第四章 新聞投書を利用した意見文の取り立て指導

 
 

1 授業のねらい

 朝日新聞の読者からの投稿による「声」「若い世代」(九九年三・四月分)に記載された、比較的若い世代の意見文を素材にして五百字の意見文を書く指導を行った。新聞の読者の声を、教材化した理由は、

  1. 文章の内容が、高校生たちの日常の生活と連動していて新鮮であること。
  2. 書くための動機を喚起する素材として適当な題材が扱われていること。
  3. 身近なテーマから考えを発展的に深めていけること。
  4. 自分の主張やメッセージを明確に表現する文章で、主題意識を高めるのに好都合であること。
などがあげられる。新聞投書の意見文を紹介し、その文章の構成を解説した後に、「導入・展開・反論・結び」の四段落形式で新聞社への投稿を意識して意見文を書くように指導した。今回の授業のねらいとしては、次の4点があげられる。
  1. 身近な話題から、書くことの内容を考え深めていく。
  2. 意見文の型「導入・展開・反論・結び」を守って、五百字の論理的な文章をつくる。
  3. 新聞社へ投稿することで、読み手を意識した「場」の設定をする。
  4. 主題文に傍線を引かせることで、主題意識を高める。

 新聞投書に記載された内容は、現実の高校生たちが共感できるものが多く、素材としてはかなりの感情移入ができる。同世代の高校生の意見に触発されて、自分なりのメッセージを発信し、主張していくことを目標に授業に取り組んだ。
 「導入・展開・反論・結び」の四段落形式で意見文を書かせるように指示した理由は、物事を一つの側面からではなく複眼的な目で捉えさせたかったからである。あるテーマに対して「対立的な構造」を発見させることで、意見の拡充、深化を図ることができる。新聞投書では、様々な問題に対して多様な人たちが立場の違う見解を述べあっているものが多く、考えを深めていくのに好都合な素材が多い。今回、資料化した中では、「若い人や女性の言葉の乱れ」について、大学生・中学生・小学生といった3人の女性がそれぞれの意見を展開していく一連の流れがいい例となった。
「対立的な構造」を発見することは、大西道雄氏による「意見文の生成過程」の中で、漠想から分化想へと進む部分に相当する。新聞投書の意見では、高校生にとって身近で現実的なテーマを扱うことができるために、「対立的な構造」を発見させるには、非常によい思考トレーニングになると考えた。その為の具体的な手段として、「導入・展開・反論・結び」という四段落構成を利用した。この文章構成を用いれば、自分の立場を明確に設定でき、予想される反論への反論を行うことで、意見文の説得力を高めることができる。論理的な文章構成をわかりやすく教える手段としても有効であると考えた。さらに、反論部を作成することが難しいと予想されるので、「確かに〜。しかし、…。」、「もちろん〜。しかし、…。」「(一方)〜という意見(見方)もあるが、しかし…。」といった論理キーワードを、反論の第三段落の冒頭で必ず使用するように指示した。
 今回の取り組みでは、新聞社への投稿を呼びかけることで、五百字の字数を設定し、自分の作品の読み手は、広い年代の人々であることを意識させた。架空の読者を設定することで、読み手意識を高めることができるのではないかと考えた。実際、希望者の原稿を、地元の大分合同新聞社、朝日新聞西部本社へ送り、クラスメートの作品が新聞に掲載されたことで、生徒たちの文章表現に対する興味と関心を喚起することができたと思っている。
 主題文に対して傍線部を引かせたのは、主題意識を高めるための工夫である。授業全体が文章構成の型を教えることに終始している嫌いがあるために、自分が一番、訴えたい内容である主題文を明確にするために、傍線を引かせた。大西道雄氏の「意見文の生成過程」では、分化想から統合想に進む過程に働きかける工夫として、このような条件を設定した。主題文を置く位置については、自説の反対意見を述べる箇所を除けば、どこに置いてもかまわないと生徒たちに指示をした。
 以上のような、作文の条件を設定をして、生徒たちの作品がどうできあがるかを検証した。  
 

2 授業の指導過程(4時間)

〈第一時〉 新聞投書の資料NO1〜NO4を配布して、読み合わせをする。
〈第二時〉 五百字の作品例を提示して、「導入・展開・反論・結び」の意見文の型を紹介し、この型にのっとって意見文を書くように指示する。
〈第三時〉 下書きをする。
〈中間考査〉 一学期、中間考査の試験として、清書をさせる。
〈第四時〉 各クラスごと優秀作4編を選び、読み合わせを行った後、最優秀作品を1編、生徒たちの投票で選出する。

 本単元終了後に、新聞社投稿用の原稿用紙(六百字)を作り、希望者に提出をさせて、実際に新聞社にまとめて送った。朝日新聞西部本社へ8編送り、2編が掲載された。地元の大分合同新聞社へは6編送り、全てが掲載されている。投稿は希望者だけに限ったので、実際は投稿を勧めた優れた作品もあったが、本人の意思を尊重して断念した作品も多かった。  
 

3 授業の実際

 まず、資料として教材化した新聞投書の一部をあげてみたい。全て、朝日新聞の「声」「若い世代」の3・4月に掲載された読者からの投稿原稿である。この中には、今回、条件として設定した意見文の型になっている作品もあり、それぞれの作品の文章の構成と、その主題文にあたる箇所については、読み合わせの際、その都度、注意して解説するように心掛けた。

女性の言葉が乱れています    大学生 白井 文子    (埼玉県越谷市 22歳)

