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大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

2001年度号
風の吹く街で
〜二人の場合〜
牧野勇介
おやじの惑星
アイを売ります
四海祥子
彼は危うく死を免れた近藤素彦
あたし達の選択村上恵子
LIFE河飯由理
編集後記・奥付野浪正隆

風の吹く街で〜二人の場合〜
牧野 勇介

・信一の場合

 うっとおしい梅雨の季節がおわり、肌寒さも消え、夏のにおいも微かに感じ始めたころ、僕たちは出会った……。
 信一は、大阪で一人暮らしをしているごく普通の大学生。昼間は大学に行って講義を受け、夜はコンビニでバイトをするといったように、毎日が同じことのくりかえしだった。
 コンビニのバイトを終え、私服に着替え、1リットルの牛乳とパンを2個買って、引継ぎのおばさんにあいさつしながらドアをでた。あたりはすっかり日も昇り、(新聞配達の人、犬を散歩させている人、会社へと急ぐ人……)一日の始まりというにおいがどこからともなくプンプンしていた。信一はこの感じがたまらなく嫌いだった。どうせまた一日が始まっても、昨日と変わらない退屈な日がくるのだから……。
 大きなあくびをすると、ふいに風が信一の体を通りすぎた。寒さが和らいだといってもさすがにまだ風は冷たい。信一は、少し身震いをしながら、自分の自転車の鍵をはずし、はやく温かい布団にはいるため急いで自転車にまたがった。またがったのが先か後か、突然ポケットに入れていた携帯電話が震えた。
 『あなたの出会いを応援する出会い系サイトの決定版!!今ならお試しポイントつき』
 「なんだ、また出会いサイトかよ。」
 信一の携帯に届くメールといえば、いつもこの手のものばかりで、信一自身もすっかり慣れていた。
 ため息を一つついて、そして自転車をこぎ始めた。
 「あ〜今日は一限から英語だったっけ..。」
家に着き、シャワーをあび、ベッドに寝転んだ。
 『あなたの出会いを応援する……今ならお試しポイントつき』
さっきのこのメールがふいに頭に浮かび上がった。
 「お試しポイントつき..かぁ……。」
そう言うと、信一はそのサイトを開いていた。
 『最近暇です。誰かメル友になりましょう……』
 「バカか俺は。何やってんだか……はぁ〜〜もう寝よーっと。」
 今日はバイトが休みだった。大学の授業を終え、早々と家に帰ろうとしていると、一通のメールが届き、信一の携帯が震えた。
 『桃香です。20歳のOLで一人暮らしをしています。よかったらメールしませんか?』
今まで何度登録しても返事が返ってきたことがなかったので、初めてのことに信一の鼓動はいっきにはやくなった。すぐに返事を送ってみた。すると、またすぐに返信メールが届いた。
 『今夜は私も暇なので、会って話などしてみませんか?』
 「あ、怪しいなぁ……。」
信一は、事があまりにも急展開によい方向へ進んでいるので、まだこの『桃香』を完全に信じることはできないでいた。しかし、今夜はバイトも休み、暇で退屈な夜を過ごすより、騙されているかもしれないこの今夜の約束を守ったほうが、信一にとっては刺激的に思えた。
 「まぁ〜どうせ暇だし、行ってみよーかな。騙されててもいいや。久し振りの外出だしブラブラして帰ろーかな。」
そう思うと、信一は
 『いいよ。じゃー今夜8時に〇〇駅の前でまってるよ!』
と、メールを返信した。風が冷たい日だった。
 日も傾き、約束の時間の30分前には着けるように電車に乗り込んだ。駅に着いて、約束した場所に急いだ。電車が少し遅れたので、ギリギリになってしまったのだ。信一は約束した場所にいる女性を一人一人目でおってみた。
 「まだいないみたいだな..。」
少し期待していた分がっかりした。それでもドキドキしながら5分ほど待っていると、
 「信一くん……?」
突然後ろから自分の名前を呼ばれた信一は、
 「はい!?」
と、少し裏返った声で返事をして、後ろを振り返った。
 そこには、自分よりも少し背が低く、髪は長くてパーマがかかっていて、奇麗な服装で手にはバッグを持ち、いかにも社会人という感じの女性が信一をじっと見つめながらたっていた。
 「も、桃香さん……ですか?」
その女性は、少し緊張した表情のまま、「はい..」と答えた。
 「遅れちゃってごめんなさい。」
 まさか本当に出会えるなんて思っていなかったので、信一はどうしていいのかわからず、テレながら微笑んでみせた。

・桃香の場合

 また同じ朝がやってきて、桃香の頑固なまぶたをこじあけた。まだその目が開ききらないまま、いつもの様に自転車に跨りペダルを押し込む。夏の香りを帯びたモワモワとした風は、腕や顔にしっとりとまとわりついては流れて行く。日増しにギラギラと輝きを増し、私を追いまわす太陽。夏はもう信号のむこうだった。
 旅行会社に入社してから半年、仕事は楽しかったし社内の人間関係は良好、3年という長い付き合いに終止符を打った恋人の余韻もとっくに消えていた。ただこの淡白な慣れていく自分を認めたくなくて何だかやきもきしていた。希望する会社にはいれた訳だし特に疑問を感じる必要はないと言えば確かにそうなのかもしれない。だが、少なくともくる日もくる日もこうして会社と家の単純往復を繰り返し、楽しそうな学生を横目に、ついこの前までは自分もそうだったのに、とふてくされている自分ははっきり言って情けない。これでいいのかもーもかー♪と妙に気の抜けたメロディがグルグルと頭を旋回するのを無視して、桃香は足早に会社のドアを開けた。
 仕事も終わり、またいつもの様に誰もいない一人の部屋に戻ると、どっと一日分の疲れが押し寄せる。手を洗い、一先ずテレビのスイッチを入れる。すると、またいつものように携帯のメール着信音が桃香を呼ぶ。どうせまた出会いサイト、そう思ったらすぐに見る気にもならない。大好きなコーヒーを一口味わってひじをつくと、ようやく桃香は携帯を手にした。『簡単登録女性無料..』フーンと独りごとを言いながら開いてみる。
 『最近暇です。誰かメル友になりましょう……』
似たようなフレーズがスーパーの陳列棚みたいに並んでいる。
 「そんな一人で退屈してる様な人、一緒にいたってすぐ退屈になっちゃうわ。」
と、思わずひねくれた声が出た。そう呟いた瞬間、このひねくれた解釈しかできない自分に何だかため息がでた。そういえば、メールで出会うロマンチックな映画もつい最近見たな……ふいにそれを思い出した。もしかするとこれをきっかけに、私も映画が体験できるかも、と乙女心を触発しながらも、気の合う友達ができるかも知れないと自分に冷静さを取り戻させる。どうせこんなので出会いなんて。しかし、その気持ちとは裏腹に、気がつくとその退屈そうなシン君とやらに返信してしまったのである。
 『桃香です。20歳のOLで一人暮らしをしています。よかったらメールしませんか?』
馬鹿がつくほど正直なメッセージを送ってしまったことに、もしみ変な事件に巻き込まれたらと余計な不安と格闘しながらも、どんな人なんだろうと早速検索を始めている自分を隠しきれず、布団にうつ伏せた。
 緊張する間もなく返事はすぐに返ってきた。あまりに早い返事にまた不安を感じながらも、何だか急に話してみたい衝動に駆られ、その衝動は桃香にとんでもない返信を送らせてしまった。いきなり脈を打ち始めた桃香からでるため息には軽く震えが混じっており、”今更”の二文字が体中を駆け巡った。まさか、会おうなんて、しかも自分の方から、そして今日の今日である。正直桃香自身も自分にこんな行動力というか突発的な発言をする一面があったのかと心底驚いていた。もともと石橋をたたいて渡る性格ではないがここまで大胆なのにもびっくりだ。
 そんなことを止めどなく考えているうちに待ち合わせの時間が迫っていた。大急ぎで支度を済ませると慌てて靴に足を滑らせて待ち合わせの場所へと走った。この胸のドキドキはどれくらいぶりだろう。通り過ぎていく人全てが何だか桃香の胸のうちを見透かしている様な気がして、一人で思わず顔が熱くなっていくのを感じた。人込みをかき分けていくと、そのずっと向こうに彼は立っていた。手には目印のリストバンド。間違いない、向こうを向いたまま後姿しか見えなかったが、なぜか桃香には確信があった。ドキドキがちっともおさまらない胸をぐっと飲み込んでおもむろに声をかける。振り返ったシン君は今風の大学生。真っ白な八重歯がひかる。必要以上に驚いた彼の表情に少し疑問を感じながらも、シン君はゆっくりと桃香である事を確認すると、また彼の真っ白なやえばを見せて今度は満べんの笑顔を桃香にみせた。夜の通りは薄暗く、まだ肌寒さをのこしていた……。

 この二人がその後どうなったかは、二人にしかわかりません。世の中には様々な出会いがあふれている……。あなたの未来の恋人は、今あなたのすぐ隣にいるにかもしれません。はたまた、遠い遠いところに住んでいて、あなたをまっているのかも……。

おやじの惑星・アイを売ります
四海 祥子

おやじの惑星

 私は、肺結核患者。
 ここが、何県なのか・はたして日本なのかさえ分からない。とにかく、広い湿地帯を越えてこの場につれてこられた。
 DASH村のような所と言えば、大体は伝わるだろうか。ここに来て、半年は、たっていると思うが生活に不自由を感じた事は、ない。まるで、図書館かと思うくらいの蔵書があり、誰が届けてくれるのか大型の冷蔵庫には、いつもたくさんの食糧が入っていてヌクマム・ターメリックなど……当初は、使い方も分からないような調味料まで揃っている。
 私は、料理と言えるようなことは、まったくした事は、なかったが暇にまかせて料理の本を見ているとなんだか作りたくなり今では、和・洋・中どんなジャンルの店でもオープンでそうな勢いだ。
 そんな風にここでの生活にもなれた頃、誰かがコンコンとドアをたたいて家に入ってきた。
 「なんじゃそれ!」よく考えみれば、私がここにつれてこられて言葉を発したのはこれがはじめてだった。入ってきたのは、ウサギ耳をつけて、アラン・ミクリの奇抜な眼鏡をはな先にかけた小ぶとりなおやじだった。どうやら、迎えにきたらしい。そういえば、体の調子がすこぶる良くなっている。
 やっと帰れるらしい。あの日から何の連絡もしていないが彼氏は、元気にしてるのだろうか?友人は?家族は、と考えているうちに、元の町についていた。
 しかし、何かがおかしい。町には、おやじがあふれかえっている。三角公園でも、おやじが座り込み、夜は、おやじが、レコードをまわしている。ピーコのファッションチェックも、おやじが「この秋の流行は、レッグウォーマーです。」とか言っている。NEWSでも、「52才問題」とか、「少年狩り」と騒がれている。
 どうなってるんだ!

