機嫌とりに対する心的態度「義務感から、いやいや(か?)」を推定する。「いっぺんにやるのだ」「いっぺんにできるのだ」という叙述と比較することで。
 13〜14……「半日他人の家で暮らしたので」は、「小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う」の理由であるが、直接の因果関係ではないように見える。「半日他人の家で暮らし」て、〜だったので、「小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う」の「〜だったので」の部分が叙述されていないようにみえる。読者は「一般に、いろいろな新しい経験をした後に、小さな子供がいろいろなことを言うことが多い」という常識的判断から、「いろいろな新しい経験をしたので」を、よく解らないながら読み補う。そして、

●見当6 他人の家に預けておいて、「僕」は多分働きに出かけていたのだろう。
●見当7 小さなユリの母は、なんらかの理由で、不在である。  の二つの見当をつける。
 15〜17……「小さなユリ」の父親にたいする行動要求の発話の描写である。13での読み補いを修正する。「いろいろな新しい経験をしたので」、父親にたいする行動要求をするでは、つじつまがあわないからである。小さな子供が行動要求を頻繁に行うということは、それまでに行動要求を抑えられていた、あるいは行動要求を我慢していたと見るべきで、13・14は、「半日他人の家で暮らして、(やってもらいたいことも遠慮して我慢して言わなかったので)小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う」と修正して、読み補う。14と15との間の空行は、「いろんなことをいう」とその具体的発話であるのだから、無くてもよいのに、有るから、違和感を生じさせる。読者は、この違和感によって、読み誤りに気付く。
 読者は、小さなユリを健気ととらえ、不憫ととらえる。視点人物「僕」も、多分そのようなとらえかたをしているのではないかと見当をつける。父のもとで遠慮も我慢も必要なく、いいたいことをいっている小さなユリの幸福感に同調する。

●見当8 「僕」は小さなユリを健気・不憫ととらえている
 18〜20……「卵焼き」であったので、サスペンデッド状態4「夕飯の献立は何か」の一部は解消する。現在は、一個20円ほどの卵だから御馳走ではないが、作品世界の時代がわからないので御馳走なのかもしれない。「一畳に足りない台所」と「卵焼き」を関係付けると、見当4の「動作主は貧しい暮らしをしている」可能性は大きくなる。ともかく簡単な料理であることに間違いはない。それを「一心不乱」でということになると、「僕」が料理に慣れていないことが解る。予測1の可能性のうち、一人で暮らしているのか・あるいは料理が好きなのか、を消去する。
 20〜21……ユリの行動と「僕」に対する行動要求発話である。「オシッコデルノーオトーチャマ(便所に連れていって、おしっこさせてぇ)」ということである。緊迫感を起こさせる事態である。「一心不乱」が「僕」の内面の緊迫状態であるのに対して、20・21の事態は、「僕」にとっては外界の緊迫状態であり、「僕」に視点を重ねている読者は、内外から緊迫を感じる。

◆サスペンデッド状態6 「卵焼き」は「ユリのおしっこ」はどうなるか。
 22……「僕」の心理状態の変化の叙述である。サスペンデッド状態6の「卵焼き」はともかく、

●見当9 「ユリのおしっこ」は、何事もなく終わったらしい(はぐらかされた感じを持ちながら)
によって、サスペンデッド状態6は解消する。
 「不機嫌」は、思い当たる。*13 ユリに「負い目」を感じ、ユリを「健気・不憫」ととらえる「僕」は、ユリを無視し切れないから余計に不機嫌になるのだと共感する。
 23〜25……「僕」の行為(夕飯の用意)である。「ひとさじ」「ひとゆすり」「ひと口」とレトリカルさを感じる。18〜21の緊迫状態とうってかわった静けさを感じる。行為は静かであるけれど、「僕」の心理状態は単に静かではないようである。22「不機嫌」25「がぶりとひと口」とを関係付けて、

●見当10 「僕」は不機嫌さを抑えようとして抑え切れないでいる。と見当をつける。
 22と23の間に空行があって、「22の不機嫌の叙述は終わったか」と思った後の23〜25である。読者が主体的に22の不機嫌に23〜25の行為を関係付けなければならない仕組みである。空行(連構成)にサスペンスがあるといえる。
 26〜28……「ユリ」の不機嫌は、「僕」が不機嫌になって「ひとさじ」「ひとゆすり」「ひと口」ばかりをして、「御機嫌とり」をしなくなったことによるのだろう。22と対になる26であるが、単に「僕」が不機嫌になったから、というのではない。23〜25の行為を、「ユリ」が不機嫌になった理由として、読者が関係付けなければならない仕組みである。
 「僕」と「ユリ」が、不機嫌になる。

