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大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

1992年度号
劇場シアター落合真記
「嘘」匿名希望
「眠れない」小田明日美
「ぼくのこと」山中教正
「姉妹」森宗直子
「口唇期症候群」匿名希望
「桜月の夜」沢田美穂
「ドライブ」高松靖二
 

劇場シアター

落合 真記

プロローグ

 その街のはずれには、小さなふるぼけた劇場があります。赤い煉瓦の壁は、誰かが想いを込めて書いた落書きさえも煤けて、まるで夜の霧に消え入ってしまうかのようです。扉もがたがたで、錆びた蝶番は、扉を開ける度に音をたてます。客席の椅子も、軋んでいます。もちろん多くの人は、こんな小さな劇場には見向きもしません。けれども、引き寄せられるようにして、今夜も劇場を訪れる人がいるのです。
 あなたも来たのですか?
 それは、あなたの心が誰かを呼んでいるからなのです。劇場があなたを呼んだからなのです。
 さあ、お入りなさい。もうすぐ開演です。

第一幕  パントマイム

 そこは、ちょっとした広間だった。広間には、いくつかの丸テーブルがあり、正面には小さなステージがあった。目の前のテーブルには、グラスがのっている。そのテーブルの前に、彼は座っていた。なぜこんなところに入ってしまったんだろう。彼は家に帰るべく、暗い道を歩いていたはずだった。どうやってここに入ったのか、もう一度彼は思い出そうとしたが、どうしてもわからなかった。まあ、いい。どうせ、帰ったとて楽しいことが待っているわけでもない。すぐ寝るだけだ。何がはじまるのかは知らないが、見ていこう。彼はグラスを手に、ゆったりと椅子に背中をあずけた。
 ほかにも客が十五、六人、席に着いていた。客は皆、なぜだかぼんやりと疲れた顔をしていて、少し哀しげだった。人生に疲れた男たち。そんな形容が頭に浮かんできて、彼は、自分も同じじゃないか、と少しおかしくなった。毎日黙々と同じ仕事をして、仕事が終われば家へ帰って寝るだけ。妻も息子も彼に話掛けることなど殆どない。自分が話そうとしないからだ、ということが、彼にはわかっていた。
 開演のベルが鳴った。
 パントマイマーが出てきて、ぴょこんとお辞儀をした。ピエロのようなメイクをしている。男か女か、若いのか年を取っているのかもわからない、不思議なパントマイマーだ。彼は踊りはじめた。

 目の前には草原が広がっていた。太陽は頭上で輝き、風は草原の草を撫でていく。よく知っている場所だ。彼が幼い頃遊んだ草原だ。草原には二人の少年が立っていた。少年のひとりは、幼き日の彼の姿をしていた。少年たちは走りだした。草原の向こうには森があり、森を抜けると海が見えることを、少年は知っていた。森を抜けると、彼の記憶どおり、海が目の前にひろがった。水面は陽の光が反射して、キラキラと輝いている。潮の香り、波の音がした。彼は昔、ここで親友と陽が暮れるまで楽しく過ごしたものだった。
 彼は、海をじっと見つめていた。海はどこまでも続いていて、向こう岸はここからは見えなかった。しかし、海の向こうにも国はあるということを、彼は教えられていた。彼はまだ見ぬ異国に想いを馳せた。
「ぼくは、大きくなったら船乗りになるよ。そして、世界中を廻るんだ」
彼は親友に言った。親友は答えた。
「そうか。ならぼくは、飛行機の操縦士になる。飛行機の方が速いぞ」
 次の瞬間、彼は船に乗って大海原に乗り出していた。見渡す限り、空と海の色のほかには、何も見えない。ここは海の真ん中だ。彼は船長になって、水夫たちに指示を出している。彼が毎夜見た、楽しい夢だ。海には海賊がいる。嵐に遭うこともある。冒険の旅だ。夢の中で彼は、襲ってきた海賊をやっつけ、荒れ狂う嵐も切り抜けていった。もうすぐ港だ。頭上から、彼を呼ぶ声がした。見上げると、親友が飛行機から手を振っていた。

 いつのまにか、パントマイムは終わっていた。夢を見ていたのだろうか。いや、彼はしっかり目を開けて、パントマイムに見入っていたのだった。ずっと思い出すことのなかった昔の事を、突然彼は思い出していた。パントマイムが演じていたのは、確かに彼自身だった。彼にはそう見えたのだ。しかし、自分でさえ忘れていたことを、知っている者がいるはずはない。パントマイマーが少年を演じたのを、自分の思い出と重ねていたのだろう。彼はそう結論した。今まですっかり忘れていたものを、と首をかしげながら。
 他の客を見ると、彼らも同じように、不思議そうな顔をしていた。疲れた様子は開演前と変わらなかったが、少しうれしそうだった。皆席を立ち始めていた。彼はそこではじめて、帰らねばならぬことを思い出した。突然彼は、早く帰ろう、と思った。彼は劇場を出た。

 ショーが終わり、パントマイマーは鏡の前に座って、メイクを落としていた。彼はため息をついた。彼は、自分が何者なのか知らない。いつからこの劇場でパントマイムをしているのかも忘れてしまっていた。
 パントマイマーは鏡を見た。そこには、もうひとり、パントマイマーがいた。
「ひとには、昔を見せてあげられるんだけどな」
鏡の中の自分に向かって、パントマイマーはつぶやいた。

 家路を急ぎながら、彼は、帰ったら息子に自分が子供の頃の話をしてやろう、と思った。
 彼がポケットに手を入れると、銀貨が一枚減っていた。

第二幕  マジシャン

 手品師は、ステージの上からいつもひとりの婦人を見ていた。彼女はこの劇場の常連客で、いつもひとりで来ていた。綺麗なドレスを着て、優しい微笑みを目元に浮かべ、他の客と歓談している。その美しさ、上品な身のこなしは、いつも注目の的だった。皆が美しい上流婦人と話をしたがった。しかし、誰も彼女がどこから来ているのか、どのような身分なのか知らなかった。彼女は決して自分の話をしなかった。
 手品師だけは、彼女が実は娼婦であることを知っていた。高級娼婦でもない彼女は、精一杯化けて、ここで貴婦人を演じるのが唯一の楽しみなのだった。手品師は、ステージで鳩を出したり、素晴らしいカードさばきを見せたりしながら、神経はいつも彼女に集中していた。ひとつ手品が終わるたびに浴びる大きな拍手の中で、彼女がうれしそうに手を叩いているのを見て、シルクハットをかぶりなおすふりをして、少しうつむくのだった。
 その夜も、彼女は来ていた。隣に座った紳士と語らいながら、開演を待っていた。彼女が来ていることを確認しようと、そっと客席を覗いた手品師には、二人が何を話しているのか聞こえなかった。
 彼女は薄いグリーンのドレスを身に着け、翡翠のついた櫛で亜麻色の髪を飾っていた。隣の紳士は、彼女のことが随分と気に入ったらしく、しきりに彼女の美しさを讃めていた。彼は、彼女のために飲み物をオーダーした。紳士は、本当の上流階級らしく、身なりもきちんとしていて、また、美男だった。そして、精神的にも貴族紳士だった。彼女は、紳士が自分を淑女としてあつかってくれるのがうれしかった。彼は自分の話をしだした。
 「私の邸は、丘のほうにあるんです。いえ、貴族、というんじゃありませんよ。まあ、私はまだ遊んで暮らしてますがね。両親がそろそろ結婚を、と言うんですが、今の暮らしも、結婚も、あまりおもしろいとは思えないのです。でも、あなたと話していると、とても素晴らしい時間が過ごせます。いえ、お世辞なんかじゃありませんよ、本当です。あなたを邸に招待しましょう。一度来てください。是非。ところで、あなたはどこにお住まいなんですか? ご両親は?」
 彼女は今まで、自分の正体を明かしたことは、もちろんなかった。しかし、自分の身分を偽って言ったこともなかった。紳士に讃められ、彼女はすっかり舞い上がってしまっていた。
「わたくし、森のほうに住んでいますの。両親も一緒ですわ」
「そりゃあすごい。ではあなたは貴族の出なんですね」
 彼女は、森のほう、というのが貴族の住む区域だということさえ知らなかった。しかし、紳士はもうすっかりその気で、ますます彼女に好意を持ったようだった。
「そうだ、今度舞踏会を開くんです。是非いらしてください。来てくれますね?」
「え、ええ」
 彼女は、しまった、と思いながらも、舞踏会でこの紳士と踊る自分を思い浮かべてうっとりした。その時である。
「あの女は娼婦だ」
と、誰かが言った。まわりの者は皆、彼女の方を振り返った。彼女のまわりでざわめきが起き、それが客席中に広がった。彼女はこの劇場の常連で、上流の貴婦人として、皆が彼女を知っていた。貴婦人への尊敬、憧れのまなざしは、一転して軽蔑のまなざしへと変わった。彼女は真っ青になり、体を硬直させた。紳士は、信じられない、という顔をした。彼はもう、彼女に話しかけてこなかった。からかわれたと思ったらしく、怒っているようだった。彼女は、貴族を名乗り、有頂天になっていた自分を、皆が笑っているように思えた。舞踏会や、紳士とのロマンスを一瞬でも夢見た自分が恥ずかしかった。
 開演のベルが鳴った。
 手品師がステージに登場した。ざわめきは静まったが、彼女をとりまく冷たい空気は変わらなかった。彼女は、もう、真っ赤になってうつむいているしかなかった。今にも泣きだしそうな様子だった。手品師は何が起こったのか理解した。しかし、手品師はステージの上で手品を続けるしかなかった。他の客は、手品を見てはいたが、絶えず彼女を意識していた。
「みなさん!」
耐えきれず、遂に彼女が席を立とうとしたそのとき、手品師が大声を出した。それは、この小さな劇場に不似合いなほど大きな声だった。
「次に行ないますのは、本日一番のマジックです。さあ、よくご覧になっていてください」
手品師はマントをひるがえし、勢いよく手をひろげた。ゴーッ、と窓はないはずの場内に風が起こった。あまりの風のはげしさに、彼女は目をつむって、テーブルに突っ伏した。
 気が付くと、彼女は両腕いっぱいに真っ赤な薔薇を抱えて立っていた。彼女はポカンとしてまわりを見回した。隣の紳士も、他の客も、手品師の大技に大喜びだった。手品師は客に一礼をし、ステージの上から彼女に微笑みかけた。観客は、手品師に、そして薔薇を抱えた彼女に大きな拍手を送った。客は皆、彼女に優しい視線をなげかけた。先程、彼女の正体が明らかになってしまったことなど忘れてしまったようだった。いや、実際憶えていなかったのである。隣から、紳士がそっと合図を送った。彼に促され、あわてて彼女は他の客にむかってにっこりと微笑み、軽く会釈し、席に着いた。
 手品師は、彼女のために、彼にできる唯一の種のないマジックを使ったのである。嘘は薔薇に変わり、彼女は薔薇に埋めつくされていた。