 どうやら、今まで、「ハゲ・デブ・ゴミ」と蔑まされつづけたオヤジがキレたらしい。
 人生何があるか分かりませんね。

アイを売ります

 ここ半年、ひどい咳が続いている。なんだか喉がカサカサし、肺の中に枯れ葉がガサゴソいっている感じがする。
 窓の外には、春のさわやかな風が吹き、子供たちは周りで起こるすべてのことが楽しくて仕方がないかのようにころげまわっている……そんな楽しい空気のかたまりが風に乗って、この陰鬱な私の部屋まで騒がしくしている。
 「平和国家・日本」そう呟いてみたー苦しいくらいの平和……
 ときどきこの自己中心的な平和がいやになる。私たちの住む地球は、奇跡の惑星と言われる。太陽圏に存在するその他の惑星は、太陽との距離から生命の存在は不可能らしい。いったいどこが奇跡なのだろう?私は今生きていることになんの疑問も持たずに生きている。まるでそれがあたりまえかのように…しかし、日本の裏側ではいたるところで聖地のため・国のためと戦争を繰り返しているところもある。こんななかでも日本人アナウンサーは飛行機が落ちれば、「日本人はいませんでした」と安堵感を漂わせて叫び続ける。
 <ゲホゲホ> 頭ばかり使いすぎて少し疲れてしまったようだ。
 前に半年と述べたが、実のところいったいどれくらいココに居るのか分からない。私は、まっすぐの道を歩き続けてきた。幼い頃から教師を夢見、大学へ進み一人前に夢や希望を胸に就職…そして歩き続けてきた。子供達も私の手を離れフッと力がぬけた瞬間にマンホールに落ちてしまった。そんな感じだった。そんな感じで今の生活は、始まった。
 今の私の生命をなんとか長らえさせているのは、大学を出てすぐに結婚し、かれこれ35年連れ添っている妻である。2人の間に愛と呼べるものはない。妻が私に食事を運び続けるのも一種の自己満足なのだと思う。冷静にそう思う。
 私は、教師をしていたと言った。教師になり立てのころは、すべてが新鮮で楽しかった。過去は美しく見えるというが、そうかもしれない。
 今の子供達は生きてる感じがしない。私が教師を辞めたのは、そう感じたからかもしれない。そんなことを考えながらフト外を見ると、前の通りの角に一つの小さな店が新しくできていた。
「そういえば3ヶ月くらい前から工事をしていたなぁ」
 店の前に黄緑色の小さな文字で書かれた看板が置いてある。<アイを売ります>
「えっ?」
 私はドキッとした。ベットに伏し始めてから、こんなに感情が動いたのはこれが初めてではないだろうか?
「愛か…私が求めていたのは、これなのかもしれない。」そう思うといてもたってもいられなくなった。そして気付いてみると私は、店の前に立っていた。店の前には、一人の女の人がいそがしそうに開店準備をしている。
「ア、アイを売っているんですよね。」私は躊躇いながらもはっきりと聞いてみた。
「はい。そうですよ。今日からオープンなんです。見ていってください。どうぞ。」店員らしいその女の人は、明るく答えた。明るく答えられると、入っていいものか私は悩み始めた。愛はお金で手に入るものなのか…しかし、ここまで来たんだ。覚悟を決めて入ってみることにした。
 店内は、落ち着いた空気が流れていた。人をホッとさせるような・しかし、どこに愛が…?そこには布制の服やかばんがおいてあるだけだった。
「あっ…藍を売りますかぁ……アイ。あいねぇ。」まあこんなものである。人生とは、こんなものだ。あれこれ悩んでもドキドキしても結局は、こんなものなんだなぁ……と。
私は、四隅に白いクローバーの刺繍のしてある藍染めのハンカチをひとつ妻へのプレゼントに買って帰った。
「藍」
「藍かぁー。」 おしまい

彼は危うく死を免れた
近藤素彦

10月9日 火曜日    AM 8:00

――――ジリリリリリリ
石田孝彦は、目覚まし時計が鳴り響くのを、意識の奥で感じ取った。
(うるさいなぁ……。)
彼の生活する部屋は家賃が安い分、壁が薄かった。おそらくさっきから鳴り続けているこの音は大変な近所迷惑になっているだろう。
面倒くさそうに彼は目覚ましに手を伸ばした。
――――ガチャッ
「……う〜……・ん……・朝か〜〜……。」
 眠い目をこすりながら孝彦は台所へ向かった。洗面所代わりに使用しているこの場所で、窓に立て掛けた鏡を見ながら水道の蛇口をひねった。勢い良く水が出てくる。彼はしばらくその様子を眺めていた。
水の流れというのは、単調なように見えて、瞬間ごとに微妙に違う形をつくりだしている。孝彦は小さい頃から、滝などの、自然が織り成す造形を見ているのが好きだった。そして、朝に弱いこの青年は、このままボーっとしていたい気持ちになった。
「おっと、アカン。水道代がもったいないな〜……・よしっ!」
貧乏性な性格が後押しして、彼は完全に目覚める決意をした。両手で水の流れを受け止め、そこに溜まった水を思い切って自分の顔に浴びせた。
「冷て〜っ……ふぅ〜。」
 次第に頭がスッキリしてくる。ふと、外から聞き覚えのある単調なメロディ響いてきた。
「今日は火曜日か!!」
 急いでタオルで顔をぬぐい、ゴミ箱に溜まった残飯や紙屑を、黒いビニール袋に詰め込んだ。口をしばり終えると、それをつかみ、玄関を飛び出した。孝彦は、まぶしく、爽やかな陽の光を感じる余裕も無く、階段を降りていった。馴染みのメロディは、もうそこまで来ていた。
「ギリギリセーフ。」
小さくつぶやいたその声に気づいて、一人の清掃員が孝彦のほうを見て微笑んだ。そこで孝彦は、ようやく裸足の自分に気づいた。少しの恥ずかしさと、足の裏に心地よい刺激を感じながらも、部屋に戻るついでに郵便受けを覗いた。すると宅配ピザのチラシと一緒に一通の手紙が届いていた。
「おっ……!」
ショートケーキで例えるのならイチゴだけ最後に食べるタイプの孝彦は、手紙をなるだけ見ないようにして階段を昇った。玄関で片足立ちをしながら足の裏を念入りに払っていると、手紙に対して様々な想像が膨らみ彼の鼓動は少し速くなっていた。
 八畳部屋に戻ると、ベッドにもたれかかりながら『イチゴ』を取り出した。水色の封筒の差出人の箇所には、何も記されていなかった。少しじらされているような気持ちを覚えつつ孝彦は手紙をひっくり返した。その表側を見た瞬間、彼は背すじに冷たい電気が走った。
(何や……これ……。)
 あて先はおそらく〈石田孝彦〉と書かれている事が何とか判るが、郵便番号や住所はほとんど読めない。何を使えばこんな文字が書けるのか、と思うくらいに字が恐ろしく小さい。そしてそれが小さな虫の集団の様にびっしりと一箇所に集中している。
(よく郵便局の人は、この字がよめたなぁ。……普通は読まれへんよな。もしかして……)
彼の予感は的中した。手紙には消印が押されていなかった。いよいよ孝彦はいまだかつて感じたことのない大きな恐怖らしきものを感じ始めた。先程までの胸の高鳴りは、まったく逆の内容のものに変わっていた。
(どうしよ……どうしよ……。)
背中から嫌な汗が流れてきた。もちろんその中に、自分を喜ばせる内容が、入っていないことはわかっている。むしろそれは、その正反対のモノだとも。しかし、彼は中身を確かめずにはいられなかった。
(よし。)
ゆっくりとハサミで封筒の端を切り落としてゆく。手は完全に震えている。ひとつ息を飲み、中身を机の上に振り出した……・何かが姿を現す。

――絶句。

(やっぱり、見んかったらよかった……。)
呆然としながら後悔する孝彦の机には長い髪の毛が数十本散らばり、黒い紙かと勘違いするほど、びっしり文字が敷き詰められた手紙が載っていた。彼は半分泣きながら、それらをできるだけ触らないようにして新しいゴミ袋に入れた。

同日    AM 8:45

聞き慣れた着信音が鳴っている。藤原勇は、かぶりかけていたヘルメットを足元に置き、自分のケイタイを探した。
「孝彦か。もしもし?」
「……勇……勇……。」
 聞きなれた孝彦の、聞きなれないどこかうつろな声が聞こえてきた。
「どしたん?大丈夫?」
「やばい……やばい……。」
「ちょっと、何があったん!?」
「やばい……やばい……。」
「いや、あの、だから何があったん?って。」
「やばい……やばい……。」
(いつもの孝彦の冗談かな……?)
勇は段々そんな気もしてきた。
「とにかく、今日は授業ないけど課題発表の会議やる日やろ?俺は今ちょうど家を出たところやから学校で話聞かしてや。な?今日はあの子は来られへんらしいから、俺と二人やで。遅れんといてや。」
「う……うん。」
「じゃ、9時半に生協前のサンクン広場で。」
勇は少し強引気味に電話を切り原動付自転車にまたがった。エンジンをうならせて、大通りを走り出した勇の顔は、どこか微笑んでいるようにも見えた。彼は、昔の事を思い出していた。
一昨年、見事に現役合格した大阪教育大学へ原付で約40分かけて通っている彼は、中学生の時に尊敬できる先生に出会い、自分も教師になりたいと思った。それでこの大学を選んだ。勉強は大嫌いだったが高校生の時には一日8時間近く勉強した。小学生の時から始め、中学ではキャプテンまでつとめた大好きなサッカーも高校ではあきらめた。勉強以外の時間は大学の入学金を稼ぐためアルバイトをした。すべては教師になる為に。
(俺は色んなものを犠牲にして、この大学に来たんや。)
彼が大学に続く坂道へ着いたのは、9時15分だった。
(なにもかも予定通りや。)
自分に言い聞かせるかのように、心の中でつぶやいた。

10月14日 日曜日    PM10:40

バイトあがりの河本祐海は一時間近く入っていた風呂から上がり、髪をふきながら自分の部屋でケイタイを探した。タオルで頭を包みながら、メールをチェックした。すると新着メールがいくつか届いていた。
(あら、3件も……。でも迷惑メールが2件か。あとは孝彦からね。なになに……)

●石田孝彦.21:50
⇒ヒロミ、バイトお疲れさん☆今日の客の入りはどうやった?まあ平日やし、そんなに大変じゃなかったんとちゃうかな?俺は少し用事があって外出してんねん。電話したいけど今日はできるかわからんので、寝といてちょーだい◎また明日電話するわ。ほなね〜♪オヤスミ★

(こんな時間に何なん?まさか女?……なんてあるわけないか。いや、でも孝彦は見かけによらず、浮気性やしなぁ。)
 祐海はだんだん不安になってきて、気づくと孝彦のケイタイに電話をかけていた。
……・ツーッ……ツーッ……ツーッ………………
もう一度かけてみる。
…………ツーッ……ツーッ……ツーッ…………
(何よ〜!私と電話できんくても、誰かと電話してるやん!ほんま、いっつもいい加減やねんから!)
彼女はケイタイをベッドに放り投げ、台所へ向かった。すると母親の祐恵がパジャマ姿で何か作っていた。
「あら、やっとお風呂からあがったの?」
祐海の方を少し振り返り、軽くたしなめた。
「長風呂娘でわるかったわね!でも今日は電話してたの!」
 ……と言っても相手は出なかったのだが。
「この子21にもなってまだ反抗期なのかしら。どうせまた彼氏とケンカでもしたんでしょう?」
「うるさいな〜ほっといてよ!それよりお母さん、何か食べさせて!」
「そう言うと思って、用意しときました。」
裕恵はテーブルにサンドイッチを置いた。
「さっすがママ!愛してる!」
「ホント判りやすい子。そこがアナタの長所であり短所だね。まっ、せいぜいブクブク太って彼氏に嫌われちゃいなさい。」
 祐海のサンドイッチを運ぶ手が口の寸前で止まった。しかし、空腹が押し勝った。
(あんな奴知らへんもん。……・でもあとでもう一回電話しよっと。)
 その頃、祐海の部屋では孝彦専用の着信音が鳴り続けていた。すっかり食欲を満たした祐海がその着信履歴に気づくのは、それから約30分後の事だった。

