約束の夏
井内 千惠美
気が付くと、もう部屋の奥の方まで西日が差し込んできている。
「秀明、ちゃんと片付けやってるん? 早く終わらせてこっちに手伝いに来てよ!」
階下から、母のいらいらした声が飛んできた。もうこれで三度目である。しかし、手伝いに行けるような状態では到底なかった。僕の周りには、まだ手がつけられていない段ボール箱だらけである。
「うん。分かっとう……」
生返事をした僕の言葉を聞いたか聞いていないのか、慌ただしく立ち去る母の足音だけが聞こえた。
物を整理するという作業は、往々にして、てきぱきとはいかないものである。特に、引っ越しの場合、その程度が甚だしい。荷造りの時は、とにかく急いで箱に詰めるから、一つ一つの物にかまっていられない。しかし、引っ越し後の荷物整理となると、脱線し放題である。こっちの箱からは昔の日記帳、あっちの箱からは古ぼけたアルバムと、今までどこにあったのか分からないような懐かしい物が次から次へと出てきて、時間を忘れさせる。
この日の僕も例外ではなかった。朝から始めてもうかれこれ七時間になるのに、ようやく三分の一片付いたぐらいである。僕はため息をひとつついて、部屋中を見渡した。
僕が新築のこの家に引っ越して来たのは、ゴールデンウィークが始まったばかりの昨日の日曜日のことである。「引っ越して来た」というより、「戻って来た」という方が正しいのかもしれない。というのは、昨年一月十七日の阪神大震災で、この地にあった前の家は全壊してしまったのだ。僕は、両親、妹と共に、約六時間生き埋めの状態であったが、幸いにも大きなケガをする事なく、全員助け出されたのである。僕の場合、体の上に倒れかかってきたタンスが壁で止まり、少し空間ができていたのが生き延びる要因となった。あと一歩どちらかに体がずれていたら、僕は今ここにいなかっただろう……
その家には、僕が四歳の時から住んでいた。それ以前は、同じ町内の文化住宅に住んでいたのだが、二歳下の妹が生まれて手狭になったため、二階建であるその家に引っ越したのだ。その家は、引っ越した時もう既に築三十年の、古い家であった。しかも、建て方が杜撰であったらしく、畳の上にボールを置けばひとりでに転がっていってしまうような、もともと西側に傾いた家だったのだ。それを思えば、地震で全壊というのも当然のことである。家族全員が生き残ることができたのは、まさに奇跡的なことだった。
助け出された僕達家族は、しばらく近くの中学校の体育館での避難生活を余儀なくされた。冷たく、毎日変わり映えのしない食事、プライバシーのない生活と、いやなことを挙げればきりがなかったが、生き残ることができたということが最大のぜいたくであった僕達は、不満なんて言ってられなかった。
「来週の日曜日、ここを出られることになったぞ」
会社から帰った父がこう言ったのは、震災から約一カ月後のことだった。
「出るってどこに?」
母と妹と僕は、同時に同じことを言って、お互いの顔を見合わせた。聞けば、父の勤める会社の社宅にたまたま空きがあり、そこに入れてもらえるということだったのだ。しかも、家賃は一年間タダである。僕は、あまりの幸運さに身震いした。
僕と同じように家が全壊した親友の椛田は、ことごとく仮設住宅の抽選に外れていた。約六カ月間の公園でのテント生活を経てやっと当たるのだが、神戸から程遠い、加古川にある仮設住宅であったのだ。震災後ほど、運の良い人と悪い人の差が歴然と感じられたことはない。
その次の日、母と妹と僕は、全壊した家の下敷きになっている物を、取り出せる限りひたすら段ボール箱に詰めた。実用的ではないような物も、残っていることがうれしくてついつい詰めてしまう。が、肝心の家財道具は、震災前と比べて半分以下になってしまった。
数少ない家財道具を持って、社宅での新しいスタートを切ってから約一年三カ月。暮らし始めた頃は広々と感じていたこの社宅も、家財道具を、一つ、また一つと買い揃えていくうちに、いつの間にか元の数ほどになり、狭苦しく感じ始めた。
そんな時である。待ちに待った新居が、全壊した家の跡地に完成したのだ。僕は、早速完成した家を見に行った。建築途中にかかっていたシートが取り除かれ、全体の姿を現したのを見ると、口が開いたままなことにも気付かず、ぼうっと立ち尽くしてしまった。やはり、パンフレットで見るのと実物とでは迫力が違う。僕はこれまで、古い、いや風格のある家にしか住んだことがなかった。それだけに、新しい家を見たときの驚きと喜びは、半端じゃなかった。見るからにどっしりしていて、耐震構造であることが分かる。また、屋根も瓦葺きではなく、カラーベストというものであり、震災後に新築される家の典型的なものだった。
こうして僕は、この家に住むことになった。社宅にいるときは、やっぱり心のどこかに「住ませてもらっている」というような気持ちがあった。新しい家に入ると、フッと体全体が軽くなったように思う。引っ越して来た昨日は、そんな安心感と引っ越しの疲れで、荷物に囲まれてぐっすり眠ってしまった。そして今日から、本格的な荷物整理をし始めたというわけだ。
「さっさとやろうと頭では思っとうねんけどなぁ……」
そう呟きながらも、僕は段ボール箱の奥底から幼い時のアルバムを取り出し、また見入ってしまった。それは、小学校の卒業式の時の写真で始まっていた。ピースサインをしていたり、肩を組んでいたりと、様々な写真があった。そのどれもが、男友達とのものだったが、最後の一枚だけは違った。それは、まだ堅いつぼみの桜の木の下で、女の子とツーショットで撮ったものである。
その写真を見た僕は、はっとした。その女の子とのある約束を思い出したのだ。
女の子の名前は、宮田涼子といった。宮田と僕とは、家族ぐるみの付き合いをしていた。それが始まったのは、僕達家族が二階建の家に引っ越してからまもなくのことだった。宮田の家が僕の家の隣にあり、年齢も同じということで、お互いの母親が僕達を一緒に遊ばせるようになった。そのうち、僕達の誕生日が全く同じ、一九七六年八月十五日であるという偶然に気付き、より一層親しくなったのである。
宮田は男の子顔負けの、活発なリーダー的な性格だった。おっとりしていて、引っ込み思案だった僕は、いつも宮田に引っ張り回されていた。まるで金魚のフンのように宮田の後をくっついて行った僕は、宮田が突拍子もないことをするたびに驚かされた。「男と女が逆みたい」と、親達に何度言われたか分からない。
性格は対照的だったが、僕達はなぜか妙に気が合っていた。むしろ、性格が違うからこそうまくいったのかもしれない。
二人は、当然のように、同じ幼稚園、同じ小学校へと進んだ。しかし、小学校に入ってからは、二人で遊ぶことはほとんどなくなった。それに、幼い頃は「秀くん」「涼ちゃん」と名前で呼んでいたのだが、いつからともなく、名字で呼び合うようになっていた。
「涼子ちゃん、お父さんの仕事の都合で福岡に引っ越すねんて」
母からこう聞かされたのは、卒業式まであと一週間という時だった。
「また神戸に戻って来るかもしれへんらしいけど、いつになるか分からんねんて。もう当分会えへんねぇ。寂しなるわ」
「ふぅーん……」
この時の僕は、あまり何の感情もわかず、淡々と事実を受け止めていた。というより、あまりに突然のことだったので、かえって冷静になっていたのかもしれない。
「柴崎、一緒に写真撮ろう」
卒業式当日、式が終わってからの校庭で、宮田の方からこう声を掛けてきた。
「福岡に行くねんてな」
「うん。嫌やねんけど、しゃあないから……」
宮田はいつになく弱気だった。僕はそんな宮田の様子を見て、急に寂しくなった。
「向こう行っても頑張りや。それに、二度と会えへんっていうわけじゃないねんから」
「うん、頑張る。……そうや! 二十歳になったら、この桜の木の下で会わへん? その頃には神戸に戻って来とうかもしれんし」
「えぇーっ。なんか小説みたいやな。まっ、いっか。二人がどう成長したか話し合うのもおもしろそうやしな。どうせやったら、二人の誕生日に会うことにしよか」
「それいい考えやん。一九九六年八月十五日、絶対忘れたらあかんで」
「そっちこそな。ほんなら、元気でな」
こんな約束を交わしたのは八年前。すっかり忘れてしまっていた約束なのに、たった一枚の写真から、その時の会話まで鮮明に浮かんでくる。同時に、今まで全く音信不通だった宮田を急に懐かしく感じた。約束の日まで、あと三カ月とちょっと。宮田は今、どこで何をしているのだろう。きっとあいつのことだから、毎日元気に飛び回っているんだろうな。約束、覚えていればいいのにな……
僕が卒業した本池小学校が取り壊され始めたのは、昨年の十一月頃だった。通学の電車の中からそれに気付いた時、頭の上から石を落とされたような衝撃を受けたのを覚えている。パワーショベルが容赦なく校舎を削り取っていく。給食室も、音楽室も、図書室も、何もかもが一瞬のうちに崩れ去ってしまう。むきだしになった鉄骨が、余計に悲しみを募らせる。日に日に原形をなくしていった校舎は、数日後、完全に姿を消してしまった。隣の本池中学校もまた同じ状態だった。今では、プレハブ校舎が無表情に立ち並んでいる。通学していた頃は、「こんなボロイ校舎、最悪やなぁ」と、誰もが文句ばかり言っていた。しかし、なくなってしまった今になって、その校舎への愛着がわいてくる。
唯一の救いは、小学校の片隅にあったあの桜の木が残っていたということだ。開校当時からあったというその大木は、もう樹齢百年を越えている。最初はその木も撤去されるはずだった。が、町の人の反対もあり、工事に邪魔にならない場所だったということも幸いして、そのまま残しておくことになったらしい。戦争も震災も乗り越えたその木は、町を見守るように、その場所に立ち続けている。
その日の夜、親友の村藤啓三から久々に電話がかかってきた。村藤とは、小・中・高とずっと一緒で、高校では同じ卓球部に所属していた。
「秀、久しぶりやなぁ。もう一年ぐらい会ってないけど、元気にしとうか?」
「おぉ、元気やで。引っ越したとこやから、家の中はまだグチャグチャやけどな」
「そうか、大変やな。俺も、『震災前に引っ越してなかったら』って考えたらぞっとするわ。おかげで俺はほとんど被害に遭わずにすんだからなぁ……。あ、そうそう、永村さんから電話があってん。五月五日の一時から卓球部のOB会があるねんて。秀、行くか?」
「行く行く。同窓会館に行ったらええねんな?」
「そうや。ラケットとシューズも持って来いよ」
「分かった」
五月五日は、雲が空一面に広がっていて、五月のわりには肌寒い日だった。僕は、高校を卒業して以来一年ぶりの駅から高校までの道を、いつもより時間をかけて歩いた。お昼過ぎで人影がまばらな市場を抜けて、車のあまり通らない細い道に出た。高校の時毎日通っていた道だが、震災の影響でずいぶん雰囲気が変わっていた。建築途中の家や、雑草が生え放題の更地がいたる所にある。更地と更地の間に狭まれた三階建の立派な家のベランダには、こいのぼりが悠々と風に揺れている。時計を見て、ゆっくり歩き過ぎたことに気付いた僕は、少し足を速めた。
ようやく高校に着くと、裏門に回り、同窓会館に入った。この会館は二階建になっていて、一階には小さいアリーナと更衣室、二階には会議室と和室があった。同窓会館とは名ばかりで、同窓会のために使われることはほとんどない。昔の卓球場の跡地ということもあり、主に使っていたのは僕達卓球部で、ほぼ毎日ここで練習していた。だから、卓球部のOB会は毎年ここで行われているのである。
アリーナには、三台の卓球台が用意されていた。そして、それを囲むようにして、テーブルといすが行儀よく並んでいた。テーブルの上には、お菓子やジュースが置かれている。
「こんにちはぁ」
僕の姿を見て、名前も知らない後輩達があいさつをしてきた。僕は、卒業してから一度も部活に顔を出さなかったことを、少しだけ悔やんだ。そして、自分にそんな心の余裕がなかったことを改めて感じた。いつの間にか、僕が現役の時に比べて倍近くの人数になっていて、卓球部とは思えないほど活気がある。ほんの二、三歳しか離れてないというのに、「若くていいなぁ」と呟いてしまう自分が情けない。
その時、更衣室のドアがガチャリと開いて、ユニフォーム姿の村藤が出てきた。
「おぉ、来てたんか」
「さっき来たとこや。でもお前、ユニフォーム着るなんて気合入っとうなぁ」
「だって俺、大学でも卓球続けとうもん。高校にも時々来て、コーチしとうねん。秀も卓球続ければ良かったのに」
「俺はもういいわ。大学遠いし、全然やる気にならんかったからな」
そうこうしているうちに、OB達が続々とやって来た。あちこちで、久しぶりに顔を合わす仲間との弾んだ会話が飛び交っている。僕も、その中の何人かと話をした。他愛もない話なのになんだかすごく落ち着いて、何年ぶりかに里帰りしたような気持ちになる。現役とOBとを合わせて、ざっと三十人ぐらいいるのだろうか。狭いアリーナは、人の熱気で一気に蒸し暑くなった。
会は、一時ぴったりになって始まった。OB会の幹事は、卒業してから二年目の学年が担当することになっていて、今年は僕の一つ上の学年の人達だった。
「毎年恒例だったこのOB会も、昨年は震災のため中止になってしまいました。しかし、幸いにも卓球部の中では亡くなった人はいません。今年集まることができたことに感謝しつつ、今日は楽しく過ごしましょう」
キャプテンだった永村さんのあいさつが終わり、全員が近況を報告した後、各自自由に過ごすことになった。僕は、村藤に誘われて卓球をすることにした。部活を引退してから約二年。その間ラケットを握ったのは、体育の時間の数回だけである。僕は、試験前等で一週間程休んだだけでも元の感覚を取り戻すのが難しかったのを思い出した。「ピン球に当たるかなぁ」という初心者みたいな心配をしながら、自分のラケットを取り出した。
その心配は、村藤と打ち始めた瞬間、見事に的中した。村藤がサーブした球を打とうとした僕のラケットは、むなしく空を切った。
「おいおい、しっかりしろよ。いくら久しぶりやからって、いきなりそれはないやろう」
「俺もめっちゃショックやわ。まさか空振りするとはなぁ……。慣れるまでフォアばっかりにしてくれへんか」
「分かった分かった。最初はゆっくり打とう」
高校時代は、僕と村藤との力はほぼ互角で、常に良きライバルであった。しかし、今となってはもう過去の話になってしまった。
それでも、しばらく打ち続けていると、徐々に感覚が戻ってきた。それを素早く感じ取った村藤は、少しずつスピードを速め、ついには容赦なくスマッシュを打ち込んできた。僕達は、しゃべるのも忘れて夢中に打ち合っていた。僕達の台の周りの空気は、明らかに他の場所のそれとは違って、ピーンと張り詰めていた。
「あぁー、もうあかん。ちょっと休憩しよ」
僕は、張り詰めた風船を割るように口を開いた。悔しかったが、これ以上は足が動きそうもなかった。第一、OB会に来て倒れたなんてカッコ悪すぎる。僕と村藤は、ジュースがまだ残っているテーブルを選んでいすに座った。ちょっとぬるくなったジュースが、僕の体にしみ込んでいく。
「こんなに体動かしたん久しぶりやから、バテバテや。明日は確実に筋肉痛になるな」
口ではこう言いながらも、親友と久々に思う存分打ち合えた満足感で、そんなには疲れを感じていなかった。アリーナ全体の和やかな空気に包まれて、自然と笑みが浮かんでくる。現役の時は準備などが大変で、「OB会なんてうっとおしい」と思っていたけど、今となっては、OB会が続いている理由が分かる気がした。
「これぐらいでバテとったらあかんで。でも、二年ぶりにしては勘が戻るの早かったやん。ラリーもだいぶん続いたし。なんか高校時代を思い出したわ」
「そういえば、村ちゃんとこうやってじっくり話をするのも久しぶりやな」
「ほんまや。電話もあんまりせんかったし。あっ、そうや。秀に聞こうと思っとったことがあるねん。秀の幼なじみに宮田っておったやろ。あいつ、震災の時神戸におったんか?」
「さぁ。もう全然連絡とってなかったから知らんわ。けど、それがどうかしたんか?」
「実はな、ずっと前新聞に載ってた震災の死亡者名簿見とったら、宮田の名前があってん。下の名前も年齢も一緒やった。それに、その前に両親らしき人の名前も載っとったで。前から言おうと思っとってんけど忘れてたんや」
宮田の両親の名前を確認する村藤に、僕はただぼうぜんと首を縦に振るしかなかった。間違いなく宮田一家である。胸の鼓動が速くなるのを感じた。神戸に帰ってくることを楽しみにしていた宮田。それなのに、震災に遭っていたなんて。そして、死んでしまったなんて……。今まで何とも思わなかったアリーナの照明がまぶしく感じられて目を閉じると、真っ白になった頭の中に、あの写真のシーンが浮かんできた。
しばらくの間、僕の耳には周囲の音が全く入ってこなくなっていた。僕は、行くはずにしていたOB会の後の飲み会にも出ずに、家路についた。来る時と違って、周りの景色はさっぱり目に入らなかった。
その夜、僕は何もする気が起こらずにいた。食事もほとんどのどを通らない。まさか最後になるなんて思いもよらなかったあの日の会話が、何度も頭をよぎる。こんな日は早く寝ようとベッドに入ったものの、いつまでも眠ることができなかった。
それからしばらくの間は、大学への行き帰りの電車からあの桜の木を見るたび、宮田のことを思い出した。こんなことなら手紙のやり取りでもしていれば良かった。しかし、もしそうしていたとしても、宮田を助けられたわけではない。家が全壊しながらも生き残った僕と、どんな状況かは分からないけれど死んでしまった宮田。運命で片付けてしまうのはあまりにもつらいけれど、やはり初めから定められていたことなのかもしれない。悪い運命を良い方へと変えられる人と、変えられない人がいるのだ。
考えてみれば、震災後のテレビや新聞で、同じような話をいやと言うほど聞かされた。高速道路から間一髪で落ちずに済んだ観光バス。いつもと寝る位置を変えたために助かった人、犠牲になった人……。明暗を分ける何かがそこにある。宮田の死を知ってから、それを改めて痛感した。目には見えない何かがそこに。こんなことを考えながら、あっという間に三カ月が過ぎていった。
一九九六年八月十五日。二十歳になった僕は、あの日の約束を果たすために、本池小学校に向かった。小学校では今、新しい校舎を建てるための工事の真っ最中である。今日も、お盆を返上して工事が行われていた。僕は、よく日焼けした顔に大粒の汗を流しながら歩いて来た作業員に許可を得て、校門をくぐった。
桜の木は、工事の砂煙を浴びながらも、校庭の隅で凜と立っていた。生き生きとした緑の葉を茂らせて、大きな木陰を作っている。その木陰に入るとひんやりとして、汗がひいていくのを感じた。僕は、持って来た線香に火をつけ、木の根元に近い地面に刺した。そして、静かに手を合わせた。もし、宮田があの約束を覚えていたなら、ここにいるに違いない……。僕は心の中で、中学校から今までの生活を語った。
そこにどれぐらいの間いたのだろう。線香が燃え尽きたのを見届けると、僕はそっと立ち上がった。帰ろうとすると、工事はいつの間にか終わっていて、校門が閉められていた。僕は、声をかけてくれなかった作業員を少し恨めしく思いながら、フェンスを乗り越えて学校を出た。そして、もう一度桜の木を見上げてみた。夕焼けに照らされてほんのり赤く染まった桜の葉は、そよそよと風に揺れていた。
ピアス
沖村 香織
私は、一人で目覚めた。ベッドの横にあるカーテンの隙間からは、あくせく日常を過ごしていく人たちを少しでも元気づけるようにがんばっているお日さまの光が、私の部屋にも差し込んできている。でも、確実に本格的な冬が近づいてきていることは、部屋の中の寒さと、お布団のあったかさからもわかる。
私は少しの間、目を開けたまま、じっと動かないでいた。そのかわり、はぁっと大きく息をはいた。それは部屋の中で、白く見えて消えた。今度は、はっと小さくはいてみた。今度も、白く見えて消えた。もう一度しようと思ったけれど、なんとなくやめてしまった。こんなことして寒さをいくら確かめたって、一向に起きる気にはなれない。私はあきらめて、ころんと寝返りを打った。その拍子に、私の横で、小さな鳴声がきこえた。
「あ、ピアス、こんなとこにいたの。ごめんごめん」
知らない間に私の横に潜り込んで、丸まって眠ってたらしい。ピアスは寒がりだから、あったかいところを知っていて、ちゃんと入ってくる。寒い時はよく私の横でこうして眠っているんだけど、今日は久しぶりだったから気付かずにあやうく押しつぶしてしまうところだった。ピアスは私に押されて目が覚めたのか、足をうーんと突っ張ってのびをした。が、目は閉じたまま。起こしかけた首を再びもとに戻して眠っている。
しばらくピアスの顔をじーっと見ていた私は、お布団に潜り込んでピアスの鼻に自分の鼻をくっつけてみた。冷たい鼻の感覚が、ピアスの存在を一層身近に感じさせる。
……私、一人じゃなかったんだ……
そんなことを私に感じさせる。このまま、ピアスと一緒にずっと眠っていられたら、どんなにいいだろう……
私が冷蔵庫を開ける音で、ピアスが起きてきた。私の足元にミャーミャーと鳴いて寄ってきて、ごはんをねだっている。全くちゃっかりしたもので、冷蔵庫が開く音がするとどこにいてもすぐに飛んできて、何かおねだりをする。ここにおいしいものが入っていることをちゃんと知っているのだ。そして、上手くおねだりすればそれがもらえることも。
私はピアスのお皿に牛乳を入れると、自分もパックのままぐびぐび飲んだ。なぜかすごく喉が渇いていて、牛乳が喉をすぎていく冷たさにちょっと痛みを感じながらも、それが気持ち良かった。こんなに寒いのに飢えたように喉が渇いているなんて、何か不気味な感じだ。ピアスは自分の分はもう飲んでしまって、私のスリッパを爪でカリカリとひっかいている。
「しょうがないな。今あげるから、ちょっと待ってて」
冷蔵庫の中から昨日の残りのシチューを出してレンジであっためる。ピアスは、レーズンパンの袋の前で、じっと待っている。レーズンパンはピアスの大好物だ。猫にこんなもの食べさせていいのか知らないけど、私も好きだからまぁいいかと思っている。あつあつにあったまったシチューとレーズンパン、それと牛乳が今日の私とピアスの昼ごはん。あつあつのシチューをペロッとなめて、熱いって顔をしているピアスを見て、私は笑う。
ピアスは、去年の秋ぐらいに私の家にきた。彼からのプレゼントだった。
「うちで一番賢い子猫。きっと君より賢いから、見習うように」
そう言って、つきあってちょうど一ヵ月目にプレゼントしてくれた。まだ両手に乗るような大きさで、黒と白と茶色の細いしましまが混ざっていて、全体的には所々斑の灰色に見えた。彼は銀色といっていたけど、私はどう見ても灰色だと思った。
ピアスって名前は私が付けた。ちょうど両耳の端の方に白い毛がかたまって生えていて、それがちょうどピアスみたいに見えるからだ。それに私も前からピアスがあけたくて、でも何か恐くてあけられないけどいつかはしようと思っていたから。
「ピアス? 今すぐにでもあけたらいいのに」
「ううん、今はいいの。そのうちね」
「ふーん。そのうちくるといいね。そのうち、そのうち」
彼は、ピアスの喉をごろごろと掻きながら訳のわからないことを言っていた。ピアスは喉を撫でられ、とっても気持いい顔をして彼に甘えていた。
彼は、大学の学科の先輩だった。私が一回生の時、ちょうど大学院二年目で、私より五才年上だった。図書館で専門の参考書を探しているときによく見かけて、一緒に本を探しているうちにいろいろと話をするようになり、秋くらいからつきあうようになった。
彼の第一印象は、なんて若い人だろうというのだったと思う。私より五才年上と思えないくらい童顔で、カジュアルな服装をしているときは、一回生だった私たちのなかにいても違和感がなかった。けれど、やはり物事の考え方の端々に、伊達に年は取ってないということを感じさせるものがあった。その頃、同じ回生の男の子の子どもっぽさにうんざりしていた私は、彼の大人であるところに強くひかれた。彼の話し方、話す内容、振る舞い方、その中に見えるしっとりとした彼独特の落ち着き。その場の雰囲気を読み、周りの人にさり気なくする心遣い、彼の仕草のひとつひとつ。その全てに、私は尊敬にも似た愛情を感じていた。だから、そんな彼が時々私に見せる甘えた表情が、無防備で無垢で何とも言えず愛しかった。
昨日は、確か雨が降っていたと思う。夜、眠る前に「明日、晴れたらいいね」といって眠ったのをはっきり覚えているから。
大学院を卒業して、今年から一般企業で働きだした彼は、学生の時とは違って大学で会うこともなくなり、週末に私の家に泊まりにくることで二人で過ごす時間をつくっていた。彼は、いつも私の家にくると一番に私にキスをして、それからピアスにキスをするのがお決まりだった。
ピアスは、彼が来ると私になんか見向きもしないですぐ彼の方によっていく。そして、喉やお腹や耳の後ろなんかをいっぱい撫でてもらって、彼の胸の上で気持ちよさそうに甘えている。
「ピアスって、いつもは私に甘えてばかりいるくせに、あなたが来るとそうやってすぐあなたのところに行くんだから。素直というか調子いいというか」
「はっはっ。きっと自分のお母さんの飼い主ってことがわかるんじゃない。やあ、ピアスくん、最近元気ですか」
彼は、ピアスの前脚を持ち上げながらピアスに話し掛けている。
「もう、元気ってもんじゃないわよ。いたずらのやり放題。この間も、あなたにもらった花束、花瓶に生けておいたら、ピアスが全部ちぎっちゃって帰ったらその上で寝ているの。もうすごい怒ったんだけど、全然こたえてないの。怒られているのにすりよって甘えてくるし。もう、こっちが怒るのバカらしくなってくる」
彼は大声で笑いながら、ピアスの前脚を開いたり閉じたりして遊んでいる。こういうところは本当に無邪気だ。
「ピアス、少し痩せたんじゃない?」
「そんなことないよ。冷蔵庫の開く音がしたらすぐに来るのに。そのたびに、なにかちょうだいって顔してるのよ」
「そうかそうか。ピアスはやっぱり賢いな。俺が目を付けただけのことはある」
「何言ってるの、ただ食いしんぼなだけです」
「いや、ピアスはちゃあんと知ってるんだ。どうしたら自分が気持ち良く生きていけるかってことをね」
彼はそういって、私たちのいるベッドの中からピアスを床に降ろした。ピアスは寒いといつも私のベッドのなかに潜り込んでくるのだけど、彼と一緒の時だけは絶対入ってくることはなかった。今は邪魔をしちゃいけない時っていうのをまるで知っているみたいに。そういう時は、なぜか彼のかばんの上で丸くなって眠るのだった。
昨日も同じだった。彼の声も、あったかさも、手をつないで眠ることも、ピアスが邪魔しないことも、いつもと何一つ変わっていなかった。ただ、彼が眠る前につぶやくように一言
「ピアス、大事にしろよ」
と言ったことを除いては。
シチューを食べおわったピアスは、テーブルの上で小さなピアスを転がして遊んでいる。 私は、今だに自分の置かれている状況がわからないでいる。
朝、目覚めたとき、私の横に彼はいなかった。トイレかなと思って起きていくと、テーブルのうえに、一枚の手紙が置かれていた。それは、間違いなく彼の字だった。
「来週から、仙台に転勤します。
俺がいると、君はこれ以上大きくなれない。
君に大人になってほしいから。 」
それと、小さな18金のピアスが一組。ただそれだけが、彼のかわりにいた。
夢ならきっと覚めるだろうと思って昼まで眠ってみたけれど、起きてご飯を食べた今でも夢はいっこうに覚めそうにない。それどころか、どんどん現実のこととして受けとらざるをえない状況になってきている。
私は、手紙をもう一度取り上げた。何回読んでもこの三行以外、何の言葉も見当たらない。何の言い訳も理由も、ない。
どうして転勤のこと、今まで言ってくれなかったんだろう。こんな突然で、次の引っ越し先さえ知らないのに。彼の家に電話しても、誰もでない。もう、引き払ってしまったのだろうか。それに、俺がいると、君は大きくなれないって一体どういうこと? 大人になってほしいって、どうしてあなたといたら大人になれないの?
私は全然訳がわからなかった。ただ、はっきりわかるのは、彼は、もうここに戻ってこないってことだけ。彼ともう会えない。そう思ったとき、私は我慢していたものが一気に流れ出た。
自分がどれくらい眠っていたのかわからなかった。一日かもしれないし、三日かもしれないし、ほんの数時間かもしれない。自分がどうやってベッドまで辿り着いたのかさえ覚えていない。時計を見る気も、台所の方を見る気も起きなかった。
目をつぶると、ただ考えてしまう。何が、どこがダメだったんだろう。
俺がいると君は大きくなれないって、私は彼といて自分が大人っぽくなっていってるなって思っていたのに。一緒に専門の文学について話をしたり、今までなら読まなかったような本を読むようになったり、気にも止めなかったような話題をメモしたり。彼の話についていけるように難しい理論書もたくさん読んだし、彼の研究についての資料もいくつか目を通した。自分の好きなCDの他に、彼の好きな洋楽も聞くようになった。今まで嫌いだったニンジンもがんばって食べられるようになった。服装だって、彼の着ているものと雰囲気が全然合わないようなものは着ないようにした。今までしなかったお化粧もきちんとするようになった。気の遣い方も彼がやっているように自然にできるように、場の雰囲気を読むことだって努力した。年上の彼の友達とだって、仲良く話せるようにがんばった。彼の友達だって「大学生に見えないくらいしっかりしてるね」って言ってたじゃない。それなのに、大人になってほしいってどうすればいいわけ? ピアスを一緒に置いておくってことは、ピアスをしたら大人になれるってこと? そんなんじゃないでしょ。それに、ピアスはあんまり好きじゃないって言ってたじゃない。だから私、ピアスあけるのどうしようか迷っていたのよ。
私、すごくがんばっていたのに。子どもっぽいと彼に思われないようにあんまりわがままも言わなかったつもりだし、仕事が忙しいって言われたら電話するのも控えていた。自分ががんばっているっていうのをあんまり全面に出したら彼も気を遣うかなって思って、あんまり言わないようにしてたけど、時々彼が「がんばってるね」って言ってくれるのがうれしくて、もっとがんばろう、もっと彼に近づいて認めてもらおうって必死だったのに。
ミィーミィーとピアスの声が聞こえる。ピアスの爪がフローリングの床にあたる音が、ベッドの方に近づいてきた。突然私の顔のすぐ横に飛び上がってきて、私の顔をぺろぺろなめる。きっとごはんがほしいんだ。ごめんね、今私動く元気もないんだ。そう言おうと思って、ピアスの頭を指でちょっと軽く撫でてみる。でも、ピアスは遊んでもらえると思ったのか、頭を私の手のひらにくっけてすり寄ってくる。気持ちよさそうな、甘えたような、何とも言えない顔をして、私の胸のところでぺたんと座り、私の指を一生懸命なめている。
私の方もつられて何となく、ほっとしたようなくすぐったいような感覚に包まれる。
「ピアス、私のこと慰めてくれてるの?」
ピアスは私の胸元でおとなしくなっている。ピアス、ピアス。彼が私に残していってくれた最後のプレゼント。
何かが落ちたような音で目が覚めた。目を閉じて眠っていたつもりなのに、いろんな言葉が頭の中を渦巻いていて寝起きは最悪だった。頭がガンガンしている。思考回路をつなぎ合わせようとしてしばらくぼぉっとしていると、今度は何かが蹴っ飛ばされたような音がした。
なんとか上半身を起こして音のする方にむいて見る。ガチャンと音がして、私の目覚まし時計がピアスに転がされているところだった。
「ピアス、やめなさい」
言ってもピアスは全然やめようとしない。う〜んと思って、思い切ってベッドから出てみる。とたんに立ちくらみがしてしゃがんでしまったが、なんとか這いながらでもピアスのところへ行ってピアスを止めなくてはいけない。
「ピアス、いいかげんにしてよ」
私は、やっとのことでピアスをつかんだ
「なんであんたはそんなに自分の好き勝手ばかりするの!あんたはそりゃ好きなようにできて気持ちいいかもしれないけど、後片付けするのはいつも私なんだから。少しは私のことも考えてよね」
私は、ピアスの脇を持って自分の顔の高さまで持ち上げながらピアスを叱った。ピアスは私の剣幕におされて、最初の方はおとなしく聞いていたものの、しばらくするといつものすりすりのポーズを始めた。
「もう、そんな甘えてもだめだから。ピアスももう大きくなったんだから。もうそんなに甘えないでよ」
ピアスが自由な前脚で、私の顔をちょんちょんと触ろうとする。左足の肉球が私の鼻にあたって、ピアスは鼻ばっかりをたたいてくる。
「もう、甘えるなって言ってるでしょ。こら」
ピアスは届くようになった右足も使って、私の鼻や頬を触ろうとしている。それは、ただ目の前の私に触りたいから、目の前にいる私にちょっとでも寄り添いたいから、それだの気持ちで動いている愛らしい一つの命を持った存在だった。
私は頬にしょっぱいものが流れているのを感じた。なんで私、ピアスに八つ当りしているんだろう。なんでピアスが、私のところにいるんだろう。
「もう、わかったから…ピアス、わかったから、もう…そんなに甘えないでよ…」
「そうだ、あのピアス…」
私は、テーブルの上を探した。テーブルの上は、ピアスが何かを追いかけてメチャクチャにした後で、それがピアスを追いかけてのことだとわかったのは、私が傷だらけになった金のピアスを、やっと片方見つけてからだった。
「うそ、片一方しか見つからない?」
夜になったのかしらないけど、私のはく息もピアスのはく息も白く見えて消えていく。一応ピアスは私と一緒になって、テーブルの上を探すふりをしている。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、自分が散らかしたのに、こんなに散らかっていては足の踏み場もないといった顔をして。
「ちょっと、ピアス、ちゃんと探してよ。見つからなかったらあんたのせいだからね!」
ピアスはミャアと小さく啼いて、テーブルから床におりてきた。床の上にも、テーブルにのっていたはずのスティックシュガーや読みかけの雑誌なんかがいっぱい散らかっている。
「こらっ、なにやってるのよ、ピアス!」
なにかカサカサ音がするなと思って見ると、ピアスがレーズンパンの袋を一所懸命にひっかいていた。そういえば、さっきピアスにごはんあげなかったんだ。袋のおしりは見事引き破られ、そこからレーズンパンがひとつ、のぞいている。
「あー、もう。こっちにかしなさ… あっ、あったぁ!」
わたしはやっと見つかったもう一方のピアスをつまみあげた。レーズンパンの袋の口のくくったところにくっついていたのだ。
「きゃー、あったよ、ピアス。ピアス、ありがとうね」
私は、ピアスをぎゅっと握ったままピアスを抱き上げてほおずりした。ピアスは、何が何だかわからないみたいできょとんとしていた。でも、私はおかまいなしにピアスを抱き上げて、自分の鼻とピアスの鼻をきゅっとくっつけて、笑った。
明日、ピアスをあけに行こう。いつかあけようと思っていたんだから。自分がしたいと思ったことなんだから。人が何か言おうと、自分の気持ちを忘れないうちに。明日ピアスをあけに行こう。
ピアスが,腕の中でミャアと啼き、私の顔をペロッとなめた。
「うちで一番賢い子猫。きっと君より賢いから、見習うように」
悪夢へのプロローグ
米今 一正
Prologue0 一九九四年十一月三日
「これは堀田警部。ご苦労様です」
現場の若い刑事があるベテラン刑事がやってきたことに気がついて挨拶をする。
「ああ。被害者は?」
堀田と呼ばれたベテラン刑事は、手袋をはめながらその若い刑事に尋ねた。
「こっちです」
堀田は誘われるままに事件の起こった現場に移動する。そこは頭上が切り立った崖になっているところである。目の前には鬱蒼とした森林が広がっている。そこにうつぶせになったある男の死体があった。堀田はその死体の様子のあまりの気持ち悪さに、昼に食べたカレーライスをもどしそうになった。すでに現場では多くのスタッフによって現場検証が進められていた。
「これはまたひどいな」
これまでにさまざまな事件に携わってきた堀田ですら思わずそう言ってしまうほど、無惨な死体であった。
「死因は?」
堀田は気を取り直し、若い刑事に尋ねた。
「詳しいことは検死の結果を待たなくてはなりませんが、死因はこの崖の上の道路からバイクで転落したことによる全身打撲、出血多量ってところじゃないでしょうか」
「バイクでスピードを出しすぎて、コーナーを曲がり切れず、か」
「ええ。そんなとこでしょう」
頭上を見ると被害者のバイクでガードレールがひしゃげた跡がある。
「第一発見者は?」
堀田が再び若い刑事に尋ねる。
「それが、女の人の声で通報があったんですが……。警官が現場に着いたときには誰もいなくて、この男の死体とバイクだけがあったそうです」
「そうか」
堀田は少し不審に思いながらとりあえず返事をした。このあたりは山の中の道で、人家はおろか人通りもほとんどないところである。この死体を発見した(とおぼしき)女は一体どうしたのだろうか。その女はこの死体をどうやって発見したのか。その女はこの事件に関わっているのであろうか。堀田は死体を調べながらそんなことを考え、この事件が単なる事故としてかたずけられないような、そんな嫌な予感がしていた。
そして二年の月日が流れた……
Prologue1 一九九六年十月二七日
秋も深まってきている昼下がりである。とある大学のとあるサークルの部室で、一人の男が、何か細かな作業をしている。神経質そうな感じのする男である。そこに、一人の大きな男が入ってくる。作業をしていた男が大男に気付き声をかける。
「あっ、友弘さん。おはようございます」
友弘と呼ばれた大男は少し神経質そうな感じのするその男に返事をする。
「おう、高志か。朝早くからご苦労さん」
朝早く、といっても時計は既に十二時を回っている。この辺りが大学生の感覚であろう。 「いえいえ。家が学校に近いから早く来ただけです」
高志と呼ばれた男は、そう言ってまた細かな作業を続ける。
「そうか。ところで、企画の準備のほうは進んでるか」
友弘が高志に尋ねるので。高志は少し作業の手を休める覚悟を決め、手にしていた絵筆か何かを机の上に置いた。
「今、宣伝用の看板が仕上がったところで、広嗣(こうじ)と、由利(ゆり)の二人が、校舎のほうに立て掛けに行ってます。もうそろそろ戻ってくる頃だと思いますけど」
「そうか。あいつら二人は昨日から徹夜で作業をやってたからな。他のメンバーはまだ来てないのか」
「いえ。まだ来てませんけど」
と、二人がしゃべっているところに、一人の女が入ってくる。なかなかの美形で、服装はいわゆるブランドもので身を固めている。女のほうも二人に気づき、
「おはよう。あら、まだ二人しか来てないの」
と、少しけだるそうな声で挨拶を交わした。
「あっ、桜さん。こんにちは。今日は寝坊せずにちゃんと来て、一体どういう風の吹き回しですか」
作業の手を止めて、高志が桜という女に話しかける。
「高志クン。失礼なことを言わないでよ。いつもちゃんと時間通りに来てるじゃない。ねえ、友弘クン」
桜は友弘に話をふる。女の声はやはり少し疲れている。
「ああ、桜はいつもきっちり約束の時間の一時間後に来てるからな」
友弘は、少しあきれたような顔で答える。
「もう、意地悪ね。あっ、そうそう。昨日頼まれてたチケットの原版を作ってみたからちょっと見ておいて。今朝の三時までかけて作ったんだから。ちゃんと見ないと承知しないわよ」
桜がカバンからチケットの原版を取り出して、二人に見せた。三人で、原版の出来をいろいろと言い合っているところにさらに二人の部員が挨拶をしながら入ってきた。
「おう、隆(りゅう))と健(けん)か」
二人に気付いた友弘が話しかけた。健が
「あっ、チケットですか。きれいに出来てるじゃないですか。なあ、隆」
隆と呼ばれた男がチケットの出来を誉める。
「そうですね。さすが桜さんですね」
隆も健の言うことに相槌を打つ。桜の作ってきたチケットの原版はどうやら好評のようで、桜は少し得意気な顔をしている。
「あれ、でも、桜さんが来てるってことは、僕らは遅刻ですか」
と、隆は少しふざけた口調でみんなに話しかけた。
「もう、隆クンまでそんなこと言ってからかわないで」
遅刻の常習犯らしい桜も、あまりにみんなにからかわれるので、少しうんざりしているようだ。そうこうしていると、看板の立て掛け作業をしていた二人も帰ってきた。
「高志さん、看板の立て掛け終わりました。あれ、みんなもう来てたんですか」
そう言ったのは広嗣のほうである。広嗣の声は少しかすれ気味である。
「あっ、広嗣、作業終わったか。ご苦労さん。由利もご苦労さん」
友弘は昨日から徹夜で作業にあたってくれた二人の労をねぎらうべく、声をかけた。
「いえいえ。あっ、桜さん、もう来てるんですか。早いですね」
由利が桜を見て思わずしゃべってしまった。桜は、もういい加減にしてほしいわ、というような顔つきで由利を見た。
「これで、メンバーが何人集まったんだ。一、二、三……、七人か。あとは誰が来てないんだ」
友弘がメンバーを確認する。どうやら友弘はこのサークルのまとめ役のようである。
「清子はまだ来てないの」
広嗣が言った。すると、まるでその声を聞いてでもいたかの様なタイミングで一人の女が部室に入ってきた。
「こんにちは。あれ、もうみんなそろってたんですか」
どうやら、清子のようで、清子はみんながそろっていることに少し戸惑っている。
「清子、遅いじゃないか」
と、広嗣が声をかける。
「でも、時間前じゃない」
清子は、みんながこんなに早く集まっていることに少し驚きながらも反発する。
「これで八人。あとは哲也だけか。あいつはどうせ遅れてくるだろうからな。じゃあ少し早いけれど、メンバーもそろったことだし、企画の打ち合わせを始めようか」
友弘はメンバーに提案する。みんな一様にうなずく。その中に、
――そうだ、お前ら四人の死への打ち合わせだ、早く始めようじゃないか。
という邪な意識をもってこの打ち合わせに参加している人間が一人交じっていようとは、このとき、その本人以外の人間にはわかるはずがなかった。
――お前ら四人だけは決して許さない。今度の学園祭がお前らの死の舞台となるわけだ。せいぜいちゃんと準備をしておくことだな。
悲劇は、既に始まっていた。
Prologue2 十月二八日
―― 今日もいい天気だ。
こんなことを考えながら、俺はコーヒーを片手に、事務所の窓から映る平凡だが平和な景色を眺める、などということはない。俺はそんな柄じゃない。俺は今、近くのコンビニで買ってきたサンドイッチを片手に、テレビ画面に映るゲームに興じている。
それにしても、この「死神学園殺人事件」は何てゲームなんだ。たったの二日間で三人もの学生が殺されるのだが、そんな事件が現実にあるのか思わず考えてしまう様な無気味な事件である。さらに、殺人の現場や被害者の絵がやたらリアルで気味が悪い。子供たちには、少しきついぐらいだ。だが、このゲームは、最近の探偵マンガブームに乗って、子供たちの間でもなかなかの人気なんだそうだ。そして、俺もなんだかんだといいながら、そのブームの波に乗って、日本のあちこちで名探偵、早乙女京助を生み出しているであろうこのゲームのミステリーに挑んでいるのであった。すると、
「さすがの名探偵さんもこの事件には手を焼いとるみたいやな」
と、不意に背中から俺を現実世界に引き戻す声がした。振り向いてみると、そこには皮ジャンにジーパン、という見慣れた姿の男が立っている。
「なんだ、和也か」
「それにしても、さすが名探偵の達人(たっと)さんや。普段から事件に備えてシュミレーションをしとるとは」
「何言ってるんだ、こんなものが練習になるもんか。単なるお遊びだよ。お遊び」
と、俺も少しムキになってこの男、堀田和也に言い返したが、もちろん和也もこんなゲームで俺がそんなことをしているとは本気で思っていないだろう。
「でも、お遊びの割には、ウンウンうなって必死にやっとるように見えたけどな」
そう言った和也は少し意地悪な顔をしている。
「な、なんだ、ずっと見てたのか」
俺は少し恥ずかしい気持ちになった。
「声をかけようと思ったら、達人さんがテレビ画面を前にジィーっとしてるから、何やろと思って少し見物しとったんや」
「ったく。事務所に入ってくるときぐらいノックでもしたらどうなんだ」
「ノックしたがな。でも達人さんが気ぃつけへんし、ドアも開いとるから、入ったんやないか」
俺は捜査を打ち切って、和也にコーヒーでも出してやることにした。それにしても、最近の和也は俺をどんなふうに思っているのだろう。親父の堀田警部に連れられて初めて俺の事務所にやってきたときは、
「俺、親父から朝岡さんの話を聞いて、探偵を目指す一人として憧れてました」
何て可愛らしいことを言っていたもんだ。しかし最近は俺に慣れてきたこともあってか、かなり減らず口もたたくようになった。まあ、俺達が砕けた関係になっていると理解すべきか。そういえば、和也の一言で解決した事件もあったしな。
「しかし、達人さんをもってしてもこの事件は難しいみたいやね。なんといっても、人気作家の笹倉健太郎が原作を書いたゲームやからなあ」
「なんだ、このゲームのことを知ってるのか」
「当たり前やん。俺もこのゲーム、クリアしたから」
和也はソファーに腰掛けながら続けた。
「笹倉健太郎といったら、達人さんはミステリー作家の第一人者として知ってるやろうけど、子供らの間では人気マンガの『薫&京助』の原作者として有名やからなあ。このゲームも、そのマンガの主人公の二人が出会うきっかけになった事件を描いたゲームやから、すごい人気が出たんやで」
「ふーん」
俺はコーヒーを入れながら、和也の話に耳を傾ける。
「でも、最近、事件にとんと縁のない達人さんにはちょっと苦しい事件かもなあ」
「うるさいなあ。よけいなお世話だ」
コーヒーを渡しながら、俺は言い返す。
「さっき行きづまってたところのヒントを教えましょか」
そう言う和也の顔は、少し勝ち誇っているようにも見える。チクショーと思いながら、コーヒーを一口飲んで、
「大丈夫。これからストーリーを進めていこうと思ってたんだ」
と、負け惜しみに近いことを言ってしまった。和也の顔が少しにやけた。
「どうだか。あっ、そうそう。今日は達人さんにいいものを持って来たんやった」
和也はそう言うと、カバンの中から二枚のチケットを取り出した。俺はそのチケットを受け取った。
「なになに……。お前の大学に赤坂圭子が来るのか」
「そうなんや。達人さん、赤坂圭子の大ファンやから、学園祭の実行委員の連れに頼んでチケットを分けてもらったんや。何しろ、あの赤坂圭子やから、チケットも爆発的に売れてて分けてもらうのも大変やったで」
確かに、赤坂圭子といったら、今や出す曲出す曲すべてミリオンセラーになるという大人気歌手で、ライブのチケットもなかなか手に入らないぐらいだ。そんな歌手がどうして、一大学の学園祭のライブに出る気になったんだろう、と思ったが、それにしても和也の奴、ちゃんとチケットを二枚用意するとは、なかなか気が利くじゃないか。
「そのライブ、今度の日曜日にあるんやけど、暇やったら俺の大学に遊びに来ませんか。弓子さんも誘って」
「そうだな、仕事が入らなければ遊びに行こうか」
本当は一にも二にもオーケーしたいところなのだが、あえてそう答える。すると、
「今日も暇そうにゲームしとったくらいやから、その心配は無いんとちゃう」
くそっ、痛いところを突いてくるな。しかし、ここのところ仕事が無いのは事実であるから仕方がない。そうこうしていると、不意に事務所の入り口のドアが開き、
「あら、二人で何の話かしら」
と、出かけていた俺の助手、藤原弓子が入ってきた。
「おう、弓子か」
「弓子さん、こんにちは。今、朝岡さんをうちの大学祭に誘ってたんですよ」
和也はそう言って事情を説明した。
「へえ、和也クンの大学に赤坂圭子が来るんだ。朝岡さんは大のファンですもんね」 「それで、いつも世話になってる朝岡さんに、せめてものお礼にと思って」
「それはそれは……。朝岡さん、いい後輩を持ちましたね」
弓子の言う通りだ。和也は気が利いている。それにしても和也の奴、さっきとは全然口調が違う。和也はどうも弓子の前では口調がおとなしくなるようだ。
「どうだ、弓子。君も行かないか。チケットも二枚あることだし」
そう言って俺が弓子が誘うと、和也も調子を合わせる。
「そうですよ。弓子さんも来てくださいよ。俺のサークルで出す店のタコやき、サービスしときますから」
俺と和也にそう言われて弓子は少し考えていたが、やがて、
「そうね、せっかくの和也クンの好意を無駄にしてもなんだし、行ってみようかしら。朝岡さんの母校に」
と、俺達の誘いをオーケーした。
「よし、これで決まりや。じゃあ、今度の日曜日に待ってます。それじゃあ、今日はこれで帰ります。また日曜日に会いましょう」
そう言うと、和也はドアのほうへ駆け寄る。そして、部屋を出る間際に、
「朝岡さん、うまくやりやー」
と俺に向かって少し笑みを浮かべて言った。ちっ、和也の奴、よけいなことに気を回しやがる。言われなくても、その辺りは俺も心得ている。弓子は何のことか分からない様子だったが。とにもかくにも、俺と弓子は、今度の日曜日は俺の母校でもある慶福大学で過ごすことになった。
Prologue3 十一月一日
秋も深まった夜である。先に登場したあのサークルのメンバーが集まって何か話し合っている。どうやら学園祭で自分たちが行なう企画の打ち合わせのようである。一通りの話しは終わったようで、
「まあ、明日の打ち合わせはこんなところか。じゃあ、今日はここで終わりにするから、みんな明日に備えてくれ」
という友弘の一声でメンバーが席を立った。そして辺りがざわめき出した。
「よーし。明日はがんばるぞ」
広嗣が大声で気合いを入れる。
「桜さん、明日の司会、がんばってくださいね。僕らも裏でサポートしますから」
高志が桜の元へ近寄り、声をかける。
「ありがとう高志クン」
高志は少し笑いながら続ける。
「でも、その前に明日は寝坊しないようにしてくださいね」
「はいはいわかりました。明日はちゃんと起きますよ」
桜は半ばあきらめ顔で答える。いつも言われることなので慣れている、という感じだ。 「友弘さん。明日はよろしくお願いします。何しろ始めてなもんで。足手まといにならないようにがんばります」
隆と健が友弘に話しかける。
「ああ、明日は二人とも忙しくなると思うけど、がんばってくれ」
友弘は二人を励ます。健と隆が去ったあと、広嗣がやってくる。
「友弘さん、明日手伝ってもらえる実行委員会のメンバーとの最終打ち合わせに行きましょうか。約束の時間から少し遅れていますし」
「そうだな。じゃあ、行こうか。おーい、哲也。実行委員のほうに行ってくるから先に帰っておいてくれ」
そう言われた哲也は軽くうなずき、帰り支度を始める。そしてその場を去ろうとする二人に、由利が、
「ご苦労さんです。実行委員会の方はよろしくお願いします」
と、声をかける。
「由利さんこそ、明日はよろしく」
広嗣が言葉を返し、二人は出ていった。そうこうしているうちに、各メンバーが帰り出した。各自、いろいろな思いを持ってその場を去るのだが、その中に、
―― いよいよ明日、あいつらに死の制裁を加えるときが来た。あいつらはすっかりあのことを忘れてしまっているんだろうが、明日、それを思い出させてやる。死の恐怖と共に。もっとも、そんなことを考える暇もなく死んでいく奴もいるが。
という恐ろしい決意を胸にその場を去った人間がいたことに、やはりまだ誰も気がつかない。
Prologue4 十一月三日
「ここが朝岡さんの母校の慶福大学ですか。なかなか立派な校門ですね」
慶福大学の入口の門で弓子が俺に話しかけてきた。
「ここに来るのも卒業して以来か。懐かしいな。俺も学園祭となると燃えていたっけ」 俺は門の前で立ち止まり、少し懐かしい気持ちになった。
この日のために作られた門をくぐって中にはいると、まだ朝の十一時過ぎなのに、すでにたくさんの人出で盛り上がっている。あちらから焼きそばを作っている鉄板の音がしたかと思うと、向こうでは学生が威勢のいい声で客を呼び込んでいる。
「すごく盛り上がっているって感じですね。何か買って少し早いお昼にしましょうか」 弓子はそう言いながらも、この雰囲気に少しはしゃぎ気味だった。
「まだ、お昼には少し早いんじゃないか。少し学内を見て回ろう。案内するよ」
俺はそう言って弓子と共に学内を回ることにした。俺がいたときは学内は改修工事の最中だったので、何となく落ち着かない感じだったが、今はきれいな校舎になってなかなか落ち着いた感じがする。もっとも今日はあちこちに模擬店が出ているから、学内はざわついた感じがするのだが。そうこうして歩いているうちに、
「あら、あのステージは何かしら。今日の赤坂圭子のライブのステージかしら」
と弓子が俺に聞いてきた。それにしてはステージが小さい気がするので
「それにしては少しステージが小さい気がするけど。何に使うのかな」
と俺は返した。すると弓子はそのステージのほうを指さして、
「あれ、あれは和也クンじゃない?」
といった。弓子の指さすほうを見ると、確かに和也がいるようだ。和也は何か作業をしている。
「おーい、和也」
俺が声をかけると、和也は俺達に気付き、こっちにやってきた。
「達人さんに弓子さん。もう来たんですか。早いなあ」
和也は少し驚いた様子で話しかけてきた。
「せっかくだから久しぶりに大学を見て回ろうと思ってな」
「ところで和也クンはここで何をしているの」
「実は、学内ミスコンイベントの手伝いをさせられることになって。この間、達人さんらに赤坂圭子のライブのチケットあげたでしょ。あれ、少し無理言うて実行委員に分けてもらったんですよ。それでそのときの借りを返すために実行委員といっしょにこのイベントを手伝っとるって訳です」
そう言っている割には、和也は嫌そうな顔をしていない。
「まあ、そうなの。それは悪いことをしたわね」
弓子がそう言い終わらないうちに、
「おーい、和也。なにくっちゃべってんだ。もう時間があまり無いのに」
という大声が後ろから聞こえてきた。
「なんや。友弘か。今ちょっと休んだやけやんけ」
和也は勝也というその男に言い返す。
「そうや、友弘、紹介するわ。こっちが俺がいつも話しとる探偵の朝岡達人さんや。それでこっちが達人さんの助手をしとる藤原弓子さんや」
和也がそう言うと、友弘は少し会釈をして、
「ああ、あなたが朝岡さんですか。和也から話しは聞いてます」
と挨拶をしてきた。どんな話を聞いているのだろうと少し思ったが、すかさず和也が、
「達人さん。こいつ俺の大学でのダチで石原友弘っていうんや。今回のミスコンの実行委員長をやってて。それで手伝わされとるちゅー訳です」
と俺と弓子にその男を紹介してきた。
「なに言ってるんだ。うちの桜ちゃんと一緒に打ち上げの飲み会に行きたいから手伝わせてくれって言ってきたのはそっちじゃないか。朝岡さん。こいつうちのサークルにいる伊藤桜っていう女の子にぞっこんなんですよ」
なるほど。それで仕事をさせられている割には嫌な顔をしていないのか。そう思って、少しニヤーっとして和也の顔を見ると、和也はあわてた様子で、
「ア、アホ。なに言うとるねん。さあ、仕事仕事。頑張らななあ。まあ、達人さんも弓子さんも、ゆっくり楽しんでいってや。もしよかったらこのイベントも一時からやっとるから遊びにきてや」
といいながらステージのほうへ行ってしまった。残された友弘も、
「じゃあ、俺も準備があるんで。もしよかったらミスコンにも遊びに来てくださいよ。結構かわいい娘がそろってますよ」
と言って、俺達に自分たちのイベントのチケットを手渡すと、ステージのほうに行ってしまった。
「まあ、和也クンったら照れちゃって」
と、弓子は笑いながら言った。それにしても和也め、桜とかいう女の子に近づく口実を作ろうとして俺達に学園祭ライブのチケットを用意しやがって、ちゃっかりしてやがる。でも、まあいいか。おかげで俺も弓子とデートを出来るんだからな。こっちはこっちでやらせてもらうことにするか。
「そろそろ模擬店で何か買ってお昼にしようか」
俺は弓子にそう言って再び模擬店のほうに向かった。
Prologue5 同日
ステージの裏には何人かの人間がイベントの最後の準備に追われている。ほかのメンバーもステージの準備やその他の準備を忙しくこなしているようである。
―― いよいよあと少しであいつらに死の恐怖を与えることが出来る。あともう少しの辛抱だ。仕掛けに抜かりはない。まずあいつが仕掛けにかかって死んでいく様を見ることにしよう。くっくっくっ……
「そいつ」が、そのようなことを考えていると、メンバーがステージの裏に集まってきた。みんなが集まった頃合を見て、
「よーし、みんな集まってくれ」
と友弘がみんなに呼びかけた。
「いよいよお客さんを会場に入れるけど、各自でしっかり頑張っていこう」
おー、というみんなの声には少なからず気合いが入っている。しかしそれは同時に恐怖が現実になる時間がやってくることの合図ともなったのである。
Prologue6 同日
お昼も済ませた俺達は、赤坂圭子のライブにはまだまだ時間があるし、さっきもらったチケットがあるので、ミスコンを見ていこうということになった。そしてさっきのステージにやって来ると。まだ十二時半過ぎだと言うのに、すでにたくさんの人が会場に入っている。
「すごい人ですね。三百人ぐらいは来てるみたいですよ。朝岡さん」
弓子はあまりの人気ぶりに少し驚いている。
そんなことを言っている間も、次々と人が入ってきている。最終的には千人ぐらいは来るんじゃないだろうか。ステージの下は、すでにかなり大きな範囲がロープで囲まれている。俺達も受付でチケットを切ってもらってロープの中に入った。
Prologue7 同日
ステージには大量のクラッカーが舞台の前の線に沿って仕掛けられている。最初に司会が登場したときに一斉に紐を引っ張って発射させるように仕掛けられている。それらは全て、舞台の前のお客さんに向けられているはずである。しかし、そのうちの一つ、司会者が最初に立つ位置の前に仕掛けられたクラッカーだけはなぜか司会者のほうを向いている。それに気付いているのは「あいつ」ただ一人である。
ステージを見渡すとすでに五百人ほどの人が入っているようだ。最終的には千人ぐらいの人の入りになるのだろう。
「うわー、予想以上の人ですね」
ステージの裏で高志が思わず口にする。
「そうね。緊張してきたわ」
今日のイベントの司会を務める桜は、確かに緊張した面持ちになっていた。
――そうだ。おまえの死を見届ける人だかりだ。
今日の悪夢を演出した「あいつ」は、確かに興奮した面持ちになっていた。
Prologue8 同日
もうすぐ一時になろうとしていた。もう会場のロープの中は人、人、人でいっぱいである。ステージの上では一人の男が前説らしきものをしている。
「……。というわけでまもなく企画のほうも始まります。司会者が出てきたら大きな拍手でお迎えください。よろしくお願いします」
そう言うと、稲葉広嗣と名乗ったその男はステージを下りていった。
「いよいよ始まるみたいですね。それにしてもすごい人ですね」
弓子が俺に話しかけてきた。
「ああ、そうだな。みんな目の保養をしに来たんだろう」
「まあ、目の保養なんて古くさい言葉を使うんですね」
「そうかい?」
そんなことを言っているうちに、ステージの前のスピーカーからカウントダウンの声が聞こえてきた。ステージのほうを見ると、かわいらしい女の子と、さっき紹介してもらった石原友弘が立っている。
「ははあ、あれが和也のお気に入りの伊藤桜っていう女の子か。なかなかじゃないか」 俺はそう言いながら少しの間、その女の子に見とれていたので、
「朝岡さんはああいう子がお好みなんですか」
と弓子につっこまれてしまった。そうこうしているうちに、カウントダウンの声が一段と大きくなった。会場の客の声が加わったのである。
「五、四、三、二、一、ゼロ!」
パアーン! …………
Epilogue of Prologue 十一月五日
あの学園祭の日から三日が過ぎた。今日もまた仕事がなかった俺は、自分の椅子に座ってぼーっとしている。もう「死神学園殺人事件」は解決して、やることもないのでそろそろ帰ろうかと思い出したそのとき、事務所の入口に、重い足取りの足音が聞こえてきた。ガチャ、事務所の入口の扉が開き、そこに中年の紳士の姿が現れた。
「朝岡さん。元気にしとりますか。いつも息子がお世話になってます」
その紳士は、俺を見つけるといつもこの挨拶をする。
「おかげさんで。堀田警部こそ、元気で何よりです。で、今日は何の用ですか」
俺は事件がやってきたことを確信し、聞き返す。
「実は、三日前に新央大学で起こった殺人事件について、ちょっと調べてほしいことがあるんですよ」
ああ、あの大学生が三人殺されたっていうやつか。何でも一人はステージでみんなが見ている前で死んだというじゃないか。なかなか大胆な犯人だ。
「いいですよ。他ならぬ堀田警部の頼みですし。で、何を調べればいいんですか」
こうして俺は、新央大学で起こった、複雑な愛憎劇に満ちた殺人事件へと足を踏み入れることになったのである。
The Punch line
平成八年十一月四日付毎朝新聞朝刊より
三日の午後一時ごろ、大阪にある私立新央大学で、同大学の学生が学園祭のイベントの最中に死亡するというショッキングな事件が起こった。死亡したのは同大学の三回生、桜夕子さん(二一)で、死因は胸に打ち込まれた毒針によるものとわかった。捜査当局はこれを他殺と断定し、大学の関係者から事情を聞いている。
平成八年十一月五日付毎朝新聞朝刊より
先日、殺人事件が起こった新央大学で、新たに犠牲者が出るという事態となった。死亡したのは同大学の三回生、友弘勝也さん(二一)と同じく二回生の広嗣裕太さん(一九)の二人で、死因は刃物の切り傷による出血多量と見られる。二人は先日殺された桜夕子さん(一九)と同じサークルに所属しており捜査当局は桜さんが殺された事件と関わりがないかどうかについて捜査を進めている。
本当の悪夢はここから始まる……。
チョイスっ!
奥野 紀代子
actT WONDERLAND
「……どうなってんだ?」
少年は思わず呟いた。歳は十七・八といったところだろうか。目が覚めてみれば、見渡す限り延々と続く大草原のなかで大の字になっていたのだ。何処からともなく心地よい風が吹いて来ては、少年の柔らかな髪をなびかせる。ヌッと突き出た島のように、時折木々が顔を覗かせている外、この緑の海には何も見あたらない。
「日本の風景じゃないことは、確かだよな……」
(……じゃなきゃ、住宅事情変わってくるぜ)
それにしても、と少年は首を傾げる。なぜ自分はこんなところに居るのだろう。忙しい自分はこんなところに用はないし、そんな暇もないはずなのに。
(……忙しい?)
「あれ、オレさっきまで、何してたんだっけ……?」
瞬間、脳裏が真っ白になった少年のもとへサアッと一陣の風が吹き、水音混じりに唄声らしきものを、途切れ途切れ微かに運んでくる。
「誰か近くにいるってことだよな。でもなぁ。変にしゃしゃり出ていって危険な目に遭いたくはないし……。とりあえず、ここは安全みたいだもんな。うーむ」
……イキナサイ。
自分の身体をスッと何かがすり抜けていくのを感じたその刹那、少年の頭に“声”が響いた。
(えっ……?)