 客席の一番後ろには、この劇場のオーナーがそっと座っていました。彼は小さなためいきをつきました。彼はもうずっと昔から、この劇場でショーを上演してきました。劇場に来る人々に、忘れられた思い出や、一睡の夢を見せてきました。けれども、それが、彼らにとってよいことなのか、悪いことなのか、今でもオーナーにはわかりません。もちろん、こんなことで彼らが幸せになれるとも思っていません。それでもオーナーは、この劇場を開き続けているのです。

第三幕  パペット

 老人は、劇場の前で立ち止まった。なぜか足はそこから動こうとしない。いつもなら、こんな劇場など素通りしていくのに、いや、劇場があることさえ、今夜まで気付かなかったのに。何故こんなに劇場が気になるのだろう。この劇場に何があるというのだろう。老人は、吸い込まれるように劇場に入っていった。
 老人が席に着くと、まるで、それを待っていたかのように、開演のベルが鳴った。
 今夜最後のショーは、人形劇だった。子供ほどの大きさの人形が、ステージで踊っている。美しい娘の人形だった。老人は目を丸くした。人形が、彼の妻に似ていたのだ。人形は笑っていた。客席の一番前で、老人は食い入るように人形を見つめた。

 ある貧しい村に、美しい娘がいた。娘は美しいだけでなく、気立てもよく、村中の男たちの憧れの的だった。彼が彼女にプロポーズしたとき、彼自身でさえ、それが受け入れられるとは思っていなかった。しかしその娘は彼の妻になった。彼らは二人で暮らし始めたが、暮らしは裕かではなかった。来る日も来る日も二人は働き続けたが、生活は楽にはならなかった。村は、もう何年も飢饉が続いていた。
 どんなに辛くとも、彼女は幸せそうだった。彼女はよく歌を歌った。しかし、彼はそんなに明るくなれなかった。彼は、妻に楽をさせてやれないのが辛かった。
 とうとう彼は村を出る決心をした。どこかでやり直そうと思った。しかし、見知らぬ土地ですぐに仕事が見つかるわけはない。そこで、彼はひとりで村を出ることにした。彼は妻に、落ち着いたら迎えにくるから待っていてくれ、と告げた。彼女は、生活が苦しくてもいい、この村で暮らしていこう、と言ったが彼は聞き入れなかった。彼はもう耐えられなかった。彼は金持ちになりたかった。彼の決心が固いと知った彼女は、今度は、自分も一緒に行く、と言い出した。彼は妻に辛い思いをさせたくなかったので、連れて行くわけにはいかなかった。彼は、必ず迎えにくるから、と何度も言い聞かせて、ひとりで旅立っていった。彼女は泣きながら、夫の姿が見えなくなるまで、ずっと彼を見送っていた。
 彼は、大きな街にやってきた。ここならきっとやっていける、と彼は期待した。しかし、その期待はすぐに打ち砕かれた。彼は休む間もなく働いたが、自分が生きていくだけで精一杯だった。彼はただ働くだけで一日を終え、妻を想う暇さえなかった。
 三年経って、彼はやっとほんの少しゆとりを持てるようになった。彼は妻を迎えに行こうかと考えた。しかし、三年も待たせて、こんな暮らしでは申し訳ない。もう少し頑張って、もっと金持ちになってから、妻を迎えに行こう。そう考えた彼は、妻を迎えに行くのはやめて、今まで以上に働いた。彼は、愛する妻にいい暮らしをさせたい一心で働いたのだった。
 それから五年、彼は遂に自分の店を持つようになった。彼は、今度こそ妻を迎えられる、と思った。そして、故郷の村に帰った。
 しかし、村に妻の姿はなかった。彼は村中を捜し回った。村人に訊ねたが、村人は彼に冷たい視線をなげかけただけだった。村人たちは、彼のことを、妻を、そして村を捨てた男、と思っているのだった。しかし、遂にひとりの村人が言った。
「彼女は死んだよ。お前さんが帰ってくるのをずっと待ちながらね」

 それから何十年もの月日が過ぎた。彼は、村に戻ることもできず、ひとりでずっと街で暮らしてきたのだった。長い年月が、彼を老人に変えた今も、彼は妻を忘れることはできなかった。そして、妻と一緒に暮らしていれば、という思いも、心から離れることはなかった。
 彼は人形をじっと見つめた。人形は、彼に笑いかけているように見えた。彼は、妻が自分に微笑みかけているような気がした。いや、そんなはずはない、と彼は頭を振った。彼女は自分を恨んでいるに違いない。皆が言ったように、私は彼女を捨てたも同然なのだ。その妻が自分に微笑んでいると思うなんて、調子のいい話だ。彼はそう、自分に言い聞かせた。
 人形は、そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、笑いながら踊り続けていた。

 ふと、人の気配を感じて、彼がふりむくと、美しい娘がいた。妻だった。若い頃そのままの姿で、優しい微笑みを顔に浮かべている。彼女は、老人に手をさしのべた。その手を取ろうとして差し出した自分の手を彼が見ると、それは皺ひとつない、たくましい手だった。彼は自分の顔に触れてみた。顔にも皺はなかった。彼は妻と暮らしていた頃の姿に戻っていた。彼は妻の名前を呼んだ。その声も、老人のしわがれ声ではなく、若者のそれだった。彼女は言った。
「ずっと待っていたのよ、愛しいあなた。やっと来てくれたのね」
 彼はぼんやりしてきた。薄れる意識の中で、彼は愛する妻の手を取った。

 いつのまにか、ステージにはもう一体の人形が登場していた。それは、若者の人形だった。若者の人形は、先程の娘の人形と、踊りだした。二体の人形は、コメディを演じていた。それは、辛いことなどないかのような、楽しそうなコメディだった。若者と娘は、本当に楽しそうに踊っていた。
 ショーが終わり、客は帰り始めていた。老人は客席の一番前で、まだ座っていた。しかし、それを気にする客はいなかった。ただ、オーナーだけが、悲しそうに、客席の一番うしろから老人を見つめていた。
 老人は眠っていた。もう二度と目を覚ますことのない、深い、深い眠りだった。老人の体は、しだいに冷たくなっていった。
 老人の悲しい思い出を、もう誰も思い出すことはないのだった。