同日    PM8:30

 近所の友達の家から自転車で帰宅途中の孝彦は、ジャンパーのポケットに入れてあるケイタイがバイブしたのを感じた。
(メールか。………………………………………………………………え?まじで?でも、やらんとしゃ〜ないしなぁ。しっかし、何もこんな時間にせんでもいいのに。ま、どうせ今日は暇やし行くだけ行ってみるか。集合は10時やな。今度は遅れないようにせんと。)
 孝彦は自転車のスピードをあげて、家路を急いだ。15分後自宅に戻ると、いそいで冷凍庫から冷凍ピラフを取り出してフライパンで炒めた。一応テレビをつけたが、ほとんど見ないでピラフを必死にかきこんだ。食べ終わると集合時刻の40分前になっていた。彼はあわててカバンや服を用意した。
(よし、出発するぞ!)
 その時、ふいにゴミ箱の中身が目に入った。つい5日前の嫌な出来事がフラッシュバックして、孝彦は急に外に出るのが恐ろしくなった。しかし、今度また遅刻などしようものなら……。現実的にそっちも怖い。孝彦は意を決した。
(行こう。)
 10月の夜の風は透きとおり、孝彦が自転車で走り出ると全身に心地よい冷気を浴びた。しかし、黒い闇の中を突き進む孝彦には、その日は寒さからくるものとは別の、普段にない震えが起こっていた。
 約20分で、集合場所にたどり着いた。
「暗いなー。」
 あたりを見渡しても人の気配はない。孝彦はケイタイに目をやった。メールはきていない。待ち受け画面の時計は、9:43を示している。
(よし、メールでも送ろっと。まずは勇に。)

○イサム.21:43
⇒部屋の前に着きましたよ〜。この前はほんまに遅れてしまってゴメンね。まだ怒ってたりせんよね?とにかく先に中に入っときますから。こんな時間なんで大変暗いよー★早く来て〜ん(>_<) 

いつもならもっと早くメールを打てる孝彦なのだが、手がかじかんで少し時間がかかった。。
(こんなもんでいいな。あとは……。)

○ヒロミ.21:50
⇒ヒロミ、バイトお疲れさん☆今日の客の入りはどうやった?まあ平日やし、そんなに大変じゃなかったんとちゃうかな?俺は少し用事があって外出してんねん。電話したいけど今日はできるかわからんので、寝といてちょーだい◎また明日電話するわ。ほなね〜♪オヤスミ★

 孝彦はメールを打ち終えると部屋に向かった。見慣れている風景が暗闇に覆い隠されて、いつもとはまったく違った空間を作りだしている。孝彦は自然と早足になった。すると、向こうの方に男性らしき人影が見えた。
(あれ?勇、もう来てたんかなぁ?)
そのシルエットは、孝彦の向かっている部屋に入っていくようだ。
「おーい!」
思わず叫んだ。するとシルエットはその声に少しあわてた様子で、闇の中に姿を消した。
(はは〜ん。勇のやつ、隠れて俺を脅かそうと思ってるんやな。なかなか、そうゆうお茶目なところもあるんやな。いや、というか俺に似てきたんかな?)
 勇とは2回生の時に行われたゼミに関するオリエンテーションで、同じ研究室を見学したのがきっかけとなり深く付き合うようになった。二人は性格がほとんど逆だった。時間にルーズな孝彦は、よく勇の逆鱗にふれた。彼は自分の予定が狂わされるに対して、異常なほどの嫌悪感を示した。しかし、そのこと以外で二人がモメるという事はほとんど無かった。
(ここは気づいてないフリして、驚くんがベターやろう。)
孝彦は、こみ上げてくる笑いをこらえながら、ゆっくりとシルエットが消えた方へ近づいて行った。どんなリアクションを勇は求めているのだろうか……考えるとまた可笑しくなってくる。さあ心の準備はできた……。

――――――――ガンッ

大きな鈍い音が響いた。鼻の奥のほうでツーンとした酸味の効いた香りがする。後頭部に走る激痛とともに、生温かいドロドロとした液体が目に入ってきた。
(鉄のにおい……。)
目の前の暗闇が、さらに深くなっていく気がした。
しばらくして、何も見えなくなった……

(痛い……痛い……。)

「石田君!?」
激しい痛みと、何度も自分を呼ぶ声で孝彦は目を覚ました。しかし何も見えない。どうやら目隠しをされているようだ。孝彦の両手は背中にまわされ、柱を後ろで抱くような格好で縛られている。足も縛られていて立つことは難しい。
「なんや?何が起こったんや!?」
「その声、やっぱり石田君だよね?」
君は?と言いかけて、孝彦は聞いたことのあるこの声を思い出した。
「村脇さん……?」
「そう!村脇和子です!良かった!私の事知っていてくれたんだ!」
「そりゃあ、まあ同じ学科やし。」
学科ごとに行われた新入生歓迎コンパで初めて見た時『どこにでもいるおとなしい子』という印象で特に気もとめなかった彼女は、授業で孝彦や勇とたまたま同じ班になり共同課題の為に連絡をとるようになった。その彼女からのメールで孝彦は今日の集まりを知ったのだった。
「ねえ、今、俺達はどんな状態なんやろうか。」
「………………。」
「村脇さん?」
「ああ、ゴメンゴメン!つい嬉しくって。」
「え?」
「いや何でもない。私もね、今日ここに呼び出されたんだ。藤原君が私に話があるって。」
「そうなん?俺はてっきり、君が企画したんかと思ってた。」
「藤原君は、私と二人がいいって言ったんだけど、なんか怖くなって石田君も呼んだの。ごめんね、こんな事になって。」
 それを聞いて孝彦はふと考えた。それはもしかして勇がこの子に告白する、という事だったのだろうか。今まで勇からそんな話を聞いたことはなかった。恋の相談ぐらいしてくれてもいいのに……。考え出すとキリがないが、今はそんな時ではない。
「こんな事って言うことは、やっぱり君も縛られてんの?」
「うん。部屋に向かう時にいきなり変な布を口に押し付けられて、気を失って……。多分睡眠薬だったと思う。石田君は殴られたの?ず〜っと痛い痛いってうなされてたよ。」
「そうみたいや。頭がガンガンする。」
 確か殴られたとき、頭からは血が大量に流れ出たハズだが血の臭いは消えている。そういえば、頭には包帯のようなものが巻かれているようだ。
「俺、どのくらい寝てたんかな。」
「……・シッ、誰か来たみたいよ。」

――――ガチャリ

扉が開き、誰かが中に入ってきた。一気に部屋の中に緊張が走る。しかしその人物は無言のままで、ガサガサと袋をあさる音だけが聞こえる。まだ自分たちに対して、何かをしてくるわけではなさそうだ。
(そういえば村脇さんはどこに縛られているのだろう。)
さっき話をしていた時の感じからいくと、自分と村脇との距離は近すぎもせず、遠すぎもせずといった感じだった。孝彦は映画などで見る誘拐事件から、複数の人質達は一つの柱にぴったりとくっつけられていたり、もしくは全く別の部屋に入れられたりするものだと決め込んでいた。作り物と実際の監禁とは違うな、と一人ごちた。
「変態が……。」
 ふいに、小さなつぶやきが聞こえた。はっきりとは聞き取れなかったが、確かにそう言ったような気がした。男のかすれた低い声だった。

――――ガチャン
扉が閉まった。男は出て行ったのだろうか。それにしても最後の言葉は一体……
「ねえ、石田君!もしかして犯人は、藤原君じゃない!?」
突然、少し大きい声で村脇が発言した。
「そんなまさか。さっきのヤツが勇やってこと?」
「そうだよ!だって、藤原君はなんで私たちと一緒に縛られてないの?おかしくない?」
「……・。」
 確かに勇はまだ姿を見せていない。もし村脇の言うように、勇が村脇に恋心のようなものを抱いていたとして、二人きりで話をしたい時に自分のような邪魔者が現れたら……。
「ここには来にくいんかもなぁ。でも、だからって、勇が犯人じゃあないと思うで。俺を殴って縛る理由が……。」
 5日前、朝の衝撃的な出来事のせいで大幅に遅刻してしまった孝彦は、勇を怒髪天のごとく怒らせてしまった。あの時は手紙のことを話してなんとか許してもらったが、孝彦は生まれて初めて友達からあれほど激怒された。もしかして勇は自分のことを友達とは思っていないのかもしれない。そうなら、もしそうなら……。考え出すと、だんだんさっきの男のつぶやきは勇だったような気がしてきた。
(俺は勇に殺されるのか?)
 孝彦はあわてて首を横に振った。

10月15日 月曜日    AM8:00

「祐海、早く起きなさい!今日から学校でしょ?」
「え……あ……。お母さんオハヨウ。」
「はい、おはよう。朝食できているからね。」
祐海は寝ぼけ眼のまま台所のテーブルについた。昨晩はあれから何度も孝彦に連絡をとろうとしたが、結局携帯電話は午前3時を過ぎてもつながることはなかった。指が筋肉痛を起こすくらい電話をかけ続けた彼女は、左手にケイタイを握り締めたまま眠りについていた。
(孝彦……何してるんやろ……。)
祐海の心の中は暗い雲で覆われていた。母親にせかされて家を出たものの、祐海はほとんど放心状態のまま自転車置き場まで歩いていった。
(えっと……鍵はと……。)
 その時、かばんの中から自転車の鍵とは別の鍵が出てきた。小さな人形のキーホルダーがついた孝彦の部屋の合鍵だった。去年の祐海の誕生日に浮気防止の為、しつこく孝彦にせがんでつくらせたのだ。とはいうものの今まで一度も無断で使った事はない。
祐海は大きく深呼吸して、自転車に乗った。孝彦の下宿まではだいたい20分くらいで着く。彼女は懸命にペダルをこいだ。その力強い想いは、祐海を予想したよりも早く目的地へとたどり着かせた。
 自転車をとめて、階段を駆け登る。と、その前にもう一度ケイタイをかけてみた。が、やはり孝彦は出ない。祐海は数十分前よりもさらに大きな深呼吸をして、孝彦の部屋の鍵を差し込んだ。

―――――ガチャリ

ゆっくりと見覚えのある部屋が姿を現した。
「孝彦?」
 返事は無い。そこに人の気配が無いことはすぐにわかった。祐海は少しの安堵感を覚えながら、その場に座り込んだ。落ち着いて部屋を見渡すと服やカバンが辺りに転がっている。鼻から軽く空気を吸って、吐いて、それらを片づけ始めた。あわてて用意をしながらこの部屋を出ていく孝彦の様子が目に浮かんでくる。それと同時に、やはり音信不通の不安感が大きくなってきた。
 部屋に散らかった物を全て整理し終えても、孝彦の行方を知らせてくれる手がかりは、何も見つからなかった。半分泣きそうになりながら、祐海はティッシュで鼻をかんだ。
(もうイヤ。)
丸めたティッシュをゴミ箱の方に投げた。運動神経の悪い祐海は、生まれてから数回しか、これが成功したためしがない。今回も見事にゴミ箱から遠く離れた所へティッシュは落ちた。仕方なしにそれを拾い上げると、目標地点に運んだ。
「はぁ〜。」
 ここに来てから、もう何度目かの、ため息をついた。
「ん?」
 ふと、ゴミ箱の異変に気づいた。新しく換えられた袋の中身に、祐海は、ただならぬ気配を感じたのだ。こういうことはしたくなかったのだが、今回ばかりは仕方ないと自分に言い聞かせ、おそるおそる黒い袋を凝視する。紙切れと、髪の毛が幾らか入っている。
(髪の毛……長い。やっぱり、女!)
祐海は自分の勘のするどさに、正直驚いた。そして、紙切れをつまみあげた。どうやら大きさからいって、手紙のようだ。女からの手紙かな?などと考えながら、中を開けてみた。
「うわっ!気持ち悪〜い!……・でも女の字ね。」
 孝彦が、見た瞬間に投げ捨てた手紙を、彼女はどうにか読める文字だけ文字化し始めた。