慌てて声の主を見つけようとするが、いくら辺りを見回してみても先程と何ら変わるところはない。相変わらず草木がそよめいているだけである。ここが何処であるのか分からなければ、なぜ居るのかすら分からない。加えて今の謎の“声”。記憶を探ってみても、出てくるのは自分の名前ぐらいのものだ。
「何なんだよ、まったく。オレは有栖川であって、アリスじゃないんだぞ! はぁ……オレって素直だよなぁ」
呟きつつ、少年……有栖川仲忠は緑の海を泳ぎはじめた……
actU BOY MEETS GIRL
夜ではない……と、思う。何しろ頭上では、いい加減腹立たしくなるほどの陽気さで、太陽が燦然と輝いているのだから。しかし方位も分からない状況では、朝なのか昼なのか判断するのは困難だ。時間の感覚さえうまく掴めない。かなり歩いたような気もするのだが、額に吹き出る汗が太陽の暑さによるものなのか、悪戦苦闘の熱さによるものなのかは謎である。
「ハァハァ くっそぉ〜。何なんだよ、この超、発育良好の草達はっ。少しは遠慮しろよな! これでもオレ、人並みの身長はあるんだぞ」
風が運んでくる微かな音を頼りに移動しはじめたのだが、進むに連れ、最初膝あたりにあった草の先端はどんどん成長し、今や有栖川を凌ぐほどの高さにまでなっている。
どうやらこの先には川があるらしい。次第に大きくなってくる流水の音とともに、不明瞭だった唄もはっきりと聞き取れるようになってきた。
ガサッ。最後の障害をかきわけて少年は呆然とした。
「ホイさ ホイさで ほほいのホイっ♪」
ヒンヤリ湿気を含んだ川風が、汗ばんだ有栖川の肌を冷やし、凍った思考力を徐々に回復させる。
「 ……あらいぐま……だよな……」
アラビア風のベストを羽織ってターバンからピョッコリ耳を出した、猫だか狸だか何だか正体不明の奇妙な生き物が、畳一枚分ほどのイカダに乗って唄を口ずさんでいる。器用にも二本足で立ち、せっせと洗濯物に勤しむその姿から「洗い熊」だと判断してみたのだが、頭のどこかでは常識が悲鳴を上げている。
「♪ せんたく せんたく おせんたくぅ わしも おまえも おせんたくぅ♪ あっ それっ♪ しなきゃなりゃにゃ〜 おせんたくぅ〜」
ジャボジャボと軽快な調子で、次々と洗い物を片づけていく。感心して眺めているうちに、滔々とした流れに乗って、イカダは次第に小さくなっていった。と、間もなく同じような唄が聞こえだし、有栖川は左に向ききっていた首を慌てて右方向へと戻す。
一瞬、さっきのがそのまま戻ってきたのではないかと思ったが、よく見るとターバンやベストの色柄が変わっている。毛並みも少し違うようだ。しかし、後はほとんど同じで、相変わらず背後にはこんもりとした洗濯物の山を抱えている。
「……危なそうなヤツには見えないよな。一応しゃべれるみたいだし」
……そこがアヤしいのに、という心の声は無視して、とりあえず「おーい」と、何度か呼びかけてみる。しかし川幅がかなり広いのと、本人がジャバジャバ洗濯に熱中しているせいとで、一向に気が付く気配はない。
有栖川が会話に成功したのは、三度目の正直ならぬ七匹目のときであった。
(おお。待てば川路の日和ありってか)
岸近くを流れてくるイカダを発見し、声を掛けようと水際まで駆け寄ったところ、何かに足を取られ、結果的にそのイカダに飛び乗ることになったのだ。
……クス。どこかで笑い声がしたと思ったが、どうやらそれは足元から発せられている奇声の聞き違いのようだ。
「はぎゃぎゃぎゃぎゃっ!」
着地の衝撃で大揺れする足場に驚き、例の“洗い熊もどき”が有栖川のジーパンにへばりついている。
「ああ、ごめんね」
「“ごめんね”じゃなきゃっ。なんつーことするきゃ」
まったく、もう。どうなっても知らんけ……妙なイントネーションでぶつぶつ言いながら、イカダが落ち着くと“洗い熊もどき”はまたもや洗濯に戻る。あれほどの揺れにもかかわらず、しっかりと残っている洗濯物の山がふと気になったものの、しかし、そんなことに構っていても一向に埒が明かない。有栖川は当初の望みを果たすべく、先程からずっと抱いていた疑問をおずおずと口にしてみた。
「あの…、すいません。ここは一体どこなんでしょう?」
“洗い熊もどき”は一瞬「はてな?」と首を傾げたが、またすぐにその手をせっせっと動かして、事も無げに答えた。
「ここは川ぞな」
「は、はあ……」
イカダは先ほどの衝撃で川の中央へと流されている。有栖川は内心舌打ちしながらも顔面に笑みを貼りつけ、質問を変えてみた。
「あの、このイカダ、一体どこに行くんでしょうかぁ」
「川の流れるほうに決まっちょる」
「そのっ、ここじゃどうして皆そんなに一生懸命、洗濯物ばかりしてるんです? 何かそういう行事でもあるとか……ハハハ…」
少しでも会話の続くことを期待した有栖川だったが、その返事は半ば予想していた通り極シンプルなものだった。
「しなきゃならんからに決まっちょるぎゃ」
「……そう…ですね……」
……こンの、妖怪ねこ狸がっ。
ボソリ呟いた瞬間、有栖川たちの身体は左右に激しく揺れはじめた。
「うわっ」
「ふぎゃぎゃ!」
見れば、イカダは流れの速い急カーブにさしかかっており、更にその前方には轟々と水しぶきを上げる滝壺が控えている。
「お前はんが悪い。お前はんが、ぜぇ〜んぶ悪い」
「……なっ。そんなこといわれたって、オレ、全然しらねーぞぉっ」
「しゃーにゃ。半分にマケといちゃる」
「へっ?」
「お前はんが半分悪い」
「あのなぁー! なんで……っ」
「うわぁぁぁぁっ!」
反論し終える暇もなく、有栖川は絶叫とともに水中へと投げ出されていた。
「ごほっごほっ、ゲホっ」
何とか岸に泳ぎ着いたものの、とっさのことで思い切り水を飲み込んだ有栖川は、全身ずぶ濡れで緑の草地に四つんばいになっていた。
「くっそぉ〜。なんでオレがこんな目に……」
「だって、他人の洗濯の邪魔するアンタが悪いんだもの」
「えっ?」
ポタポタ滑り落ちる雫のすぐ先には、縁にレースをあしらったスエードの華奢な靴。見上げるとそこには両手を腰に当て、呆れ顔でこちらを見つめる一人の少女の姿があった。
少しウェーブがかかった豊かな髪は、瞳と同じく明るいブラウンで、腰のあたりまで届いている。その容貌といい、身につけているものといい、どこかの有名ブランド子供服のモデルが、スタジオからそのまま抜け出してきたといった感じだ。
「情けない、情けない。アンタがいつまでもそんなんだから、あたし、ちっとも自由になれやしないわ。いいこと……」
そういって右手の人指し指をぐっと有栖川の鼻先に突き出す。どう見ても十歳そこらのはずなのだが、思わずこちらがたじろいてしまうような物腰である。
「自分がいるべき場所にいきたきゃ、早く“あたし”をみつけだしなさい。いいわね?」
いうなり、少女のワンピースの裾はふわり翻る。白昼夢でもみていたかのように、有栖川はハッとした。
「なんつー、高Pなお子供様。『あたしを見つけ出せ』だとぉ?」
普段ならたかが十歳程度の子供の言葉と、いちいち気にも留めないところだが、なぜか今回はむかむかしてくるのを抑えられない。
「いいよな、子供は悠長に遊んでりゃいいんだから。残念ながらオレには隠れん坊なんてしてる暇……」
「ないっていうの? どこかのオジさん連中みたいね。本当は全部自分次第なのに。暇も作れないほど、いったい何に時間を費やしているのかしら? それすら分かってないんじゃないの?」
有栖川の独り言がどうやって聞こえたのか、少女は踊るような軽やかな足取りで草原を進みながら、痛烈な言葉を投げ返してきた。
無視しようと心に決めていたものの、ここまでいわれては流石に黙ってはいられない。
いつの間にそんなところまでいったのか、有栖川が後を追い出したころには、もう少女の姿は、彼方の森へ消えようとしているところだった。
「ゼイゼイ、ちょっと待てよ。こんな薄暗くて障害物だらけなとこを、どうやって捜せっていうんだ?」
パキッ。近くで小枝を踏みしだく音がした。すかさず向きを変えようとした有栖川は、向こうから来ていた何かとまともにぶつかり、あまり柔らかいともいえない落ち葉のクッションにキャッチされる羽目になった。
「うわっ」
「っ痛!」
身を起こしながら思わず悪態をつくと、前方からも似たようなうめき声が返ってくる。
「…ててて。一体なんだよ……あれっ」
それが、もう一人の迷い人……宇佐美 薫との出会いだった……
actV IN THE FOREST
「あのさ、ここ、どこだか分かる?」
唯一紹介できる自分の名前を教え合ったあと、二人は異口同音に尋ねた。
「ハァッ。やっぱ、分かんねぇか。まっ、仕方ねぇ。この恰好といい、どうせ俺、夢でもみてんだな。しっかり衝撃とか痛みとかあるけど」
長めの前髪をうっとおしげにサラッとかきあげつつ、宇佐美は独り言のようにいった。年齢はさほど変わらないようだ。全体的に小柄なつくりだが、目だけは別で、いかにも無邪気な印象を与える。有栖川と同じくTシャツにジーパンという軽装ではあるが、有栖川と違って湿ってはおらず、かなりハードな目に遭ったのか、ところどころ汚れて鉤裂きができている。
「ちょっと待った。何でおたくが夢をみてるわけ?」
聞き捨てならないと、すかさず有栖川が口を挟んだ。
「何でって、こんな得体の知れんとこで得体の知れんもんばっかり見てたら、そう思うしかないだろ? あれ、何で俺、自分の夢でわざわざこんな説明してんだろ」
「オレは“得体の知れんもん”じゃないっ。第一、オレは現実に存在してんだ、他人の夢に意識持ったまま出演できるわけないし、アンタがオレの想像物にすぎないわけ」
「俺がぁ?」
どちらが主体であるかを巡ってしばらく議論が続いたが、やがてウンザリしたように宇佐美が両手を上げて制した。
「ああもう。ンなこたぁ、どうでもいいよ。何にしろこんな経験、滅多にできるもんじゃないし、楽しめたらそれでいいや。俺ってば、結構この状況気にいってんだ。ほいっ」
飄々とした顔で、そのまま右手を差し出す。
「何、これ?」
「アドベンチャー・ゲームにお仲間はつきものじゃん。おまえ、記念すべき“俺がここで出会った人間”第二号だからな。お近づきの印」
「第二号って、ひょっとして第一号は子供服のモデルみたいなやつ?」
相手の笑顔に引きずられて手を伸ばしながら、有栖川は先刻まで追いかけていた例の少女のことを思い出した。
「そうそう。何? あの子がどうかしたのか?」
「いや、別にたいしたことじゃないけど……」
あの少女のこと思い出すだけで、なぜか渋面になってしまう有栖川だが、それとは対照的に、ことの経緯を聞いた宇佐美はにんまりした。
「おもしろそうじゃん。これといって、行く当てがあるわけじゃなし。その子のいう通り見つけ出しにいってやろうぜ」
あの小生意気な少女のことなどよりも、自分は早く元のまともな世界へ帰りたいといいたかったのだが、まるでもう一人自分が存在するかのように、意識の底からあの少女を見つけ出せと囁く声がする。おまけに向こうはすっかりその気で、帰りたいと思いながらもなかなか口にできる雰囲気ではない。
(しょーがない。あの子の話を持ち出したのはオレだしな…。それに、なんだか帰り方を知ってるような口ぶりだったし。ここはひとまず例のガキんちょ捜しに付き合うか…)
いつもの自分なら、きっとこんな馬鹿らしいことに時間をさいたりはしない。記憶がないながらも……或いは記憶がないからこそなのか、有栖川はここに来る以前の自分を、或る種第三者的にとらえていることを感じた。
「いや〜、アドベンチャーっぽくなってきたなぁ♪」
前方からやけに嬉しそうな宇佐美の声が、鼻唄まじりに聞こえてくる。
微かな不安を抱きつつ、有栖川はこの新しい連れとともに、再び少女を捜しはじめた。
actW WANDER LAND
「オイ、本当にこっちなんだろうな」
さほど経たないうちに、有栖川の“微かな不安”は“大きな不安”へと早変わりしていた。心身共に疲れ切った様子で後をついていく有栖川。ほどよい小枝を片手に振り回しながら、先をずんずん進む宇佐美は元気底無しといった感じだ。
「大丈夫、大丈夫! ま、俺にまかしときな」
「……まかしとけぇ?」
有栖川のなかでプツンと切れる音がした。
「ぬぅあ〜にが任せとけだ! 砂漠は横断させられるわ絶壁は登らされるわ、おまけに一つ目の毛むくじゃら集団にまで追いかけられて!」
「よかったねぇ、インディ=ジョーンズ顔負けの世界を実演できて╋…でも、そのわりにおまえの服、やたらキレイじゃん」
「お前のは確か破れ目まであったはずだが?」
今更ながら漸く気づいた様子の宇佐美に、ギンと鋭い一瞥を投げる。
「ありゃほんとだ。いや〜便利、便利。これならゴジラに会って火ィ吹かれても大丈……
……じょ、冗談だよ。それよか、腹減ってきたと思わねぇ?」
有栖川の目が真剣に殺気を帯びているのを感じて、宇佐美は急いで話題を変える。
「…まあ、な」
ぶすっとしながらも有栖川は空腹であることを認めた。考えてみればここに来てからというもの、川の水以外何も口にしていない。夢のなかで飢餓感などというものがあっただろうかと訝しんでいると、前方で宇佐美が犬のように鼻をヒクヒクとうごめかせだした。
「何やってんだ?」
「いや、なんかこう、甘酸っぱい香りがだな…」
いいつつ宇佐美は次第に足を速め、緩やかな斜面を駆け登っていく。その後を諦めに似た気持ちで追いかけていくと、今度は有栖川にも分かるほどの果実の芳香がして来た。
「見ろよ、見ろよ!」
宇佐美にいわれるまでもなく、斜面を登りきった有栖川の目に、極彩色が飛び込んで来た。オレンジに似た物やブドウのような物、太陽の光を浴びて宝石の如く輝いている見たこともない果実たち……
「おい、あれいってみようぜ!」
どれから試そうかと思案に耽る有栖川の肩を勢い良くたたいて、宇佐美はまっしぐらに駆けだした。目指すは、大きくカーキー色に熟したマンゴーもどきのところである。
「どうしてお前は、わざわざ労力のいるとこを選ぶんだ?」
この数ある果樹のなかで、唯一存在する柵によじ登りつつ有栖川が愚痴る。
「チッチッチッ、これだから素人は。いいか? ここだけわざわざこんなもんが作ってあるってことはだ、こンなかでコイツが一番美味いに決まってんじゃねーか。実に簡単な推理じゃないかね、ワトソン君」
「あほ、誰がワトソンだ」
柵の最上段に腰を落ち着け、宇佐美の投げ寄こしたマンゴーもどきにかぶりつくと、途端に南国フルーツ独特の甘酸っぱさにクリームを添えたような、得もいえぬ香りが溢れ出した。滴り落ちる果汁、とろけるような舌触り……けれど有栖川の口のなかに広がったのは強烈な酸味と苦みだけだった。
「不っ味いーっ!」
有栖川の思いを代弁するかのように頭上で怒声が響いた。
安定のいい幹の部分に胡座をかき、小型ラグビーボール五・六個抱えた状態で宇佐美が顔をしかめている。それでもすべて歯形を付けているところは流石だ。
「こんだけ美味そうな匂いしてんのに、サギだーっ」
「実に簡単な“誤推”だったね、ホームズ君。一人でやってろ。オレは別のにいかせてもらうからな。よっと……、あ〜っ?」
ヒラリ柵を飛び下り、上体を起こして有栖川は驚愕の声を漏らした。
「んぁー、ちょっと待てよ。俺も……」
小脇に二つばかり抱えて下りてきた宇佐美も、その光景を目にするや、同様の声を上げる。
「な、な、ない〜! 俺のフルーツ達がみんないなくなってる〜・!」
あれほど色彩豊かに様々な姿を見せていた果樹たちは跡形もなく消え去り、二人の視界にはただそよそよと風が通りすぎていく原っぱが広がっているだけである。
「……おまえのせいだ。お前がよく考えもせずこんな手間のかかるの選ぶから! 見ろよ、あんだけあったのに全部消えちまったじゃないか!」
理不尽な考えだとどこかで分かってはいたが、有栖川はその苛立ちを誰かにぶつけずにはいられなかった。
「なんで俺のせいになるんだよ? 他のを選んでも消えてたかも知んねーじゃんか」
「それはそうだけど…でも、何もここまで不味いのを選ばなくったって!」
「かぁ〜、我儘なヤツ! そんなにいうなら付いてこなきゃいいだろ。俺が何いおうが、自分の選んだとこいきゃあ良かったんだよ。付いてくるだけ付いてきといて文句いうなんて、すんげぇ我儘! おまえ、絶対ひとりっ子だろ」
「……そう…かも」
ひとりっ子が、まるで我儘で横暴な人間の代名詞であるかのように騒ぎ立てる宇佐美だが、悔しいことになぜか反論できない。
「なんだよ、そういう自分はどうなんだ? その超無鉄砲なとこといい、どこぞの三男坊あたりじゃないのか」
「……。そういえば兄貴がひとりいたような…」
考えてみれば、二人が出会って以来、元の世界に関して具体的な話が出たのは始めてである。
「結構、家族構成って人格形成に関係してんだな」
感心したかのように、有栖川が呟いた。
「いいよな、オレ兄貴って欲しかったんだ」
「欲しがるかぁ、あんなもん?」
眉間に皺を寄せて答える様子から察するに、どうやら、宇佐美の兄に対する感情は好ましいものとはいえないようだ。
「なに、ひょっとして、兄弟の仲悪いとか」
「いや、兄貴との仲が直接どうっていうより……あれ、なんでだろ。なんかはっきりとはしないけど、兄貴の事考えると無性に腹が立つ……。兄貴なんかより、俺はかわいい妹か弟のほうがいいけどなぁ」
「でも兄貴って、なんか頼りになる感じするじゃん」
『頼りにしてるからな、仲忠』
激しい耳鳴りとともに、有栖川の意識は闇に吸い込まれていく。
どこかで聞いたような言葉……。向こうに何かある。あと、もう少し。あと、もう少しで何かが分かる。この白い靄の向こうに、自分の知りたい何かが隠されている。
あと、もう少……
ガンガンガンガン…。突如、有栖川の頭のなかで警告のベルが鳴り響いた。
「でぇ〜。いい歳した男が、その図体で兄貴を頼りにするかぁ? 気っ持ちわりィ〜」
宇佐美の声に有栖川は、はっと我に返る。
「女みたいな顔して、おまえ、ほんとに口悪いのな」
まじまじと宇佐美の顔を眺めつつ有栖川が呟くと、コンプレックスでもあるのか、宇佐美は「失礼な」と不機嫌な声で背を向けた。
「そいで、これからどうすんの? 確かにずんずん行ってた俺も悪かった。だから、今度はおまえが決めろよ。それなら、文句もねぇだろ?」
公正な提案であるものの、有栖川はなぜか仕返しをされたという気がしてならなかった。
actX BREAK THROUGH
お前が舵を取れといわれたものの、きちんとした道があるわけでもなし、こんな大自然のなかでこれといった行き先もないまま進路を決定するのは至極困難である。二本道でさえどちらを行くか悩まなくてはならないのに、今回の場合は一歩進むごとに何通りにもなる分岐点に立たされているのと同じだ。
悔しいが、有栖川はこんな途方もないところを何の迷いもなく突き進んでいた宇佐美に尊敬の念を抱かざるを得なかった。
「おまえ、よく、こんなとこずんずか行ってたな。悩んだりしないわけ?」
「何で?」
このペースではよほど暇なのか、有栖川が肩ごしに話しかけると、宇佐美は頭の後ろで両手を組み、何か面白いものはないかときょろきょろ辺りに視線を彷徨わせていた。
「何でって…、だって、間違ったとこ行ってたら恐いじゃないか」
「間違ってるかどうかなんて、行ってみなきゃ分かんないでしょーが。勘だよ、勘! 間違ってたって、そん時ゃそん時でなんとかなるって」
こんな奴の後をよくも黙ってついてきたものだと、今更ながら有栖川が恐怖を感じていると、突如宇佐美が奇声を発して駆けだした。何が起こったのか理由も分からぬまま後を追いかけていくと、宇佐美は岩場の近くでペースを落とし、そのまま大きな岩陰の一つに身を潜ませる。
「突然どうしたっていうんだよ?」
無意識のうちについてきたが、よく考えれば手綱はこちらに任されていたはずだ。調子のいい話だか、約束を破られたことに少々腹を立てて有栖川が尋ねると、宇佐美は興奮を抑えたような声で、振り返りもせずに答えた。
「しっ! いるんだよ、あそこにモノホンの狼が!」
「おおかみぃ〜?」
宇佐美に睨まれ、慌てて声をおとす。
この世界に来てからというもの、得体の知れない正体不明の生き物たちには……喜んでいいのか、慣れつつあったが、狼などといった珍しい・それでいて正常な生き物に出くわすと、却って驚きを感じてしまう。
いわれた通り同じように岩陰からこっそり覗いてみると、少し離れたところに、灰褐色の物体がうずくまっているのが見えた。
「……あれが狼か? オレにはただのバカでかい犬に見えるけど…」
「ばかやろう! 恐れ多くも狼様になんてことをっ。いいか、狼ってのはすんげーぇ、プライドの高い生き物なんだ。見ろ、あの鋭くも気高い眼を! 感激だなー。こんなとこで生の狼に会えるなんて…!」
「鋭いかねぇ、あれが」
よくいってつぶらな瞳、どちらかといえばおどおどした感じの情け無さそうな顔だ。どう見ても、宇佐美のいうようなプライドの高さは感じられない。有栖川は本当に同じ物を見ているのかと不安になってきた。
「ちょっと元気なさそうだけど、別にケガしてるところとこはないみたいだな。うわっ、すげぇ! こっちに近づいてきた」
見ると、宇佐美のセリフ通り、灰褐色の物体がこちらにぽてぽてと近づいてくる。普通なら一目散に逃げだすところだが、相手があれでは馬鹿馬鹿しすぎてそんな気も起こらなくなっていた。宇佐美がいうところの“狼”は後二・三歩というところで立ち止まり、ひょこっとそこに座ると、おずおずと不思議そうにこちらを見つめた。
「知ってるか? 狼ってああ見えてすっごい子煩悩なんだぜ。ってことは、内にやさしさを秘めてるってことだと思わねぇ? ああ、一回でいいからあの鬣に触らせてくんないかなぁ」
よほど好きなのか、宇佐美が憧れ一杯に囁く。すると、その声が聞こえたかのように、ウォォンという軽い一啼きが返ってきた。
「まるで俺のお願いに返事してくれたみたい、タイミングばっちしだったよな」
「まさかおまえ、今のがO,Kサインだとかいって、本気で触りに行く気じゃ…」
有栖川の予想どおり、既に宇佐美はそっと近づいていくところだった。相手を安心させるように、何か小さな声で囁きながら。
「おこんないでくれよ…、害を与えるような気はこれっぽっちもないからな……」
宇佐美の言動からは、妙に動物慣れしている印象を受ける。はじめは少し警戒していた様子の“狼”も徐々にその警戒心を解き、ついには、おとなしく彼に撫でられるがままになった。おとなしくどころか、今にも喉をゴロゴロ鳴らしだしそうな様子である。
「なんか、情けない…」
自分のことを無視して、和気あいあいとした雰囲気をつくっている一人と一匹の光景を前に、有栖川はつい、いってしまった。
「そんなの単にでかいだけで、近所で知らない人間に平気で頭撫でられてる飼い犬と変わ んないじゃないか。そいつ、本当に狼なわけ? おまえがいってたプライドとかいうの が全然感じられないんだけど」
それまで嬉しそうに鬣を撫でられていた“狼”が、有栖川の言葉を耳にした瞬間、ビクッとして動きを止めた。うなだれて、耳まで悄気かえっている。
ひどく傷ついたのを指先から感じ取り、宇佐美はキッとこちらを睨むと、“狼”の代弁をするかのようにまくしたてた。
「いちいち細かいこと気にする奴ほど、プライドが小さいんだよ! 周囲がどんなふうに 思うか、そればっかり考えてさ」
「……おまえは、すんごく度量が大きいんだよな。だから俺みたいなのが触らせてくれ っていっても、快く許してくれたんだよ」
そういって、宇佐美は“狼”の首もとをぽんぽんとたたいた。じっと見つめる大きな瞳に「なっ?」と微笑みかけると、その瞳は琥珀色に澄み、やがて淡く霞みだした。
「ウォォーン」という啼き声とともに、朧気になっていく輪郭線は、最後にうっすらと人型らしきものを形成し、宇佐美と有栖川の二人の頭に、直接響く声がした。
『……ありがとう。やっと覚醒められます』
「今のって……」
「……」
何もいないようになった草地を見つめ、二人は絶句した。
「…夢って、何人かの人間が共有できるものなのか?」
これが現実世界ではないことを断定しつつも、いつしか、二人は互いに相手が実在する人物であるということを無言のうちに認め合っていた。この世界に関するある一つの推論を思い浮かべ、有栖川は呟いた。
「“夢”って、その人間の深層心理の表れなんだよな? もし、この世界がオレ達やそれ以外の人間たちの夢からできてるとしたら……」
「それじゃ何か? 今まで会った変な化け物たちも全部、本当は人間だっていうのか? そんなばかな。誰がすき好んで一つ目の化け物になったりするんだ? 第一、俺は毎晩おんなじように寝てるけど、こんなとこに来たのは生まれて始めてだぞ?」
まるで話にならないといったように、宇佐美はひらひらと手を振って否定しようとするが、有栖川は退かなかった。
「だから、深層心理だっていってるだろ! なかには誰かの想像物もあるだろうけど、さっきのみたいに、他の人間が変身しちゃってる奴もあるんだよ。自分自身、気がつかないところで、何かここに来るきっかけがあったんだ」
宇佐美は有栖川のセリフを改めて考え直す。いわれてみれば、それでこの世界のおかしな出来事が納得できてくる。
「おまえって以外と賢かったんだな」
「“以外”は余計だ。こうみえてもオレは……あれ?」
「俺たちが元の世界に戻る鍵は、きっとそれだな。自分たちの記憶を取り戻す」
ニヤリと笑いかけ、その後ふと思いついたかのように、宇佐美は有栖川に尋ねた。
「なぁ、おまえって元々そういう姿なの?」
「はいぃ?」
「いや、だってほら、他の方々の例もありますしぃ……」
宇佐美の意図することにハタと気づくと、有栖川は怒声を上げた。
「バカ野郎! これは正真正銘、そのまんまのオレだ!」
二人がやっと元の世界に帰る糸口を掴みかけたと思ったころ、背後から軽やかな笑い声がした。
「やっと、ここまでたどり着いたみたいね」
いつの間に来たのか、振り向けば、例の少女が優雅に柵に腰掛け、小首を傾げている。
「あーっ!」
「あなた達って、本当いいコンビね。でも、どうせ漫才をするなら、ギャラリーのいるところの方がいいわよ?」
少女はフワリ飛び下りると、そのまま風に乗るかのように駆けだした。すっかり、その存在を忘れてしまっていたはずなのに、なぜか彼女の顔を見るなり、有栖川のなかで苛立ちの炎が再び燃え上がった。
気が付けば有栖川は既に走っていた。その後を遅れじと宇佐美が追いかける。
「くっそぉ! 超、むかつくやろうだぜ! “ここで会ったが百年目”だ、絶対とっつかまえて、教育的指導ほどこしてやる!」
有栖川の語気の荒さにぎょっとして、思わず宇佐美がその顔色を窺う。
「おまえ、ひょっとしてマジで怒ってない? そりゃ確かに、微笑ましい性格とはいえないけどさ。あんなお嬢ちゃん相手に、なにムキになってんだよ」
「知らん! でも、あいつ見てるとメチャクチャ腹たってくんだよ!」
二人が全速力疾走しているにもかかわらず、少女との間は何故か狭まらない。
「後もう少しってとこかしらね。本当に世話がやけるったら。クスクス、クスクス…」
少女は独り言のように呟いた。
時折こちらを振り向いては見せる嘲笑が、有栖川の神経を更に逆撫でする。
「きぃっ、なんで追いつけねーんだ?」
「あのさ、どうでもいいけど、あの顔どっかで見たような気がすんだよね」
「CMかなんかだろ!」
有栖川は少女を追いかけるのに必死で、まともに取り合おうともしない。
「いや、そんなんじゃなくて……」
……クスクスクス……!
どこで見たのか、その答えが宇佐美の脳裏に閃いた瞬間、二人は闇のなかへと飲み込まれていった。
actY THE TOWER
コツーン、コツーン。ひんやりとした空気のなか、自分一人の足音がやけに耳に響く。少女を追いかけて塔のなかに駆け込んだところまでは、確かに二人は一緒だった。しかし今は幾ら呼びかけてみても返事はなく、辺りに人がいる気配はまったく感じられない。
「どこいっちまったんだ、二人とも……。こんなに暗くちゃ、ほとんど何も見えんぞ」
有栖川は用心深く周囲を見回しながら、ゆっくりと足を進める。暗闇に目が慣れるに連れ、ぼんやりとした影となって内部の様子が浮かび上がってきた。中央はどうやら吹き抜けになっているらしい。
高い高い天井、がっしりとした岩壁。その壁には無数の扉がぽっかりと真っ黒な口を開け、いつ果てるとも分からぬ螺旋階段が、蔦のように幾重にも巻きついて、闇のなかへと続いている。
「ま、ここにいりゃ、あいつもそのうち出てくるだろ。こういうときって、下手に動かな いのが一番偉いんだよな」
……そうかしら?
“声”がした瞬間、有栖川の瞳は大きく見開かれた。今、立っていたはずの床が遙か下方へと遠ざかり、見下ろすばかりになっていたのである。
「……なっ、ここは確か一階……?」
辺りを確かめようと振り向けば、その度毎に足元からスゥッと光が扇状に走り、チェス盤のような白と黒の模様を闇に描きだしていく。気が付くと、有栖川は無限にも思えるモノクロームの空間に蕭然と佇んでいた。
更に、一歩踏み出して驚愕する。
「そんな…馬鹿な……! だって、オレ、前にいこうとしたのに……?」
何度試してみても、思った通りの方向に進まない。焦りと苛立ち、そして……。有栖川のなかをいい知れぬ恐怖が駆けめぐる。
……それで本当に進んでるつもり?
パアッ! 突如、眩い閃光に包まれたかと思うと、頭上には無数のクリスタルガラスが現れ、辺りはさながら万華鏡の世界と化した。
……クスクスクス…
闇のなか、少女の“声”がこだまする。
「うるさい! おまえが何かやってんだろ。宇佐美はどこにやったんだよ。さっさっと元に戻せよ!」
……いいわよ。ただし“元”がどこか分かるのならね
ぐっと喉を詰まらせたままの有栖川を無視して、少女は更に言葉を浴びせかける。
……さぁ、いってちょうだい。どこに戻りたいの? さぁ! クスクス…答えられるわけないわよね。だってアンタはあそこに戻りたいわけじゃないもの
「嘘をつくな! なんでおまえにそんなことが分かるんだよ。オレはちゃんと元の世界に 戻りたいって……」
……嘘つきはアンタの方よ。素直に認めなさい。元の世界になんて帰りたくないって。だからこそ、こうやってここにあたしがいるんだもの
「なんで、そんなこと…これはただの夢だろ? なんで…? …おまえ、誰だよ。おまえは一体誰なんだ?」
……まだ分からないの?“あなた”は知ってるはずよ。
だって、あたしは……
再び“そこ”に戻ってくると、宇佐美はいい加減、憤りを抑えきれなくなった。
「なんで、またここに帰ってくるんだよ!」
三度目の失敗に、地団駄を踏んで悔しがる。要は塔にいるのだから、最上階まで登っていけば必ず会えるだろうと、有栖川と離れてしまった後、螺旋階段をひたすら走っていたのだが、一向に到達しない。幾度も円を描いて、そろそろ最上階かと思った瞬間、元のスタート地点に戻ってしまっているわけである。
……本当にあそこにいきたいの?
「えっ?」
呟いた途端、宇佐美は眩い閃光に包まれ、次いでクリスタルガラスのひしめく闇のなかに立っていた。
『お前みたいに無闇に突っ走っても、何にもならないぞ』
どこからか、懐かしい声が響いてくる。あれは誰だったろう。万華鏡の鏡に映るように二人の顔が幾つも幾つも浮かんでいる。あれは……
『お前は隆とは違うんだ。あんな大学お前がいってどうする。嫁の貰い手がなくなるぞ』
『そうですよ。来年はいよいよ隆の就職活動で、色々と物入りだし…。どこか近くのいい短大にしときなさい』
(……オ父サン…、…オ母サン……?)
万華鏡の模様は次々に変わっていく。
宇佐美は、薫はクリスタルに向かって叫んだ。
actZ NOT RETERN
『そろそろ、どこにするか決めたか? 高校も父さんとこ行ったんだ、どうだ、大学も同じところを目指してみんか』
笑顔で語りかける父。その横から母が不満の声を漏らす。
『まぁ、あなた。それじゃ下宿しなきゃならないじゃないですか。仲忠は一人っ子なんですもの、四年間も離れて暮らすなんて、私、嫌だわ』
高校を選ぶときは楽だったと、有栖川はぼんやり思う。父も母も一つの名前しか口にしなかったし、別段、何も問題はなかったから。何も問題は……
『頼りにしてるからな、仲忠』
「……オレにどうしろっていうんだ?」
有栖川の呟きに、少女の“声”が問いかける。
……分かってるんでしょう?
「はっ! 何が分かるっていうんだよ? 全然、何にも分かりゃしないね。一体何のつもりだ? こんなもん見せて。オレはおまえなんかの相手してる暇……」
……“なんか”? 違うでしょう。あなたはあたしが羨ましくて仕方ないのよ。だって、あたしはあなたの理想そのものですものね。
「な…に? …おまえがオレの理想? 馬鹿いうなよ、何でオレが」
……あたしは“子供”よ。あなたのいう、暇で、無邪気に遊んでるだけで、何でも許される子供。それに……
シャラッ クリスタルの映像が変わる。
ざわついた休み時間の教室。テストの成績表を片手に、将来について甲高い声で騒ぎ合う女子たちの姿が眼に入る。
「なるほど。いいよな、女は。何だかんだいって、結婚しちまえば食わせてもらえるもんな。それに引き換え男って最悪。働くだけ働かされて、自分の女房と子供にその金巻き上げられ、文句いわれて……。女の方が、絶対、楽じゃん。男って何のために生きてんだろうな…」
誰にいうでもなく、有栖川は愚痴た。
……あれもしちゃ駄目、これもしちゃ駄目! 私が女だから?
……本当のあたしをみてくれないんだったら、結婚なんてしても仕様がないじゃない! 養ってもらう代償に、素直に従って、家庭に束縛されてるだけなら、あたし何のために今まで頑張ってきたの? 売値を上げるため? 私は自分の力を試したいの!
自分自身の力で生きていきたいのよ!
「えっ?」
有栖川はハッとした。いつのまにか、例の少女の“声”が変わっている。前のものより少し大人っぽくなった“声”が、有栖川ではない誰かに向かって叫んでいる。
……心配? お父さんたちが心配してるのは世間体、自分たちのことだけでしょ?
……いいよ。私が何をいったって、どうせお父さんたち反対するだけじゃない。ふたりともせいぜいお兄ちゃんをかわいがって、よく面倒をみてもらうといいわ。あたしはこの家を出たって自分のしたいことをする!
怒り・哀しみ・もどかしさ……。少女の感情が有栖川のなかに流れ込んでくる。
「家を出る…か。それもいいかも知れないな、できるヤツには」
有栖川の心は、少女の“孤独感”に締めつけられた。
「テレビか小説のなかだけの話みたいにしか思えないけど、実際、そうやって生きていってる人がいるんだよな。なかにはちゃんと成功してる人もいて……。それって才能とかもあるだろうけど、やっぱ、その人の“やりたい”っていう気持ちの強さなんじゃないかって気がする。…オレには絶対できないけど、そんだけ何かに賭けれるってすごいよな」
……お兄ちゃん?
どうしてお兄ちゃんがそんなこというの? 長男だもん、好きなことできるじゃない。お父さんやお母さんにだって、あんなに応援してもらって。期待されてるじゃない!
「その期待が重たいんだよ! 長男だから、一人っ子だから。金だって色々懸けてくれてるよ。でも、その分怖いんだよ! 失敗しやしないか、父さんたちを失望させやしないかって………」
「羨ましいよ。オレは自分が何をしたいのかさえわからない」
……あなた、誰? この“声”は誰なの?
万華鏡はもはや何も映さない。見つめているのは、ただ自分独り……
誰にきかせるでもなく、彼は言葉を紡いでいく。細い細い、銀の糸。途切れ途切れになりながら、それでも、必死に何かを見つけ出そうとするかのように……
「…小さいころは何の心配もなかった。困ったら、必ず誰かの声がして、オレを助けてくれる。それが当たり前のことだった…。でも、いつからだろう、その声がきこえなくなって……違う、声はしてるんだ。だけどオレには届かない。オレが聴けなくなってたんだ。ただいわれた通りに生きるのが嫌になって……それでも…自分で選ぶだけの勇気もなくて……」
…そう、オレは怖かったんだ。
どうにかしなきゃと、焦れば焦るほど、まるで自分ひとりが世界から取り残されたような気持ちになって……。有栖川はいつ知れず泣いていた。
その雫に呼応するかのように、万華鏡の世界はサラサラと砂のよう崩れていく。キラキラと反射する光の粒の向こう側には、鏡のように、赤ら顔の“少女”が立っていた。
はじめて見る少女。一瞬驚いたものの、やがて有栖川はゆっくりと彼女に微笑みかけた。くすっと、軽く首をかしげながら。
「どうして、あれだけあのガキんちょのことが癇に触ったのか、やっと分かったよ」
「…あたし達と違って、あんたはああいう形で願望が現れていたんだね。我儘そうなとこなんてそっくり。あんた、小さいころはさぞかし美少年だったんでしょう」
「今でも十分そうだと思うけど?」
「しょってる!」
有栖川はまじまじと少女の姿を眺め、次いで破顔した。
「ご尤もで……宇佐美せんせ。なんか、いきなり女言葉つかわれると気持ち悪ぃ!」
「ひっどーい!」
二人は声を上げて大笑いした。
……そう、あれはオレ。自分が嫌になって、統べてが嫌になって逃げだしながら、解放されるときを待ちつづけてた自分自身の姿……
「あたし、後先考えずいつも突っ走ってた。何かがしたくて、認めて欲しくて。本当にいきたいわけでもないくせに、わざわざお兄ちゃんと張り合って、同じ大学受けようとしたりね。…でも、違うね。周りも良く見ずに、ただ突っ走ってるだけじゃ、全然進んでなかった」
薫は少し照れながらも、そういうと、ふいに顔を上げて真っ直ぐに有栖川の瞳を見つめた。
「あたしね、あんたのお陰で、やっと自分が本当に何をしたいのか分かった」
「オレの? そんな、オレは何も…」
うろたえる有栖川を見て薫はくすくす笑いだすと、ゆっくりと首を振りながらいった。
「声がしたのよ。その人の“やりたい”っていう気持ちの強さ次第なんだって。正直いって、あたし一つのことに対して、今までそんなに強い思いなんて持ったこと無かったから、“羨ましい”なんていわれて焦っちゃったのよね。だって“やりたいこと”とかいって手当たり次第にいろんことしてきたけど、口ばっかりで、実際にはそんな深い情熱なんてもの、全然なかったんだもの。すごく悩んじゃったわ」
それとこれと、どういう関係があるのかいま一つ分からないといった様子の有栖川に、薫はにっこりと笑いかける。
「そのときに、ぱっと閃いたの。“獣医になりたい”って。他のことはどちらかというとお兄ちゃんに対する対抗心みたいなものからだったけど…ばかよね、お兄ちゃんにだって悩みはあるのに。これだけは別よ。あたし、本当に動物たちが好きなの。獣医になるには、動物を傷つけたりもしなきゃならないけど…でも、いつか大勢の動物たちの命を救えるようになるんだものね」
「なれるよ、おまえなら」
有栖川は力強く微笑み返した。
「…オレは結局、今まで何一つ自分で選んじゃいなかった。いつも、周りのせいにして。逃げてたんだ。お前のいうとおりだよ、そんなのただの我儘だ。誰だってそれなりに悩みや苦しみ抱えてるのにな。おまえみたいに、はっきりとした夢をいえないのが情けないけど、でも、帰ったらじっくり考えるよ。本当に自分がしたいこと」
もう、恐れたりはしない。焦りや孤独に苛まれてるのは自分一人じゃないから。ゆっくりと考えよう。色々な人のこと、自分自身のこと。目をそらさず、じっくりと。
闇は消え、二人は真っ白な空間に立っていた。綻びたTシャツ、薄汚れたジーンズ。また嫌になるかも知れない、逃げだしたくなるかも知れない。でも、今なら……
「いこうぜ!」
「うん!」
薄れていく意識のなか、有栖川の耳に何処からか唄がきこえてくる。
……ちょいさ choiceで ほほいの ホイッ!
ガラス
羽世田 雅子
どうしてこんなに人が多いのだろう。そう思いながら僕は十月の夜の道を歩いていた。この道は駅まで五分とかからない。けれど、すれ違うといっても普段は会社帰りの人達ばかりであったような気がする。どうも今日は様子が違うようだ。コンビニの明かりの前では七、八人の柄の悪い中学生がたむろしている。彼らは大声で何か叫んだりさまにならないのに煙草なんかふかしている。以前はこんなことなんてなかった。たった二ヵ月の間にこうも変ってしまうものなのだろうか。よりによってこんなに冷えこんで来る時期に、物好きなものだ。
欠けた月が光り始めている。その不完全な形は、まるで僕の記憶の形に似ていた。眩しい車のライトをよけながら独り歩き、また僕は途切れた記憶の切れ端を捜した。
突然ひんやりとした風が吹いて来た。それは僕の耳に太鼓と笛の音を届けた。祭ばやしのようだ。そして僕はやっと、あちらの柱にもこちらのフェンスにも、秋祭のちらしが貼られているのに気が付いた。
祭はいつも素道りしていた神社でやっているらしく、角を曲がるとかなりの人の波が出来ていた。そして行列はこんもりと木に覆われている神社へと続いているのだった。ヨーヨーやわた菓子を抱えて騒いでいる子ども達がいる。赤ぢょうちんの光りのせいなのか普段は薄暗く、シーンとしていた鳥居の中が、今日は独特の熱気に包まれているように見える。そして醤油の焼ける香ばしいにおいが漂って来ると、すでに僕の足は祭の中へと向かっていた。
本当に不思議なものだと思う。いくら年を重ねても、遠ざかっていても、そして記憶喪失のブランクがあっても、祭ばやし耳にすると僕の心は子どもの頃と同じようにうずきだしてしまうからだ。日本人だなぁと僕が実感するのはこんな時でもあった。普段はテレビや写真の中の外国の風景に憧れるし、この狭苦しい日本を憂うことだってある。けれど知らず知らずのうちに体に浸透していた伝統というものは拒めない。例えば祭がそれで、何だか懐かしい日本固有の文化がそこには流れているように思える。京都の町並みもいい。古い寺もいい。だが僕は何よりも一番祭を日本的であると感じる。
だからこそ僕はその雰囲気をまるごと絵にしてみたいと思う。だが、僕にこんな躍動的なものなどかけるはずもなかった。自分自身がその中に飲み込まれてしまっているのだから。こういった絵を得意とする人は、彼女であった……
人に押されながらいくつもの店の前を通り過ぎた。明るくてキラキラした店にはガラス細工や色とりどりの飴などが並べられていた。そして昔愛していた彼女の横顔を、僕はぼんやりと思い浮かべてみる。きつく閉じた口元には彼女の気の強さが表れていたし、見据えた目にはいつも何をも見逃すまいという鋭い光があった。そして白い指……
彼女は得に動いたり変化し続けたりするものをとらえるのがうまかった。彼女の絵の中には命が流れていた。色が音を、線が熱を放ち、見る者を圧倒した。僕は実物よりもずっと本物らしい姿をその絵の中に感じていた。また、その彼女のかきっぷりもすごかった。目に映るものをかきつくす時の勢いと、そこに存在する姿よりももっとふさわしい、あるべき形を追求してやろうという意気込みは誰にも真似できないと思う。だから彼女に描かれたものたちは、すべての拘束から解き放たれた喜びに満ちあふれているように見えた。僕の絵とは対照的であった。
そんな彼女にこの祭をかかせたなら、きっと僕が想像もつかないような作品をつくりだすに違いない。祭には人を興じさせるからくりがある。それをも見透かしてしまうのだろう。僕が思うに、それは夜の闇を照らす店のライトであり、甘さと香ばしさの混じった空気であり、威勢の良い呼び込みである。一時屋台の食べ物にひかれていたこともあった。しかし、店でアルバイトをしてからはそれもなくなった。裏方を経験した僕はそのからくりのひどさに気付いて、目まいをおこしそうになったことがあるのだ。
例えばお好み焼きだった。その“たね”の中に虫が落ちてしまったことがある。潔癖性の僕は当然それを流して捨ててしまうつもりであった。だが虫を取り出した後、当然の如くたねは鉄板の上で焼かれていった。
「熱を通せば大丈夫」
それで終わりだ。次々と焼かれていくのを見ているうちに気分が悪くなった。仕方なしに、僕はフランクフルトの店のアルバイトの子に交代してくれるように頼む。だがそこでもショッキングな事実を知ることとなった。
「それを焼いておいて」
指をさされた先にはすでに焦げ目のついたフランクフルトが盛られていた。
「まだ焼くのか。もうこんなに黒いのに」
不思議に思って尋ねてみると、それは前の日に焼いたものの残りであるという。またもや、熱を通せばいいというのであろう。僕は二度と夜店で食べ物を買うまいと心に誓ったのであった。
だがそれでも僕は祭を愛していた。祭はすべてに見捨てられた僕を優しく包み込んでくれるからだ。騒がしい人の波にもまれているのも何故だか心地良いものであった。僕をつまはじきにする街の人ごみとは違う。そして今日も祭は一時の安らぎを僕に与えてくれていた。
神社の隅のベンチに腰掛けて僕は彼女と初めて話した時のことを思う。憧れていた彼女にしてやられた時のことだ。
「何かね、私、ただそのものをかくっていうのが得意じゃないんだけど」
最初に声をかけてきたのは彼女であった。僕はその時、あまりの唐突さにドギマギしていたに違いない。
「あなたは、でも、そこにあるものを忠実に絵にするのが得意よね」
僕はほめられているのかどうなのか理解できずにいた。なぜなら真面目だとか地道だとか言われることを好まなかったからだ。だが、そんなことはおかまいなしに彼女はしゃべり続けた。悪びれた様子もない。
「私って、デッサンはうまいけれど色を塗るとどうしてそんなふうになるんだって、よく人から言われるの。もったいないから絵の具塗るな、なんて」
「ふうん」
僕は自分で自分のデッサンをほめる彼女のことをあつかましい奴だと内心思い始めていた。
「でも、私は自分が感じた通りの色を塗っているのよ」彼女はしゃべり続けた。
「それならいいんじゃないの」
ちょっと彼女に興ざめした僕は適当な返事をしておいた。なぜ僕にそんなことを言いに来る必要があるのだ。だが彼女はひつこく食い下がってきた。
「そうなんだけどね、さっきも先生に言われたの。基本的な練習もしないでお前は好きなことばかりしていて、将来絶対に伸び悩むって。あなたもそう思うから、そうやって忠実な絵をかき続けているんでしょ。やっぱり必要なのよね」
それは僕にはあまりにもひどい言葉であった。僕にも僕なりのやり方とプライドがあるというのに、今かいている絵は通過点にすぎないと言うのか。
「そんなのは人それぞれなんじゃないの」
そう僕はぶっきらぼうに答えた。彼女はまだよく分からないという顔をしていた。しかし僕はかなり腹が立ったので、忙しいから構わないで欲しいというオーラを出して自分の絵に向かった。
だが彼女の言うことは正しかったのだ。うるさい彼女が去って一人になった後、僕の絵は命を失った灰色の塊のように冷たくなっていた。そして同時に僕の手も、はたと動かなくなっていた。
家に帰ってからも僕は筆を手に絵と向き合っていた。
「何だってんだ。失礼な奴だ」僕は焦る気持ちを振り払うために大声を出してみた。
しかしそうは言ってみたものの後が続かなかった。猫が餌をくれとすり寄って来ても、新聞屋が集金にやって来ても、僕はじっと動かずに考え込まなければならなかった。
(一体僕は何が書きたいのだろう……。)
だがこんな時に限って、何一つとして浮かんでは来なかった。
(じゃあ、今までで一番かきたかったものって何だったろう……。)
それはいつかテレビで見たことのあるイタリアの小さな海辺の町並みったであった。白い石畳の坂道を上りきると町全体が見下ろせる場所に出る。太陽のオレンジ色に輝くあまたの屋根と、丸くて青い水平線。潮風をうけて飛ぶカモメも見える。海には漁船がいくつも浮かんでいて…………
だが僕の手を離れた絵の具達はどいつもこいつも決してキャンバスの布と一体化しようとはしなかった。いつまでたっても絵の具は油臭いにおいを発し、ゴツゴツとした表面のキャンバスは意地の悪いむき出しのコンクリートのようであった。恐ろしくなって僕は絵を伏せた。
ジッ ジッ ジッ ジッ ジッ …………
壁の時計の音がその夜はやけに大きく聞こえるような気がした。一体何がどうしたって言うんだ。何故かけないんだ。そんなことは生まれて初めての経験であった。僕に限って、たった一つの絵すらかくことが、できないなんて……
「あいつのせいだよ。あいつがあんなことをいうから振り回されているんだ」
どこからか声が聞こえてきた、そんな気がした。
「地味な絵だなんて言いやがった。とんでもない奴だ」
「ほんと、大それたこというよな。この芸術家に」
「その、芸術家って何だか皮肉に聞こえるよな」
「じゃあ秀才肌とでもしておこうか」
クスクスクスと、笑い声は戸棚から聞こえてくるようであった。話し声はまだ続いた。
「だけど絵がかけないとなると困るよな。他にどんなとりえがあるって言うんだ」
「ない。何もない。全くない」
「趣味といえば、蝶の標本をコレクションすることくらいだからな」
「いや、まだある。熱帯魚も集めていた」
僕がバーンと戸棚を開けてみると声は途切れた。そこには昔、絵画コンクールで賞をもらった時の絵と賞状が納まっていた。
その日は朝早く教室に入って、彼女の絵をのぞきに行くことにした。どんなものをかいているのかこの目で見てやりたかったのだ。そうでもしないと落ち着かなかった。つまらない暗示にかかって自分の絵がかけないでいる、この状態を早く脱出しなければ……。そう思って彼女のキャンバスにかかっている布をそっとめくった。そして僕は本物の絵に出会ってしまったのだった。確かに多少の粗雑さはあるのだけれど、そんなものはじき飛ばしてしまう程の勢いと迫力があった。間違いなく彼女は素晴らしい才能を持っている。そう認めざるを得なかった。彼女は、その才能を有効に引き出す手段として、テクニックをもう少し身に付けるべきではあると思った。そうすればもっと伸びるに違いない。
どうしても一言口をはさみたくなって、その日の昼休みに僕は絵に向かう彼女のそばへ行った。彼女はしかめっつらをしながら、その白くてきゃしゃな手でキャンバスに絵の具を塗りたくっているところであった。
「ちょっといいかな」
僕が声を掛けると、彼女はその綺麗な目を憂欝そうにこちらに向けた。
「なにかしら」
「あのさ、その絵すごくいいと思うけど、ちょっと抑揚つけすぎなんじゃないかな」
僕は気を悪くしないように軽く言ってみた。
「抑揚をつけすぎってどういう意味なの。よく分からないわ」彼女はそう言うとため息をついた。
「こんなふうに丁寧に筆をおいていった方がいい。ちょっと寝かせぎみにして」
僕は実際に筆を取って動かせて見せた。するとじっと見ていた彼女はパッと顔を明るくし、僕から筆をもぎ取った。
「分かったわ。こうでしょ、こうでしょ。ちょっと見ていてね」
そう言ってまたたく間に絵に手を加えていった。そして見違える程良くなっていく絵を見て満足そうに頷くと、彼女は僕に微笑んだ。
「また教えてね。良かったわ、あなたが来てくれて。本当に有難う」
僕は彼女を素直な子だなぁと思った。今でもその時の笑顔を忘れることが出来ない。
それから僕らは度々話をするようになった。僕は自分の持っている知識を少しづつ見せてやり、その度毎に彼女は感心をしてくれるのであった。美術館に何度も足を運び、たくさんの絵を見て回ったりもした。また彼女の家まで行って絵の手ほどきをすることもしばしばであった。そして二人はごく自然に、恋人となっていった。
その半年で彼女はメキメキと腕を上げる。そしてそれは当然の成り行きであったように思う。もともと優れた感性を持っていたのだから、その内なるものを外に出して行く手段を身に付ければ強い。彼女はどんどんと強くなっていった。だが一方の僕は立ち止まったままであった。それどころか彼女が輝けばその分、僕は色褪せていった。自分のスタイルをまったく見失ってしまい、僕はどんどん落ち込んでいった。
ある日僕らは海にいた。その年初めての夏の日であった。ハレーションでも起こしてしまいそうな太陽が頭上に止まっていた。
「これじゃあ波が高すぎて入れないね」
「そうね。こんなに綺麗な水なのにくやしいわ」
僕も海を前に泳げないでいるのが本当に残念でならなかった。しばらくの間、波の大きな音と強い風の中で僕らは海に向かって佇んでいた。目をみはる程澄んだコバルトブルーの海。それが太陽の光を吸い込んでうねっている。時折雲の影が黒っぽいしみを水面に落としていくだけだ。小さな蟹が何匹も走り抜ける浜辺にしゃがんで、彼女はまたスケッチを始めた。手持ち無沙汰になった僕は、彼女の白くて細い腕を見つめていた。とても綺麗だった。そんな彼女から荒々しい海の絵が生まれて来る、その不思議さについてぼんやりと考えていた。その時の僕にはもう、彼女に伝えるべきことがほとんど残されてはいなかった。
「人のことばかり見ていないで自分でもかいたらいいのに」ふいに彼女は言った。
「うん。いいよ。今そんな気分じゃないし」僕は口癖のようになった言葉を返した。
すると彼女がクルッとこちらを向いた。彼女の顔は少し紅潮していた。
「気分、気分って……。あなた最近ずっとじゃないの」
「そうかなぁ。うーん……」
「うーんって、どう考えてもそうじゃないのよ。あなたの気分って何なの、一体。私が何か一緒にかこうって言ったっていつもその調子じゃないの」
いつになく彼女の語調は強かった。
「だけど……」
「だってね……。これ以上の画材がある? こんなに、こんなに、綺麗な海なのよ。どうして?」
「どうしてって……。だから何て言うか、こういう動いてるものって苦手なんだよ。それに今日は久しぶりに仕事が休みだったし」
彼女はそんな僕の言葉に大きくため息をついた。
「まぁね、そうよ。そうだけど。でも私、あなたが一生懸命に絵をかいているところを見るのが好きなのよ」
「分かったよ」
僕は仕方なしに落ちていた貝殻を拾ってスケッチを始めた。風化してかつての輝きをなくしてしまった穴だらけの貝だ。それは内側にだけ微かなパールの光を残していた。
動くものをかくことが苦手だというのは本当だった。苦手というよりもかけなくなっていったという方が正しい。彼女と初めて言葉を交わしたあの時からだった。次第に動くものを、そして生きているものを絵にすることが出来なくなっていった。何をかいてもうまくいかず、かきたいという気さえ起こらない。その時の僕は、ただあるがままのものを機械的に模写するだけであった。もし被写体が一センチでも、一ミリでもずれたなら無性に腹がたって仕方ない。許しがたい怒りがわいて来るのだ。だから僕の作品はいつも難産で、生み落とす度に僕の神経はすり減っていった。
しばらくして、僕は曖昧な形で彼女と別れた。不思議と気まずさはなかった。自然の成り行きだという諦めがどこかにあったからかもしれない。その時の僕の中には、二人の僕が住んでいたように思う。一人はこう言う。
(もっと話をしたかった。絵を介さずに、彼女本人と向き合いたかった……。)
だが、もう一人の僕が言う。
(彼女は元々こっちを見ちゃいなかった。僕は絵をかくためのパートナーにすぎなかったんだ。だからかえって清々したじゃないか。)
正直なところ、苦しみから解放されたという気持ちもあった。僕は自分を出す方ではないから彼女がそれを知るはずもないけれど、いつも良くも悪くも彼女を想いすぎたのがつらかった。彼女を愛していた。だがその裏で、僕を見てはいないその瞳を恨んでいた。しかし絵を介さずに彼女が僕を好きになるなんてことはなかったことを僕は知っている。
出会わなければあのまま僕は絵をかき続けられたかもしれないとも思う。だが彼女の絵に出会えたそのことは何にも代えがたい。どちらにしろ、いずれ来る別れを恐れて、ただ僕がそれを早めただけだった。隠れんぼをしていた子供の頃を思い出す。鬼に見つけられるプレッシャーに耐え切れずに自分から飛び出していったものであった。
それからも僕は僕のやり方で絵をかいていった。時間の止まった部屋に独りこもって、ずっとかきつづけた。生きていないものをモデルに決めこむと、物の絵ばかりになってしまった。偏るのも良くないから、虫の標本をモデルにした。それにも飽きて、飼っていた熱帯魚や猫にも悪いけれどモデルになってもらった……
今日はどうして昔のことばかり思い出すのだろう。彼女とのことはもう終ったんだ。彼女は僕をおいて消えてしまったんだ。僕は苦笑いをする。心の奥に何かがつまっている様で、ちょっと苦しかった。顔を上げると人もまばらで、店をたたむ準備が始まっていた。秋祭りも終わりだ。サービスすると言っては、もう食えたものじゃない黒いトウモロコシを売りさばこうとしているところもあった。相変わらずだ。
僕は立ち上がってもと来た道を戻り始めた。りんご飴、輪投げ、わた菓子、銀なん細工にベビーカステラ……。ひしめき合う中に一つ心引かれる店を見つけたので、僕はぶらっと立ち寄ってみた。ガラス細工の店だ。得に何が欲しいわけでもないから、僕は店のおじさんに適当に袋いっぱいに詰めてくれるように言った。僕は気分で、どうでもいい物を衝動買いする癖がある。
「お子さんに、お土産なのかな」
思ってもいない売り上げにおじさんの声も弾んでいる。それにしても僕はもうそんな歳に見えるのだろうか。
「子供がいるように見えるかい。このなりで」
僕は笑った。不精髭のせいなのかな。最近面倒で生えっぱなしにしている髭を撫でた。
「いや、いや、こりゃ失礼。兄ちゃん、よく見たらまだ若かったなぁ。いや、気前良く買ってくれるから」
そう言って笑うと、おじさんは僕の顔をじっと見た。
「あれ。もしかして夏祭りにも、おっちゃんの店に来てくれた兄ちゃんか?」
「夏祭り?」
僕のその頃の記憶はあやふやだった。彼女と別れて一人不安定になっていた時期だからだ。ほとんど家に閉じこもって、狂ったように絵をかき続けていたはずだ。その僕が祭にやって来て、ガラス細工を買って帰った?