 すべてのショーが終わりました。軋んだ扉が最後の客を送り出すと、オーナーは立ち上がって、ゆっくり奥へと消えて行きました。客席にも、ステージにも、人の姿はなくなり、明かりが落とされました。
 劇場は静かになりました。

エピローグ

 劇場の前では、だれかがサキソフォンで美しいメロディを奏でています。皆足早に通り過ぎていきますが、彼の前に置かれた缶に、コインを落としていく者もいます。夜も更けてきました。劇場のライトも消えました。今夜のショーはこれで終わりです。このつぎのショーは・・・・

FIN

「嘘」

匿名希望

 信号が変わった。
 男はクラッチを緩めながら、ゆっくりアクセルを踏んだ。
 真っ赤なプレリュードは、長い急カーブを上っていく。カーブを上り切れば、高速との合流だ。体が右に振られるほどのスピードが出ている。
 空はどんよりとしていた。
「ごめんね。突然電話なんかしちゃって。」
「いや、別に。空港までくらい送ってやるよ。」
 料金所が近付いた。
 男はアクセルに乗せた足を浮かせ、シフトダウンし、スピードを落とした。
 制服を着た男の姿が目に入ってくる。
 男は、パワーウィンドーのスイッチを一押しし、一番左のブースで車を止めた。
 無言で手渡されるチケットを受取り、チケットホルダーに収めると、男はアクセルを踏み込んだ。
 素早くギアをセカンドに入れ、レッドゾーンまで引っ張っていく。
 エンジン音が車の中にまで響いてくる。
 体は、シートに押し付けられた。
 窓の外の景色が、二人の横を流れていく。
『空港・60キロ』
 緑色の看板の表示が、大きくなったかと思うと、直ぐに見えなくなった。
 女がメーターに目をやると、針は、160キロを指していた。
「いい車だな。さすが200馬力。加速が違う。VTECだし、エンジン音もいい。」
 男はウィンカーを出し、ちらりと振り返った後、ハンドルを右に傾けた。
 追い越し車線に入ると、いとも簡単に四、五台を抜き去る。
 突然、視界が遮られた。雨が振り出したのだ。大粒の雨だった。
 男がワイパーのスイッチをいれ、ライトも点けると、さっきまで黙っていた女が口を開いた。
「ねえ、気にいってくれたのなら、申し訳ないけど、この車、暫く預かっててくれない?どうせ、私はいないんだし……。そうしてくれると助かるわ。」
女はそう言いながら、ハンドバッグから煙草を取り出した。
 見る見るうちに、アスファルトが色を変えていく。
「恋人が乗り回すんじゃないのか?」
 女はライターを探していた手を止めた。
「私は、あなたに送ってって言ったのよ……。だからいいのよ。」
「嬉しいこと言ってくれるな。さては、年下の恋人じゃあうまくいってないんだろ?」
 女は一瞬どきりとした。
「ばかね……。誰から聞いたの?あの子のこと……。」
 女はライターを擦ったが、旨くつかず、何度も擦り直した後、煙草に火を点けた。
「大学の友達がね、ほら、あの頃、お前に惚れ込んでた……、一応、俺のライバルだったわけだけど……、多分お前は知らない奴だよ。でも、お前には年下なんて似合わないと思ってたんだけどな。二十歳なんて若すぎる。荷が重すぎるさ。俺が二十歳だったら、今のおまえには近寄れそうにないもんな。」
 女は、煙草を吸いながら何も答えない。
「…で、いつ帰ってくるって。」
 男は、ちらりと後ろを見た。
「さあ……、二週間ってとこかしら?それとも、二年……。もしかして帰ってこないかもね……。」
そう言って女は肩をすくめる。
「はっきりしない奴だなあ。そんなことでおれになんか、車、預けとけば、警察の世話になってるか廃車になってるかだな。」
 女は、一瞬不思議なほどこわばった表情をしたが、男は少しも気が付かなかった。
「それにしても荷物、長旅にしては、小さいな。」
 女は、顔色を変えた。
 後部座席には、小さめのボストンバッグが一つ置いてあるだけだった。「それとも、実は、このまま空港じゃなくて、おれとドライブに行くつもりだったとか……。」
「それもいいかも……」
 女が余りあっさりと答えるので、男は拍子抜けしてしまった。
「ねえ……このまま空港を通り過ぎて、どこかへ連れてってよ。」
「おいおい、冗談だろう?そりゃあ、おれはその方が嬉しいけど、時間、ぎりぎりなんだろう?彼氏にほっとかれるぞ。」
「ばか……。さっき、あなたは、あの子が若すぎるって、あの子には荷が重すぎるって言ったわよね。その通りだった。だから……、別れたのよ……。だから私一人。あの子と一緒に行くのでもなければ、あの子は見送りにも来ない……。どこにいこうが別にどうだっていいのよ……。」
 車は、カーブに差し掛かり、大きなアールを描いた。
 直線が見えてくると、男は、徐々にアクセルを踏む。
「今度の旅行は、感傷旅行ってことか……。」
男は、女に尋ねるともなく言った。
 振り出していた雨は、激しさを増した。
 ワイパーが激しく動く。
 男は、ハンドルを両手で握り直し、メーターを見ながら少し速度を落とした。
 プレリュードを追い越していく車が、勢い良く水しぶきを上げていく。一瞬、フロントガラスがしぶきで視界を失ったが、すぐ、ワイパーの影から緑色の表示が見えてくる。
『空港・30キロ』
さっきよりはゆっくり近づいてくる。
 男は、今日の女が、迎えにいったときから、ちっとも笑わないことが気になっていた。
 気まずい雰囲気をなんとかしたい。
「ところで、どうしたの。左手。」
 男は女の左手にちらりと目をやった。
 女の手には、大袈裟なほど、包帯が巻いてあった。まるで、早く気が付いてもらいたいかのように。
「これ?……うん……」
 女は包帯を巻いた手で髪をかきあげる。男の知らない間に、女の髪は肩をはるかにこえていた。
「ちょっとね、包丁で切ったの。」
左手を見つめてそう言った。
「へえ、珍しいな、料理でもしてたのか?包丁なんて危ないからやめといたほうがいいんじゃないか。それとも、できたもののほうが危ないか。」
「まっ、あんまりね。嫌なことばっかり言う。」
 男は、女の顔を見た。
 女は、笑ってはいなかった。むしろ、強張った表情をしていた。
 男の脳裏に嫌な予感が走った。
 雨の音と、タイヤが水を巻き上げる音だけが聞こえる。
 女は、黙って煙草を消した。
 男は、以前よく、こんな風に女を乗せてドライブに行ったことを思い出していた。
 高速も、二人には慣れたものだった。
 どこに行くにも、車を使ったのだ。
 しかし、何時の間にか、男は女を裏切っていた。
 女の高飛車なところが嫌いだったわけでもなかった。むしろ、そんな女が気にいっていた。しかし、きっとどこかで疲れていたのだろう。
 女は、そのことが分かると、態度を変えた。
 女には、我慢できるはずなどなかったのだ。
 自分が傷つくのを極度に恐れ、プライドを守るために、恨み言も言わず、泣くこともせず、自分から別れを切り出した。
 男は、言い訳をすることも出来ず、二人は終わってしまったのだ。
 そうするうち、二人は大学を卒業した。
 赤の他人のまま……。
 別れてから、話すこともないまま……。
 ところが、昨夜突然、女のほうから、電話をしてきたのだ。
 三年ぶりだった。
「ねえ、明日、空港まで送ってよ。」
「いいよ。」
 相変わらず強気だった。
 女は、一体何を考えているのだろうか。
 もう、あのときのことを恨んではいないのだろうか。
 突然、ハンドルが、轍にとられ、、男は、ハンドルを握り直した。舗装が悪い。
「実はね、私、あの子を刺したの……。」
沈黙を破って、女の低い声がした。
「この怪我、その時、切っちゃったのよ。」
 女は、うつむいて、つぶやくように言った。
 刺した?
男の頭の中は、疑問で一杯になる。
 ワイパーは相変わらず激しく動いている。