……
はいけ*いとし*いしだた*ひこ*ま*うすぐあな**たん***びです*ちょ*どきょうか***しゅうか*ごで**どこ*おいわい*ますかきっ*わたし*ふたり***らどこで***たのしい*ずですが*たし***ておきのばしょをかん***いま***きっ
とふたり***しま**うね*っとですだれ**じゃま****せんあ*たにつきま*うウジムシたち*すべてまっさつ*ること**めていますだか**んしん*******にもしん**しなくてもだい**うぶで*あんしん**くだ**あんしん**くだ***んしんしてく***あんしんして********してくださ***ごじつ*ょうたいじょう***ますの***ていてく*さい**とたのしいおもいで****じゃまもの*けしま**らあんしんしてください*いのり*ことば*かいておき**のであんし*してくださいあん***てくださいだいじょうぶですからあんしん***ださいあんしん****さいあんしん**くださいまっさつし**からあんしん*てくだ****さつしますから
呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪
*男写*三葉*一葉男**時代言十*前後推**写*子供大勢女取子供*妹従*妹想像*園*荒縞袴*首三十度左傾醜笑**醜鈍人美醜関心*人面白*無顔可愛*加減世辞*空世辞聞謂*俗可愛影*供笑*無美醜***経来見**頗不快呟毛虫払***真投知子*笑顔見見何*薄気味悪感*笑顔子少笑***両方握立人間固握笑無猿猿**顔醜皺寄皺**奇妙表**真*不思議*情子供*事無第二葉写**変貌学生姿高*学校時**真大*時代写真美貌学*不思**人間*学生**胸白覗籐椅子**組笑笑顔皺猿*巧微笑人間笑*血重*生命渋言充実*少無鳥羽毛軽白紙一***十造物****薄言足言足言足見美貌**怪談気味悪**私不思議美貌青**事無一葉**最奇怪頃頭*髪汚部**屋壁三*所崩落*真写片隅****手笑表*無謂坐火鉢****死不吉写真奇怪*真顔大写*顔構造調……

 解読し終えた祐海は、軽い眩暈を覚えた。また、ため息をついてから、
「そっか、孝彦は気持ちが悪い女が趣味やったんや…………って違うか。」
誰に言うわけでもなく、自分に『ノリツッコミ』を入れてみた。もちろん部屋の中からは、時計と冷蔵庫の単調な音しか返ってこなかった。
もはやこれは普通の事態ではないという事が明らかになってきた。が、孝彦の行方を知らせるてがかりはこの手紙だけだ。何度読み返してみても居場所のヒントになりそうな事は書かれていなかった。祐海は苛立ちを覚えながらも何かあるはずだと、部屋の隅々まで目を凝らした。すると、雑誌が山積みにされている所に白い紙が挟まっている事に気づいた。近寄り、手にとると孝彦の学課の名簿だった。名前、学籍番号、電話番号が記されている。
(全部あったて見るしかないか。)
 祐海はケイタイを手にとり、番号を打ち込み始めた。

同日    時刻不明

「俺はなあ、お前のそうゆう所が大っ嫌いやねん!」
「ご、ごめん。だって今日は変な手紙が……。」
「言い訳はいいから!だいたいなあ、お前みたいに時間にルーズな人間は絶対教師になんかなられへんわ!」
「……・。」
「いや、言い過ぎた。でも次は遅刻すんなや。……今度したら……・わかってるよな?何をされても仕方ないよな。」
「……え?」

孝彦は目を覚ました。背中にはびっしょりと汗をかいていた。真実ではないにしてもあまりにもリアルな夢だった。実際にあの時、勇はこう言いたかったのだろう。今の孝彦にはそう思えた。
「おはよう、孝彦君。」
突然近くから村脇の声が聞こえた。少しびっくりしながら、
「おはよう。」
と答えた。
「なあ、村脇さんは怖くないん?俺たちこんな状態におかれてるわけやし。それに村脇さんは女の子やろ。」
「……だからこそ大丈夫なんじゃない。藤原君は、女の子に手をあげるような人じゃないでしょう。」
「それはどうかな、じゃあ何で村脇さんまで監禁する必要があんの?やっぱり勇……いや犯人は、村脇さんにも何かしてくるつもりやねんって。」
「いいじゃん、その時はその時だよ。」
(この子はアテにならん、自分でここから脱出せんと……。)
だが、完全に孝彦の体を束縛している拘束具は、どう考えてもはずれそうになかった。
(何かないか……何かないか……。)
 触覚に全神経を集中させて、腰の後ろで一つに結ばれた手を動かした。両手はむなしく空を切り続けたが、孝彦は懸命にその動作を続けた。
「どうかしたの?」
孝彦の動きに気づいたのか、村脇が尋ねてきた。
「いや、なんでもないで。ちょっと手が痛くなってきたから、動かしてみただけ。」
「そう。」
(ん?)
部屋の中で、物と物とがこすれるような音が聞こえる。これは確か……。
「ケイタイや!どっかでケイタイがバイブしてる!どこや?」
「ほ、ほんとだ!」
 おそらくこの振動の様子から想像すると、机の上に置かれたケイタイだ。牛の鳴き声にも似た摩擦音はしばらくの間、部屋中に響き渡り続けた。
「誰のケイタイやろか?」
「さあ……。藤原君が忘れて行ったのかも。」
「じゃあまたここに取りに来るはずやな。」
「うん……そうね。」
 今度また犯人が来たら思い切って話しかけてみよう、孝彦はそう決めていた。
(犯人が勇ではありませんように……。)
 そう祈りつつ孝彦は、村脇ととりとめもない話をしながら犯人と疑われる人物が来るのを待っていた。村脇は大して面白味のない自分の身の上話を長々と話すので、時折睡魔に襲われたが、犯人の正体をつきとめるために孝彦は必死に脳を起こし続けた。
「でね……私はね……」
「ちょ、ちょっと待って村脇さん。あの携帯音が鳴ってから、もう5時間以上は経ってるんとちゃう?」
「そう?そんなに経ったかな?こうして楽しく会話してると時が経つのも忘れちゃうね。」
「犯人はなんで来ないんや?おかしい……。」
「それよりさあ……。」
「ちょっといい加減黙ってや!今は君の話よりもここから逃げ出すことが先決やろ!?」
 少し大きめの声で怒鳴り終わってから、孝彦は少しの罪悪感を感じた。しかしそれ以上に村脇の無神経さに腹が立っていた。
「…………ごめんなさい。」
「……いや、こっちこそきつく言い過ぎてごめん。でも村脇さんだって早くここから出たいやろ?」
「…………そんなにここがイヤ?」
「え?」
「…………せっかく用意したのに。」
「村脇さん……?」
 いきなり孝彦の右頬に激痛が走った。誰かに平手で殴られた。つづいて左にもう一発。
「…………ふふふ。これで許してあげる。」
「いてぇ…………なんで平手で……お前まさか……。。」
「そろそろパーティを始めましょう。うふふふふふふふふふ。」
 孝彦の目隠しがはずされた。一瞬、光に目がくらんだが、慣れてくるとだんだん視界に見覚えのある部屋が広がった。
「ここは……研究室?」
「ふふふふふふ……ふふふふふ。」
 狂気に満ちた笑みを浮かべた村脇が近づいてきた。彼女はうすい布切れだけを体にみにまとい、ほとんど半裸の状態であった。顔以外の全身に、赤や緑色をした奇妙な模様を描きこんでいる。狂人の様相であった。
「ふふふふふふ……ふふふふふ。」
「やめろ!!!何をする気やねん!!?」
 孝彦は力の限り叫んだ。次の瞬間、ドアが開いた。
「孝彦!!」
「祐海!?」
 部屋に侵入してきた祐海を見て、村脇の表情が鬼の形相に変わった。
「キサマーッ!!!!」
叫ぶやいなや狂人は祐海に飛びかかった。
「きゃああああああああ!!!」
村脇は祐海を床に激しく押し倒した。
「痛いっ!」
「コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス」
祐海の上にまたがり、か細い首に両手をかけた。
「うぐっ……。」
 孝彦は自分でも信じられないくらいの力で手と足を縛っていた布をかみ切った。そして立ち上がるや猛スピードで村脇の横顔を思い切り蹴り飛ばした。
「ぐえええっっ!」
奇妙なうめき声をあげて村脇は倒れ込んだ。
「祐海!大丈夫か?」
「ごほっごほっ……う……うん。」
「良かった。それにしてもどうしてここに来たんだ?」
「……うん、あのね……・あ、危ないっ!!!」
「キエエエエエエーーーーーッッ」

10月16日 火曜日    AM10:00

 白衣を着た中年の男がゆっくりと孝彦の顔をのぞき込んでいた。
「ふむ……。石田孝彦君、声が聞こえるかな?」
「先生これは……。」
「うん、本当に奇跡だね彼が助かったのは。彼の友達の処置があと一歩でも遅れていたら彼は命も危うかっただろう。」
「先生、孝彦は、孝彦はもう……!?」
「それはわかりません。100%可能性がないとは言えませんので。あとは本当の奇跡を信じるしかありませんね……。」
「ではご家族のみなさま、これからの当病院での治療についてお話がありますのでこちらの部屋に来てください。」
 看護婦に続いて、孝彦の両親がうなだれた様子で部屋を出ていった。
「孝彦……!ううううっっ!」

――その日の夕方

「先生、孝彦君はもう元には戻らないんですか?」
「……河本さん、人間があれだけ何度も刃物で刺されれば死んでしまう方が当たり前なんです。それでも生き返ることができただけでも本当に奇跡なんです。」
「だけど……だけど……!」
「祐海ちゃん、あんまり先生を困らせちゃだめだよ。」
「藤原君……。」
「俺たちはたとえ1%でも孝彦の助かる可能性があるんなら、それを信じて待つしかないんちゃうかな?」
「うん……。」
「では私はこれで。」
「ありがとうございました。」
医者が退室したあと祐海はわっと泣き崩れた。
「孝彦……孝彦……・。」
「祐海ちゃん……。」
「今日はね、孝彦の誕生日なの。21歳の誕生日、おめでとう孝彦……。」
「さあ祐海ちゃん、もう帰ろうか。家まで送るよ。」
「藤原君、あのときは助けてくれて本当にありがとう。藤原君がいなかったら……。ううっっ。」
「もう泣かんとき。」
勇は祐海の肩をがっちりと抱いた。
(なにもかも予定通りや。)

孝彦は危うく死を免れた。しかし彼は植物人間として今後生きながらえていくことになった。彼が植物状態になる前に、最後に記憶したことがある。

背中を村脇に一度さされ、激痛をおぼえつつも村脇からナイフを奪い取り村脇の後頭部を殴りつけ気絶させた。大量の血を見て祐海は失神していた。その時、ドアが開き勇が入ってきた。彼はナイフを拾い上げ、孝彦を……