「それは本当に? 僕がこの店で?」
そう言う僕に、おじさんはけげんそうな顔をした。
「本当にって……。覚えていないのかい? まったく、こっちの予想もしないことばかり言うなぁ。適当に袋詰めしてくれだとかなぁ。前に買ってくれた時もそう言ってたじゃないか。そんなお客は他にはいないからね。だから顔を覚えてたんだ」
僕は黙って袋を受け取った。ずっしりとした重みを感じた。
「何だったか……彼女にプレゼントするとか何とか言ってたんじゃなかったかな?」
「彼女?」おじさんの言葉に僕は思わず聞き返した。
彼女だなんて、僕は別れてから一度も会っていないはずなのに……。本当に寝耳に水の話であった。それは確かなのだろうか。僕は全く思い出せないでいた。
するとまだ何か言いたげなおじさんの言葉を遮るように、突然祭ばやしが耳を突いた。先程とはうって変わった様な、激しい調子だ。境内の前で繰り広げられている。
「あれは?」
僕の声が聞こえるように、大声でおじさんに尋ねた。
「祭の“しめ”だよ。この神社特有の」
腹の底を叩く太鼓の音と、頭の周りをグルグルとまとわり着く笛の音色。なぜだろう。この祭ばやしを聞いていても、いつもの様に嬉しくなれない。それどころか、圧迫感を感じて仕方がない。これは人を呼び寄せるための祭ばやしではないからだろうか。僕はまた自分が少しづつ狂い始めていくのが分かった。
(僕が夏祭りに彼女と出会っていた? 僕の前から消え去ってしまったはずの彼女。それがどうして……。僕は、もう会えないからこそこの心を、今まで押し殺して来たのに。愛想を尽かして僕の前から消えたはずの彼女なのに。一体どういうことなんだ)
祭の“しめ”……。僕は息苦しさの中で、そんなおじさんの言葉を何度も繰り返した。その音とそのリズムは、祭のからくりによってもたらされた熱気、幻想、混沌とした空気、そして狂わされた時間、全てを飲み込んでいった。祭が終わる。そして再び僕を孤独の世界へ引き戻す瞬間に、祭ばやしがかい間見せたものがあった。
(夏祭りだ……。)
あの日もはやしの音に誘われてここにいた。もう何もかけず、何も見えずにたった独りでいた僕は、祭の人ごみに紛れていた。毒々しいリンゴ飴がいくつも光っていて、ガリガリとかき氷を削る音がしていた。流れに身を任せた僕は境内に向かっていた。そして、ぼんやりとした意識の中で、とても暖かく心引かれるものを偶然目にした。ガラス細工を選んでいる、その白くてしなやかな指先。彼女だ。藍の浴衣の袖。手に取られたいくつものキラキラしたガラス細工。
僕は自分がかきたいものに遂に出会えた喜びに、心が震えた。苦しみながら探し続けていたものが実はこんなに近くにあったなんて……。だが、そんな苦労なんてもうどうでもいい。今、出会えた。これで全てが元どおりうまくいくんだ。楽になれるんだ。僕はゆっくり彼女に近づいていった。
「絵のモデルをしてくれないか?」
そしてあの日の僕は……
閉じ込められていた記憶のおしまいは家のクローゼットの奥につながっていた。僕は布にくるまれたキャンバスを取出し、そっとのぞいた。そこにはおびただしい数のきらめくガラス細工と、ガラスよりもずっとずっと透き通った、愛しい彼女の手が美しく輝いていた。
意見
伊藤 恵
「松岡も〜人生棒に振りかかっとるなぁ〜」
前田のつぶやきに山本が答えた。
「ハーフスイング、いや大リーグの審判ならアウトだな。人生ゲーム・セットだ」
「しかし松岡の作品見るのも十年ぶりやけど……これは絵か?」
前田はその「絵」らしきものを苦渋の表情で見つめながら言った。
「たぶん本人はそのつもりだろうけど……」山本は答えた。「二十年かかってこれじゃーなぁー」
その日は松岡の人生二度目の展覧会だった。
そこで芸大の同級生だった前田と山本のところにも招待状が届き、暇つぶしにやって来たのだった。
「これじゃ買う人おれへんやろなぁ〜」回りにある作品をサッと観ながら前田はいった。
「『反逆する物体』…何だこれは?」山本の目が点になった。
それは二人の目の前にある、ただただ巨大なだけの何とも表現できない絵の題名であった。
「わけわからんわ。こんなもん創ッとたらアイツも生活苦しいやろなぁ」
「バイトして喰いつないでるらしいよ」
「へ〜」
山本は松岡にたまに会っていたので事情は知っていた。
「アイツさー、このままってわけにはいかんだろう」
「しかし松岡の奴どないすんのかな〜」前田は心配そうにいった。
「よかった、オレ松岡じゃなくって」山本は皮肉った。
「なんちゅーこというねん!」前田は少し声を荒げた。「なんと無責任なこというとんねん。オマエちょっとは責任感じろやっ。オマエ昔松岡になんちゅーてん。末はピカソかゴーギャンかだとッ?」前田は山本に詰め寄った。
「ハハッ、あれは卒業式の飲み会でグテングテンに酔っぱらってるときな」山本はバツが悪そうに答えた。
「オマエだぞ、それより!」こんどは山本が詰め寄った。
「なにがー?」
「オマエ松岡に『持続は才能だ』って。………持続して、持続して ……こんなになちゃったよ」山本は、作品を見つめながら哀愁をおびた声でそういった。
「オレ『持続は才能だ』なんていうてないぞ」
「言ったよ」
「ジ・ゾ・ク・『も』や」
「あーコトバ変えてやんの」
「変えてないわ、『も』や」
「『は』だ」
「『も』や!」
「『は』だ!」
「『もー』!」
「『はー』!」
「『もー』!」
「『はー』!」
「オマエは、子どもか〜!」前田は大声でいった。
「『もー』やったって」
「『はー』!」
…………………………………………………
しばしの沈黙の後、前田が口を開いた。
「そやけどここまできたら『持続』ちゅーか『地獄』の才能やなー」
二人は顔を見あわせて笑った。
「まーしかし、今日はアイツにはっきり言ってやろうや。四十過ぎていつまでもこんなことしてるわけにはいかんやろ。オレらのつてで一応就職できそうなとこもあるし。人並みとはいかんやろけど、喰うぐらいのことはなんとかできるやろ。まあ友達のオレらが、アイツに引導渡すのが一番やて」前田は作品を見歩きながらそう言った。
「オマエいえよ…才能ないって」山本は困惑の表情を浮かべた。
前田は山本の方を振り返った。「キミはどーして責任逃れするかなぁー」
「オレだってキチンというよ」山本の目がマジになった。「オマエは…才能……ない…かもしれないって。マアマア、オレがいうと言葉柔らかくなちゃうかもしれないけど」
前田は山本に詰め寄った。「言葉が柔らかいぶんだけなぁ、相手に対して冷たいちゅーことや」
………………………
しばしの沈黙の後山本が口を開いた。
「しかしー今からでも間にあうかな〜?」
「いやー大丈夫やろ。アイツもそんなにアホと違うで」
「手遅れでなきゃいいんだけどなー」
そこへ廊下の向こうから「ウエール! ウエール! ウエール!」という大声とともに現れた。松岡だ。
茶色の太いコールテンの上下。ブローチに紐をつけたようなネクタイにベレー帽。どう見ても画家というよりは、中学の美術の先生といったいでたちだ。かなりイケてない。
「ヨウ、魂を売った人々よ。ようこそ 」大げさに右手を上げ松岡は挨拶した。
「どうだ十年かけて創ったオレの作品郡は? まずは全体的な感想から聞かせてもらおうかな?」
二人はしばし絶句した。そして山本が口を開いた。
「ぜっ、全体的には…………とっ、とてもー…いいよ」
前田は山本の顔を刺すような眼差しで見た。
「そうだろう、そうだろう。前田、オマエはどうだ?」松岡はニコニコして彼を見た。
前田はうわずった声で「うっ、う〜ん。感動という…言葉は…このためにあるんかなぁ〜。ハッ、ハハハハハッ」と答えた。
こんどは、山本が前田をにらんだ。
「そーだろう。マッ、金銭的にはオマエたちの方が恵まれているが、気持ちはオレの方がリッチだからなっ」
松岡は続けた。
「 しかし、情けないよなぁ。あのころいっしょにアートを志したのに、前田は広告代理店、山本は出版社勤めだもんなー」
二人は少しばつが悪そうに視線をそらした。
「まあそんなことどうでもいいじゃないか。今日は人生の真理について語り合わんか? ムフフフフッ」松岡はどんなもんだといわんばかりに、作品のほうへ両手を広げた。
「いやっ、人生の真理はエエけど松岡。その帽子とったらどうや?」
前田が言うように、そのベレー帽が松岡の貧乏くささを引き立てていた。
「ムフフッ、やっぱりな」松岡はいった。
「なんや、やっぱりて?」
「忘れているとおもったよ。この帽子はな、オレが画家になるときオマエが買ってくれたんだよん〜〜懐かしいなぁー」松岡は遠くを見つめた。「オレも何度か筆を折ろうと思ったこともあるよ。そしてある日就職の面接を受けようと玄関で靴を履こうとしたら、フッと前田のベレー帽が目に入って『ハッ! 前田がいってたっけ。持続は力だって……』」 「やっぱり『は』だよ」山本は前田にいった。
「そのおかげで今までやりとおしてこれた、いやー懐かしーなー………わかるかい山本?」
そういって松岡は山本を指さした。
「イヤ、ぜんぜんわからない」
「あー山本は昔からデリカシーがなかったよ。マッ、その点前田は違う」
前田は眉間にしわを寄せた。
「オレ〜、あの時『は』っていうたか? 継続『も』っていわんかったか?」
「エッ? 『も』っていったの?」
「確かにおれは『も』っていうたで。オレ覚えてるもん」
「なんだ、聞き違えたの? あーよかった『も』って聞いてたらいまごろ筆折ってるもん。アッ聞き間違えたオレって、ラッキー」
前田と山本は顔を見合わせた。
「前田、オレのこの心遣いに涙のひとつもみせたらどうだ?」
前田はどうしていいか分からず、松岡にただ微笑みかけた。
「ほんとどうしようもない奴だな前田はな」
今度は調子に乗ってそんなことをいう山本をにらみつけた。
「マイッタなぁー。ハッハッハッハッハッ」
苦笑いをする前田につられて他の二人も意味なく笑った。
「まっいいかっ、とにかくオレはこの展覧会に賭けてる。今日はオマエたちの素直な感想がききたいなっ。ほらあんまり親しくないと、露骨な批判をしてくれないだろう? オレとしちゃー自信があるんだがー、ここは客観的な意見を聞きたいな」松岡は“パンッ”と手を打ち「というわけでお二人には具体的な意見をおききしたいな。どうだ? ん?」 二人は腕を組んだまま固まってしまった。
そこへ受け付けの者が松岡を呼びに来た。
「あっそう、ちょっと待っててね」そういうと彼は奥へ消えた。
「なんか頭の芯が痛くなってきたわ」前田はそういいつつ延髄のあたりをトントンと叩いた。
「助かったなっ」山本も深呼吸をした。「それよりオマエ。くだらないことするなよ」
「なにが?」前田は冷静にいった。
「あの帽子だよ!」
二人は顔を見合わせた。
「はははははははっ!」豪快な笑い声が響いた。
「イヤイヤイヤ、全く記憶にないわ」
「全く記憶がないってオマエ無責任なヤツだなー。人ひとりの人生変えてんだよ」
「そんな大袈裟な〜」
「じゃー現実をみてみろよ」山本はまわりの作品を指さした。
しかし前田は今現在重要なことを考えていた。
「それよりどーするんや?」
「なにを?」
「アイツはこの絵を見ての具体的な感想っていってたんやぞッ!」前田は腰に手を当てて興奮気味にまくしたてた。「この絵観てオマエなんてゆーんや?」
「前田ッ………おまえもたいへんだな〜」
「どうしてオレにふるんねん! 一緒に考えようや、いっしょに」
山本は一瞬間をおき、芝居じみた口調で語りだした。
「前田……オマエがアイツに帽子をかぶせたんだから……オマエが脱がしてやれよ……恥ずかしいっ!…」山本は両手で顔を覆った。
「自分でいって自分で恥ずかしがるなよ!」
前田は正面のドデカイ絵を眺めながら腕組みして考えた。
「しかしなぁー、松岡の人生は松岡の人生やからなぁー」
「そうだろう。死ぬまで責任もてないだろ」
「ああ」前田は納得した口調で答えた。
山本は後ろに手を組み、ツカツカと前田に近づいた。
「だからぁ、正直に感想を言えばいいんだよ」
「正直にって、この絵観て正直に感想いうのか? オマエそれ…」と前田がいいかけたところで松岡の声がした。
「またせたねぇ」松岡は気取りながら言った。
「なかなかこの展覧会評判がよくってさー。問い合わせの電話だとかいろいろあるんだよ」
「よかったやないか」
前田がそういうと、松岡は照れくさそうに頭をいた。
「マッ、あんまりマスコミに踊らされてもなッ。それでダメになった奴いっぱいいるからな」
すると不思議そーな目をして山本はいった。
「オマエも少しは踊ったらどうだ?」
「なんだって?」
そういうと松岡はいきなり山本の頭を腕で抱え込みヘッド・ロックをかけた。
「なんだって? なんだって?」
「イテテ、イテテ!」
「どうだ! どうだ! どうだ!」
「イテテテテッ、はなしてくれ!」
松岡は山本をはなしてやった。「どうだ、なつかしいだろう?」
すると山本はスタスタと出口へ歩き出した。
前田が呼びかけた。
「山本、どこいくんや?」
「帰っちゃだめか?」泣きそうな顔で答えた。
「松岡! ちょっとやりすぎだよ」前田は山本の手を引き連れ戻した。
「山本ッ、ゴメンな」あまり悪びれた様子もなく、松岡はそういうと作品のほうを見た。
「ところでどうなのぼくの作品。思いついた感想をそのままパッといってくれればいいんだよ。どうなんだ前田?」
「ウッ、ウ〜ン」
「どうなんだ山本。どうなんだ、どうなんだ、どうなんだ!」というと松岡はふたたび山本をヘッド・ロックで締め上げた。
「オイオイ松岡また昔みたいに泣いてしまうぞ!」
「ハハッ、そうかそうか。ゴメンな、山本」
山本は前田にすがりついて頼んだ。
「帰っていいか?」
「ダメダメ」
「オイ前田ッ。どうなんだ? 正直にいってごらん」
松岡の問いかけに、前田は落ちつかない様子で片手で顔をさすりながらでてくる言葉を探した。
「………悪くないよ」
口ごもりながら小声でいったので松岡は「ン?」と聞き返した。
「悪くー……ないよ」
「ということはいいってことだな。ハハーン前田、妬いてるなッオマエ……俺の才・能・に。ハハハハハハーッ」
そして松岡は山本のほうに近づき右の絵を指さした。
「山本、この『水平の彼方』はどうだ?」
「ウンチみたい」山本は間髪入れずに答えた。
「アタリ」そういって松岡は山本を抱きしめた。
「それウンチなの〜?」前田はビックリして聞いた。
「そう、オレある日まっすぐなウンチしちゃたの、便器と平行にね。知ってる? 水の抵抗が少ないから流れない。水が両脇をさっと分かれていく」松岡は何の恥じらいもなく、身ぶり手振りで説明した。
「オマエそんなもん絵にしたんか?」前田はあきれ果てた。
「そぉーう! オレはそこに人生を見たねぇー。たとえウンチであっても美しいものは流されないんだと」松岡の演説に熱がこもった。
「ウンチが美しいかーぁ?」前田は首をひねった。
「凡人にはわからんのだよ」
「絵にすることないと思うけどなー」
山本の発言に前田は何度もうなづいた。
松岡はまったくひるまなかった。「これだから素人は困るんだ。写真や映画でそのまま撮ってどうする。絵にするからこそ本質が見えてくるんだ。そんなことよりどうなんだオレの絵は?」そういって後ろから二人の肩に手をかけた。
「………………」
「………………」
二人は何もいえなかった。
しびれをきらせた松岡がいった。
「何だイライラするなぁ。あれ? ひょっとしてオレの絵じっくり見てないの?」
「そッ、そーなんや。さっき山本としょーもない話してもうてな」前田はほっとした。
「アッそう、そうなんだ。じゃーゆっくり観ていってくれ、オレやだけど向こうで関係者と話してくるわ。時間ある?」といいながら答えも聞かず
「じゃーあとで」といって奥へ消えていった。
「どうする?」前田はやりきれない声を出した。
「やっぱりはっきり言ったほうがアイツのためじゃないか…」山本の声も同じだった。
「そーか?」
「だってどー見たって才能ないもん」山本は力を込めた。
「アイツ、ホントに流れないウンチに人生見とるんやないか?」前田は『水平の彼方』を見ながら無表情でいった。
「そうだよ。それにほらっ、これっ。なんだかわからない人の顔みたいなの」と山本は後ろにある絵を指さした。「これー、ピカソのまねだろ?」
前田もその絵を観た。「オレらにもわかるんやからなー。これ専門家が観たらえらいことになるでぇー 」そういいながら、前田はピカソもどきの絵に背を向けた。
「なんか表現として稚拙だもんなー」山本も続いた。
「どうせわけわからんもんやったら感想がいえないくらいわからんほうがええのになー」
「うん」山本は頷いた。
「それやったら、オレたちにないものを松岡がもってるっちゅーことやからな」
「これだけわかりやすい才能のなさもめずらしいなー。ある意味天才的だやな」
山本のその発言に前田の眉間にまたしわがよった。
「オマエ、アイツがおれへんかったらはっきりいうなー」
「ヘッド・ロックがないからなぁ」山本はけっこう真剣な顔でいった。
「はーっ」ため息をつきながら前田は続けた。
「この『ある意味天才的』な芸術を観て、アイツに感想をはっきりいうのもなぁ〜」
「そういや、アイツああ見えてけっこう神経細かいからなー。まかり間違って自殺でもされたらエライことだもんな」
「うーん」前田はしばし腕組みをして考えた。そして顔を上げ山本の方を向いていった。
「アイツにちゃんというのやめよう」
「どうして?」山本も前田の方を向いた。
「いや、勘違いしたままなら、一生勘違いしたままのほうが幸せってこともあるんや」
「そうか〜?」
「それにアイツ見たか? どう見たって取り返しがつかへんぞ」
すると山本も腕を組み少し間をおいたあと「じゃっ、絶賛するかっ」といった。
「ムンッ、これを?」前田は一瞬困った顔をしたが、突然ひらめいた。
「 そっ、そしたらこうしよう。絶賛するやつとそうでないやつを決めるっちゅーのはどうや?」
「あっ、それがいいなっ。二人だと心強いしな。そうしよう、そうしよう」山本も少し明るい顔で賛成した。
そして二人は回りの作品群をひとつひとつ評価することにした。
「じゃっ、まずこの『ウンチ』どうする?」前田は右にある作品『水平の彼方』のほうへ歩み寄った。
「これはダメだろう。だって汚いもん」山本も続いて歩み寄った。
「そうやんなぁー。こんなもん下手に誉めて『じゃーこの絵オマエ買えよ』なんてことになったら家の玄関にこれ飾らんといかんもんな。そしたら玄関通る度にウンチ観んといかんもんな」
「そう、もうちょっときれいな表現にしたほうがいいとかなんとかいってな」
「タイトルは『水平の彼方』ってきれいやけどな。これはけなそう。オマエちゃんといえよ、オレも好きじゃないっていうから」と前田は山本を指さした。
「ああ、バッチリいうよ」
そう山本が自信たっぷりにいい終わらないうちに前田は左側の作品のほうへサッサと歩き出していた。
「んでこれ、この東京タワーからぶら下がっとるキュウリ。これどうする?」
「これはシュールでいいじゃないかとか言えばいいんじゃないかな?」
山本の提案に前田も頷いた。
「そうやな、東京タワーからキュウリがぶら下がっんねんからシュールだよな。抽象画やしな」
絵を見つめながら前田は一拍おいた。
「ダリを……超えた…とかいってみたら?」
「ハハハハッ、ダリを超えたか。いい表現だね、そいつは喜ぶよ」山本は笑った。
「そしたらこいつは誉めるということでエエな」
二人とも顎に手をやりいい誉めかたがみつかったとほくそ笑んだ。
続いて二人は正面のドデカイ絵『反逆する物体』の前に立った。
山本が一歩絵のほうへ踏み出した。
「これね、デカイからね。これけなすとえらい目にあうよ。力はいってるよ」
「フンフン。力はいってるもんなぁ〜。ただたんにデカイだけなんやけどなぁ」
前田は腕組みをしてしばし絵の前をうろついた。
「躍動するダイナミック」
前田がいうと山本はあたりをキョロキョロ見まわした。
「どれが?」
「いや、これやこれ」
前田はそのデカイ絵を顎でクイックイッと指した。
「躍動してるとこある? …これ? ほーッ」
山本は片手を顎にやり、あきれたような感心したような声を出した。
「繊細な中にも大胆な筆づかい」前田は続けた。
すると山本は目をパチクリさせた。
「これ繊細なとこある? 繊細さはないよ。だってこのへんなんて絵の具ぬれてねーもん」と絵の右隅のほうを指さした。
「ダメダメそんなこというたら」前田は首を二三度振ると再び考えた。
「炸裂するパワフル……日本語になってないか?」
「ハハハッ、怒られるぞ」
「圧倒的に……パワフル。ウンウン」前田は自分で納得した。
「フンフン、そうだな、デカイからな」山本も頷いた。
「そしたらこれは誉めよう」
前田はそういうと指をさしながら「右のウンチはけなして左のキュウリは誉めてと」と確認した。そして後ろのピカソもどきの絵のほうにふり返った。
「ああ…これ、これね」とバカにしたようにつぶやいた。
すると山本がスルスルと絵に近づいた。
「これはー本人も駄作だとわかってるだろうから、ふれないほがいいんじゃないか?」 前田も続いた。
「そうやな、これは小さいし別にふれんでもいいやろうからな。これはふれんとこう」
二人は話がまとまり少しホッとした。
そして前田が口を開いた。
「しかしアイツもいろいろ描いてるなぁ〜。風景画は描く、抽象画は描く……」
「そういやトイレの前にポップアートがあったぞ。なんか黒い粉が山積みにしてあったんでタイトル見たら『ピアノの粉末』って書いてあったよ」
「アホとちがうか?」
「マスコミに踊らされようにも踊れないんじゃないか?」
山本が言い終わるとしみじみした顔で前田がいった。
「いやー、オマエといるといつもイライラするけど今日はいっしょでよかったよ」
「オレはーちょっとイライラしてるけどね」
「イヤイヤ荒井ちゃん、そりゃ誉めすぎだよーハハハハッ。そいじゃーまた」
廊下の奥から松岡の声が響いてきた。今まで笑っていたにも関わらず、二人に近づいてくるその顔は怒りで赤鬼のようだった。
「ケッ! 見え透いたお世辞いいやがって、オレの芸術を銭に換算する守銭奴がっ!」
あまりの怒り方に顔面蒼白になった二人は、このまま逃げようと出口へ向かった。
「あーあー気にしなくていいんだよ。いるもんだよ、いるもんだよあーゆーやからは」松岡は気を取り直し、微笑みながら二人の背中を押して作品のほうへ向かった。
「それじゃ、いちばん厳しい友人の意見を聞いちゃおうかなぁーハハハッ恐いな恐いなぁーハハハハッ」
「松岡っ!」前田はとても険しい顔つきで彼を呼んだ。
「厳しいぞ!」
松岡は前田の顔を指さし「厳しそうな顔してんな〜」とニコニコしていた。
「松岡っ!松岡っ!」山本も険しい顔で続いた。
「うまくまとまったぞ」
「よけいなことをいうなっ」前田は声を殺していった。
きょとんとした顔の松岡を見て山本は「イヤイヤ、イメージがな、まとまったんだよ。ハハハッ」とあわててとりなした。
「よーしオマエたちが厳しくいくんなら自信作から行くぞぉー。『水平の彼方』だ」松岡は二人を残し右の『ウンチ』のすぐそばへ進んでいった。
一番ましなのは真ん中のドデカイやつじゃないのか! と思っていた二人はこけそうになった。
「くぉーれはどうだ? これは文句いわせないぞぉ。オマエたちのために描いたといっても過言ではないからなぁ」松岡は自信満々の表情だった。
「これが自信作か?」山本は聞いた。
「そうだ。見直した?」
山本はなにかいおうと二・三歩前へでたが、松岡のあまりの自信に言葉を失った。
「…………」、「…………」、「…………」。
すると後ろで見ていた前田が、腕を組み片手を顎にやり、おもむろに語りだした。
「躍動する、ダイナミック」
エッ? それはデカイやつに使うんじゃないのか? 山本は前田の顔を見た。
彼は口パクで「いーの、いーの」とやっていた。
「それでっ?」自分の作品を間近で見ながら松岡は次の言葉を待った。
「…繊細な中にも…大胆」
またもやいってしまった前田に、デカイ絵を指さしながら山本は目で抗議した。
「パワフル」とさらに前田は続けた。計画は完全に狂ってしまった。
「ウーン、まぁ前田は抽象得意だからな」松岡は前田のほうにふり返っていった。
「アッ、あー。オレ昔描いてたからなぁー」前田は額の汗をハンカチで拭った。
「山本はどうだ?」松岡は彼の肩に手を置いた。
「……………きれいなぁー……うんちだなぁー…」
「あ〜」と額を押さえる前田。
しかし松岡は寛大だった。
「マーマーマー、山本は抽象苦手だからな。いいんだいいんだ」松岡は彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「そうだ! オマエのために一枚描いたぞ。『僕らの歌』と題したあれだ」松岡は左のキュウリを指し、ツカツカと歩いていった。
「そうかオレのためにか。そういう気がしたよ。ハハハッ」といって山本は後をついていった。
前田は二人が自分の前を横切る途中山本に「予定どおりにな」とささやき肩をポンと叩いた。
山本は落ちついてしゃべった。「うん、これーシュールでいいよな」
ところが松岡は喜ぶどころか逆にけげんそうな顔で答えた。
「シュール? これ風景画だぞ」
「エッ!」
「オレんちの二階のベランダに栽培しているキュウリ越しに見た東京タワーだよ。写実だよ! なにいってんだ!」松岡は少し興奮していた。
「いやちょと、キュウリがちっさいし……遠近法が……エッ、エ〜ッ!」山本は絵をのぞき込んだ。
「シュールって…なにを……ブツブツブツ…」松岡は不機嫌そうな顔をした。
そんな状況を後ろからじっと見ていた前田は、いたたまれなくなってつい口走った。
「ミレーを…超えたネ」
二人は同時に首だけ前田のほうへ振り向けた。
「いやっ、…ミレーを……飛び超えたね」
山本はビックリした顔で前田を見た。
「前田、誉めすぎだそりゃ」松岡は照れながらいった。
「ところでオマエ、写実得意だったか?」
突然の言葉に前田は一瞬ドキリとした。「イヤッ、描かなかったけど見るのは好きやったんよ」
「そうかそうか、山本ぉー、オマエも勉強しなきゃダメだぞ」
「ホンマそうやんなぁーハハハッ」
山本は前田をキッとにらんだ。
「じゃっ、次これいこうか」松岡は正面のドデカイやつの前に立った。
すると山本が「そうそうこれは前田がいろいろ言葉をもってたなぁ〜」と言い前田を見た。
後ろの前田はウンチのほうを指さし「もうつかった、もうつかった」と訴えたが、山本は意地悪そうな笑みを浮かべ黙殺した。
「なんだって前田? いってみろよ」両の手をポケットに突っ込み松岡はいった。
「やっ、やく…………………………………デッカイ絵やなぁー!」苦し紛れに前田はいった。
「そうだろう、制作に八ヶ月半かかったからなー」
「絵の具、いっぱい使ってるしなぁー」山本は続けた。
「山本、もうちょっと勉強しろよっ」松岡はあやすようにいった。
前田はヤケクソになっていた。言葉がなにも浮かんでこない。松岡は次の言葉を待っている。
どうしよう
どういおう
どうすればいい?
この重圧にこらえきれずに思わずいってしまった。
「この絵くれ! オレに売ってくれ! なあ買うよ、松岡買うよっ!!」前田は半狂乱だった。
「はいはいはい、わかったよわかったよ」松岡は前田をなだめた。
「まあそれはそれでいいとして、今日はオマエたちにぜひ見てほしい絵があるんだよ。オレの新しい可能性ともいうべき絵なんだけれど、これは二人ともしゃべってもらうぞッ。アレだよ」といって松岡が指さした絵は………ふれずにおくはずの「ピカソもどき」だった。
「さあこれはちょっと難しいかなー。そもそも抽象というのは物のみかたの一つの定義だから。いわゆる……………………」
前田は考えた。もう松岡にその場しのぎの意見は言えん。いや、いいたない。こいつの人生がかかってるんや。ハッキリいわな、いつまでもオレらが曖昧な意見いってたらこいつのためによくない。ヨシッ!
「松岡ッ」
「正面かのらシンメトリーな描写をあえて…」
「マツオカー〜!!」
「つまり、ん? 呼んだ?」
前田の表情は、今までにないくらい真剣であった。
「なあ松岡、はっきりいうわ」
「前田おまえ、そっ、それは」山本は慌てた。
「いや、はっきりさしたほうがええ。松岡、おれら前から思とってんけど」
「前田いうな! 松岡がっ」
「思とったんや! オマエほんま…」
「やめろ〜!」山本は耳をふさいだ。
「ほんま…………………………#$☆%!!」
それから十年後、松岡の三回目の展覧会が行われた。
今までと同じく客は少なく、松岡の作品も相変わらずであった。
しかし今までと二つだけ違うことがあった。
ひとつは招待客の数が二人少なかったこと、そしてもうひとつは今までより祝電の数が二通増えたこと。その祝電にはこう書いてあった。
「オメデトウ、テンサイマツオカクン」
家族
井沼田 優子
朝刊が、ごとん、と音を立てて朝が近いことを告げた。
一晩じゅう走り回ってすっかり疲れてしまった僕は、とろとろまどろみながらその音を聞く。あと三十分もすればみんな起きてくるだろう。そしていつものように一日が始まるんだ……
コーヒーのにおいで今日も目が覚めた。僕はまだ半分夢の世界から抜け出せないまま、それでも鼻だけはしっかりとにおいに反応してひくひく動かして、寝床から這い出した。
──チイ子、おはよう。ふふっ……目開いてないよ。
この声は聡子さんだ。いつものようにコーヒーを浸したパンをくれる。今日のパンはクロワッサン。おまけにデザートはプチトマトだ。よく熟していておいしい。
朝食を終えると急に眠気が襲ってきた。心地よい疲労感と、満腹感、そして言い様のない安心感が僕を夢の中へ引きずり込む。寝床へ移動するのもおっくうだ。えーい、このまま寝てしまおう。
──あっ、またチイ子がひっくり返って寝てる。ふつうハムスターって丸くなって寝るんじゃなかったっけ?
おねぼうさんのまあくんも起きてきたみたい。学校におくれちゃうぞ。
人間の一日が始まる朝、そしてハムスターの一日が終わる「朝」。このあわただしく短い時間に生活習慣の違う二つの動物が、会えない時間を補うかのように、触れあい、温もりを確かめ会う。そんな「朝」が僕は大好きだ。
今日も幸せに包まれて僕は眠る。オヤスミナサイ。
僕の飼い主の一家は、絵に描いたような幸せな家族だ。
お父さんは会社に行って、夜は遅くても八時に帰ってくる。めったに寄り道はしない。
お母さんは、家の中をきれいにして、おいしいご飯を作ってみんなの帰りを待つ。週末には二人でドライブしたり、映画を見に行ったりする。
大学生の聡子さんは僕の世話係だ。いつも小屋をきれいに掃除してくれる。あとで食べようと思ってかくしておいたじゃがいもやごはんつぶを、掃除のときに勝手に捨てるのは許せないけど……
弟のまあくんは小学校六年生。体は小さいけどいつも元気なわんぱく坊主だ。
とにかく四人は仲良しで、家の中はいつも幸せでいっぱい。そして四人の愛情を一身に受けている僕もまた幸せでいっぱい。なのにとつぜんふっと寂しくなるのはなぜだろう?
物心がついたとき、僕はペットショップの店先で、大勢のハムスターと一緒に大きなガラスの入れ物に入れられていた。
暑い季節だった。
僕たちは毎日ひまわりの種をかじり、お腹がいっぱいになるとぐうぐう眠った。そして、またお腹が減って目を覚ますと、たいてい仲間の数が減っているのである。
──何でも、ニンゲンという動物がどこかへ連れて行って、そこでひまわりの種よりずっとずっとおいしいものを、たらふく食べさせてくれるんだって。
そんな噂がひそひそとささやかれるようになってからは、みんなはどこかへ連れて行かれるのをわくわくしながら待っていた。
やがて、季節が変わって涼しくなり、そして寒くなった。僕は相変わらずガラスの入れ物の中でひまわりの種をかじっては、どこかへ連れて行ってくれるのを待っていた。
仲間はどんどん減っていった。
──おじさん、あの一番大きいのをください。
──一番かわいい子をちょうだい。
──オスはいらないわ。メスをさがしてほしいの。
──あそこの奥にいる黒っぽいの、すごくかわいいね。
僕って、かわいくないのかな。毎日人間はたくさん来たけど、僕のことを連れて行く人はいなかった。
さらに時間は過ぎて、今度は少し暖かくなってきた。
いつものようにお腹のなる音で目が覚めて、ついでに、あーんとあくびをしたら人間と目があった。
そのひとは、ガラスに顔をくっつけるようにして中をのぞきこんでいた。そんなふうにして僕たちのことを見るのはたいていは子どもなんだけど、その人は充分大人だった。そのくせ目だけは少年のようにきらきらしていて、なんだかまぶしかった。顔の輪郭がちょっと疲れているみたいだけど、この人はいったい何なんだ?
──なにやってるの、先行くわよ。
女の人がその人の横に並び、同じようにガラスに顔を近づけた。
──あら、ねずみだわ。ずいぶん小さいのねぇ。
女の人は、ねずみ、という部分を少し気持ち悪そうに発音した。ねずみじゃないんだけどね。僕は聞こえなかったふりをして、ほおぶくろにせっせと種を詰め込んだ。
男の人はまだこっちを見ている。
──あなた、はやく行かないと電車に遅れるわ。……なんか子どもみたい。もしかして、このねずみ欲しい、なんて思っているんじゃない?
からかうように言った女の人の言葉に、男の人は
──うん。
と言って、子どものようにこくんとうなずいた。そして
──すみません、そこの食いしん坊のハムスターください。
と、僕を指さした。
こうして僕はこのうちに連れてこられたのである。
「それ…はここで、電気、水道、ガスの復旧状況をお伝えし…す。三月にじゅう…ち現在、……市の一部を除いて、ガスが復旧しました。なお、ひきつづいて…」
小さな箱に入れられてこの家に僕が到着したとき、やけに入りの悪いラジオが、遠くのほうでじーじー言っていた。
──やっとゆっくりお風呂に入れるのね。
女の人、つまりこの家のお母さんは、はしゃいでいた。
──こいつのおかげかも。おまえは、わが家のフッコウのショウチョウだ。
男の人、つまりお父さんも上機嫌。
僕は今まで聞いたことのない言葉に戸惑った。フッコウのショウチョウって何だろう? 不幸の省庁? 小腸? それとも……。僕が復興の象徴という漢字を知り、お母さんがはしゃいでいた理由を知り、そして阪神・淡路大震災というものについてきちんとわかるようになるまでは少し時間が必要だった。
なんでも僕がこの家に来る二ヵ月ほど前に大きな地震があって、たくさんの建物が壊れ、そしてたくさんの人がなくなったそうである。幸いこの家は少し壊れただけで済んだけど、今までガスが来なかったなんて、きっと大変だったにちがいない。
──わあ、小さいねずみだ!ね、これどうしたの?
だからねずみじゃないんだってば。すこしむっとしながら振り返ってみると、声の主は元気そうな男の子だった。
──すごくかわいいね。まあくん、名前つけたいな。
名前? この僕に名前がつくんだって?
──小さいからチビにしようかな。それとも背中にシマシマがあるからシマ子にしようか。うーん…。
──今日を記念して、ガス子とかフロ子とかにしてもおもしろいわね。
これはお母さん。そんな変な名前いやだ。僕は小さく鳴いて抗議した。
──あれ、今、チーって鳴いたよ。
──鳴き声もかわいいね。まあ坊、この子の名前、チイ子にしたら。
お父さんの提案に、
──いいわあ。素敵な名前ね。
お母さんが大賛成して、名前はあっさりと決まった。僕、男の子なんだけど。でも、ぜいたくは言わない。ガス子よりはずっといい。
とにかく、僕は幸せだった。ペットショップから僕を引き取ってくれた人がいい人で、そしてその家族もいい人たちで、みんなで僕をかわいがってくれる。この家族の暖かな雰囲気に少し酔いながら、僕は幸せなこれからの生活を夢みた。やさしい家族、おいしいごはん……
その時とつぜん、空気が一瞬ぴんと張りつめた。
こんな小さなハムスターの僕にさえほんのちょっとしか感じられないくらいの緊張だった。僕より何百倍も大きい人間には、きっとわからなかっただろう。
──ただいま。
疲れを帯びた声とともに、女の人が部屋に入ってきた。
──おかえり。外からかえったらちゃんとうがいをするんだぞ。
そう言ったお父さんにちょっと笑いかけてから、その人は僕をのぞきこんだ。ふわっといいにおいがした。
──こんな小さなハムスター、初めて見るわ。
女の人はつぶやいた。
──お姉ちゃん、まあくんのことチビって言うけど、チイ子の方がずっとチビだよ。だから、今日からはチビって言わないでよ。
まあくんの言葉にみんなはどっと笑った。僕もひそかに笑った。
さっきの緊張感はいったいなんだったんだろう。みんなこんなに楽しそうにしているのに。僕の思い過ごしかな。
──そういえば聡子、お昼ごはんまだでしょ。お母さんたちもう外で済ませてきたから、ラーメンでもつくって食べなさい。
また一瞬緊張が走った。
聡子さんは、うん、そうするわ、って答えて台所に消えた。一見普通の親子のやり取りなんだけど、僕は何かひっかかりを感じる。
何か事情があるんだろうな、僕は動物的な勘で思った。ただ明るくて楽しいだけに思っていたこれからの生活が、少しかげったような気がした。
実際この家の人は、少し変だった。
ご飯を食べたりテレビを見たりするときは、みんな楽しそうに笑って本当に幸せそうな顔をしているんだけど、一人ひとりばらばらになった時、さっきまでの幸せそうな顔がうそのように思えるほど悲しい表情をする。
昼間は、家族が会社や学校に行っているあいだ一人で留守番をしているお母さんが、そして夜は、みんなが寝静まったころにトイレに起きたお父さんが、何も言わず、ただぼーっと僕のことを眺めているときがある。一気に老け込んだ顔をして、何も考えていないような目で。
でも一番ひどいのは聡子さんだった。
いつの間にか僕の世話係をすることになっていた聡子さんは、小屋の掃除が終わるといつも僕のことを眺めていた。そんなときの聡子さんの顔は、お父さんやお母さんと違って何かいっぱい考え事をしているように見えた。
──どうしよう、チイ子。
時々はこんなことも口にした。何か辛いことがあったんだろうか。それなら家族のだれかに相談すればいいのに。僕でもいいよ。
そんな思いが通じたのか、聡子さんはぽつぽつと僕に向かって話しかけるようになった。
震災のとき、受験生だったので、お母さんの妹の家にあずけられたこと。
いつもは表面上の付き合いしかしていなかったおばさんから、意外な事実を教えられたこと。
その結果、お母さんに対して今までのように普通にふるまえなくなったということ。
そんなことを、少しずつ話してくれた。
「……あなたは知らないと思うけど、私、あなたのお父さんのことが好きだったのよ。あなたのお父さんも私を愛していた。それどころか、結婚の約束だってしてたのだから。
あの人を家につれてきたのが間違いだったわ。私の知らない間にあの人と姉さんはお互いを好きになってしまって……。辛かったけど、私はあの人と別れる決心をしたの。
私が妊娠してるってわかったのは、あの人と別れたあとだった。もし産まれていたら、あなたくらいの年になっていたのにねぇ。
あなたは何も聞かされないでただ幸せにぬくぬくと生きてきたと思うけど、その幸せの陰には一人の女の犠牲とこの世に産まれることのなかった命とがあるのだからね。
それともうひとつ……
姉さんにはあの人と出会うまでつきあっていた人がいたの。
姉さんはその人と別れて、あなたのお父さんとつきあって結婚した。スピード結婚だったわ。そしてあなたが産まれた。
これは私の推測だから怒らないでほしいんだけど、あなたは本当にお父さんの子どもなのかしらね?
怒らないでっていってるでしょ、あくまでも推測なんだから。でも、その可能性がないとも言い切れないのよね。その人も、お父さんもA型だし」
聡子さんはどんな思いでこの話を聞いたんだろうか。
震災のショック、友人を亡くした悲しみ、受験に対する不安などに襲われてぼろぼろになっていた心に、いっそうしみこんだにちがいない。だれにも話せず、一人で心の中にしまい込んでおくのはそうとう辛かっただろう。このままじゃいけない。どうにかしないと聡子さんが壊れてしまう。そして、このままだと家族がばらばらになってしまいそうだよ。
予感は的中した。
お母さんと聡子さんは、けんかをした。もう一週間ほど口をきいていない。
ことの発端は、聡子さんが、下宿をしたいと言い出したことだった。大学までは家から二時間半。べつに通えない距離ではなかった。しかし今の状態で過ごしていると絶対よい方向へは行かないと思った聡子さんは、一人になることを望んだのだった。
それを聞いてお母さんはぼろぼろ泣き出した。
──いったい何が不満なの? そんなに家を出たいの? そんなにお母さんのことがきらいなの?
お母さんだって壊れかけてたんだ。
震災で思い出の品物はほとんど壊れてしまったし、勤めていた会社はつぶれたし、娘はとつぜんよそよそしくなるし……。そんな中でぱんぱんに膨れ上がった疲れ、不満、不安が、聡子さんの言葉でぱーんとはじけてしまったみたい。
──そんなに出ていきたいのなら勝手にしなさい。何があったのか知らないけれど、いつも元気のない顔をされたら、こっちまで気分が悪くなるわ。
売り言葉に買い言葉、聡子さんも
──なんで急に怒りだすの? ただ下宿したいって言っただけなのに。それに、何があったのか知らない、なんて無責任なこと言ってるけど、悪いのはお母さんなんだからね。
と、つい言ってしまった。
幸せそうだった家族が壊れていく。これからどうなっていくのだろう。
それからは何もおこらず時が過ぎていった。
お母さんと聡子さんは相変わらずしゃべらない。それにつられてお父さんも口数が減った。まあくんだけが元気だった。
自分のせいで家族がちぐはぐになってしまって苦しんでいる聡子さんに、僕なにもしてあげることができなかった。
ところがある日、とつぜんお父さんは
──海を見に行こう。
と、聡子さんを誘った。お母さんとまあくんは買い物に行って留守だった。何かが起こりそうなうれしいにおいがしたので、僕は一緒に連れていって、と暴れた。
初めて見る海は、まだ赤くなっていない若い夕日を反射してきらきらひかっていた。都会の海だからおせじにもきれいとは言えないけど、いそのにおいがぷんぷんとした。お父さんと聡子さんは、岸壁に並んで腰を下ろした。僕もその横に小屋ごとすわった。
──お父さんは小さい頃、よく海で遊んだよ。
お父さんは言った。
──魚を釣ったり、泳いだりして一日中遊んでた。あのころは楽しかったなあ。
聡子さんは海を見ながら黙って聞いている。髪の毛が潮風にそよそよ揺れた。
──でも、大きくなるにつれて、田舎が嫌になった。お父さんも、普通の若者のように都会に憧れたんだよ。そして、高校を卒業するとすぐに家を出て都会で働いたんだ。都会に出て一人で生活するのは楽しかったよ。寂しさなんて感じなかった。
やがて結婚した。子供も産まれて、ますます生活が楽しくなって、そしていそがしくなった。田舎にかえっておやじやおふくろの顔を見るのも、ますます少なくなっていって……。生活に余裕ができるようになって、そろそろ親孝行しなければ、と思った矢先におやじが死んだんだ。
お父さんはそこでちょっと話すのをやめた。さっきよりちょっと赤くなった太陽を見つめているお父さんの顔が、少しけわしくなったような気がした。
──おやじが死んで、半年もたたないうちにおふくろも死んでしまった。子育てが終わって、やっと二人でゆっくり暮らせるようになったころに死んじゃうなんて、つらいよな。おやじは漁師だったからほとんど家にはいなかった。だからおふくろはひとりで子供たちを育てたんだ。兄貴たちは高校を出るとみんな都会に出ていってしまった。おふくろは、末っ子のお父さんには田舎に残って欲しかったみたいだけど、お父さんは嫌だった。お父さんが家を出ると言ったときおふくろは反対しなかったけど、すごく寂しそうだったよ。
あの時家を出なかったら……と思うときがある。もちろん、家を出ていなかったら今の生活があるわけないんだけど、もし、家を出ていなかったら、おふくろはもう少し楽な暮らしができたんじゃないかな。
家族は、いっしょにいれるときはなるべくいっしょに暮らしたほうがいいんだ。あとになって、もっといっしょにいればよかった、なんて思っても遅いんだよ。まあ、家族のありがたみなんて、後になってわかるものなんだけどね。
聡子も下宿したいなんて言っているけど、もう少し考えてみたらどうだ。どうせ結婚でもしたら家を出るんだから。あと何年いっしょに暮らせるかわからないんだぞ。家を出ることはいつでもできるけど、家族全員がそろって暮らすのはいつでもできることじゃない。
聡子になにがあったのか、お父さんは想像できる。きっと辛かったと思う。でも、逃げることはよくないと思うよ。家を出て、嫌なことから逃げ出すことは、楽だけれども解決にはつながらない。お母さんだって心配しているんだ。一度ゆっくり話し合ってみたらどうだい。
そして、最後にこれだけは言っておきたい。自分が正しいと思ったことを信じて強く生きていくんだぞ……
お父さんは立ち上がって、ゆっくりと歩き出した。
熟れた夕日がじんわりと落ちていき、あたりはすっかり夕焼けに包まれていた。
聡子さんはそのままの姿勢で座っていた。が、その顔は、今までと違ってすこし思いつめたものがなくなったように見えた。
父娘のすがたと夕日のまぶしさに、僕は涙が出て困った。
あれから三年──。
みんなが悲しい表情で僕を眺めなくなり、会話の合間に妙な緊張が走らなくなり、そして家族は復興した。
みんなは僕のおかげで心が元気になった、と言う。震災でなにもかもめちゃくちゃになってもうだめだと思ったけど、チイ子のしぐさを見ているとなんだか心が落ち着いてね、疲れがとれるような気がしたのよ……と言うけど、僕はべつに何もしていない。何もしてあげられなかった。ちゃんと立ち直ることができたのは、みんなの努力のおかげさ。でも、僕の存在がみんなの力になっているとしたら、それはうれしい。
とにかく、この家族は今は幸せいっぱい、そしてみんなの愛情を一身に受けている僕もまた幸せでいっぱい。なのにとつぜんふっと寂しくなるのはなぜだろう……
そうだ、わかった。
きっと、僕はもうすぐ死ぬんだね。ハムスターの寿命は二〜三年だというけど、僕はもう四年も生きている。すっかりおじいちゃんだ。
第一、自分の人生(ハム生)が幸せでいっぱいと言い切れること自体、先の短さを暗示しているように思える。それに最近、回し車をちょっと使っただけで、筋肉痛がかなり残るようにもなった。きっともうすぐ死んじゃうんだろうな。
でも、今は思い残すことはない。僕がいなくても、もうみんな壊れてしまうことはないだろうから。
気がつくと外はすっかり夕暮れだった。
もうすぐみんなが帰ってくるだろう。そしていつものように晩ごはんを食べて、みんなの一日が終わり、僕の一日が始まるんだ。
やさしい家族においしいごはん。今日もあしたも、僕は幸せだね……。
物臭な一日
中谷 信隆
〜ある変態野郎との会話〜
──暇だ。何をして時間をつぶそうか。──
圭介は部屋の中央に寝転んで、ボーっと天井を眺めていた。実を言うと、することが何もない訳ではない。いや、むしろしなくてはいけないことがあり過ぎるほどである。明後日までに書きあげなきゃいけないレポートもまだ全く手をつけていないし、来週から大学はテストのオンパレードだ。正直な所、今年単位が取れていなければ卒業はお預けになってしまうかもしれない。本来ならば、切羽詰まって勉強のひとつでもしているはずなのである。ところがである。
──テレビは今何をやっているんだっと。 ──
体を反転させて、頭の方にあった新聞をのぞき込む。だが、興味を引くものはなかったようだ。顔を畳に押し付けてまたしばらく動かない。
──やっぱり俺の本性は物臭だな。──
圭介は以前読んだ本の一説を思い出していた。人間は極限状態にあって初めて、その人の本性が現れる。かといって、命にかかわるような極限状態なんてものは、そうお目にかかれない。そこでもし、だれかの本性を知りたければ、その人が忙しい時どのように行動するのかを見ればよい。それである程度、その人がどんな人かを判断できる。これを読んだ当初は今一つ納得いかなかったが、いざ、自分がその立場に立ってみるとひしひしと身に染みてくる。
── まあ、それがどうしたと言えばそれまでだけどな。──
半ば開き直ったように、勢いよく起き上がると、
「よし、屁理屈野郎のところにでも行ってみるか」
と一言つぶやき、ゴソゴソと身支度をし始めた。
一人の男が窓を背に本を読んでいる。窓から差し込んでくる日の光が、殺風景な部屋を暖かく包んでいる。男は、一見まだ二十代そこそこだが、年に似合わない不思議な貫録がある。身なりもセーターにGパンと、それだけを見れば至って普通なのだけれど、その全てが黒なので、その貫録と相俟って、なにか妙である。
いきなり戸が開き、男が入って来た。圭介である。
「失敬な奴だな。その年にもなって、礼儀も知らないのかい」
「けっ、何を言ってやがる。いくらノックをしても返事をしないのはどこのどいつだ。前だって宅配の人が気味悪がっていたぞ『下の階の人なんですけど、ノックをしても返事がなくて、いないのかなと思ってドアノブを回すとカギが空いている。寝ているのかなとのぞいてみると、真っ正面に座っているんです。なんか本を読んでいるようで……、こちらを見向きもしない。とりあえずハンコを、っていうと何も言わないでハンコだけ押して……。ご存じですか?』ってな」
「で、君はなんて言ったんだい?」
「あれは正真正銘の変態野郎だ。ただ、人には無害だから、まあ天然記念物を見たとでも思っときな。って言っておいたよ」
「ますます失敬な奴だ。君は私をそんなに侮蔑することが楽しいのかい。だとすれば、よほどのサディストだな」
「それだけのことでサディストだってんなら、お前はどうしようもないエゴイストになるぜ」
「それは違う。私はただ、極力他人とはかかわりをもちたくないだけ。何事も自分中心に物事を考える低俗な輩と一緒にしないでくれ」
「よくわからねえな。けど、せめて返事ぐらいはしろよ」
「こちらから用件がないのに、どうして相手に気を使わないといけないんだ。用件があるのなら、それだけを伝えればいいじゃないか。私だって話を聞く耳はもっている。さっきも言ったが、私は他人とはあまりかかわりをもちたくないんだ」
それをエゴって言うんじゃねえのかと、圭介は考えたが、頭が混乱してきたので、言うのをやめた。圭介は部屋を見渡してみる。本当に何もない、いや、もっと詳しく言えば、生活に必要なものが全く見当たらない。あるのは布団と、台所にあるナベぐらいなものだ。だからといって、広くはない。実際、圭介が座るのでさえ一苦労するほどだ。なにがあるのか。──本である。部屋には所狭しと本が積み上げられている。人が住んでいるのか、本が住んでいるのか分からないほどだ。男は、膝に置いてある本に黙々と視線を落としている。
「達之、また本が増えたんじゃねえか」
「そうか」
達之は下を向いたまま生返事をした。いつものことながら、本当に人の話を聞いているのか分からない奴だ。ほかの奴ならきっと、呆れるか、怒るかのどちらかであろう。しかし、聞いていないと思って下手なことを言うと、いや、それは言葉の意味を取り違えているだの、君はその思想を本当に知ったうえでそんなことを言うのかなど、理路整然と反論する。
しかも、その反論があまりにも的を得ているので、なにも言い返せない。最後には二人で質疑応答を繰り返す。ただ、自分がバカなだけなのだが……
近くにあった本を一冊手にとってみる。かなり古いものだ。パラパラとめくってみた。はっきり言ってさっぱり理解できない。
「おいおい、気をつけてくれよ。その本は苦労してやっと手に入れたものだ。金では弁償できないぞ。もっとも、金に換算できたとしても君には到底払えないだろうがね」
達之は視線を下に向けたまま、忠告した。
── そんなに大事なら、無造作にこんなところに置くなよ。──
圭介は、一応大事そうにその本を元に戻すと、
「ところで、来週からテストが始まるが、はかどっているのか」
達之は身動きもせず、いかにもめんどくさそうに小さくため息をつくと、
「そんなつまらないことで君は私の所へわざわざやってきたのか」
「いや、どうもやる気がわかなくてな。ほかの奴はどうなのかなと思って、まあ、情報収集と偵察を兼ねてまずはお前のところへやって来たってわけだ」
「ならなぜ私なんだ。情報収集が目的なら、私ほどその目的にそぐわないものはいないだろう」
「充分に目的をクリアできているよ。なぜなら、普段お前が勉強をしている所なんて見たことがない。いつも何かしら本を手にとって読んでいるだけだからな。もし、そんなお前が机に向かっているのなら、自分も性根を入れてしなければならないが、相変わらずの様子なんで安心したよ。いや〜、よかった、よかった」
「それは大きな間違いだ。君はただなにもしないで時間を無駄に浪費しているだけではないか。私は限られた時間を出来る限り有効に使おうとしているだけだ。それに、机に向かっていれば勉強しているなどと考えるのは愚の骨頂だね。それは勉強というもの、ひいては学問というものを誤解しているし、物事をほんの一部しか見ていない。そんな人に限って地位や名誉に固執したり、最悪な者に至っては人を差別化するようになるんだ」
「おいおい、いくらなんでも差別主義者と一緒にしないでくれ。少なくともその辺の常識はわきまえているぞ」
「だから、最悪な者は、と言っただろう。君は幸いにもそこまではいっていない。どちらかというと君は、地位や名誉には無縁のタイプだしね。もし君が差別主義者なら、私は初めから君とは顔を合わせることさえしなかったよ。君はただ知識が足りないだけ」
「それは俺をけなしているのか?」
「ほめてやっているんだよ。分からないかなあ。知識なんてものは誰であろうと身につけられるものだ。しかし、人がもっているもともとの人格なんてものは変わることがない。君の持つ一種、楽観的な性格は、生まれながらの才能なんだよ。その点だけは私も認めているのだから」
「その点だけは、ってのはどうも気にくわないなあ。それじゃあ俺は、生まれてから何の進歩もなく生きているみたいじゃないか」
「最も必要なものを持っているんだからそれで充分じゃないか。他の人は自分の本当の人格が分からないから、それを知るため、あるいは、補うためにいろいろと知識を得ようと努力するんだ。それをしなくてもいいだけ楽でいいじゃないか」
「知識を得る必要がないなら、時間を浪費しているというのは納得できないな。その元々もっている人格とやらを大事にして好きにやっていればいいじゃないか」
「こんなことまで説明しないと分からないのか。それに、人の話をもう少しちゃんと聞けよ」
本を読みながらよくそんなことを言えるな、ほかの奴なら殴られているところだ。
「いいかい、君は自分の人格を発見する手間が要らないというだけなんだ」
「じゃあ、俺は一体何をすればいいんだ」
「それを見つけだすんじゃないか。人間の最終的な目標というのは正にその点に集約されているんだから。『自分が何のためにこの世に存在しているのか』その答えを見つけることが君だけでなく、人間の使命みたいなものだし、当然ながら私だってその答えを見つけださないといけないんだ。その点で君は他の人よりも早くその答えを見つけるための資格を持っているのに、なにもしていない。そこが時間の浪費だと言っているんだ」
そこで達之は本を閉じ、さももったいないとでも言いたげなため息をつきながら顔をこちらへ向けた。
そんなことを言われても、正直言って困ってしまう。『自分が何のためにこの世に存在しているのか』なんて生まれてこの方考えたこともないし、ましてや、自分がどんな奴なのかでさえ、深く考えたことはない。強いて言うのなら、さっき自分の部屋で自分が物臭な奴だと実感したぐらいだ。圭介は頭をかきながら、何を言おうか悩んでいると、
「だからといって悩む必要はないんだ。もしかしたら、君がそんなふうにしていることが実は一番の近道なのかもしれないんだから。むしろ、自然体で臨む方が言い結果が出てくる場合もあることだし」
「それじゃあ、つまるところ俺は何をすればいいのか全然分からないじゃないか」
「そりゃあ、私には分からないよ。人それぞれ見つける答えが違うのだから。私はただ、自分自身がこうではないかと考えた一つの仮説を言ったに過ぎないんだ。だから、これが君にとって有効であるかどうかは分からない。むしろ、マイナスになる危険性さえあるんだ。君自身が納得できなければ、それは君にとっての答えではないんだ」
「じゃあ聞くが、お前はお前自身が納得できるような考えの〜まあ、なんだ、え〜、その手掛かりみたいなものは見つかっているのかい」
達之は本当に驚いたような顔で圭介を見つめた。額に中指を当て、(達之が考えこむ時に良くするしぐさだ。)やがて、ゆっくりと話し出した。
「さっきも話したが、人間はまず、自分自身がどんな人間なのかという命題を見極めないといけない。ここが曖昧だと『自分が何のためにこの世に存在しているのか』の命題を解く事は到底できない。そこまでは分かるよな」
はっきり言ってチンプンカンプンなのだが、とりあえずうなずいた。
「そして、第一の命題を解くために、人は知識を得ようとするとも言ったよな」
「ちょっと待て。ひとつ腑に落ちないことがある。第一の命題を解くために知識を得ようとするのは分かるが、では第二の『自分が何のためにこの世に存在しているのか』という命題を解くために知識を得るという行為は不必要なのか」
「不要とは言っていない。人それぞれ見つけだす答えが異なるのなら、見つけだす手段も異なって当然なんだ。だから、私は誰も彼も知識を得るという行為に固執する必要はない、
と言いたいんだ。ただし、知識を得るという行為が一番手っ取り早いから、第一の命題ではその行為に絞って話を進めているんだ。もちろんのことだけど、知識を得るという行為にもいろいろと手段があるんで一概には言えないんだけどね。さあ、話を続けるぞ。僕の場合、結論から言ってしまえば、まだ自分自身がどんな人間なのか皆目見当がつかない状態なんだ」
──答えを言ってやろうか。お前は屁理屈をこねくり回して人を煙に巻くのが大好きな変態野郎だよ。──
圭介は喉元まで出そうになったが、やめた。どうせ言った所でまたなにか言われるのが落ちだ。と、また頭をかいた。達之はそれを見透かしたかのように、
「確かに、他人が外から私自身を分析してどんな奴なのかは判断できるかもしれない。けれど、それは私という存在をまさしく外から見たに過ぎない。言わば物事を一面しか見ていないことになる。何度も言うが、自分自身が納得できるようなものでなければ意味がないんだ。
他人からお前はこんな奴だと言われて、自分が気が付かなかった部分が出てくるかもしれない。それは自分自身を発見するヒントとはなるかもしれないが、答えにはなり得ない。」
「では、知識を得ることで何が変わるんだ。知識なんてものは所詮他人が考え出したものに過ぎないんだぜ。それをわざわざ頭に詰め込んだ所で無意味じゃないか。」
「そうだよ。知識そのものを得ることは無意味なんだ。大事なのはその過程を知ることにあるんだ。人がその結論へ至るのにどんな道程を辿って行ったのか、それを見極めた上で自分自身の発見に当てはめてみる。そうすれば闇雲に考えるよりはるかに効率がいい。だから、手っ取り早いって言ったんだよ」
そこまで話して達之は、一息つき、再び本を開き出した。
「私が本ばかり読むのはそのためだよ。人とかかわりを持ちたくないのは単に他人の考えに振り回されたくないから。本の方がじっくりと考えられるしね」
圭介は、また部屋の中で取り残されてしまった。ページをめくる音だけが聞こえてくる。結局達之の言ったことはほとんど理解できなかった、と言うよりはやはり屁理屈にしか聞こえなかった。まあ、とりあえず暇つぶしにはなったかなと天井を見上げていたら、不意に達之が、
「本当のことを言えば、私のように本にかじりついている者より、君のように自由気ままにしているほうがはるかに賢いんだがな。あっ、そうそう、『勉強』と『学問』の意味について誤解しているようだから念のために話しておこうかな。圭介は『勉強』についてどんな印象を持っているんだい」
「どちらかというとあまり好ましくないな。できればしたくない」
「その通り、『勉強』なんてものは本来敬遠されるべきものなんだ。全く無駄なものと言い換えてもいい。『勉強』をするという行為は、知識を得るという正に文字通りの行為そのものなんだ。人が『勉強』を嫌がるのはそのことを無意識のなかでも理解しているからだよ」
「でも、今まで知らなかったことが分かる喜びというものはあるぞ」
「そこが誤解の元で、『勉強』と『学問』を混同している証拠だ。過程を捉えることが大事であってそして楽しいんだ。それを『学問』と呼ぶ。知識そのものはそれらを排除した単なる結果に過ぎない。そんなものをいくら集めたところで無意味だし、楽しくもない。これが『勉強』だ。分かりやすい例を挙げようか。そうだな、君が中学生の時、社会の時間はどうだった。歴史で年号を覚えるのは楽しかったかい」
「いや、大嫌いだった」
「じゃあ、歴史の裏話というか、ある出来事の流れを説明してくれたらどうだい」
「それだったら楽しいかもしれない」
「だろう。年号を覚えるのを『勉強』、流れを知ることを『学問』に当てはめてみなよ」
そう言われればそうだと、二三度うなずいた。今日初めて達之の話が圭介に理解できた。「本来、『学問』という行為をしていれば、わざわざ『勉強』なんて行為をする必要性は全くない。なぜなら、『学問』は流れを理解しているのだから当然の如く、その終着点も理解しているはずなんだ。つまり、結果である知識は既に持っているんだよ。だから、『勉強』が好きだと言ってる奴はその言葉の意味を取り違えているか、そうでなければ、それこそ私から見れば変質者だよ」
「ならなぜ学校では、覚えさせることに執着するんだ」
「理由はいくつかあるよ。一つには時間がない。これは『学校』というシステム上の問題もあるけれど、それ以前に一つ一つそんなことをやっていたら時間がいくらあっても足りないよ。英単語をいちいちその成り立ちから説明しても仕方がないだろう」
「そりゃそうだ。それだったらいつになったら本題に入るのか分からないな」
「それから、知らなければいけない知識がみんな同じ量で、しかも期限付なんだ。これは、現実の社会で生活するうえで、ある程度認めないといけないんだけど、その量と質が問題なんだ。人によって必要とするものが異なるのだから。しかし、一番大きいのは君のように『勉強』と『学問』を誤解している教師がいるのかもしれないということだ。さらにその人達を手助けするかのように入試制度が整ってしまっている事なんだよ。学校で本来すべきことは、知識を与えることではなく、『学問』をするための方策を提示してあげることだ。それができれば後は何をしてもいいのさ」
「極端な話、学校へいく必要性もないということか」
「別に極端な話ではないよ。『学問』はなにも学校でしかできない訳じゃあない」
ふうん、と圭介は腕組みをして考えた。なにか少し引っ掛かるところがあるのだがそれを言葉にすることができない。
「私の場合は、少し違っているんだけどね」
「何が」
「『学問』は楽しいものだ、とは言ったけれど、私の場合は楽しいと言うよりももっと切実な問題なんだ。私は自分がどんな人間なのか分からない。早くしないと寿命そのものが尽きてしまう。だから、切羽詰まっているんだよ」
お前の一体どこが切羽詰まっているというんだ。冗談も休み休み言え、年も俺と同じじゃねえかと突っ込んでやりたかったが、本人はいたって真剣だ。圭介は
「ふうん、ということは来週のテストよりも重大事なんだ」
と、皮肉を込めて言った。だが、達之は涼しい顔で、
「ああ、そうさ。あんなことに時間をとられたくはない」
「なら、テストを受けないのかい」
圭介は少し驚いたようなそぶりを見せて、達之の顔をのぞき込んだ。
「勘違いをするな。私だってタダで大学に通っている訳ではない。親からの仕送りでいかせてもらっているんだ。だのに卒業しないなんて事になったら、礼儀に反してしまう」急に現実的になって圭介はおかしかったが、
「だったら、それなりの準備をしなきゃいけないんじゃないのか」
「バカを言え。なぜあんな低レベルなことにわざわざ準備なぞしなければならんのだ」圭介は失敗したと後悔した。確かに、達之の勉強している(この表現が適切なのかどうかは圭介にはもう判断できないが)姿を見たことがない。だのに、成績を見比べてみると決まって達之が勝っているのである。ただし、出席を考慮に入れるものを除いては。それでは部屋に戻って来週に備えようかと、達之に声をかけようとしたが、彼はもう本に没頭している。もういいやと、腰を上げてドアの方へ向かった。ドアノブに手をかけたとき、圭介はふと思い出したように、
「そういえば、お前、俺に対しては良く話すよな」
達之はピクリともせずに、
「君は、分からなければしつこいではないか。しかもたちの悪いことに、私があれだけ分かりやすく説明をしてあげているのに全く理解しない。そんな君には話をし続けて結論を出してしまうのが一番だからだよ。私はむだな時間を過ごしたくはないんだ。とにかく、君は君で有意義な時間を過ごしてくれたまえ」
とそれだけ一気に言うと、もうなにも話し出そうという気配はなかった。圭介は外に出て大きく伸びをすると、首を鳴らしながら自分の部屋へ戻っていった。
NEVER RETURN
河田 耕平
*
君は僕をやさしく見つめている。微笑みを浮かべながら。
僕も君をうっとりと見つめている。これほどに魅力的な君から、僕は目をそらすことができない。吸いよせられるように両手は彼女の肩をつつむ。こわれそうな彼女の体に力を入れることはしない。ただ、やさしく彼女を抱きしめる。抱きしめる。おでこをコツンとくっつける。ほほをよせる。キスをする。
「好きだよ」
「私もよ」
そう答えてくれる彼女に、僕は言いようもないほどの喜びを覚える。体が震える。頭が芯からとけていくのがわかる。「はぁー」感極まった僕は深いため息をつく。彼女を決して離しやしない。このままこうしていたい。離したくない。
しかし、彼女をこのままにしておくことは僕にとって、もっとつらいことだ。
「仕方がないな」
僕は彼女との今日の別れを決意する。まるで今生の別れであるかのような名残惜しさを胸に。
「それじゃあ。またすぐに会えるからね。待っててね」
「わかったわ。また明日ね。すごく待ち遠しいわ」
僕は彼女をそっと抱き上げる。
午前二時二九分。電子レンジの薄緑色の光が僕にそう教えてくれている。彼女の変調は目には映らないが、もしものことがあってはいけない。これ以上の長居は彼女には危険過ぎた。
ガチャン。
ふてぶてしくつっ立っているこの四角い冷ややかな物体に、僕の大事な彼女を任せなければならないなんて、いったい誰が予測できたろう。
「おやすみ」
ガチャン。
ぼくはまた深いため息をつく。
この境遇にはつくづく自分でも泣きたくなる。よりによって自分の彼女が要冷蔵だなんて……
彼女の名前は<花瞬>(かしゅん)、秋田県産の純米吟醸酒だ。こう言うと耳を疑われるかもしれない。でも本当だ。あるときから僕は彼女に恋におちた。
彼女は薄青色のボトルと中に入ったお酒で構成されている。その薄青色のボトルはいかにも清潔な衣装をまとった薄幸で、けなげな彼女の表情をイメージさせる。そしてその表情は時間やちょっとした光の加減によって、泣いているようにも見え、微笑んでいるようにも見え、すねたふりをしているようにも変化する。中に入ったお酒は彼女の心をあらわすように一点の曇りもなく、静かに満ちている。もしかしたら彼女の体は酒の部分だけかもしれないし、逆かもしれない。けれど、どこが彼女なのかと聞くことはしない。聞く必要などない。僕にはわかる。彼女の表情、姿、心、何もかもが。僕にとってはすべてが彼女なのだ。それによって僕たちの関係が変わることなどあるわけがない。
僕はゆっくりとベットに体をよこたえた。ぐーっとのびをする。チリリリリリ チリリリリリ また耳鳴りがする。初めから比べると少し大きな音に変わったようだ。頭の芯から響いてくるようなこの音は、余り気持ちのいいものではない。
流しに歩み寄った僕は蛇口を開いて水を大きく口に含み、ゴクッと飲み下した。大きな ため息をついた。いつだろう、こいつがはじまったのは。たぶん積極的な強引さに満足していたあの頃にはこんな音はしなかったはずだ。それが、ある時を境にして僕の心の歯車は大きく性質を変えたのだった。
それはこういういきさつである。
*
「きれいだなぁ」
僕はぼけっと窓の外を眺めていた。
「ねぇ」
ここは大学の大講堂、ちなみに窓際。断っておくが授業中ではない。れっきとした休み時間だ。くっきりとした真夏の青空が僕の前に姿を現している。あの青い空と白い雲とのコントラストがたまらない。さっきまで気がつかなかったのが嘘のようだが、まあさっきまで苦手な物理の講義に頭を悩ませていたことを思えば無理もない。今日は真夏日らしくてここを一歩出ればよどんだ熱気が僕をもてなしてくれるのだろうが、幸いこの教室まではその熱気は到達していない。
それにしてもきれいな青空だ。さっきまでかすかに聞こえていたセミの声も、この景色の前では耳にも入らない。窓を隔てた向こうの世界はあまりにも美しく、何をやっても平均点の僕には永久にそっちに行く資格がないんじゃないかとさえ思う。僕のようなものにとってはこちらの世界がお似合いだろう。
「ねぇ」
いけない。呼ばれたのは何度目だろう。僕は考え事をしていると、耳に何も寄せつけなくなってしまう。悪いことをした。
僕の視界に入ってきたのは一人の女の子だった。授業で何度かしか見たことがない。髪はショートカット、大きな目をしている。探るようすはまったくなく、まっすぐに僕の目を見つめていた。
「あっ、ごめんね。何か用」
「今、ひまですか」
「えっ。別に忙しくはないけど」
「じゃあ、ちょっとだけつき合って下さい。お茶でもどうですか」
そう言って彼女は出口の方を目で示し、僕の方を振り返った。そして、そのままゆっくりと歩き出した。
僕は戸惑いながらも、彼女の導く方へと足を踏み入れた。さっきまでは入ることができずにいた窓の外の世界に、彼女は楽々と僕を踏み入れさせたのだった。こんなに簡単なものだったなんて僕は思ってもみなかった。こちらの世界は何もかもがバラ色に見える。素晴らしい。
僕はコーヒーをくるくるとかき混ぜ続けた。そして、目は彼女からそらすことができなかった。時間を忘れた。
「そろそろ出ましょうか」