 最近、自分も含め、若い女性の言葉遣いの悪さが目立つように思う。友人と話していても「ハラ痛い」「てめえ」など、みんな平気で言っている。私も気をつけているが「こういうやつ」など、よく考えると下品と思われる言葉も使ってしまう。
 先日、電車に乗った時、同世代ぐらいのカップルが向かい側に座っていた。女性は顔立ちも美しく、あでやかな色の服を着て、とても、すっきりした感じの人だった。
 見とれるほどの人だったが、この女性の言葉を聞いて驚いてしまった。「うちのババア、すげえうぜえ」と大声。電車から降りる時も、同伴の男性に「トロトロすんなよ」などと言っていた。
 最近の子供の口の悪さも目立つ。母親らの口まねだろうか。テレビに出てくる若い女性のタレントも、平気で下品な言葉遣いをし、年配者に敬語も使わない。テレビの影響は大きいので、これらも子供がまねをする。
 日本の経済も気になるが、日本語の将来も気になる今日このごろである。

(99年3月21日)
 

10代への認識改めさせたい    中学生 福芳 麻衣子    (福岡県飯塚市 13歳)

 「若い人や女性の言葉の乱れ……」(二十一日付)についての記事を読み、私も同じ思いでいます。
 隣のクラスには、ちょっとかわった、かわいい声でしゃべる「オレ」と自称する女生徒がいます。その生徒は、制服のスカートも短く髪も染めています。私は友だちになりたいとは思いません。けれども、その生徒の仲間たちは「でも優しいよ」と口をそろえて言います。
 最近、十代による犯罪が多発しているようですが、テレビ番組などの影響があると思います。そのために若者のイメージが悪くなっているような気がします。
 こんな時こそ、乱れた言葉遣いはやめて服装も正して、大人たちの「色眼鏡」を外させなければいけないのではないでしょうか。

(99年3月29日)
 

髪型や服装は「個人の自由」    小学生 熊田 麻実    (山口県 11歳)

 「10代への認識改めさせたい」(二十九日付)の女子中学生の意見に、私は反対です。
 私はかみを茶色にそめています。そのため、すれちがう人に、「小学生のくせに……」と言われます。でも、私はこの茶色のかみが気にいっています。このかみのせいで仲間はずれにされたり、くつをかくされたりしました。
 確かに十代による犯罪はたくさん起きてイメージは下がっています。それでは、あなたはイメージを上げていますか。流行の服を着たり、流行の物を買ったりしていませんか。あなたも知らぬ間にイメージを下げているのです。
 大人の中には、かみをそめていても、流行を身にまとっていても、「個人の自由」として認めてくれる人がいます。あなたは、自分やまわりの人を色めがねで見ていませんか。かみをそめたり、流行の服を着たりするのは、私は個人の自由だと思います。

(99年4月6日)
 

駅で堂々化粧今風の女高生    無職 野村 恒子    (茨城県 69歳)

 とても寒い朝でした。駅の待合室で時間待ちをしていたら、隣の席にルーズソックスの女子高生が腰をおろしました。
 すると、その女子高生がお化粧を始めたのです。「あれれ」と思い、そっと横目で見てしまいました。
 まず、まつ毛を丁寧に整え、次はアイシャドー、最後は口紅をきれいにつけたのです。その間、数分。その手際のよさに、思わず見とれてしまい、気がついた時には、その女子高生が電車に乗る後ろ姿を見送っていました。 そして、考えてしまいました。毎日、お化粧しているのだろうか。今日は時間の都合で、駅でのお化粧となったのだろうか。授業中も、あのままなのだろうか。また、都会では、当たり前なのだろうかとも。
 大衆の面前で、おくすることなく、お化粧をする様子からは、少女らしさは感じられません。一人前の女性の姿が重なりました。
 「今風」という言葉を、よく耳にします。女子高生のお化粧も、その今風なのでしょうか。
 昭和一けた生まれの私は、少しだけ驚きました。そして、一瞬ですが、セピア色の女学生時代が脳裏をよぎりました。戦争で制服も着られなかった、あの時代が。

(99年3月26日)
 

性差別許さぬ強い心持とう    高校生 増井 あさみ    (山口県宇部市 16歳)

 「お前みたいな公衆便所がいるから、男はみんなズボンをずり下ろすんだよ。」
 これは、あるテレビドラマのセリフですが、この言葉に怒りを感じた女性は多いのではないでしょうか。
 男女平等社会と表向きにはよく言われますが、女性差別はいろいろなところに根強く残っています。この問題を解決しなくては、と言いつつも差別の解消はならず、問題は長期化しているように思われます。
 男性にとって女性は母親的存在で、自分を癒してほしいという願望があるかも知れませんが、そのどこかに性的な対象としか見ていない部分もあるように思います。
 女性は男性と同じ人間で、男性に都合のよい道具ではありません。女性に対して差別的、性的対象となる言葉を使うのは慎むべきではないでしょうか。
 女性も精神的に強くなり、もっと自分の体を大切にしてほしいと思います。

(99年3月22日)
 

「家事は母親」CMに違和感    中国語講師 井上 昌子    (山口県宇部市 34歳)