 嘘だ嘘だ嘘だ。
「それで?」
真っ直ぐ前を向いたまま、やっとのことで男が口を開いた。意外にも冷静な声だった。
「あの子はどうした?」
しかし、「あの子」と言ってしまってから、男はうろたえる自分を知った。
「死んだわ……。」
女が、小さい声で言った。
「死んだの……。私が殺したの。」
自分に言い聞かせるように繰り返した。
 今度は「死んだ」という言葉が頭の中をぐるぐる回る。
「いつ?」
「昨夜」
「電話くれたときは?」
女は、ますますうつむいた。
「もう……、死んでたわ。」
 やっとの思いで、それだけ聞くと、男はまた黙ってしまった。
「死体はいまどこに?」
次にそう聞きたかったが、なぜか言葉が出なかった。
「死」という言葉を口にしてしまうのが怖かったのだ。
 ハンドルを握る手がやけに緊張している。
 女は、深くうつむいたまま左手を抱いていた。
 男は、昨夜、電話をしていたときのことを思いだし、電話口の女の横に血まみれになって横たわっている若い男のことを思った。
 そして今も、その死体が、そのまま部屋の中で横たわっている姿を思い浮かべた。
「どうして?」
「……どうしてって……、いろいろあるじゃない、それが、気が付いたらこんなことになってたのよ。どうしようもなかったのよ。」
 男は、路面を見詰めたまま、溜め息をついた。
「どうしようもなかったって……。」
 轍に水が溜まり、タイヤが水を巻き上げる。視線を上げると、ずっと向こうは、雲が切れている。
『空港・15キロ』
 雨足は少し弱まってきた。
「殺すつもりなんてなかったのよ、それは分かるでしょう。チケットだってもう前にとってあったんだし……。計画してたわけじゃないのよ。」
 女は顔を上げて、男を見た。
 男は、ドアポケットにいれてある煙草を見付け、一本取り出し、車のライターを押し込む。
「どうする?」
頭の中で考えるが、若い男の死体が邪魔をする。くわえた煙草を弄ぶのも無意識だった。
 ずいぶん長い沈黙のように感じる。
「何も聞かなかったことにするよ。」
不意に口をついて出た言葉の声の低さに、男の方が驚いた。
「俺は、初めにおまえに頼まれたように空港まで送る……。今のところ、うまく逃げてるわけなんだし……、大丈夫だろう。」
 ライターが上がるのも、ずいぶんとゆっくりに感じる。
「今日だけ付き合ってよ。そしたら自首するから。」
 鈍い音がして、ライターが上がる。
 男は、素早くそれを抜き、煙草に火を点けた。
「ともかく空港まで送るよ……。」
 男はそれ以上どういったらいいのか分からないといった顔をしていた。
「一緒にいてくれないのね。」
女は淋しそうに男を見つめた。
 小刻みに吸う煙草で、車の中は、煙たかったが、男は、窓を開けようともしなかった。「ごめんなさい。」
女は、一言そういうと、包帯を解き始めた。男は、前を向いたままだった。
「嘘よ。いま言ったこと……。全部、嘘なの。」
 男は緊張しながら、女の手に視線を移した。ぴんと伸ばして、掌と、手の甲を見せる。
 包帯の下の女の手は、確かに何も怪我などしていなかった。
 真っ白な手だった。
「ねっ、何も怪我なんてしていないでしょう。」
おどけた声で女が言う。
「本当か?」
煙草をくわえたまま、疑い深く尋ねた声は、まだ、低い声だった。
「本当よ。」
「どっちが?」
「嘘だっていうことが。」
 女が男の目の前で、左手をちらつかせる。
 男はもう一度、女の手を見た。
「だって、あいかわらず、料理なんてしてないもの。怒った?」
「悪い冗談は止してくれよ。まったく……、包帯のせいで、すっかりだまされちまった。あぁあ、馬鹿馬鹿しい……。」
 ほっとして、力を込めていたハンドルを、軽く握り直した。ずいぶん運転に力が入っていた。
「ひどいのはそっちよ。私がそんなことすると思ったなんて。」
 二人は穏やかな表情をして、顔を合わせる。
「本当にそうだ、幾らなんでもこいつがそんなことまでするなんて……。」
声にならない気持ちを抱いて男は笑った。
 雨は、段々小降りになる。
「彼氏は見送りか?一緒に行くのか?」
 男は、短くなった煙草を消した。
「あの子は来ないの。それも本当よ。来れないのよ……。それと、私、もう一つ、大きめの荷物をトランクにいれてあるし……、たぶん、二週間くらいで戻るわ。」
女は、包帯を巻きながらそう答えた後、二本目の煙草に火を点けた。
「どうしてあんなこと言ったんだよ。」
 男も、女のライターで、新しい煙草に火を点けた。
「しかも、わざわざ小道具まで用意して……。」
「うん……、ちょっと、試してみただけ。」
「なにを……、俺をか?」
「そうよ。」
「……で、何か分かった?」
「そうね、いろいろ……。」
「たとえば?」
「そうね……、私たちが以前のようには戻れないこと。あなたは、私に負い目を感じてるっていうこと、私を怖がってるって言ったほうがいいかしら。ともかく、あなたが私をどう思っているか。それがよく分かったわ。」そう言って女は、ワイパーのスイッチをきった。
 雨はほとんど止んでいた。
 男は、少しずつ窓を開けた。
 雨の音の代わりに、飛行機の離着陸の音が大きく聞こえる。
 女が、窓の外を見ると、滑走路の明りが見える。
「綺麗ね。」
 雨に洗われて、辺りの明りは、いつもよりはっきりとしていた。
 女は、もう二度と見ることがないかもしれないというような表情で、じっと窓の外を眺めていた。
 やがて、空港への出口が近ずいてきて、二人は、煙草の火を消した。
 男は、ウィンカーを出し、左車線に入り、カーブを減速していった。
 料金所が近付く。
 女は財布を開け、ハイウェイカードを取り出し、チケットホルダーのチケットと一緒に男に手渡した。
 ブースに車を止めて、男は料金を支払った後、窓をぴったりと閉める。
「そのカード、あと少ししか残ってないけど使っていいわ。」
 女は財布をなおしながら、サングラスを取り出し、車の時計と、自分の腕時計を見た。
「早かったわね」
「ああ」
男はそう返事をしたが、トリップメーターと時計を見て、思った以上に時間がかかったと感じていた。
「退屈しなかったからそんな風に感じるのかしら。ありがとう。」
女は、男の顔を覗くようにして御礼を言う。
「退屈しのぎのために、俺に送れって行ったのか?」
「そうじゃないけど……。」
 女は、一瞬、また少しうつむいたようだったが、男は気が付かなかった。
「時間は?」
「ちょうど。」
「お茶は?」
「駄目、無理。」
「残念だな、これからって時に。」
 男は駐車場へ車を回そうとしたが、女は入り口でいいと言うので、そのまま言う通りにした。
「ごめんなさい。迷惑かけちゃって……。」
「いいよ、気にするな、車は大事にするよ。帰ってきたら、その時にでも連絡入れてくれればいいし……。」
「ううん、そうじゃないんだけど……。」
女が小さい声で言う。
 雨はすっかり止んでいた。
 女が助手席から降り、席を倒して後部座席のボストンを手にとる。
 ドアを閉めると、車の前を通って、運転席側に回った。
「ごめんなさいね。後のこと……、お願いするわ。」
 女は、サングラスごしに腕時計をちらりと見ると、じゃあと言って少し手を上げ、背を向けていってしまおうとした。そして、もう一度振り返った。
「本当は、あの子来てるの。一緒には行けないけど……。それと、やっぱり何時戻ってくるか分らないわ。ううん、戻ってこないかもしれない。嘘ばっかり言ってごめんなさい。」
 女は、小走りにロビーの中に入って行き、やがて姿が見えなくなった。
 男は、ふと、トランクにいれてあると言った荷物のことを思い出した。慌てて車を降り、女を追おうとしたが、すでに姿が見えない……。ともかく、トランクから下ろそうと考え、トランクを開けた。
 男はそこに、女の嘘を見た。