「えっ。もうそんな時間かい」
時計を見た僕は驚いた。もう七時をまわっている。
「私、バイトに行かないといけないの。ごめんなさい。また会ってくれる」
「いいよ喜んで。僕もバイトだったんだ。六時からだけど。すっかり忘れてたよ」
彼女との六時間、僕はコーヒーを何度かき混ぜ続けたことだろう。まるで夢のようなひとときだった。いつも彼女と会っていたいと思った。
「そうだったの、ごめんなさい。じゃあ急がなきゃ」
「いや、いいんだ。今日は休むよ。本当に今日はありがとう」
彼女はこう言った。
「あの、また会ってくれるって聞いたけど、はっきり次に会える日が知りたいわ。次はいつ会えるの。そしてその次は。次は。……」
僕はその強引さに魅かれた。僕は彼女のイニシアティヴを無条件に受け入れ、それが快く感じたりした。自分にないものを持っている彼女を自分のものにしたいという気持ちもあったかもしれない。どんどんと彼女にのめり込んだ。自分にこれほど熱い感情が流れているのだと感じたことなどなかった。
僕たちの出会いはさしずめ、大船とまではいかないが小回りのきく中型船の操舵を任された腕のいい船乗りが、もの静かな水夫を選んだといったところではなかったろうか。
船乗りは思い立ったらすぐ自分の愛船を出航させ、僕の現れそうなところや下宿にもよく連絡なしにやって来た。
*
もう彼女との関係がはや一か月を迎えようとしていたある日のことだ。
「ピンポーン」
「はい」僕は声を上げた。
「私だけど」
「あっ。今開けるよ」
僕は彼女のためにドアを開けた。僕の部屋はワンルームマンション。人から言わせれば「学生の割にいいところに住んでいる」んだそうだ。インテリアはモノトーンを基調にしていて、いつもしんとしたイメージを与えている。いや実際本当にしんとしている。一人でいると物音を立てるのも気が引けるほどだ。
「今、忙しいの」
そんな時僕は彼女のために、何もかもほっぽり出して迎え入れてやることにしている。「全然。上がってよ」
「あっ。おみやげ持ってきたんだ」
彼女が後ろ手に持っていたもの、そして僕の前へと突き出したもの。それは彼女が後ろ手に隠せたくらいの瓶。いや、ボトルといった方が良いのかもしれない、薄青色のボトルだった。
「これ、お酒なの。純米吟醸って言うの。あなた知ってるかしら。おいしいのよ。名前は『花瞬』って言うんだって。すごく可愛いでしょう。気にいったんで買ってきちゃったんだ。飲もうよ」
そして彼女は僕の部屋へと舞い降りた。いつ来ても彼女は僕を幸せにする。僕はグラスを二つ用意する。
「ほとんど何も入ってないや」
冷蔵庫を開けた僕はそう言った。何か作ろうかと取りかかる。昨日買ったトマトをスライスする。マヨネーズを添えた。卵を二つかき混ぜ、MILK、塩とこしょうを少々加える。そしてフライパンの上にたっぷりのバターとともに流し入れる。ジュー。いい匂いだ。昔からバターの香りには人の心をときめかす成分が入っているのではないかとよく思ったものだ。今、もちろん僕の心はときめいている。彼女のいる嬉しさがよりいっそう僕を揺らす。ようし、うまい具合にひっくり返せた。プレーンオムレツのでき上がりだ。
「おいしそうね」
彼女は僕の方を見つめている。何て素晴らしいひとときだ。
「さあ、飲もうか」
僕は威勢のいい声を上げた。
『花瞬』を手に取り、開けようと力を込めた。が、プルルルルル プルルルルル 何か電子音が鳴っているのが聞こえる。僕のではない。彼女はバッグから携帯を取り出し、着信のスイッチを押した。僕は『花瞬』を開けようとしていた手を止めた。
「はい。もしもし」
何か向こうからキンキンした女の声が響くのが聞こえる。彼女ははっと顔をこわばらせた。そしてみるみる青ざめていくように見えた。
「わかりました。すぐ行きます」
電話を切った。
「何かあったの」
僕は問いかけた。
「とにかく私、病院に行かなきゃいけないの。また連絡するわ」
「ちょっと待てよ。一体どうしたんだい」
「ごめん。早く行かなきゃ」
僕は彼女の深刻そうな様子にこれ以上の足止めをやめ、彼女は私のもとを走り去った。一人取り残された、いや『花瞬』と共に取り残された私は、しんとした部屋でもくもくとオムレツとトマトを食べた。味などしなかった。もちろん『花瞬』を開けたりはしない。これは彼女の残していったたったひとつの話し相手なのだから。
それからの僕は焦りと不安にさいなまれた生活を送った。彼女の電話を待ち、暮らし、そしてほんの数時間、浅い眠りをむさぼった。彼女からの連絡はなかった。連絡をとる方法はいくつも考えた。手は尽くした。だが彼女の自宅の電話番号は不明のまま、携帯番号さえも知るものはいなかった。
驚いたことにもっとも仲の良い友達さえそれを知らなかった。しかしそれは私にも当てはまることだったのだ。
「どうしてつき合っているあなたが知らないの。遊ばれてただけじゃないの」
それはよく考えてみると、決して予測のつかない言葉ではなかったが、その時の僕にその言葉を受け入れるだけの余裕などあるはずがなかった。言いようのないショックに僕は、話している声にもかまわずに受話器を置いたを受けた。しばらく口も聞けず、どこを見つめているともない視線をあちこちに送った。そう、彼女はいつも自分から僕を見つけ出そうとし、それがかなわない時には僕を責め立てた。彼女は自分の都合のいい時にだけ僕を捜そうとし、いや、僕だけではない。彼女のまわりの誰かれもが彼女にとっての都合のいい人だったというのか。僕がこれほどに彼女のことを思っているのに。考えているのに。
僕は変になってしまいそうだった。彼女のことを思うと、胸が押しつぶされそうに痛んだ。ベッドで毛布にくるまって、僕は幾日も、幾日もガタガタと震え続けた。熱いのか寒いのかもよくわからない。涙が後から後から頬をぬらした。彼女は今でも僕を好きでいてくれているはずだ。きっとそうだ。何か事情があって、そう、例えばこうだ。彼女はあの後おじさんのいる病院へと駆けつける。おじさんは危篤状態で、一週間生死をさまよっている。彼女は寝ずの看病につき添う。おじさんは亡くなるが、そのショックで彼女は寝込んでいる……。しかし、いくら考えても僕に連絡をくれない理由には結びつかない。
僕にとっても、彼女にとっても、二人の関係は何より大切なものでは無かったのか。
もう何が何だかわからなかった。僕は冷蔵庫からあの『花瞬』を取り出した。もうこのままで彼女を待つことなんてできない。これを飲んでしまえば何か薄らぐかもしれない。
僕が『花瞬』のラベルをはがそうと試みた時だった。
チリリリリリ チリリリリリ あれ。耳鳴りだろうか。本当にかすかな音だが耳について離れない。都会の雑踏の中では消えてしまいそうな音だが、やはり気になる。僕は両耳に指を突っ込んだ。軽く回してみる。そしてそれを抜いた時、それは話し出した。
「ごめんなさい。もうあなたを見ていられないわ」
空耳だろうか。それにしてはえらくはっきりした声である。若々しく、それも女性の声のようである。
「あなたはいい人すぎるのよ」
「誰だい。君は」
聞くまでもなかったのだが聞かずにはいられない。なんせその声ははっきり耳の前から聞こえてくるのだから。
「彼女のことにまだ未練があるのね。かわいそうに。もう帰ってこないかも……」
「そんなことあるもんか。彼女は誠心誠意」
「本当にそう思っているの」
僕は『花瞬』の強い言葉に言葉をさえぎられた。
「私にすべてを打ち明けてちょうだい。何でも相談に乗るわ。苦しんでいるあなたを見るのは本当につらいの。お願い、話して」
花瞬は、いや今僕の前に見えるのは一人の美しい女性だった。
彼女の言葉は僕の心をひどく痛めたが、彼女が僕のことを本当に気遣ってくれているということはひしひしと伝わった。幻覚なのかも……という考えも慌てて打ち消し、僕はすべてを打ち明けた。どれだけ話しただろうか。長い時間が流れた。そして僕が話すのは、いつの間にか小さい頃のことであり、釣りをしていてテトラポットにはまったことであり、家が初めて雨もりした時の話に変わっていた。花瞬は時折深刻な顔を見せ、わんわん泣きじゃくり、そして時折くすり、と笑った。僕は話し続けた。悲しみをいやすように。そして。いつの間にか。花瞬は僕の心にぽっかりと開いた穴をすっかり埋めようとしていた。それは砂漠に水がしみ入るように急速に。彼女を忘れたわけではない。そんなに簡単にいくわけがないと思っていた。けれど、考えていたよりもはるかにスムーズに花瞬は僕の心にふたをしようとしていた。
そして幾日もすぎ、穴が完全にふさがろうとしたその瞬間、僕は花瞬をいとおしく思えた。彼女は僕の心を満たしてくれた。
「ありがとう、花瞬。君がいなければ僕はどうなっていたか」
「あなたが元気になって嬉しいわ」
「君にずっといてほしい」
「いいの。私で」
僕は花瞬をやさしく抱きしめた。ずっとそばにいてくれる。僕は本当に求めていたものを見つけ出したと確信した。
チリリリリリ チリリリリリ チリリリリリ チリリリリリ チリリリリリ リリリリリリリリ ………………
*
少しずつ僕は外にも出れるようになった。いつでも会いたい時に、君はそばにいてくれる。そう思うと足取りも軽いものだった。しじゅう耳鳴りはしたが、それでも心は軽やかだった。授業にも行った。バイトにも行った。すべて花瞬の存在が至らしめた行為だということは言うまでもない。
僕はじんわりとした幸福をかみしめた。
まわりには僕の変わりようが不思議だったようだ。思い詰めた様子で学校に来なくなったかと思うと、突然ふと現れて満面の笑みをたたえている。陰でいろいろ言われているようだった。けれどそれが何だって言うんだ。まわりの声なんて気にもならなかった。幸せだった。しかし、ああ、何ということだろう。
落ち葉舞い散る寒い夜にそれは起こった。
バイトからの帰りは中央線での三十分、そこから徒歩五分のところに僕のマンションはある。いつものように電車を降り、家までの道のりを歩く僕に突然、大音量の耳鳴りが響いた。ギリリリリリ ギリリリリリ グゥワーン グゥワーン いやな予感がした。その予感は瞬く間に強さを増し、立っていられないような重さで僕に響いた。ギリリリリリ ギリリリリリ それは僕のマンションに一歩一歩近づくごとに確実に大きく音を変えた。僕は歩いて家に向かっていたのだが、たまらず早足になり、そして走り出した。途方もなくいやな予感がしたが、一方では慌ててそれを打ち消した。
とにかく走った。耳鳴りに追われ、家に着く頃には走るというよりも這っているという状態だった。カチャン。ドアを開けようとしたが、開けたくないという力も働くのを感じた。
そして……中を見たのだった。
中を見た瞬間、コ ト リ 。ト ボクノナカデナニカガハズレタ。
「グワオーーーー」
僕は咆哮していた。何度も、何度も。耳鳴りはゴーゴーと音を立て続けている。もうおしまいだ。こともあろうに僕の花瞬はキッチンの流し台の上で体をバラバラにされていたのだ。哀れな姿で倒れている。必死に抵抗したのだろう。美しい髪の毛は見る影も無い。
気がつくと僕は、血だらけになるのも構わずに彼女の体に流れていたものを吸いつくそうとむさぼり、ばらばらになった体にほおずりをしていた。ギーリ ギリ、ガーリ ガリ ガツリ ガツリ……いやな音も耳鳴りとあいまって僕の中だけの魅惑のコンチェルトを奏でる。そんな音を快く感じながら、僕は彼女を愛撫し続けた。
「花瞬。もう大丈夫だよ。これからも僕たちは一緒さ」
僕はつぶやいた。頬や手はずたずたに裂けたが、痛みなどはない。ただ彼女をいとおしく思った。ずっとこうしていたかった。
「あらっ。帰ってたの。一度来たんだけど買い物してきちゃった。ごめんね。お酒、割れちゃった」
振り返った僕に映ったものは一人の誰だかわからない女だった。髪はショートカット、大きな目、……
こいつがやったんだ。僕は確信した。そして恐怖に顔をゆがませる女へと僕は渾身の力を込めた。
*
僕は目を開けた。
何もしないのに体に鈍痛が走った。痛さに顔がゆがむ。
顔にぐるぐるに巻かれた包帯のあいだから見えるのは、気持ち悪いほどに真っ白い天井と鉄格子のはまった小さな窓だけだ。
ここは特別な病院らしい。ほんとうに静かなところだ。あまりの静けさに、僕は耳の機能が壊れたのかと包帯を巻いた両手でゴシゴシこすってみる。大丈夫だ。聞こえる。少しほっとする。
けれど僕には記憶がまったくない。いったい僕はどうしてここにいるのだろう。いつから? そしていつになったらここを出ることができるのだろう。先生もなぜだか教えてくれない。自分で思い出すことが何よりの治療だそうだ。とにかく心がどうにかなるほどの ショックを、僕は受けたらしい。こんな自分が自分でやりきれない。はやく自分が何者で、何が僕をこうしたのかを思い出したいという気持ちでいっぱいだ。
しかし……
しかし、ほんとうにそれでいいのだろうか。今の僕は、その真実に耐えきれるのだろうか。このまま一生思い出さずに暮らした方が自分のためなのかもしれない。けれどそれも僕にはどうにもできないことだ。神のみぞ知ることなのだろう。今はゆっくり休むしかないのだ。
空の青
橋本 宗隆
目の前をこどもが二人すぶ濡れになって走っていく。道にできた大きな水溜まりの中を水を跳ね上げながら、真っすぐに突っ切っていった。
(私も女学校に入る前ならあんな風にしていたかもしれない。)
ふと、そう思う自分が何となくおかしくなった。さっきから雷が鳴る度に悲鳴をあうになる自分は、昔と何ら変わるところはないのに。
西の空を見てみると遠くの方ではもう陽が差しているようだ。夕立だからすぐに止むだろうとこの家の軒下を借りることにして、かなりの時間になる。実際には十分ほどしか経っていないのだろうけれど、とにかく早くこの場を動きたかったので倍ぐらいに感じていた。
(この家の人が出てきたらどうしよう。)
そのことばかりが気になり、落ち着かない時間を過ごしていた。
青い傘をさした青年が歩いてくる。詰襟を着て、何冊かの本を大事そうに小脇に抱えている。靴が泥だらけになっているが、気にならないようだ。それだけなら取り立てて関心もわかなかっただろうけれど、その青年の背丈が六尺近くあったのがいけなかった。つい見入ってしまい、思わずその青年と目があってしまったのだ。急に恥ずかしくなって、うつむいて顔を上げられなくなった。
「あの…」
声をかけられて、青年がこの家の人だったのかと思い、事情を説明しようとした。
「すみません。あの、急に雨が降ってきたもので、その……」
何も悪いことはしていないはずなのに、どうにも言葉に窮してしまった。青年はあわてて言った。
「いや、そうじゃなくて」
だとしたら目があってしまったのが悪かったのだろうかと、ますます不安になった。
「よかったらこれを使ってください」
そういってその青年は自分のさしていた青い傘を差し出した。私の思いつく範囲の全てとは全く違った青年の行動だった。
「でも…」
どうしていいのか分からなくなる。それを察したのか、青年は持っていた本を懐にしまい、傘を下に置いた。
「どうぞ。それじゃあ」
と言って雨の中を懐をかばいながら駆け出した。
「これ、どうやって返せばいいんですか」
もうかなり離れてしまったその人に、思い切って呼び掛けてみた。雨音で聞こえないかもしれないと心配したが、その人は立ち止まり振り返った。
「ああ、そうか。それじゃあ、いつでも構いませんから、すぐそこの『まつや』という食堂に預けておいてください」
と言って、さっき歩いてきたほうを指差した。それなら学校の帰りに前を通るから知っている。
「はい、分かりました」
そう答えると、青年は手を挙げて挨拶し、また駆け出した。青年が去り、また一人になった。少しの間忘れていた雷がまた気になりだした。同時にこの軒下の家の人のことも。あんな大声で話していたのだから気付かれていても不思議はない。とにかくここを離れようと思い、青い傘を拾い上げた。傘の柄に『広瀬』と書いてある。その時、初めて青年の名前を聞き忘れたことに気付いた。青年の親切は素直に感謝すべきものだとは思う。しかし余計な事件に巻き込まれてしまったような疲労感もあった。けれどそんなものはすぐに忘れてしまった。一つだけ、いつまでも頭から離れなかったのはあの人の最後に見せた笑顔だった。
「どうしたの? こんないい天気に傘なんて持って」
学校の門を出ようとしていたところを、夏子につかまった。
「ちょっとね」
私の曖昧な返事に好奇心が服を着たような彼女は満足しなかった。かえって何かあると勘繰られてしまった。
「へえ。ちょっと、ねえ。十年来の親友のあたしにも言えないことなの?」
そう言いながら顔をのぞきこみ、恐い顔をしてみせた。
「仕方ない」
夏子は許してくれそうもなかったので、観念してしまった。
「そうこなくっちゃ。親友さん」
そういいながら彼女はさっきまでとはうってかわった笑顔を見せた。夏子の表情の豊かさにはいつも感心させられる。
「きのうね……」
きのうの背の高い青年のことを話した。夏子は半ば呆れたように聞いていた。話が終わるとすぐに彼女は口を開いた。
「いまどきそんなことする人いるのね。その広瀬さんていう人、映画か小説の見過ぎじゃないの。ちょっと信じられないわね」
確かに自分もそう思っていたけれど、こうあからさまに言われるとあの人を弁護したいような気になってきた。
「とにかくその店に行ってみましょう」
そう言うと夏子は呆気にとられている私を置いて先に歩きだした。
「どうしたの? 早く行きましょう」
振り返って急かすように言う。
(心強い同伴者ができたと思えばいいか。)
そう思うことにして後を追い掛けた。
「まつや食堂」と書かれた店の前までやってきた。入り口には営業中の札が掛けられている。今朝この前を通った時に気付いた店先の朝顔はもう萎れてしまっていた。朝顔が咲いているうちにこの傘を返しておくべきだったかもしれない。自分の勇気のなさが情けない。小さな頃から知らないところに行ったり、知らない人と話したりするのがどうも苦手だった。その点で私は夏子がうらやましい。
「入るわよ」
私がどうしても開けらけなかったものをいとも簡単に開けてしまった。彼女にとっては他人ごとだからこんな風にできるのだろうか。多分私と同じ立場でも変わらないだろう。戸が開けられると、ふと懐かしい気分になるような匂いと、威勢のいいおばさんの声が出てきた。外の日差しに目が慣れていたせいで、店の中が少し暗く感じられた。真ん中の通路を挟んで左右に二台ずつ並べられた食卓には、食事時でないせいか誰もついていなかった。奥にある厨房から人のよさそうな小柄のおばさんが顔を出した。
「ほら」
夏子が私の背中をぽんと叩いた。私の代わりに説明してくれるかもしれないという、勝手な期待は裏切られた。親友は私がしどろもどろになるのを期待して、楽しんでいるのかもしれない。なんとかそれだけは回避したい。
「昨日、私が雨に降られて困っていたときに、傘を貸してくださった方がいて、それでここに返しておくように言われたんですけど……多分、広瀬っていう方だと思うんですが…」
これだけ言えれば大丈夫だろう。ちらりと親友を見ると小さくうなずいてくれた。
「ああ、広瀬君かい。へえ、あの子がそんなことするとはねぇ」
おばさんはそう言ってしきりに感心している。
「あの…」
声をかけなければおばさんはずっと感心したままだったかもしれない。
「ああ、分かりました。それじゃあ確かに渡しておきますよ」
その時、客が二人入ってきた。学生帽をかぶったその二人は、ちらっとこちらを見てから奥に座った。
「あんたたち、いいところに来たよ。今日は広瀬君は来ないのかい?」
この二人は広瀬さんの友人らしい。おばさんに言われて学生の一人が答えた。
「広瀬なら今日は図書館にこもってるよ。あいつはおれたちとはここのできが違うからなあ」
そういって丸顔の学生は自分の頭を叩いてみせた。もう一人も口を開く。
「そうそう、おれたちにとっちゃあ海兵なんて夢だからなあ」
それを聞いて夏子が思わず声を上げた。
「ええ、海軍兵学校ですか?」
夏子にとっては、海軍といえばそれだけで憧れの対象になり得た。二人の学生は夏子が声を上げたことに驚いたようだった。それを見て、おばさんがすかさず事情を説明する
「あいつがねえ」
「ふうん。あの真面目一本な奴がねえ」
二人がまじまじとこっちを見てきたので恥ずかしくなってうつむいてしまった。この場を早く離れたかった。
「これ、お願いします」
おばさんの前に青い傘を突き出した。おばさんはいきなり傘を渡されて、面食らっていたようだった。
「ありがとうございましたとお伝え下さい。失礼します」
それだけ言って逃げ出すように店を出た。後から慌てて夏子が追い掛けてきた。
「どうしたのよ、突然」
そんなことを言われても自分にもよく分からなかった。ただ、夏の日差しが目に痛かった。
広瀬さんに二度目に会ったのは偶然だった。それから時々会うようになった。あまり人目に立つところで会うわけにもいかなかったし、そう度々というわけにもいかなかった。週に一度、学校がひけてから、待ち合わせることにしていた。互いの都合が合わないときは会えないこともある。うまく会えたときでも、一時間も一緒に居ることはなかった。
あの雨の日から一年が経っていた。
この町で一番大きな池。周りを囲む木々を映す静かな水面を見ながら、ぐるりと一周できるように道がつけられている。この、人が二人並んで通れる程度の小さな道を通って、いつもの場所に向かった。ここまでの道を急いだせいか、久しぶりに会えることに緊張でもしているのか、今日はこころなしか呼吸が乱れているようだった。いつもの背の高い木の辺りまで来ると、広瀬さんが木の側にある大きな石の上に腰掛けて、何かの本を読んでいるのが見えた。呼吸を整え、自分を落ち着かせて、ゆっくりと近付いていくと、私の気配に気付き、本を閉じて腰を上げた。
「やあ」
と、右手を軽く上げて挨拶したので、私は黙ってお辞儀をした。
「あれっ? 少し顔色が悪くありませんか? どこか体の具合でも悪くしているんじゃないですか?」
広瀬さんは私の顔を見るなりそう聞いてきた。確かにここ数日、少し体が重いような気がする。しかし、病気というほどではない。近頃は、食べるものも手に入りにくくなっているし、疲れでもたまっているのだろう。
「いえ、何とも……そんなに調子が悪そうに見えますか?」
「いや、気のせいかもしれませんね。元気ならそれでいいんです」
私は心配されているというだけで、嬉しくなった。
「それはそうと今日はいい報せがあるんです。それを少しでも早く君に伝えたくて、それで早くに来過ぎてしまいました」
そう言う広瀬さんの顔は本当に嬉しそうだった。
「なんですか? そのいいことって」
薄々は分かっていたけれど、そう尋ねてみた。すると、広瀬さんは無理遣りに真面目な顔を作って答えた。
「先日、海軍兵学校に合格したと通知がありました」
「おめでとうございます」
私がそう言うと、広瀬さんはまたいつもの優しい顔に戻った。
「ありがとう。精一杯勉強して、立派な士官になって、必ずこの国を守り抜いてみせるよ」
私には、この優しい人が戦場に立つところを想像できなかった。
私が結核だと分かったのは、広瀬さんが学校に入ってすぐのことだった。
「御免ください」
玄関でした聞き覚えのある声に目を覚ました。確かに起きているのだけれど、夢の続きを見ているようで頭がはっきりしない。
「はあい」
裏庭にある小さな畑の方から母が答える。縁側で履物を脱ぐ音がして、それから、少し早めの足音がこの部屋の襖の向こうを通っていった。しだいに頭がはっきりしてくるのと同時に、鼓動が早くなっていくのを感じていた。
「どちら様でしょうか?」
玄関での会話がよく聞こえる。
「広瀬と申しますが、お嬢さん、里子さんはおられますでしょうか」
広瀬さんは今年、学校を卒業していた。
「ああ、あなたが…ちょっとお待ちくださいね」
母は時々くる私宛ての手紙の送り主がこの人だと察したらしい。客を玄関に待たせて部屋の前までやってきた。そして襖を半分開けて顔をのぞかせる。
「どうするの?」
とだけ母は尋ねた。会いたくないわけがない。この襖を開け放てば玄関にいるあの人の顔が見られるはずだった。けれどもそれ以上に、以前とは違い、自分でも鏡を見るのが辛いほど痩せてしまった姿を見せたくない気持ちが大きかった。黙って首を横に振る。
「そう」
母は戻っていった。
「あいにく、朝から気分がすぐれないと、休んでおりますもので…」
と、精一杯の嘘をついてくれた。
「そうですか、それではお伝え願いたいことがあるのですがよろしいですか?」
「はい」
母が襖を閉めて戻らなかったので、さっきよりもはっきりと声が届いているように感じられる。
「配属が決まりました。明日出征します。お体をお大事に」
一際大きな声だった。言葉が心に鋭い穴を空けて通り過ぎていったような気がした。息がつまりそうなほどの重圧が四方から襲ってきた。母が何か言ったようだがもう耳には入らない。
「それでは失礼します」
玄関で靴音がする。徐々に小さくなっていく。聞こえなくなる。母が玄関の戸を閉める音が聞こえたとき、襖を開け放ち、母の横をすりぬけると、履くものも履かずに外へ駆け出していた。見回すと、向こうの四つ角の真ん中に、白い軍服に白い帽子が見える。呼び掛けようとした時、その人は振り返った。ちょっと驚いたような顔をしたが、すぐ真顔になり姿勢を正し、ゆっくりと敬礼をする。
「お帰りをお待ちしています」
私は聞こえるか聞こえないかの声でそういいながら、頭を下げた。
青い傘を差した男がひとりしゃがみこんでいる。男の目の前にたたずむ墓石に刻まれた文字の上を、雨が静かに流れていく。もとの半分ほどに背丈を減らした線香からのぼる煙が、男の青い傘の下に薄く漂う。
「ご苦労さまです」
後ろから不意に声をかけられて、男は振り返った。
「ああ、住職。お久しぶりです」
そういいながら立ち上がった。
「今日は朝から嫌な天気ですな」
丸い眼鏡をかけたその老人は、空一面を覆っている雲を見上げて言った。ほんのしばらくの沈黙の後、男は口を開いた。
「いえ、私は雨は嫌いではないんですよ」
しばらくして、男が立ち去った後には、青い傘が墓石にかけられたまま残されていた。
探偵入門
才戸 朋洋
松村が動き出した。彼は今まで腰を掛けていたガードレールを離れるとぼくの前を通り過ぎ、すでに黄色の点滅信号に変わっている交差点を渡ろうとしている。ぼくは駅の入り口に下ろされたシャッターもたれながら彼の行方を目で追った。午前一時をわずかに過ぎたばかりだというのに道路を走る車はほとんど見当たらない。松村は左右とそして足元に転がっている空き缶に目をやると、別に急ぐ様子もなく歩いていった。
退屈。この駅にたどり着いたとき全身にまとわり付いていた絶望感が去ると、果てしない時間との戦いに駆り出されることになった。背中を流れる汗が蒸発するときのように何かをしていないと温度が奪われてしまう、そんな感覚に似ている。そもそも今日は木曜日だからいつもなら六時半に部屋に帰っているはずだが、この駅で一夜を明かすことになったのは、つまらない理由からである。
大学から帰る途中、ぼくは明日の授業が休講になっているのを期待するでもなく、ただ習慣のように掲示板をのぞきこんでいた。金曜の欄に見覚えのある授業はなく、無感動にカバーのとれた自転車のベルを右手の人差し指で回していた。また明日、九時から四時過ぎまでこの校舎に授業を聴くでもなく待機していることに一抹の虚しさをおぼえながら、また別のところでは帰りのラッシュを思い起こしていた。われながら黄昏てるなと思ったが、ベルを空打ちするカシャ、カシャという音がそう思わせたのか、ただ淋しかっただけなのかは分からない。しかし彼女が後ろから話し掛けてくれたとき、嬉しいのと同時に充たされたような気がした。
「何か載ってる?」
彼女は自転車にまたがって微笑んでいた。
「いや、ぼくの授業は全部あるみたいだけど」
ぼくの隣にいた自転車が走り去って、彼女はぼくのすぐ脇に滑り込んだ。視力が低いのか、大きくて黒目がちな瞳を細くして掲示板を見上げる表情は、テリヤのような小形の犬を連想させる。
「わたしもあるみたい。面白くないな」
「うん、もっと先生、真面目じゃなかったらいいのにな」
「ねえ、何か気晴らしに遊びに行かない?」
大学に入ってから四ヶ月の間に五、六回ばかり話しただけの人間と二人で遊びに行くことに少なからぬ抵抗はあったが、ドラマの出会いのシーンのようなシチュエーションに呑まれてしまったのが運のつきだった。カラオケ、ファミリーレストラン、ボーリング、喫茶店と考えられるコースをすべて歩み、挙げ句の果ては「今度の夏合宿、男手が足りなくて困ってるんだけど、今からでも遅くないからサークルに入らない」と切り出された。大学にいくつもあるテニスサークルの中の一つに入っているという彼女は、早速一回生の仕事として知り合いを勧誘してくることを言い使ったのだそうだ。それほど各サークルの生存競争が激しいことが伺えるが、ぼくには同情する気は全くない。むしろ、ほとんど会話もしたことがないぼくにまで声を掛けてくることに新興宗教の布教活動のような不気味ささえ覚えた。適当に話を切り上げ彼女と別れたときは、もう十一時になろうとしていた。
小学生のように帰宅時間を気にしながら、ラッシュをまぬがれた喜びに浸っていたぼくを一気に叩きのめしたのは、ちょうど乗換駅のホームに降り立った瞬間だった。照明の何%かはすでに落とされているのか、四、五番ホームは薄暗い光に浮かんでいた。電車から降りた乗客はみな土色の顔をして出口の階段に吸い込まれていった。そこに残されたのは、ほうきとちりとりを足元に置き発車の合図をしようとしている駅員だけだった。五番ホームの行き先表示板は、ただ暗い闇を抱いたベッドのように静かにそこにあるだけだ。乗り継ぎ電車がないことに気づくまでそんなに時間はかからなかった。しかし人間は常に前に進みたがる性質を持っているらしい。ぼくは発車のベルが鳴るのを聞くと今乗ってきた電車に再び飛び乗ってしまったのだ。
さっきまでは、この辺りを歩きまわって頭の中に初めて訪れるこの街の地図でも作ろうかと思っていたが、それもやめた。バス停の向こうで輪になってしゃべっている高校生ぐらいの五人組が、ぼくが前を通るたびにこっちの方を気にしているのが分かったからだ。
同じ境遇だろうか。ガードレールに腰を掛けている男がいる。彼もここで一夜を明かそうとしているのだろうか。ここしばらく動こうとする気配は全く見せない。それにしても妙な存在感を持っている。表面にうっすら汗を浮かせているぶよぶよした肌。額にはりついている切り揃えられた前髪。背は低いもののがっしりとした体躯。それらはぼくにテレビに出ている松村邦洋を思わせた。
彼以外ではもう一人、坊主頭でひげを生やしたやくざ風の男がいる。男はさっきから道路脇にじっと立っている。たぶんタクシーを待っているのだろう、ぼくがここに居座ってからまだ一台も通っていない。
しかし、ぼくはこれからどうなるのだろう。ここで始発を待つことを決心してからは、やけに時間が遅く感じられる。今のうちから彼と仲良くなっておくべきかもしれない。ともに時間と不安を持て余している者どうし、くだらない話を延々と続けることができるなら幸いだし、彼のことを知らないまま別れてしまうのはもったいなくもあり、気持ち悪くもあった。とはいうもののやはり、声をかけるまでには至らなかった。
ここにきて三十分が過ぎた頃だろうか、ぼくに突然名案が浮かんだ。人間というものは目的を持った瞬間から暇が暇でなくなるものだ。たとえそれが無意味なことであったとしても。
ぼくは以前に一度だけ人を尾行したことがある。確か浪人時代に模擬テストを受けに行った帰りのことだったと思う。それまでにも尾行をしようと試みたことは何度かあった。しかし、そのときまでなかなか実行に移せなかったのは、やはり興信所や探偵会社の人が仕事としてやる場合を除いて、犯罪的、変態的に思えたからである。
私立文系志望者のテストは午後二時に終わり、ぼくはそのあとの時間を持て余していた。まっすぐ家に帰りたくなるような出来だとは言い難く、かといって出来の悪さをわりきって鬱憤晴らしに行けるほど大胆でもなかったのだ。その宙ぶらりんな気持ちが、ぼくに一線を越えさせたのかもしれない。
休日の昼下がりとあって、大勢の人がひっきりになしに行き交っている。ぼくは、予備校の近くの駅のステーションビルに入り、待ち合わせに使われることの多い広場で、オブジェにもたれて立っていた。が、さっそくそこでぼくは大きな問題にあたってしまった。誰を尾行するか、である。今までは全く気にもかけなかった人の群れは、個人だけで成り立っているのではなかったのである。二人以上の小集団の集まりであったのだ。今日が休日のせいということもあるのだろうが、独りで暇つぶしをしているような人間は見当たらなかった。ぼくは仕方なく、ターゲットを探すため、しばらくこの場で待機することにした。
今思えばこのときも突然だった。早足で歩いていく女の人の後ろ姿を見たとたん、背中の産毛が総立ちするような感覚に襲われたのだ。彼女は黒い革のハーフコートにホワイトジーンズをまとっている。右うでを八十度ぐらいに折り曲げそこにブランド物らしい黒いボストンと白い傘を掛けている。唯一モノクロではない傘の青い柄が、その存在を主張しているようだ。ぼくにはその傘の柄のわん曲が檻の中に放り出されたヘビに見えた。そして自分の自由をも忘れてこっちをにらむヘビは、ぼくの混迷した心を動けないカエルのようにとらえて放さなかった。
彼女は地下鉄の駅の方に向かって行った。まっすぐ家に帰るとは思えない何か目的を持った歩き方をしている。それぐらいのことは歩き方を見ているだけで分かるものだと初めて知った。ぼくは、彼女との距離が十メートルぐらいになったのを確認すると、ついに探偵としての第一歩を踏み出した。
やはり彼女は地下鉄に乗るらしいが、幸いなことにぼくは地下鉄と私鉄数社に共通のプリペイドカードを持っていた。どこに向かおうが大抵の所へはついていけるだろう。彼女は定期券を持っていた。ということはこれから家に帰るのだろうか、そんな不安を抱きつつ彼女の隣のドアから地下鉄に乗り込んだ。
彼女もしばらくは乗っているだろうと、ぼくはたまたま空いた席に座ると、彼女はそれを見透かしていたかように次の駅でさっさと下りてしまった。そしてエスカレーターに乗っても歩みを止めることなく一気に上っていった。まさか、気付かれたのか? いや、そんなはずはない。地下鉄の車内では寝ているふりをしていたんだ。そんな誰にするでもない言い訳を繰り返しながら彼女のあとを追った。ぼくが階段を上りきったときには、もう改札を抜けて右手の階段を上ろうとしているところだった。しかし、あいかわらずの人込みのカーテンが、彼女の姿を時折でなく隠してしまう。
急いで彼女を追ったが、地上のアーケード街はそれ以上の人であふれていた。が、神はぼくを見放さなかった。彼女は、目の前にあるS書店の店頭で雑誌のページをめくっていたのだ。ぼくも店頭近くの新刊コーナーに向かった。彼女は、本を探すふりをするぼくの視線に、ちょうど直角に映る位置に立っている。さっきから総合情報誌をいくつか手に取っているようだ。今持っている雑誌の表紙には大きなゴシックで「鍋が食べたい!」とある。やはりこれから遊びに行くところでも探しているのだろうか。ぼくは、『カンガルー・ノート』という面白そうな小説を見つけたので、買うことにした。脛からかいわれが生えてきた男の話のようだ。
「あっ、カバーはいいです」
ぼくはそうレジの人に言うと、本を奪い取るようにして店を出た。別に環境保護論者というわけではない。レジで順番を待っている間に彼女が出ていってしまったからだ。尾行をしていることすら忘れて、思わず待ってくれと言いそうになる。さっきから、彼女の行動力に翻弄されっぱなしだ。
彼女は人の抵抗を巧みにかわし、ぐんぐん進んでいく。ぼくも両肩を人にぶつけて、にらまれながら彼女を見逃すまいとしていた。彼女がウィンドウショッピングをしながら歩いてくれているのが、追いつく余裕を持たせてくれるという意味で唯一の救いだった。五分ほど歩いただろうか。彼女は、ジャスミンの香を焚く匂いが立ち込めるあやしげな民俗雑貨屋を過ぎると、すぐ先の角を右に曲がった。そして、角から三つめの雑居ビルの前で足を止めた。一階から三階までは居酒屋で、それより上の階はテナントかアパートのようになっているらしい。彼女は居酒屋の脇の入り口からそのビルに入っていった。ということは、ここが彼女の自宅なのだろうか。すかさず、あとを追った。どうやら彼女はエレベーターで上がっていったようだ。所々ペンキのはげた扉は、ぴったりと閉ざされ、その上の表示ランプは、五階で止まった。ぼくも下りてきたエレベーターに乗り込み、五階のボタンを押した。
扉が開いて、ぼくの目に飛び込んできたのは、ワンフロア全体を借りきったオフィスだった。普通は廊下ぐらいはあるはずなのに、いきなり絨毯を敷いた部屋なのだ。あっけにとられたぼくは、「はい、何でしょうか」という女の人の声ではじめて自分が場違いな所に来てしまったことに気付いた。そして、慌てて「閉」のボタンを押した。
ぼくも立ち上がってかばんを背負った。彼のあとを追うためだ。しかし、深夜で人影の少ないことを考えると、むやみに近づくわけにもいかない。足音が聞こえない距離がセーフティディスタンスだろう。ぼくは彼の足音が聞こえなくなるまでそこに立ち、今から追わせていただきますと彼に心の中で断りを入れた。しかし今回も一線を越えるという罪悪感はなかった。あったのかもしれないが、それは初めて女性を知ったときのように快感を伴うものであったため気が付かなかった。
松村が大きな体を揺らしながら道路を渡ると、まっすぐ北に向いて歩いていった。商店街は完全に眠っていた。等間隔に並ぶ街灯は街を賑わすためだろうか、カラフルな円盤の形をしたかさをかぶっている。松村は、その光に浮かびあがったり、闇に沈んだりを繰り返している。
そのうち、彼の姿が見えなくなった。恐らく、街灯のないところで道を曲がったのだろう。が、深追いは禁物だ。ぼくは、そのままのペースで歩き続け、曲がり角のたびに松村の姿を探した。案の定、松村はさっきの場所から三十メートルほど先の地点で右折していた。そして、大きな体を揺らしながら相変わらずゆっくりと歩いている。コンビニでも探しているのだろうか。それだったら、左に曲がった方がまだありそうなものだということは、土地勘のないぼくにでも分かる。
そして松村は再び右に曲がった。一体どこへ行くつもりなのだろう、ちょうどコの字を辿ったような道程だ。やがて、元の広い道路に出るとそこは、さっき進んでいった所からひとつ隣の交差点だった。ちょうど街の一ブロックを一周りしたことになる。一杯食わされたと思うと腹が立つが、彼も暇を持て余しての行動かもしれない。
彼はまるで自分の指定席かのような顔をして平然と元のガードレールに座った。いや、座った振りをしたらしい。そして、ぼくも同じように元の場所に座り込んだ。そして松村の動きを見ようと顔を上げた瞬間、松村の顔がぼくの顔を覗き込んでいるのに気付いた。僕は正直、かなり面食らって、ひどく狼狽したところを見せてしまった。彼が座ったというのをきちんと確認しなかったのが敗因だ。松村に見つかったことで終わってしまった探偵ごっこに未練を残しながら、もしかすると彼の行動は最初から計算されていたのではないかと、心配だった。やはり一杯食わされていたのかもしれない。
「今、僕の後をつけて来てませんでした?」
「あっ、ばれてました?」
ぼくには頭をかいてとぼけるしか逃げる道はなかった。
「そりゃ、他に誰もいない時間ですからわかりますよ。それに、駅にいる時からずっとこっちを見てたのも知ってましたし」
「ああ、すいません。悪気があったわけじゃないんですけど」
「いいですよ。最近はストーカーとかいうたちの悪い人もいるそうですから、それに比べたらね。ええ、それよりあなた学生さんでしょ?」
悪い人ではなさそうなのでひとまず安心した。
「あ、そうですけど」
「やっぱり、そんなリュックで夜中に歩いているのは学生さんに決まってるんですよ。ぼくも大学に行ってるんですけど、やっぱり友達はリュックが多いですね」
「はあ、そうですね」
「あなたは何回生なんですか?」
「一回生です」
「あぁ、それじゃそろそろ、何だか憂鬱になってるでしょう。誰でもそうなんですよね。毎日、大学に行っては愚痴ばっかりこぼしてね。何かばからしくなるんですよね」
彼の話を聞きながら、ぼくの神経は緊張していった。まずは、彼がぼくよりも年上らしく、偉そうにしていること。そして、話が宗教の勧誘じみてきたことが理由だ。そういえば、今日(正確には昨日)の午後にもそんなことがあったが、今度の場合は全く素性も分からないやつが相手だ。正直なところ、恐くて何も言えなくなってしまった。
「よく言われることなんですけど、やっぱり何をするかが見えてないと、ああなってしまうんでしょうね。僕なんかは夢があるから、それほどブルーになったりはしなかったですよ」
ちらっと顔を見ると、彼は正面を向いて道路の向こう側を見ていた。
「僕の夢はね、旅人になることなんです」
できれば無視したかったが、語りかけるような彼と目が合ってしまい、とりあえず可もなく不可もないという風にうなずいてみせた。それにしても、あまりにくだらない。二十才を過ぎてから、目を輝かせて夢を語ることも、それが旅人だということも。
「あなたも憧れたことあるでしょ」
「ええ、でもどうやったらなれるんですか」
まともに返事をしてしまった。
「職業としてですか? 経済基盤はないですよね。エッセイでも書くのなら別ですけど。いや、でも旅人は職業じゃないんですよ。それに僕の場合、実際に旅をしなくてもいいんですよ。例えばスナフキンのような、ああいう人間になりたいんですよ」
「はあ」
「あ、わかってないですね」
「はあ」
「そうだな、別の言い方をすれば、例えば今すぐ死のうって思ったときに何も心に引っ掛かるものがないような人のことなんですよ。普通はなかなかそうはいかないでしょ。机の引き出しに見られたくないものが入っていたり、死ぬことで家族や友達に迷惑かけるのがわかっていたり、それ以外にもいろいろあるじゃないですか。僕はそういうのがないような生き方をしたいんですよ。今、死にたいわけじゃありませんけどね」
確かに言っていることは、まともらしい。ぼくは、机の中にある小泉今日子ファンクラブの会員証を思い出していた。
「僕の実家はひどい田舎にあって、今でも普段の生活に極楽鳥を使うんですよ。今どき、極楽鳥なんて動物園でしか見たことがない人が多いみたいですけどね、うちの田舎だとまだ極楽鳥が現役で働いているんですよ。朝、人を起こしにまわったり、荷物を運んだり、ときには留守番だって。本当に時の流れの止まっているような村なんですよ。だから、余計に旅人なんて柔軟な生き方に憧れるんでしょうね」
「ご、極楽鳥ですか?」
「ええ、昔は家畜だったんですよ」
「日本にいたんですか?」
「そうですよ。いや、家畜として日本に入ってきたのかもしれないな。でも、僕らが生まれる前の日本ではそれほど珍しいものでもなかったようですよ。今じゃ、ぼくも田舎でしかみたことがないですけど」
極楽鳥。最初は嘘だと思っていたが、そうではないらしい。彼は信じている。目が本気なのだ。ぼくの顔は完全にひきつっていた。鼻の横が自分の意志とは関係なくピクッピクッと動いているのが分かった。
「あぁ、また見たくなってきたなあ。林の上をシュルシュルーって飛び回っている姿がかっこいいんですよ。それで、極楽鳥がよく見える丘のてっぺんなんかで、一日中眺めながら過ごしたりするんですよ」
彼はそういうと目を閉じて伸びをした。動作はあくまでも松村なのに、この雄弁さは何なんだろう。嘘だと思っても、彼が暖かい丘の上に寝そべっているシーンが鮮明に浮かんでくる。
「お帰りのようですね」
高校生らしい五人組だ。もう話すことも尽きたのだろう。さっきから会話が途絶えがちで、誰かが帰るきっかけを切りだすまでお互いに牽制しあっていた様子だった。
「そうですね。でも、帰るあてのある人はいいですよね」
「一概にそうとも言えませんけどね。僕は子どもの頃よく家出したんですが、二、三日したら自然と足が家に向いてしまうんですよ。いつも帰り道が憂鬱でね、なのに帰ってしまうんですよ。帰巣本能というか、やっぱり定住民族日本人としての家の呪縛みたいなものがあるんでしょうね」
「はあ」
「だからそういうものにとらわれない生き方としての旅人ってのがあるんでしょうね」
内容はともかく、しっかりと話している様子は松村邦洋と全く違っている。案外、ぼくを混乱させた上で教えを授けようとする「旅人教」の信者か何かかもしれない。
「だから、僕はこのまま駅に住み着いてしまっても別にいいんですよ。まあ、駅で生活するのは大変ですから、実際にすることはないんでしょうけど」
ぼくは、とりあえずうなずいた。
「でも、そんなことばかり考えてるから、よくこんな風に駅で夜更かしすることになるんですけどね」
「はあ」
「あなたなんかはそういうの苦手そうですね」
「ええ、ぼくは駅で始発待ちっていうのは初めてなんで不安なんですよ」
「あ、そうですか。そうかもしれないですよね」
松村は突然笑いだした。背中を丸めて、声を殺しながらうなずいている。さっきの尾行のこともある。極楽鳥の話といい、またぼくを担いでいるのかもしれない。それで耐え切れなくなって笑い出したのだろうか。そうだとすると彼は口の達者な松村どころか、ただの嫌な奴だ。でもあの真に迫ったしゃべりはとても演技には見えない。
「なんや、楽しそうな話やったらオッチャンも混ぜてや」
やくざ男だ。もうタクシーは諦めたのだろうか。それにしても、ぼくは予期せぬ人物の登場に、正直驚いてしまった。すぐに怒り出すような恐さはないが、やはり傍で見るとものすごい威圧感がある。映画に出てくるような、見るからにそうだというのではなくて、こんな人が本当のやくざなのかもしれない。
「君ら、今知り合ったばっかりやろ? オッチャンも仲間に入れてや」
松村が旅人の話を説明し始めた。やくざ男は突っ立ったまま話を聞いている。
「ほんで君も旅人になりたいんか?」
ぼくがしばらく会話とは別のことを考えていると、やくざ男が急に話を振ってきた。
「いや、ぼくは別に、」
「彼には、たった今、旅人のことを教えてあげたばっかりなんですよ」
「なんや、そうなんか。まあ、ええわ。そしたらええこと教えたろ。オッチャンな、たぶんその旅人ってやつやで」
「え、どうして」
「見たらわかると思うねんけど、オッチャン、やくざやってんねん。ほんだらもう、何もない身一つで生きてるようなもんやろ。奥さんもちゃんとおるし、子もおる。組の者もええやつばっかりやけど、でもあかん。全然、心入っとらへん」
「やくざは義理人情に厚いって言いますけどね」
「そりゃ、やくざはやくざ同士で仲良うせな生きていかれへんからや。やくざいうてもほんまは弱いもんやし、しゃあないわ。まあ最近は、なんたら新法っちゅうのが出来てしもたさかいに、どうやってもなかなか生きていかれへんねんけどな」
やくざ男はそう言うと、ぼくと松村を頂点にして、ちょうど正三角形になる位置にあぐらをかいて座った。
「なんか、俺の人生五十年、素通り人生みたいやわ。失うて困るもんなんか、持ったことあらへん。でも、そんでええと思とるからええねんけどな」
「ええ、そうですよ。やっぱりあなたは旅人の素質ありますよ。ねえ?」
「あ、ああ。そうですよね」
「そうか、兄ちゃんらに誉めてもろたら、オッチャンなんや嬉しいわ」
「いやいや、確かに場当たり的なのを、やくざな生き方っていいますけどね、本当にやくざの人ってやくざな生き方をしてるんですね」
松村とやくざ男はすっかり意気投合している。最強、もしくは最悪のコンビだ。
「ほんで君はどうやねん。さっきから聞いてるばっかりやんか。自分の思てること、言うてみたらどうや?」
「はあ」
「いや。はあ、やあらへんで。みんな、こんなオッチャンかてちゃんとしゃべったったんやで。君も自分の思てること言わなあかんで」
「いや、でも、ぼくは、」
僕は、とりあえず勧められたビールを断るような仕草をしてみせた。NHKの高校生弁論大会でもあるまいし、人生を語るなんてばからしい。だいたい、ぼくは毎日人生を歩んでいるわけではない。生活を送っているだけなのだ。語るような人生観を持っているほど不幸な人間ではないのだ。でも、そんなことを正面切って言えるような勇気があるわけではないので、ぼくは言い訳の言葉を探しはじめた。
「いやいや、彼はそんなことを考えるような性格じゃないですよ。ねえ?」
松村が口をはさんでくれた。すまなさそうな顔をしてうなずいてみせる。松村に救ってもらうというのは精神衛生上よくないが、やくざ男に変に問い詰められたりすることを思えば、感謝しなければならない。
「まあ、若い者はそうやろな」
「それよりも僕たち三人が出会った記念に何か面白いことをやりましょうよ。そうだ、極楽鳥の丘に行きましょう。三人で丘に上って、それで頂上に着いたらそこに何か僕たちが来たっていう印を残してくるんです」
「ほう、そりゃええわ」
「あなたはどうです?」
「はあ」
今すぐ何か始めるのかと思ったら、松村の故郷へ行く話だった。彼の故郷と聞くと、極楽鳥の実態を見たいという興味はあるが、不気味な夢の世界へ引きずり込まれてしまうような怖さも感じる。でも、とりあえず約束ならすっぽかせばいいのだし、例えば三人の出会いを祝したフォークソングを作って合唱するというような変なことを、この場でやらされることを思えばまだ気が楽だ。ぼくはまんざら嫌そうでもない顔をしてみせた。
「それじゃあ今すぐ、善は急げです」
松村はそう言うとスッと立ち上がった。腕を挙げている姿が、やはりどこか松村らしく思わせる。
しかし、今すぐ何をするつもりなんだろう。まさか三人で手に手を取って輪を作って、それでワープしようとか言い出すつもりなのだろうか。ぼくは彼の言葉にどう対処したらいいのか分からずに、じっと松村の顔を見つめていた。彼は相当、乗り気らしい。下手なことを言うと暴れだすかもしれない、そんな雰囲気が漂っている。ここは彼の言いなりに従った方が賢いかもしれない。ぼくは判断をやくざ男に委ねることにした。
「なんや、今から行けるんかいな。ほな、行こか。ほら、君も来るんやろ」
二人はさっきとは反対方向に、さっさと歩きはじめた。とりあえず常識の通用する範囲の行動なので助かった。こうなったらぼくも行くしかなさそうだ。いざとなればやくざ男が何とかしてくれるだろうし、案外楽しいかもしれない。騙されておくことで松村の気が済むのなら、ぼくもつきあってやるべきだということだろう。
松村はやくざ男に道を説明しながら歩いている。そんなに遠くではなさそうだが、一体どこへ連れて行くつもりなのだろうか。やくざ男と話している様子や足取りから見ても、適当に歩き回っている感じはしない。きちんとした行き先をイメージした上で歩いているのだと思う。もちろんそれが彼の田舎ではないことは確かだが、変な教会や訳の分からないアジトに連れ込まれて、松村の仲間に取り囲まれるっことになるのかもしれない。
二人はぼくよりも何メートルも先を歩いていて、こっちを振り返る様子はない。やろうと思えばこっそりと逃げ出せるいいチャンスだったが、ぼくはどうしても気が咎めて出来なかった。松村にではない、ぼくの分まで松村の相手をしてくれているやくざ男に対してだ。ぼくは彼を松村と二人っきりにしてしまうだなんて残酷なことが出来るような思い切りのいい人間ではないのだ。もしそんな勇気があるのなら、最初からこんな所を歩いたりはしていないだろう。
「さあ、ここです。ここなんです」
二人の足元を見ていた視線を上げて、はっきり言ってがっかりした。彼の指の先にはよくある感じのレンガ作り風のマンションが建っていたのだ。やくざ男も安心したようだ。こっちを向いて嬉しそうに笑っている。松村もそれを見て喜んでいる。今まであれだけ不可解な行動を取っておいて、その詰めがこんなにきれいなマンションだなんて逆に納得がいかない。廃屋だとか、池の中に入っていったりするぐらいのことは覚悟していた分、騙された気がしてならなかった。
「この頂上が丘になってるんですよ。ここからじゃ見えないですけど」
「屋上にあるんかいな」
「そうです、この上なんですよ。じゃあ、僕から登りますからね」
松村はマンションの入り口まで行ったが、、そこには入らなかった。彼はテラスの脇の方へ行くと、屋上と地面をつないでいるパイプにしがみついて、壁に足をつけながら少しづつ上へ登りはじめた。見た目通りの体重なのだろう、パイプはギシギシと泣き声をあげている。松村はようやく地面から八十センチほど登って、そこでぼくらに手を振って見せた。しかし、ぼくとやくざ男が思わず顔を見合わせた瞬間、彼は木のバットで乾いた地面を叩いたような音を立てて、コンクリートの地面に叩きつけられていた。
「い、い、」
「おい、大丈夫か」
高さは大してなかったはずだが落ち方が悪かったのだろう。松村はエビ反りに寝転がって声もたてない。駆け寄ったやくざ男が肩を揺すってやると、痛かったのか何か文句を言ったようだった。やくざ男は押し殺した声で盛んに何かを話しかけている。映画でよく出てくる、撃たれた仲間に向かって話しかけるやくざのようだ。
数分苦しんだ後、松村は声を振り絞ってやくざ男に話しかけた。
「すぐ治ると思うので、先に行っておいてください。後から必ず行きますから」
ぼくは、松村が大声を出して近所の人を起こさないか心配だった。が、やくざ男はそんなことすら気にする様子もなく、「ああ、わかった」と小声で言ってからパイプを登りはじめた。
やくざ男は最初こそ松村以上に苦戦していたようだったが、いったんきっかけをつかむと、一気に二階の真ん中ぐらいまで行ってしまった。彼はそこでぼくの方を振り返って手招きしたが、ぼくがリアクションしないでいると、別に何も言わなかった。松村は全く動かなくなった。やくざ男は、少し休んでからまた上へと進みだした。もう、落ちたら命にかかわるような高さになっている。
ぼくはやくざ男が壁からはがれて落ちてくるシーンを想像して、急に背中が震えだしたのに驚いた。そして一歩後ろに下がると、その瞬間にはもう今来た道を走り出していた。自分の足音が響いているのが気になって、途中で靴を脱いで裸足のまま走った。アスファルトの微妙な起伏が、冷たい感覚といっしょに足の裏から全身に伝わる。
もう朝らしい。白いベールをかぶりはじめた街には、ぺたぺたという足音だけが響いていた。
オルガン
小林真由香
キコエルヨ……アノメロディー……
キコエテル……デモ……ドコカラ?
幼い時からなんとなく好きだった、けだるく憂鬱な曇天の空。おまけにしとしとと鬱陶しく小雨が降っている。いつもの僕なら心地よくまどろみ、何もしない至福の時を過ごすのに、今日だけはどこか気に入らなかった。憂鬱な曇天の空は僕に陰鬱な感覚を与え、鬱陶しい小雨は僕を不快感でいっぱいにした。
「……気に入らねぇ……」
僕にとって精一杯の悪態をついてみたが、自分でもおかしいくらい似合っていない。幼い時から縁のなかった言葉だけに、その存在がおかしくて仕方がない。
「ククク……僕じゃないみたいだ……」
ほんの一瞬だけ不快感が消えた。けれど、それに気づくとまた不快感に包まれた。物質的な欲求は全て満たされている。幼い時から何一つとして不自由はなかった。しかし、何かもの足らない。その何かがわからずに苛立つ。そんな不快感だった。
「欲しい物は全て手にしたはずなのに……僕の知らない所で僕が欲しがってるものは何だろう?」
そう呟きながら、何げなくそばの鏡を覗き込む。その鏡もほんの数日前に手に入れた物だ。鏡には少し困惑したような、それでいて少しおどけたような僕が、揺り椅子に揺られて映っている。部屋の明かりが暗い為に、古めかしい飾りで縁どられた鏡の中の僕は、人工的なクリーム色に近い金髪と、真っ白なシャツがやけに目立つ。
「……?……この音……」
僕の他に誰も居ないはずなのに、この古ぼけた洋館の何処かから、何かの音色が聞こえる。遠い昔に聞いたような、近い昔にも聞いたような懐かしい音色だ。
「空耳かな。僕の他には誰も居ないんだ。愛しい人達はみんな僕を置き去りにして、何処かへ行ってしまった……この鏡を身代わりに置いていった兄さんが最後だった……唯一の僕の理解者……」
鏡の中の僕がぎこちなく微笑む。いつも兄さんが僕に見せた、哀しい事を隠す為のひきつったぎこちない微笑み。全く同じに微笑んでみせた。そんな僕がおかしくて、僕は声を上げて笑った。僕の笑い声は洋館に響き渡り、しばしの間あの音色をかき消してしまった。けれど、再び鏡が視界に入り、僕は笑うのをやめた。
洋館に響き渡る笑い声は僕が一人であることをまざまざと思い知らせる。そして、その姿はあまりにも道化すぎた。僕が一番醜いと思う道化師と変わりないその姿が、僕の孤独を嫌というほど思い知らせた。
「……一人……孤独……」
鏡の中の僕は僕を哀れむ兄さんに似ていた。僕を蔑みながらも、理解してくれた兄さんだった。この世でたった一人の、同じ顔で、同じ仕草をする、血を分けた兄さん。ただ一つ異なった事は、兄さんと僕は正反対だったという事だけ。
「……兄さん……」
僕の呟きは哀しさを含み、半分涙ぐんでいる。けれど、鏡の中の僕は涙を見せることもなく、じっと僕を見ている。
「……?……まだ聞こえる…………」
ふと我にかえると、あの懐かしい音色が聞こえている。いつの間にか窓の外は深い闇に包まれ、部屋に灯るランプの明かりだけが僕と鏡を照らしていた。
「……誰?……何処?……」
僕は仕方無さそうに揺り椅子から立ち上がり、壁に掛けてあったランプを手に取った。部屋の明かりは手にしたランプに集中し、ぼうっとぼやけた光の円を描く。僕はたどたどしく聞こえるあの懐かしい音色を辿って、この洋館の中で一番居心地のいい部屋を、後にした。
いつの間にか、あの陰鬱な不快感が僕の中から消えている。あの音色を奏でる正体を知ろうとする好奇心が、鬱陶しい不快感を消し去ったのだろうか。そんなことは僕にとってどうでもいいことだ。僕の他に誰かこの洋館に居るのなら、それは誰だろう。僕を置き去りにした愛しい人達なのか、それとも……
「悪魔か、死に神か。それもいい。兄さんがそばに居ないなら、地獄でも何処へでも行けるさ」
自嘲の笑みを浮かべて、僕は階段を昇るか、降りるかを少し思案した。
「下……か?……」
僕の耳が正しければ、あの音色はなんとなく下の階から聞こえてくる。僕は、ミシミシときしむ階段を一段ずつ慎重に降りて、まるで泥棒のように辺りに気を配る。
「ここか?」
まず左の扉を開け放つ。少し埃っぽいこの部屋にあの音色の正体は無い。僕は部屋に入ろうともせず、また、扉を閉めることもなく、次の部屋の扉を開けた。ギィーと嫌な音を立てて、扉は半分だけ開く。僕は恐る恐る部屋に入ってみる。
「! って!」
部屋の奥に行こうとした時、僕は何かにつまづき、転びそうになった。足元をよく見ると、あちこちに石や硝子の破片が散らばっている。唯一外に面した部屋だけに、誰かがいたずらに石を投げ入れたのだろうか。それとも僕に恨みでも。そんなことはどうでもよかった。ただ音色の正体を探すことが大事だった。
少し物を退けて探してみたが、ここにも音色の正体は無かった。僕は封印するかのように扉を閉めると、一階にある部屋を残らず探した。もう使うことのない暖炉の中や、キッチンの隅まで探したが、あの音色を奏でる物は無い。オルゴールのように繊細なこの音色は一体何処から聞こえてくるのだろう。僕はもう一度耳を澄まして音色をよく聞く。
「二階? でも……少し遠い……」
僕は階段をゆっくり昇りながら、音色の正確な位置を見つけ出そうと全神経を聴覚に集中させた。ランプのぼんやりした光がゆらゆらと揺れながら、階段を昇っていく。幼い頃兄さんと僕が大好きだったティンカーベルみたいに、ランプの光は揺れている。二階に辿り着き、最初にあの居心地のいい部屋に戻った。もう一度初めからやり直そうとして、僕は揺り椅子に腰掛ける。
「何処から聞こえてくる? 何の音?」
僕は目を閉じて、音色に集中した。しばらくそうしていると、コトッと何かが落ちたのか、それとも靴音なのかはっきりしない音が聞こえて、僕は目を開けた。
「誰?」
音のした方に振り返ろうとした時、鏡が視界に入った。僕はその時鏡の中の異変に気づいて、唖然となった。
鏡の中の映っているはずの、揺り椅子に座っている僕の姿は無く、代わりに優しく微笑み、立っている兄さんの姿が映っている。
「兄さん?」
思わず立ち上がり鏡に向かって手を差し伸べる。そんな僕が見えていないのか、兄さんは何かを呟いて、微笑んだままクルリと僕に背中を向ける。そして、鏡の奥へと歩いていく。
「兄さん!」
僕は鏡の奥へと歩いていく兄さんを、呼び止めようと叫んだ。しかし、兄さんはちらっと振り返っただけで、鏡の奥にある、何処かで見たような扉の向こうへ消えた。
「兄さん! 何処行くの! ねぇ、兄さん!」
鏡に向かって必死に叫ぶが、兄さんはそれきり姿を見せなかった。
「兄さん……」
僕は崩れるように鏡の前にひざまずく。その時、あの音色が一層大きな音で聞こえてきた。はっきりと、確実に何かの旋律を奏で始めている。遠い昔に聞いた、近い昔に歌ったあの旋律が聞こえる。僕と兄さんがこよなく愛したあの音色だ。
「……オル……ガン?……オルガン……」
僕は壁に掛け直したランプをひったくるように取ると、あの日以来鍵を掛けてしまった屋根裏部屋への階段を駆け昇る。ほんの数日前まで兄さんと至福の時を過ごした、あの屋根裏部屋。あの日以来一人でそこに入るのが恐くて、兄さんの温もりと一緒に想い出も閉じ込めてしまった。そして、鍵は兄さんの元に……
「まさか……兄さんが……あの部屋に……」
部屋の前に辿り着き、扉を見つめる。間違いなくこの部屋の中からオルガンの音が聞こえる。はやる鼓動を落ち着かせながら、ドアノブに手をかける。小刻みに震える左手でドアノブを回す。
「!」
あるはずの抵抗も無く、簡単にドアノブは回った。あと少し力を加えれば扉は開く。僕は冷たい汗が背筋を伝っていくのを感じ、きつく目を閉じた。あの時、鏡の中で兄さんが呟いた言葉をふと思い出す。
「!……『おいで……』……」
僕は浅いため息をついて、目を開く。そして、決心したかのように思い切って扉を開いた。ギィーときしんだ音を立てて、扉は僕と兄さんの禁断の世界への入り口を開ける。
──────兄さんがそこに居る。
僕を置き去りにした兄さんが、僕を見て微笑んでいる。
オルガンの前に座り、あの旋律を奏でながら。 ─────
「! 」
僕は一瞬で言葉を失くした。あの日僕の前から姿を消したはずの兄さんが、僕のランプに照らされて肖像画のようにそこに居るのだ。
「……兄さん……?……兄……さん……」
僕の声は今にも泣き出しそうに震えていて、僕自身少し驚いた。恐る恐る僕は小刻みに震える手を差し伸べて、兄さんに触れようとした。その時、
『元気にしてたかい?』
いつもの優しい兄さんの声で、兄さんは僕に話しかける。僕はハッと息を飲んだ。嬉しかった。どうしようもなく嬉しかった。久しぶりに僕は“嬉しい”という感情を味わった。兄さんがいなくなってからの空白の時間が、その一言で埋められる。僕は兄さんを抱き締めようと、兄さんに近づく。
『××××』
「えっ?」
兄さんの唇は何かを呟いたのに、それは僕の理解を越えていた。確かに聞こえたはずなのに、それが何なのかわからない。しかし、兄さんは一瞬戸惑いを見せた僕を快く受け入れ、抱き締めてくれた。
「兄さん……」
僕の声が泣いている。一粒の涙も見せずに、僕の声は泣いている。僕は夢中で兄さんの体を掻き抱いて、もう二度と離さないようにその存在を腕に刻む。兄さんにその気持ちが伝わったのか、兄さんはオルガンの椅子から立ち上がり、僕を抱き締めたまま床に倒れ込む。兄さんの指がオルガンから離れたのに、誰も触れていないのに、オルガンはあのメロディーを奏でる。
僕と兄さんは懐かしいメロディーに包まれ、もう一度見つめ合う。同じ色、そして同じ形の瞳が潤んでいる。兄さんは僕の上にのしかかるようにして唇を求める。短い口づけを幾度となく繰り返して、兄さんは僕の真っ白いシャツを引き裂いてしまった。
兄さんが居た日々に繰り返された、毎日のようにこの部屋で行われた、禁断の儀式。初めて儀式をしたのは、いつの頃だっただろう。愛撫の意味さえ知らなかった僕を、兄さんもまた不器用に愛してくれた。しかし、儀式が繰り返されていくうちに、感じて声を上げる僕を兄さんは家畜を見るかのように見下し、僕の体に傷をつけ始めた。痛みに悲鳴を上げる僕を見て、兄さんは悦楽に入るようになった。僕もまた兄さんが僕に与える快楽以上に苦痛を求めるようになっていった。兄さんが僕に与える苦痛が快感に変わるあの一瞬が、とてつもなく快かった。僕と兄さんは、時には僕の流した血にまみれ、狂った獣のように互いを求め合った。あの日々はもう二度と来ないと思っていたのに、あの日に全て失ってしまったと思っていたのに、僕の愛するものが僕だけになってしまったと思っていたのに。
兄さんは戻ってきた。僕のところへ。いつもと同じように僕をなじったり、傷つけたりしながらも、哀れんだあの瞳で僕を求めている。今、此処で。僕だけを求めて、僕の中へ入ってくる。ありとあらゆる術を使って、僕を支配しようとしている。今までと変わりなく。
僕はそんな兄さんが好きだった。いつの頃からか、僕は兄さんが好きになった。僕を哀れんでくれる兄さんが好きだった。僕を蔑む兄さんが好きだった。それ以上に僕は兄さんに蔑まれる僕が好きだった。
「兄さん……僕は兄さんが好きだよ……」
吐息の中に見え隠れしながら、僕は兄さんへの愛を囁く。兄さんにそれが聞こえているのかどうかなど、気にもならなかった。
「……■■の僕の次にね……」
僕は自嘲気味に微笑み、兄さんを見つめた。兄さんは僕の囁きを一言も漏らさず聞いていた。そして、兄さんも僕に囁く。
『大好きだ……愛してるよ……■■の僕の次にね……』
兄さんは僕の頬に手を当て、今までで一番長く甘美な口づけをした。兄さんと僕の体温が互いに流れ、一つになれる、そんな気がした。
「?」
しかし、いつまでたっても兄さんの体温は伝わって来ない。僕の体温だけが兄さんの方へと流れていく。そういえば、儀式の間も兄さんの体温はさほど感じられなかった。一体何が起こったのだろう。
「兄さん?……」
僕の不思議そうな声を聞いて、兄さんはじっと僕を見つめる。そして、またあのわからない言葉を呟く。
『××××』
「兄さん! わからないよ。何が言いたいの?」
『××××』
「兄さん!」
僕は不可思議な不安に襲われ、兄さんの腕から逃れようともがいた。しかし、兄さんの腕は僕をしっかりと抱き締め、離してくれそうもない。そのうち兄さんの体は急に体温を上げ始めた。
「兄さん?」
兄さんはいつもと変わりない微笑みを浮かべて、うろたえる僕を見つめている。そして、僕の左胸をそっと撫でる。
兄さんの体温は上昇をやめない。既に人間の平熱は越えてしまった。だんだんと僕の体もじっとりと汗をかいてくる。それでも、僕の顔に汗が滲んでいても、兄さんは僕を離さない。
「兄さん……熱いよ……」
『××××』
「ねぇ……熱いよ……」
『××××』
「熱い……熱いよ……離して……焼ける……」
兄さんの体温は既に百度を越えているだろうか、まるで熱湯を浴びたように熱い。しかし、それでも僕の体は火傷一つしていない。熱さは感じているのに、赤くさえならない。「熱い……」
僕がそう呟くのを聞きながら、兄さんは僕の体のあちこちを指でなぞる。何度も、愛しげに。そして、哀しそうにひきつった笑顔で僕に呟く。
『××××』
その時、兄さんの体が炎に包まれ、静かに溶けていく。さっきとはまるで反対に、その炎は恐ろしく冷たい。
「兄さん!」
僕は溶けていく兄さんを捕らえようとするが、兄さんは指の間からこぼれドロドロの粘液になっていく。
「兄さん!」
僕の絶叫も空しく、兄さんは微笑んだまま溶ける。僕は頭から足先まで粘液になった兄さんにまみれて、見開いた瞳を閉じることができなかった。夢なのか、それとも現実なのか。その区別さえおぼつかない。ただ唯一確かな事は、僕の体に兄さんの口づけの跡が残っている事。それだけだった。なぜ兄さんが溶けたのか、そんな事が今の僕にわかるはずもなかった。
僕は初めて夢を見た。夢の中で僕はあの日にいた。そうだ、あの日は神聖な処刑の日。たしか、誰かが生きながら焼かれ……
「兄さん!」
そう、あの日処刑されたのは、僕の愛しい兄さんだ。兄さんはあの日、生きながら焼かれた。あのひきつった笑みを浮かべて、何かを叫んで。兄さんは何をしたのだろう。何故兄さんが……
「僕が……処刑した……?」
「僕が……兄さんを……独り占めに……できるから……?」
そう、僕は兄さんを独り占めしたかった。それ以上に僕は一人でよかった。僕と同じ兄さんは余分だった。僕は兄さんを愛してた。それ以上に僕を愛してた。■■の僕が愛しかった。■■の僕は存在し得ない……
「兄さん……」
僕はあの日を思い出し、自嘲気味に笑んだ。
僕は兄さんを、幸せそうに眠る兄さんを黒い棺桶に横たえた。そして、そのまま閉じ込めた。あの部屋の鍵と共に。僕は真夜中の教会で、兄さんの入った棺桶に火をつけた。燃えていく棺桶の中から、僕の声が聞こえた……
「? ……あれは、僕の声?……確かに僕の声だ……じゃあ、僕は兄さん? 今、此処で息をしているのは……兄さん?……」
棺桶の中から聞こえてくるのは、紛れもなく僕の声だ。そして、その声が叫ぶ言葉は、あの不可解な言葉……
「僕と兄さんの名前……二人で一つの名前……」
「僕は……兄さん?……兄さんが……僕?……焼かれたのは誰? 生きているのは……誰?」
僕は夢からなんとなく目覚め、辺りを見渡す。いつの間に戻ってきたのか、僕はあの鏡の部屋にいた。鏡に映る僕はなんら変わりなく、僕であった。しかし、体を覆っているのは、引き裂かれた真っ白なシャツだ。
「?」
裂け目から見える体に変化を見つける。
「?」
左胸に大きく、そして、あちこちに小さな十字架の焼印。不規則に並び、じくじくと痛む。その痛みは決して快感にはならない。
「僕は……兄さん?」
鏡の前に立ち尽くす僕の耳に、途切れる事なくあの旋律が聞こえる。オルガンだけではなかった。合わせて歌う僕の声も。僕は弾かれるようにあの部屋へ急ぐ。そして、何のためらいもなく扉を開けた。
『××××』
「兄さん」
僕を支配する兄さんと、血まみれになり支配される僕が、互いに呼び合い求め合っている。既にそこに僕達が居る。じゃあ、同じ顔の僕は誰?