あたし達の選択
村上恵子

 PM11:00過ぎ、ケータイがなる。「あ、ジュン?俺。バイト終わったから今から行くわ。」「うん。」これがあたし達のいつもの合図だ。それから約10分。リョウはうちにやってくる。「ただいま。」「おかえり。バイトお疲れ!」
 それからリョウは遅い夕食をとる。「うまいよ。」本当においしいのかどうなのか、あたしが適当に作った料理を、リョウはいつも「うまい」と言って食べてくれる。何を見たいわけでもなくTVを見ながら、2人でとりとめのない話をする。「ちょっと聞いてよ。」そう言って、小さな子どものように、気に入らないことを思いきり愚痴ったり、いいことがあったとうれしそうに笑うリョウの相手をするのが、あたしは好きだ。
 借りてきたビデオが2本あるから、今日はどっちを観ようかと話していると、不意にリョウのケータイがなった。瞬間、あたしとリョウは目で合図を交わす。あたしは自分のケータイをマナーモードに設定し、リョウはそれを見てからTelに出る。「もしもしー、ああ、バイト?終わった……うん……」その間あたしは物音をたてないようにひっそりと息をひそめて、音量をおとしたTVを見るともなく見たり、雑誌をみたりして時間をつぶす。Telの内容はあまり聞かないようにしてる。なんとなく悪いし、……あんまり聞きたくないし。
 「ああ、うん、じゃあ明日。」ふーっとため息をつくと、リョウは「ごめんな。」と一言。「……ね、どっち観る?」何事もなかったかのように、2本のビデオテープのタイトルを読み上げて、あたしはリョウに聞く。
 
 非常識だってことはわかっている。周りから見ればあたしはまぎれもなく女の敵みたいな立場なんだってこともわかっている。それでもあたしは、リョウとの居心地よい時間を手放せないでいた。もうあたしにとってリョウの存在は、失ってしまうにはあまりに大きくなりすぎていたのだ。リョウがうちへ来るようになって、3ヶ月。正直、こんなに2人でいることになるなんて思わなかった。歯ブラシ、パジャマ代わりのトレーナー、ケータイの充電器、外には洗濯したサッカーのユニフォーム……。そして、タバコを吸わないあたしの部屋に、吸殻の残る灰皿。あたしの部屋にはすっかりリョウのものが増えてしまった。

 「飯食わして。」あの日リョウは突然やってきた。深夜0時過ぎに。「やだって言っても中はいるよ。」たまたま行ったライブハウスで知り合ってから2日後のことだった。なんて奴だと思いつつ、勢いに負けたあたしはありあわせで焼きそばを作った。「彼女いるんでしょ?こんなとこにいていいの?」「いい!だって彼女自宅生だから飯食わしてくれないし。」…こいつ…。リョウはほんの遊びのつもりで来たみたいだったが、話しているうちになんだか妙に意気投合して、その日は結局しゃべっているうちに朝になってしまった。リョウは、やってる事も言ってる事も、はっきり言ってめちゃめちゃだった。それなのに変に開き直って堂々としているのがあたしには面白くて仕方なかった。それがあたし達の始まりだった。

 男女間の友情は成立するかとか、付き合うってなんだとか、答えのない疑問の答えを出そうと、あたし達は朝方まで話し合ったりする。答えなんてないってわかっていたけど、それでも2人でそうしているのが楽しいのだ。
 「あー、俺ずっとここにいたい。」リョウは言う。「今はそう言ってるけど、きっとそのうち飽きて、また新しいどこかに行っちゃうんだよ、リョウは。」あたしは答える。今はともかく、この先、リョウにとって、あたしがずっと一緒にいたい存在で居続ける事はないだろうって、自分でわかってるから。「飽きるって……そんな言い方すんなよ。俺がこの先ずっとここに居続けるかどうか、それはわからないけど、今は正直に、ジュンとずっと一緒にいたいって思うよ。それは本当。」「そう、ありがと。」天井を見つめるリョウの横顔を見ながら、あたしは少し笑って答えた。「彼女がいるのにね。」出そうになったその一言を飲み込んで。

 勝手な言い分だが、あたしとリョウにとってこれは『浮気』ではない。何をもって『浮気』とするかにもよるし、たぶん世間から見れば立派に『浮気』として成立するだろうけど。リョウとはかなり色々話してきたが、結果、あたしとリョウは『親友』ということになる。ずっと『like』でいたい。どちらかが恋愛対象として本気で相手を好きになれば、この心地良い関係は崩れてしまうからだ。『お互い本気で好きにならないこと』これが暗黙の了解となっていた。あたし達はお互いの『居場所』なのだ。面倒な感情にとらわれることもなければ、変に気を使うこともないし、嘘をつく必要もない。寂しい時は言えばいいし、悩みがあれば相談すればいい。そんな2人なのだ。

 今日も昼の学食はすごい込み様だ。この大学にこれだけの人数がいたのかと改めてびっくりさせられる。空いている席がないか探して歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。「ジュン!」振り返ると、ミオだった。彼女は、去年一緒の授業を受けていて仲良くなった友人。そして、…リョウの彼女だ。
 「久しぶりー!今日すごい人多いよねー。特に今の時間、2限終わったばっかりだし。もううちら食べ終わるし、ここ座りなよ。」ミオの向かいにはリョウが座っていて、リョウは久しぶりに会った友人にするようにあたしに「おう。」と軽くあいさつをする。「あ、でも3人かぁ。…すみません、ここ空いてます?」ミオは隣の荷物が置かれた席が空いているかどうか確かめると、「空いてるって。3人いけるよ。」と言って席を譲ってくれた。
 まっすぐミオの目が見れなかった。プライベートで会って遊んだことはないが、ミオの明るく、ノリのいい性格があたしは好きだ。気が合うので、今度飲みに行こうという話も出たりしていた。都合もなかなか合わないし、同じ授業がなくなってからは、学科が違うこともあって会うことは少ない。けど、ミオはあたしを見かけるといつもうれしそうに声をかけてくれる。「ジュン!」そう言って笑顔で走りよって来てくれるミオ。そのミオに、あたしは大きな秘密を隠したまま、偽りの笑顔で、差障りのない会話をする。リョウの彼女がミオだと知ったときにはもう、あたしの日常にリョウは入り込んでいて、あたしの中で、ミオに対する申し訳なさよりもリョウとの時間の心地よさが勝ってしまっていたのだ。

 「あ、ジュン?俺。バイト終わったから今から行くわ。」「うん。」いつものようにリョウが来る。そして、いつものように何時にかかってくるかわからないミオからのTel。「もしもし、…うん…」悪いといったふうにこっちをちらりと見て、リョウは話し始めた。電話の向こうのミオは、大好きなリョウとの会話を楽しんでいる。そのリョウは、今、ミオと話をしながらあたしの部屋であたしと一緒にいる。今日もあたしは話を聞かないように自分の意識を他のものへとそらす。
 「ごめんな。」いつものリョウのセリフ。「ううん。…謝る相手が違うでしょ。」昼間会ったミオの愛らしい顔が頭の中から離れなかったあたしは、苦笑いしてそう言ってみた。「やっぱり俺、もうミオのこと好きかどうかわからんわ。…嫌いじゃないし、いいコだけど…。会いたいと思わないんだよな。」それからリョウは今あたしが入れたココアを一口飲んで、「俺が会いたい人はここにいるし。」と笑って話をすりかえる。笑えない冗談。マグカップからたちのぼる湯気を見ながら、あたし達はそれぞれにミオのことを思っていた。

 リョウはミオに別れを切り出そうかどうしようか迷っていた。ミオはリョウがそんな事考えてるなんて全く気付いていないようだけど。最近のリョウはもっぱらその手の話が多い。ミオに悪いとこがあるわけじゃない。ミオは容姿も整っているし、性格だって間違いなくいいコなのだ。
 ミオとのエピソードはたくさん聞いた。いつも会話の中にミオの話は出てくる。そんな時リョウは疲れたふうだったり、怒ったふうだったりする。でも、その日は少し違った。
 あたしの誕生日だった。あたし達は妙にハイテンションで、缶ビールやチューハイやカクテル、とにかく買ってきたお酒20本余りを、いつの間にかあけてしまっていた。
 「俺が告白したんだよ。ほんとかわいくて最初から狙ってたんだよな。」リョウは付き合いだした頃のことを話し始めた。ミオはなかなかその気にならなかったが、リョウの強気なアプローチに負けたらしい。リョウは思い出すままにしゃべり続ける。初めてけんかした時のこと、授業をさぼって2人で遊びに行ったこと…。いつものように愚痴ったりもするけど、リョウは優しい目をしていた。あたしは笑ってリョウとミオの思い出話を聞いていた。
 自分が一番近くに居るような気がしていた。でも、そうじゃない。リョウは遠くに居る。

 「もう俺ら付き合うか。」明日〆切のレポートで必死のあたしは、またそんなこと言って…と思いつつ、パソコンの画面と向き合っていた。リョウがそんなことを言うのも最近ではしばしばだ。「ミオがいるじゃん。」あたしは賛成しない。「じゃ、ミオと別れたら付き合う?」一瞬、キーボードを打つ手が止まる。「…あたしは『〜したら』とか『〜すれば』の話はしないの。今はミオがいるんだからまずミオのこと考えなよ。」あたしは作業を再開する。「レポート遅くまでかかりそうだから、リョウ先に寝ててね。」
 リョウとは気が合うし、許されるなら一緒にいたい。けど、あたしはこのままの2人でいたかった。『お互い本気で好きにならないこと』…この約束を破れば、あたし達は今のままの2人じゃいられなくなる。嫉妬や猜疑心や、相手を想うからこそ起こるいろんな感情で、あたしはリョウを縛ってしまうだろう。そして、あたしがリョウを好きになるほど彼はあたしを好きにはならない。リョウは今楽な方へ逃げたいだけなんだ。それがわかるから、あたしはリョウの提案には賛成しない。リョウとはどこまでも『親友』なのだとあたしはかたく決めていた。
 リョウの話を聞いては、ミオとの仲がもう一度どうにかならないものかと案を出す。矛盾は十分承知だ。自分でどうしたいのかわからない。リョウもミオも大切なのだ。考えすぎると、リョウが2人いれば良いんだとか、あたしが男なら良かったんだとかめちゃくちゃな結論に逃げたくなる。今のリョウの様子だと、あたしがいようがいまいがミオとリョウは終わるかもしれない。でも、少なくともあたしがいなければ、リョウはあたしのところへ逃げることなく、もっときちんとミオと向き合えたかも知れない。そんなことを考えながら、結局答えは出ないまま時間だけが過ぎ、あたしはリョウを部屋へ迎え入れ、リョウはこの部屋であたしと過ごすのだ。