 最近、気になってしょうがないCMがある。夫婦と子供で出かけ、夕方帰宅したらしい場面なのだが、家族みんなが「ご飯は?」と母親に詰め寄り、母親は疲れているのか、責任放棄をごまかすかのように動物の「ナマケモノ」のマネをする。
 このCMは「作りたくないときにも簡単にできる我が社の製品」と言いたいらしいのだが、なぜ、食事作りが母親の役目となっているのだろう。みんなで外出して、みんなが疲れている中で、なぜ母親だけ、さらに食事作りを要求されなければならないのだろう。
 なぜ、「今日の食事当番はお父さん」とか「お父さんもお母さんも疲れているとき、子供にも簡単に作れる我が社の製品」とはならないのだろう。 共稼ぎの夫婦は増えても、家事の負担は相変わらず女性が背負っているという。外で同じように疲れ、帰宅してさらに「家事」という仕事を要求され、「結婚しても負担が増えるだけ」と考える女性が増えるのも無理はないと思う。
 非婚化、少子化の根っこは、こんなところにもあると思うのは、考えすぎだろうか。

(99年3月22日)
 

無神経な報道視聴者も責任    高校生 久保 慎司    (熊本市 17歳)

 先日、歌手の安室奈美恵さんの母親が殺される事件が起きましたが、テレビ報道の在り方に疑問を持ちました。
 どうして報道陣は遺族に無神経につきまとうのでしょうか。自分がその遺族の立場であったなら、きっと悲しみを通り越し、怒りを感じるでしょう。
 人が亡くなったということを、そんなに公表しなければならないのでしょうか。自分の母親が亡くなり、悲しみに暮れている時に、さらなる苦しみを味あわせることはないと思います。
 しかし、忘れてはならないことがあります。それは、そのような興味本位の報道を喜んでみている視聴者がいると言うことです。
 視聴者がいるから、そのような報道が番組の中に組み込まれているわけで、もしも他人の不幸を自分の不幸のように思うことのできる社会であれば、このような番組は成立しなくなるでしょう。
 報道の在り方も改善されるべきだとは思いますが、一人ひとりが他人の気持ちを思いやることができるようになることが最も大切なのではないかと思います。

(99年3月25日)
 

在日の私にも歌える国歌を    高校生 全 美香    (東京都台東区 17歳)

 最近紙上をにぎわしている日の丸と君が代を法制化しようという動きに、私は在日韓国人ですが、少し納得がいきません。
 私は小学校からずっと日本の学校に通っています。もちろん、君が代も何度も歌ったことがあります。でもある日、祖父から「君が代なんて歌は歌っちゃ駄目だ」といわれ、子供ながらも困惑したことを覚えています。
 日本が、韓国・朝鮮人をひどく差別していたころのことが、祖父の脳裏から離れないのです。
 幸い、私は友人に恵まれ、今まで韓国人ということで差別を受けたことはありません。しかし今、自分の将来について考えることが多くなるにつれ、日本の中に残っている差別に直面することがあります。
 日本で生まれ、学び、暮らしているのに、民族の違いだけで差別される世の中に。
 私は日本が好きです。オリンピックやW杯の時だって日本を応援しています。でも、日本と韓国の歴史的背景や、現在も残る差別を考えると、君が代を日本の国歌として受け入れにくいのです。
 外国籍の私が口を挟む問題でない、といわれるかも知れませんが、私は、日本に住んでいる人々全員が気持ちよく歌える国歌が出来ることを望んでいます。

(99年3月27日)
 

 教材化した新聞投書の文章は、言葉遣い・服装や頭髪、お化粧などの風俗問題・性差別や男女同権などの問題・マスコミ報道の在り方・日の丸、君が代問題など非常に多岐にわたる問題を取り扱っている。投稿者の世代は、小中高校生を中心として生徒たちの世代に近い作者の文章を選んだ。
 「女性の言葉が乱れています」・「10代への認識改めさせたい」・「髪型や服装は『個人の自由』」の3つの文章は、それぞれ連動しており、紙上デイベートとも言えるような構成をとっている。特に、小学生の文章である「髪型や服装は『個人の自由』」は、条件とする四段落形式の型に沿っており、その構成を次のように解説した。

「髪型や服装は『個人の自由』」の文章構成図
1 導入 言葉遣いや服装を正すべきであるとする女子中学生の意見に私は反対である。
(自分の立場をはっきりと示す。)
2 展開 私はかみを茶色にそめているので、仲間からいじめられている。
3 反論 確かに、十代による犯罪は多発し、そのイメージは下がっている。
(しかし、)あなたも知らぬ間にイメージを下げている。(流行の服・物で)
4 結び (主題文)かみをそめたり、流行の服を着たりするのは、私は「個人の自由」だと思います。
キーワード 「個人の自由」

 この文章は、反論部に感情的な意見が見られ、論理的な論証としては弱いが、今回、作文の条件として設定した四段落構成になっており、その点を強調して、この型で書くことを指示した。取り上げた文例の中では、熊本の高校生による「無神経な報道視聴者も責任」が出色のできばえだった。実際、このようなレベルの意見文が書ければ、高校生の小論文としては、申し分ないとして生徒に紹介した。この文章の構成は次のようになっている。

「無神経な報道視聴者も責任」の文章構成図
1 導入安室奈美恵さんの母親の死を扱うテレビ報道の在り方に疑問を持つ。
2 展開T 悲しみに暮れる遺族に対して、報道陣はあまりにも無神経である。
3 展開U(別の見方や視点を示して、思考を深めていく。)
しかし、興味本位の報道を喜んでみている視聴者の存在を忘れてはならない。
4 結び(主題文)報道の在り方も改善されるべきであるが、一人ひとりが他人の気持ちを思いやることが最も大切である。
キーワード「無神経」・「興味本位の報道」