『兄さん。』
背後から誰かが僕を呼ぶ。振り返るとそこに居るのは、血の涙を流す僕だった。
「××××」
何のためらいもなく僕は僕を呼ぶ。近づいてきた僕を抱き締め、その腕に噛みつく。僕は悲鳴を上げるがそれは快楽に落ちそうな声だ。そして、噛みついた僕は、その声で悦楽に入る…………
僕が僕ではなく兄さんとなり、■■が■■になる。そんな日々が続く。しかし、その愛に変わりはなかった。
僕は僕が好きだった。僕は兄さんが好きだった。そして、兄さんも兄さんが好きで、僕を愛してくれていた。その愛が続く限り、あの部屋からオルガンは消えない。そして、僕達は今日も儀式を行う。今日は、僕が僕なのだろうか。
生の歌声
首藤 聡美
序章
彼の瞳はいつも遠くを見ていた。
形のないもの、それでいてどこかに存在するはずのもの、つかみどころはないが、どこかしら優しく広大なものの中へ、その夢見がちなまなざしは絶えずそそがれていた。
私はそんな彼の瞳を愛していた。何ものにも揺るぐことのない透き通ったその瞳は、空を風を光を受けとめ、永遠の空間を溶け込ませているかのような謎めいた美しさに満ちていた。
五つ年上の吉沢拓人と出会ったのは、三年前のことだ。ある日のある図書館の一隅で、まるでそれが定められたことのように私たちはめぐり会い、引かれ合った。言葉もなくまなざしを交わしたあの瞬間に、二人はそれぞれの心に根ざし続けたどこかしら通じ合う孤独を、互いの瞳の中に確かに感じとったのだった。
拓人は中学の時に父親を、高校の時に母親を亡くし、ひとりきりの兄は結婚して家庭を持っているため、自動車工場で働きながらアパ−トで一人暮らしをしていた。私はといえば、両親と姉の住む自宅から大学へ通い、すでに三年目をむかえていた。
今から思えば、決して恵まれていたとはいえぬ家庭環境の中で非行少年時代をおくった拓人と、家族からの愛をいっぱいに受け苦労を知らずに優等生時代をおくった私とが、あの瞬間になぜ同じ心の揺らめきを感じ合ったのかは分からない。だが彼といるとき、私は今までに感じたことのない愛の在り方にとらわれるのだった。
彼との愛がこの心を満たすとき、私のすべては空へ風へ木々へと次々に解き放たれて一体化し、それはやがてこの世に存在する一切のものとの同化を導く。この瞬間、私の内部には神的な愛が宿り、すべてのものがどれほど愛しい存在であるかに気づくのだ。その時私は、どんなに限りない広さですべてを同じように愛しているだろう。
拓人と私は、本を読んだり、空想に耽ったり、絵を描いたりすることが好きだった。それで二人でいるときには、本について語り合ったり、一緒に絵を描いたりすることも多かった。
拓人の描く絵は、いつも不思議なものばかりだった。どこだか分からない風景の中にたたずむ女、赤い血の流れる薄暗い階段、宇宙の中に浮かぶ子供たち……、そうした現実を超えた何かを、彼は描き続けていた。
ある秋の夜、私は拓人の部屋で、彼が最近描き上げた三枚の奇妙な絵をかわるがわる眺めていた。それらの絵は別々なようにも、つながっているようにも見えた。私がそれらの絵の意味を理解するようになるのはもう少しあとのことなのだが、彼の今までに描いてきた作品の中で、間違いなく、最も私の心の琴線を震わせる力を持つものであった。
拓人は私のすぐ横で、スケッチブックの最後のぺ−ジに鮮やかな手つきで鉛筆を走らせていた。彼が体を動かすたびに、蛍光灯の白い光を留めているその艶やかな黒髪が、やわらかく揺れ動いた。部屋のあちこちには、描きためた何十冊ものスケッチブックやキャンバスが積み重ねられ、その合間に、数えきれないほどの様々な書物が散らばっている。何箇所もの絵の具の染みができた白い壁紙は、くたびれたようなくすんだ色合いに黒ずんでおり、そこから、彼が時折口にする煙草やアルコ−ルの匂いが強く立ち昇ってくるようだった。
私は彼の生活の匂いに満ちたこの部屋で、こうして彼の隣に座りながら何でもない時間を過ごすのがとても好きだった。そしてよく、彼の端正な彫りの深い顔立ちや、均整のとれたほっそりとした体付き、繊細に動く形のよい指先などを飽きもせずに眺めていた。彼の行う何気ない仕草のひとつひとつは、そのどれもが一々美しかった。物思いに耽っているときなどに、額にかかる長い前髪を物憂そうにかきあげる仕草は、特に私が愛したものだ。拓人はそんな私の視線に気づくと、何ともいえぬあたたかいまなざしでこちらを見つめ、そして決まって優しい微笑をおくってくれるのだった。
その日の私は、それらの三枚の絵を眺めることに夢中になっていたため、拓人がスケッチブックから顔をあげてこちらに意味深な視線をそそいでいることに気づかなかった。
「────夏美」
低音とも高音ともつかぬ微妙な高さをたもった聞き慣れた声が、やわらかく部屋に響きわたる。
「え?」
呼びかけられて振り向くと、私を見つめる拓人の優しげな瞳がそこにあった。彼はスケッチブックと鉛筆をわきにおいて、無言のまま、そっと身を寄せてきた。そのスケッチブックには、私の姿ばかりが何枚も描きためられていることを、私は知っている。
「この三枚の絵が気にいったのか」
そうたずねる拓人の息が髪にかかり、私は少し目を細める。そしてうなずきながら、一語一語力強く答えていく。
「うん、好きよ。……何がいいのかって聞かれたらうまく言えないけれど、とっても好きよ」
それを聞くと彼は小さく声をたてて笑い、ありがとうとつぶやいた。それから愛惜しそうに私の肩を抱き寄せたのだった。その腕に引き寄せられるままに拓人の胸に身をゆだねた私は、かけがえのないぬくもりに包まれながら、あいかわらず、それらの絵ばかりを見つめ続けていた。
拓人の死の知らせを受けたのは、それから一週間後のことだった。
バイクでの事故だった。山道の崖淵のガ−ドレ−ルに猛スピ−ドで突っ込み、そのまま谷底へ転落した、と聞いた。
私は何日もの間彼の部屋の中にこもり、あの日のままに置かれている三枚の絵の前に座り込んだ。そうしてたったひとりで、いつまでもそれらの絵を見つめ続けた。
1. 別離
砂漠の上を歩いていた。
ゆっくり足を踏みしめるとさらさら音がして、細かなほこりがけむるように舞い上がった。───そこはただ一面に黄土色の砂の世界。空はわずかなにごりさえ見せない、まっさらな青。かげりない太陽は頭上高くから、ぬくもりを帯びた砂の上に激しい光をそそいでいる。耳を澄ますと、遠い大空の向こうから、静かな息遣いがそっと聞こえてくるようだった。
私はずいぶん長い間歩き続けてきたに違いない。振り返ると、遥か遠くのほうまで私の足跡だけが点々と孤独に残り、そのまた先のほうは、もうすでに風にかき消されてしまっている。しかし不思議にも、少しとして疲れを感じてはいなかった。
私はさまよい歩いているというよりは、何かあるものによって導かれているという感覚に包まれていたのだ。それは、心の奥底から沁みだすようにあふれてきたり、どこか遠くから香のようにそよいできては、やわらかく私を包み込むのだった。
私は歩き続けた。
ふと顔をあげると、高く盛り上がっている大きな砂の山が眼前に静かに広がっていた。そこを登りつめると、ずっと遠くの方までを───しかしそれはどこまでいっても砂と空の世界だけだったが───一望に見渡せるのだった。私は顔をうつむけた。すると、すぐ下に平らな砂地がどこまでも広がっていて、そこに、ひとりの男の姿が見えた。
その男は、長く平ぺったい汚れた板を両手にかかえて、何やら一心に砂をかきあげていた。その隣には、三・四メ−トルもある大きな十字架が突き立てられている。よく見渡すとその辺りには、他にも同じような十字架がいくつも、哀しげな色を帯びて点々とそびえていた。
私はまた視線をもとに戻した。熱い陽差しの中で動き続ける男の姿はどこかしら見覚えがあるような気がしたが、激しい光にぼんやりと白くかすんではっきりと見ることはできなかった。
私は砂山を下りていった。砂は踏みしめるたびにきしきしと快い音をたてた。男の背中が近づいてくる。長身の体を屈め、熱心に作業を続けている。私は足をとめてその姿に見入った。
─────あれは─────かすかな風が彼の髪を静かに揺らし、その香をのせたまま私のもとへ吹き寄せてきた時、体の奥から沁みだしてくる懐かしい感覚にとらえられて、私は確信した。
「───拓人さん」
思わず声を発し、彼のすぐそばへ駆け寄っていく。拓人は少しこちらに顔を向け、美しい微笑をわずかに浮かべると、またすぐに視線を戻して板を持った手を動かしはじめた。
彼は何度も何度も砂をかきあげては、神聖な空気を漂わせる十字架のふもとに、それをそっとかぶせている。太陽の光に透けて薄茶に見える髪は、そのたびにさらさらと顔に垂れかかっていく。なめらかな額にはうっすらと汗がにじみ、それは陽射しを受けてきらきらと輝いていた。
「何をしているの?」
たずねながら彼を見つめる。拓人はゆっくり顔をあげると、初めて会った時に私を驚かせたにごりのない研ぎ澄まされた瞳で、真っすぐこちらを見つめ返してきた。
彼と出会った時、私はこれほど美しく、これほど哀しい瞳は見たことがないと思った。ガラスのように冷たく透き通り、それでいてその奥には燃える激しい情熱が秘められているかのような、一瞬ごとに表情を移り変えていく純粋な瞳。それは切りつけるように鋭く輝いていたかと思えば、次の瞬間には驚くほど優しい光を満たしていたりするのだった。
「墓をつくっているんだ」
静かな声だった。私は黙ったまま、この人の母さんのお墓なのだろう……と思った。なぜそう思ったのかは分からない。切ないほどの憂いを秘めた彼のまなざしに、それを感じたのかもしれない。けれど、悲しみを増すごとに一層美しくなっていくに違いないこの人が、なぜこんなにも愛惜しいのか、それだけは分かるような気がした。
私たちは並んで歩き始めた。
こうしているだけで心が満たされるのを感じながら、ただ真っすぐに互いの瞳を見つめ合った。言葉はいらなかった。視線を交わすたびに心が溶け合った。私は今こそ私が私として生きていることに大きな意味があるのだと感じた。不思議な安堵感に取り巻かれる。寄り添い、触れ合わせる肌のぬくもりが、限りない優しさで心を満たしていく……
─────その時だった。
突然、私と彼との間の地面が、強大な音を轟かせて真っ二つに切り裂かれた。
「…………!」
揺らぐ砂上で私はとっさに彼を振り返った。こちらの地とむこう側の地の上に別々に立ち尽くす私たちの距離は、みるみるうちに広がっていった。膨大な砂粒があふれるように裂目の中へとなだれ込んでいく。天高く舞い上がる砂けむりは、お互いの姿さえかき消してしまっていた。
「────拓人さ──んっ!」
私はほとばしりでる激しい想いを破裂させるように、必死になって叫び続けていた。だがもはや、この声が届くはずもない。
ぼやける視界の向こうで、彼の姿が砂中へと埋もれていく。いつの間にかつくりあげられた深い砂のくぼみが彼を飲み込もうとしている。拓人は動かなかった。かたく唇を閉ざしたまま一言さえ叫ぼうとはせずに、憂いを漂わせたその美しい瞳をゆっくりと伏せた。
────拓人さん……!
体が動かない。進みたくても進めない。救いたくても救えない。目に見えない巨大な壁が私たちの間に立ちはだかっていた。
「どうして……」
なぜ私はここにいるのだろう。なぜ彼のそばにいてあげられないのだろう。
彼の体は音もなく、暗い砂中の奥深くへと、静かに静かに沈み込んでいった。
私はさまよい歩いた。
もはや行くべき場所はどこにもありはしない。帰りつくぬくもりをなくした人間にとって、あとはこのまま乾いた砂の上に朽ちていくだけだ。
目をあげれば、せまりくるゆるやかな砂山。私はそこをふらふらと登りつめた。もう二度と輝くことのないこの瞳で見下ろした景色は、変わりない砂漠と空の世界だ。広大な青空の天中に燃えさかる太陽は、今音もなく、ひっそりと欠けはじめようとしていた。
────ああ…………
熱く熱くたぎる炎が溶け入るように痩せ細っていく。それと同時に、私の心のすべての情熱が失われようとしている。生きていることは、あの刹那からこんなにも空虚なことだった。
私はきしきしと音をたてる砂山を下っていった。穏やかな静寂の中に広がる平地にたどりつき、くるくると舞い上がる砂の動きを無心に見つめる。
その時不意に、懐かしい匂いが体を包み込むのを感じた。私はそっと顔をあげてみる。
「─────!」
数歩だけ離れた砂の上に、静かに横たわる拓人の姿が目に映った。胸の上で組み合わされた彼の両手に気づいたとき、私はすぐそばに歩み寄り、そっとひざまずいた。
悲しみを含んで切なく揺らめいていた黒い瞳を隠すように、やわらかく閉じられたまぶた。それをふちどるつややかなまつげが陽の光を受けて頬に影をつくる。赤い唇は、この乾いた空気の中でなおもしっとりとしたぬくもりを帯びているようだった。
私はそのほっそりとした彫りの深い顔立ちを見つめ、ゆっくりと指先を触れた。
─────あなたはその胸の痛みのために死んでいくのだろう────
奥底から沁みだすように確かな感情が満ちてくる。未知の可能性を秘めてまだ何事もなし得なかった若い体、人知れずひそやかに美しいつぼみをたずさえていながら明るい外の世界に向かって花開くこともなかった、孤独で純粋な魂。
ゆるやかな黄土色の砂漠が、さらさらと音を奏でている。その上に、もう動かぬ愛しい人の体が静かに横たわっている。どこまでも続いてゆく神聖な大空の下で、私はその美しい死顔に、そっとくちづけた。
太陽が消えていく。
激しい炎はすでにわずかなかけらとなって、最後をむかえようとしている。今、その光がかすかな輝きだけしか解き放てなくても、あたりは何一つ変わりない明るさで続いているように、太陽がやがて完全に消滅してしまったとしても、この砂漠は少しの狂いもなく穏やかな時を刻んでいくのだろう。
私は歩きはじめた。
たどりつく安らかな場所を失ったままで。帰りつけるぬくもりだけを求める心に、このまま狂うとしても。生きるのでもなく、死ぬのでもない。たださまようためだけに、私は歩き続けた。
2. 根源
いつからか、暗黒の世界をさまよっていた。ここはどこなのか、まったく見当がつかない。暗闇の中を進んでいくと、薄明りの中に浮かび上がるひとつの螺旋階段に突きあたった。それは遥か下の方まで、どこまでもどこまでも続いているようだった。
私は一段一段、その感触を確かめるように足を下ろしていった。
何という優しい闇だろう。すべてのものが形を無くしてひとつにかたまり、じっと息をひそめてこちらの様子をうかがいつつ、今か今かと一斉に襲いかかる時を狙っているかのような暗闇を、私は決して好きではなかったはずだ。だがこの闇は懐かしい甘い匂いに満ち、私の細胞のひとつひとつにまでやわらかく語りかけてくるかのような安堵感を漂わせている。
私は足を止めずに、どんどん下っていった。
────トクン……トクン……
その時どこからか、聞き覚えのあるような不思議な音が聞こえてきた。それは静寂の中でのみ聞き取れるほどの小さな小さな高鳴りだったが、決して途絶えることのない確実な力強さを秘めているように思えた。
「何の音?」
誰に話しかけるともなく、私は声を発してみる。すると下の方から、聞き慣れた澄んだ声色が、かすかでありながら闇全体を覆うような響きを持って聞こえてきた。
「夏美、そこにいるの?」
その声が耳に届くなり、私は反射的に階段を駆け下りていった。誰が聞き間違えるであろう、しっとりと濡れたような響きを持つ、この愛しい愛しい声を。
ゆるやかな螺旋は続き、闇は次第に密度を希薄にしていく。トクン、トクン……と強まっていく音が、駆け抜けるこの体をあたたかく取り巻いては流れていく。そうして私の中で、ひとつの記憶がよみがえってきた。あれはいつのことだったろう。拓人の部屋で、私たちはいつものようにたわいない会話を交わし続けていた。揺らめく熱いアスファルト
鬱蒼と生い茂る青草の匂い、なまぬるい微風、蝉の声────、ああ……そうだ、あれは夏の日のことだ。
─────拓人さん、死のシノニムってなんだろう?
床に投げ出されていた太宰の小説を拾い上げ、ペ−ジを繰りながら何気なく尋ねてみる。拓人はスケッチしていた手を止め、考え込むように窓の向こうの青い空の中へ視線を注いだ。しばらくの間の、静寂。無造作にかきあげられた彼の前髪が、再びさらさらと額に垂れかかっていく。美しい瞳が外界からのまぶしい光をいっぱいに受けて輝いている。
─────夏美はどう思うの?
静かにたずねる優しい声、やわらかな口調。私は彼の話し方がとても好きだ。
─────わたし……は……
そう問い返されてとまどい、そっと口をつぐむ。そして同じように窓の外に目を向ける。今私たちのまなざしはあの青空のどこかで溶け合っているのだろうか……、そんなことをふと思ってみる。長い長い沈黙。
そして次の瞬間、二人はほとんど同時に吐息をもらすような調子で言葉を吐き出した。
─────胎児…………
二つの声は美しく重なり合って、どこかしら切なげな響きを秘めながら部屋の空気に浸透していった。私たちは驚いたように顔を見合わせる。けだるい蝉のうなり。行き過ぎる飛行機の遠いジェット音。かすかな風が、互いの髪をやわらかく揺らしながら通り過ぎていく。
それから二人は声をたてて笑った。
─────それは生のシノニムであり───
─────死のシノニムであるもの。
─────同じこと考えてたね……
─────うん……
長い時間をかけて下まで降り切ると、楕円形をした同じように薄暗いひとつの部屋に行き着いた。そこは一隅に小さな鉄の扉がついているだけで、他には何もない殺風景なところだった。
ドクン ドクン……
かすかだったあの音が、強さを増してはっきりと響き渡っている。この部屋のどこかにその源があるのだ。私はようやく暗がりに慣れてきた目を凝らして、ゆっくりとした足どりで部屋の中を歩き回ってみた。何もない空間をうめるものは、神秘的な響きを持つこの音と頼りなげな私の足音だけだ。
その時不意に、背後からかすかな物音が聞き取れた。とっさに振り向くと、今下ってきたばかりの螺旋階段の下から、ひとつの人影がゆっくりとした動作で立ち上がるのが見えた。
「───拓人さん!」
薄明りの中に浮かび上がる整えられた輪郭は、まぎれもなく彼のものだ。
「───夏美」
その声に誘われるままに近づいていくと、拓人はそのあたたかな腕の中に私をそっと抱きとめた。
「ここにいたのね。死んじゃったのかと思ってたのよ」
拓人はそれには答えず、黙ったままただ静かに微笑んだ。私は彼に体をもたせかけて、この部屋に響き渡る力強い音にもう一度耳を傾けた。
────ドクン ドクン……
「拓人さん、これ何の音なの?」
「───心臓の音だよ」
「心臓の?」
私は目を閉じ、その響きにじっと神経を集中した。それはどこか哀しげなものを秘めているようにも聞こえたが、たくましい生命力に満ちた高鳴りをいつまでも規則正しく繰り返していた。
「これはどこから聞こえてくるの? 誰の鼓動なの?」
「部屋全体から響いてくるんだ。誰のものというわけではない、すべてのものの鼓動だよ」
音が澄んでくる。それとともに、頬を押しあてた拓人の胸から同じような響きをもつ力強い音があふれてくる。私の内側は熱くなり、それらに呼応するかのように激しく高鳴りはじめる。
「こうしていると拓人さんの音が聞こえてくる……」
「夏美の音も聞こえているよ。分かるかい、君と僕とこの部屋と、すべて同じリズムで動き続けている」
心地よく耳に広がる拓人の言葉。私の音、拓人の音、すべてのものの音───、入り混じり、溶け合って、熱く熱く高まりながらひとつの音楽に変わっていく。かけめぐるこの血の流れは今にも体からあふれ出て、拓人を、この部屋を、いっぱいに染め上げてしまいそうだ。
私は拓人の胸にうめていた顔をそっと起こし、闇と淡い光に彩られた相も変わらず美しい彼の容貌を見つめた。拓人は穏やかな色に満ちた静かなまなざしで、こちらを見下ろしている。
「───ねえ拓人さん、ここはどこなの?」
私は子どものような気持ちになりながら、あどけなくたずねてみる。拓人はそれには答えず、少し首をかしげて微笑すると、そのまま私から体を離して一歩一歩踏みしめるように扉の方へ歩いていった。そして扉の前に立つと、ためらいもなくその取手に手をかけ、ギイッ……という重いきしみをたてながらゆっくりと扉を押し開いたのだった。
部屋の中に少しづつ満ちてくる光。何者かの意志のように破りがたく支配する静寂。そこには、神々しい輝きを放つ数えきれない星の渦をちりばめた、冴々と澄み渡る青く深い闇の世界があった。
─────宇宙だ─────
私は目を見開き、開け放たれた外の世界に心を奪われる。わけもなく涙がこぼれ、この部屋も宇宙も拓人の背中も、何もかもがにじんで色や形を崩し溶け合って映る。拓人はふわりと振り返り、真っすぐに私を見つめた。そして聞き慣れたよく通るつややかな声でゆっくりと語りかけてきた。
「────この部屋はね、子宮なんだ」
心に直接届いてくる響き。ふっと目を細めてやわらかく笑う拓人。そうして短い言葉と微笑みだけを残して、彼は扉の外へと足を踏み出した。
「拓人さん……!」
その瞬間、どこからかあふれてきた神聖な光の束が彼を包み込んだ。その背中は白い明るみにまぎれて漠然とした輪郭になっていく。
そして彼は飛び立った。
光はいっそうまぶしく輝き、行く先を示すように遥かかなたまで真っすぐに広がっていく。私は開け放された扉のそばへ駆け寄っていった。だが立ちつくす以外に何ができるというのだろう。
なすすべもなく見上げる私の頭上で、拓人はゆるやかに飛翔していく。
………降りそそぐ月の光の中であなたは振り返った。赤くかわいた薄い唇は金色に潤い、空へうつろう遠い瞳はまだ胎児であった頃の自分を夢見ていた。あの青い空間の向こうには、すべての命を受けとめるやわらかな腕がある。匂い立つ母体の香。それは地上の泥にまみれた肉体をゆっくりと溶かし、優しい安堵の中で深い眠りにつかせるのだ。
────キミハウツクシイ
舞い上がる黒髪、ほどけていく衣服。細い背中は青く染まり、それを受けとめようとする白い指先に音もなく導かれていく。ここからのばした腕はもう届かない。このけがれた体では追いかけることもできない。心を圧する予感に打ち震え、その面影に想いこがれて熱くゆがんだ瞳で見つめ続けるだけだ。
────キミハ ソノニオイヲオイモトメテ トビタツトイウノカ
その足がまだこの地上のものであった時、逃げることだけがあなたのすべてだった。それにもかかわらず私の心の琴線は共鳴して震えた。それは遥かな過去、私の鼓動があなたの中で息づいていたからだ……
彼の姿は次第に遠ざかり、宇宙のかなたへと消えていった。私はぼんやりとした意識のまま、その方向を見つめ続けるしかなかった。
そして私は不意に軽いめまいにおそわれ、徐々に体の力が抜けていくような感覚にとらわれていったのだった。
3. 融合
目覚めると、抜けるような青空があった。
ときおり、様々に形を変える白い雲が地上に影を落としながらゆるやかに視界をよぎっていく。陽差しはまぶしく照りつけ、やわらかな風のそよぎに混じって甘い香が漂っている。
私はけだるい体をゆるゆると起こしてみた。
見渡すと、そこにはただ一面名も知らぬ花々が咲き乱れていた。
────この中で眠っていたのか……
そう思いながら、透明な空気を胸いっぱいに吸い込んでみる。どこまでもどこまでも空と花ばかりの世界だ。
私は顔を上げて、もう一度切ないほど澄み切った空を眺めた。
────私が生まれた日の空も、ちょうどこんなまっさらな青色だったのだろうか。
ふとそんなことを思うと、父と母と姉の顔が浮かび上がり、その面影はまぶしい青みの中へゆっくりと溶け込んでいく。そうして色々な思い出があふれるように胸の中に満ちてくるのだった。あの場所、あの人々、あの出来事───、様々な愛しい記憶が浮かんでは消え、浮かんでは消えて、ゆるやかな渦となって脳裏を駆けめぐっていく。
私をめぐるすべての人たちの目に、私はどのように映ってきたのだろう。時がたっても彼らの胸に私の存在は少しでも残されているのだろうか。残されているのだとしたら、どんな感情をともなって思い起こされるのだろうか。私はただ、私にかかわったすべての人々が愛惜しいだけだ。すべての出来事が、今ある「私」を形づくってきたのだから。
私たちは時の流れとともにあまりに多くのものを失っていく。この世に生まれてきて無駄な命など何もないと、私たちはいつも互いに言いきかせているはずなのに。無駄でないのなら、いつまでも存在し続けることが許されていいはずなのに。
頼りなげな生を受けて、私たちは決して同じではない日々を営んでいく。喜び、哀しみ怒り、感動……、愛しい感情の起伏。そうして私は、あらゆる感情を繰り返して自分自身の日常を不器用に生き抜いていく────。
「───夏美」
突然、懐かしい声がした。気配を感じ、息を止めてそっと振り向くと、愛さずにはいられなかったただひとりの人が、何か言いたげなまなざしをしてたたずんでいた。私は思わず立ち上がった。
「拓人さん……!」
言葉にならない声がわずかに唇からもれていく。立ちすくむ二人のかたわらでは、やわらかに吹き寄せる風にそよいで鮮やかな花の群れが様々に揺れ動いている。二人は黙って見つめ合った。
────心が満たされる────
言葉にしない互いの心が強くからみ合って溶けた。言葉も時間も場所もない空間、そこに私たちだけが二人、互いの内面から熱く揺らめき立つ呼吸のからまりに動きを封じ込められ、歓喜の色に染まりゆく瞳だけを唯一動きあるものとして輝かせて、その恍惚とした切ないほどにあふれくる感動を隠しきれないまま、心を震わせていた。
「……どこにいっていたの……?」
私は沈黙を破り、燃えるような花の色が揺らめいているその瞳の中をのぞき込む。拓人はいつものようにやわらかく微笑し、しなやかな指先で優しく私の頬に触れた。
「どこでもない場所だよ」
「───どこでもない?……よく分からないわ」
「どこにでもいるということだ」
「どこにでも……? ───拓人さん、じゃあここはどこなの?」
「世界の果てだ」
彼はそこで口をつぐむと、どこまでも透き通っていくその瞳に内部から立ちのぼる様々な感情を映し出しながら私を見つめ続けた。大きく開かれた切れ長の目を縁取るつややかなまつげの下で黒い瞳は光に濡れてきらめき、薄くあいた唇からは歯の白色がかすかにのぞいている。そのまま微動もしない彼の姿は、ひとつの美しい彫像のように見えた。
「───君があんまり悲しそうな顔をしていたから、ここにいるんだよ」
拓人はささやくような声でそう言うと、不意に私の額にそのしっとりとした唇を優しく押しあてた。そのぬくもりを痛いほどに感じながら、私はこの時初めて、そのくちづけからすべての意味を理解したような気がしたのだった。
「行こう」
強い意志をはらませて拓人が私の手を取る。それに答えるように、指先に力を込めて握り返す。
「私分かったの、だから確かめにいくわ───」
─────宇宙へ─────
言いかけて途切れた言葉の、届かないほどかすかな響きが風にかき消される。にじむ瞳に映る彼の微笑が淡くかすんで見えた。
私たちは走りはじめる。花々の間を抜け、風をいっぱいに受けて、あの青い深みの中へ駆け上がっていく。空気が体中にあふれるほど流れ込み、驚くほどたやすく二人は空中へ浮かび上がる。
そうしてそのまま雲を超え空を超えて、どこまでも果てしなく広がっていく深い深い宇宙の闇の中に突き抜けていった。
────すべてのものよ、私の中になだれ込んでこい……!
鮮やかな金色の道を放つ星々が、おごそかに動き続ける惑星たちが、近づいては遠ざかり遠ざかっては近づいて、やがては私たちの中に吸い込まれていく。
若い私は限りなく愚かだから、掌から失われていく愛しいものたちの存在の大きさに自らを責める時がきても、走ることをやめないだろう。だがすべては、今を生き抜こうとする私の体と精神の美しさを、そのふところに抱きとめるだろう。
そっと顔を上げて横を向くと、何もかもを許容しているかのような愛に満ちた瞳をした拓人がいて、分かっているよ…いうように優しく優しく微笑んでいた。
あふれてくる光を身にまとった私たちは、すべてを吸収しながら次第に速さを増してこの空間を突き進んでいく。
────ドクン ドクン────
すべてに呼応する音が赤い血のめぐりに合わせて私たちの中で激しく熱く脈打っている。私はすべての中に取り込まれる。そうしてすべては私なのだ。
────カノジョノクチビルニ カレノコドウガ イキヅクノハ……
歌うような拓人の声。響き渡る原子の鼓動。増していく光の中で、私たちはやがてひとつに溶け合い、宇宙を飲み込みながらどこまでもどこまでも飛び続けていった。
終章
もうじき、春がやってくる。
私は窓を開け放ち、まだ冷たい風を部屋の中いっぱいに流し込んだ。外は朝の明るい光に満ちあふれ、爽やかな小鳥のさえずりが澄んだ空気の中に響き渡っている。
「夏美、早くしなさい!村瀬さんが待って下さっているのよ」
下から母の呼ぶ大きな声が聞こえてくる。
「今行くわ!」
私は同じように声をあげて返事をすると、上着とハンドバックを急いで手に取り、ドアの取手に手をかけた。その時、ふっと視界に入ったものがあった。私は思わず足を止めて振り返り、ベットの上の壁を真っすぐに見つめた。
そこには、ある三枚の絵が、きっちりと並べて飾られてあるのだった。
───それはかつて、私の最も愛する人が命を込めて描いたものだった。その人は、今はもういない。
癌だった。気付いた時には、もう末期だったのだ。彼は自分の体がどんな状態にあるのかをよく知っていた。そしてついに私にそのことを一言も告げないまま、悪化して動けなくなる前に、バイクの事故でこの世を去っていった。私は彼の葬儀の後に、初めて彼の兄の口からその病気について知らされたのだった。
自殺だったのではないかとささやく人たちがいた。だが彼は決して死のうとしたのではない。彼はただ青空の向こうへ飛び立とうとしただけなのだ。すべてに生まれ変わるために。すべてを愛し続けるために。
私はそれらの絵に明るく微笑みかけると、ドアを開けて、勢いよく階段を駆け下りていった。
私はこの秋、職場で知り合った村瀬という男性のもとに嫁いでいく。
玄関の扉を開くと、彼が穏やかに笑いながら車のドアを開けて待っていてくれた。
ゆるやかに風が流れ、木々の梢をさわさわと揺らしながら行き過ぎていく。私は不意に空を仰いだ。その音に混じって、どこからか、あの人の祝福する声が聞こえたような気がしたのだ。私は心の中で、ありがとう……とつぶやいた。
そして青く高い空に向かって、とびきりの表情で笑いかけた。
ラヴィータ'
羽原 久美子
本作品ラヴィータは、高泉淳子氏の「ラ・ヴィータ」(1994年 ペヨトル工房)にインスパイアされて書かれたものだと思われますが、作品構成要素をそのまま用いているので、公開をやめます。(野浪正隆)
イヴ
羽原 久美子
十月三日
僕は見知らぬ街にいた。セピア色がよく似合う古いレンガの並ぶ街だった。雨上がりなのか、道にはあちこちに水たまりがあり、やっと顔をみせた太陽の光を反射させていた。何げなくそばの水たまりを覗くと、あちこち汚れたシャツを着て口元を汚した僕の姿と、何やら得体の知れない肉の塊が目に入る。
[またか……]
僕は相棒のヒトリを潰してしまった。唯一の友達である、はつかねずみを。僕の中のもう一人の僕が、耐え切れずに潰してしまった。潰して、血を啜って、無用になって捨てた。僕は塊になった相棒を、胸ポケットで丸くなっている生き残りに見せないようにそっと拾うと、辺りを見渡す。
[ここに埋めよう]
そこは、そこだけが手入れされたように美しく、それでいて慎ましやかな教会の下だった。
十月十三日
僕が教会に住みついて十日が過ぎた。シスターが僕を憐れんで、教会においてくれるようになったのだ。教会の十字架は、僕に過去を思い出させる。犯したはずの数え切れない小さな過ち、そして、消すことのできない唯一の過ち。その実感のない罪に怯え、僕はここにいる。もう一人の僕が静かなら、僕は僕でいられる。普通でいられることが僕にとってどんなに幸せなことか、誰も気づいてはくれないけれど。僕は本当の自分の名前さえ知らずに、もう一人の僕に怯えて暮らしてきた。ここでは僕に名前をくれた。僕は、シスターがくれた名前が気に入った。
十月二十一日
シスターが僕の髪をすいてくれる。細い人工的な金色の長い髪。生まれついてのこの髪のせいで、僕はよく忌み嫌われた。
「きれいな髪ね…」
シスターがほめてくれた。僕はなんだか嬉しくて、ほんの少し笑顔を見せた。僕は久しぶりに笑顔になれた。
「イヴ、やっと笑ってくれた。本当に天使みたい」
シスターも静かに微笑む。鏡に映るその笑みを、僕はずっと見ていたいと思った。僕は知らず知らずのうちに、鏡の中のシスターの瞳を見つめた。その瞳はどこか懐かしい気がした。いつかどこかで見ていたような、懐かしい感じ。
「何?」
シスターの問いかけで、ハッと我にかえる。
「なんでもない」
夜になって、僕はじっと空を見つめる。はっきりとしない記憶、僕が何者で、いつ生まれたのか、その答えが全てそこにあるような気がして、僕はいつも空を見上げる。もう一人の僕は今日も静かだ。このまま何も起こらず、日々が過ぎることを願う。イヴとして生き、イヴとして死ねたら、それでいい。シスターと共にずっとこのまま……
十一月五日
二三日前から、またもう一人の僕がうるさい。僕は聞かないふりをして、気を他のものに向けようとするが、やはりもう一人の僕の言葉に耳を傾けてしまう。
〈喉が渇く。お前は平気か?〉
[平気だよ。]
〈血が欲しい。温かい…赤い血…たくさん欲しい……〉
[ないよ。血なんて。]
僕は鏡に向かいながら、呟く。
「もう何も殺さない。君に血なんてあげない。君に僕を支配させない。僕は僕だ。君じゃない」
その言葉に、もう一人の僕は気を悪くしたようだ。鏡の中の僕の顔が歪む。
〈俺はお前だ。俺がいなけりゃお前はとっくの昔に殺されてた〉
「え?」
僕にはもう一人の僕の言った言葉がわからなかった。そして、もう一人の僕はそれ以上何も言わずに黙り込んだ。
『俺はお前だ。俺がいなけりゃお前はとっくの昔に殺されてた』
いつ、どこで、誰に? 僕には何もわからなかった。その日はそれ以上、もう一人の僕が話しかけてくることはなかった。
十一月十日
少し身体の様子がおかしい。目の前がぼーっとかすんで見える。そのかすんだ視界には、心配そうに見つめるシスターの姿。哀しそうな光を瞳に宿している。
「大丈夫……だからそんな目しないで」
思わず僕がそう呟くと、シスターは静かに首を振る。
「そんな青白い顔で、大丈夫なわけないわ。イヴ、今お医者様を」
「呼ばないで!」
シスターの言葉を遮って、僕は叫んだ。僕は怖かった。全てがシスターにわかってしまうのが怖かった。一言も話していないもう一人の僕の存在、そして、僕が犯してきた数え切れない罪。それらが、いともたやすく見抜かれそうで怖かったのだ。それに、こんな弱った状態では、いつもう一人の僕に支配されても不思議ではない。僕が気を許すと、瞬く間に乗っ取られそうだった。
「僕を一人にして…静かに眠ればきっと良くなるから…シスター……」
そう言うのがやっとだった。シスターは僕の言葉に何かを感じ取ったようだが、何も言わず僕を残して、礼拝堂へと降りていった。
〈喉が渇く…もう耐えられない…〉
苦しそうにもう一人の僕が呟く。けれど、僕はそれを無視して眠ろうとした。
〈ここは苦しい。俺は教会が苦手だ。どこか他の所へ行こう〉
せつないもう一人の僕の声。けれど僕は何も答えなかった。
〈……死にたいか、お前は〉
[死ぬ? 何故?」
思わず答えてしまった。けれどもう一人の僕は、それ以上何も言わずにどこかへ消えた。
「何が言いたい…僕に何を…」
十一月十八日
あの日以来、僕はあまり激しい運動ができなくなった。すぐに息切れがし、喉が渇く。そしてふと気がつくと、赤い色を目で追っている。食事をしていても、あまりおいしく感じられなくなっていた。そしていつも同じ夢を見た。随分昔の、幼い僕が呟く。
『血が欲しいね。温かい血が』
その呟きに、いつも目覚めさせられた。孤児院にいた頃の僕。髪の色や、変に醒めた瞳のせいで、友達がいなかった独りぼっちの僕。愛されることも、愛することもなかった孤独の日々。いや、違う。一人だけ僕を認めてくれた存在があった。頼りない愛で、僕を包んでくれた存在。
「あの子だけが……」
浅黒い肌の、瞳の大きなあどけない少女。海のように深い瞳は、いつも僕に向けられていた。まっすぐに僕を見てくれていた。けれどあの子は突然消えた。雪の降るあの日に、いつも一緒にいた木の下で。あのまっすぐな、疑いを知らない瞳がシスターと似ていた。
「眠れないの?」
いつの間にかシスターは僕のそばで微笑んでいる。そして、優しく髪を撫でてくれた。
「眠れないの?」
シスターは、もう一度僕に問う。僕はぎこちなく笑みを造ると、ベッドにもぐりこんだ。
「ううん。眠れるよ、おやすみ」
十一月二十七日
街が少しずつにぎやかになっていく。時折ちらつく白い雪に、子供達ははしゃぐ。僕はほとんど外に出ることがなくなった。寒さが苦手なのではない。外に出るとまたもう一人の僕に乗っ取られそうで、何かを殺してしまいそうで怖かったのだ。部屋の窓に腰かけ、肩のあたりではつかねずみを遊ばせながら、外を眺めることが日課になった。時々十七、八の女の子が笑顔で挨拶してくれる。僕と同じくらいの背格好だ。屈託のないその笑顔が、少し羨ましく思えた。
〈温かい血が欲しい。あの娘の血は美味そうだ〉
[いらない]
〈喉が渇く。お前は平気か〉
[平気だよ]
〈いや、大分まいってるはずだ。ほら視界がかすんでる〉
「うるさい!」
僕は思わず大声をあげた。言い当てられた動揺をかき消すように。その声に驚いたのか、シスターが階下から僕に問いかける。
「何かあったの?」
「なんでもない」
僕は平静を装って答える。遠くの方で、もう一人の僕が笑っている声がする。僕ははつかねずみをカゴに戻した。そうでもしないと、また潰してしまいそうだった。今までのように、小さな生き物で足りるなら、一瞬そんな考えがよぎる。しかし、もしそれで足りなければ、僕は一体どうするのだろう。僕は首を振って、頭の中からその考えを追い出そうとした。知らず知らずのうちに口元へ運んだ指を、きつく咬んでみる。鈍い痛みのあとで、鉄苦い味が口中に広がる。その味が喉を通るとき、パッと甘い匂いに変わった。
[嘘…今までこんな味に感じなかったのに…]
〈喉が渇いてるから、美味いんだ。はつかねずみなんて目じゃないぜ、人間の血は〉
[ ! 知ってるの? その味を。いつ覚えた?]
〈クク… さあ。一度だけあったな〉
[ ! ]
曖昧だった記憶が、突然甦る。あの雪の日、あの子はいつもの木の下で、肩を震わせて泣いていた。何があったのかは、僕にはわからない。ただ、その後ろ姿があまりにも小さくて、僕はいつもあの子がしてくれたように、あの子を慰めてあげたかった。
僕はあの子のそばに行くと、小さな手であの子を包んで、ぴったり頬をくっつけた。そのとき、もう一人の僕の声が聞こえた。
〈喉が渇いた〉
その瞬間、あの子はヒッと短く、甲高い悲鳴を上げて崩れた。その声にふと我にかえった僕の目には、喉元を赤く染めたあの子が、雪の上に横たわる姿が見えた。そして…「…!…甘い味…口元の血を僕は指で、この指で拭った…」
〈もうすぐ十二年経つ。お前は大切な人の血で生かされる。俺と共に〉
どこか哀しげな、もう一人の僕の声。僕は驚きで焦点が定まらなくなった瞳で、部屋を見回す。
シスターに話そう。全てを話して、ここを立ち去ろう。大切だから守りたい。だからそばを離れよう。
僕はギリギリと指先を咬むのをやめて、シスターを呼んだ。シスターはいつもと変わらず笑顔だ。僕は記憶にある限りの事実を、ゆっくりと言葉を選んでシスターに話した。もう一人の僕のこと。僕が犯した罪のこと。そして、シスターを守りたいこと。全てを言葉にして、シスターに伝えた。シスターは時折笑顔を凍らせたが、すぐにいつもの笑顔に戻り、最後まで、僕の長い告白を聞いてくれた。
「イヴ、あなたは誰が何と言おうとイヴなの。そして、今告白したことで、きっとイエス様はあなたを救ってくださるわ。大丈夫。私も祈ってあげるから。ずっとそばで」
「だめだよ。僕はここを出て行く。僕はシスターを守りたい。僕にはシスターを手にかけないという自信がない。だから…」
僕のその言葉をシスターは静かに聞いていた。そして、何も言わずにそっと抱きしめてくれた。
「冷たい身体……どこにも行かなくていいの。ここにいていいの。イエス様が守って下さる」
僕はシスターの優しさが嬉しかった。離れたくなかった。けれど、それ以上に守りたかった。それほどまでに大切だった。あの子のようにはしたくない。
「シスター」
憂いを秘めた僕の声。初めて聞いた声だ。この続きに何を言いたいのだろう。自分でもわからなかった。
「イヴ、もう一人のあなたは今どこにいるの? そして何をしているの?」
耳元で囁かれる優しい声。それだけでいいのに、僕にはもう一つの声も聞こえる。
「遠くで笑ってる。そして叫んでる。血が欲しいと」
せつなかった。どうしようもなくせつなかった。僕はシスターの腕から身体を離し、うなだれた。シスターはそんな僕の気持ちがわかったのか、それ以上僕に話しかけることも、触れることもなく部屋を出ていった。
十二月四日
僕はなるべくシスターに近づかないように暮らした。日に日に喉の渇きは現実味を増し、僕をいらつかせる。水でごまかしてはみるが、無駄な抵抗だった。僕のいらだちはシスターにもわかるらしく、シスターはハツカネズミをそっと連れ出す。僕に潰されない為に。どうしても耐えられないときは、自分の指を咬んで紛らわすか、街の陰で生肉を口にするかしてごまかした。
〈悪あがきだな。あと少しで十二年目だ。あの子も白い雪の上で赤い血を散らした。ま、その後殺されそうになったがな。でも逃げられた。俺のおかげで〉
「黙れ! 僕は君の助けなんていらない」
〈助けだと? 俺はお前だ。血は消せない。他の誰にも渡さない〉
「君は何を知ってる?」
〈全てを。今までも、これからも〉
それ以上もう一人の僕は何も言わなかった。僕は鏡を見つめて叫んだ。
「僕は僕だ! 君なんていらない! 消えてしまえばいい!」
鏡の中の僕が、ニヤッと邪悪な笑みを浮かべて何か言ったが、それが何かはわからなかった。
十二月十日
僕の手は、見るも哀れなほど傷だらけになった。指を咬むことでかろうじて僕は僕でいられた。けれど、もうどこもこれ以上は咬むことができないくらい傷ついていた。僕は唇を咬みしめることで、その代償とするしかなかった。食事は喉を通らない。無理に食べようとはするが、全て吐き出してしまう。おぼろげにしかなかった12年前の記憶が、ふと甦る。たしかあのときも。初めて人の血の味を覚えたあのときも、何も口にできなくなった。
僕は、シスターを手にかけないように、僕をベッドか何かに縛りつけて欲しいとシスターに言った。けれど、シスターは首を振った。
「できないわ」
「シスター」
「あなたを縛っておくことはできない。大丈夫。イエス様があなたを救ってくださる。クリスマスに洗礼を受けましょう。イヴのままいられるように」
僕は大きく首を振り、うなだれる。細く長い髪が僕の頬にかかり、少しずつ濡れて束になる。
「シスター…僕は僕でいられる自信がない」
僕の声は震えていた。シスターはそれ以上何も言わず、僕の髪を撫でた。ただそっと撫でてくれた。そして天井を見上げ、呟いた。
「主よ。この哀れな少年を救いたまえ。迷えるこの哀れな少年を、どうか救いたまえ」
十二月十五日
あまり意識がはっきりしなくなってきた。起きてはいるが、なんだか夢の中にいるようで、シスターに揺すられてやっと現実に戻るような有り様だ。白昼夢もよく見るようになった。きまってそこにでてくるのは、白い雪の上で赤く染まる少女と、十字架にかけられたシスターだった。そしていつの間にか、少女とシスターがすりかわる。その瞬間、僕はハッと我にかえる。窓の外に広がる白い雪の世界が、僕を夢の世界に誘うのだろうか。
ろくに食事をとらないわりには、僕の身体はやせ細ってはいない。変わったことと言えば、瞳の色が時々どんよりと曇ったかと思えば、急に澄み切った紫紺の色になるぐらいだ。喉の渇きはもう限界に近い。もう一人の僕は遠くで嘲笑っている。あまり僕に近づいては来ない。おそらく遠くで機会をうかがっているのだ。
〈ま、せいぜいあがくがいい。あと少しだ。あと少しでお前は俺になる。それが血のきまりだ〉
「君の好きにはさせない…」
〈そんな弱った身体でどうする気だ?〉
「僕が死ねば、君も消える」
〈はっ!〉
軽く、それでいて蔑むように笑って、もう一人の僕はどこかへ消えた。シスターは僕の独り言を聞いても、何も言わない。見守るようにそばにいる。いくら言ってもシスターは離れてはくれない。僕から遠ざかろうとしても、引き止められた。それに甘えてしまった。シスターのそばにいたかった。ほんの少しでも長く、そばにいたかったのだ。
十二月二十日
もう僕は眠れなくなっていた。眠ろうとしても、すぐに目が覚める。空腹と渇きが僕を襲う。けれど、食べ物や水は受けつけない。何度試みても、吐き出してしまう。今までこんなに強い拒絶はなかった。一体僕はどうなってしまうのだろう。恐怖だけが僕を取り巻く。声を出さずに涙する時間が続く。そんなとき、きまってシスターは今まで通り髪を撫で、祈りを捧げてくれる。そんな時間が唯一僕を安心させてくれた。そして少しだけ、ほんの少しだけ眠ることができた。
十二月二十二日
僕はただじっと窓の外の雪を眺めていた。他の色は目に映さなかった。はつかねずみを肩で遊ばせながら、ただじっと、何も言わず外を眺めた。この汚れた僕が、それで少しでも浄化されるような気がした。
もう何日、日の光を浴びていないだろう。雪の降る日は唯一、窓辺に腰かけることができた。日の光は僕をとても疲れさせた。1カ月ほど前には、そんなこともなかったのに。 窓の外の街はクリスマスを楽しもうと、随分にぎやかになっている。僕はいつものように窓に腰かけ、外を眺め続ける。小刻みに震える身体を自分の腕で抱きしめ、支えながら、じっと外を眺め続ける。
十二月二十三日
シスターの悲鳴で空白の時間から目覚めた。白いシャツとシーツが血にまみれている。僕は咄嗟にシスターを探した。シスターは無傷だ。はつかねずみもいつもと同じように、枕元ではしゃぐ。ほっとした途端、右手に激痛が走った。口の中に鉄苦い味が残っている。右手を見ると血まみれになって小刻みに震えている。どうやら、渇きに耐え切れずに、指先を食いちぎってしまったようだ。シスターは口元を血で汚し、呆然としている僕を見て、すぐに傷の手当をしてくれた。シスターが触れる度に激痛が走るが、次第に麻痺し始める。指先は、おそらくもう一人の僕が食べてしまったに違いない。探しても見つからなかった。もう一人の僕に話しかけてみたが、何の反応も返ってこなかった。
十二月二十四日
浅い眠りから目覚めた。白い雲の上にいる。驚いて辺りを見渡す。遠くに人影が見えた。
[誰?]
〈驚いた。ここで目覚めるとはな〉
人影は、初めて目のあたりにしたもう一人の僕だった。何もかも同じ姿。唯一違うのは女の人みたいに長い爪だけ。その足元にぼうっと何かが横たわる。
[それは…僕?]
紛れもなく、僕が眠るように横たわっている。一瞬訳がわからなくなった。じゃあここにいるのは、この自分は誰なのだろう。
〈これは身体だけだ。俺かお前のどちらかが入れば目覚める。ここだけが俺の世界。いつもここでお前を見ていた。これからもずっと〉
そこまで言うと、もう一人の僕は僕に手を伸ばした。長い爪が僕の頬に触れ、顔が近づく。
[え?]
何が起きたのか理解できなかった。ただ咬みつかれたと思った。けれど、違うことがわかった。冷たい感触が唇に残る。
〈お前は誰にも渡さない〉
そう言うと、もう一人の僕は横たわる僕に手を伸ばす。僕も慌てて手を伸ばしたが、さっきの混乱と今までの衰弱が、僕の動きを鈍らせた。
[しまった……シスター!]
「イヴ?」
シスターは祈りを中断し、振り返る。
「うなされているのかしら?」
シスターはゆっくり、静かに階段を昇る。
「イヴ?」
部屋の扉が静かに開く。夜の闇に染まって、部屋の中は暗い。その中で僕が、正確に言うともう一人の僕が、ぼうっと立ち尽くしている。
「イヴ? どうしたの?」
「…怖いんだ……」
僕の声で、もう一人の僕はシスターに話す。僕は必死でシスターに叫ぶ。
[違う!僕じゃない!シスター! 離れて!]
けれど、その声はシスターには届かない。もう一人の僕が煩そうに首を振るだけだった。「シスター…」
シスターはいつものように髪を撫でようと近づいてくる。そのとき、もう一人の僕が静かに手を伸ばした。
「? イヴ、こんな長い爪だった?」
その一言で、もう一人の僕はニヤッと笑った。
「俺はイヴじゃない」
「 ! 」
咄嗟にシスターは身を翻してもう一人の僕から離れようと駆けだした。
[シスター、逃げて。遠くへ。]
シスターは礼拝堂の祭壇の前で、息を弾ませながら、もう一人の僕の姿を探す。
「ここには来れないはずよ。この十字架の前には」
シスターはさっき、部屋から駆けだして来たときに連れて来たはつかねずみをそっと離す。はつかねずみは、いつものように鼻をひくつかせて、祭壇の燭台によじのぼる。そのとき、大きな音を立てて礼拝堂の扉が開いた。
「喉が渇いた。甘い血が欲しい…」
もう一人の僕は、ゆっくりとシスターに近づく。シスターはゆっくりと十字架の方へ後退りする。けれど、もう一人の僕はお構いなしに近づく。
「どうして…」
「苦しいが、喉の渇きには変えられん。幸い今は漆黒の闇夜だ。十字架など恐るるに足りん」
もう一人の僕はそっと手を伸ばす。シスターの震える身体に触れる。
[やめて! シスターだけは!]
「お前が大切にしていたから…俺はこいつが憎らしい」
淋しげなもう一人の僕の呟き。その声に僕は少し言葉を失くした。
「甘い血…温かい血……」
「いやー!」
[やめて!]
白く細い首筋に咬みつこうとしたとき、シスターが恐怖に怯えた瞳をして、燭台を手に取り、僕に振り下ろした。
「クッ」
燭台は、僕の顔に三本の血の筋を描いた。左半分が血に染まる。
「イヴ!」
シスターはハッと我にかえったように、慌てて僕の顔に手を伸ばす。
[いいんだ。今のうちに逃げて!]
「逃がすか!」
もう一人の僕は、どこから手に入れたのか、細いワイヤーを持っていた。シスターは青ざめた顔で、逃げようともがく。そののけぞった細い首に、もう一人の僕はワイヤーをかける。
[シスター!]
「ぐっ」
シスターは醜い声を出して、なおももがき続ける。ワイヤーは首だけでなく、あちこちに絡んだ。
「あいつを俺から奪おうとした…お前はあいつを生かすエサになれ!」
あの弱った僕の身体のどこに、そんな力があったのだろう。もう一人の僕はいとも容易くワイヤーをひく。
[いやだー!]