 「友達連れて行くわ。」と言って、リョウはトシを連れて来た。トシはリョウの親友で、あたしのことはリョウから聞いて知っていたらしい。トシはたまにリョウと一緒に遊びに来るようになった。
 その日も、リョウとトシは2人で遊びにきた。けど、リョウは急用ができ、あたしはマンションの下の駐車場までリョウを見送った。「あいつはいい奴だから心配しなくて大丈夫だよ。もしなんかしてきたら殴っていいから。」そんな冗談を言って、リョウはバイクにまたがった。
 「外寒かっただろ。こんな時間にバイクって、リョウもかわいそうだな。」肩をすくませて部屋に戻ったあたしに、待っていたトシが声をかけた。2人で話してみるとリョウがいる時と少し雰囲気が違う。きれいな顔だとは思ってたけど、よく見るとほんと、鼻もスッとして高いし…。何で彼女いないんだろう。なんとなくそんなことを考えていた。「タバコ吸っていい?」「あ、うん。」「あ、このCDかけていい?俺これ好きなんだ。」2人でいるのが初めてだから気を遣っているのか、トシはいつもよりよくしゃべる。
 最初ぎこちなかった会話も徐々に盛り上がり、CDの曲も2周目に入ったころ、急に改まったふうにトシが言った。「…ジュンちゃん、俺、ジュンちゃんのこと好きになった。」「へ?」トシは3本目のタバコに火をつける。笑ってごまかそうとするあたしに、「俺は本気だよ。」と、トシはまっすぐにあたしの目を見て言う。急に部屋が狭い気がしてきた。リョウといる時と違う、2人だってことを今更ながら意識する。「いや、だって、あたし、アレだよ。ほら、非常識だし…。」トシは何も言わない。「トシ、あたしのこと何も知らないじゃん。あたしもトシのことまだあんまり知らないし…。第一リョウにはなんて言うの?」「あいつには俺がちゃんと言うよ。」部屋に戻ってから入れた紅茶もすっかり冷めてしまった。マグカップを手に、言葉が見つからないでうつむいているあたしにトシが言う。「俺と付き合おう。」「だってリョウが…」「あいつには彼女がいるだろ!」トシの言葉があたしの言い訳をさえぎる。…リョウには彼女がいる…。そうだ。リョウにはミオがいる。あたしとリョウはそういう関係にはならない。これからもずっと…。
 目が覚めた気がした。そんなの最初からわかっていたことなのに。こうやって人に言われてみると、自分とリョウの非常識な関係に今更ながら疑問がわいてくる。「な?今すぐ決めなくていいから、前向きに考えてみて。」「…わかった。考える。」リョウの顔が浮かんだけど、あたしはそれをかき消した。あたしがトシを好きになればいいのかもしれない。リョウはミオと向き合える。「オッケーなら電話して。それまで俺はここには来ないから。電話待ってる。」「うん。」

 ガタンガタン…。今日何台目の電車だろう。いつもは気にならない電車の音が今日はやけに耳につく。灰皿の灰が増えていく。
 2人でコンビニで買い物しているのを、ミオの友人が見ていたのだ。問い詰められたリョウは、時々一緒に夕食をとると説明したらしい。リョウもジュンも好きだからどうしていいのかわからないと言って、ミオは泣き崩れたらしい。そして、「でも、行かないで…」と、なだめるリョウの手をつかんで肩をふるわせていたという。
 「ごめん。」それしかでてこなかった。「ジュンが悪いんじゃないだろ。俺が来たくて来てるんだし。」リョウといる以上、こうなることは当然予想できた。でも実際あの明るいミオが悲しんでいるかと思うと、今こうしてリョウと2人でいることは耐えがたい苦痛だ。「今日は帰ったほうがいいね。」トシのことを相談しようと思っていたが、2人とも頭の中はミオの傷ついた姿でいっぱいになっていて、それ以上考える余裕はなかった。

 進行方向右斜め前の教室から数人の女の子が出てくる。なんて間が悪いんだろう。(ミオだ…。)あたしは気付かないふりをして通り過ぎようとする。「ジュン!」覚悟を決めて足を止める。「今日寒いねー。」そう言って走りよってくるミオは、いつもと変わらないあの笑顔だ。「次授業?あたしもなんだ。早く帰りたいよね。」何も聞かない、責めたりもしない、いつもと同じあたしの好きなミオ。ミオは今何を考えてるんだろう。ミオの大切なリョウと、ミオの知らない2人の時間を過ごしていたあたしを目の前にして。逃げようとした自分を思うと顔が熱くなる。あたしは今どんな顔してミオと話してる?ミオみたいにいつもと同じ表情ができているだろうか。「…じゃ、またね。」うわのそらでそれなりの受け答えをしているうちにミオは行ってしまった。あたしは見えない糸で体を縛られたようにその場に立ち尽くし、茫然とミオの後ろ姿を見つめていた。
 ある結論があたしの頭をよぎった。考えたくなかった結論。他の解決法を必死で探したけど、その結論はあたしの頭の中にこびりついて、もう離れなかった。

 あたしは自分からリョウにTelしない。一応、2人に迷惑がかからないようにだ。でも、あたしは今日初めて自分からリョウを呼ぼうとしていた。話さなきゃいけないことがある。けど、言いたくない。ケータイの画面に何度もリョウの番号を表示するのに、最後のボタンが押せないでいた。一体もうどれくらいこうしてケータイとにらみ合っているだろう。たった1回このボタンを押せばいい、それだけのことなのに。
 ピンポーン。(リョウ!?)そう思って出ると、そこに立っていたのはトシだった。「来ちゃった…。やっぱり電話待ってられなくて。」決まり悪そうに言う。「来ないって言ったのに来ちゃってごめん。」180cm近い大男が恥ずかしそうにしているのを見て、思わず笑ってしまった。ついさっきまでの緊張が和らいでいく。返事をしなきゃいけないかもしれないこの状況で、あたしはなぜかホッとしていた。「笑うなよ。」「ごめんごめん。あ、上がる?」「ジュンちゃん、俺、返事ほしくてけっこう覚悟して来たんだけど。あんま考えてないだろ。」「あ…。」今日はもういいからちょっと話でもしようと、トシは苦笑して部屋に上がった。
 「リョウかと思った?」「え?」「さっき。一瞬、なんだって顔したから。」あたしの反応を見て、「いいけど。今はまだしょうがないと思ってるから。」と付け足す。「今日リョウ来るの?」と聞くトシに、いつもいきなり来るから今日来るかどうかはわからないと答える。「大変なんじゃないの?今。俺でよければ聞くけど。」トシはミオとのいざこざをリョウから聞いているらしい。「あはは…。ね、どうしよっかな。」弱いとこを見せたくなくて開き直ってみる。「今俺が聞くのって、なんか弱ってるとこにつけこむみたいでアレだけど。たぶんあんま人に言えないんじゃない?こういう場合。」全部言いたい…胸の奥の方からぐっとこみ上げてくる。でもトシに頼るのは、なんだかトシの好意を利用するみたいな気がして、言っていいのかわからなくて何も言えなかった。「俺に気使うなよ。言いたくないなら無理には聞かないけど、苦しくなったら言えよな。リョウともちゃんと話して。」「うん。」トシの優しさが痛い。もう泣きそうだ。キッチンの方からシュンシュンと音がする。そういえばお湯を沸かしていた。慌てて火を止めに行き、2人ぶんの紅茶を入れる。
 「リョウが好き?」唐突な質問に少し驚く。「好きは好きだけど、そういう好きじゃなくて、なんて言うか、なんかリョウは特別なの。ただの友達でもなくて、兄弟…じゃないな、でもそんな感じで、何でも言える親友みたいな…。」うまく答えられない。「そこだろ、問題は。リョウもジュンちゃんも。はっきり言ってその関係はミオには理解できないと思うよ。ミオって言うか、たぶん他のみんなにはね。」トシの言葉は厳しいけど、間違ってない。その通りだ。「わかってるよ。」「リョウのこと男して好きじゃないって言うなら、ジュンちゃんは今の状態でちゃんと他の人を好きになれる?リョウ以外の男を男として見れるの?」「そんなのわかってる!考えてるよ。」全部正しいからイラついてくる。「逃げんなよ。」「逃げてない!考えてるもん。」トシの手があたしの肩をつかむ。「逃げてるだろ!2人見てるとイライラするんだよ。どっちなんだかはっきりしろよ。好きでもないのにそんなに一緒にいるっておかしいだろ?好きなら好きだって言えばいいじゃん!ミオだけじゃない、俺だってお前らの気持ちがわからないよ。」「……!」あまりに強いトシの目を見ていられなくて目線をそらす。「…ごめん、言い過ぎた。」つかんでいた肩を離すと、そのままかばんをつかみ、「今日もう帰るわ。」と、トシは部屋を出た。あたしは座ったまま、しばらく動けずにいた。出そうになる涙をぐっとこらえる。
 テーブルには入れた時のままの紅茶が2つ。思わずため息が出る。何から考えていいのか、どうすればいいのか。頭の中はぐちゃぐちゃで、何一つ整理できないまま時間だけが過ぎていく。
 ふと時計を見ると、もう深夜2:00を過ぎようとしていた。ピンポーン。「俺。寝てた?」…リョウだ!リョウの顔を見た瞬間、それまで我慢していたものが一気に溢れ出してしまった。「ジュン!?」リョウは驚きながらあたしを受け止めてくれた。数時間前までリョウと話すのが怖くて戸惑っていたのが嘘みたいに、今はリョウがここにいてくれることにあたしは完全に救われていた。
 今はっきりとわかった。あたしはリョウが好きだ。こういう状況になって初めて、離れていくリョウの姿を想像した。リョウを好きだから、終わりのある関係になりたくなかった。あたしの中には、リョウと一緒にいられる幸せよりも、リョウを失う不安の方が大きくて、友達以上恋人未満という都合いい関係を保つことで自分を守っていたのだ。
 「ごめん。ありがとう。」落ち着いてきたあたしはリョウの腕から離れる。「俺はこれからも今までみたいにここに来るよ。俺に彼女がいようが、ジュンに彼氏ができようが。だって友達だもん。」どこから来る自信なのか、いつものようにめちゃめちゃなことを偉そうに言うリョウ。「それは無理だよ。」「なんで?俺ら何も悪いことしてないじゃん。」「でも、実際あたしと仲良いことでミオが泣いてるならそれはやっちゃ駄目なことなんだよ。」納得がいかず、リョウは不満そうにふくれる。「じゃ、ジュンに会いたくて俺がここに来てもジュンは入れてくれないんだ?」この人は、なんてわがままで、自己中心的で、素直な人なんだろう。ずっとこのままでいたい、一緒にいたい。こみ上げてくる衝動を抑えようとすると息が詰まりそうになる。「彼女がやだって言ってるんだから…。」「俺はミオのものじゃないもん。」進まない会話の繰り返し。強く言い切れないあたしと、へ理屈を並べるリョウ。ため息が出る。リョウもため息をつく。
 「ぷっ。」お互いの困った顔がおかしくてあたし達は笑ってしまった。「ジュン、なかなか頑固だね。」「めちゃめちゃなんだよ、リョウは。」「だってこれが俺だもん。」カンカンカン…今日最初の踏み切りの音。「あ、4時37分!」始発が通る。この部屋でリョウと2人、始発の電車の音を聞くのは一体何回目だろう。部屋の前を始発が通る時間はいつのまにか覚えてしまっていた。「やばい!俺明日朝練だ。」「あたし1限!」「寝なきゃ!」意見が一致したあたし達は、目覚ましをセットすると慌ててベッドに入った。
 朝、リョウは眠いと言ってなかなか行こうとしない。「時間ないよ。早く早く!」一足先に大学に向かうリョウを送り出す。靴を履きかけて、リョウはもう一度振り返った。「ジュン、いってらっしゃいのチュウは?」「あはは。何それ。」「けち。」靴を履いたリョウに荷物を渡す。「じゃ。」「うん。」開いたドアから、朝の冷たい空気が入ってくる。「行って来ます。」リョウが、部屋を出る。「いってらっしゃい。気をつけてね。」リョウは答える代わりに、軽く手をあげ、自信に満ちたいつもの笑顔を見せてから背を向けた。ドアから一歩足を出し、リョウの後ろ姿を見送る。リョウが階段を一段下りるたび、大きな背中が少しずつ見えなくなっていく。
 部屋には、起きぬけにリョウが吸ったタバコの匂いが、まだ漂っていた。