 以上のように新聞投書の文章構成図を解説した後に、「駅で堂々化粧今風の女高生」という投書に触発された形で、今回、条件とする意見文の型にのっとって、ひな形になる例文を作成した。それは、次の通りである。

 公と私の場のけじめを  〜女子高生のお化粧を考える〜   (田口・作)

 最近、お化粧をして学校へ通う女子高生が増えています。授業中に手鏡をとり出して容貌をチェックする生徒は、ここ数年で目立ってきました。
(問題提起・導入部)
  • ある話題を取りあげ、それに対する自分の立場を明示する。(賛成・反対)
  • ある事実を述べ、紹介するか、または、その問題点を指し示す。
 巷にモノが氾濫している豊かな社会の中で子どもたちの生活も多様化しています。プリクラ手帳やルーズソックスなど女子高生、特有の文化というものが存在しています。お化粧も「今風」の彼女らの文化の一つとして、 定着しつつあるのかも知れません。人前で堂々とお化粧するのは、何も女子高生に限られる現象ではありませんが、授業中にポケベルが鳴ったりなど、公と私という場のけじめのなさに唖然とすることがあります。

(展開部)
  • 提示した問題に対して、具体例や自己の体験をあげて、論じる。
  • 提起した問題に対して、自分の立場の根拠を述べる。
 もちろん、おしゃれ自体を否定するつもりはありません。いつの時代も「かっこよさ」というのは若者の憧れです。しかし、お化粧までせずとも、その演出は可能なのではないでしょうか。

(反論部)
  • 予想される反対意見、もしくは別の見方や視点をあげて、反論する。
 授業が始まっても机の上にペットボトルのお茶が残っていたり、昼食後のベランダのゴミの散乱を見ていると、公の空間が私的な生活の延長にあるような気がしてなりません。お化粧もそのような意識の下にあると思います。学校でのお化粧は控えるべきでしょう。
(五百字)
(傍線部は、主題文である。)
 

(結び・結論部)
  • 問題提起・導入部であげた内容と、照応させて、論旨を首尾一貫させる。

主題文について

  • 自分が一番、訴えたい内容やメッセージを書いた一文を主題文という。主題文は、導入・展開・反論・結びのいずれにも置くことができる。ただし、全体の論旨は主題文に向かって、流れていなければならない。

 このような事前の準備を経て、一学期の中間考査に、新聞投書を意識した五百字の意見文を書く小論文の試験を実施し、ABCの百点満点で評価を行った。左記は、小論文試験の案内として考査前に配布した資料である。

 
 

4 生徒の実例

 次に生徒の作品を紹介したい。各クラスごとにAの評価をつけた作品の中から4編を選び、プリント化して生徒に配布した後、投票によって、一名を選出させた。作品の文題の下に記した数字は、獲得票数を表したものである。この作業では、生徒の名前を隠し、投票の実数も公表せずにただ結果だけを報告するという慎重な扱いを行った。3年3・4・5・7組の作品をそれぞれ紹介する。各クラスとも冒頭の作品が、生徒によって選出された作品である。尚、主題文にあたる箇所には、生徒の手によって傍線が引かれている。

3年3組作品集(投票総数36票)

時代を変える強い意志を持とう  20票 Y・S 女子生徒

 今の時代は嫌いです。くらしが豊かになり物があふれ、時代の流行・遅れで人の価値を判断されているような感じがするからです。
 ちょっと何かはやりだすとこぞってみんな買い、携帯・PHSなど学校で禁止されている物でも持ってきます。私もその波につられて去年PHSを買いました。それまで私はポケベルを持ってなく、ベルをうれしそうに見ている友だちがとてもうらやましく見えていました。ちょっと親しくなった人に「ベル番教えて」と言われて「持ってない」と答えるのがとても恥ずかしく、劣等感すら感じていました。今、私にとってPHSはただ持っているだけでいい存在です。バカみたいに自分一人で自己満足しているのです。
 確かにそれで私の心に引っかかっていた「遅れてる」という気持ちは消えました。しかし、月々のこづかいの大半を費して持っているPHSに、今は何かむなしさを感じます。
 こんな流行・すたりの繰り返しの時代はいつまで続くのでしょうか。私のように意志が弱い人たちはこの今の時代が一体どこまで行くのかとても不安で恐怖を感じています。こんな時代を変えるためにも、今の現代人は時代に飲まれないような強い心を持つべきです。

ビジュアル系バンドに批判の目を向けないで  7票 T・M 女子生徒

 ここ最近、ビジュアル系というバンドが増えてきました。激しいドラムやベース音、男性なのに化粧をして、まるで女性の様な姿に、私はものすごい印象を受けました。
 巷では、ビジュアル系バンドといったら、子供に悪影響を与えるとか、曲がうるさいなどといって、批判する大人が多い様な気がします。しかし私は、ビジュアル系バンドの独特な雰囲気に、言葉ではいい表せない何かを感じています。
 確かに、外見だけを見ると、女性の様な化粧に真っ黒な服。チャラチャラとしたピアスや指輪をつけています。しかし、私の好きなXJAPANのHIDEは、ファンの方で骨髄移植に困っている人がいたとき、自分から骨髄バンクに登録しました。私の知っている他のバンドの人達も、チャリテイーのためにコンサートを開いたりしています。こんなにすばらしい人達を、外見だけで否定的に判断するのはどうでしょうか。
 ロック系の曲が流れると、耳を塞ぎたくなる人もいると思います。しかし、初めから批判の目を向けるのではなく、一度でもいいから聴いてみて下さい。外見だけで判断したことが間違っていることに気付くでしょう。