◆サスペンデッド状態7 「僕」と「ユリ」は、どうなるか。が発生する。
 29〜32……「かんしゃくもち」どうしが「怒鳴る」「やりかえす」。口喧嘩に近い。「オトーチャマ」と「小さなユリ」は「おやじ」と「娘」になってしまう。サスペンデッド状態7解消。クライマックスを感じる。同時に

◆サスペンデッド状態8 どう決着がつくかが発生する。
 33〜35……「お尻をたたく」は、かんしゃくが爆発しても、節度ある行為と感じる。少し意外である。興奮で心をコントロールできなくなることはない「僕」の心的態度に着目する。興奮していてそして醒めた心を感じる。「娘」は「小さなユリ」に戻る。小さなユリの泣き声は、後悔している「僕」に、大きな大きな声として聞こえる。「小さなユリ」と「大きな声」の対比を「聞き手」がとらえたとき、「視点読者」を「僕」に心情移入させる補助的な役割を対比がしているように、「聞きて」はとらえる。ユリの泣く姿と泣く声を「視点読者」はとらえ、ユリを泣かせた「僕」の悲しみを感じる。
 36〜39……時間の進行がゆっくりになったと感じる。「しずかで美しい時間が(徐々に)やってくる」ことが、36「それから」37「やがて」によって、感じる。36は単に継起接続を示すだけではない。36に、「今までのことは、それはそれで置いておいて」という、語り手「僕」のとらえかたを感じる。

●見当11 「しずかで美しい時間」は仲直りの時間であろう。
 40〜42……「しずかで美しい時間」の内実が、「おやじ」と「小さなユリ」の素直にやさしくなる」という二人の心理面*14であることを読み取り、見当11が妥当であったことを確認する。そして、「食卓に向かい合ってふたりすわる」が、読者が想定した行動面よりも、二人の情意面を露にしない行動描写であることに、感心する。行動描写で詩が終わるところに「余韻」を感じる。これは、その描写をどう位置付けるか考えている間、同時に感じつづけるからであろう。「向かい合って」に「対等」を読み取ろうとして、危うく「協調」を読み取る。

 さて、「即時読み」で、読み終えたが、この詩の総てを読み取った感じがしない。解決していない見当・予測・サスペンデッド状態を、検討する大「後方読み」を行う。

◆サスペンデッド状態1 いつのことなのか
  → ある日か、いつもか、不明であった(いつもの可能性大)

▼予測1 男性の詩人が夕飯を作っている理由は後続文脈にあるだろう。
  → 手掛かりとなる叙述が無かった。

●見当7 小さなユリの母は、なんらかの理由で、不在である。
  → 手掛かりとなる叙述が無かった。

 いつのことなのかを「ある日」と仮定すると、詩は、「ある日、妻が外出していないので、僕は夕飯の用意をした。娘がいろいろと邪魔をした。口喧嘩をして、娘の尻を叩いて、娘は泣いた。その後で、仲直りをした。」という話題(中心話題=仲直り)と、「安らぎ、幸福、素直、やさしさ」という趣意とを読み取ることになる。妻の不在は、僕が夕飯の用意をすることだけの理由になる。
 いつのことなのかを「いつも」と仮定すると、詩は、「妻がいつものように不在であるので、僕は夕飯の用意をする。娘がいろいろと邪魔をする。口喧嘩をする、娘の尻を叩くと、娘は泣く。その後で、仲直りをする。いつものように。」という話題(中心話題=妻が不在のわれわれ二人の暮らし)と、「いつものわれわれ二人の不幸と幸福だ」という趣意とを読み取ることになる。妻の不在は、僕が夕飯の用意をすることだけの理由ではなく、中心話題や趣意に関係する状況として読み取ることになる。仲直りをしても、また次の日になれば同じことを繰り返すのである。


3. サスペンスとしての構成

 われわれは、文章を読み進めていくとき、読み進むに連れて埋められていく話題素の配列(思考上にある)を操作しているようである。*15
 話題素の配列を埋める方法は三種ある。

  1. 文章に叙述されている話題素をそのまま埋める。
  2. 文章に叙述されている話題素をもとに、常識的判断によって、見当をつける。
  3. 見当をつけようとして、つけられないことから、サスペンデッド状態として、残す。

 文章の構成がサスペンデッド状態を発生させるのは、上記3に関る。
 テキストは、線条的であるから、主要な話題素をすべて同時に示すことができず*16、サスペンデッド状態は常に発生するのであるが、*17 その発生と解消にはいくつかのパターンがある。

  1. 短期に解消するサスペンデッド状態。
  2. 長期間解消しなくても「聞き手」が「まあ、そのうち解消するから」と常識的に判断し、実際解消するサスペンデッド状態。
  3. 解消しないまま放置されたサスペンデッド状態
  4. 「聞き手」が、行間を読んで発生させたサスペンデッド状態