 あれから1ヶ月。あたしの歯ブラシの隣に誰にも使われない歯ブラシが1本。クローゼットにはあの日たたんだままのでっかいトレーナー。それから、テーブルの上に置物の灰皿。ケータイの充電器は、あの朝、リョウのかばんの中にそっと入れておいた。           
 そういえばこの間、学食で昼食をとるミオとリョウを見かけた。声はかけなかった。というよりも、声をかける勇気がなかった。2人の姿を見て、良かったとホッとしつつも、一瞬息苦しくなるのを感じたからだ。2人の前で、まだきちんと笑える気がしない。トシとはあれから会っていない。顔を合わせ辛くて、トシはあたしを避けているのかもしれない。あるいは、あたしが避けているのかもしれない。

 クリスマスイブの夜だというのに、あたしは部屋に1人でいた。親しい友達はみんな予定があるので、クリスマスパーティーは明日やる予定だ。一応会場として選ばれたからには片付けなくてはと部屋を見渡す。
 ピンポーン。時計を見ると11:30過ぎだ。イブのこんな時間に誰だと思いつつ出てみる。「俺。開けて。」…リョウだ!ドアを開けるとリョウは、誰かいる?と一応確認してから、「ただいま」と言って部屋に上がる。
 「メリークリスマス!!」クラッカーから色とりどりのテープが飛び出す。「どうしたの!?」驚いているあたしにリョウは言う。「すぐ行かなきゃいけないんだ。トシにプレゼント渡したいからって言って出てきた。いや本当にトシのとこにも行って来たけど。」「ミオは?」「俺の部屋。」メリークリスマスだけ言おうと思って来たと言って「じゃ、また。」と、リョウは慌ただしく出て行った。音を立ててドアが閉まり、外から入ってきた空気があたしの顔をなでていく。 嵐のようだとは本当にこのことだ。リョウがおいていったクラッカーを拾い上げる。突然の訪問者のおかげで、部屋はさっきまでと違う柔らかな空気に包まれている気がした。
 気合いを入れなおして部屋を整理し始める。だいたい片付いた頃、再びインターホンがなった。リョウが何か忘れ物でもしたのかとまわりを見回してみたがそれらしきものはない。「俺。ちょっといいかな。」今度はトシだ。トシは入ってくるなりクラッカーを鳴らし、「ジュンちゃん、メリークリスマス!!」と叫んだ。
 久々にお腹の底から笑いがこみ上げてきた。我慢できずに吹き出す。「え?何。なんで?笑うなよ、けっこう恥ずかしいんだから!」お腹を抱えて座り込むあたしを目の前にオロオロするトシ。その様子がまたおかしくて笑いが止らない。「だって、リョウとかぶってる…同じ事してるんだもん。」トシの疑問に、途切れ途切れになりながらやっとのことで答える。「マジで!?うわ!恥ずかしっ!」トシは真っ赤になって頭を抱えてしゃがみ込む。「ははっ、でもうれしい。ありがとう。」
 「リョウがさっき俺んち来て、今からジュンちゃんのとこに行くって言ってたから家にいるんだと思って。今から一緒に飲もう!え、嫌?」「どうせ何も予定ないし、飲もうか。クリスマスだし。」あたし達はトシが買ってきたお酒を飲んで、とりあえずあの日の事を互いに謝り、それから避け合ってきたこの1ヶ月間のことを話した。トシと気まずい事は最近あたしが憂鬱な原因の1つだった。胸の奥まで澄んだ空気がスゥッと入り込んでいく。わだかまりが解けてスッキリしたのはトシも同じのようだ。久しぶりにおいしいお酒を飲んだ気がする。そばに誰かがいてくれる感覚を、あたしは1ヶ月ぶりに楽しんでいた。
 「もしリョウのことが特別だって言うならそれでいいよ。それは仕方ない。ただ、俺のことも知ってほしい。俺ももっと知りたいし。だから、これからも時々遊びに来ていい?」…一歩踏み出してみようか。リョウはもう一度ミオと向き合ってみようとしている。あたしも、もう進まなくてはならない。「リョウみたいに泊めたりしないよ。」「もちろん。」

 
 あたし達は歩き出した。それぞれの選んだ道を。あたしとリョウは、どこまでも『親友』だ。

LIFE
河飯由理

 ふと目を開けると、僕の前には海が広がっていた。胸の高さまであるコンクリートの塀が、僕と海とを隔てている。下を覗き込むと、テトラポットにゆっくりと波が打ち寄せていた。ザザ…ン、ザザ…ン、と、変わることのない穏やかで単調なリズムが続く。空から降り注ぐ暖かな日射しとその波の音に誘われるように、僕の意識はだんだんとぼんやりしてくる。波の音が世界の背景になってしまったような、不思議な静けさ。だんだんと…。

*

「そんなに乗り出したら、おっこちちゃうよ?」
 突然の声に、僕はハッと我にかえった。気がつくと、僕は海に向かって大きく身を乗り出していた。これじゃまるで、海に飛び込もうとでもしてるみたいだ。慌ててコンクリートのこちら側に戻ると、僕は声のした方へ顔を向けた。
「、あれ?」
ありがとう、と言おうとした僕の口は、代わりに驚きの声を上げていた。視線の先、僕のすぐ横で、小さな女の子がちょこん、と塀に腰かけている。たぶん、10才くらいだう。白いワンピースが、なんとなく印象に残った。この子は、一体いつからここにいたんだ?
「おじちゃん、こんなトコで何してるの?」
「おじ…っ、」
おじちゃん!?ちょっと待て、僕はまだそんな年じゃない。そう言いかけて、僕はハタ、と止まった。そんな年じゃない、それは確かだ。でもそれじゃあ、僕はいくつだ?慌てて頭の中を探っても、まるですり抜けるように情報は掴まらない。ド忘れってヤツだと思いたい。けれど、どうやらそんな感じでもないようで、僕の頭からは綺麗さっぱり、年齢が消えてしまっていた。…いや待て、それだけじゃない。そもそも、僕は誰だ?
 ガラガラと足元が崩れていくような不安。なんてことだ、年齢どころじゃない、僕は名前も住所もなんにも覚えていない。だいたい、僕はここに来るまで、さっき海に気がついたあの直前まで、何をしていたんだ?不必要にすっきりした頭を抱えて、どうしようもなく落ち込んだ。つまり、これは記憶喪失ってことだろう?
「どーしたの?」
 とんでもなく重大で深刻なその事実にショックを受けている僕を、どうやら眺めていたらしい女の子は、不思議そうな声で言った。なんて答えればいいのやら。目の端に映るもやもやした煙がなんとなく気になりながら、僕は彼女に向き直った。
「お兄さん、どうやら記憶を無くしちゃったみたいなんだ。」
「じゃ、おじちゃん、ここで何してたか覚えてないんだ。」
…ああいいよ、もうなんとでも呼んでくれ。功を奏さなかった訂正に諦めて、僕は頷いた。
「そうらしいね。ところで、キミは何をしているんだい?」
聞きながら改めてその子の顔を見ると、僕は妙に引っ掛かるものを感じた。何処かで会ったことがあるような、そんな気がする。どこでだろう、と考えかけて、けれど潔く諦めた。自分の名前も思い出せないような人間が、記憶の隅にかろうじてひっかかっているかもしれないそんな出来事を、思い出せるとは思えない。
「わたし、なんにもしてないの。」
「なんにも?」
予想外の答えに、僕は聞き返した。が、彼女は真剣な目で海の向こうを見たまま、黙り込んでいる。仕方なく、僕も口を閉ざす。どちらも話さないまま、またあの不思議な静寂が戻ってきていた。

*

 どのくらいたった頃だろう。ぽつり、と、彼女が呟いた。
「わたしね、向こうにいくかもしれないの。」
彼女の伸ばした指は、穏やかな海のそのずっと向こうをさしていた。かもしれないっていうのは、どういうことなんだろう。訊ねると、彼女は少し首を傾げた。
「わたしが決めるんじゃないから。」
親の転勤か何かだろうか。彼女がそれを望んでいないらしいことを感じて、可哀想に、と思った。きっとここには友達もいるのだろうし。行かなくてすむといいね、と言おうとしたとき、ふと、彼女の視線が僕に向いていることに気づいた。何かを訴えるような瞳。あれ?と、心の隅に引っ掛かるものがあった。この瞳を、こんな瞳を僕はどこかで前に見た事があるはずだ。
 その感覚の出所を求めて、僕は記憶を探った。まるで雲の中にでもいるように、曖昧でふわふわとしたモノを追い掛ける。ぼんやりと形になりかけているものが見つかりそうになったとき、何気無く上げた視線の端に、またもやもやとした煙が映った。酷い不快感。理由のわからないそれから逃れようと、僕は記憶を探るのをやめた。振払うように頭を振ると、改めて彼女に向き直る。
「こっちにいられるといいな。」
そう言うと、彼女は小さく頷いて、それから少し寂しそうな目をした。僕が彼女を悲しませているような気がして、なんとなく罪悪感を感じる。変だな、僕と彼女は関係無いはずなのに。
「ねえ、おじちゃんはいつまでここにいるの?」
「え?」
「記憶、ないんでしょ?ずうっとここにいても、思い出せるの?」
彼女の言おうとしていることは、わかった。いつまで経ってもここには僕の記憶を取り戻させるような風景はない。ここにいたって、だからたぶん、何も思い出せることはないだろう。
「でも、ほら。記憶が無いままふらふらしたって意味ないだろ?ただ闇雲に歩き回るよりは、出発点に留まってた方がいいんだ。」
言いながら、自分でも言い訳だとわかっていた。正直に言えば、僕はここを離れたくないんだ。穏やかな海を見ていると、記憶の無いことへの焦りや不安がなくなっていくような気がする。静かな空気が、僕を落ち着かせてくれる。ずっとこのままでもいいかもしれないと、そう僕は思い始めていた。
「何か記憶のヒントを見つけられるまでは、ここにいようかと思うんだ。」
「ヒント?」
彼女は少し眉をしかめると、僕から目を逸らした。
「……おじちゃんは、ホントは思い出したくなんかないんでしょ?」
僕を責めるような声だった。
「ずうっとここにいたいんでしょ?記憶取り戻すの、嫌なんだ。」
彼女が、何を思ってそう言ったのかはわからない。けれど、それは僕の気持ちの核心をついていた。嫌だと、はっきりそう思っていたわけじゃない。でも、この風景のもたらす不確かな安定が、僕に安らぎをくれていたのは事実。記憶なんてなくても、この先何も変化は訪れないだろうと思わせるここにいられるのなら、別にいいのかもしれない。
 何も言い返せず、僕は俯いた。そうしてからふと、自分がこんな小さな女の子にやり込められてしまっていることに気づいて、妙に可笑しくなった。気を取り直して顔をあげる。
「たしかに、キミの言う通りだ。情けないな。」
苦笑を浮かべる僕の顔を、彼女はじっと見詰めた。やっぱり、僕はこの瞳を知っている。
「でも、ここにいる理由が全くないわけじゃないんだ。キミを見てると、ときどき何かを思い出せそうな気になるんだよ。」
自分でも言い訳がましいと思ったけれど、事実だったから僕はそう言った。彼女の表情に変化が訪れたのはその時だ。年齢にそぐわない淡々とした表情は消え、驚きが浮かんだ。見ず知らずの、しかも記憶喪失の大人に突然、キミを知っているなんて言われれば驚くのは当然だろう。けれど、彼女の驚きはそんな理由じゃないような気がした。それじゃあなんなんだ、と聞かれたら、全く予想もつかないけれど。
 彼女はそのままの表情で僕を見ていたが、僕がいい加減居心地の悪さを感じ始めた頃、やっと視線を落とした。俯きがちなその顔に戸惑いを浮かべ、スカートの裾を小さな手で握りしめていた。無言の必死さが伝わってくるその様子に、僕は首を傾げる。どうしたのか、と訊ねようとした僕より先に、彼女は口を開いた。意を決したように上げられた顔に、僕の疑問はますます深くなる。
「あの、ね。」
それでもまだ躊躇うように、彼女は視線を宙に迷わす。
「わたし、向こうには行きたくないの。」
「へ?」
あまりに予想外の言葉に、僕は思わず気の抜けた返事を返した。それに気を留めることもなく、彼女はくるりと海に顔を向けた。
「ねえ、この海の向こう、何があるか知ってる?」
まるで関係ないようなことを言い出す彼女にとりあえず調子を合わせて、僕も水平線の彼方を眺めた。空と海が繋がろうとするその境界線。風に揺れる波で、空まで揺れているようだ。
「何がって…、どこかの国じゃないのかな。この方向だとどこになるんだろう。」
そもそもここがどこかわからないから、どうしようもないな。冗談めかして言った僕の言葉は、けれど彼女の表情を明るくすることは出来なかった。
「あの向こうはね、なんにも始まらない場所なんだよ。」
「なんにも始まらない?」
わけがわからず聞き返した僕に、彼女はこくん、と頷いた。
「なんにも起きなくて、なんにも変わらなくて、ずっと同じで、でもホントは始めからなんにも無い場所。」
彼女の言葉はあまりに抽象的で、僕には意味がわからなかった。ただ、彼女がそこに行くことを本当に嫌がっていることだけは、淡々と語るその声から、だからこそ余計に伝わってきた。
「どうすれば、行かずにすむんだい?」
僕は思わずそんなことを聞いていた。僕にどうこう出来るはずないことなのに、どうにかしたいと、僕にそう思わせる何かが、彼女にはあった。
「……わたしじゃ、何もできないの。」
彼女は困ったように首を傾げて、それから真剣な瞳で僕を見た。