万弘寺について考える  7票 M・Y 女子生徒

 今年も万弘寺の市の季節になりました。千四百年の伝統を誇るこの行事も、以前と比べて活気がなくなったような気がします。
 私が小さい頃は、仮装行列などが行われ、沿道には多くの人々が、それを見に来ていたものでした。今はその影もなく、出店の数もだんだん少なくなり、訪れる人も少なくなってきています。
 確かに万弘寺の市の中の伝統行事は無くなってきています。しかし、暗やみの中で行われる物々交換市は万弘寺のスタート行事として、今も行われています。「かえんかえー」の大分ならではの名セリフが飛び交い、今年の不景気を感じさせない盛況ぶりだったそうです。
 時代は変わり、万弘寺周辺も、区画整理が行われ、古いものはどんどん消え去っていくのが今の現状です。万弘寺の市のように、古くからある伝統行事は無くなってほしくないものです。物々交換市などの今も続いている行事をなくさずに行うことが大切です。更に昔あった仮装行列のような人々を感動させる行事を新しく考えて、万弘寺の市が昔以上にもっと活気あふれるものになって欲しいと願っています。

現代の子供達    2票 M・U 女子生徒

 現代の子供達は、外で遊ぶ事が少なくなってきていると思います。私は今まで特に何とも思いませんでしたが、最近外で遊んでいる子供を見る事がありません。
 私の家の前には、少し小さめな公園がありますが、中高生は、特によっぽどの事がない限り目にしません。小学生も遊んでいる所を見ません。見かけるのは、近所のおじいさんおばあさんが散歩しているとか、児童会の集まりなどで掃除をしているとか、本当に幼い子供が、母親といっしょに遊んでいる所ぐらいです。
 確かに最近では、TVゲームなどの家の中でする遊び道具が増えてきていると思います。塾などに行ったりして、遊ぶ時間がない子供も少なくはないでしょう。しかし、子供は外で元気よく遊ぶ事が一番自分を表現することができ、仲間との交流も深まるのではないでしょうか。
 私達の幼い頃と今とでは、やはり変わってきているのかと少し悲しくなります。これから先の事を考えると、世の中の子供達が、外に出て遊ぶ事が、まったく無くなるのでしょうか。もっと伸びやかに外で遊ぶ元気な子供達を、見ていきたいものです。


3年4組作品集  (投票総数34票)

 障害者は「かわいそう」ではない  17票 N・M 女子生徒

 私は障害者は「かわいそう」という考え方には疑問を感じます。
 私の通っていた小学校にはあやすぎ学級という障害者のクラスがあり、障害者の子に触れる機会がありました。その子達が毎日楽しく過ごしていたのかと考えると、そうだとははっきりと言えない気がします。それは多分私自身が障害者は「かわいそう」という固定観念を持っていたからだと思います。しかし最近よく目にする「五体不満足」の作者、乙武洋匡さんを知って変わりました。彼はとても明るく、障害を持って生まれてきたことを個性だと言っています。私たちは障害者の人を「かわいそう」と思ってしまいがちですが、その同情の目が多くの障害者を殻に閉じ込めてしまっているのです。
 確かにいかにも暗く思わずかわいそうだと思ってしまう人もいます。しかしそんな人達こそ暖かい目で見る必要があるのです。
 「障害は不便だ。不幸ではない。」とヘレンケラーは言っています。しかし環境さえ整えればその不便も取り除くことができ、気軽に街にも出られ、気分が明るくなると思います。私たちは障害者、健常者とラインを引くのではなく、対等に向かい合うべきなのです。

花を眺める“ゆとり”を持つ  6票 K・N 女子生徒

 学校の登下校の時や近所を散歩する時、玄関や庭先に歌声でも聞こえてきそうなほどたくさんの花を飾っている家を見かける。それを見るとホッとすると同時に今までの自分の余裕のなさにハッと気がつく。
 先日、部活動の試合での帰り道のこと。友人と二人で歩いていた私は一軒の花屋を見つけた。いつもなら通り過ぎてしまうような小さな花屋だったが、なぜかその日二人とも同時に足を止めてかわいらしい花を見た。「かわいい」と小さくつぶやいた時、それまでの何だか分からない緊張や不安が溶けていくような気がしたのだ。友人も同じ気持ちだったらしく、いつの間にか店の奥に置いてあった青々とした観葉植物を買っていた。
 確かに、現代の社会ではスピードや効率の良さが要求される。そうやってこの日本は着実に進歩を遂げてきた。しかしその反面、人間の心に必要な“ゆとり”を失いつつあるのではないだろうか。
 花に自分の“ゆとり”を教えてもらう。些細なことではあるかもしれないが、自分が見えなくなっている人間にとってはそれが一番必要なことだろう。少し立ち止まって道端に咲く花を眺める“ゆとり”を持ちたいものだ。