「眠れない」

小田 明日美

「ピーピーピーピー…」 
目覚まし時計が機械的な音を鳴らした。カーテンの隙間からは朝の光が差し込み、部屋の中をぼんやりと照らしている。外は雀たちがチュンチュン鳴いて騒々しい。
 武雄は上半身を起こして深い溜め息をついた。そしてその耳につく目覚ましの音を止めてのっそりと立ち上がった。
「おはよう。」
無言でテーブルについた武雄に良子は背をむけたまま顔だけこちらを向けて言った。
「さえない顔しちゃって調子悪いの?」
「寝不足…。」
武雄は新聞を広げながらだるそうに答えた。
「ふうん。運動が足りないんじゃないの?もっと体を動かさなきゃ。」
良子はコーヒーをカップに注ぎながらひとごとのように言った。
 武雄は今日で三日三晩ほとんど寝ていなかった。眠くて眠くてたまらないのだがいざ寝ようとするとあのことが思い出されて目がさえてくるのだ。この年になって興奮して眠れないなんて情けない。まったくあれのおかげで…。それにしても眠れないということがこんなに苦痛だったなんて。こんなことならやめときゃよかった。
「何か悩みでもあるの。」
ドキッとして顔をあげると目の前に良子の顔があった。
「別に。」
動揺を圧し隠して言った。
「ふうん。じゃあなんかの病気じゃないの。自覚症状かもよ。」
「ああ。」。
「一度お医者さんに診てもらえば。」
「ああ。」
「ああってあなたの体のことでしょ。心配して言ってるのよ。」
「分かってるよ。」
良子の甲高い声が頭に響いた。なにが心配なもんか。きのう、俺の横でスヤスヤと気持ちよさそうに寝息をたてていたやつに俺の気持ちがわかるわけがない。なんの悩みもなく幸せなやつだ。そう、良子は昔から楽天的というか無神経っていうか、デリケートな俺とは大違いだ。そういえばあれは新婚旅行から帰ったときだった。俺がハワイから買ってかえったウイスキーを空港のロビーで割りやがって、「あらー、おいしいお酒を床がぜんぶ飲んじゃった。でもあなたの肝臓には良かったかもね。」なんて言って笑ってごまかしたんだ。俺の悔しくて恥ずかしい気持ちなんかちっとも分かっていなかったね。あれが新婚ホヤホヤでなきゃ間違いなく離婚だ。まったく無神経なんだ。そういえばあのとき…。
「なに考えてんの。ぼーっとしちゃって。」
「えっ。」
「あのね、それがさぁ。」
良子はもうなんだか関係のない話をし始めていた。
 ごったがえす人ごみのなか武雄は重い体をひきずってやっとのおもいで会社までたどりついた。
「おはようございます。なんか顔色がわるいですね。」
後輩の鈴木が声をかけてきた。
「ああ。ちょっと寝不足でね。」
「そうですか。僕なんか布団に入ったらバタンキューって寝ちゃいますよ。この頃は季節もいいですしね。寝れて寝れて困るぐらいですよ。」
「それは幸せだ。」
まだなにかいいたげな鈴木をかわして武雄は席に座った。一応いつもどうりに書類などをひろげてみたものの三日も続く寝不足ではペンをもつのもだるい。なんで俺はこう眠れないんだろう。眠れるということがそんなにありがたいことだったなんてこうなってみて初めて分かった。鈴木は幸せなやつだ。それにしても誰でもが望める「眠る」ということをどうして俺は望めないんだ?俺はまじめ一筋で生きてきたごくごく平凡なサラリーマンなんだ。その俺がどうして眠っちゃいけないんだ。そりゃ三流大学しかでてないけどまじめに働いてるし、たまには親孝行だってしてるんだ。なぜなんだ…。やっぱりあれかな。あれの天罰なんだ。でもほんの出来心だったんだ。魔がさしたっていうやつで…。でもあの鈴木だって同じことをしているんだ。誰だって似たようなことをしているんだ。俺だけじゃない。俺は小心者だから損をするんだ。でももうそろそろ寝不足にもおさらばだ。うんとじらされたがもう決着がついてもいい頃だ。あと二、三日っていうとこかな。あれさえ終わればぐっすり眠れるんだ。もうすこしの辛抱だ。あれさえ…。
 武雄がふとわれに返ったときにはもう正午を過ぎていた。まわりを見回すと人はまばらでみなお昼を食べにでかけたようだった。武雄もとりあえず立ち上がって外にでた。
 そとはお昼時のためか人通りが多かった。若いOLたちが楽しそうにおしゃべりをしている。また中年の男たちが少しつきでたおなかをさすりながら満足げな顔をして歩いてくる。
「なにがそんなに楽しいんだ。」
武雄は行き来する人たちをぼんやりと眺めながらつぶやいていた。
 しばらく行くと公園があった。サラリーマンたちがつかのまの休憩をとっている。武雄はひとつのベンチに目がいった。中年の男が昼寝をしているのだった。口を半分開いたその男は実に気持ち良さそうだった。そのとき武雄の頭に恐怖がよぎった。
「今夜も眠れないんだろうか。」
 武雄は頭がくらくらしてきた。夜が来るのが恐い。今夜も眠れなかったら…。俺はもうへとへとに参ってるんだ。どうしよう。いやだ。恐い。良子が言ってた運動でもしようかな。ばか、この年になって若いやつと一緒にバレーボールなんかできるか。かといってひとりで体操なんかしてたらじじくさいぞ。どうしよう。これ以上眠れなかったら頭がヘンになっちまう。ああ、神様仏様、お願いだから眠らせてください。このままじゃ神経までまいってしまいます。ああ…。
 武雄はもときた道を帰りはじめた。昼飯を食べていなかったがそんなことはどうでも良かった。はぁーとため息ばかりついているところに会社の入り口で後から肩をたたかれた。
「小杉さん。」
同じ課の女子社員だった。
「どうかなさったんですか。背中に哀愁がただよっていますわよ。」
「そうかな。」
「体調がお悪いんですか。顔色も良くないみたいですけど。」
「まぁ、いろいろあってね。」
「病院には行かれましたの?」
「いや。」
「診てもらったほうがいいですわ。」
ふと武雄は良子の顔がうかんだ。
「お医者さんに診てもらったら。」
たしか良子も同じようなことを言ってたな。病院か…。
「それではお先に。」
「ああ、ありがとう。」
病院か…。一度診てもらうか。なんか薬でももらえるかもしれないしな。何もしないで夜を待つよりはまだましかもしれない。
 その日武雄は会社がひけると会社に近い病院に寄った。
 その病院はビルの三階にあった。武雄は受け付けを済ませると待合室で自分の番を待った。待合室には武雄と同じような会社帰りのサラリーマン風の男たちがやはり順番を待っていた。武雄はこのなにかしら病気を持っている男たちに妙な親近感をおぼえた。
「小杉さん、お入りください。」
と武雄の名前が呼ばれた。武雄は診察室に入った。中には五十前後の男の医者と看護婦がいた。
「どうしたんですか。」
その医者は不愛想に武雄に聞いてきた。
「夜、眠れなくて…。」
「眠れない…。うむ、なんか体がおかしいとかないですか。」
「いえ、別に…。」
「まぁとりあえず診てみましょう。」
医者は武雄に聴診器をあてたり、喉を診たりしてひと通りのことをやった。
「体は特に異状はないようですね。」
「はぁ。」
「何か精神的なものらしいですなぁ。」
「はぁ。」
「まぁ、疲れはあるみたいですなぁ。」
まずい展開になってきたぞ、医者がだんだんいやそうになってきている、と武雄はあせった。
「うむ、わたしは医者ですから体は治しますが心の病気まではちょっとねぇ。」
医者はどうしようもないという顔だ。
「その悩みを取りのぞくことが一番の薬でしょうな。」
「はぁ、それは分かっているんです。」
武雄はつづけて訴えた。
「悩みは二、三日中に解決するんです。ただそれまでの間、薬かなんかをもらえませんでしょうか。」
「薬、ですか。」
「お願いします。」
「薬といってもねぇ。」
医者は考え込んでいた。
「お願いします、先生。もう三日もろくろく寝てないんです。」
武雄は悲痛な顔で訴えた。医者は考え込んでいたがしばらくすると顔をあげて武雄を見て言った。
「でもそう簡単にいいますが、薬は恐いものですからなぁ。むやみやたらには…。」
「お願いします。」
医者はカルテに何かを書き付けながら
「それでは一応薬をだしておきますから。」と言った。
「ありがとうございました。」
武雄はそう言って診察室をでた。
「小杉さん、お薬です。」
受け付けの女の子が武雄を呼んだ。