僕の絶叫と同時に、嫌な音を立ててシスターがちぎれた。赤いしぶきが飛び散る。
「甘い…温かい血…」
もう一人の僕は、ちぎれたシスターを鷲掴みにして、獣のように血を貪る。
[ア…]
床に広がる血だまりも、這いつくばってなめる。そして、満足したのか、祭壇に腰かけ笑う。
「これでやっと眠れる。美味かった」
もう一人の僕は満足そうに欠伸をして、引き下がった。僕は祭壇から降りると、散らばったシスターを眺める。じくじくと顔の傷と右手が疼く。
「シスター…守れなかった…痛かったでしょう? 苦しかったでしょう? ごめんね…」
涙は流れなかった。僕はシスターの首をぎこちなく胸に抱きしめる。そしてぎこちなく髪を撫でた。
「もう嫌だ…大切なものを失くすのは…」
僕はこのまま消えようと思った。幸いもう一人の僕は、気持ちよさそうに眠っている。「シスター、僕洗礼を受けるよ。朝日という洗礼を」
僕は、祭壇の隅で震えているはつかねずみに気づき、そっと手招きした。
「さよならだよ」
そっと拾い上げ、ほおずりする。はつかねずみの白い毛が、赤い血に染まる。
僕は一番朝日が差し込む場所に横たわった。散らばったシスターの亡骸を集めて、じくじくと痛む傷に顔をしかめながら。
うっすらと夜が明けていく。シスターの首を抱え込んだ僕は、ふとあの感触を思い出した。
『いつもここでお前を見ていた。これからもずっと』
「愛しているとでも言いたいの?…」
僕は涙を一粒こぼして、シスターの閉ざされた瞳を見つめた。
「僕はシスターを愛していたんだ…君じゃない」
僕はぎこちなく、シスターの冷たく乾いた唇に口づけた。
十二月二十五日
弱々しいながらも清らかで、柔らかな光が差し込む。冷たく、散らばったシスターの亡骸と僕とを、優しい光が照らし始める。その清らかな朝日の光が礼拝堂に満ち溢れたとき、僕は一握りの灰になり、そして風に舞った。はつかねずみだけが凝固した血に毛を固めながら、いつもと同じように鼻をひくつかせて、シスターの手のひらで遊んでいた。
ご感想をお送り下さい。
殺意の果ての殺意
荒木 寿夫
この日岸本は久しぶりの休暇をもらい、実家のある鹿児島に向かっていた。刑事という仕事柄、滅多に休みはもらえないので本当なら嬉しいはずなのだが、憂鬱な気分になっている。それは、今回の帰省がお見合いをするためだからである。前々から岸本は結婚相手ぐらいは自分で見つけると言っていたが、三十歳を過ぎた今も独身である。上司である熊川警部から、これも人生経験のひとつだと思って気楽にやってこいと言われて渋々行くことにした。現在岸本が勤務している警視庁捜査一課では、このところ大きな事件は発生しておらず、警部やカネさんこと金井刑事、同僚の刑事たちも気持ちよく送り出してくれた。いつもなら飛行機で帰るのだが、すぐには帰りたくなかったのでブルートレインに乗ることにした。東京から鹿児島に行く列車は、西鹿児島行の『はやぶさ』がある。今まで岸本はブルートレインには乗ったことがなかった。この『はやぶさ』は東京−西鹿児島を約二十一時間で結ぶ夜行列車だが、あまりの所要時間の長さに岸本は驚いた。それと同時に古里がいかに遠いところにあるのかを思い知った。
実際に列車に乗るまでは、長旅での相当な疲れを覚悟していたが、乗ってみると意外に快適だった。乗った車両が個室の寝台車だったからだろう。個室は普通の寝台車に比べたら料金は高いが、岸本は一人でゆっくりと考えたいことがあったので個室にしたのである。ビールを飲みながら考えごとをしていたら、いつの間にか午前0時を回っており、岸本は寝ることにした。
翌朝目を覚ましたのは列車が徳山を過ぎた頃だった。何やら外が騒がしいのである。自分の個室のドアから顔を出すと四つ向こうの個室の前に人が集まっている。
「何かあったんですか?」
岸本はちょうど通りかかった人に話かけた。
「男の人が殺されているらしいですよ」
そう言うとその人も人が集まっている個室の方へ歩いていった。岸本も急いで着替えを済ましてその個室へと向かった。個室の中では車掌がどうしていいのか分からずに立ちすくんでいた。岸本は警察手帳を懐から取り出すと、車掌に見せて個室に入っていった。
「最初に被害者を発見されたのは誰ですか?」
「私です。このお客様は徳山で降りられることになっていたので、徳山に着く少し前に起こしに参りました。ドアは鍵が掛かっておりませんでしたので、てっきりもう起きていらっしゃるのかと思ってドアを開けると……」
「殺されていた、ということですね」
「そうです」
車掌とのやりとりの間に岸本は個室内を見回した。岸本が乗っている個室と全く同じ造りだ。これといって変わったところはない。
「被害者はどこから乗ってきましたか?」
「東京からです」
「誰かと一緒でしたか?」
「いいえ。お一人です」
そう言われて岸本は東京駅での車内の様子を思い出してみた。しかし、この男の顔には見覚えがなかった。と言うよりは、岸本は列車に乗ってすぐに個室に入ってしまい、周りの乗客の姿はほとんど見ていないのである。そんなことを考えていると車内放送が間もなく防府に着くことを告げた。
「警察にはもう連絡してありますか?」
「はい。次の防府駅で刑事さんが乗車されるそうです」
「そうですか」
と岸本が言ったのと同時に列車はゆっくりと減速していき、防府駅のホームに滑り込んだ。防府駅では待機していた刑事と救急隊員がすばやく乗り込み、被害者の遺体を運び出し、現場検証を始めた。列車は止めるわけにはいかないので、通常通りに運行され、走行中の車内で現場検証は行われた。岸本は現場の総指揮をとっている刑事に自分が警視庁捜査一課の刑事であり、今は休暇で実家のある鹿児島に帰省中であることを話した。それは、この事件が管轄外で起こったものであることを配慮した上でのものだった。刑事は管轄外の事件の捜査は出来ないからである。しかし、この刑事から返ってきた答えは意外なものだった。
「この事件は殺人事件だし、その捜査の上ではあなたの方がベテランでしょう。それにこの被害者は東京の人間のようですし、ぜひあなたにも協力していただきたい。せっかくの休暇中に悪いんですが」
「……分かりました。お役に立てるか分かりませんが」
「それはありがたい。申し遅れましたが、私は山口県警宇部署の杉崎です」
現場検証は列車が博多に着くまで続けられ、岸本と杉崎はそれから宇部に戻り、捜査を開始した。被害者は所持品の中にあった免許証から東京都に住んでいたことが分かり、岸本は警視庁の熊川に連絡を入れた。
「おう、岸本か。どうした、まだ鹿児島には到着する時間じゃないだろう」
「今、山口県警の宇部署に居るんですが、それが警部。私の乗っていた寝台特急『はやぶさ』で殺人事件がありまして。その被害者が東京の人間なんです。名前は安川直樹、住所は中野区になっています。これから詳しい資料をファックスで送りますので調べていただけませんか?」
「分かった、カネさん達に調べさせよう」
「お願いします。私も詳しい死因とか分かり次第、東京に戻ります」
「岸本は休暇中だからいいよ。それにお見合いもあるだろう」
「それだったらさっき、事件が起こったから帰れなくなったと連絡を入れました」
「そうか……。親御さんは怒っておられただろう?」
「はい、かなり。でも事件が起こったのに仕事をほったらかしにして帰ってきていたらもっと怒ったと思いますから。それに今回のお見合いにはあまり乗り気じゃなかったですから。それでは何か分かりましたら山口県警宇部署の杉崎刑事に連絡してください」
岸本は宇部署での捜査を終え、宇部空港から羽田行きの最終便に乗った。警視庁に着いたときにはすでに午後十時を過ぎていた。しかし、捜査一課には全員が残っていた。
「警部、ただいま戻りました」
「ご苦労様。本当に良かったのか? お見合いしてこなくても」
「警部、多分岸本は、お見合いをしないで済むいい口実ができた、と内心ホッとしてると思いますよ」
と、金井がふざけて言うと、岸本は慌てて、
「カ、カネさん、何言ってるんですか」
と言った。そのあまりの慌てぶりに全員笑いの渦に包まれた。しばらくしてその笑い声をかき消すように、
「岸本も戻ってきたし、今までに分かったことを整理してみようじゃないか」
と、熊川が言った。
「まずカネさんに被害者の身元について話してもらおう」
「分かりました。被害者のは安川直樹、三十四歳。私立探偵をしています。住所は東京都中野区高円寺三−五−八 パークヒルズマンション八〇二号室です。大家さんに聞いたのですが、安川の評判はあまり良くないですね。自分が調査したことをネタにゆすりまがいのことをやっていたようです。そのため、かなり人からも恨まれていたと考えられます」「それから警部、被害者の死因ですが」
と岸本がきりだした。
「死因は左胸を鋭利な刃物で刺されたことによる出血多量。死亡推定時刻は今日つまり六月二十日の午前二時から三時の間です。また、血液から睡眠薬が検出されました。おそらく睡眠薬で眠らされた後に刺されたものと思われます。凶器の刃物は現場に残されていましたが、残念ながら指紋は検出されませんでした。それと、現場の床に落ちていたシーツに多量の血がついていたのですが、これは犯人が被害者を刺すときに返り血を浴びないようにするために使ったものと思われます。このシーツは被害者が乗っていた個室に備え付けのものです。また、この個室は、内側から鍵が掛かるようになっているので、犯人が個室内で殺人を行っているということは、被害者が犯人を個室内に招き入れたことになります」
「なるほど」
と、頷きながら熊川は言った。
「ここから先は私の推論なのですが…」
と岸本は恐縮しながら言った。
「安川はさっきカネさんが言ったようにゆすりまがいのことをやっていました。だから、今回寝台特急『はやぶさ』に乗ったのもゆすっている相手に会ってお金を貰うつもりだったのではないでしょうか。しかし、逆に殺されてしまった。個室内の安川の金品が盗まれていないことから考えると、物取りの犯行ではないことは間違いありません」
「しかしなあ、この時点で恨みによる犯行だと決めつけるのは早すぎるんじゃないか?」と熊川は当惑した。
すると岸本は、おもむろに資料を取り出し全員に配った。
「これは被害者の遺留品の中にあった手帳をコピーしたものです。これを見ていただくと分かるのですが、毎月二十日に『T、百万円』とあります。したがって、安川が殺された六月二十日はお金を受け取る日になっていた、ということになります。だから、この日安川は、Tという人物から百万円を受け取るために『はやぶさ』に乗っていたと考えるのが妥当だと思うのです。私には安川に脅されていたTという人物が、安川を殺したとしか思えないのですが……」
岸本の発言にしばらくは全員が黙って考えていたが、意を決したように熊川は、
「それじゃあ明日からは、岸本が言っていたTという人物を安川が調査していなかったかどうかについての捜査を開始しよう」
と言って、全員の意見を確かめるように顔を見回した。
翌日、金井と岸本は、殺された安川のマンションに向かった。このマンションは事務所と住居を兼ねており、調査の記録が残っているのではないかと思ったからである。そこで二人はイニシャルがTの人物に関する調査記録を探した。安川には探偵としての仕事はあまりないようで、調査記録の数も少なかったので探すこと自体は難しくなかった。その中でイニシャルがTの人物はわずか二人だけだった。とりあえず金井たちはこの二人に会ってみることにした。
まず一人目は高橋という医師で、残る一人は寺内という自営業の男だった。この二人に関する調査内容はともに奥さんからの浮気調査だったのだが、肝心の二人の事件当日のアリバイはしっかりとしたものだった。高橋はその日は当直の勤務で午前四時すぎまで緊急手術の執刀をしていたし、一方の寺内もその日は商店街の慰安旅行で北海道にいっており、午前二時すぎまでみんなとスナックで飲んでいたことが証明された。
事件の容疑者として考えていた二人のアリバイが証明されたことで捜査は行き詰まった。そこで、金井と岸本はもう一度安川のマンションに行き、調査記録を調べ直すことにした。名字のイニシャルがTの人物だけでなく、名前がTの人物も調べようと考えたからである。改めて記録を読んでみると、調査記録に通し番号が打ってあることに気づいた。一番に順番から読んでみると一つだけ記録が抜けているページがあった。その他のページはすべてそろっていた。金井は疑問に思った。ページに番号を打つほどの几帳面な人間がせっかく調査した資料を紛失するだろうかと。
(きっと犯人が盗んだにちがいない)
と、金井は直感した。その時、室内を調べていた岸本が金井のところにやってきた。
「カネさん、これを見てください」
と手を差し出しながら言った。
「クラブのマッチだな。安川は独身だったからクラブぐらい行くだろう」
「それがカネさん、その数がすごいんですよ。ざっと見ただけでも三十個ぐらいはあるんです。しかも、全部同じクラブのマッチなんです」
「それはすごいな」
「安川はこのクラブのホステスにかなり入れこんでいたんじゃないでしょうか。もしかしたら何か知ってるかもしれませんよ」
と、岸本は目を輝かせながら言った。
「それじゃ、今晩行ってみようじゃないか。何か聞けるかもしれないし」
と、金井も行き詰まっている捜査が進展するかもしれない期待に胸をふくらませた。
その夜、金井と岸本は、安川が通っていたクラブに向かった。そのクラブ『AMIGOS』は新宿歌舞伎町にあり、安川が住んでいた高円寺からはかなり近いところにある。店に入ると金井はクラブのママに安川の写真を見せながら、
「この人、よくこの店に来ませんでしたか?」
と聞いた。するとママは写真を手に取り、
「ああ、この人。よく来てたわよ。何かユキちゃんにお熱だったみたいね。いつもユキちゃんを指名してたから」
と、言った。
「そのユキさんはどちらにいらっしゃいますか?」
と金井が言うと、ママはユキを呼んでくれた。
「私がユキですが……」
と、いぶかしげな表情を浮かべてやって来た。スタイルのいい、少し派手な感じのする子だった。
「あなたがユキさんですか。私たちは警視庁捜査一課の者ですが、安川直樹さんをご存じですよね?」
「はい、先日ニュースで殺されたことを知って大変驚きました」
「その安川さんですが、最近の様子はどんな感じでしたか?」
「そうですねぇ……」
と、ユキは少し考えながら、
「そういえば最近、急に金回りがよくなったような気がします。安川さんが人を脅迫してお金を貰ってることは知っていたので、私聞いてみたんです。今度の相手は誰なのって」金井も岸本も身を乗り出して聞いている。
「刑事さんもご存じでしょ? アイドル歌手の近藤ちひろ。あの子なんですって。ネタ自体は大したものではなくて、よくある男とのスキャンダルらしいんですけど、なんでもマネージャーがちひろちゃんにえらくご熱心らしくって。あの子って清純派で売ってるでしょ? だからそういうネタは困るからってすごい額のお金をくれるらしいの」
「それはいつ頃の話ですか?」
「三カ月ぐらい前かな。これぐらいでいいですか? お客さんを待たせてあるので」
「ああ、忙しいところどうもありがとう」
と言うと、金井たちは店を出ることにした。
その日はもう夜遅かったので、次の日に二人は近藤ちひろの所属する事務所に行った。その事務所は芸能プロダクションの中でも老舗で、その中でも彼女はトップクラスのアイドルである。
「すいませんが、近藤ちひろさんのマネージャーさんはいらっしゃいますか?」
と言って金井は警察手帳を見せた。
「今は仕事であいにくこちらにはいませんが、うちの田村裕治が何かしましたか?」
と、そのプロダクションの社長らしき人が驚いたようにして答えた。
「いいえ、ちょっとある事件のことでお伺いしたいことがありまして。別に大したことではありませんから」
そう言いながら金井は、
(イニシャルはTだな)
と思った。
「田村さんは何時ごろお戻りになられますか?」
と金井は尋ねた。
「もうすぐ戻ると思いますのでこちらでお待ちになってください」
と二人は応接室に通された。
それからしばらくして田村は戻ってきた。
「警察の方が私に何のご用ですか?」
と少し不機嫌な様子で言った。
「安川直樹という人をご存じですよね?」
と岸本は尋ねた。田村は一瞬顔色が変わったが、
「いいえ、そんな人は知りませんが」
と憮然とした表情で答えた。すると金井が横から、
「それはおかしいですね。安川さんの知り合いの方があなたのことをご存じなんですけど。それとちひろさんの男性とのスキャンダルのことも」
と言った。その途端、田村は怒りだして
「あなた方が何を調べていらっしゃるかは知りませんが、それがちひろと何の関係があるんですか。それにちひろは特定の男性とお付き合いはしていません。変なこと言わないでください」
と興奮してまくし立てた。
「落ち着いてください。こちらが聞きたいことはあなたのことですから」
と金井は窘めるように言った。
「六月十九日の夜から二十日の朝にかけてどちらにいらっしゃいましたか?」
「二十日にちひろの仕事が福岡であったので十九日の夜に寝台特急に乗りました。そこでずっとちひろと一緒でしたが、それが何か?」
「いや、ちょっと確認したかっただけですから。それで、何という寝台特急に乗られたんですか?」
「長崎行きの『さくら』です。その四人用の個室に乗りました。一人用の個室は狭すぎるので」
「地方に行かれる時はいつも寝台特急に乗られるんですか?」
と金井は聞いた。
「いいえ、今回が初めてです。ちひろが一度寝台特急に乗ってみたいと前々から言っていたので乗ったんです。たまたま、十九日の夜から二十日の夕方の福岡でのイベントまでは仕事が入っていなかったものですから」
「そうですか。そのことをちひろさんにも確認したいのですが、こちらに呼んでいただけますか?」
「分かりました。少々お待ちください」
と言うと、田村は応接室を出て行って、ちひろを連れて戻って来た。
「ちひろさんは六月十九日の夜から二十日の朝にかけてどちらにいらっしゃいましたか?」「その日だったら寝台特急『さくら』に田村さんと一緒に乗っていました。二十日の夕方に福岡でイベントの仕事がありましたから。私、前から寝台特急に乗ってみたかったんです。だから、その日のことはよく覚えてます」
「ずっと田村さんと一緒だったんですね?」
「そうです」
「あなたは何時頃におやすみになられましたか?」
「あれは名古屋に着く前でした。急に眠くなったんで。翌朝は列車が小郡に着く前の車内アナウンスで起きました。起きた時には田村さんはまだ寝ていらっしゃたので、ずっと一緒だったと思うのですが」
「そうですか。ありがとうございました。また来るかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」
その夜、捜査会議が行われた。田村にはアリバイがあるが、安川の手帳に書かれていたイニシャルTとホステスのユキの話を総合して犯人は田村に間違いないという意見で全員一致した。しかし、田村が乗っていた『さくら』は安川が乗っていた『はやぶさ』よりも前を走っているので『さくら』から『はやぶさ』に乗り換えることは簡単だが、『はやぶさ』から『さくら』に戻ることは時刻表の上では出来ないのである。でも、殺された安川と田村は同じ線路の上を走る列車に乗っていたので、絶対どこかに抜け道がある筈だと熊川も金井も考えていた。
その抜け道を捜し出すために熊川と金井は翌日の『はやぶさ』に乗ることにした。熊川たちは、田村は名古屋駅で『さくら』から『はやぶさ』に乗り換えたと考えている。それは、名古屋以降、両方の列車が安川の死亡推定時刻である午前二時までに停車する駅は岐阜だけであり、岐阜よりも名古屋のほうが乗降客が多いので目立ちにくいと思ったからである。事件当日、近藤ちひろは名古屋に着く前に寝てしまったためにそれ以降、翌日小郡到着時に起きるまで田村の姿を見ていない。つまり、名古屋で『はやぶさ』に乗り換えた田村は小郡よりも前に『さくら』に戻っていたことになる。それが可能なのかを確かめたかった。それともう一つ気になることがある。いつも夜遅くまで仕事をしている近藤ちひろが名古屋に着く前の午後十時三十分頃に眠くなるだろうかということである。彼女の話によると、その時間に急に眠くなったということだが、おそらく田村が彼女に睡眠薬入りのジュースか何かを飲ませたのだろうと熊川は推測していた。
そんなことを金井と二人で話している間にも列車は何事もなく走り続けた。しばらくぼぅーっとしていたが、列車が停車するショックで二人とも我に返った。時計を見ると午前三時である。
「おかしいですね。こんな時間に止まる駅は時刻表には載っていないのですが……」
と金井は言うと列車の窓越しの外の様子を見た。岡山駅である。その時、ちょうど車掌が通りかかったので、
「何か事故でもあったんですか?」
と熊川は聞いてみた。
「違います。よくお客様に聞かれるのですが、これは運転停車といって乗務員の交替と給水を行うためのもので、お客様の乗り降りのための停車ではないですので時刻表には載っていないのです。下りの『はやぶさ』は毎日、この岡山駅で五分間停車します」
「もし、お客が気分が悪くなったから降ろしてくれ、と言ったら降りることは出来るのですか?」
「それは出来ますが……」
熊川は金井と顔を見合わせた。
「私は警視庁捜査一課の熊川と申しますが、今月の十九日の東京発の『はやぶさ』でそのようなことがありませんでしたか?」
「その日は私は勤務しておりませんでしたが、先程交替した乗務員がその日の『はやぶさ』の車掌と同じ車掌区の人間ですので聞いてもらいましょうか?」
「それは助かります。それから私達もここで降りてみたいのですが……」
「分かりました。こちらへどうぞ」
と車掌に案内されて、熊川達は列車から降りた。ホームには先程乗務を終えた車掌達がまだ残っていた。列車が安全に発車するのを見送る慣習らしい。その車掌達に列車内で会った車掌が話をつけてくれた。その内の一人が熊川達のところにやってきた。
「私は岡山車掌区の森下と申します。刑事さん達がお探しの車掌は今勤務中で連絡は取れないのですが」
「それではその車掌さんが戻ってこられましたらこの写真を見せて、この男が二十日に岡山駅に到着した『はやぶさ』からこの岡山で途中下車したかどうかを聞いていただけませんか?」
「分かりました。聞いておきます」
「ご協力感謝します。それじゃあ何か分かり次第、警視庁の私のところに連絡していただくように伝えてください」
と熊川はお礼を言って、車掌に田村の写真を手渡し、急いで改札口へとむかった。
「警部、やっと第一関門を突破しましたね」
「そうだよ。もう一息だ。ところでカネさんが犯人だったらこの後どうする?」
「そうですね……。やっぱりタクシーで『さくら』を追いかけると思います」
「そう考えるのが妥当だろうね」
二人は急いで改札を出ると、駅前に止まっているタクシーに乗った。『さくら』が小郡に到着する前に停車する駅は広島・岩国・徳山である。熊川は運転手にその三つの駅と停車時間の書いてある紙を見せた。
「今から車を飛ばして、その紙に書いてある駅に時間までに確実に到着出来るのはどこかな?」
「広島と岩国は時間的に言っても無理だね。徳山だったら高速道路のインターチェンジからも近いし間に合うかもしれないな。かなり飛ばしたらの話だけど」
「分かった。それじゃあ、徳山まで行ってくれ。これは事件の捜査で重要なことなんだ」すると運転手は、バックミラー越しに二人を見て、
「なんだ。あんたら刑事さんか。それなら警察に捕まっても大丈夫だな」
と言うと、徳山に向かって車を飛ばした。
タクシーが徳山駅に着くと、熊川と金井は急いで改札口に向かい、ホームへと走った。熊川達がホームに着くと同時に長崎行きの寝台特急『さくら』もホームに入ってきた。
「これで田村のアリバイは崩れましたね」
と嬉しそうに言った。熊川も満足気な表情を浮かべている。
ちょっと一息つこうという熊川の提案で小郡まで『さくら』に乗ってみることにした。車窓からは美しい瀬戸内の海が見える。二人はしばらくその景色を眺めていた。すると車掌の車内アナウンスが間もなく小郡に到着することを告げた。突然、金井が
「警部、これだったんですよ。田村が徳山で『さくら』に乗らなければいけなかった理由は」
と興奮した口調で言った。
「なにがだい、カネさん」
「車内アナウンスですよ。この列車は小郡に到着するというアナウンスが、翌朝の初めてのアナウンスなんです。夜の十時から朝の七時前後に到着する駅まで、おやすみになっているお客さんのためにアナウンスはされないんです。近藤ちひろがいくら睡眠薬で眠らせられていたからといって、これぐらいの時間には薬の効き目は切れているはずです。だから、アナウンスを聞いてちひろが目を覚ますだろうと田村は計算に入れて徳山までに『さくら』に戻ったのだと思います」
「なるほどねぇ。そこまで計算していたなんて思いもしなかったよ」
と熊川は半ば呆れながらも驚いた。
それから二人は小郡で『さくら』を降りて岡山に戻った。田村を徳山駅まで乗せたタクシーを探すためである。しかし、意外にあっさりとそのタクシーは見つかった。真夜中で暗かったので顔ははっきりと見ていないが、田村によく似ていると証言した。徳山駅までとにかく急がせて、高速道路を飛ばしに飛ばしたからよく覚えているらしかった。こうなると、あとは車掌からの田村に間違いないという証言を得ることと名古屋で田村が『はやぶさ』に乗り換えた証拠を探している岸本の帰りを待つだけだった。
岡山でタクシー運転手から証言を得た後、二人は岡山空港からの最終便の飛行機で東京に戻り、そのまますぐに警視庁に向かった。警視庁に着くと西條という女性の刑事が待機していた。
「警部、お帰りなさい。先程、岡山車掌区の村田さんから連絡がありました。この方は事件当日『はやぶさ』に乗務されていた車掌なのですが、警部がお尋ねになっていた人物は田村に間違いないそうです。田村は首筋に大きなホクロがあるのですが、それが印象的でよく覚えているそうです」
「そうか。あとは名古屋で田村が『はやぶさ』に乗り換えた証拠が欲しいな。岸本から何か連絡は?」
「いえ、まだ何も。それから警部。私は近藤ちひろが所属している事務所に行ってきたんですが、そこでおもしろいことを聞いてきました。仲間のマネージャーの話によると、田村はアイドルとしてのちひろにかなり執着していたようです。その執着心は彼女がアイドルのままでいるためには人も殺しかねないほどだったそうです。そして、『ちひろは俺とは一生離れられない、もしあいつが俺のことを裏切ったときは、そのときは殺す』と言っていたようなんです。そのマネージャーも初めは冗談だと思ったそうなんですが、田村の顔があまりに真剣だったので怖くなったと言っていました」
「そこまでいくとちょっと異常だな。田村はちひろに惚れてたんじゃないのかな」
と熊川が言うと、西條は首を振って、
「ちひろにというよりはアイドルとしての近藤ちひろに惚れていたんだと思います。それで警部、そのちひろなんですけど、今日の午後のイベントで引退宣言をしたんですよ。人に隠れずに大っぴらに恋愛できる普通の女の子に戻りたいって。事務所はその一件で大騒ぎだったんですけど」
と西條が言うと、熊川は顔色を変えて、
「田村はちひろがアイドルを続けられるために安川を殺した。しかし、ちひろは引退宣言という形で田村を裏切った。ということは……。近藤ちひろが危ない。みんな急いでちひろのマンションに行くんだ!」
と大声で叫んだ。
熊川と金井は近藤ちひろのマンションの部屋の前に来てインターホンを鳴らしたが、応答はなかった。しかし、中から言い争うような声が聞こえた。熊川はドアノブを回したが、鍵が掛かっている。熊川は金井が管理人から借りてきたスペアキーで鍵を開け中に入った。すると、ちひろのベッドの上で田村がちひろに馬乗りになって首を締めているところだった。
「田村! やめろ」
と金井が叫ぶと田村はちひろから手を離し、キッチンの方に逃げた。
「ちひろさん、大丈夫ですか?」
熊川と金井がちひろのところに駆け寄ると、
「大丈夫です。突然だったのでびっくりしただけですから」
と弱々しかったが、はっきりと言った。すると、
「ちひろ……」
とうわ言のようにつぶやきながら戻ってきた田村の手には果物ナイフが握られていた。
「田村さん、もうやめて。これ以上罪を重ねないで」
ちひろの悲痛な叫びが部屋に響いたが、田村は呆然としており、ちひろの言葉は全く聞こえていないようだ。
「刑事さん、そこをどいてください。俺はちひろなしでは生きていけない。そして、ちひろも俺なしでは生きていけない。だから、こうなった以上俺達は一緒に死ぬしかないんです」
「馬鹿なこと言うな。そんなこと、彼女が望んでる訳ないじゃないか」
と熊川はガタガタと震えているちひろをかばいながら言った。
「いいからそこをどけーっ!」
と鬼のような形相をした田村が叫びながらナイフを振りかざしたその時、『パーン』と乾いた音がして田村は右手を押さえて倒れ込んだ。熊川がその音の方を振り向くと、そこには拳銃を手にした岸本が立っていた。
「警部、カネさん、それからちひろさんもお怪我はありませんか?」
「ああ、大丈夫だ。それより名古屋駅で何か収穫はあったか?」
と熊川が聞くと、岸本は懐から一枚の写真を取り出して、
「名古屋駅で毎日のように列車の写真を撮っている鉄道マニアの少年がいるのですが、この少年がたまたま事件当日の『はやぶさ』の写真を撮っていたんです。その中の一枚がこの写真なんですが、警部、写真に写っているこの男を見てください。サングラスと帽子で変装していますが、首筋に特徴的なホクロがあります。そして、背景に写っている列車の行先案内板にははっきり『西鹿児島、はやぶさ』の文字があります。これで、田村が名古屋で『はやぶさ』に乗り換えたことは間違いありません」
「よくやった、ご苦労さま」
と熊川は言うと、まだ右手を押さえている田村に
「田村裕治、近藤ちひろ殺人未遂の現行犯で逮捕する。安川直樹の事件については署に戻ってゆっくり聞くことにしよう」
と言って手錠をかけた。
「何故なんだ、ちひろ。俺はこんなにおまえのために尽くているのに。何故俺の気持ちを分かってくれないんだよ」
と岸本に連行されようとしていた田村が吐き捨てるように言った。
「あなたがちひろさんのことを思ってやったことは、むしろちひろさんにとっては苦痛だったんです。そうですね? ちひろさん」
熊川は穏やかな口調で言った。ちひろは頷いて、
「私は普通の女の子と同じように暮らしたかったし、恋愛だってしたかった。でも、田村さんはそれを許してくれなかった」
その言葉を聞くと田村は涙を流した。そんな田村に熊川は
「これであなたも分かったでしょう。人は他人のことを思い通りにはできないということを。それは愛する人ならなおさらのです。だからこそ人を愛することは難しいし、おもしろいんです」
と諭した。その言葉は、田村の胸の中に重く響いた。
田村裕治の取り調べは順調に進み、安川直樹を殺したことを素直に認めた。
「ようやく事件が解決しましたね、警部」
「そうだね、これもカネさんや岸本のお陰だよ」
「でも警部。最後の言葉はかっこよかったですね。人は他人のことを思い通りにはできない。だから人を愛することはおもしろいって。私もちょっと感動してしまいました」
「やめてくれよ、カネさん。照れるじゃないか。実はね、いつもカミさんに言われてるんだ。あなたは私のことを全然分かっていない。結婚して一体何年になると思ってるの。もう15年なのよって。でも、そんなことを言ってるのにちゃんと私についてきてくれる。だから、人を愛することは難しいけどおもしろいなと実体験として思うから、ああいう言葉が出てきたんだろうね」
「そうなんですか。全然知りませんでしたよ」
と、熊川と金井が談笑していると、岸本が熊川のところにやって来た。
「警部、申し訳ないのですが、明日休暇を頂けないでしょうか?」
と本当に申し訳なさそうに言った。
「事件も解決したし別に良いけど、どうしたんだい?」
と熊川は岸本の顔を心配そうに見ながら言った。
「実はこの前のお見合いのことなんですが、相手が私のことをえらく気に入られたようなんです。休暇を返上してまで働くなんて、とても仕事熱心な方だと。それで、その相手の方がご両親と一緒に明日東京まで出て来られるそうなんです。それで明日お見合いをしなければいけないのですが」
「よかったじゃないか、岸本。それほどまでに君のことを認めてくれているなんて。それなのに私が休暇をあげない訳にはいかないだろう。とにかく明日は頑張ってこい」
「ありがとうございます。でも、本当に警部のおっしゃった通りですね。人からどう思われているかなんて分からないものです」
すると、横から金井が
「これで岸本もとうとう年貢の納め時だな」
とからかうように言った。
「ひどいなぁ、カネさん。そんな人を遊び人みたいに言わないでくださいよ」
その岸本のあまりにもふてくされた顔を見て、捜査一課内は笑いの渦に包まれた。
哀しい兄弟
家根内興一
中国は唐の時代、洛陽県の長官をしていた楊元のもとに、双子の男の子が誕生した。子どもが欲しくて欲しくてしょうがなかった楊元にとって、これ以上にない喜びだった。
双子の誕生を祝って、楊家で盛大な宴が行なわれた。
「今日は愉快じゃ。皆も好きなように楽しんでくれ」
楊元は上機嫌だった。普段は真面目で無口なだけに、楊元の喜びように家の者はただただ驚くばかりであった。
二人は、兄は楊康、弟は楊平とそれぞれ名づけられた。二人とも人なつっこくて、両親だけでなく、家中の誰からも愛されて育った。
また、大変利発な子どもでもあった。さらに、けんかもよくするが、二人は仲の良い兄弟であった。
このような二人の寝顔を見ながら、楊元は妻にいうのだった。
「おい、この子たちはきっと、俺なんかよりずっと出世するにちがいない」
七歳の誕生日を祝うにあたって、二人の将来を占ってもらうことにした。そこで楊元は占いの名手と名高い許修という人物を呼びよせた。
宴もたけなわを迎えた頃、
「許修どの、ようこそお越し下された。本日占ってもらいたいのは、ここにいる二人の息子の将来についてです」
許修は二人の前に近づいて、二人の顔をじっと見つめた。
「むむっ…」
許修は、もう一度確かめるように、二人の顔をじっと見つめた。
楊元は許修が険しい顔をしているので、なにやら胸騒ぎがしてきた。
「許修どの、何か不吉なことでも…」
心配になって尋ねてみた。しかし、許修は口を開こうとしない。
「はっきりおっしゃってください。二人の将来に何が待ち受けているというのです」
楊元は思わず、部屋中に響き渡るほどの大声になっていた。
しばらくして、許修は口を開いた。
「二人とも、すばらしい若者に成長すると申し上げたい所ですが、今、二人の顔を拝見して、はっきりわかりました。二人には、それぞれ憎しみ合わねばならない運命がございます。今は仲がよろしくても、いずれは憎しみ合い、その結果、どちらかが悲しい結末を迎えることになりましょう」
と、ここまで言うと、許修は大きく息をついた。
「そんな馬鹿な。こんな仲のいい兄弟が、どうして憎しみ合うことなどあろうか」
楊元は許修の言葉を打ち消すかのように言った。
「残念ですが、今、私が申し上げたことは間違いございません」
「では、ではそれを防ぐ方法はないのですか」
「定められた運命から完全に逃れることはできません。しかし、その運命の悲劇を小さくすることはできます」
「して、その方法とは…」
「二人を、二度と出会うことのないように離れ離れにしてしまうことです」
それを聞いて、楊元の妻は泣きだしてしまった。許修は下を向いたまま言葉を続けた。「しかし、どんなに遠く離れたとしても、いずれはどこかで出会うことになるでしょう。その時に、このお守りを身につけていれば、最悪の事態だけは防ぐことができるかも知れません」
そう言って、二つのお守りを、楊康、楊平の首にかけてやった。
「私にできるのはそれだけです」
そう言うと、許修は荷物をまとめて、楊元の家を出ていった。
それからしばらくして楊平が姿を消した。楊長官は、部下を走らせ、あらゆる手を尽くして探させたが、手掛かりも何もつかめなかった。それ以来、楊長官から笑顔が消え、以前にも増して無口になった。
二十年の月日がたった。立派に成長した楊康は、上級役人の試験に合格し、都で警備の仕事をしていた。
この二十年の間に、世の中はすっかり堕落してしまっていた。特に、都の高官たちは政治をするより遊びにうつつを抜かしていた。都で過ごす楊康にとっても、このままでは国が滅んでしまうのではないかという思いを抱かずにはいられなかった。
そんな折、父が危篤という知らせが入った。楊康は暇をもらい、急いで父のもとに駆け付けた。
楊康は父の様子を見て驚いた。全身が腫れあがっていて、あまりに痛々しい姿だった。
「これは一体…何があったんだ」
家の者が言った。
「実は、今から一週間ほど前に、都からの役人が地方巡察にやってきたのでございます。そこで、楊元様は精一杯の礼を尽くしてお迎えしました。ところが、それに飽き足らず役人は賄賂を要求してきたのです。それを楊元様がお断わりしたところ、このような目に」
「なんてことだ…」
楊康は、ぶつけようのない怒りに体が震えていた。
「楊康、楊康はいるか」
父が突然、口を開いた。
「はい、ここにおります」
楊康は父のそばに駆け寄った。
「私はもう駄目だ」
「何を言うんです。しっかりして下さい」
「いや、自分の体だ。自分が一番よく分かっている」
ここで楊元は息をつき、水を持ってくるようにいった。運ばれてきた水を一口飲んで、楊元は話しはじめた。
「最期に、お前に言っておかなければならんことがある…お前の…双子の弟のことだ」
「弟、弟というのは、私が七歳の時に行方不明になって、死んでしまったと聞かされていましたが…」
話すこと自体が苦しいのか、それともためらっているのかはわからなかったが、しばらく間があった。楊元は一口水を飲んで、話を続けた。。
「実は、弟を、楊平を連れ去ったのは…私だ。正確に言うと、私が許修どのに楊平を誰にもわからぬように、遠くへ連れ去ってくれるように頼んだのだ」
「許修どの?」
「そうだ。お前たち二人の七歳の誕生日に、私が頼んで、許修どのに二人の将来を占ってもらったのだ。軽い気持ちだったのだが、それがとんでもないことになってしまった。占いによれば、お前たち兄弟は互いに憎しみ傷つけあって、どちらかが必ず死ぬ運命にあると告げられた。そして、それを防ぐには、二人をできるだけ遠ざけるしかないと許修どのは言った」
(どうして、占いなど信じなされたのですか)
そう言いたいのをこらえて、楊康は言った。
「では、弟は、どこに連れ去られたのですか。そして、弟は今も生きているのですか」
「たぶん、今も生きているはずだ。ただし、どこに連れ去られたのかは私も知らない。それについては、許修どのは話してくれなかった」
(弟が生きている)
楊康にとってそれは、衝撃だった。弟はずっと昔に死んだものと聞かされてきた楊康にとって、弟が生きているなどということは、思いもよらないことだった。
「今となっては、本当にすまないことをした。私のしたことは、決して許されることではない。自分勝手と言われるかも知れないが、あの子に、楊平に会って私のしたことをあやまりたかったが、それもかなわぬ身となってしまった」
楊康は、言うべき言葉が見つからなかった。ただ、父の言葉をじっと聞いていた。
「楊康、あのお守りをまだ持っているか」
「はい」
「そのお守りと同じものは、この世でもう一つしかない。もし、同じお守りをしている者がいれば、きっとお前の弟にちがいない。私の代わりに、楊平を探し出してほしい」
「わかりました。だから安心して下さい」
楊康がそう言うと、楊元は静かに目を閉じて、何も言わなくなった。数日後、楊元は息をひきとった。
それからさらに十年の月日が流れた。楊康はその間、手を尽くして弟の行方を探した。そんな中で、ようやくあの許修なる人物の居場所を知ることができた。そこで楊康は手紙を出し、弟のことについて教えてくれるよう頼んだ。
しかし、許修からの返事は返って来なかった。二度、三度と手紙を出したが、結果は同じだった。
楊康はとうとう、許修の住む太原まで直接訪ねることにした。
許修の住んでいた家は、太原の町はずれにあった。楊康の突然の訪問であったが、許修は訪ねて来ることを予期していたらしく、さほど驚いた顔も見せず、静かに家の中へ楊康を招いた。
楊康は部屋の中にある小さな椅子に腰を下ろすと、書棚にある本の多さに驚かされた。そこへ許修がお茶を運んでやって来た。お茶を飲みながら、何から話そうかと楊康が考えていると、許修の方から話しかけて来た。
「あなたからのお手紙は拝見しました。大きくなられましたな。三歳の誕生日の時にあなたの家へ招かれてから、もう三十年ですか。早いもので、私の方はもうすっかりおじいさんになってしまいました」
そう言って、許修はお茶を一口飲んだ。
「あなたからの手紙を見て『ああ、とうとうこの日がやって来たか』と思いました。正直言って、もう思い出したくはなかったのですよ。やはり、運命には逆らうことができないものだ。返事を出さずにいたのは、私のささやかな運命へのていこうだったのだが…しかしそれが無駄だということは…あなたがいずれやって来るだろうということは、分かっていました」
「では…」
楊康は、我慢できなくなって口を開いた。
「いまさら細かい説明はいりますまい。弟を、楊平をあの時どうしたのか、そして、今どこで何をしているのか教えて下さい」
「それはできません」
と許修は言った。
「何故…私と弟が、憎み合う運命にあるからとでも言うつもりですか」
「そうです」
「それでは、たとえそういう運命にあるとしても、もし弟と出会うことが出来れば、私は死んでもかまいません。ですから、教えて下さい。お願いします」
楊康の口調はいつの間にかあらくなっていた。じっと話を聞いていた許修は、それでも迷っていたが、やがて、仕方なさそうに口を開いた。
「実は、あなたの父、楊元どのに頼まれて、楊平は私が育てていたのです。しかし、十年程前に、楊平は家を飛び出してしまって、どこへ行ったのかは、もう私にも分からないのです」
「そんな…ではもう弟には会うことはできないのですか」
楊康は肩の力がいっぺんに抜けたような気がした。しばらく茫然としていた。許修はそれ以上何も言わず、小さな溜め息をひとつついた。
この十年の間に、世の中はもうどうしようもないほど乱れきってしまった。それは、都の高官たちが、政よりも遊びにうつつを抜かし、私腹を肥やすことばかり考えていた結末であった。
都の乱れは、国全体へと広がり、各地で反乱が起こり始めた。重い税に苦しめられ続けて来た民衆が、とうとうその怒りを爆発させたのだ。
このような事態に、朝廷において討伐軍が編制されたが、急速に勢力を広げつつあった反乱軍を制圧することは容易ではなかった。
日が経つに連れて、反乱軍はさらに勢力を増し、それと共に討伐軍の死傷者の数は増えて行く一方だった。
敗戦につぐ敗戦の報に、宮中は大騒ぎとなった。
(このままでは反乱軍が都へ押し寄せて来るのも時間の問題だ)
朝廷では、連日会議が開かれたが、もはやどうすることもできず、ただ討伐軍に望みをたくすより仕方がなかった。
それから半年が過ぎた。そしてその間に戦局は一変した。反乱軍は、はじめは勢いに乗じて勝ち進んでいた。そこで討伐軍は直接戦うことをさけ持久戦へ持ち込んだ。そして反乱軍の食糧がつき、勢いをなくしたところを一気に攻め立て、ようやく反乱を鎮めることができたのである
討伐軍が反乱軍の首謀者以下中心人物を捕らえ凱旋すると、都の人々は歓喜して出迎えた。捕らえられた反乱軍の首謀者たちは、翌日処刑されることになぅた。
その日の晩、一人の男が楊康を訪ねて来た。
「楊康様、楊康様に会いたいという者がやって来ておりますが」
「誰だ」
「わかりませんが、これを見せればわかると申しまして」
と言って家の者は、不思議な形をした青色のお守りを楊康に渡した。
「こ、これは…」
と言うなり楊康は家の外へ飛び出していった。家の前には、楊康をじっと見つめる一人の男がいた。その男の眼から、ひとすじの涙がこぼれた。
「楊平…」
後は言葉にならなかった。二人は互いの存在を確かめ合うように強く抱き合った。実に三十年ぶりの再会であった。だが、それもつかの間だった。
「もう、行かなければなりません」
と楊平は言った。
「行くって、どこへ行くんだ」
楊康が尋ねると、楊平は少し寂しそうな顔をした。
「最後に、会えてよかった」
「何を言っているんだ。楊平、楊平…」
そこで楊康は、はっと目を覚ました。
「何だ、夢か…」
楊康は、しばらく天井を見上げていた。そしてあきらめかけていた弟の事に、頭を巡らせていた。
翌日、反乱軍の首謀者たちが処刑場に連れて行かれていくのを、楊康は他の役人と共に見つめていた。しばらくして、楊康は驚いた。最後の一人が昨夜夢に出て来た男にそっくりだったからである。しかも、その男の首には、不思議な形をした青いお守りがかけてあった。
楊康は、自分の胸の鼓動がだんだん速くなるのを感じた。
(まさか、そんな馬鹿な)
楊康の視線は最後にいる男に向けられた。
(やはり間違いない。あの男は楊平だ)
だが、楊康にはどうすることもできなかった。首謀者たちがだんだん遠ざかっていくのを見ていた楊康に激しい怒りがこみあげてきた。
(どうしてこんな目にあわなくてはならないんだ。やっと、弟を見つけることが出来たと思ったら、その弟は今まさに殺されようとしている。なにが二人は憎しみ合う運命にあるだ。そんなくだらない占いのせいで弟が殺されてしまうなんて…弟は、一体何のために生まれてきたんだろう )
楊康は泣いていた。そして、最後にいた男がちょうど楊康の前を通り過ぎようとしたその瞬間、楊康は男に声をかけた。
「楊平…」
男はちらっと楊康の方を見た。その瞬間、男は満足そうな笑顔を見せた。それは、二人が三十年の時を経て、兄弟に戻れた瞬間であった。
The stopped clock will……?
大里 志穂
一条ゆかり 漫画作品「夢のあとさき」のノベライズです。
ということなので、公開をやめます。(野浪正隆)
卵
里之内 希
改札を出てすぐの所にある終夜営業のコンビニに入った。おにぎり二つと、使い捨てカメラを二つ持ってレジに向かう。カメラは二十四枚撮りだ。代金を支払いながら、唐木拓郎は店員に尋ねた。
「この辺に、近々取り壊される変なピルがあるって聞いたんだけど、どのあたり?」
「え?ああ、『お化けピル』のことかな?それなら、この前の道をまっすぐ行って…」
長髪を赤茶に染めた若い店員は、釣銭を捜しながら唐木の質問に答えた。
「あ、ひょっとして、お客さん、唐木さん……唐木拓郎さんじゃないですか?」
メモ用紙に地図まで書いて道順を教えていたその若い店員は、その時はじめて自分の前に立っているのが、今、マスコミで騒がれている若手写真家だということに気付いた。
唐木は、あいまいに微笑しながら、メモと釣銭を受け取ると、店員にせがまれて彼と握手をしてから店を出た。
初夏の宵闇に、なんともいえないなまめかしい風が吹いている。都心からかなり離れた新興住宅街を抱える私鉄沿線の駅前は、まだほんの宵の口だというのに人影がない。間引きして灯せられた街灯で、さっきの店員の書いてくれた地図を見る。ここからだと、結構距離がありそうだった。唐木はスキンヘッドに剃りあげた頭をつるりとなでて、歩き始めた。
唐木は、四日前に二度目の個展を終えた。今回も連日大盛況だった。写真専門誌や週刊誌、新聞社などの取材がひっきりなしに続いた。最も取材に力を入れていたのは、あるテレビ局だった。何か月もの間、唐木に「密着取材」とやらで、ディレクターやカメラマンが張り付き、制作風景や、プライベートな生活までも映像に残した。番組の最後は、個展の最終日、客が皆帰った後の会場での、唐木のインタビューを生中継してしめくくられた。唐木は、ここ何か月かで。すっかり顔馴染みになった番組ディレクターの南が発する質問に答えていった。
「唐木さんの写真には、都市という生き物が封じ込められているように思うんですが」
「そう、そのとおりだよね。僕は、その『都市という生き物』の輝きじゃなくて、死に絶えてゆく様を、印画紙に焼き付けたいと思って、シャッターを切ってるわけ」
唐木は、薄汚れたジーンズの足を組んだ。
「人が都市で生活する。食う、働く、寝る、遊ぶ……。そういう人間のゴチャゴチャした営みが、都市を活気づけてるわけよネ? ところが、人間が見放した部分、つまり、自分の生活に不要になった部分は、壊死を起こした細胞みたいに腐っていくのよ。僕が『シャシン』にしたいのは、そういうものなんだな。いうならば、人間に捨てられた都市機能の恨みみたいな……」
唐木は、ふっと唇をゆがめてみせる。スキンヘッドのこめかみあたりに、汗の粒が浮いている。
「しかし、従来のベテランの写真家達からの風当たりは強いですね」
「ああ、そうみたいね。僕のほうでは気にしてないんだけど。そもそも、僕は自分のことを写真家なんて思ったことは一度もないよ。あんた達にも、そんなこと言ったことないでしょ。あの人達は、高級カメラを使って、うすっべらい写真を撮っている『写真家』にすぎないですよ。それを芸術と呼びたい人は呼べばいい。僕の撮っているのは『人間のカルマ』だよ。けど、誰かが、僕の創作を邪魔する時は、腕ずくで自分の芸術を守るよ」
唐木は、右の拳をカメラレンズに向かって突き出した。
「そもそも、僕の技術は、あの人達にはまねられないと思うね。彼らが、何十万、何百万もかけても、撮れないような写真を、わずか千数百円の使い捨てカメラを使って撮ってるんだから。彼らが焼きもち焼くのも無理ないか、アハハハー……」
さも痛快そうな唐木の笑顔で、番組は終わって、CMになった。
何の前触れもなく、唐木拓郎は写真界に登場した。
最初に目をつけたのは、ある出版社の編集長だった。行き付けのバーで飲んだ帰り、繁華街の路傍で、写真を並べて座っている唐木を発見したのだったという。これまで見たことのない作風の写真に心魅かれたその編集長の引きで、唐木の作品が何点か、ある雑誌の表紙を飾ったのが、現在の『唐木ブーム』のきっかけだった。
唐木は、使い捨てカメラしか使わなかった。時たま、発光量を増やすために、別にストロボを使うことがあったが、それでも現像の段階で何か特別な技巧を使っているのか、いわゆる高級機材で撮った写真より、ずっと微妙な陰影を待った作品を創り出していた。
唐木の尊大な態度も、マスコミに露出する機会を追うごとに、若者達から支持されはじめた。彼らは、唐木の言動を「ホンネ」と解釈したらしかった。週刊誌にエッセーが掲載され、テレビのトーク番組にも何度か出演すると、若者達のヒーロー的存在になっていた。
「ハイ、オーケー」
ディレクターの南の声で、番組が終わった。強烈なライトが消される。南は、カメラの後ろから姿を現して唐木に歩み寄った。
「お疲れサン。結構、サマになってたじゃない。でもさ、あそこんとこでさ、ホレ、拳を突き出すときにさ、もうチョイ、レンズにガンとばした方が良かったかもね」
「……」
テレビにちよくちょく出るようになってから、唐木は自分の部屋やテレビ局の控室で、『不敵な若僧』を演ずる練習をしなくてはならなくなってしまっていた。世の中に対する漠然とした敵意は以前から心の中にくすぶっていたが、それを誰かれなしに見せたことはなかった。しかし、自分を売り出してくれたあの出版社の文芸部が「既成芸術を破壊する若き野獣」というコンセプトを勝手に唐木に押しつけてしまったのだ。当初、それを拒む立場に唐木はなかった。それ以来、マスコミに姿をさらせばさらすほど、大衆の唐木に対するイメージは独り歩きをはじめ、当の唐木が、そのようなイメージの唐木を演じなければならなくなってしまったのだ。マスコミに登場する度唐木は、ある文芸評論家からは「写真家の無頼派」を絶賛され、ある写真家には「理論も知らぬと素人」をののしられ、文化評論家には「世紀末の具現者」とおだてられ、といった調子だった。
「ところで、唐木ちゃん、N線のT駅って知ってるかい?」
「ええ、N線は乗ったことありますけど……」
「T駅ってのは、急行の止まる駅、S駅だっけ? そこから各駅で四つ日の駅なんだけどさ、その近くに近々取り壊されるマンションがあるんだってさ」
南は、ヤニ取りパイプをつけたマイルドセブンに、百円ライターで火をつけた。
「そのマンションってのが、例のバブルの頃に計画されたものらしくてね。ところが、建設途中でバブルがパチンですワ。建てかけでほったらかしになってたんだけど、今回取り壊しが決まったらしワ。どう、唐木ちゃん、次のシャシンにピッタリだろ?」
「ええ、おもしろそうですね」
唐木の目が輝いた。目的のために作られかけたものが、完成すらせず壊されてゆく、これはもう都市の亡霊ではないか。
次の日、唐木は、最近写真集出版の契約を結んだ大手出版社の担当に電話をかけた。
……橋本さん? 唐木です。写真集のタイトル、『都市の亡霊』で行ってください
二、三十分も歩いただろうか、団地と児童公園の間にそのピルを見つけた時には、唐木拓郎は、かなり歩きくたびれていた。
……かなり大きなマンションになるはずだったんだな。
赤茶けた鉄骨が入り組んでいる。中層部分までは、外壁工事がかなり進んでいたらしく白っぽいコンクリート壁が取り囲んでいた。団地のあかりと街灯にぼんやり浮かび上がったその建てものは、巨大な生物の半白骨化した死体を連想させた。
建物の周りをぐるりと回ってみた。赤く錆びた鉄骨やセメント袋が散乱していて歩きづらい。鉄製の階段があった。非常階段になるはずだったのだろう。昇降口には道路工事でよく見かける黒と黄に塗り分けたバリケードが立てられていた。唐木はバリケードをまたぎ越えて、階段を昇り始めた。どこかが錆びていて、踏み坂を踏み抜いてしまうかもしれなかった。
階段は五階までしか昇れなかった。それから上は、鉄骨の飛び出た空間でしかなかった。五階の吹きさらしの通路にたたずんで、唐木はあたりを眺めた。向こうに団地の群れがある。どれもこれも同じ形の五階建てだった。一番近くの一棟がよく見えた。明かりのついている部屋は、カーテンを開け放していることが多かったので、内部の様子がよくわかった。泣いている子供を叱りつけている母親らしき女。ステテコにランニング姿で、ビール片手にテレビに見入っている中年男。とりわけ彼の注意を引いたのは、親子四人 若い夫婦と幼い子供一人が楽しそうにケーキのようなものを囲んでいる部屋だった。女の子がロウソクの火を吹き消した。ささやかな拍手が、唐木の耳元にもわずかに届いた。女の子の誕生祝いをやっているらしかった。
そのははえましい光景を、唐木は憎悪に歪んだ顔で見つめていた。
唐木は目をそむけると、通路を奥に向かって歩き出した。
……ああいうのは嫌いだ。
赤ん坊をあやす母親、子供を肩車する父親、感激の涙を流す花嫁、談笑する家族。そういったものを、音から嫌っていた。なぜ嫌うのか、かつてはうまく説明できなかった。けれども、今はそれが「小市民的愚行」だからだと答えられる。芸術を骨抜きにするもの、芸術と対極にあるもの、それが憎悪の理由なのだ。
通路には五つの部屋が並んでいた。どれにもドアは付いていなかった。ぽっかり長方形に暗い口をあげて、五つの空間に区切られているだけだ。唐木はショルダーバッグから懐中電灯を取り出した。頼りない光茫は、その黒く、四角な洞穴に吸収されてしまう。
こういう暗さが苦手だった。暗くて四角い入口……。昔、まだはんの小さな子供だったあの頃の記憶が、不意に蘇ってくる。おでんの匂い、下劣な男達の声。
彼の父親は、彼が五歳の時、母親と離婚した。彼は父親が再婚した女と一緒に暮らすことになった。
……今日から、この人をママと呼ぶんだぞ。
「かあちゃん」より若いが、厚化粧のその女をうっかり「かあちゃん」と呼ぶと、父親から死ぬほど殴られた。ママはうらぶれた路地でおでん屋をやっていた。店の開くのは夕方で、仕事に出ている父親が帰ってくるまでの間、唐木は店の裏口にある二畳ほどの小部屋でおとなしく絵本を見たり、絵を描いたりしていなければいけなかった。親子三人が暮らすうち、父親が何日か家に帰ってこないことがあった。それが何日間のことか、幼い彼には知りようもなかったが、父親の帰ってこない日は しばらく外で遊んでな をいうママの言いつけで、あの狭い部屋にも入れないことがよくあった。気候のいいときはまだしもだったが、寒い冬の間は、地面に絵を描くことも凍えがちで、汚れたのれんがかかった裏口までこっそり帰ってみたものだった。そんなとき、決まって聞こえてくるのは、低い、高い、怪物のようなうなり声だった。それが、あの女の声だったと理解するには、まだ唐木拓郎はあまりにも幼かった。ただ恐ろしかった。真暗な長細い裏口から漏れ聞こえてくる野獣のような声に、その時は、逃げ出すこともできず、地面にうずくまって、目を固く閉じ、耳を塞ぐことしかできなかった。
おでん屋には、割合よく客が来た。夕方に店を開けると、早い時間帯には、赤ん坊を抱いた女の人が、二人分ほどのおでんを買って帰った。ある日曜日に、父親に肩車されて男の子が来たことがあった。その男の子は唐木と同年齢で、彼が欲しかった玩具を父親に買ってもらった帰りのようだった。
彼は、自分の境遇と比べてうらやむことはしなかった。ただ憎んだ。あの子があのおもちゃを抱いて、あたたかい蒲団にくるまっているころ、自分はあの暗い入口の前で化物のうなり声の止むのをふるえて待っていなければならない。
懐中電灯をたよりに、一つの部屋の中に足を踏み入れた。中はコンクリートの打ち放しだが、3DKの部屋の間仕切りだけは出来上がっていた。ダイニングはベランダに面していて、そこから裏手の団地が見えた。団地の窓にはやはり点々と灯がともっていた。
……こいつが完成していれば……
彼は思った。
……こいつが完成していれば、今ごろ、ああいう腐った小市民達が、平和な生活を営んでいたのだろう。
自分の芸術は、あのような小市民的幸福を味わっている連中が持つ、固定概念の破壊が目的なのだ。既成の写真家達を見るがいい。商売になる写真を撮るということは、愚かな大衆の固定概念におもねることにほかならないということに気づいている奴など、いないではないか。いや、写真家達ばかりではない、芸術家全てがそうだ。自分は、固定概念を突き破った、初めての作家になるぞ。
唐木は、ショルダーバッグから使い捨てカメラを一つ取り出した。包装を取り去って、フイルムを巻き上げる。ストロポスイッチを入れると、しばらくして準備が整った。部屋のあちらこちらを、次々に写してゆく。ダイニングの隣は、四畳半ほどの部屋が続いていた。真暗である。そこに足を踏み入れて、シャッターを押した。
ストロボの鋭い光の中に、一瞬それは浮かび上がった。
……?
唐木は、懐中電灯を足下から拾い上げて、部屋を照らした。部屋の隅にそれはあった。
巨大な卵であった。
……何だ、これァ?
どこから見ても卵でしかなかった。素焼きの陶器のような灰色の質感の卵は、さしわたし一メートル半ほどもある。
……よくできてるなぁ。しかし、驚かしやがる。誰がこんなものを。
数歩それに近づいた唐木の足が、次の瞬間凍りついた。卵に大きなひぴが入ったのだ。
ひゅっーと息が止まった。
ひぴは、瞬く間に増え、卵全体を覆い尽くした。
……何かが生まれる!
唐木は瞬きもせず、卵を見つめていた。逃げ出したかった。しかし、足が動かなかった。
ついに卵が割れた。中から出てきたのは、どろりとした何とも形容しがたい色の流動体だった。胸の悪くなるようなにおいがした。
唐木の手から、カメラが滑り落ちた。逃げようにも足が動かず、叫ぼうにも声が出なかった。
流動体は、ふるふると震えながらゆっくり唐木の足元へと流れ出してくる。唐木の喉は力ラカラに干上がっていた。
……うまそうな奴だ。
唐木の頭の中に突然しわがれた声が響いた。彼は、目の前の流動体が自分に対して明確な殺意を持っているのを感じた。
「お、お前は何だ?」
やっとのことで、声をふりしぼって言う。自分の声とは思えなかった。
……俺か、そうさな。『不自由な固定概念』とでも呼んでもらおうか。けど、そんなことはおまえさんにとってどうでもいいことじゃないか。おまえさんは、今から俺に喰われるのだから
声に笑いを含んでいたように思われた。
「やめろ、僕はこれから大事な仕事が……」
流動体は、唐木の腰まで這い上ってきていた。
……は、こりゃ歯応えがあって美味しい
流動体は唐木を覆い尽くすと、滴足げにたぶんと揺れた。
真暗な空間に、星がまたたいている。
「あれから何日たったんだろうなあ」
数日だった気もするし、二、三年のような感覚もある。いや、ほんの数時間かもしれない。だいたい、自分が今、目覚めているのか、眠っているのかも判断がつかないのだった。
星はそれを見つけたときから彼の頭上に輝き続けている。彼にはなぜか、それがとても愛しく、大切なものに思われて仕方なかった。しかし、その星は、見つけたときから、徐々に光を失ってきていた。今や闇に溶け込みそうなほど微かな光でしかなかった。
……腹が減った。
なぜか、空腹感はあった。随分長い間伎べ物を優っていない気がした。
個展の打ち上げパーティーの席で、テーブルに並んだご馳走を、彼は殆ど口にしなかった。どれもこれも美味しそうだったが、彼には食べ飽きた料理ばかりだったからだ。しかし今、目の前を鴨のローストが泳いでいったり、フィレ肉のソテーがおいでおいでをしたり、スモークしたフォアグラの上でキャビアがダンスしてたりする幻覚を見ると、なんで食べなかったのかと、涙が出そうであった。そうだ、ショルダーバッグの中におむすびが二つあったはずだ。しかし、そう思うだけで実際には指一本動くわけではなかった。彼には、もはや空腹感以外の感覚が一切なかった、
空腹は続いた。未来永劫に続くように思われた。頭上には星。あの星がある限り、自分は大丈夫だ、と理由もなく彼は思った。
空腹は際限もなく続いた。
……腹が減った。今、目の前に何かがあったら、それがクツの底だろうが何でも喰ってやるんだが……
彼の意識は食べ物で埋め尽くされていた。他に何も考えられなかった。意識の隅に、あの星がちらっと浮かんだ。星、 何か大切なもの しかし、
……星? 何だっけ? 何か大切なものだったようなさもするけど……。けっ、星は喰えないじゃないか。
意識の中で星が消えた。
次の瞬間、目の前の闇に裂け目ができた。裂け目は無数に増え、ふいに体が自由になった。目の前に『何か』があった。そいつは、ひどくおぴえていたが、とても美味しそうだった。たまらずにかぶりついた。ごくりと喉をならした。
自らもグループを率いて『既成音楽の破壊』を標傍し、多くのミュージシャンを育てた若い音楽プロデューサーをすっかり飲み込むと、その無気味な流動体は、満足げにたぶんと揺れた。
郊外の団地と児童公園にはさまれた、廃墟のようなマンションの一室にその巨大な卵は今でも、ある。
虹のあとさき
畑中 満里
夫の部下と名乗る青年士官が、我が家を訪れたのは、蝉時雨が収まった夕暮れの頃だった。海軍の白いつめえりをきちんと着て帽子を目深に被った彼は、玄関で背筋をぴんと伸ばして立っていた。
「河島真紀さんってお宅でしょうか」
そう言った彼が、胸に大切そうに抱えていた包みを、私の前に差し出した。
「遺骨をお届けに参りました」
「……遺骨」
「確かにお渡しいたしました」
敬礼をすると、青年はあっという間に去っていった。
私は見た目よりも重い包みを抱いて部屋に向かい、明け放たれていた襖と障子を閉めた。
むっとする空気の中で、自分の心音だけが聞こえている。我知らず震えてくる手で、包みを解いた。生きている時分はあんなに背の高かった夫が、こんなにも小さい箱に入っているのだと、そう思うだけで胸が一杯になった。
私たちの結婚は、両家の親族によって決められた。そんな間柄ではあったが、今は子供も生まれて仲睦まじい夫婦となっていた。
玄関で夫を送り出した時のことが、はっきりとした明るさで心に蘇る。あの人は笑っていた。出兵の日も。いつだって笑顔を絶やさなかった。女学校を出たばかりの少女の、かたくなな心を解いてくれたのは、あの人のまっすぐな優しさだった。もうあの声が、この家に響く日は釆ないのだ。
ひたり、ひたり、と、冷たい涙が胸の奥から滴り落ち、心にできた空洞に溜まっていくように、私は寂しさに襲われていた。
とん、とん。
控え目に廊下の襖をたたく音がした。ぼんやりとしていた私の意識は、すうっと焦点を戻した。葉を叩く水音がしている。外ではいつのまにか、雨が降りだしていたようだった。
私は、手鏡で目が赤くなっていないかを確かめた。
「どうぞ」
こたえをうけて顔を出したのは、次男の武彦だった。
「母さん、手紙が来てるよ」
「ありがとう、誰かしら」
何でもない風を装って笑うと、武彦は手紙を突きつけた。
「ここ、暑いね。なんで障子を閉めているの」
「聞けるのを忘れたのよ」
ごまかしつつ、封筒を返して差出人を見た。ところところ水に鯵んだ跡のあるそこには、河島真紀と書かれてあった。
「この手紙は父さんからなの、本当に」
武彦が嘘を許さない強さで、私に問うた。
「どうして帰ってこないの」
きつい目が私を見つめている。涙を堪えているのだろう。握り締めた手は血の気を失っていた。私はそんな彼の手を右手で包み込んだ。
「何か事情がおありなのよ。ね、お手紙の中に何か書いてあるかも知れないから、軽々しくそんなことを言っては駄目よ」
武彦は曖昧に笑い、頷いた。
「早く会いたいね」
「ええ、そうね」
返す私の笑いもまたあやふやになった。
武彦に、口外しないように言って帰すと、障子を開けた。身を包む冷えた風に、こもっていた空気が空に逃げていくのが分かった。それとともに、濃厚な雨の匂いが忍び込んでくる。
夫が生きている。どこかでああやはり、と思った。骨の納められた箱の中を確かめたわけではない。あれが夫のものであると誰が証明できるのだ。そういえば、青年士官の名前も私は聞かなかった。
心に鋭い針が生まれる。
この手紙の文字は確かに夫のものである。彼の文字をみまごうはずがない。住所は隣町の大宮になっていた。封筒を開けると、中には二枚の便せんが入っており、その一枚にはこう書かれてあった。
『すまない、私は家には戻れない。助けたい人がいる』
土を叩く雫の音は、しだいに大きくなっていく。水底のような灰色の薄明るさが、庭の木々の間で滞り始めた。この雨は当分止まないだろう。見上げれば、雲は厚く垂れ込めていた。
セレハイス海戦。子国領ミハイル諸島で起きたこの戦いで、夫のいた海軍の兵の多くは命を落としたと言う。家族達は、何度問い合わせても曖昧に受け流す軍の態度に、その生存をあきらめかけていた。私もそんな彼らと同じく日常に目を向けて、生死の分からぬ夫より育ち盛りの子供のことを考えようとした。明るく家をもりたてていくことが、何より天の望んでいたことではないかと思ったからだ。
しかし、それは私の願望に過ぎなかったのかも知れない。海戦から三年、生きているのなら、なぜ彼は一度も尋ねてきてくれなかったのだろうか。
夫と考えを話し合うことなど、ないままに彼は戦地に赴いていった。それで、私は、どこまで彼を理解していたといえるだろう。あるいは何も分かっていなかったのではないだろうか。
疑いは新たな疑問を呼び、私の心に沈着した。茫洋とした記憶の中で、河島真紀という存在もまた、次第にその輪郭を失っていくのだった。
封筒に記された住所を探していると、いつの間にか裏通りに入り込んでいた。太陽に白く照らし出された町並に、現実感が遠のいていく。急ぐ心には焦りだけが増し、ますます目的の家が見つからなくなっていた。
歩き回り、もう夕刻に差しかかろうとした頃、ふと目を引く家に行き当たった。庭には夕顔の鉢が、縁側に沿って所狭しと並び、いくつもの薄い紅の花を咲かせている。狭い路地の奥まった場所に人目を避けるようにあるせいか、どことなく隠れ家めいた印象を抱いた。
だれか名のある人の家かも知れない、と軒先の表札を覗いた私は、思ってもなかった名前をそこにみつけた。
『河島真紀』
心臓が早鐘を打つ。夫は、ここに住んでいるのだろうか。どう声をかけようかと、透垣の向こうを見つめていると、縁側に地味な花の浴衣を着た女が現れた。薄紅の夕顔の花のように儚げな女だった。
彼女は私に気づかず、井戸から桶に水を汲んで、立てかけてあった杓で花に水をやり始めた。くくり損ねた髪が気になるのか、時折襟足に手をやる。嬉しげな後ろ姿は、ほっそりとしなやかだった。
この女は夫の事を知っているのだろうか。あるいは…………。(この女のために夫は戻って来ないのだろうか)
次々に浮かぶ想像を振り払おうと、額に手をやった時、かさりと小枝が音を立てた。振り向いた女と目が合った。彼女は目の悪い人がよくするように、目を細めた。そして知らないものだと分かったらしい。
「道にでも迷われたのですか」
女は垣根から覗く私に、おもったよりよく通る声で涼やかに微笑んだ。
「人を探していたのです。河島真紀といいます」
「かわしま、まさき……」
女の顔からすうっと笑いが引く。美しい瞳が、凍りついたように私に向けられた。
「そうですか。貴方が『真理子さん』なのですね」
「あの人はここにいるのですか」
女は微笑んだ。目だけが笑っていない。
「なかへお入り下さい」
その場に桶と杓を置いて、女は出入り口の戸を開けた。躊躇する間もなく私は草履を脱ぎ捨て、縁側から部屋に上がった。
小さな隠れ家というのが一番相応しいような家だった。廊下を通り通された居間は、物がないせいか、がらんとした印象があった。私は部屋の入口に立って、小さな仏前を見つめた。糟一杯綺麗にしているのだろう。そこには真新しい花が添えられている。奥に置かれた写真の中のあの人の頬には大きな傷跡があった。まっすぐに前を見つめる瞳、引き結んだ唇には、私のよく知る笑いはカケラほども見えなかった。
「あなた…」
やはりあの人は、この世にはいなかったのだ。部屋に入り、仏前に座って手を合わせた。
女はそんな私を見て、痛々しそうに瞳を伏せた。
「こちらへどうぞ。お茶でもいかがですか」
手を合わせ終わった私に、女は座布団を勧める。私は彼女の向かいの庭の見える席についた。
「何からお話すればいいのでしょうか」
「そうね、」
つい、口元から笑いがもれた。勢い勇んで家に入った割りには、その先のことは何も考えていなかった。
「河島がこの三年、いえいつまでかは分からないけど、ここにいたのだとしたらそれを聞きたいわ」
「そうですね。貴方にはその権利があります」
女は茶を一口飲んだ。そう聞かれるものと心得ていたのだろう。殊更に感情を込める様子もなく言った。
「河島さんがお亡くなりになったのは、一月前です。病死……ということになるでしょうか」
「なぜ、はっきりとおっしゃらないの」
「あの方はかなり以前から、ご自分の病気を知ってらした。なのに一度も医者にかからなかった。いえかかるのを拒み続けた。なぜと聞いても答えていただけませんでした。だから私は、もしや自殺ではと思っているのです」
私は弾かれたように女を見た。彼女は表情を変えないまま、障子の隙間から差し込む光に目をやった。
「あの方は私に名前を、戸籍をくださるとおっしゃいました。今、河島真紀は私の名前です。あの方がなくならければ、こんなに早く名前を手に入れることは出来なかった」
「だから、というのね」
「はい。私の話しを信じていただけますか。こんなものの言うことです、信じてくださらなくても構いません」
私は頷いた。
「伺いますわ」
即答した私に、彼女は嬉しそうな笑みを向けた。
「奥様は本当に聞いていた通りの方でした」
夫はいったい彼女に何を話していたのだろう。そんな私の心の中を察してか、彼女はぽつりといった。
「明るくてダリアの様な方だと」
その瞳に束の間、陰りが宿った。そして、それを振り切るように彼女は話し始めた。
夕暮れまでには、まだ少し間があった。
春の港は、戦帰りの海軍が立ち寄るというので、妙な活気に包まれていた。物資補給のためなら何日かの逗留確実なので、疲れた将兵たちは各々船を下りて宿をとる。住民の目当ては彼らの懐なのだ。浅ましいことであるが、私もまたそれを責められる立場ではなかった。この騒ぎに乗じて、置き屋から逃げ出すつもりだったからだ。運良くその日は闇夜だった。
すべての窓という窓には格子がはめ込まれ、外の世界に出るなど夢でしかなかった。広い空が見たい。いつの日にかと思いは募った。このままではそれも叶わないと知ると、自分の力で自由になるしかないのだと思った。
怪しまれないように務めをいつも通り終えたあと、何人かの仲間と一緒に、闇に紛れて逃げ出した。すぐに幾人かが捕まった。こんなに早く追手が掛かったのは、密告したものがいたからだ。
追いつめられて海岸に逃げた私たちは、散り散りに隠れた。私は漁師が干した魚臭い網を被って、息を殺した。もうすぐ朝日が昇る。姿が見えればもう終わりなのだ。捕まれば私たちは良くて拷問にかけられて死ぬまでの務めを課せられるか、もしくはそのまま殺されるだろう。
かさりと、そばで誰かの足音がした。恐怖に身が縮む思いがした。足音はだんだんと近づいて、身を固くしている私の所にまで来た。ガサガサと音を立てて網が捲られた。
「何をしてるんだ」
声に含まれた気遣うような響きに、顔をあげると、暗間にぼんやりと軍服の影が浮かび上がった。
(置き屋の奴じゃない)
港の人間でもないだろう。狭い街だ、誰でも声ぐらいなら知っているはずである。
私は小声で、追われているから隠れているのだと言った。するとその軍人は元通りに私に網を被せ、その上からまたいろいろなものを乗せて、最後に上着を脱いで掛けた。
しばらくしてやってきた追手は、彼が着いたばかりの海軍兵だと知ると、敬礼をして前を素通りしていった。
「もう大丈夫だ」
そう言った軍人が網やら何やらを退けてくれ、やっと私が顔を出した頃には、東の空は薄ほんのりと太陽が顔を出していた。
「綺麗……」
私は格子越しでない朝日におさえ切れず泣き出していた。
他の仲間はどうなったのだろう。私はこの先どうすればいいのだろう。ぐるぐると言葉が頭を回っている。近づきつつあった死は去っていったけれど、残された私に生きる道を指し示すものは何もなかった。
軍人は河島真紀と名乗り、泣きやまない私についていてくれた。明るくなってはっきりと見た彼の顔には、真新しい大きな傷跡があった。この人は国を守って戦ってきたのだ、我身を顧みて、私は恥ずかしさのあまり顔を伏せた。
「君の名前は」
彼は姿を現した太陽を受けて、小さく笑った。
「たちぱな」
私は、店で呼ばれていた名を言った。
「名字じゃなくて名前だよ」
「知らない。名前なんてここに来るまで呼ばれたこともないもの」
正直に言うと、河島さんは、じっと私を見つめる。瞳には気遺いの色が、浮かんでいた。
「ちゃんとした名前をあげようか」
私は彼の心を疑ったけれど、次第にそれでもいいと思うようになった。人に優しくされたのは初めてだったけど、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。
そして河島さんは、私に居場所をくれた。この街で除隊するはずだった彼は、荷物に紛れて私を船に乗せ、次の港で船を降りた。その時のことだった。
忘れ物を取りに行った河島さんが、なかなか帰ってこないのにじれた私は、人目に付かないようにそうっと様子を見に行った。船は船着き場にいた。暗がりで見えなかったけれど、誰かと口論しているようであった。近くの物陰に隠れると、わずかだが話し声は聞こえてきた。
「考え直せ。あんな子供を助けるだと。真理子さんはどうするんだ」
「小田原」
小田原という軍人は、行こうとする河島さんに詰め寄っている。かなり気が高ぶっているせいか、自分が大声を出していると気がついていないらしい。
(マリコさん?)