現代社会の状況 〜リストラ問題と就職難〜 6票 M・O 女子生徒

 つい先日、父の会社でリストラがあり、父が長年お世話になった方が会社を辞めました。これまで何度かテレビや新聞で聞いたことのあった、この「リストラ」という言葉に私は、ふと不安という気持ちを抱きました。
 現在は過去最低と言われているほどの就職難だと聞きます。そんな中、何年か前、リストラにあった男性がそれを苦に自殺するという事件があったことを思い出しました。将来を担う私にとって、この事件は衝撃的で、且つ、もう一度自分の将来を考えさせられることでもありました。
 確かにリストラとは、会社の経営状態にとって大事な問題です。リストラしなければ会社が倒産してしまう可能性もあります。しかし、会社に必要なくなったからといって簡単にその人を首にしていいのでしょうか。その人のこれまでの努力はちゃんと認められるのでしょうか。私は何か心に引っかかるものがあります。
 私も近々、この就職難を目の当たりにすると思います。正直、不安です。私達とリストラの対象となる世代の人達にとって現代社会は「働きたくても働けない社会」となっているといっても過言ではないでしょう。

「百円均一」は貧乏人の味方  5票 A・K 女子生徒

 最近、広告や店頭などで「百円均一」という文字をよく目にします。そうするといつの間にか引かれていき、店に入ってしまいます。
 先日、大分にも大規模な百円均一のお店がいくつかできました。私も何度か足を運びましたが、花びんやお皿、洗面器などの日用品から、洗顔料、マニキュア、口紅などの化粧品、レターセットやお菓子、靴下、時計まで何でも百円なのです。安いということだけではなく品揃えも豊富なのです。一種の安いコンビニといった感じでしょうか。
 確かに「そんな安物使えるか。不良品なのではないか。」と思うかもしれません。しかし、どの品を見ても少々劣るものの、普通の店で売っている物とほとんど変わりはありません。十分に使える物ばかりです。
 お金をあまり持っていない私にとって、百円である程度の物が揃っている「百円均一のお店」というのは、とても魅力的です。すべて百円だと思うとついあれもこれもとなって買いすぎてしまうのが困りものですが、これからもどんどん活用していきたいと思います。物が氾濫していてブランド品が流行の今、「こんな安物…」と思うかもしれませんが、たまには安物もいいのではないでしょうか。


3年5組作品集 (投票総数35票)

国民が銃を持つことについて 〜銃社会アメリカを考える〜  14票 M・T 男子生徒

 先日アメリカで起こった、ハイスクールでの高校生二人組銃乱射事件は、記憶に新しいものだと思います。あの事件を知って私は、銃社会アメリカに対し、ただならぬ嫌悪感と疑問を抱きました。
 アメリカは、独立戦争に勝利して、国としての法律を定めるとき、第一に「自由」を根本的なものとしました。従って、アメリカはいたる所で「自由」な環境づくりに努めてきました。国民が簡単に銃を手に入れられるのも、このようなアメリカの国としての方向性の表れだと思います。
 もちろん、「自由」であるという事は、すばらしい事であり、最も大切な事です。しかし、自由のなかにもけじめをつけていかなければなりません。けじめは自由を奪うものではなく、守るものです。銃を簡単に手に入れられるアメリカの人々は、それすらも自由であると思い込み、正当化してしまっているのではないでしょうか。銃を用いて人を殺す自由など認められるはずがありません。
 例の事件は非常に悲しい出来事でした。それだけに、アメリカ人だけでなく私達も真剣にこの事件を受け止め、もう一度本当の自由について考えなければならないと思いました。

高校生というだけで判断するな  14票 C・T 女子生徒

 最近、コンビニやデパートに行くと必ずと言っていい程、防犯カメラを目にする。万引き防止の為なのであろうが、そのカメラの視点は「高校生」に向けられている気がしてならない。
 実際、店に入って商品を見ていると、店員がついて来たり横目でちらちら見られたりすることがよくある。そういう行動をとられると気分が悪くなり、欲しい物があってもその店では買いたくなくなってしまう。万引きされないように店員も必死なのは分かるが、制服を着ている「高校生」というだけで疑ってくるのはやめて欲しい。
 確かに最近は、若者の犯罪を多く耳にするようになった。特に「高校生」は悪い若者の代表のように言われている。しかし、皆が皆悪い人間ではないのだ。一部の悪い人間の為に、「高校生」というだけで嫌な目に遭った人がどれくらいいるだろうか。
 人間は、一人ひとり顔も違えば中身も違う。それを「高校生」というものに勝手にまとめて、悪いイメージを作られるのは迷惑としか言いようがない。そういうイメージを作らせないように私達も努力しなければいけないし、大人達も、もう一度考え直す必要がある。

刑罰と人権保護  5票 S・K 男子生徒

 最近、犯罪者に対する刑罰と、人権保護のあり方が矛盾している気がする。現代社会では数多くの犯罪が発生している。
 一般に凶悪事件といわれる、殺人・放火・強盗、また窃盗などの軽犯罪、しかしそれらについての刑罰は、凶悪事件についても、二十年ほどの懲役が普通であり、終身刑・死刑というのは、ごくまれである。軽犯罪にいたっては、五年ほどの懲役か執行猶予を受けるだけで終わりというのが、ごくあたりまえになっている。
 もちろん、犯罪者にも一般人と同じで人権はある。しかし、犯罪を起こした人間と、被害に遭った人間とが同じ人権で、犯罪者の人権保護のために刑罰が犯罪の性質のわりには軽いというのは、あまりにも被害者の人権を無視した行動ではないだろうか。
 過去に犯罪を起こした人が、刑期が終わったあとにまた同じような犯罪を起こすというのを聞くが、このようなことがあっては犯罪を繰り返さないための刑罰が何のためにあるのかと疑問に思う。犯罪を罰するための刑罰、犯人を守る人権保護、もう一度この二つのあり方について考え直す必要があるのではないだろうか。