「一日一本づつ飲んでください。」
そう言って武雄が渡されたのは「オロナミンC」だった。
 武雄は駅に向かった。その足取りはさらに重かった。畜生、あんな医者、二度と行くもんか。バカにしやがって。
 駅前ではもう店が閉まりはじめていた。武雄はふと思いついて閉まりかけの薬局に飛び込んだ。
「睡眠薬ありますか。」
武雄はその辺を片付けていた店員に聞いた。店員は忙しいところを声を掛けられてさも迷惑そうだった。
「ありますよ。」
店員はぶっきらぼうに答えて戸棚の中から薬をだした。
「はい、これね。」
 武雄は店を出た。手には薬を持っていた。そう、はじめからこうすりゃよかったんだ。まぁいいさ。ハハ…。
「ただいま。」
武雄は家につくと軽く言った。
「おかえりなさい。」
良子がキッチンから顔をだしてそう言った。
「今日病院に行ってきた。」
「あら、そうなの。それで?」
「まぁたいしたことはないさ。薬はもらったけど。さぁ飯にしてくれ、飯に。」
 晩ご飯は秋刀魚の塩焼きに大根卸し、きんぴらごぼうにお味噌汁だった。いつもとあまりかわりばえがしないけど妙においしいじゃないか。ビールもうまいしな。ああそうか、昼ご飯を抜いたんだっけ。おなかがすいてると何でもうまいな。
 武雄は機嫌が良かった。
 武雄はお風呂をあがったあとにニュースステーションを見るのを日課にしていた。それが終わるとベッドにはいるのだった。今日もいつも通りニュースステーションを見ていたが久米宏の言うことなんかうわの空だった。ただスポーツニュースのところだけは聞いていた。武雄は時計が気になった。
「早く終われ。早く終われ…。」
 やっとニュースステーションが終わると、武雄はとりあえずオロナミンCを飲んだ。それから買った薬を書いてある通り二錠ほど飲んでベッドに入った。そして枕元に置いていた本をひろげた。
「やっと、やっと眠れるぞ。肉体疲労もばっちりなおるぞ。」
武雄の胸は期待で膨らんだ。本をひろげたものの全然頭にはいってこなかった。やっとこの俺も人並みの幸せを取り戻せるんだ。この三日間は長かったな。眠りにつくっていうのどんな感じだったっけ。まぁそんなことはいい。どうせ今日は眠れるんだからな。俺はいつも深く考えすぎるんだ。でもほら、俺って神経質だからついつい深く考えちゃうんだ。それを十分に分かっててあんなことに関わっちゃうなんて俺もバカだったな。でもこの苦しみもなんとかむくわれそうだ。そうそうあれは春のことだった。仕事帰りに同僚のやつらと一緒の飲みにいったんだ。一時間ぐらい飲んで盛り上がってきたところで上田があの話をだしてきた。
「今年のプロ野球はどこが優勝しますかねぇ。」
ちょうどその店のテレビがプロ野球の開幕を告げていたんだ。
「そりゃあ巨人に決まってるさ。」
「そうかなぁ。ヤクルトなんていいんじゃないの。人気もあるし。」
「人気だけじゃ勝てないよ。やっぱり実力あるのは巨人だね。」
「いいや、今年はカープだ。山本監督は頑張ってるからね。」
みんな酒も入っていることだしそれぞれ好きなことを言っていた。俺は野球なんかに興味はなかったからひとりだまって飲んでいた。
「小杉さんずるいなぁ。ひとりで渋く飲んじゃってー。」
上田が俺のほうをむいて言った。
「小杉さんはどこが優勝すると思います?」
「さぁ、よく分からないね。」
「冷たいなぁ、小杉さんは。」
上田はそうとう酔っていた。
「賭けましょうよ。セ・リーグのどのチームが優勝するか。」
みんなは上機嫌だったからこの話に乗ってきた。
「よし。いくら掛けるんだ。」
「じゃあ、三万でどうですか。」
「よし。巨人に三万だ。」
「ヤクルトの三万。」
みんな口々に言い出した。ここでも俺は黙って渋く飲んでいた。
「小杉さんは?」
また上田だった。
「俺はいいよ。」
「そんなのおもしろくないですよ。じゃあ小杉さんは阪神に賭けてくださいよ。」
冗談じゃない、俺はあんまり野球には詳しくないが阪神がここんとこ最下位つづきってことぐらいは知ってるぞ。俺は正直言って怒ったね。
「やめておくって言ってるだろう。」
俺は言ったがまわりはもうそれで盛り上がっていた。結局俺は阪神に三万を賭けたことになっていた。
「三万か…。」
俺はその帰り道、そうつぶやいて自分の不運を嘆いた。ところがだ。その阪神は俺の期待を裏切って今やVロードを走っている。ざまあみろ。やっぱりね、まじめに働いてるといつかツキがまわってくるんだ。これで阪神が優勝したら十五万のお金が入るんだ。これが興奮せずにいられるか。眠れるわけがない。阪神はあと一歩のところからなかなか勝てないんだよな。まったくじらしてくれるよ。でももうそろそろだろう。明日くらいかな。ああ楽しみだ。それにしても俺ももうそろそろ眠りたいんだけどな。薬がまだ効いてこないのかな。それにしても阪神はいいよ。やっぱり阪神だな。やっぱり…。
 朝が来た。時計は六時半をさしていた。武雄はやっぱり眠れなかった。
「あの店員め、効きもしない薬を売りやがって…。」
武雄はそうつぶやいてのっそりと起き上がった。
 リビングではいつものように良子が卵を焼いていた。
「おはよう、よく眠れた?」
武雄はそれには答えずに黙ってコーヒーをすすった。
「あら、眠れなかったの?それはそうとうな重傷ね。」
朝からうるさいやつだ。朝ぐらい静かにできないもんかね。武雄はイライラしながら新聞をめくり、スポーツ欄をひろげた。
「阪神、再び王手!」
の見出しが飛び込んできた。武雄はニヤリと笑った。
「何かおもしろいことでも書いてあるの?」
「いや。」
掛けに勝ったなんて良子に言ったら何を買わされるか分からないからな。俺もよくここまで隠し通せたもんだ。阪神頑張ってくれよ。今日こそ決着をつけてくれ。俺も今日は頑張るぞ。今夜こそぐっすり眠らしてくれ。
「あなた、なにボケッとしてるの。」
良子の声で武雄は我に返った。
「あなた、この頃ボケッとしてることが多いわね。」
「そうかな。気のせいだろ。」
武雄は話し掛けてくる良子を軽くあしらってサッサと食事と済ませた。
 武雄はただひたすら待っていた。通勤の間でも仕事の間でも食事をしている間でもただ阪神が優勝するのを待っていた。武雄は家に帰るとテレビをつけた。もちろんナイター中継だった。
「さぁ、世紀の一瞬をみるぞ。」
武雄はテレビの前を陣取った。
「あなたがそんなに野球好きだったなんて知らなかったわ。」
良子は不思議そうに武雄に言った。
 テレビの中では阪神ファンが半狂乱になって応援している。アナウンサーも力が入っている。九回のおもて、二対一で阪神がリードしている。阪神は先行だからこの回をおさえれば優勝だった。
「あとひとり、あとひとり…。」
阪神ファンたちが大合唱している。武雄は自分でも
「あとひとり…。」
とつぶやきながらやがて来る幸せのことを考えていた。やっとだ。やっと来る。俺はこの日をどれだけ待っていたことか。長かった。ほんとに長かった。これで俺もやっと…。
「スリーアウト。阪神優勝です。」
アナウンサーの声が武雄の耳に響いた。
「阪神、優勝…。」
一瞬武雄の頭は真っ白になった。が、次の瞬間
「やったーっ。やったぞ。ついにやった。」
と叫んでいた。武雄は感激で涙がでそうだった。こんな感動は久しぶりだった。
「優勝だ。乾杯だ、乾杯しよう。」
武雄は戸棚の中からとっておきのウイスキーをだしてグラスへ注いだ。そしてそのまま一気に飲み干した。
 武雄は感動さめやらぬままにベッドに入ろうとしていた。
「今日はいい日だった。ほんとにいい日だった。」
武雄は上機嫌だった。さっき飲んだ酒がまわってきているようだった。今日は眠れるだろう。これで心配事もなくなったわけだしな。でもまぁせっかくだから薬を飲んでおこうかな。興奮して眠れなかったら困るし。ああ、今日は気持ちがいいな、ほんとに。
 武雄は薬のビンから薬を掌にだした。そしてオロナミンCで飲み干した。
 かくして武雄の望みはかなえられた。ぐっすり眠れたのだ。しかしよく眠れたのはいいが再び目覚めることはなかった。
 武雄は阪神優勝の興奮と睡眠薬の多量の服用のためあっけなく死んでしまったのだ。
 そしてあの上田らが賭けた三万円はお香典と化して良子のもとにやってきたのであった。