聞き慣れない名前だった。河島さんの知り合いなのかも知れない。
「真理子には帰れないと言っておいてくれ」
「河島!」
「いいんだ小田原。自分で決めたことなんだ」
そういった河島さんの服を、小田原は諦めて放した。
「俺が真理子さんに何を言ってもいいということだな」
ふと振り返った小田原と目が合った。彼の目がすっと細くなる。肩を震わせた私を、河島さんが見とがめた。
「なんでここにいるんだ」
「帰ってこないから、何かあったのかと思って」
彼は小田原さんの目から庇うように私の前に来た。
「何でもないよ。待たせてすまない」
「ねえ、マリコさんって誰?」
「俺の奥さん」
河島さんがいつものように笑うのが気配で分かった。
「ダリアみたいな人だよ」
大きくて赤い花が脳裏に閃いた。太陽のような花。そんな女の人は、きっと河島さんとお似合いなんだろう。少し心が痛むけど、彼の笑顔が誰か特別な人がいるために生まれるのなら、それを消してほしくなかった。
顔を知ってる者がいるといけないからと、予備の軍服を私に着せて、列車で大宮まで帰ってきた。私はてっきり、ここで河島さんは家に戻るのだと思っていた。隣町の御園生に家族がいると聞いていたし、こんなところまで追手も来ないだろうからだ。
しかし、河島さんは大宮に家を借りて、私を連れていった。その家はもう何年も人が住んでいなかったようで、戸を開けると埃が積もって層になっていた。私たちはまず、隣家から箒と塵取りを借りてきて玄関を掃き、荷物置場を確保すると、捨て置いてあった雑巾で廊下を綺麗にした。二手に分かれて台所と部屋を掃除し、河島さんが井戸の上澄みを取り除き、何とか住めるようになった頃には、随分と辺りは暗くなっていた。こうして私たちは、なし崩しにここに住むことになった。
河島さんはどこかに働きに行っているようだったけれど、私は何も知らないままだった。でも、家族の方には会いに行ってないようだった。同情か憐れみか、河島さんは私を置いてくれ、私はそれに甘えた。日々の買い物の値段を知り、周りの人間とのつきあい方も少しずつだったけど覚えていった。小田原さんは近くに住んでいるらしく、時折土産を持って訪ねてきたけれど、初めて会ったときのように鋭く睨まれるようなことはなかった。『異理子さん』の話題は、少なくとも私の前では一度もでなかった。
まるで親子のような河島さんとの関係が変わったのは、大宮に住み始めて一年が過ぎた頃であったろうか。
居間で目を覚ますと、雨が上がり、障子を開けた隙間から涼しい風が入り込んで来ていた。幾分明るさを取り戻した空には、ぽっかりと浮かんだ雲がゆっくりと去っていく。
からり、と玄関の開く音がした。迎えに行くと、河島さんは靴を脱いであがろうとするところだった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
河島さんは傘を広げて乾かすと、目を合わせないまま台所に行った。
家族の方に会いに行ったのだ、と思った。胸が軋むように痛んだ。そうだ、私はいつまでも宙ぶらりんな居場所にいるのだ。自覚が体を這い上がってきた。
「御園生に行ってたの?」
追いついてそう聞くと、茶碗で水を飲んでいた彼は、首を横に振った。
「ずっと言おうと思ってた。家に帰ってあげて。私はもう大丈夫だから」
私の言葉に河島さんは驚いたように目を見聞いた。
「どうして」
私は日頃考えていたことを話した。
「家族ってどんなものか私は知らないけど、いいなって思ってた。私が生まれたときに、父さんは名前をつけてくれなかったし、望まれた子じゃなかったから、母さんが死んで父さんは私を捨てた。見てくれが良かったから、店に連れてこられたんだ。だから、もし私が家族を持ってたら、大切にしたいなあって思うな」
のぞき込むと、河島さんの顔が泣きそうに歪んだ。
「大丈夫、とんなことをしても生きてはいけるよ」
あっという間に抱きすくめられた。久しぶりに感じる人の温かさに、目眩がした。
「河島さん?」
彼は私の髪に顔を埋めて、泣いていた。
「俺はここをでていかない」
それは彼自身に対する戒めのように聞こえた。
それから鳥が巣に帰るように河島さんはこの家に帰ってきた。そんなある日、河島さんはどこからか朝顔と夕顔の種を貰ってきた。庭を掘り返して植えると、しばらくして小さな二つの葉が顔を出した。私は成長の早い彼らを見るのが楽しくて、いつ花がさくのだろうと庭にしゃがみこんだ。河島さんはそんな私を、朝顔市に連れていってくれた。
あまりの華やかさに、
「今日はお祭りなの?」
と繰り返し聞いた。そんな、子供のようにはしゃぐ私を、彼の目が嬉しそうに見ていた。
でも楽しいときはあまりにも早く過ぎていった。去年の夏の初め、河島さんが倒れた。戦地での傷が悪化していたにも関わらず、何の治療も受けていなかったという。兆候はあったはずなのに気づきもしなかった自分が悔しかった。
河島さんは、小田原さんの説得も聞かずに、それからも治療を拒み続けた。家族の方に知らせようかと何度も考えた。河島さんが憐れみで私を側に置いてくれていると分かっていながら、でも出来なかった。人の温かさを知った今、もう一人になるのは嫌だった。
病床で、朝顔を見たいという河島さんのために、私は色とりどりの花弁をつみ、水を張った鉢の中に浮かべた。その玩具のような花を見て、ふとある考えがよぎった。
河島さんにとって私はこの花のような存在なのだ。支えがなくては地に這うだけの、見た目には華やかであるがすぐに枯れる、一時の花。その輝きは、ダリアを見慣れた目には色褪せて映っているのだ。この思いつきは、あながちはずれていないはずだった。
それでも私は、河島さんにとっての朝顔でありたかった。側にいられるなら、どんなことでもしようと思っていた。
河島さんが亡くなったのは、秋の気配が深まる九月の朝だった。いくら呼んでも返事がないので、熱があるのかと思い額に触れてみた。私は驚いて手を引いた。血の温かさが消えている。急いで蒲団の中の手を握ってみても、微かな温もりしか感じられなかった。
河島さんが死んだ。
冴えた朝の気の中で、あの人はただ眠っているように見えた。私は呆然と蒲団の側に座り込んだ。置屋から逃げ出したあの日のように、私は何も分からないまま虚空に放り出された心地でいた。あの日、小田原さんが来なかったら、いつまでもあのままだったに違いない。
昼にやってきた彼は、河島さんの様子がおかしいことに気づいて、脈をとり胸に耳を当てた。そしてもう手の施しようがないと分かると、生きている私のほうの熱を計った。そうしてすぐ戻るからと言って、走って出ていった。
次に戻ったときには、小田原さんはいろいろな物を抱えていた。何も分からぬ私のために最小限の葬儀を手配し、人形のように動かない私に食物を摂らせた。彼がその頃頻繁に訪ねてきていたのは、もしかしたら河島さんの様子から、こうなることが分かっていたのかも知れない。
読経の後、火葬場に運ばれた河島さんは、箱に入るほど小さくなって帰ってきた。
私は箱を抱いて、小田原さんに連れられて家に戻った。足が雲を踏んでいるように思えて、真っ直ぐ歩けなかった。
明かりも点けないで部屋の隅にうずくまる私を、小田原さんが助け起こした。
「骨は真理子さんに返してやってくれ」
頭を下げる小田原さんに、初めて会ったときの軍服姿が重なる。
『小田原は、道で会う真理子が好きだったんだ。まだ真理子が女学校にいた頃のことだけどな』
河島さんの言葉が蘇る。小田原さんは好きな人を取られ、それでも河島さんの友人をやめなかった。そしてこの人はいつだって正しかった。
「そうですね。私もそう思います」
その言葉は自然と口から出た。
私には沢山の思い出がある。本当なら家族が受けるはずの幸せを、私は奪い取って過ごした。彼が死んだ後まで、その幸せを受け続けるわけにはいかない。骨は『真理子さん』の元にあるべきなのだ。
「でももう少しだけ一緒にいさせてください」
私は座り直して、小田原さんに深々と頭をさげた。
「お願いです」
頬を涙が伝い落ちた。この涙が私の体からなくなれば、河島さんを忘れられるだろうか。それがいつのことになるのか、今の私には分からないけど。
河島と朝顔市に行ったところで、彼女の言葉は途切れた。それから…と言い継ごうとするのだけれど、その先が出てこないのだ。
おそらくその後に、河島は病気を悪化させて床についたのだろう。辛い記憶を彼女自身思い出したくないのなら、それ以上聞こうと思わなかった。
私は俯いた女から目を離し、小さな写真を見た。
「…河島は、貴方と居るとき、笑っていた?」
私の問いかけに、彼女はコクリと頷いた。
「そう、それならいいわ。私はあの人の笑顔が好きだったの。生きてる間には言えなかったけど、大きな笑い声が台所まで書いてくると、本当に嬉しくなった。ここにいた間、あの写真みたいに仏頂面だったのなら、貴方に恨みの一言も言いたかったけど、笑っていたのね。じゃああの人幸せだったんだわ」
「河島さんは本当に幸せだったのでしょうか」
女は眉を寄せて、悲しげに写真の中の河島を見た。
「奥様は明るくてしゃんとしたダリアのような方だ、と。何でも一人で大丈夫だからと、言っておられました。そんな人なんていない、誰だって寂しい。そう思いながら、何も言えませんでした。でもあれは、私へというより、御自分に言い聞かせるためだったと思うのです。河島さんは貴方が強いと信じなくてはここにはいられなかった。私はあの人の負担ではなかったのでしょうか」
私は何も言えずに、仏前へと視線をやった。そしてそこに、遺骨がないことに気がついた。よく見ると台の上には、うっすらと積もった後に、四角く何かを置いた跡があった。箱は確かにここから届けられたのだ。私は微かに記憶に残る青年士官の姿を思い浮かべた。目深に被った帽子の下の顔は…。
「あれは、骨を持ってきたのは」
女はええ、と頷いた。
「私です。手元に届けるついでに『真理子さん』のお顔を見ようと思っていたんです。でも、結局顔を上げる勇気がありませんでした」
「じゃあ、この手紙も貴方が出したのかしら」
私は昨日届いた手紙を思いだし、懐から出した。河島は一月前に死んでいるのだから、これは別の誰かによって出されたものである。
しかし、女は首を横に振った。
「手紙、いいえ。私は文字が読めないんです。地図も分かりませんから、お伺いしたときには人に聞きながらやっとたどり着いたんです」
「貴方じゃないの」
彼女でないとしたら、誰が出したというのだろうか。私は、封筒をもう一度見直した。思い返せば一昨日、届いた封筒にあった水滴は乾いていた。そして気づいた。消印の日付が二年前のものだということに。
「でもどうして今になって」
二年前といえば、女の話からするとここに来て一年ぐらいの事であろうか。その時、この手紙を投函した夫は家族よりも彼女を選んでいた。全てを捨てて助けると。そのまっすぐな姿勢は最後まで変わらなかったのだ。
「何が書いてあったのでしょうか」
「そうね」
私は手紙をひろげ、夫の言葉を待ってる彼女に読んで聞かせた。
「私は幸せにしています。真理子、貴方も私などにとらわれず、幸せになる道を探してください。…こう書いてあるわ」
「河島さん…本当に? あの人は、幸せだったと」
上擦った声が問い返す。その頬を涙が伝い落ちた。美しい、微笑みだった。
その笑顔には『助けたい人が居る』という言葉を聞かせてはならないように思った。
誰かを助ける、ということは自分の何かを犠牲にしなくては出来ないことだ。時間・財産・家族…決して助けるという行為への代償を得ることなく、また誰かに助けられることもできない。彼女の無垢な魂に、助けると思いつつ、助けられていたのはもしかすると夫のほうだったのかもしれない。二人は倒れないよう、互いにしがみつくように生きていたのだろう。その彼女が、家族という代償を背負うことは、河島自身望んでいなかったはずである。
河島は私に子供と家族を託し、女には未来を与えていった。夫は、河島真紀は、夕顔のように儚げなこの女を愛していたに違いない。自分の名前を与えるほどに。
私は私で、河島がダリアのような女と思っていたのなら、そう生きてみようか。強く何にも負けない花として。
彼女はこれから、河島真紀として生きてゆくのだろうか。私は河島という存在に、まだ若い彼女の行く先が束縛されないで欲しいと思った。互いに望んだ束縛なら、彼女は喜んで受け入れたであろうけれど、死んでまで生者の在り方を左右するなどあってはならないことなのだから。
頬を撫でた冷たい風にひかれ外を見ると、暮れかけた空は、裾の方から澄になって行くところだった。まるで虹がかかっているように染め分けられた空には、細くちぎった雲がゆっくりと流れていた。
「きれいな空」
女は涙を拭って空を見た。その澄に照らされた頬の上で、涙の跡が光の筋になった。
私は顔を上げた彼女に笑いかけた。不思議と、晴れ晴れとした心地だった。こんな夕暮れには、心の中にある何もかもが空に溶けてしまうのかもしれない。
この虹の先には何か待っているのだろう。虹のこちらに居ては分からない、あえかな未来だろうか。
ここにはいない河島に、そんなことを聞いてみたい気がしていた。
十九の春
高島 真由子
「やっぱりね……」
入試というのはやっかいなヤツだ、と私は思う。その人がいつから受験勉強を始め、どんな夏を過ごし、そして言いようのない不安にかられる冬をどんなふうに乗り越えてきたのか、そんなことはまったく関係ない。百人の受験生がいれば百人分の受験地獄という過程があるはずなのに、結果は合否の二つなのだ。なんて非人間的な、そしてシビアな世界なんだろう。
「智子ー、智子ー。受かったぞー」
付き合い始めて二年になる健二が、大喜びで駆けてくる。
「そんなシケたツラすんな。自分が悪いんだろ? 二次の時に熱なんか出すからさあ。センターの得点、俺より良かったくせに」
健二は私のこと、良く分かってくれている。こんな時に腫物に触られるように慰められるのが、鳥肌立つほど嫌なこと、良く分かっているのだ。
そして私も健二のことが良く分かる。口には絶対に出さないけれど、健二は私と一緒にN大に越うことを相当楽しみにしていた。それだけに、私の不合格はかなりこたえているはずだ。ひょっとしたら、春から浪人生活を強いられることになった私よりも、ずっとがっくりきているかもしれない。けれど、私も健二もそんなことは口にも顔にも絶対にださない。そんな気の強さは二人が共通して持っている長所であり短所である、と私は思う。
私は家に電話をしなければならなかった。不合格の知らせをしなければならない。その辺の電話には受験生が群がり、すぐにかけられそうな雰囲気ではない。仕方なく私は、長い列に加わる。
テレホン力ードをペコペコさせながら、なんて言おうか考えた。私の周りには、私の不合格を私以上に悲しむ人が多すぎる。とてもつらいことだ。
私の番がきた。一回だけの呼出し音で母は出た。
「智子でしよ? どうだった?」
「やっぱり、だめだった」
一瞬の沈黙。きっと母も健二みたいに顔を曇らしているのだろう。早く切ってしまいたかった。これ以上母の言葉を聞くのは危険すぎる。
「分かった。もう何も考えないで、早く帰っておいで。これからのことは、明日考えればいいから」
鼻の奥がツンとした。胸が一杯になってきた。
「お母さん、こ免なさい」
気がついたら私は泣いていた。手の甲で何度も涙を拭っていた。
「もうやだよ。もうやだ……」
不合格は覚悟していた。そう、覚悟していたはずだったのだ。それなのに、どうして私はしゃくりをあげながら泣いてしまうのだろう。フルマラソンのゴールで、はいもう一周、ってぐあいに背中を押される気持ち……
その時急に受話器を取り上げられた。健二が、乱暴に受話器を置いていた。
「帰るぞ」
健二の視線が私の心を突き抜けた。うっ、ときそうなやさしい目。生まれ持っているそのやさしさは、今の私には少しこたえる。そんな目で見ないでって、心の中でつぶやいてから、
「当たり前でしよ。こんなところ、いつまでいたって仕方ない」
まつ赤な目をしてこう言った。
三月の風は少しだけ暖かくて、少しだけ冷たくて、少しだけやさしくて。もうすぐ春だなと、自分の身の上は棚にあげて思ったりしていた。
それからの生活は、私にとっても健二にとっても慌ただしく過ぎていった。私たちの住んでいる町はとんでもなく田舎なので、県内のN大に通う健二も、予備校に通うことになった私も、通学に便利な下宿先を見つけることで大忙しだった。大はしゃぎしながら健二と下宿探しを楽しんだ。勉強も四月までは一切しないことに決めていた。
そして引っ越しの日。朝からばかみたいに暖かい日だった。一日かかってなんとか生活できる状態までこぎつけた。
「意外に時間かかっちゃったわね。お母さん、もう帰らなきゃいけないわ」
「そうだね。じゃあ、駅まで送るよ」
ここから家まで電車とバスを何度も乗り換えて片道三時間半かかる。歩きながら私も無口だった。夕焼けをバックにすべてが黒くうき上がっている。ビルも家も電柱も電線も。そして、母と私の長い影。すべてが心に染み付いた。今晩から私は、家族と離れて生活するのだ。
「お母さん」
「なに?」
「なんでも、ない……」
「なあに? 変な子ねえ」
すぐに地下鉄の駅に着いてしまった。
「塾の授業料と四月分の生活費よ」
母は通帳を手渡しながら言った。
「精一杯、頑張りなさい」
胸が一杯になった。何かが溢れ出してきそうだ。何か言わなきゃならないのに、言いたいことがありすぎてとても言葉にできそうもない。
「お母さん……」
言った途端に涙が溢れ出した。母は人差指を立てて口に当てた。そして少しだけ笑顔になって、行ってしまった。
私は地下鉄の汚いトイレでいつまでも声をあげて泣いていた。
次の日。
私は部屋の掃除をしていた。外は、昨日とはうってかわってのどしゃぶり。風も強くまさに春の嵐だった。
電話のベルがなった。どきっとした。狭い一人暮らしの部屋に響くベルは、一際大きく聞こえる。
「もしもし。」
「智ちゃん、助けて」
電話の主はゆみだった。ゆみと私は幼なじみで、小中と同じ学校へ通ったのだが、高校は別のところへ進学した。雨でぬれた路面を車が走る音、風がシャッターをたたく音、周りのざわめきがゆみの声をかき消す。
「ゆみなんでしよ? どうしたの? 泣いてるの?」
「盗まれちゃったの……」
「えっ? なに? 聞こえない。もっと大きな声でしゃべって」
「入学金と学費、盗まれちゃったの」
ゆみは私が落ちたN大に合格していた。今日はN大の入学手続きの日だった。確か健二は三時までにお金を大学に持っていかなければ合格取消しだと言っていた。時計を見ると、ちょうど十二時だった。大丈夫だ。まだ間にあう。
「ゆみ、私がなんとかするわ。大丈夫、心配しないで。講堂の前で待ってて。今から急いで行くから。ちゃんと講堂前にいるのよ。いい? わかった?」
ゆみの返事は雨風の音にかき消され、私の耳には届かなかった。私は静かに受話器を置いた。心臓が口から飛び出てきそうだった。窓ガラスには爾がぱちぱちぶつかる。それでも私は迷わず、昨日母からもらったばかりの通帳を握りしめていた。
銀行の前で健二は待っていた。
「何の用だよ、こんなドシャ降りの日に呼びつけやがって」
「ごめん。ちょっと一人だと恐かったから」
いつもならひるまず食って掛かってくる健二だが、いつもと違う私の様子を察したのか黙ってしまった。そして私が七十万円をおるす動作を黙って見ていた。お金をおろすと、N大の方へ歩きだした。やっぱり健二は黙って私の後をついてきてくれた。このにぎやかな通りの先でゆみは待っている。横殴りの雨の中、たった一人で。ゆみの不安そうな顔と昨日の母の顔がだぶった。人差し指を立てて口に当てたお母さん。私は思わず引き返したくなった。けれど、その時の私には足を止めることはできなかった。
受験勉強で少しやつれたせいか、ゆみは少し大人っぽくなっていた。
「ゆみ、これ、あんたに貸してあげる」
封筒を差し出す私に、ゆみは驚いていた。当たり前だ。こんなことをする友人に驚かない人はいない。
「智ちゃん、どこにこんなお金が……。ねえ、智ちゃん、私智ちゃんにお金を借りようと思って電話したんじゃないんだよ。気付いたらお金なくて、どうしたらいいか分かんなくて、それで……」
「分かってるって。ゆみにそんな気なかったって私が一番分かってるよ。だから、とりあえず手続きだけ済ませておいでよ。ほら、一緒に行ってあげるからさぁ」
私たちは手続きを済ませた。その間、ずっとゆみは泣いていた。そして、警察に行くゆみを見送った私と健二は、講堂の前でしばらく金縛りにあったように動かなかった。合格発表の日、私がしゃくりをあげてないた公衆電話に、雨と風が叩きつけていた。急に不安が押し寄せる。
「どうして、塾に行く金貸しちゃうんだよ」
「ゆみは、お父さんの連れ子でさぁ、そのお父さんも去年事故で亡くしちゃったんだよね。今のお母さんともあまりうまくいってないみたいで。こんな時ゆみが頼れるのは、私だけなのよ。ゆみは大事な親友なんだよ。そのゆみが、お父さんの死を乗り越えてつかんだ栄光を、こんなことぐらいでつぶせない。つぶしちゃいけない……」
思い上がりもいいところだったその時の私は、健二に向かってというよりは、自分に言い聞かせるようにそう話した。それでも、傘をもつ手がぶるぶる震えて止まらない。今すぐにでも、母に謝りたい衝動にかられた。心がぐうっと押しつぶされて、息苦しくて、涙が出た。私は傘でそっと顔を隠した。
「どうして智子はそんなに強がったやり方しかできないんだ? たいして強くもないくせに。そういうことされると、どうしていいか分からなくなる。いつか智子がつぶされるんじゃないかって考えると、すごく、こわい……」
私は驚いてしまった。健二は、絶対そんなこと私に言ったりしない。健二はいつもやさしくて強い。それなのに、目の前の健二は、今にも崩れてこわれてしまいそうだ。私は、別の意味でとても恐くなった。思わず、健二にぎゅっとしがみついた。私のピンクの傘がころころと転がった。
何かが変わろうとしている。いや、もうすでに変わりつつあるのかもしれない、と私は強く感じていた。十八歳の春というのは、そういうものなんだろうか。健二の胸から伝わる心音は、いつもより絶対に早かった。
「あの、ゆみって子さぁ、女優みたいな目してるな」
「えっ?」
「演技するために生まれてきたような目をしてる。あの子は、智子が思っているほど弱い女じゃないぞ」
健二の言っている意味がまるで分からなかった。ますます不安が押し寄せるのだった。
私は朝からそわそわしていた。意味もなく立ったり座ったり。トイレにも何回も行った。
“言うべきか、言わないべきか”
宅浪している私を知ったら、きっとお母さんは傷つく。けれど、嘘は絶対につきとおせないのはよく分かっている。そして、塾の費用の使い道だって誰にも言わないと心に決めている。
どうしたらいいのだろう。どうしたら誰も傷つかないでいられるだろう。
ゆっくり目を筋じた。ああ、会いたい。健二にすごく会いたい。健二に会って、めんどくさいこと全部放り投げてしまいたい。けれど会えない。今は絶対に会えない。今、会ってしまったら、きっとあの崩れそうな健二を見なければならない。
一人で頑張るしかない。
雨足が少し強くなった。今年は本当によく雨がふる。
「それは一体どういうことなの?」
訪ねてきた母に塾へ行ってないことを告げた。
「お母さんに分かるようにきちんと説明してちょうだい」
お母さんは私を少し怖い顔で見つめてるのだろう。私は顔を上げることができなかった。何も言えない。
お母さんの視線がとても、とても痛くて、私はただお父さん、お母さんに申し訳なくて、何も言えない自分が苦しかった。ガラス戸にぶつかる雨が、バチバチと音を立てている。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。理由は言えないけど、急にお金がいることになって。でも、お金は絶対に返すから」
私は今、お母さん、お父さんを裏切ったのだ。ゆみのために大好きな両親を裏切ってしまった。
何か一つとることは、何か一つなくすことなのだ。
お母さんも私もずっと黙ったままだった。沈黙がとても痛かった。私は知らず知らずのうちに泣いていた。声を上げて泣いていた。苦しくて苦しくて、うめくような声を出して泣いていた。
かなり時間がたち、お母さんは立ち上がった。
「きっと、智子も悩んだ末で、今のこの生活をしているのよね。お母さん智子のこと心配だから、いろいろ聞きたいけど、もう智子も大人だもの。お母さんは智子に何も言わないし、何も聞かない。でもね、少し悲しいわ。どうして相談してくれなかったの? お父さんだって悲しむだけじゃなくて、怒るかもしれない。その覚倍はできてるのよね」
私はお母さんの目を見て、大きくうなずいた。
「それじゃ、今日はもう帰るわ」
「送っていこうか?」
「今日はいいわ。そんな顔で外歩けないでしょ」
おかあさんは出ていってしまった。
外は相変わらず強く雨が降っていた。お母さんはこの雨の中、何を考えながら駅までの道を歩いて行くのだろう。どんな顔をして歩いているのだろう。
心がとても痛かった。泣きすぎてこめかみが痛かった。私は大好きな両親を悲しませてしまった。その“大好き”という気持ちの強さの分だけ私は苦しかった。
その時ふと、ゆみは今頃どうしているのだろうと思った。何かのサークルに入ってるかもしれない。新しくバイトを始めたかもしれない。授業をさぼって遊びに行ったり、コンパでお酒も飲むかもしれない。そんな中で彼氏も見つけたかもしれない。思い浮かべたゆみはどれもみな笑ってる。楽しそうに笑ってる。のほほんと笑ってる。大好きな、私が大好きな笑顔のはずなのに、なぜか心がきれいに晴れない。
私は今、ゆみが手にしているかもしれないすべてのものを手にすることは不可能だ。
ふつふつと何だかわけのわからない感情が込み上げてきた。頭をクシャクシャとかき乱してみた。クッションを思いつきり壁にたたきつけてみた。テーブルをバンと両手でたたいてみた。
カップの紅茶がこぽれた。大好きなカーペットに大きなしみができた。紅茶のしみがどんどん広がるように、私の心の中である種の感情がしみのように広がった。その感情は、私が認めたくない汚い感情だった。私はゆみのことを嫌いになってしまうかもしれない、と疲れきった頭の片隅で思っていた。そして、いつかゆみのことを傷つけてしまうかもしれないとも思っていた。
“どうしたらみんなが傷つかずにすむのだろう”
考えても考えても周りのみんなは傷ついてゆく。いや、考えれば考える程、傷ついてゆくのかもしれない。しかしもう後戻りすることはできない。どんなにみんなを傷つけても、どんなに私が傷ついても、立ち止まることはできない。
人生のにがみが疲れた心を刺藤する。最近笑ってないなとふと思った。
五月になった。
私はアルバイトニュースを朝から必死になって読んでいた。月末に入るはずの仕送りが、通帳に入っていなかった。両親からの連絡は何もなかったが、これが二人が考えた末の結論なのだろう。私がとやかく言う権利はない。むしろ、このシビアな選択に感謝しなければならないのだ。お父さんもお母さんも心を痛めている。それがズキズキ伝わる。だから、私はこの結論を受けとめて生きていかなければならないのだ。
こんな私をみたら、健二はどんな顔をするだろう。もう一ヶ月も健二と会っていない。けれど、会うのが恐かった。きっと健二のことも傷つけてしまうだろう。
ひと月前までは何でも一緒にやってきた。つらいときや苦しいときは、いつでも一緒にいてくれた。私のことを一番分かってくれていた。
一つ歯車が狂ってしまうと、すべてが狂ってしまいそうだ。
その時、家の前で原付が止まる音がした。
健二だ。健二が来たのだ。
不思議とエンジンの音だけで分かってしまう。力ンカンカンと隆段を上る音がする。来るべきものがやってきた、という感じだった。
ピンホーン。
やっぱりそうだ。私は恐くて恐くて、ドアを開けることができなかった。今健二を家に入れてしまえば、決定的に二人の変化を感じてしまわなければならない。いやだ。そんなの絶対にいやだ。
「智子、いるんだろ? 俺だよ、開けてくれよ」
私は耳をふさいだ。
「俺にあいたくない気持ち、よく分かるよ。恐いんだろ? 俺だって同じだよ。智子は今すごく傷ついてる。そんな智子見るの俺だってつらいよ。でもこのままじゃ駄目だろ? なあ、智……」
私はドアを聞けた。これ以上健二の声を聞いたら、私は死んでしまいそうだったからだ。
「散らかってるけど、上がって」
健二は足元に広げてあるアルバイトニュースを手に取った。見られて一番困るものだったが、健二からアルバイトニュースを取り返す気力すらなかった。私は本当に疲れきっていた。
「おばさんにお金のこと言ったんだ」
私は力なくうなずいた。
「仕送りは?」
「止められちゃった」
私は精一杯明るく言ってみた。しかし、そんな努力は健二には伝わらなかった。
「それがこの印の理由?」
取れない紅茶のしみの上に、健二はアルバイトニュースをたたきつけた。一番手っ取り早く稼げる夜の仕事に、いくつか印をつけておいたのだ。
「何やってんだよ! おまえ何やってんだよ! おまえのやってること、絶対に間違ってる。俺分かんないよ。智子のやること、めちゃくちゃだ。もう、やめてくれよ。どうしてもっと自分を大切にしないんだ! どうしてもっと自分を大切にできないんだ! 智子はこんなことできる程強くない。それに、こんなことする智子を見守れる程、俺は強くないんだ」
私は泣いていた。後から後から涙がほほを伝った。
私はアルバイトニュースを拾い上げて、引き出しにしまい込んだ。
「私のことは、もうほっといて。もうここにも来ないで」
私はこの言葉を発した瞬間、“言葉の暴力”というのが頭をよぎった。こんなこと言いたくないのに、勝手に口走ってしまう自分が恐かった。
健二の拳は硬く握られ、ブルブル簾えていた。
「私、健二に見守ってもらおうなんて少しも思ってない。それに私、健二が思ってるよりずっと強いよ。自分がまいた種ぐらいなんとかできるもん。今は私の頑張り時で、春には必ず……」
健二はくるりと私に背を向けた。
バンッ。
足の裏で思い切りドアをけとはし、乱暴にドアを聞け、ものすごい音を立てて階段を降りていった。
たっぷり水分を含んだ風が、開けっばなしのドアからどっと押し寄せた。
吐き気がしたのでトイレに駆け込むと、本当にもどしてしまった。限界かもしれない、と本当に思った。
気がつくと、外はもう暗かった。
激しい吐き気とめまいは治まるどころかますますひどくなり、やっとのことでベッドにたどりついた。私は、眠りたいと心から思った。そしてこのまま朝が来なけれはいいと思った。しかし、絶対に聞違いなく朝は来る。そして生きていかなければならない。だれも助けてはくれない。自分の手で足で生きていかなければならないのだ。
夢や希望という言葉が、恐ろしい程嘘っぽく感じる。
人生ってこんなにも苦しいものなのだろうか?
何度か目が覚めたが、起き上がることができず、そのまま、またドロドロした眠りに落ちていった。目が覚めたとき、明るかったり暗かったりしていたから、多分何日かたっているはずだ。
分かってはいたが、起き上がることはできなかった。起き上がれば今の自分と向き合わねばならない。現実を認めなければならない。その恐怖心と激しいめまいが、私をまた眠りの世界へ導いてゆくのである。その眠りは信じられないくらい浅く、常に夢と現実の間を彷徨いつづけるのだった。
その時、突然目覚まし時計が鳴りだした。故障だろうか?
ベッドから少し離れたところに置かれた時計のベルをとめるには、どうしても起きなければならない。少しうるさいが、ほうっておくことにした。そのうち止まるだろう。
ジリジリジリジリ……
異常にうるさかった。目覚まし時計ってこんなにうるさかったっけ?
ジリジリジリジリ……
目覚まし時計が早く起きろと言っている。頑張って早く起きろと言っている。おまえはそれだけのヤツだったのかと言っている。
「逢うよっ!」
私は思わず叫んだ。叫ぶと同時に起き上がり、ベルを止めた。目覚まし時計は何事もなかったかのように時を刻み続ける。
私は泣いた。うれしくて泣いた。ずっとずっと何かに励ましてもらいたかった。強がってはみたものの、突き上げてくるさみしさに心がぐーつと押しつぶされていた。ずっとずっと頑張れって言ってほしかった。壊れた目覚まし時計に励まされるなんて、変な話だけれど。
しかし、そんなちょっとしたことが、今の私の心をずいぶん楽にしてくれた。
不思議と、めまいと吐き気が軽くなっていた。お腹もすいてきた。
もう少し頑張れるかもしれない。そうだ、もう少し頑強ってみよう。大好きな両親のために、大好きなゆみのために、大好きな健二のために、そして自分の夢のために、もう少し頑張ってみよう。
なんと、健二が来た日から三日が経っていた。三日間も眠り続けていたのである。はっきり言って、これは完全に異常だ。朝起きてごはんを食べ、昼食もきちんと摂リ、夜も栄養たっぷりの晩ごはんを食べ、お風呂に入り、という普通の人間的な生活を早く取り戻さなければならない。
私は、とりあえず近くのスーパーへ買い物に出かけた。雲行きが少し怪しい。雨が降るかもしれない。
スーパーの中でも、さっきの目覚ましの音を耳の奥で鳴らしていた。それは私の心の闇に心地良く響いていた。
私は、なるべく栄養になりそうなものをどんどんかごに入れた。ニンジン、ピーマン、カボチャ、トマト……。何を作るかなんて、まるで考えていなかった。とりあえず、私の体に栄養をつけてくれそうなものをかたっぱしからかごに入れた。
そんな悪あがきをする私に、神様はこれでもかというぐらい私を打ちのめそうとする。
私の呼吸は一瞬止まった。思わず床にかごを落としてしまった。
目の前には健二とゆみがいた。二人で買い物している健二とゆみがいたのだ。
「智子、ごめんね。お金借りたままで全然連絡しなかったこと、本当に悪かったと思ってる。少しやせた? 何か元気ないみたいだね」
私は“誰のせいでやせたと思ってるの?”という言葉を思わずゴクリとのみこんだ。
「お金は近いうちに必ず返す。もし困っているようだったら、月に五万円ぐらいずつなら返せそうなの。彼も手伝ってくれてるし」
ゆみは少しうつむいてはにかんだ。えっ? 嘘でしよ? 嘘でしょ? 何訳の分かんないこと言ってるのよ。
「お金は必ず、必ず返すわ。けど、健二君は返せない。自分がどんなにひどいことしてるかは分かってる。でも、健二君への気持ち遠慮するなんて、おかしいかなって思って。智子は許してくれないかも知れないけど、自分の気持ちには正直に生きていきたいの。あの日、智子にお金借りた入学手続きの日、あの日からずっと私、健二君のこといいなって思ってて。それでね……」
バシツ!
私の右手は彼女の右ほほをたたいていた。
健二はじっと私を見ていた。何も言わずに、目で私を責めていた。
「どうしてそんな目で私を見るのよ」
私は後退りしながら、今にも消えそうな声で言った。恐ろしさのあまり、私は近くにあったバラ売りの卵をつかむと健二に向かっておもいつきり投げつけた。卵は健二の頭に命中し、卵液が彼の顔をしたたり落ちた。健二は目を閉じたが、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
その後のことは、もう何が何だか分からなかった。狂ったように何か叫び続けていたような気がする。気がつくと、私は家の前に立っていた。ドシヤ降りの雨が体を叩きつけてくる。薄汚い私が窓ガラスに映っていた。
多分これはたちの悪い夢か何かだ。ゆみがあんなことするはずないし、まして健二があんな目で私を見るはずがない。まるでドラマのようだ。健二の言葉が、何度も何度も頭の中でリブレイされる。
また吐き気がした。トイレへ行ったが何も出なかった。苦い胃液だけが、空っぽの胃からにじみ出てきた。胃が恐ろしくひどく痛む。
これが私の限界だって言っているのに、神様は全然分かってくれない。限界がどこまでかを知るために私は生きてるわけじゃない。
何度も激しい吐き気におそわれ、口の中が胃液だらけになる。でも、立ち上がって口をゆすぎに行くことさえできなかった。私はトイレにもたれたまま目を閉じた。頭を「死」という言葉がよぎった。このまま眠ってしまえば、間違いなく私は死ぬだろうと思った。
人生がこんなふうに限界を探し求める旅だとすれば、私はもう生に対する未練はない。私のことを人生の負け犬と呼びたいなら、勝手にに呼べばいい。
私はもう眠りたい。このまま永遠に眠り続けたい。神様もう起こさないで下さいね。これが私の本当の限界なのです。
私は今、生きている。
人間というのはかなりしぶとい生物らしい。 いや、ただ単に私の生命力がずば抜けているだけだろうか……
あの日、私はやはりトイレで眠ってしまい、そのまま三日間が過ぎていた。電話が通じないため、不審に思った母親が訪ねて来て救急車を呼んだのだ。そして私は一命を取り止めた。
医者は私に向かって、何度も奇跡という言葉を繰り返した。そして
「よほど生に対する執着心が強かったんだね」
と付け加える。
私はそれは違うと思った。あのとき、眠る寸前、はっきりと生に対する未練はもうないと思ったのだ。生きたいという気持ちが起こるはずがない。
それを付添いの看護婦さんに話した。すると彼女はこう言った。
「きっと智ちゃんは、人生は限界を探し求める旅だと思いたくなかったのよ。そうじゃないことを自分が生き続けていくことで証明したかったんじゃないの? 人生は、大きな幸せや小さな幸せを一杯積み上げていく作業よ。でも、幸せを探そうとすればするほど、人は悲しみの淵に沈んでしまうようにできてるのね、きっと。でも、悲しみの淵に限界なんてないわ。自分が落ちようと思えば、どこまででも落ちて行くことが出来るのよ。でも、人は限界を知るために生まれてきたわけじゃない。だから限界を知ろうとしてはだめ。限界を知ろうとしたら、もっともっと深い悲しみの淵に沈んでしまうわ。たとえ悲しみの淵に沈んでしまったと気付いても、幸せを探し続けるのよ。悲しみの淵にだって、幸せは一杯落ちているわ。そうやってもがきながらでも幸せを探し続けてゆけば、いつかちゃんと地に足を着けて歩いてる自分に気が付くのよ。それから、智ちゃんの縁合、もう少し自分を大切にしてあげないといけないわね。他の人のことばかり考えていてもいけない。かといって、自分のことばかり考えていてもいけない。このバランスが崩れると、幸せを見つける心の目がやられてしまうのね。智ちゃん、もう一度言うわよ。人生は幸せを探しもとめる旅よ。今智ちゃんが生きてることが、このことを証明してるのよ」
心が楽になっていくのが分かった。心と体がゆっくり解き放たれてゆくような盛じがした。彼女は何て素敵なことを教えてくれるのだろう。
「ねえ看護婦さん、そうやって集めた幸せをどうしてるの?」
彼女は微笑みながらこう答えた。
「リュックサックに詰めてるわ。リユックサックだと両手が空いてるでしょ? だから見つけた時にすぐに拾いに行けるの。そしていつでも取り出すことが出来るの」
「重たくなったらどうするの?」
「一番大切な人に手伝ってもらうの。幸せの重みを誰かと分かち合えるなんてすごく素敵と思わない?」
私は今まで何でもリュックサックに詰め込んできた。悲しみも苦しみも全部一人で背負い込んで、一人でもがき苦しんでいた。そうやって自分を痛めつけてきたのかもしれない。何だかとっても大切なことが分かったような気がする。
彼女は来月、六月の花嫁になるそうだ。そして私は退院して自宅に戻り、それからは何もかも忘れて受験勉強に打ち込んだ。
次の春がまたやってきた。三月の風がまだ少しだけ冷たい。
私は合格発表を見るため、久しぶりにN大までやって来た。自信はあった。掲示板の前に立って、私はゆっくり番号を探した。
「やっぱりね……」
周りのざわめきは去年と全く同じだ。胴上げをしていたり、泣いていたり、また、TVの取材なんかも来ている。ただ逢うのは、私の番号が掲示板に書かれていることと、駆け寄ってくる健二がいないということだ。「智子ー、智子ー」って大声で走ってくる健二は、今ここにはいない。
公衆電話の列も去年と同じように長く連なっているのに、不意に切なさが心を突き抜けた。ちょうどその時、
「智子」
という声がして、振り向くとそこには健二がいた。ゆみもいた。
「ごめん。こわかったんだ。いろんなもの一人で抱え込もうとする智子が。智子はもっと自分を大切にしてくれ。荷物が重い時は、遠慮なく言ってくれ」
私は本当の意味で健二を知らなかったのかもしれない。崩れそうになる健二を知ろうとしなかったのかもしれない。一年前、私は健二のことを全て分かっていると思っていた。しかし、そうではなかったのだ。
ゆみはどうなんだろう。ゆみはどこまで健二のことを分かっているのだろう。多分私が健二のことを頭で分かろうとしていたことに対して、ゆみは今心で分かろうとしているのではないだろうか。この違いは何だろう。
「大丈夫、最近私のりユックサックだいぶ軽くなったんだ。幸せだけを詰めることに決めたのよ」
健二はニッコリした。また一つリュックサックの荷物が増えた。私はそれがとても嬉しいかった。
通じ合う方法
島田 時子
人に何かを伝えようとする時、僕は戸惑い、苦しみ、あるいは時として最終的に言葉をのみ込むこともある。いつだって、そうだ。僕の気持ちは、そのまま伝わらない。
子供の頃は、そんなこと思ったこともなかった。自分の話す言葉はすべて、家族や学校の先生や友達に、何の問題もなく伝わった。
伝わった?
いや、そうではない。あの頃の、恐ろしく言葉を知らない僕が、もどかしさを感じることもなくいられた。今になって、あんな風にしていられたことを幸せだったと思う。父親も母親も先生達も、周りの大人達はみんな、僕の話すことを聴こうとし、分かろうとし、言葉以上の僕の気持ちを受け取ろうとしてくれたのだ。伝えようとする僕の言葉を、しっかりと受けとめてくれた。
あの頃とくらべると、何十倍か何百倍かの数の言葉を持っているはずだ。英単語だって苦労しながらたくさん覚えた。数が増えた分だけ、言葉を豊富に使って、何でも伝わるようになるのではないのか。生まれてきてから二十八年分の、蓄積してきた言葉たちを駆使しても、僕のこの気持ちは伝わらないのか。
もう、どれくらい昔になるのだろう。いつだったか、まだ大学生だった頃、僕は昼休みの後の国文学の授業をふわふわと聞いていた。先生は、もう何年も中原中也の詩を研究し続けており、中也のことになると、まるで恋人に愛を語るかのような眼差しになる。まったく、あんな年にもなって何かに夢中でい続けている先生を、少しうらやましく思いもした。中也がいかにすばらしいか、毎時間のように聞かされていたが、僕は彼を知れば知るほど、何となく好きになれなかった。その上、あの先生の話す声は、深くてやわらかく、あまりにも心地よいので、いつの間にか別世界へ行ってしまうことがよくあった。その日も又、そうだったのだが――。
「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じている手、その手が深く感じられてゐればよい。
とろけそうになっていた僕の頭に、突然飛び込んできたこの言葉。一瞬、何が起こったのか分からなかった。講義の資料として配られたプリントのたった二行の部分に、僕の目はくぎづけになった。たしか、「芸術論覚え書」という、中也自身の文章からの引用だったと思う。そして次の瞬間、さっきまでは安らかな眠りへ導いてくれる音でしかなかった先生の声が、一つ一つしっかりとした言葉となって、僕の中にぐんぐん流れ込んできた。
「中也の言う〈名辞〉ってのは、つまり言葉とか言語のことだねえ。それは、生活していくための便宜の手段であるわけなんだけれども、彼はいつもね、悩んでいたんですよ。そう、言葉があれば伝わるのか、あるいは言葉がなくても同じ感じを持つことができやしないか。まあ、何ていうんだろうね、言葉というものに対して限りない不信・不安を持ち続けていた詩人ですなあ」
そう言って、又熱っぽい目をして、窓の方へ寄っていく。
同じだ。中也とまったく同じなのだ。言葉なんかで、一体どれだけのことが伝わるというのだろう。もし、自分の心の中が直接、そのまま伝わらないのなら、初めから言葉なんかに託すのは、やめたほうがましではないのか。
その頃の僕は、言葉に対して、人とのコミニュケーションに対して、漠然としたもどかしさを感じていた。相手に伝えたいことがある時、そのためにはまず、自分の中の気持ちの塊をなんとかして言葉にする。そうして生み出した言葉を相手に送り、相手はそれを受け取る。相手は相手なりに、受け取った言葉を味わうのだから、最終的には初めの伝えたかった気持ちは、曲げられたものにしかならない。つまり言葉なんか、気持ちを曲げてしまう障害にしかならない。心から心に直接届く言葉が欲しい。そう思っていた。
いつからか意識し始めた、そんなもどかしさは、その日出会つた中原中也の言葉と重なり、さらにはっきりと、僕の中で大きな問題になっていったような気がする。
中也との共感という、それまでにない経験をした午後だった。睡魔に襲われていたことなど、すっかり忘れてしまっている僕の隣で、彼女は一瞬目を開き、不思議そうに僕の顔を見て、再び「別世界」へと落ちていったようだった。彼女の寝顔を眺めているのは、僕の楽しみの一つだった。起きているときには決して見せない、無防備な顔に、どれだけ胸を高嶋らせただろう。とくとく鳴る僕の心臓の音が、彼女を起こしはしないかと心配しながら。
彼女は頭のきれる人間で、とても現実的だったが、巧みに言葉をあやつり、いつもあふれ出すように僕に言葉をくれた。僕が彼女の言葉を聞いている時間の方が、はるかに長かったと思うが、彼女は別にそれを不満に思っているようでもなかった。かといって、決しておしゃべりなわけでもない。重く、堅く閉ざした僕の心を少しすつ少しすつ溶かしてくれる、そんな彼女が好きだった。
僕たちは、あまり電話をしなかった。ほとんど毎日会っていたからだ。
つきあい始めてまだ間もない頃は、それでも次の日までがとても長く感じられて、先に我慢し切れなくなった方が、
「今、何してるの?」
と言って、これといった用事のない電話をした。
しかし、そのうちに彼女の方から電話がかかってくることが、めっきり減ってきた。それに気がついたとき、気にならなかったわけではないが、特にそれについて聞きもしなかった。二人の関係が揺らいでいるような様子もなかったからだ。そうして、それにつられてというわけかどうかは分からないが、僕の方からも少しすつ電話をしなくなった。二人はそれからも、前と何も変わることなく、毎日当たり前のように会っていた。
今さらのように、僕は思う。大切な人の変化は、どんな小さなことでも、見逃してはいけない。そう、見逃すべきではなかったのだ。
やがて僕たちは、大学を卒業し、彼女はある保険会社の事務の仕事につき、僕は出版社に入った。出版社といっても、十数人でやっている小さなところだ。まだ卒業したばかりだった僕の初めての仕事をとても認めてくれて、この業界でやっていくための自信を与えてもらった。
仕事に追われる日々を送っていたが、それでも、週末は絶対に予定を入れないというのが暗然の了解になっていて、僕たち二人の関係は、大きな問題もなく、続いていた。土曜日の夜には、きまって僕の部屋で、彼女の手料理を食べながらビールを飲む。好きな音楽を聴きながらの、最高の時間だ。たいていはハードロック、そしてたまに、彼女が持ってくるブルース。音楽を流したままテレビもつけると、彼女はいつも、
「どっちかにしたら?」
と、なかばあきらめたような顔をして僕を見る。
僕たちは、大学生の頃からずっと一緒にいたので、さすがに安定した関係ではあったが、マンネリだと思ったことは一度もない。
仕事を持つようになって、一つだけ、変わったことがある。大学生の頃は、いつでも僕の左には彼女がいて、彼女の右には僕がいて、お互いの気持ちを確かめることは簡単だった。しかし、社会人になった僕たちに、余分な時間はない。そう感じ始めてから、自分の気持ちをきちんと伝えようとするようになったのだ。彼女は、ぽっちりと開いた大きな二つの目で、まつすぐに僕を捕らえ、
「好きよ」
と言ってくれる。とてもシンプルな言葉だが、彼女の口からそれを聞くとき、僕はとても幸せな気分になる。
一度、珍しく二人とも残業もなく、早く帰れるというので、地下鉄の駅で持ち合わせて映画を観に行ったことがある。
「お昼ご飯、食べそびれちゃった」
僕の顔を見るといきなりそう言った彼女は、吸い寄せられるように近くのうどん屋へ、僕の手をぐんぐん引いて行った。
「おなかがへってたんじゃあ、映画どころじゃないわよね」
とかなんとか言って、天井とうどんのセットをぺろりと食べた。彼女の食べっぶりは、本当に気持ちがいい。僕は、釜上げうどんを食べながらそれを見ていた。その店は、うどん自体がとてもおいしいので、そこへ行くと必ず、釜上げを注文することにしている。
「おいしかった。やっと落ちきいたわ」
僕たちは、七時二十分からの上映に間に合うように、店を出た。映画の内容は期待はずれで、五つほど離れた席に座っていた男女が、キスをしているのが目に入った。平日の夜の映画館なんて、初めてだった。
あくびをしながら、僕たちは夜の空気に満ちた通りへ出た。手をつないで歩きながら、しばらくさっきの映画に文句を言いながら笑っていたが、言葉が途切れ、ふと間があいた。
「ねえ」
予想外の彼女の言葉に、どう反応していいか分からなかった。
「私のこと、好き?」
「当たり前だよ。どうしたの?」
まったく、どうしたというのだろう。ただ事ではないようだ。
「どうして、言葉にしないの?」
「言わなくても、分かってるじゃないか」
答えながら僕の胸は、ドキドキしてきた。彼女はいつも、僕のことを好きだと言ってくれたが、彼女だって僕の言葉を聞きたかったのだ。そんな当たり前のことに、今まで気がつかないで、ずっと彼女に淋しい思いをさせてきたのか。
「言わなくても伝わるから言葉にしないっていうのは、怠惰だと思うの。伝えたいなら、自分で言葉にしなきゃ、伝わらないこともあるわ――」
そう言って、彼女はうつむいた。彼女の目に涙がいっぱいたまっているのは分かっていたが、言葉をかける資格など僕にはないような気がして、何も言えなかった。
もちろん、彼女に伝えたいという気持ちは、いつもあった。しかし僕は、できない。というより、言葉が見つからないのだ。「好きだ」とか「愛してる」とかいう言葉とは、何かが違う。僕の気持ちは伝わらないのだ。そんな言葉ではなく、直接この気持ちを伝えたいのだ。大学時代、中也と共感した〈言葉に対する不信不安〉が、また僕の中で、もくもくと広がってくる。しかし、もうそんなことを言っている場合ではない。彼女に伝えなくては。
次に彼女に会った日、僕は思い切って口を開いた。
「君のこと、好きだよ。きっと、これからも」
まるで台本を読んでいるようで、言葉と気持ちがつながっていないことに、気付いていた。
「そう? ありがとう」
彼女は少し驚いた目をしたが、口元だけで笑って、そう言った。やっぱり違う。彼女に伝えたい僕の気持ちは、もっと大きな、言葉にならない大きなものだ。
その後、よく思い出せないような些細な事で、僕たちはさよならを告げた。大学を卒業して、四年目の秋だった。
何という、あっさりとした最後だったことだろうか。二人に涙はなかった。たぶん、お互いに相手を好きになり過ぎて、少し休みたくなっていたのではないかと、今、僕は思う。不思議なものだ。
彼女のいない生活に戻ってから、一カ月ほどたっていたと思う。急に冷え込んできた夜、仕事から戻った僕は、新聞を受け取るぐらいしか用をなさないポストの中に、白い封筒を見つけた。――彼女だ。
足早に部屋に入り、そしてゆっくりとていねいに、手紙を広げる。
『涼しくて、いい季節だと思っていたら、少し肌寒い日が続くようになりましたね。元気にしていますか。
私の方は、相変わらずです。
毎年冬になると、一緒に食べた鍋を、なつかしく思い出します。今年もそろそろ、そんな季節ですね。もう、あなたと食べることもないのは淋しいけど、何か楽になっている自分に、驚いています。
鍋の上に立ちのぼる湯気のむこうのあなたに向かって、うれしかった事、がんばっている事、悩んでいる事、たくさんたくさん話しました。あなたは、どんなことでも大切に聴いてくれて、私はすごく幸せでした。でも、心のどこか端っこだけは、淋しかったような気がします。
大学時代、電話をしなくなっていったのは、そんな自分の気持ちに気付いたからです。私はいつも、自分を全部あなたに知ってほしくて、持っている言葉を総動員させて、伝えようとしました。言葉を選ぶのは難しくて、分からなくなったりもしたけど、それでもなんとかして、あなたに伝えたいと思っていました。言葉しか伝える手段のない電話でも、あなたはいつも聞き役で、私はやっぱり淋しかったです。
あなたはよく、「いい言葉が見つからない」と言って黙ってしまうことがあったのを覚えていますか。その時には言えなかったけど、「いい言葉なんて、探さないで」と思っていました。映画のせりふみたいな言葉が欲しいのではないのです。完璧な言葉が欲しいのではないのです。
いつか好きな人ができたら、今度は絶対に、あなたが自分だけの力で生み出す言葉をあげて下さい。あなただけの言葉を、あげて下さい。気持ちは、伝えようとすれば必ず伝わる。私は、そう思います』
手紙が届いた日の夜、僕はそれを、何度も何度も読み返した。読み返すたびに彼女の言葉が、まるで生きているみたいにあたたかく、ずっしりと重みをもって、僕の中に伝わってくるような気がしたからだ。白い、彼女らしい便箋が、僕の手の中でぶよぶよになった。
これが、彼女との本当の最後だったのかもしれない。皮肉なことに、これを読んだとき初めて、僕と彼女の何かが通じ合ったような気がした。
彼女はその後、某新聞社の試験を受けたらしい。見事に合格し、今はあちらこちらと飛び回っているそうだ。大学時代の友人が、いろいろと気を回しては、彼女の近況を報告してくれる。しかし僕はあれ以来、手紙を読み返すこともなければ、二人で撮つた写真を手にすることもない。
僕は最近、例の出版社を辞めた。同僚たちにはとてもよくしてもらったが、自分の言葉で表現し続けたいという希望を捨てられず、結局、フリーライターとして仕事をしていくことにした。ありがたいことに、毎日原稿の締め切りに追われている。そして毎晩、明日の仕事のことと、ほんの少しだけ彼女のことを考えながら、眠りに就くのだ。
チェーン
中野 泰宏
ポクはごきげんだった。そこの角を曲がったら、もうすぐいつもの空き地が見えてくるな、なんて考えながら。
そう、その日もポクはあいぼうのバビーといっしょに、早くいつもの空き地に着こうとつっ走っていた。いつもよりごきげんだったかも知れない。
学校から帰ったら、運よくママはいなかった。もちろん、おねえちゃんもまだ学校から帰ってない。パパは今日もどこか遠くでお仕事をしてる。
今日は出るときに、
「ちゃんと宿題やってから行きなさいよ。わかった?」
なんてガミガミ言われなくてすむから、いつもより早くバビーをさそいにいった。バビーもあまり強く引っ張るもんだから、チェーンかけがキシキシいってる。
「待った、待った。すぐ連れていってやるから」
バビーはもう待てないというように、
「ワン、ワン! キャン、キャン!」
しっぽがブンプン鴫ってる。ポクまでますますうれしくなる。
バビーとはもう七年もいっしょにいる。
ボクが五つのときに、おねえちゃんがまだちっちゃかったバビーを拾ってきた。本当にちっちゃかった。まだ目もあいてなかったし、
「ワン、ワン!」
ってなくこともできなかった。
「絶対にわたしがちゃんと世話するから。絶対にするから」
泣いてるおねえちゃんの姿が、なぜかはっきりと残ってる。
ポクがいつもごはんを持っていってあげた。ちゃんとひとりで食べられない間は、ボクがスプーンで食べさせてあげた。大きくなった後も、あんまりおいしそうに食べるもんだから、ついつい最後まで食べるのを見てた。
学校のとき以外は、いつもいっしょだった。学校であったこととか、ママにしかられたこととか、みさちゃんのこととか、全部バビーには話してた。みさちゃんってのは、ボクの一番のお気にいりのこで、いつもやさしくて、笑った顔が本当にかわいい。たしか、家がたくさんお店をもっているって聞いたことがある。
バビーはいつも最後まで聞いてくれた。生まれて初めてフラれたときも、その次も、橋の下でいっしょに泣いてくれたりもした。もう、昔のこと。
大切にしていたスーパー力ーとむらさき色のビー玉を、秘密のかくし金庫にしまったときもいっしょだった。いつもの空き地のどこかのデコポコに埋めてあるんだけど、その場所はポクとバビーしか知らないはず。
ひょっとしたら、この世でポクの次にポクのこと一番よく知ってるかもしれない。いや、絶対にそう思う。
「バビーはずっといっしょにいてくれるよね」
そう言うだけで、なぜかいつも心がフッと軽くなった気がした。
バビーさえいてくれれば、それでいいんだ。
家を飛び出して、パン屋さんのすじをひたすら真っすぐに行って、タバコ屋さんの角を曲がると、信号の向こうにいつもの空き地の入り口が見えてくる。もうすぐそこだと思うと、どんどんボクたちのスピードも上がる。バビーが大きな力で引っ張ってくれる。
ふと、通りの向こうにみさちゃんが歩いてるのが見えた。
「みさちゃんがいる!」
たったそれだけのことでも、ボクはもう完全にまい上がってた。手にも足にも力が入らない。「みさちゃん……」という言葉が大きな耳鳴りとなって、体中をかけていく。その言葉がみょうに温かい。
気づいたときには、手の中からチェーンがすべり落ちていた。
「バビー!」
バビーはもう信号を渡って、空き地に向かっているところだったけど、ポクの声を聞くと、くるっと向きを変えて、全速力で引き返し始めた。
クラクションが近付いてくる。
それを聞いて、ポクは、
「そこにいるんだ!」
バビーには届かない。バビーはうれしそうにボクに向かってくる。
「バビー!」
ボクは道路に飛び出した。
いっしゅん道路が果てしなくのびていく感じがした。
「何で!」
まだのびていく。
ボクはありったけの力で手をのぱした。
バビーのうれしそうな目が、たまらない。
ポクの手がやっとバビーに届こうとしたそのとき、
ダーン。
「……バビーは……」
「……ママはもう帰ってきたかな……」
「……何でこんなに空は青くてきれいんだろう……」
「……ああ、何か、やけに体が、熱いなあ……熱いよ……」
「……バビー……」
気がつくと、ポクはいつもの空き地にいた。どれくらいここに倒れていたのだろう、体のあちこちが痛くて動かない。
わずかに残った力をふりしぼって目をあげたら、一匹のいぬがポクの顔を気の毒そうにのぞきこんでいた。そうだ。いつもこの空き地で見てた、白と黒と茶色の毛が交ざったいぬだ。いつの間にこんなに大きくなったのだろうか、体がひとまわり大きくなっているような気がする。
目が合うと、そのいぬはボクの顔をべロベロとなめた。まるで、バビーがポクをなぐさめてくれるときのように。
「はやくよくなってね……」
バビーのときと同じように、そんなことばが聞こえた気がした。だけど、ポクはすぐにまた深い眠りの中へと落ちていった。
「……こいつ、まだねてんで」
「そんなことゆうて、あんたのときもえらいながかったやんか」
「そうやったん? ぜんぜんしらんかったわ。いっつもええことぱっかりゆうて」
「あほ! もっとしっかりしてたわ!」
何か話し声が聞こえてくる。ボクはだんだんと意識がはっきりしてきた。目をあげると、三匹のいぬがポクを見てた。
「……なんだ、いぬか……」
「いぬでわるかったな!」
「……? ……」
「ほんまや! あんたにいわれたないわ!」
「……? ……」
「まあまあ、すぐにわかるやろうし、さいしょはしゃあないわな」
「……? ……? ……」
ボクは完全に何がなんだか分からなくなっていた。いぬがポクに話かけている!