反抗できない子供達 〜幼児虐待を考える〜  2票 T・K 女子生徒

 子供に対する暴力などのニュースを最近よく耳にする。それもほとんどの場合は、家庭内で起きているのが現実である。
 何ヶ月か前に幼児虐待の特集がテレビであった。その特集では驚いたことに母親がまだ幼い子供に手をあげていたのである。芸能人の影響であろうか、最近は若いうちに結婚をし、また若くして母親となる人が増えている。それに伴って、どうもストレスのはけ口を子供、特にまだ反抗をしない未熟な子にあたる傾向にある。まだ幼い子は、大変、傷つきやすく、親を頼って生きている。そんな子供を力を使って強制したり、冷たく接したりしてよいのであろうか。
 確かに悪い事をしたら、しつけとしてもう二度と同じ事をしないように叱るのは当然だ。しかし、その怒り方に問題があるのだ。ちょっと度が過ぎたやり方をやめるべきである。
 小さい頃に深い傷を負った子の心を開かせるのはとても大変な事らしい。そんな精神状態が絵でも分かるという。子供はおもちゃや機械ではないし、自分の意志があるので思った通りには動いてくれない。だからもっと親たちは、気持ちにゆとりを持ち、前向きに子育てをやるべきである。


3年7組作品集 (投票総数20票)

脳死判定後の臓器移植をめぐる報道のあり方について  11票 T・T 女子生徒

 最近、脳死判定による臓器移植が二回ほど行われました。このことを報道するマスメデイアに対して、私は違和感を覚えました。
 というのも、マスコミの報道の行き過ぎを感じたからです。新聞の一面、社会面、テレビの朝・昼・晩のトップニュースなどこれらを飾るのは、全て同じ話題でした。そして最低限守られるべきであるドナーや遺族の方の プライバシーがおびやかされる事態になってしまいました。これはまだ我が国では前例のない手術だからかもしれませんが、今のマスコミ各社の競い合いを見ると、しばらくは移植がある度に大騒ぎをしそうです。
 もちろんこの報道のおかげで、多くの人が移植に興味を持ち、それにともなってドナーカードの配布枚数も増えたりした事実は評価すべきです。しかし個人の人権を侵害するマスコミの姿勢には疑問を感じます。
 報道というものは常に、情報を公開される側と公開する側が平等であるべきです。しかし今回に限らず、今の社会ではそれが守られていないのが現状です。報道のあり方が改善されるのが一番なのですが、それが不可能ならば私たち視聴者が報道の行き過ぎに歯止めをかけるべきではないでしょうか。

家族間の会話とテレビ 〜食卓の在り方を考える〜 6票 M・G 女子生徒

 テレビをつけたまま食事をとる家庭は非常に多いと思うが、私はこのことにいささか不安を抱いている。
 なぜならそのせいで家族間の会話が減少しかねないからである。家族が集まる食卓という場は、学校や会社や家で何があったかなどというなんでもない会話を糸口にそれぞれの悩みなどを自然に話し合うことのできる大切な場だと私は思う。それが、一見明るい雰囲気をつくり出してくれるテレビというものの存在によって私達は会話を持つ必要が無くなった気がしてしまいテレビの音以外はほとんど何も聞こえない空間をつくってしまうのだ。
 確かに、例えば深刻な事件をニュースで見て、それについて家族で話し合うことも可能だ。しかし、どんなニュースにも当てはまらない、私達の持つほんのささいな悩みや問題の方が、実は重いものなのである。
 テレビは私達を楽しませ、時に考えさせたりもしてくれる。しかし、大袈裟かもしれないが、最も尊い家族の話し合いの時間を削ってまで見る必要が果たしてあるだろうか。私達は食卓を、テレビが一方的に語りかけてくる冷めた場ではなく、家族が語り合える生き生きとした場に変える必要があるのだ。

心身ともに傷を負わせる幼児虐待  2票 M・H 女子生徒

 最近、テレビのニュースなどで幼児虐待という言葉をよく耳にする。虐待を受けて死んでいく子供も少なくはない時代になっている。しかし、何の罪もない子供の命を虐待によって奪うということはあってはならない。
 虐待をするのはほとんどがその子供の親であることが多い。食事を満足に与えなかったり、殴ったり、体にタバコの火をつけたりというような身体的な虐待をしている。幼児は私たちが考えているよりもずっと純粋で傷つきやすい。だから虐待を受けている子供は身体だけでなく、心も深く傷つけられている。自分の都合だけで子供に虐待をするのは、その子の人格形成の大きな妨げになっているといえる。
 もちろん、しつけのために子供に対して少々荒いことを行っている家庭を否定しているのではない。子供のためを思ってしていることなら、子供もそれは愛の鞭だと分かるだろう。しかし、子供を痛めつけようと故意にしている行動は、虐待以外の何物でもない。
 幼い頃に虐待を受けると、その記憶は一生消えないとも言われている。たとえ親であっても、虐待によって子供の人生や尊い命を奪ってもよいという権利は誰にもないのだ。