「ぼくのこと」

山中 教正

ぼく死んじゃったんです。
なぜかはわかりません
でもぼくの体は
もう燃えて
なくなってしまいました。

 病気になったのは、二年前のことです。それまでおおきな病気もしたことがなかったぼくが、風邪で寝こんだんです。熱が出て体がだるくて仕方がありませんでした。一週間たって、どうもおかしいということで病院に行きました。検査を受けると、その場で入院になってしまったのです。ぼくは、なにがなんだかわかりませんでした。

 それまで入院なんてしたことのなかったぼくに、病院は新鮮でした。でも気になるのは、消毒薬のにおいがいつも無色の霧になってからだのまわりを包むことです。そして空気が重くて歩きにくいのです。病気のせいもあったかも知れません。でもこの重さ息苦しさは、それだけではないでしょう。しばらく入院生活をするうちにわかってきました。ここでは死が見えるのです。その死というもの。目には見えない死。死への意識が、病院中の空気を重く変えているのでした。
 次の日からは、検査の連続でした。一日中ベッドに寝ているのは、とても退屈でした。学校に行きたいという気持ちが、日に日に強くなります。 もうすぐ体育祭があり、その準備でみんな忙しくしているでしょう。ぼくは一年二年三年合同の騎馬戦にでる予定なのです。ぼくらは一年生でひとつの馬を作るのだと思っていましたから、三人でかいのと一人小さいのとでチームを作りました。ぼくは後ろ脚の予定だったのです。でも集まってみると、一年生はみんな上に乗って、二三年生が馬になってくれるとのこと。今までピラミッドも一番下、タワーを作っても一番下、行列になっても後ろの方と、損ばっかりだったぼくも、やっと上になるチャンスがきたのです。でもこの調子だとどうやら体育祭は無理なようです。
 入院してすぐ、先生が来てくれました。
「はやくなおすのよ。」
と、宿題をお土産にくれました。これで昼にやることができて助かりました。クラスの友達や、クラブの友達もかわりばんこに来てくれました。クラスもクラブも同じでいつも張り合っている浩司は、いつも来てくれました。そしてあいつは、ぼくの片思いの恭子ちゃんもうまいことを言って連れて来てくれました。やっぱり持つべきものは友達です。

 入院はぼくの予想を裏切って、長くなりました。そのうち、だんだんと見舞いの人の数も減っていきました。ぼくが、あまり会いたくないと言ったからです。なぜかと言うと一カ月ぐらい経ったときから、髪の毛が抜けだして、今はほとんど無くなってしまったからです。これではみんなに会えません。みんなの驚く顔、かわいそうといった顔を見るのがつらいのです。別にみんな悪気があって、そういった顔をするのではありません。でもぼくには、その顔が一人一人頭に焼き付いてしまうのです。やっぱりみんなの楽しそうな顔を覚えていたほうがいいのです。浩司はいつも何事もないように来てくれました。あいつは気心も知れているので、遠慮はいりません。そして会いたくないというぼくと、恭子ちゃんの間を取り持つ、文通という手段を考えてくれたのです。
 ぼくの家族を紹介します。父さんは設計士で、家でもいつも製図台に向かっています。母さんは、近所の高校の売店でパートをしていましたが、今はぼくが入院したのでやめています。その昔は、保母さんでした。妹が一人、小学校四年生です。名前は紀子といいます。家族のみんなは、ぼくの病気をどう思っているかというと、別に心配ないと思っているようです。父さんは仕事の空いたときに来てくれては、新しい建物の完成予想図を見せてくれます。この前は新しい小学校を作るのだと言って、ぼくにいろいろ意見を求めていきました。
 どうしてこんなことになったのでしょう。今まで病気ひとつしたことのない子だったのに。初めて検査結果を見せてもらったときは、とても驚きました。常人の十倍もある白血球の値、それはあの子にとっては死の宣告ともいえるものでした。わたしは、一晩泣きました。そして、決心しました。あの子には涙は見せない。こわがらせてはかわいそうです。これから残された日々を、あの子が一番幸せな日々にしてやりたい。病名を告げるかどうかには、たいへん悩みました。夫婦で悩んだ末、出した結論はNOでした。いってもどうにもならないのです。わざわざ恐がらせることはないと思いました。後は母親として、できることをしてやるだけです。
 半年経って、ぼくの病気は快方に向かいました。自分に合う薬が見つかったのです。それまではインターフエロンという注射をしていましたが、うった後で三九度ほどの熱が出るのです。髪も抜けて、そしてどんどん痩せていきました。でも今の治療法にしてからは、髪もまた伸びて来たし、体も楽になりました。そして、やっと退院することができたのです。 教室に帰る事ができたのは、一年生も終わりのころでした。ぼくは、またみんなと学校に行けるのがとてもうれしかった。そしてみんなも、ぼくのことを祝ってくれました。
 ぼくは、体育の激しい運動を控えるほかは、また同じように学校へ行きました。病院には、二週間に一度行き、薬をもらいました。ぼくには、なにかがまだおかしく、自分の体に変化が起こったことが感じられました。でもこれは仕方がないとのこと。体をかばって生活するしかありませんでした。
 いやな予感は当たりました。中三の夏にまた、病気がひどくなったのです。薬が効かなくなってきたのでした。またぼくの入院生活が始まりました。ぼくは、また家に帰って来れるだろうという、軽い気持ちで出かけました。しかし二、三日で脾臓がはれてきて、おなかがパンパンにふくれ上がりました。これはおかしい、どうなってしまうんだろうと思っているうちに、全身が痛みだしました。あまりの痛さに耐え切れず、母さんを困らせたりもしました。そして、先生が新しい薬で治療を始めた次の日、血圧が下がり意識を失ったんです。
 今度目が覚めたときには、その日から三日が経っていました。一週間前から移ってきたこの特別室が人でいっぱいになっていました。父さん母さん、紀子、おじいちゃんおばあちゃん、それにおじさんおばさんたちまで。でも不思議なことに、みんな頭のてっぺんしか見えません。そしてみんなの真ん中で、先生と看護婦さんが懸命に作業をしています。ぼくは、その上からのぞきこみました。すると、なんと、青くなったぼくの心臓マッサージをしているのでした。そばでは心電図が、ピクリとも動かない真っすぐな線を描きながら、ピーピーと音を立てています。でも五分ほどの作業でも、その警報は鳴り止みません。
「まことにざんねんです。」
ぼくは死んでしまったのです。