「なんで、いぬがはなすんだ? なんで、ポクははなしてることわかるんだ?」
「なんでって、そら、あたりまえやないか」
一番大きくて、力もありそうな黒いいぬが、口を開いた。
「いぬがいぬのゆうてることわからんかったら、だれがわかるねん?」
ポクがいぬだって!
そんなばかな!
「かわいそうに、あんた、ゆめでもみてるおもてんとちゃう?」
白くて、まんまると太ったいぬが言った。
「まあ、そら、しんじられへんのもむりないわなあ。あんたかて、なんぽゆうてもわからんかったし」
「そやから、それ、ゆうなゆうねん」
茶色で体も小さく、耳がダラーンとたれたいぬが言った。
「とにかく、あんたはもういぬやっちゅうことや」
ポクがいぬだって!
ポクはいても立ってもいられなくなり、その場を飛び出した。
「まあ、さいしょはきついもんや」
どれくらい走っただろうか。途中で自分が四本足で走っているのに気づいた。だけど、ボクはただ走り続けることしかできなかった。止まれば、自分がいぬになったことが本当になってしまいそうな感じがしたからだ。
夢だ。すべてが夢なんだ。いぬが話かけてきたことも、いぬになった自分が、四本足で走っていることも。
ポクは以前バビーといっしょに来たことのある橋の下に着いていた。ポクは力なくその場に座りこんだ。
これからどうしたらいいんだ?
どこへ行ったらいいんだ?
必死になって自分の家がある所を思い出そうとしても、どうした訳か、せんぜん思い出せない。ママとおねえちゃんとパパの顔しか思い出せない。いろんなことが頭をめぐっていく。だけど、夢を見ているんだと思いこむことより、自分を納得させてくれる考えは何一つとしてなかった。
ポクは吸いこまれるようにして、川の流れに近づいていた。これが夢なら、その苦しさで目が覚めるかもしれない。夢でなかったとしても……
ボクは右手をそっと水の中へ入れた。
そのとき水面に自分の顔がゆれているのが見えた。どこかで見たことのある顔だ。
「……バビー?」
そうだ! バビーのちっちゃい時に似ているんだ!
そのとき、これ以上ないと思えるほど素晴らしいアイデアがうかんだ。
「バビーをさがしたらいいんだ! バビーなら、きっとなにかおしえてくれるはずだ!」
そして、一週間後。
ポクはいつもの空き地に来ていた。ふと見ると、あいつらがいる。前に出会った三匹のいぬがドラムカンの周りで遊んでいる。茶色のいぬがポクに気付いた。
「よう、しんいりさん。こっちこいや」
そのときにはポクはもう、自分がいぬになってしまったことを夢だと片付けるほどバ力でもなかったし、意気地なしでもなかった。ただ、なぜこうなってしまったのかを、ちゃんと知っておきたかった。
「ねえ、きみたちはまえボクに、『おまえはもういぬなんだ』っていったよね」
「おお、やっとおちついてはなしできるようになったんやな」
黒いいぬが、ちょっとこばかにした様子でポクに言った。
「ポクもちょっとまえまでにんげんだったってことは、ちゃんとおぼえてるんだ。ただ、なんでこうなってしまったのかを、ちゃんとしっておきたいんだ」
「ちょっとまえまで、だって」
白いいぬが、少し困ったような顔をして言った。
「そらあんたにとっては、たしかにちょっとまえまでやもんな」
「ああ、このつらさ、かなしさ。このよは、はかないもんやねえ」
茶色いいぬが、おどけて言った。
そのとき、
「あいつらや!」
何かはじけたようにみんなが飛び出した。
何なんだ? 何が起こったんだ?
そう思っているうちに、何人かの人間が空き地に入ってきた。
「また、野良犬が集まってきているな。まったく……」
いかにも高そうなスーツを着た、大きく太った男が言った。ポクを見てニガニガしそうな顔をしている。
「今度おいでになるときまでには、必ずここからすべての野良犬を追い出しておきますので、今日のところは……」
横にいるひょろっとした、メガネをかけた男がそう言いながら、ポクに向かって足元の石をけった。だけど、石はぜんぜん違う所に飛んでいった。
「まあ、いい。そんなことより、ここがパパの新しいお店ができるところだよ。ちゃんと見ておくんだぞ」
後ろにいるきれいな格好をした中学生ぐらいのおんなのこに向かって話しかけた。
ポクはそのおんなのこの顔を見たとき、何かなつかしいものを感じたが、それがなぜなのか分からなかった。
だけど、そのおんなのこの両手に抱かれているいぬの顔を見たとき、ボクは思わず声が出そうになった。そうだ。ポクがまだ意識がぼんやりとしたままたおれていたときに、ポクの顔をのぞきこんでいたあのいぬだ!
ポクは、男たちの視線に気をつけながら、彼女の所まで忍び足で近づいていった。男たちは通りの方を指さして、何か話し込んでいる。
「ねえ、このまえポクにはなしかけてきてくれたよね」
彼女は男たちに聞こえないように小さな声で、
「ええ、だいぶよくなった? いろいろはなしたいんだけど……。それより、いまはあのひとたちがいるから、すぐににげたほうがいいわ。つかまったらたいへんなことになっちゃう。さあ、はやく」
「そんなこといっても、どうしてもききたいことがあるんだ。おねがいだから……」
そのとき、ピーンとはりつめたものを感じて、ポクはさっと後ろ足をけった。後ろを見ると、細い方の男がボクのいた所を押さえこんでいる。
「くそっ、もうちょっとだったのに……」
ボクはその目にひどく恐ろしいものを感じて、すぐに空き地から飛び出した。
次の日のこと。空き地はたくさんのトラックと積み上げられた大きな金属でいっぱいになっていた。その間を、いろんな人間が大きな音を出す機械をもって、行ったり来たりしている。空き地のデコポコがどんどんなくなっていく。
ポクは今日も彼女が来ていないかと思って、朝早くから空き地に向かったんだけれど、結局、彼女は姿を見せなかった。
次の日も、その次の日も、一日中待ち続けたけれども、彼女は来ない。毎日毎日少しづつ金属が上に向かって立っていった。何かとんでもなく大きな建物ができるんだという気がする。空き地にはもう自由に走り回れるスペースがほとんどなくなってしまっていた。それに、今までたくさん集まってきてた他のいぬたちも、どこに行ってしまったのだろうか、気がつくと、空き地にいるのはポクひとりだけになっていた。
そうして、建物の大部分ができあがったぐらいのある日のこと……
いつものとおり、橋の下から空き地へ向かっていく途中、横を一台の黒い車がすごいスピードで通り過ぎていった。もうすこしでひかれそうになるくらいの近さだ。ポクはまだドキドキしながら、その車を目で追った。
よく見ると、後ろのガラスごしに、あのおんなのこと彼女がまるで「ごめんね」とでもいうような悲しい目をしてボクを見ている。どんどん車は遠く小さくなっていく。ポクはきっと空き地に行くにちがいないと思って、せいいっぱいの速さで追いかけていった。
空き地に着くと、思った通りさっきの黒い車が停まっていた。だけど、中にはだれも残っていない。この大きな空き地と建物を目の前にしてあれこれなやんでみても、何の手がかりもない。そうだ! ポクはもういぬなんだから、ひょっとしたらにおいで分かるかもしれない。ボクは見よう見まねで地面のにおいをかいでみた。……かすかに、彼女のにおいらしきものが……? ポクはうそでもそう思いこんで、建物の中へと入っていった。
入り口でうまいこと見張りの男たちをまいて、階段を上がっていったら、大きな部屋があった。そこには、たくさんのダンポールが高くつまれていた。よく見てみると、何かわけの分からない文字がいっぱい書いてある。開いている箱をのぞいてみると、力バンやベルトがいっぱい入っていた。いろいろめずらしいものをあさっているうちに、さっきの男たちが追いかけてきた。ポクはその辺りのダンポールを散らかして、部屋をかけぬけた。これくらいのことは朝めし前。
階段を上がると、小さな部屋がいくつもあった。ボクはもう一度ゆかのにおいをかいでみた。さっきよりはっきりと彼女のにおいが分かる! ボクは確信をもって一番左のドアにカいっぱいぶつかった。
ドアは思ったよりかんたんにあいて、ポクは部屋の中にころがりこんだ。
「キャッ!」
中にはおんなのこと彼女がびっくりした顔でポクを見ていた。どうやらここには男たちはいないようだ。
「やっとあえた……。ずっとさがしてたんだよ。このまえはなしできなかったときから。きみだったらなんでポクがいぬになったのか、おしえてくれそうなきがしたから」
「いけない! こんな所にいるところ、お父さんに見つかったら、あなた、他のいぬと同じように保健所に連れて行かれちゃうわ」
おんなのこがそう言って、ポクをやさしく抱き上げた。
そのとき!
「みさ、どうかしたのかい」
あの太った男がドアをあげて入ってきた! はじめは少し心配そうな顔をしてのぞきこんでいたけど、ポクの顔を見たとたん急に顔色が変わった。
「こらっ、みさ、そんな汚い犬、すぐに捨てなさい! 何をするか分からないだろう。さあ、早く」
「こんな所にいたのか。とんでもないことをしてくれたな!」
後ろから、細い方の男が息を切らしながら人ってきた。入り口の男たちもいる。
「そんなこと言っても……」
おんなのこは泣きそうになりながら、ポクを抱きしめた。
「さあ、はやく」
男たちが一斉に近づいてきた。
おんなのこは部屋の外に飛び出した。彼女もすぐ後に着いてくる。男たちも必死になって追いかけてくる。階段をかけ降りて建物の外に出た。入り口からたくさんのすごい顔をした男たちがはい出てくる。ポクたちはとにかくこの空き地から飛び出したかった。男たちのいるこの空き地から。
そして、空き地の入り口から、自由な町に飛び出せたとき……
「あぶない!」
彼女が飛びこんできた。
ダーン。
気がつくと、ボクたちはいつもの空き地にいた。どれくらいここに倒れていたのだろう、体のあちこちが痛くて動かない。
あれほど大きかった建物があとかたもなく、地面がいやに平べったい。
わずかに残った力をふりしばって目をあげたら、一匹のいぬがボクのとなりで倒れている。そうだ。彼女だ。
ポクは今、自分が知りたかったことが何なのかやっと分かったような気がする。自分が何ものなのか。そして、彼女は、みさちゃんは、バビーは……
ポクたちはごきげんだった。そこの角を曲がったら、もうすぐみんなの待つ空き地が見えてくるな、なんて考えながら。
猿と蛸
石田 直子
【著作権法に抵触するので、原稿に手を入れる】
テレビアニメ「日本昔話」のオープニングテーマ
♪ ぼうや〜
の後を削除するので、「よい子だ ねんねしな〜」以降を想起してお読み下さい。
【ここまで】
むかーしむかし、まだ日本という国もできていなかった頃のお話です。
あるところに大地とお友達のてっちゃんと、海とお友達のめぐちゃんがおったそうな。てっちゃんは大地から山菜や木の実などを分けてもらい、代わりに自分の体から出たものを栄養分としてお返しすることでいい関係を保っていた。不足しがちなカルシウムやタンパク質などはめぐちゃんと一緒にトドを捕ったりマンモスをしとめたりすることで補っていた。めぐちゃんは大の力持ちで、日頃はダイエットに最適な海藻を主食としていたが、ちょっと栄養が欲しいな、と思ったら友人の魚たちを追いかけ廻す鮫などと戦ってそれを食べていた。おしゃれにも気を使うめぐちゃんはその皮でバックや洋服を作ってはみんなに自慢していた。ちなみにてっちゃんはおしゃれのおの字も知らない人なので、一緒にマンモスを捕ったときにはその毛皮を全部くれたりするのでめぐちゃんはてっちゃんが大好きだった。
ちなみに二人は恋人同士だった。
てっちゃんは友人の猪の航君と熊の浩一君と遊ぶのがとても好きである。だいたい月曜日から土曜日までを一緒に過ごす。
「おはよう、てっちゃん。今日はなにしようか?」
「おっす、航。今日も浩一のヤツ誘ってプロレスしようや」
「またかいな。てっちゃんもすきやなあ」
「おはよう、お二人さん。今日は何をすることになったんや?」
「またプロレスやて」
「はっはっはっはっはっは。てっちゃんも飽きひんなあ」
といった具合だ。
しかしプロレス三昧の平和な日々ばかりではない。どこの世界にも一人くらい陰険で、ひねくれ者でめちゃくちゃ嫌われている奴がいるように、ここにもしっかりいるのである。それが猿の勘吉であった。彼は上記したような性格であるからもちろん友達と呼べるような人はいない。そして当然のごとく彼女もいない。そんな彼の目に止まったのがてっちゃんであった。勘吉が「俺もやっぱりもうちょっと性格治して友達の一人でもつくらなあかんなあ」と思いつつ散歩をしている時のことであった。突然、目の前が真っ暗になり彼は尻餅をついた。落とし穴に引っかっかったのである。そのとたんものすごい笑い声が頭の上から降ってきた。
「わっはっはっはっは! めちゃめちゃおもろいわ! こんなんに引っかかるヤツいてるんやな。てっちゃん天才!」
「そやろ。こういう事は任せなさい!」
「はっはっはっは。まったくその通りやな。大丈夫かい、勘吉君」
その後3人は「ごめんな」と謝って「一緒にプロレスごっこしようぜ」と誘ったのだったが、傷ついた彼のプライドはそんな事で復活するほど低くはなかった。
「うるさいわ!」
と一言捨てゼリフを残すと憤然として去っていった。このとき彼は持ち前のねちっこい性格から、「オレ様にこんな事してただですむと思うな」と復讐の黒い炎を燃やしていた。
そんなある日、彼は良い案を思いついた。
「そうだ、NICEBODYな彼女を作ってあいつらに見せつけてやれ」
あまり賢いとはいえない彼にはこんな事しか思いつかなかった。しかしそんな野望すら、試みられる前に挫折することになる。なぜならその日のうちにてっちゃんとめぐちゃんのラブシーンを目撃してしまったからである。
良い案を思いついたと思った勘吉は、いざナンパを試みるべくナンパのスポットである海岸へと赴いた。しかしなかなかうまくいかない。日はどんどん暮れてきた。「まあ焦ることはない。気長にいこう」と、帰り支度をしていると見たことのある顔が見えた。
「あれ? 徹也の奴、何でこんなところにいるんだ」
よく見ると、隣に彼女がいるではないか! 軽い目眩を覚えつつ、気を取り直してもう一度視線を上げると彼らは真っ赤な夕陽をバックにちゅーの真っ最中であった。
「ちゅー! おいおい、ちゅーかよ」
彼の中で何かが音を立てて崩れていった。このとき彼は誓った。全身全霊を賭けて徹也を不幸のどん底に陥れると。
めぐちゃんはとても不機嫌だった。てっちゃんが日曜日にしかデートしてくれないからである。しかもてっちゃんは別にそれで構わないような様子だ。こうして今日もめぐちゃんは親友の鰯の恵子に愚痴るのであった。
「ほんと男の人って子どもよね。いつになったらプロレスごっことやらを卒業してくれるのかしら」
「男の人ってそんなもんじゃないの。いつも緑子が言ってるじゃない。男なんて一生子どもだって」
「緑子はただ単に遊び過ぎなだけよ」
「誰が遊び過ぎなの?」
いつものように濃い化粧をした秋刀魚の緑子がやってきた。
「あ、聞こえちゃった?」
「当たり前じゃない。小さい声でしゃべってるわけじゃないのに」
「へっへっへ。でも事実じゃん」
「まあね。しょうがないじゃん、男がほっとかないんだから」
いつも三人集まっては噂話ばかりしていた。そして今最もホットな話題といえば、なんといっても蛸の綾乃小路充だった。彼はめぐちゃんにてっちゃんという歴とした彼がいることを知りながらもう3カ月もしつこく付きまとっているのである。
「ところでめぐちゃん、例のボンボンはどうなったのよ」
そう、何を隠そう充は蛸一族の中ではめちゃめちゃ金持ちだった。
「どうもこうもないわよ。あいつ絶対頭おかしいって。だってこの前だって『僕の愛がどんなに深いか君に教えてあげよう』って自分の足をその場で切りはじめるんだもん。『蛸にとって自分の足の存在は……』とかなんとか訳のわかんない事言って。いくら蛸に痛覚がないからってさあ」
「うーむ。それは気持ち悪いかも。金持ちのインテリはなに考えてんだか」
「めぐちゃん、変に優しくしたりしてない?」
「してないよー。私はてっちゃんひと筋よ!」
「はいはい、ごちそうさま」
彼女達はこのときいつものような会話をし、いつものように楽しんでいた。しかしたった一つだけいつもと違うことがあった。充がその会話を聞いていたのだ。彼はとんでもない勘違い野郎で、めぐちゃんが徹也とつきあっているというのは自分の気を惹くための嘘だと思っていたのだ。可愛さあまって憎さ一千倍である。その愛情は深かっただけに反動も大きかった。
彼は誓った。手に入れることが出来ないなら、いっそ滅ぼしてしまえと。
似た者同士と言うのは何か引きつけ合うものがあるのだろうか。猿の勘吉と蛸の充はふとしたきっかけで知り合いになった。ある時一緒に酒を飲んでいて、お互いに自分の誓いを打ち明け合い、ますます意気投合していった。
「充! こうなったら二人で手を組もうやないかい」
「いいぜ。俺を裏切っためぐみに後悔させられるんならどんなことでもしてやる。そして徹也もな」
「よっしゃ、決まりや。ほな兄弟の杯といこか」
「乾杯!」
「乾杯 !」
平和な日々が続いていた。
ある日てっちゃんはいつものように航君や浩一君とプロレスをしていた。そこへひょっこりと勘吉がやってきた。
「よお、俺もまぜてくれへんか」
「おお、ええよ」
てっちゃんは何の屈託もなく勘吉を仲間にいれた。そしてその日以来勘吉は毎日のように3人のところへやってきた。しかし彼はいつもレフリー役で、決してプロレスをしようとはしなかった。彼は蛇のようにじっとチャンスを待っていた。
そしてそのチャンスはやってきた。準備はすべて整った。彼は毎日レフリーをする事で自分の位置を獲得した。彼のジャッジには誰も文句を言わなかった。
いつものように4人はプロレスごっこをしていた。そしていつものように彼が「ワン、ツー、スリー」というときに航君と浩一君の体にほんの少し何かを付けた。付けられた本人達も付けられたことに気付かないくらいの量だった。
何事もなかったかのように時間は流れ、「今日はもう帰ろか」ということになった。帰り際、勘吉がてっちゃんを呼び止めた。
「てっちゃん、これあげるわ」
「何これ」
「香水や。おしゃれ好きのめぐちゃんにあげたらきっと喜ぶんちゃうか」
「いやあ、ほんまや。ありがとう。でも何でくれんの?」
「最初にてっちゃんが快く受け入れてくれへんかったらこんなに仲良くなれへんかったから」
「そんなことええのに。でもありがたくもらっとくわ。ほんまにありがとう」
てっちゃんは大喜びで波打ち際まで走って行き、大声で叫んだ。
「めーぐちゃーん」
めぐちゃんはいつものように大波に乗ってやってきた。
「何か用なの」
彼女はてっちゃんが未だに週に一回しか逢ってくれないことに腹を立てていた。
「何でそんなに怒ってんの? それより今日な、いいものが手に入ったからめぐちゃんにあげようおもて」
いままでろくなプレゼントを貰ったことのなかっためぐちゃんは津波を起こしてしまいそうなくらい喜んだ。
「どうしたのよ、これ! てっちゃんもやっと私を喜ばせるものを選べるようになったのね。すっごく嬉しいわ!」
そういわれると口が裂けても貰いものとは言えなくなってしまい、
「まあ、つけてみてや」
ということで誤魔化した。
「とても素敵な香りね」
めぐちゃんは上機嫌で海へと帰って行った。
それから一週間が過ぎた。
てっちゃんたちはいつものようにプロレスごっこをして遊んでいた。はじめにてっちゃんと熊の浩一君が試合をして、てっちゃんがドロップキックで勝利を納めた。次に猪の航君がてっちゃんに挑んだがD.D.T.を決められてふらふらのところを抑え込みにはいられた。
「ワン、ツー、スリー」
いつものように勘吉がカウントをとり、てっちゃんの勝利が決定。
「イェーイ、2連勝や」
ところが航君の様子がおかしい。いつもなら「いまのは準備運動や。さあ、本番いこか」といって何度でも挑んでくるのにどうしたことかぴくりとも動かない。
「航君、どないしたんや?」
勘吉が揺すってみる。
「……冷たい」
「そんなアホな! 航君!」
「D.D.T.の時に首の骨が折れたんや、きっと」
「嘘や。いつもやってる技やしこんなに太い首がそんな簡単に折れるか? なあ、浩一君」しかし、浩一君も冷たくなって倒れていた。
「浩一君もあのドロップキックの時に………」
「嘘や! そんなことあるか!」
てっちゃんはその場を逃げ出し、海へと急いだ。
「めーぐちゃーん!」
しかし何度叫んでもめぐちゃんはやってこなかった。代わりに鰯の恵子が「家に行ったら眠ったまま冷たくなってた」と泣きながら訴えに来た。
そのころ蛸の充は悩んでいた。計画通りに徹也は不幸のどん底に、めぐちゃんは自分の手元にある。あとは既成事実を作るだけでよかった。しかしここにきて育ちの良さとインテリが邪魔をしていた。
「薬を使って女性を自分のものにするなんて野蛮なこと……。ぼくにはとてもできない………」
自分で計画を立てておきながら、充はひき続き悩んでいた。
空に星が瞬きはじめた頃、徹也はまだ浜辺にいた。友をなくし、恋人をなくし、生きる気力を失っていた。
「こんな所にいてもしゃあない。みんなの所にいきたいなあ」
彼はゆらりと立ち上がり、海へと入っていった。
気付いたとき徹也はめぐちゃんの友達である秋刀魚の緑子の家のベットに横たわっていた。
「気が付いたようね」
「何で俺はこんな所に……」
「てっちゃん、落ちついて聞いてね。これは勘吉と充の陰謀なの。あたしの男友達の話によると、ずいぶん前から充がお金を使ってある薬を作らせてたみたい。どんな薬かわかる? 24時間仮死状態にできる薬よ。それもきっかり一週間後に効くようなね。しかも小量でその効果は充分。どお? 思い当たるふしはあって?」
謎はすべて解けた。
てっちゃんはまず緑子の男を使ってめぐちゃんの居場所を捜し出し、そこで朝まで悩み続けていた充をボコボコにしてからめぐちゃんを安全な場所に移した。それから目覚めた航君と浩一君と共に、一人で勝利の杯を重ねてぐっすり眠っていた勘吉の家へ押し入り、これもまたボコボコにした。
それからというもの、蛸はボコボコにされるのを恐れて滅多に岩陰からでてこなくなり、猿のお尻はボコボコにされたときの後遺症で未だに真っ赤っかなんだとさ。
【著作権法に抵触するので、原稿に手を入れる】
テレビアニメ「日本昔話」のエンディングテーマ
♪ いいないいな〜
の後を削除するので、「にんげんっていいな〜」以降「ばいばいばい」までを想起しながら読み終えて下さい。
【ここまで】
再会
wiedersehen
平山 健史
「必ず、帰ってくるから」
漆黒の闇の中、青年は少女に背を向け歩み始める。
「待って、ねえ、待ってよ。待ってってばぁ」
少女は青年の後を追って駆け出すが、その距離は縮まらずますます開いてゆくばかりである。
「待ってよー、きゃぁ」
悲鳴を上げて、少女が転倒する。しかし青年は歩みを止めず、振り返ることもしない。
「ばかぁー!」
少女の声にエコーがかかり……。
「夢か」
いつもと同じ部屋、同じベッドで迎える朝。カーテンの透き間から差し込む一筋の朝の光。鳥たちのさえずりが耳に心地よい。いつもと変わらぬ同じ朝。しかしなんだって今頃あのときの夢を……。
軽いため息を漏らし、独りごちる。
「街へ、出てみるか」
かつて戦争があった。その北端をドイツに接する緑豊かな国、ケルンテン。自治領であるグリューネラントの帰属問題に端を発した独立戦争は、隣国ドイツの介入によりその激しさを増し、天上の神々の代理戦争と謳われるまでに至ったが、一九三八年十月、一年半にわたる戦いは、ドイツによる両国併合という形で幕を閉じた。
それから八ケ月……。
木陰をぬってはしる田舎道を、小型車でとろとろと転がして行く。エンジンの軽いうなりが体に心地よい。見渡せば、木立の合間に新築の建物の数々。その向こうには、延々と連なる畑……越して来た当初は廃村同然だったこの村も、復興がようやく一段落ついた、そんなところだ。一つの戦争が終わり、今また、きな臭い匂いが漂い始めているこんな御時世だが、活気が絶えることはなかった。古い建物を解体して耕地を整えていく、村おこしのどんな厳しい作業の中でも、いつも祭りのような雰囲気だった。今も、向こうの畑では草むしりレースが盛大に行われている。よその村では、こうはいかないだろう。
俺は、ヘンデル・ゲルデラー。この小さな村で独り、古書店を営んでいる。戦争さえなければ、大学で普通の学生生活を送っているところだ。戦争で家も家族も失った俺は、自らの力の無さを呪い、ただ純粋に力のみを求めた。その果てに、暴走を始めかけた俺をギリギリでとどめて、正義無き力の無意味さを教えてくれたのが、この村の仲間達だった。
この村に来たときだれかがこう言った。まるで落ち武者みたいだ、ここは落ち延びた侍の隠居の地だ、と。そのときは笑ったものだが、今ははっきりと違うと言える。ここは、最期まで戦い抜いた、将神たちの眠る村だと。
「相変わらず手掛かり無しか」
新聞屋の事務所から出てつぶやく。こんな時代に行方知れずの少女を捜し出すなど、到底無理な話なのかもしれない。戦火の中で別れた恋人を、俺は捜し続けていた。初めて出会ったこの街なら……、そう考え度々訪れているのだが、未だ手掛かりはない。知らず知らず、ため息がこぼれる。
うっそうとした街並み、どこかうつむき加減で街を行く人々……見ているだけで気が滅入ってくる。こういった雰囲気が普通なのだろうが、あの村の連中を見慣れている俺としては、なんとかしてくれと言いたくもなる。
気分転換にタバコでも吸おうかと懐をまさぐる。戦後に覚えた悪い癖だ。あいにくとタバコは切れていた。こんなものだ、人生は。さらに深いため息をつくと、俺は静かに足を踏み出そうとした。
「……」
呼び止められたような気がする。回りを見渡すがそれらしい気配がない。気のせいか。幻聴とは気が滅入っている証拠だな。半ばうつむき加減で再び歩きだそうとする。
「ヘンデル!」
今度ははっきりと聞こえた! 明るい張りのある少女の声が俺を呼び止めた。しかも、この声は。はっとして顔を上げると、そこには、大きめの袋を手にした小柄な少女が一人。
「ヘンデル! やっぱりヘンデルだぁ!」
「タ、タリオーニ?」
少女は亜麻色の長い髪を振り乱して走ってくると、そのまま勢いを殺さず俺に飛びついてきた。あわてて両腕をまわして抱きとめる。
「ヘンデル! ヘンデル! ホントに、ホントに……もぅ、ばかぁ!」
一気に感情が爆発したのだろうか。周囲の目も気にせず大声を上げて泣きじゃくる彼女に戸惑いを覚えたが、やがて彼女の背中を、髪をゆっくりと、優しくなでてやる。
彼女の名は、タリオーニ・バルタムス。俺の……恋人だ。一年前、戦火の中で別れて以来消息を絶っていた彼女が、今、俺の腕の中にいた。リボンで束ねた後ろ髪も、動きやすいようにと、軽装でまとめた服装もあの頃のままに。ただ、かすかに漂う甘い香りだけが、彼女の変化を俺に告げていた。香水か? 以前は身支度にすらあまり気を使っていなかったのに。
彼女はただ言葉もなく泣いていた。俺自身、驚きと喜びとで感情が高ぶり、気の利いた台詞ひとつ出せず、ただ彼女を優しく抱き締めているだけだった。
「ヘンデル?」
しばらくたって、落ち着いてきたのだろうか、彼女がおずおずとたずねてきた。
「タバコの匂いがする。タバコ、はじめたんだ」
かすかな変化に気づいてくれる彼女に、小さな感動を覚える。
「ああ。タリオこそ、この香りは?」
「え、あ、うそ。わかっちゃった? やだなあ」
ほんの少し顔を赤らめると、彼女は耳元でささやいた。
「これ、紅茶の香りなの。ヘンデルの真似して持ってたら、香りがしみついちゃって。恥ずかしいなあ」
ペロリと舌を出してウインクをして見せる。一つ一つの仕草が可愛らしくなっているのは、この一年のなせるわざだろうか。そんなことを考えて、つい彼女に見とれていると、その大きな瞳を見開かせて俺の顔を不思議そうにのぞき込んできた。
「どうしたの、あたしの顔、何かついてる?」
返事に困って目線をそらした先に、足型のついた大きな袋が一つ、地面に転がっているのが目に入った。あれは確か、
「ところでタリオ、買い物の途中だったんじゃないのか。あそこに荷物が」
そう言って、踏み潰された袋を指さす。
「あぁぁぁっ! 編集長に頼まれた買い物がぁぁぁぁっ! 誰よぉ、こんなにして! これは事件ね! このあたしがずぇええったいに、真犯人を挙げてみせるわ!」
あらぬ方を指さして、突然気合を入れ始めたタリオの肩を、チョンチョンとつついてやる。
「真犯人も何も、お前がほうり出して自分で踏み付けて来たんじゃないか」
あらぬ方を指さした姿勢はそのままに、タリオのこめかみに一滴の汗が浮かんだ。
「そ、そうだった? ま、まあ、やっちゃったことは仕方ないわよね。あ、大変。急いで買い直さないと、編集長におこられちゃう! ヘンデル、付き合ってくれるわよね」
あわてて取り繕いながらも、有無を言わせぬ口調でこちらを振り返る。少しは女らしくなったのかと思ったら、こういうところは全然変わっていない。思わず口元がほころぶのを押さえ切れない。
「な、何よ? 何笑ってるのよ、もう」
「いや、悪い。やっぱりタリオだな、と思って。ところで」
さっきのタリオの言葉に引っ掛かる所があって、それを尋ねてみる。
「さっき、編集長と言っていたようだけど」
俺の言葉を聞いたとたん、すねた表情が一転、ぱっと明るくなっていく。
「そう、そうなのよ! あたし、新聞記者になれたのよ!」
そう言うと、その場でクルリと回って見せる。グレーのギンガムチェックのパンツと、クリーム色のブラウス。大きめの黄色いスカーフを首の回りに結んでいるのがちょっとしたアクセントになっている。なるほど、言われてみれば、そう見えなくはない。
「よかったじゃないか、夢がかなって」
素直に祝いの言葉を述べると、ばつの悪そうに少しうつむき加減になって、小声で付け加えた。
「まだ、見習いなんだけどね。でも、いつか一人前になって、大きなスクープをあげて見せるんだから!」
「で、その新聞社って、ここ?」
「うん。でも、それが何か」
ほんの数分前の出来事を思い出し、かぶりを振る。
「人捜しを、タリオを探してくれるよう、編集長に頼んでいたんだ。一月以上前から」
俺の言葉が終わらないうちに、それまでほほ笑んでいたタリオの表情が、一転、怒りの表情へと見る見るうちに変わっていく。
「あのタヌキおやじ! ちょっと四回ほどあたしに振られたからって、あたしとヘンデルの仲を引き裂こうなんて、一千万年早いわよ。行きましょ、ヘンデル。こんなところに用は無いわ」
言うが早いか、通りをさっさと歩きだす。怖い怖い。仕事をほうり出していいのか、なんて野暮なことは言わない。こんなときの彼女には何を言ってもむだである。内心舌を出しつつ、彼女の後を歩き始めた。
それは、まさに一瞬の出来事だった。突然、横合いから走り出た男は、タリオーニを肩からひょいとかつぐと、そのまま何事も無かったかのように走り去って行く。
「きゃあ」
後に残ったのは、タリオの平凡な悲鳴だけ。
「きゃあ?」
あまりの出来事に、一瞬状況がつかめなかった。もう少しオリジナリティのある悲鳴はあげられないのか、それにもう少し色気が……などとばかなことを考えて、はたと事の重大さに気づく。男はといえば、二つ先の角に停めてあったトラックに、彼女もろとも乗り込んでいるところである。慌てて俺も、猛然とダッシュをかける。
ブゥゥオッ、ブロロロロー キューイィッ、キキキキー ゴフッ
間一髪。俺が荷台に手をかけるのと同時に、その場でシフトアップすると、派手にタイヤを鳴らしてトラックは一気に加速を始める。
「ふぬぉっ」
その反動で、車体からひっぺ返されるが、両手はしっかりと荷台を握り締めている。あまりの速度に体が地面に平行に流されるのを、両腕の筋力で無理やり荷台に引き寄せる。あの運転手は、俺を殺すつもりか。並の人間なら、車から落ちてその場でご愁傷様、ということにも成りかねない。
荷台で体を安定させることができた俺は、冷静にトラックを観察する。一番目立つのは荷台に、でん、と置かれた木箱ではなかった。
「こいつは、装甲車か?」
そう言わせる程、この車は隙が無かった。小さめに作られたサイドとリアの窓。リアには金網のメッシュまで入っている。足回り、タイヤ前後と外側には装甲板がつけられて、タイヤの露出面積を小さくしている。車高が低いのに揺れが少ないのは、サスペンションを強化してあるからか。いずれにせよこいつは、普通のトラックとは全くの別物だった。
「とりあえず、中の様子を……げっ」
中の様子を探ろうと、サイドミラーをのぞき込んだ俺が見たものは……運転席の男と、親しげに談笑するタリオーニの姿だった。それに、この後ろ姿は、もしかして。
車が急停車する衝撃を利用して、荷台から荷台から飛び降りる。見渡せば森の中。ここはいったい。
「あら、ヘンデルどうしたの?」
頭上からの声に顔を上げると、そこにはキョトンとした顔で俺を見下ろしている、タリオーニの顔があった。
「どうしたの、じゃない! お前、一体」
「え、だって、ヘンデルと待ち合わせしてるからって、そう言うから」
そんな約束を誰かとした覚えはない。しかし、思いつく限りでこんなことをする人物は、一人しかいなかった。悪い予感が脳裏をかすめる。その予感に答えるように、運転席の扉が開いた。
「お久しぶり、ゲルちゃん」
運転席から降りて来たのは、黒いソフト帽に黒いサングラス、三つボタンのダブルのジャケットにスラックスも黒なら、タイにワイシャツも黒、とどめに髪の色まで真っ黒という、全身黒ずくめの長身の男だった。サングラスを外すと、そこには見慣れた顔が見慣れた表情で、少しにやけた表情を見せている。
「やっぱり、先輩でしたか」
クラウゼヴィッツ・パウル。俺の学生時代の先輩。戦場での上官にして戦友。そして、最高の親友であり、最も危険な疫病神である。仲間達が村に移り住んだとき、自らの目的のために村を離れるものたちがいた。先輩もそのうちの一人だったのだが、こんなところで再会するとは。
「本当は村まで行こうと思っていたのですが、ゲルちゃんの姿を見かけたものですから、つい」
「つい、で人を誘拐するんですか!」
思わず絶叫するが、先輩は一向に気にする様子もない。タリオは額に指を当てて、うつむき加減で何やら思案顔だったのが、ポンと手を打つと、
「だって、パウルだもん」
と事もなげに言ってのけた。
「だ、そうです」
と、隣で先輩もうんうんとうなずいている。
あああ、忘れていた。いや、忘れようとしていた。この人は、こういう人だった。タリオもタリオだ。だてに虹の向こうへ、フェルネラントヘ行っただけのことはある。村の連中と同じで、普通の神経の持ち主じゃなかった。軽いめまいを感じて、頭を抱えしゃがみこむ。
「大丈夫、ヘンデル」
タリオが心配して駆け寄ってくるが、先輩は、
「まあ、いつものことでしょう」
と、気にもとめない。一体、誰のせいだと思っているんだか。ますます激しくなるめまいに、とどめを刺したのは、タリオの次の一言だった。
「でも、ヘンデル、何か楽しそう」
次の瞬間、視界が暗転した。
「しっかり、ねえ、しっかりしてってば……」
一人の少女が、耳元でささやいている。誰だ、グレーテルか? いや、妹は死んだはずだ。じゃあ、彼女は……なんだ、タリオーニじゃないか。生き写しだっていうんで、先輩と大騒ぎしたこともあったっけ……先輩?
「先輩!」
横になっていた体を、一気に引き起こす。そばには驚いた顔のタリオと、相変わらずうなずいている先輩が立っている。
「いやいや、さっきの追跡といい、今の寝起きのよさといい、勘はにぶっていないようですね」
「勘はって、また何かやっかいごとに巻き込もうって言うんですか」
先輩が持って来た話がまともだったことは、いまだかつて一度もない。俺の心配をよそに、タリオは眼を輝かせて先輩に詰め寄る。さりげなく両手を、体の前でわきわきさせているところが、ポイントが高い。
「なに、秘密? 事件? ひょっとして、スクープ?」
「タリオ、新聞社には戻らないんじゃなかったのか」
クギを刺すつもりもあって、皮肉交じりにつぶやくが、
「それはそれ、これはこれ、よ」
と、そっけなく返されてしまう。そんなタリオににっこりと|ただし、この人のにっこりは後が怖いのだが|ほほ笑むと、先輩はぴっと人差し指を顔の前に立てて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ドイツ軍の秘密兵器を、破壊します」
ああー、聞くんじゃなかった。顔に手を当てると、うなだれる。考えつく限り、最悪の、そして最も難しい任務だった。
「どうせ、いやだと言ってもつれて行くんでしょう。さっさと行きましょうよ、先輩」
半ばやけくそぎみに言い放つと、タリオは妙にうれしそうな顔でこちらを見ている。まさか、ついて来るつもりじゃないんだろうな。正直言って、彼女の身を守りきる自信は、全くなかった。そんな気持ちを知ってか知らずか、先輩は懐から剣呑なものを取り出した。
「はい、タリオ。これを持っていてください」
そう言って差し出したのは、二個の手榴弾だった。
「この手榴弾は護身用ですよ。最悪の場合、それで活路を開いてください」
言いながら、もう一度懐に手を入れる。
「活路って、二人であたしのこと守ってくれるんじゃないの?」
小首をかしげるタリオ。先輩はそれには答えず、続けて懐をガサガサとまさぐる。
「それはそうなんですが……ちょっと右手を出してください」
「ふむ」
先輩の言葉に、つられて手を出すタリオ。
「はい」
こぎみよい音を立てて、タリオの右手に手錠がかかる。そのまま空いた方の輪を、傍らの木の枝にかけてしまう。一瞬の早業だった。
「え、ちょ、ちょっと。これ、どういうつもりよ」
「民間人を危険な目に遭わせるわけにはいきませんからね。あなたは特に、ほおっておくと何をやりだすかわかりませんから。僕たちが戻ってくるまで、ここでおとなしくしていてください」
あくまでにこやかに、淡々と話を続ける先輩。一方のタリオはすごい表情でにらんでる。そういえば、以前もこんな場面があったような気がする。
「ほら、ゲルちゃんからも何か言ってあげてください」
言い残すと、さっさと自分はトラックの運転席に姿を消してしまう。
「必ず、帰ってくるから」
そう一言だけ告げると、俺もタリオに背を向ける。
「待って、ねえ、待ってよ。待ってってばぁ」
タリオは手錠を鳴らして暴れているが、繋がれた枝はびくともしない。
「待ってよー、いつもあたしだけおいてけぼりにして。もぉ、ばかぁー!」
タリオの叫びを背に助手席に飛び乗る。待ち兼ねたように、車のエンジンがかかる。
「前回足かせに鉄球をつないだら、引きずって追いかけてきましたからね」
正面を見ながら、先輩。
「今朝、あの日の夢を見ましたよ」
街へと出掛けるきっかけとなった、今朝の出来事を思い出す。
「そう、ですか」
一瞬複雑な表情を見せて、またいつもの少しにやけたような表情に戻ると、先輩にしては冷静かつ真面目な口調で、任務の内容を語り始めた。
「この先にドイツ軍の新しい駐屯地ができたのは」
「知っています」
「うん。そこで夜間に新兵器のテストが行われているらしいんですよ。いくつかの証言が上がっているので、確定事項だと思います。今回の任務は、それの奪取、及び破壊です」
確認するように俺の方にちらりと目をやる。俺は小さくうなずいて、話をうながす。
「倉庫の位置はあらかじめ確認してありますので、これで現物の前まで乗り付けます。警備態勢もあまり厳しくないようなので、これは楽でしょう」
警備がゆるい、という言葉に罠では、という不信感がつのる。
「で、秘密兵器を奪取。使えるようでしたら持ち出して破壊。無理でしたら、その場で自爆、ということになります。あ、武器は現地調達ですから、お忘れなく」
「現地調達って、あからさまに罠だと分かっているところに、丸腰で忍び込めって言うんですかそれに秘密兵器って、一体」
「戦闘が目的ではありませんからね。無益な殺生はしたくありません。それに、物が動くようでしたら、十分以上の戦力になるはずですよ。それから、罠の危険性も考えて、僕たち二人で行くんです。まだ、ほかの皆さんのことは知られたくありませんから。秘密兵器については、文字通り、秘密です」
先輩の言葉に、大きくかぶりを振る。そうだった、俺たちは守りたいものを守るために、戦っていたんだ。忘れてはいないが、あまりに無謀な計画を聞かされると、文句の一つも言いたくなる。護身? 先輩が大丈夫というのなら、多分死ぬことだけはないのだろう。窓の外に視線を移すと、サイドミラーには、いかにも楽しそうな俺の顔が映っていた。結局のところ、自分が一番、自分のことが分かっていないのだろうか。
「ま、いつものことですから、慣れてますけどね。先輩の無茶と、秘密主義には」
「そういうことです。では、行きますよ」
話をしているうちに、車は駐屯地の入り口へと差しかかっていた。エンジン音が大きくなり、車は加速を開始する。
「止まれ! そこの車! 止まらんと撃つぞ」
警告の声と共に銃声が響き渡る。と同時に、車体に跳弾の音が響く。道一杯に広がるバリケード、まばらに散る衛兵。そんな全てがフロントガラスに大きく映り、後方へと流れて行く。銃弾の音が絶え間無く続くのは、駐屯地内部からの迎撃も重なっているからだ。
「少々の攻撃ではびくともしませんよ。何といっても、カーニッツ鋼を使っていますからね」
「カーニッツ鋼って」
硅緑戦争で特殊な用途に用いられた合金である。まだそんなものが残っていたとは。たしか、全て廃棄されたはずだが。
「あるところには、色々と残っていますからね。ジャガイモの取引もたまには役に立つでしょう」
ジャガイモを育てる、そう言って、先輩は村を離れた。まさか、怪しい商品の流通にまで手を出していたとは、いかにも先輩らしいと言ってしまえばそれまでなのだが。
「そういえば、足回りの外側にも装甲してありましたね。内側にもやっぱり装甲が?」
「いや、内側には弾がいかないだろうって、カバーしていないんだけど」
先輩の言葉に重なるようにして、パンと、タイヤのバーストする音が車内に届く……。
「先輩」
「やっぱり、手抜きするとだめみたいですねえ」
気楽な口調で反省らしきものをしているが、両腕は車のコントロールを取り戻そうと、引っ切りなしに動いている。大きく蛇行するトラック。
「もう少し、もう少しなんですけどね」
正面に見える倉庫、あれが目的地らしいのだが、なかなか車は真っすぐに進まない。
パパン グワシャ グゥワラ グゥワラ
派手な音を立てて二つ目のタイヤがバーストして、車は横転を始めた。俺も先輩も、車から振り落とされまいと、必死にコンソールにしがみつく。
ドゥガヴァシャ
転がり続ける車を止めたのは、目的の倉庫の扉をぶち破った衝撃だった。
「ははは、着いちゃいましたよ。なんとかなるもんですねー」
やっぱりお気楽な口調で、先輩がおどけて見せる。ところが、俺の耳にはその声は届いていなかった。目の前の二つの機体、本来あってはならないはずの物だったからだ。
「イェーガー、エカテリーナが、なんでこんなところに」
パンツァーカンプイェーガー。全高五メートルの鋼の人形。硅緑戦争時、フェルネラントから魔力の供給を受けて動く機体だったが、戦争終了間際にあそこが消滅して以来、動くはずのないものだ。先のカーニッツ鋼はこれの装甲用に開発された合金で、機体同様、全て破棄されたはずだったのだ。
「魔力に頼らない動力源の開発、それがここでの実験だったようです」
「で、その実験は成功した。が、逆にイェーガー稼働の目撃証言が出て、俺たちがここにいる、そんなところですか」
うなずく先輩を見やってから、再びイェーガーに目を移す。試験機のためか、本来の色とは違う漆黒に塗り替えられている。どちらも背嚢が外されて、見慣れない機械を背負っているが、一機は標準型、もう一機は右腕に接近戦用の巨大な衝角を取り付けた改造機だ。あの機械は、魔力の代用の動力供給装置だろう。さらに視線を下に落とすと、
「先輩、あれ!」
「ああ。物騒なものを取り付けているな」
改造機の脚部には、やはり巨大な、ジェットブースターが取り付けられていた。弾道軌道を使って、敵陣へと直接奇襲をかける名目で開発されたそれは、配備が終了した後に、目的通りに使用すれば中の人間がGで生きちゃいないことが公開され、役に立たない装備ワースト1に輝いたという代物である。うまく使いこなせば、超高速のホバー移動も可能らしいが、戦時中、それをやってのけた人形遣いを、俺は見たことがない。さらに、ブースター用の液体燃料を脚部に併設しているため、脚部を破損すると誘爆して大惨事になるという特典まで付いている。もっとも、俺の機体にも装備していたのだが……。
「僕が標準機のほうですね」
「あ、先輩ずるい!」
言うが早いか、先輩は一目散に機体へと駆けて行く。
「改造機は、ゲルちゃんの方が慣れているでしょう」
捨てぜりふを残すと、操縦席の扉を閉める。仕方ない、俺はもう一機に乗るか。これを使わない、という選択肢は残っていない。イェーガーがある以上、この世には残しておけないし、また、その関連資料は消えてなくなってもらう必要がある。ドイツ軍がどこまで研究を進めているのか知らないが、とりあえず、この駐屯地は破壊しておく必要がありそうだ。それならば、これ以上強力な兵器は外にはない。ただし、使いこなせれば、の話だが。
シートに着くと、昔の手順道理にセッティングを始める。背部で耳慣れない駆動音が聞こえるが、これは外部の供給装置だろう。罠の可能性はあまり考えていなかった。素人に扱えるものではないし、ケルンテンの人形遣いは、書類上は全員死亡したことになっているからだ。
「ん?」
足に何かが当たる感触がして、足元をのぞき込む。布切れに包まれた何かがある。つまみあげてみると、香りのなくなった紅茶の葉が一掴み。
「冗談だろ、おい。これ、俺の機体じゃないか」
改造された部位、操縦席に持ち込まれた紅茶の葉……シートに座ったときに、妙にしっくりくると思っていたが、本当にグレーテルだったとは。今日は一体、なんて日だ!
「ゲルちゃん、悪いけど先に出てもらえるかな。どうも調子が悪いんだ」
先輩から通信が入る。周波数はもちろん、ケルンテンの軍用のものだ。
「了解。先に出ます。ところで先輩、知ってたんですか?」
「? 何を」
「いいえ、何でもありません。あまり遅れると、獲物がなくなりますよ」
横転したトラックをの上を踏み付けて外に出る。これに乗っていれば歩兵の攻撃は防げるはずだが、
「やっぱり、罠か」
倉庫を出た俺を待ち受けていたのは、グレーに塗り込まれた6体の、やはりエカテリーナだった。
『そこの機体、停まれ。素人が動かせただけでも大したものだが、ここまでだ。速やかに機体を降りろ。才能があるようなら、今回の件には目をつぶって、軍部に取り立ててやってもいいぞ』
隊長機なのだろう。先頭に立つ機体の外部スピーカーから、ひどいダミ声が流れてくる。ざっと見回せば、相手は全て標準型。武装は手に持った斧、あるいは鉄パイプである。飛び道具がないのが唯一の救いだが、この数の差は……冗談だろ、ふらついている機体もあるじゃないか。戦後組か? そっちの方が素人同然じゃないか。そうとわかれば、奇襲あるのみ。
「訓練と実戦の違いを」
手近の一機との間合いを、一足飛びに詰める。
「思い知らせてやるぜ!」
接近と同時に、右腕の衝角を頭部に突き立てる。貫通した衝角を引き抜く動作に併せて、相手を蹴り倒し踏み付ける。
ボフッ
ペダルを通して軽い衝撃が伝わり、足元の機体が小さな爆発音とともに燃え上がる。背部の供給装置が爆発したのだろう、案外もろかったな。おっと、感想を述べている場合じゃない。仕事だ、仕事。
俺の突然の行動に浮足立ったのか、目茶目茶な動きを見せている機体までいる。すぐ右手の機体が上半身をぐるぐる回しているのは、焦ってペダルを踏み間違えているからだろう。チャンスだ。回っている背中に目がけて、タイミングを合わせて右腕をたたき込む。ぶつかると同時に上半身を旋回させて、攻撃の威力を増してやる。ねらい違わず供給装置に食い込んだ衝角が、先回の反動で、相手の機体を押し倒す。崩れ落ちると同時に炎上する機体。
さらに背後から迫る機体には、右の肘を打ち込むと半歩踏み込んで旋回、相手の踏み込んだ足に足払いを掛けると、倒れる機体の背中を蹴り上げる。
「これで、半分」
残りの三機へとゆっくりと機体を向ける。その中には、先程のダミ声隊長機も入っている。
『ば、化け物だ!』
使い古された捨てぜりふとともに、機体を反転して逃げ出そうとする。おいおい、足元がふらついているぞ。ま、逃がすつもりは元からないが。イェーガーの破壊が俺たちの任務なんだ。こんなものは、人間が玩具にできるものじゃない。
ドゥキューン
逃げる相手を追おうと、一歩踏み出したとき、一発の銃声が戦場にこだました。解き放たれた銃弾は、逃げるイェーガーの背部に吸い込まれるように命中する。もんどり打って倒れる機体。御定まりのように、炎上を始める。
「僕の獲物も、残してほしいな。ゲルちゃん」
振り返ると、口径四十ミリの巨大ライフルを構えた先輩の機体が、倉庫の入り口をくぐるところだった。
「先輩、そんなものどこから持ち出して来たんですか」
「あ、こんなこともあろうかと、あらかじめ用意していたんだ」
あっさりと答える先輩。そういえば、トラックの荷台にあった異様に大きな木箱、あの中身がこれだったに違いない。こんあもの、どこから仕入れて来るのだか。
「ジャガイモの取引で、手に入れてきたのですよ」
俺の内心の疑問を知ってか知らずか、先輩が通信をよこす。
「はい、上がり」
立て続けに二連射させると、先に逃げた二体のイェーガーが炎に包まれる。あまりにもあっけない最後だった。ま、俺たちと比較する方が間違っているのだが。何と言っても俺たちは、あの戦争を唯一生き残った部隊の、一員なのだから。
「ゲルちゃん、ちょっとこれ持ってて」
そう言うと、ライフルを放ってよこす。あわてて両手で受け止める俺。衝角がこういうときには邪魔になる。射撃はさらに苦手だ。
「後始末をしなくては、いけませんからね」
倒れたトラックのところに戻ると、木箱の中から戦車砲弾を一掴み取り出し、ポンポンと駐屯地内の建築物、たいていはバラック小屋だが、目がけて次々と投げ込んでゆく。着弾と同時に起こる爆発炎上。駐屯地内はさながら地獄絵図と化していた。反撃を試みるものなど誰ひとりとしておらず、ただ逃げ惑うのみ。いや、一台の戦車が、無謀にもこちらへと向かって来る。
「やります」
一声残すとライフルを足元に転がして、戦車へと走りだす。砲塔は照準を合わせようと回っているが、こちらも蛇行して狙いを付けさせない。
「遅い!」
最後の数歩の距離で戦車の横に回り込むと、衝角を砲身へと振り下ろす。振り抜いたその刃でキャタピラを切断すると、砲塔の可動部分へと衝角を突き立てる。この一撃で、戦車は完全に沈黙した。
「さて、仕上げといきましょうか」
駐屯地は一面火の海。建築物が全て壊れている以上、イェーガーも打ち止めだろう。後は俺たちの機体を爆破して、任務完了ということになる。
ゴゴゴゴゴッ キュイーッ キキキキキ ゴウ
唐突に、巨大トレーラーが炎を突っ切って駆け抜けると、倉庫の残骸にぶつかって横転する。と、同時に荷台から一つの巨大な影が現れた。
「きょ、巨大イェーガー?」
どちらともなく上げた声は、しかし、的確にその物体を表現していた。エカテリーナの三倍はあるそれは、ぬっと右手を突き出すと、一方的にまくし立ててきた。
『よくもよくも、わたくしの秘密基地をめちゃんめちゃんにしてくれたわね。こううなったら腹いせに、途中で拾って来たこの女を、あんたたちの目の前でひんねりつぶしてくれるわよ!』
そういう右手には、確かに何かが握られ……あれは、タリオーニじゃないか! じたばたともがきながら何か言っているようだが、こちらまでその声は届かない。
「先輩?」
「うーん、途中で残して来たのが、裏目に出たようですね。ま、タリオのことですから、心配は要らないと思いますけど。それよりも、あの機体どう見ます?」
タリオのことだから、と言わると妙に納得してしまう。彼女のことはとりあえず頭の隅に押しやった。
「新規の供給装置と同じで、普通の鋼板で組み上げたんじゃないでしょうか。巨大に設計したのではなくて、強度の関係であの大きさになったのでは」
「そう考えるのが、妥当ですね」
先輩はそう言って通信を切ると、外部スピーカーを使ってどなり返した。
『えー、巨大イェーガーの操縦者に告げる。あなたが今掴んでいるのは、我々よりも危険な物体です。その機体だけでも持ち帰りたいのなら、速やかにそれを手放しなさい』
先輩、どさくさにまぎれて、かなりひどいことを言っているような気がする。
『言うことが聞けないようですね。タリオ、あれを手首の関節に入れてください。入れたらすぐに、身を縮めて』
一瞬、閃光が走ると、タリオーニの体ごと手首がもげ落ちる。
『なに、なんなのよ、これは』
動揺した声が伝わってくる。が、そのお姉言葉はなんとかしてほしいものだ。しかし、手榴弾の爆発で手首がもげる程度とは、なんて強度だ。
「あれを壊すのは、一苦労しそうですね。せめて強力な爆弾でもあればいいのですが」
先輩からの通信も、同じ内容を伝えてくる。強力な爆薬、強力な……。
「そうだ、これしかない!」
俺の声と、通信の先輩の声が同時に重なる。
「先輩、援護してください!」
一声掛けると、俺は敵に向かって突進する。先輩は、ライフルを構えて側方に回り込んでゆく。
チュイン チュイン
ライフルの弾丸を浴びて、敵は先輩の方へと機体を向けてゆく。うまい、かかった。さあ、今そのでくの坊に、引導を渡してやるからな。
関節可動のリミッターを解除しスロットルを全開、ペダルを思いっきり蹴っ飛ばす。
「くらえっ!」
相手の足に自分の足を思いっきりぶつける。衝撃で脚部が壊れ、ジャンプユニットの燃料が漏れる。
「点火!」
同時にユニットのスイッチを入れる。漏れた燃料に引火し、轟音と供に相手の脚部を爆砕する。
『な、なんと』
「まだ、まだ!」
残った左足で飛び上がり、相手の腰にしがみつく。さらにここで、残ったジェットに点火。同時に俺は操縦席から脱出する。
轟音を上げ、炎に包まれていく巨大イェーガー。いったい何のために出て来たんだ、こいつは。
「取り敢えず、終わりましたね」
気が付くと、先輩が横に立っていた。機体は、同様に炎の中に沈めたようだ。
「あれは、神の力で作られたものなんです。人間が手にしては、いけないものなんですよ」
感慨深げにつぶやく先輩。この点に関しては、俺も先輩と同意見だ。
ガンガンガン
「巨大イェーガーの脅威は去りました」
「いや、脅威ってほどでもなかったんですけど」
何か動作をする前に、片付けてしまっては、脅威になりようもない。
『こーらーっ、ここから出しなさいよ!』
「ですが、いつまた第二、第三のイェーガーが現れるかわかりません」
「ま、その意見には、同感ですが……先輩」
さっきから聞こえるその音に、先輩も気づいているはずなのだが。
『ヘンデル! パウル! 早くあたしを助けなさいよ!』
「タリオーニ、あなたの貴い犠牲は決して忘れません」
「いえ、まだ死んではいないと思うんですけど」
ほら、やっぱり忘れようとしている。遠い目をしても無駄だ、冷や汗が一筋、流れている。
『こーらーっ! 出さないとひどいわよ』
「先輩、意図的に忘れようとしているでしょう」
「やっぱり、助けないとだめですかね」
俺と先輩は二人で顔を見合わせ、そしてつぶやいた。
「イェーガー、残しておいたらよかった」
タリオーニは巨大な手首の下にうずもれている。人の手で助け出すのは、一苦労だった。
「先輩、行ってしまうんですか」
タリオーニを引っ張り出した俺たちは、再び街へと戻って来ていた。
「うん、とりあえず、僕だけで調査を進めようと思うんですよ。村の皆さんが出て来るには、まだ少し早いと思うので」
「分かりました。その代わり、必ず、また会いましょう。この街で」
「ええ、この街で。ゲルちゃんも、タリオーニと仲良く」
そう言うと、先輩はトラックを走らせた。見えなくなるまで、取り敢えず見送る。
「で、タリオ。君はこれからどうするんだ」
俺は、背後のタリオーニを振り返る。俺の瞳をじっと見つめる彼女。
「あの新聞社に戻る気はしないし、これからどうしようかな」
俺の言葉を期待するかのように、上目づかいでこちらを見る。さりげなく、つま先で地面を蹴っていたりする。
「俺たちの村で、村の新聞を作ろうという話が、前々から出ているんだが、人手が足りなくて。どうする?」
答えは、聞くまでもなかった。いや、問うまでもなかったと言うべきか。
「もう、ヘンデルの、バカ」
俺の胸に飛び込む彼女の瞳は、涙で潤んでいた。
「絶対、二度と放さないんだから」
Ende
「……一九四六年 五月、と」
原稿の最後に日付を書き込むと、カバンの中にしまい込んだ。これを持って行けば、しばらくは生活に困らないだろう。椅子に深く腰掛けて軽く伸びをすると、遠慮がちにノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
「お茶を、入れたわよ。原稿、仕上がったの?」
落ち着いた、そして柔らかな女性の声が問いかける。書斎に入って来た人物を振り返らずに、僕は答える。
「ええ、出来上がりました。今日、出版社に持って行くつもりです」
「そう」
短い返事に続く言葉を待つが、後には沈黙しか残らない。昔は彼女もこれほど静かではなかったのだが。ともに過ごしたこの一年、昔のような感情の激しさを、表に出したことは一度もない。やはり、あのことが原因なのだろう。しばらく考えてから、思い切って声をかける。
「あなたも、一緒に来ませんか。夢を、見たんです。あのころの夢を。もしかしたら、彼に会えるかも知れません」
さらに沈黙の後、おずおずとたずね返してくる。
「ヘンデル、に? でもあの人は、パウル、あなたをかばって……」
「彼はきっと生きています。死体が確認された訳じゃありませんから。あなただってそう言っていたじゃないですか、タリオーニ」
だから、僕も、君には手を出していないんだ。後に続く言葉はそっと飲み込む。ゲルデラーが彼女に惚れた理由が、今ではよくわかる。
「きっと、彼に会える。そんな予感がするんです。街へ、出掛けましょう。約束の、あの街へ」
編集後記
平成8年度も、国語学特論Uでは、小説の創作を夏期休暇中の課題とした。これで、5年間続けていることになる。書きっぱなしでは仕方がないので、回覧し、互いに批評しあい、推敲の助けにしている。そのようにできあがっているのが、小誌である。
受講者がワードプロセッサで打ち込んだ原稿を、野浪がパソコン上で編集し、版下を作った。演習室に集まって、リソグラフで印刷し、大型ホッチキスと両面テープを使って製本した。
平成8年度は、多数の4回生が参加した。その結果、通常は18編100頁以内に納まるところが、平成8年度号は27編160頁を越える大部の作品集となった。
作品の質は、不思議なことに年々高くなってきているように思われるが、いかがであろうか。そして、本年度は作品数が多いので、多様性も出てきているように思われる。つまり、楽しめるのである。
読後の感想を執筆者に伝えていただけるならば、幸甚これに勝るものはない。
(野浪 記)
ホームページ編集後記
前年度までは、B5版100頁ほどの冊子を100部出版し、執筆者と国語国文学教室の教員に配布して、終了にしていたが、今年度は、ホームページを作成できる環境を得たので、このように公開するのである。(どれくらいの読者が見込めるのだろうか?)