個性あふれるTV報道を  1票 R・E 女子生徒

 TVのニュースというのは、だいたいどのチャンネルも同じ時間帯に放送しているが、それだけでなく内容までもが画一化してきている。この問題について考えてみたい。
 「只今、患者の心臓が病院へ到着しました。」リポーターの荒い声と共にフラッシュが点滅。臓器移植の話題である。ひとつの時の話題にすぎぬことのために、報道陣総動員でいい迷惑だ。人の命だ、と言えばそれまでだが。そしてもう一つ気になることは、少し前、世間を大いに騒がせたオウム裁判はどうなっているのか全く音沙汰がないのだ。新しい話題に執着するあまり、どれもどこも画一化されて、ブームの過ぎた話題には触れもしない。
 もちろん、最新の情報をすぐに視聴者へ伝えることがTV報道の義務であるとも言える。しかし、一度話題にあげた情報は最後まで伝えることも義務なのではないか。なぜなら、ものごとの意味は、それが終わって振り返った時にこそ、初めて見えてくるものだからだ。
 このように、視聴者は個性あふれる、方針の一貫したTV報道を待っている。新しい話題を追いかける前に、過ぎた話題も見直してみてはどうか。「時代遅れ」のニュースは、決して存在しないのだから。


 
 

5 まとめ

 生徒の作品は、どれもおおむね作文の条件を満たしており、しかもほとんどが原稿用紙の最終行まで書き上げていた。「導入・展開・反論・結び」の四段落構成で書こうというねらいは、基本的に達成することができたと思っている。各クラスともABC判定の分布は、次のようになっている。

3年一学期中間考査(小論文試験の得点分布)
\クラス
評価 \
3の33の43の53の7
(A)評価
100点
1名
2.6%
1名
2.8%
1名
2.7%
1名
4.5%
A評価
90点
9名
23.7%
9名
25.0%
9名
24.3%
5名
22.7%
A'評価
80点
1名
2.6%
1名
2.7%
1名
2.7%
1名
4.5%
B評価
75点
14名
36.8%
13名
36.1%
14名
37.8%
10名
45.5%
C評価
65点
14名
36.8%
13名
36.1%
13名
35.1%
6名
27.3%
生徒総数38名36名37名22名
平均点75.0点75.3点75.3点75.9点

 今回は、授業中に評価では、オリジナルな作品を尊重すると呼びかけたために、A判定をつけた作品は、ほとんどが資料(新聞投書)の話題ではない、独自の意見や主張を述べた文章となった。C判定の作品は、反論が内容的に成立せずに破綻しているものか、主題が不明なものが大部分であった。判定では、A判定とB判定の区別をつけることが難しかった。点差も15点の差を設けているので、その違いをわかりやすく説明しなければ、生徒たちも納得がいかないだろうと思われた。
 論理的な型にのっとって論旨の整った文章であれば、「ふつう」といった評価を下すことができる。評価についての事前の説明でも、Aの基準は独創性があること、Bの基準はふつうの内容といった極めて曖昧な表現にとどめていた。実際の生徒の作品を読んでいて感じたことは、内容にユニークさがあって、読み手を引きつけるだけの説得力を持っているかで、判断が分かれるということであった。A判定の作品から4編を私の目で選び、生徒に配布して、最優秀作品を1編選出する過程でAの作品のレベルを紹介したつもりであるが、AとBの作品の違いを生徒たちにわかりやすく説明するには、もっと指導上の工夫が必要なことを痛感した。作文の評価には、様々な方法があると思うが、短期間で百名を越える生徒の作品を読んで評価するには、ABC判定が一番、現実的で実現可能な方法なのではないかと考える。それぞれの評価の配点は、経験的に平均点が75点(B判定基準値)付近に落ち着くことを予測しての設定であった。今回、Α'(80点)を設定した理由は、最終行に達してはいないものの優れた作品が存在したことが理由となっている。
 入念な記述前の指導を行えたというわけではなかったが、生徒たちは四段落形式を守って、おおむね論理的な文章を書きあげることができていた。文章構成を習得するという点では、初期の目的を果たせたのではないかと思っている。主題文に相当する箇所に、傍線を各自で引かせたが、B判定以上の作品では、主題としてふさわしい一文が書かれていたと思う。各クラスとも六割から七割の生徒たちがその基準をクリアーしていた。
 同世代の新聞投書の文章を読むことで、自分の立場を明確に主張する論理的な文章のイメージをつかむことが、比較的容易に行えたのではないかと思う。新聞に投稿しようとする「場」の設定が有効に働いた点も考えられる。クラスメートの作品が、実際に新聞に掲載されることで、教室の中に新鮮な驚きを提供することができた。新聞社では、読者からの投稿原稿をEメイルで受け付けているところもあるので、今後は情報教育とNIE教育が連動した授業を構築することも可能であると思う。
 今回の指導では、論理的な文章表現の型について教えることはできたが、内容面の独創性をどう高めていくかについては、手が回らなかった。全ての生徒の作品に目を通し、誤字・脱字、文章のねじれの箇所を指摘するのが、精一杯であった。一人ひとりの文章の内容の指導については、個別指導でなければ不可能であり、一斉指導では限界がある。従って、論旨の整った文章を書けるために、まず文章構成の方法を教えることを第一に考えた。
 独創的な文章を書けるようになる前に、文章構成法の基本的な技術を教え、トレーニングすることが必要である。生徒たちに聞いても、このような手順をふんだ作文練習は、中学校・高等学校の段階でもきちんと教えられてきていないのである。コミュニケーション能力が求められている現代社会において、論理的な文章を書くトレーニングを行うことは、非常に大切なことだと痛感する。
 論理的な文章を書くための「場」の設定として、新聞投書を用いることは非常に有効であることが、実感できたので、今後もこのような取り組みを、実践していきたいと考えている。