 「聞き手」がサスペンデッド状態を解消する際に発揮する積極性主体性の度合いに、違いがある。もちろん、4が最も大きく、1が最も小さい。
 1・3は叙述上で確認できるので、文章論の対象とする事ができるが、2・4は「聞き手」の常識的判断や行間読みという叙述上で確認できない思考であるので、読者論読書論の対象である。
 しかし、2・4も、送り手の叙述上の仕掛け(サスペンス)であると考えて、文章論の対象としていく必要がある。1・3だけを分析して、「ある日、妻が外出して、いないので、僕は夕飯の用意をした。娘がいろいろと邪魔をした。口喧嘩をして、娘の尻を叩いて、娘は泣いた。その後で、仲直りをして、安らぎ・幸福・素直・やさしさを感じた」という主題を導くのは、読みが浅すぎるというものだし、2・4を分析せずに「妻がいつものように不在であるので、僕は夕飯の用意をする。娘がいろいろと邪魔をする。口喧嘩をする、娘の尻を叩くと、娘は泣く。その後で、仲直りをするのは、いつものわれわれ二人の不幸と幸福だ」という主題を導くのは、飛躍がありすぎるというものである。

 今後、サスペンスとしての構成を明らかにするために、各文章種における話題素を調査すること、テキストにおける話題素の提示の順序と叙述法との関係を調査することとが、課題として残されている。


注記

  1. 以下「即時読み」という語を用いる。

  2. 「話し手」に対応する「聞き手」と同じ語で、紛らわしいが、読者内部の役割分担に対して「聞き手」という語を仮に用いておく。例えば、小説のある一場面を「回想場面だな」ととらえるのは、「聞き手」である。

  3. これも変な語だが仮に用いておく。

  4. もちろん、論説文評論文においては、登場人物があらわれたり視点人物が事態を体験したりすることが稀であるから、「前方読み」といえども、「聞き手」本位の読みである。小説文物語文においては、「視点読者」「聞き手」の二つの役割を、読者が行うことになる。

  5. S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析 ロラン・バルト 沢崎浩平訳 p20

  6. 読者が文章中のどこを今見ているかを記録する装置がある。感情の動きを発汗・発熱・呼吸数・心拍数によって記録する装置がある。これらを使って読みの外面を記録することができる。記録をもとに、読者にたいして「ここを読んでいるときに感情の昂ぶりが見られましたが、なぜですか」と尋ねることもできる。しかし、得られる回答は読者の主観(読んでいる最中の主観とは違う主観)によるものになる。大脳生理学が進んで、頭につけた電極から得られる脳波によって脳のどこの部位がどう活動しているかが即時に記録されなければ、 人間の精神活動を「客観的」に取り扱うことはできない。

  7. 黒田三郎詩集所収詩集「小さなユリと」より 本文は思潮社の現代詩文庫によった。連を区切る空行は、本文通りである。論者の都合で、行番号を施した。

  8. 即時読みにおいて、本文に叙述されているデータと常識とを元に、当面の判断を下すことを指す。

  9. 詩集の次の詩「九月の風」のなかに、
    ユリはかかさずピアノに行っている?
    夜は八時半にちゃんとねてる?
    寝る前歯はみがいているの?
    日曜の午後の病院の面会室で
    僕の顔を見るなり
    それが妻のあいさつだ
    とある。本テキストの読みに直接関わらないが、参考までに。


  10. 拙稿「文章表現におけるサスペンスについて(1)−−サスペンスとしての比喩−−」 学大国文第36号
    拙稿「文章表現におけるサスペンスについて(2)−−サスペンスとしての描写−−」 国語表現研究第6号


  11. 宮沢賢治の「注文の多い料理店」は「献立は何か」というサスペンスで構成された作品である。

  12. ( )の中身は論者が補った。以下同様に、本文の引用に( )でくくって、論者の補い読みを書き込んである。

  13. 今、こうして自分の考えを緊張しながら書いている最中に、4歳になる娘が「これ見てよー」とやってくる。無視し切れない邪魔である。両者を同時に処理することは不可能である。ストレスを感じる。

  14. 行動面として、やさしい言葉をかけあうや、相手のために何か手伝うとかしてあげるとかが、想定できる。

  15. もちろん、文章種によって話題素に違いがある。

  16. 例外に論説文評論文がある。正当性の補強のために事例提示・推論過程が付加された論説文評論文は、正当性の確認後、要旨に還元できる。このような要旨は、主要な話題素配列を一文ないし数文に集束させたものである。

  17. 「言葉はすべて比喩だ」というのと同様に。

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