「だから、ねえ、後ろを向いて?」

そう、言われた瞬間。僕の背中をざわりと悪寒が走った。
 後ろには、あの煙がある。僕に酷い不快感を与えるあの煙が。理由はわからないけれど、気づけば無意識のうちに僕は、後ろを見ないようにしていた。見たくなかったんだ。自覚した今、その気持ちは増々強くなっていた。僕をそんな気分にさせるものがなんなのか、僕は必死で自分の内を探った。あそこには、とても嫌なモノがある。見たくないモノ、僕が、目を逸らしていたいモノ。
 固まったまま動けずにいる僕を、彼女は哀しそうな瞳で見詰めていた。『誰か』を思い起こさせるその瞳。こんなシチュエーションを、僕は前にも経験したんじゃなかっただろうか。微かなその感覚は、後ろに感じる不快感と繋がっているように思えた。何かを思い出せそうな気がする。けれど、思い出したいとは思えなかった。できることならこのまま、全てを忘れていたい。
「やっぱり、ダメ?」
呟かれた声に、僕はうなだれた。彼女が海の向こうに行くことと、今僕が振り返ることとどんな関係があるというのだろう。僕の疑問は、けれど彼女の瞳を見たら問いただす気にはなれなかった。そんなことより、彼女の希望を叶えてあげられないことに罪悪感を覚える。
 何も言えずにいると、彼女は小さく一言だけ言った。

「怖いの?」

その言葉が、僕の胸につきささる。怖い。ああ、そうだ。僕は怖いんだ。でも、何が?記憶を取り戻すことだろうか。思い出したくない何かが、僕にはあったんだろうか。
「……それなら、思い出さなくたっていいじゃないか。今だって、僕は安定しているんだ。それを壊す必要なんてないんだ。」
「でも、なんにも変わらないなら、始めからなんにもないのと同じだよ。」
声に出した自覚のなかった言葉に答えを返されて、僕は驚いて彼女を見た。彼女の瞳は、今にも涙を零しそうだった。
「おじちゃんはずっとここに止まったままで、それで全部諦めちゃうの?もういいの?」
彼女の言葉が、僕の記憶を掠めていく。言葉の一つ一つが、僕の記憶を掘り起こそうと揺さぶりをかけているようだった。
「そんなの、いくじなしだよっ。」
びくっ、と、心臓が鳴った。いくじなし。その言葉を、僕は前にも言われた。たぶん、とても大切な人に。

「後ろ、見てよ。」
言われるまま、僕はゆっくりと振向いた。

*

「ああ、そうだった…。」
力が抜けていくような感覚の中、僕は小さく呟いた。目の前には、黒く煙を上げる車。ボンネットは酷く潰れている。中にのっているのは………。
「あの時、僕はとても苛ついていたんだ。僕自身にさ。」
いくじなし。そう言った相手を、今ははっきろと思い出せる。あの泣きそうな瞳をどうして今まで忘れていたんだろう。

*

「私、お見合いするの。」
デートなんて感覚もなくなるくらい、何度も一緒に過ごしている二人の週末。もう自分の家と同じような感覚の彼女の部屋で言われた、突然の言葉。僕は驚いて彼女を見返した。
「何?」
だから、お見合い。お父さんがね、上司の人に言われたんだって。断れないから会うだけでもって…。」
ああなんだ、そういうことか。僕はホッと息をついた。
「顔を立てるってやつ?会うだけなんだろ。」
軽くそう言った僕の口は、彼女の酷く真剣な表情で閉ざされた。
「………わからない。」
小さく、けれどはっきりと彼女は言う。睨むような、けれど哀しそうな目をしていた。
「わかんないわよ?まだ向こうがどんな人なのかわからないもの。私、決めるかもしれない。」
「な……っ、」
パニックで、声がつまった。
「なんでだよ!?僕たちは付き合って…、」
「付き合ってるわよ?でもっ、それだけじゃない。8年間ずっと、付き合ってるだけだったわ!」
「……。」
言い返せなくて、言い返せなかったことに苛ついて、僕は拳を握り締めた。
「…帰る。」
「え?」
「見合いでも何でも勝手にすればいいだろ。どうぞお幸せに、だ。じゃあなッ。」
言い捨てて、僕は彼女の部屋を飛び出した。胸を掻きむしられるような不快感。苛立ちは、彼女ではなく僕自身のせいだ。
 車に乗り込んでエンジンをかける。彼女の求めているものは、ちゃんとわかっていた。でも、言えなかった。彼女のことをとても好きだったけれど、彼女の人生を受け入れる力が僕にあるのだろうか。自分に自信なんか持てなかった。いくじなしって、彼女はからかうように僕によく言ったけれど、本当に僕は、どうしようもなくいくじがない。勇気も。
 言えば良かったんだ。いや、きっとダメだった。頭の中で、気持ちがせめぎあってぐるぐると回っている。そこから逃げるように、僕はアクセルを踏み込んだ。

--------その瞬間。

*

「あれから、僕はここにいたんだな。」
 僕は小さく笑った。自分が酷く情けない。もう取り返しのつかない所にきて初めて、自分がどうしたかったかわかった。こんなにも後悔するのなら、言ってしまえば良かった。
「怖かったんだ、とても。彼女の人生とか、そういうものよりもたぶん、変わっていくのが怖かった。僕は自分の人生にそれなりに満足してたし、変化が訪れなければいいと心のどこかで思っていた。でも、そうだな。変わらない毎日じゃ、何かをしたって意味ないんだ。それこそ、始めから何もないのと同じだ。一歩踏み出す勇気が無かったんだ。……そしてもう、手遅れなんだな。」
「大丈夫だよ。」
今頃になって気づくなんて。そんな後悔で一杯だった僕にはっきりと届いた声。弾かれたように僕は顔を上げた。彼女は、満足そうな表情で僕を見ている。
「おじちゃん、ちゃんと振り向けたもん。海に背中向けられた。だから大丈夫、戻れるよ。」
そういうと、彼女はにっこりと笑った。初めてみるその笑顔は、不思議に懐かしかった。
「わたしも、戻るね。」

「            」

彼女の言葉を最後に、僕の意識は薄れていった。

*

 ふと小さな泣き声に気づいて、僕は目を開けた。ぼんやりと滲む視界に、白い天井が映る。身体に力が入らず、僕は仕方無く顔だけをその泣き声の方に向けた。
「………彩。」
ビクっと彼女の肩が震えて、それからゆっくりと顔が上げられた。涙を溜めた目が、輝きを取り戻していく。
「雄一、気がついたの!?」
ずいぶん長く離れていた気のする名前を彼女が呼んでくれて、強くなっていく現実感に僕はホッとした。戻ってこられたんだ。
「ごめん、ごめんね、雄一。」
泣きじゃくりながらそう言い続ける彩を、僕はとても愛おしい気持ちで見ていた。戻ってこられた。あんな後悔、もう二度としたくない。だから。
「彩、結婚しよう。」
僕の声が届くと、彼女は一瞬きょとん、とした表情を見せた。そうしてそれから、泣き笑いの笑顔で僕に頷いてくれた。

『ありがとう、パパ。』
あのとき最後に聞こえたあの子の言葉が、もう一度僕の中に響いた。彩に良く似た瞳で、僕と同じように笑うあの子に、そう遠くない未来、きっともう一度出会う。そのときは、決して迷ったり怖がったりしないよ。キミが、僕の勇気になるから。

END

編集後記


 2001年度も、国語学特論2では、小説の創作を夏期休暇中の課題とした。これで、10年間続けていることになる。書きっぱなしでは仕方がないので、回覧し、互いに批評しあい、推敲の助けにしている。そのようにできあがっているのが、小誌である。
 ずっと以前は、受講者がワードプロセッサで打ち込んだ原稿を、野浪がパソコン上で編集し、版下を作った。演習室に集まって、リソグラフで印刷し、大型ホッチキスと両面テープを使って製本していた。100部の印刷・製本に半日かかった
 現在は、国語学特論2の掲示板を使って、回覧と批評と最終稿提出を行って、このように「詩織」のページを作って公開している。編集の手間は変わらないけれど、印刷・製本の手間と時間がかからないこと・配布数に制限が無くなったことが、ありがたい。
 2001年度は、3回生5名が参加した。(まぁ、こういう年もあるさ)
 読後の感想を執筆者に伝えていただけるならば、幸甚これに勝るものはない。
(野浪 記) ご感想をお送り下さい

 
詩 織  2001年度号
2002年2月9日編集・発行
編集・発行2001年度大阪教育大学国語学特論U受講者
代表野浪正隆
住  所郵便番号 582
大阪府柏原市旭が丘4-698-1
大阪教育大学 教員養成課程
国語教育講座 国語学第二研究室
電話番号0729-78-3537 (直通)