 その場にいる人達は、みんな泣きっぱなしでした。ぼくはどうしていいか解らず、そのまま病室にいました。ぼくは死んでしまった。死ぬのはいやです、いやですが、いざ死んでしまうともうどうなるものでもありません。自分のことに涙もながせないし……。ただ、ああもう痛い目にあわずにすむんだと思いました。妹や母さんの取り乱すさまを見るのも苦しいものでした。そばに行って、
「ぼくは元気になったよ。」
と声をかけたのですが、まったく耳には届いていない様子です。
「父さん、母さん、紀子、そんなに泣かないで。ぼくは、やっと元気になったんだから。いままで、なにもできなくて、ごめんなさい。いままで、看病してくれてありがとう。」
 そのうち看護婦さんが4人ぐらいでやってきて、ぼくの鼻や口に綿をつめ始めました。ぼくは見ていられないので、病室をでて上へ上へと上がっていきました。外はよく晴れていました。ひさしぶりの太陽をぼくは体いっぱい浴びました。体といっても、もうそれはイメージでしかなく、ぼくはパジャマだったのをズボンにかえ、靴もはきました。あんなにはれていたお腹もへっこみ、痩せた体も元に戻りました。ぼくは鳥と一緒に飛びまわり、魚と追いかけっこをして遊びました。どうやら動物たちは、ぼくの気配を感じるようです。犬や猫は、そばを通ると騒ぎだします。でも人間は、まったくぼくに気がつかない様子でした。ぼくは自分と同じような人が、その辺りに浮いてはいないかと見まわしました。するとけっこういるのです。車や、列車にくっついて事故を防いでいる人たちや、孫のそばでずっと見守って危険な所にいかないようにしているおじいさん。死んでからも、同じように生活し働きにいく人。みんななにかやることがあるようです。そうするうちに、一人のおじいさんがぼくの前を通りました。おじいさんはお孫さんのことが心配で仕方がなくて、ずっと見守り続けていたそうです。でも今日孫が結婚式を上げることができたので、やっと気がすんだといいます。そしてお孫さんの花嫁姿のきれいだったことを話し始めました。その話が終わりそうにないので、ぼくは
「おじいさんはこれからどうするのですか。」と聞きました。するとおじいさんはにっこりと微笑んで、
「目標なくうろうろしているのは、よくないんじゃよ。」
と言いました。そしてそのまま、すっと消えてしまったのです。
 ぼくは、おじいさんがどこにいったのか不思議でした。ここからまた行くところがあるのでしょうか。そんなことは今までだれも教えてはくれませんでした。これはやっぱり父さんに聞くしかないと思い、ぼくは家に向かいました。
 家ではお葬式の最中でした。友達もたくさんきてくれています。ぼくは、できればまたみんなと学校にいきたいと思い、悲しくなりましたが、体がなくなってしまった今はどうすることもできません。ぼくの体は、棺に入れられてまつられていました。ドライアイスで冷やされ、触ってみるととても冷たく、色も青白く見えました。自分で自分の体を見るのは何とも変な気持ちですが、やっぱり、どうしてぼくがこんな病気になったのかは気になります。父さんは、先生が解剖して原因を調べたいと言ったときに、断ったのでした。体の中をのぞくと、血管や筋肉は薬ずけになって、随分いたんでいました。そして骨髄は色が変わってしまっています。本当ならこぶし大ほどの大きさもない脾臓がお腹いっぱいにはれていました。ここで悪い血液を殺すのですが、あまりの量の多さに機能が追いつかなくなってしまったようです。では、血を作っていたぼくの骨髄はどうして悪くなってしまったのだろう。ぼくはやっきになって探しました。今になって、何でぼくがこんな病気に……といった気がしてきたのです。体に悪いところといえば1カ所だけありました。それは歯です。ぼくは虫歯が多く、それでまた歯医者が嫌いで、ほったらかしにすることが多かったのです。どうやらそこからばい菌が、入り続けていたようでした。ああこんなことならすぐに治しておけばよかったと思いました。夢中で調べるぼくのそばで、お坊さんがお経を上げていました。難しくてまったく意味はわかりません。みんなの悲しむ顔を見るのがつらくて、ぼくはまた逃げ出しました。しばらくすると、ぼくの体は火葬場に運ばれ、焼かれました。着物を着せられ、身のまわりの物や、家族みんなの爪、写真などが入っていましたが、みんなきれいに焼かれ燃えてしまいました。後に残ったのは、ぼくの白い骨だけだったのです。骨髄は薬で青く色が変わっていました。ぼくは、こんなに大きな骨が体に入っていたことに驚きました。ぼくはお葬式に出たことがなかったので、骨を見るのは初めてだったのです。紀子も目をまんまるにして驚いています。みんな骨になったぼくを見て、やっとあきらめがついた様子でした。そして疲れが一度にやってきたようなかんじで、がっくりと肩を落としていました。
「ぼくは元気だよ。」
と、大声でさけんでみましたが、みんなにはわからないようでした。ぼくのことを見てくれる人がいないというのは、大変さみしいことでした。
 それから三十五日、ぼくはぶらぶらとその辺を行ったり来たりしました。あまりにひまなので、幼稚園の時の体にまでもどって、同じように通ってみたりしました。小学校に行って自分の担任だった先生の授業をひさしぶりに受けたりと結構楽しかった。あんなこともあったこんなこともしたと、次から次へ思い出は出てくるのでした。家では毎日おまいりが続きました。別にお腹はすかないのですが、三度三度母さんはご飯をそなえてくれました。位牌にはぼくの新しい名前が書かれています。ぼくは自分の名前がとっても気に入っていたので、これは変だなと思いました。お葬式ほど大そうな事はありません。そしてそれは普段ほとんど関係のない宗教の決まりにしたがって、次々と行事がこなされていきます。ぼくはこんな時に大きな力を発揮する宗教ってなんだろうなと思いました。
 ぼくは、ほかのみんながそうであるように宗教には無関心でした。そんなに信心深い子供がいたら気持ち悪いと思います。でも一つだけ信じていたことがあります。それはぼくが赤ちゃんの時になくなったおじいちゃんが、ずっと見守っていてくれているということでした。二度ほど交通事故にあいかけましたが、いつも本当に危ないところで助けてくれました。そしてぼくが体からぬけ出す時に手をかしてくれた人も、おじいちゃんだった気がします。そしてそのおじいちゃんらしき人は、すっと消えてしまったのです。ぼくはこれからどうしようかと途方にくれました。ぼくには見守る子供もいないし、何をしていいのかわからなくなりました。経文を妹の後ろから読んでいると、どうやら三十五日旅をして修行をつむのだそうです。そして仏さんになるらしいのですが、ぼくには歩いていく道がわかりません。三十五日も終わってしまい、ずっと絶えることのなかった線香の煙りもなくなりました。すると急に家にはいたたまれなくなり、どうしていいかわからずおろおろと泣きました。こんなことならもっとまじめにお経を聞いているんだった。どうしてもっとわかりやすく言ってくれないんだと、思いました。宗教なんて、やっぱり残った人のためにあるものだと思います。そうして決まっていること、行事をこなしているうちに悲しさを和らげていくのでしょう。あきらめをつけていくのでしょう。家族のみんなはそれによって、多少は救われているようでした。これは長い長い年月のうちにつちかった文化のような気もします。みんながこうしておまいりをしてくれ、盆と命日にはぼくのことを思い出してくれるのは、やっぱりうれしいことです。これがまったくないとさみしいでしょう。でも戒名やあまりにややこしいしきたりは、ぼくにとっても疑問でした。今まで隠れていて、こんなときにがっちりみんなを支配する宗教とは、すごいパワーだなと思いました。
 それから一週間ほどは、ぼけっとして屋根の上にすわっていました。カラスがやってくるのが、うっとうしくていやでした。どうやらぼくは、このままここにいても仕方がないようでした。そんなときにあのおじさんに出会ったのです。
 おじさんはわらじをはいて、手っ甲をつけ、着物を着ていました。旅姿といった感じです。そういえばぼくも棺に入るとき、みんなに着けてもらったことを思いだし、その格好になりました。そしてそのおじさんに、
「ぼくは行くところがわからないので、いっしょに連れて行ってください。」
と、頼みました。
 おじさんは、とてもやさしい目でぼくを見ました。そしてついてくるように言ってくれたのです。おじさんは、力強い足取りでどんどん歩きましたぼくは一ぺんでこの人が気に入り、じぶんの学校のことや家族のことを話しました。そのうちぼくもおじさんも同じ病気だったことがわかり、ますます意気投合しました。おじさんは、六年間も病気と闘ってきたそうです。奥さんと子どもさんが二人いるそうですが、三人そろってしっかりやっていくだろうと、安心しているようでした。でも本当は、まだ後十年は生きようと思っていたこと。あまりにも突然死んでしまったことを教えてくれました。ぼくは意識がなくなってからが長かったですが、おじさんは二時間ほどですぐに心臓が止まってしまったそうです。なので家族の人たちとは、ほとんど何の話もせずに別れてきてしまったのです。でもおじさんは、なにも言い残さなくても、みんなわかってくれていると信じていました。ぼくは、家の父さんもいい人だけれど、この人もとってもいいお父さんだったんだろうなと思いました。おじさんは、いろいろぼくに世話をやいてくれました。昔から信心深い人だったらしく(その点はぼくと少しちがう)子供のころから儀式にもくわしかったそうです。そして自分が信じているように、修行をつんでいくつもりをしていました。そしてぼくに「いずれは自分の道を見つけて行くんだよ。」と、言いました。でもぼくはこの人が気に入ったので、気がすむまでついていくことにしました。
 行く先々で、いろいろな人に会いました。もう魂はこっちに来ているのに、まだ体は人工呼吸器で生きている人、家族四人のうち三人が交通事故で死んでしまい、三人で一人残ってしまった小さい女の子を心配そうに見ていたこともありました。ガンの痛みのひどさで魂はこちらに来ているのに、体は反応して暴れまわっています。それを家族の人が押さえているのですが、それを上から見ている本人も家族の人たちもとてもつらそうで、ぼくはとてもかわいそうに思いました。そして白血病やガンの人を、どんどんむしばむ抗がん剤治療、あまりの痛さに魂さえもぬけだしてしまった体を動かすたくさんの生命維持装置に、疑問をもちました。おじさんもああいったことはなおしていかなくてはならない、そして今はだんだんとそうした治療が見直されてきていることを教えてくれました。やっぱりどうせ死ぬのなら、残された日々をベッドの上で髪がなくなるまで薬をのむよりは、人間らしく生活したほうがよいと思います。そして治療もお葬式も、もっと生きている人、残った家族のことを、考えたものにしていった方が良いと思うのです。
 ついにおじさんとも別れるときがきました。やっとぼくにも道が見えてきたのです。おじさんのおかげでした。おじさんは、家族を見守りながら修行を続けるとのこと。あんまりまじめな人なので、
「死んでからもそんなに苦労しないで、少しはサボったらどうですか。」
と言うと、おこられてしまいました。そして守るべき家族を持つことなく、死んでしまった自分が少し残念でした。
 ぼくはうっすらと見える光の道をどんどん歩いていきました。途中おじいちゃんの声を聞いたような気もします。だんだんと頭がぼんやりしてきました。ぬるいお湯に使っているようです。そしていい匂いがしています。 だんだんと考えるのがめんどうになってきました。それほどここは気持ちのいい所なのです。ぼくはどこに行くのだろう。このまますべて消えてしまうのだろうか。でもぼくに迷いはありませんでした。父さん母さん、またいろいろ世話になった人に感謝します。そして迷うぼくを導いてくれたおじさん、どうもありがとう。ぼくは自分の一生の終わりを実感しました。
 そして最後に意識が消えようとするとき、みんなの楽しそうな声が聞こえてきました。それはきっと紀子の声、そして父さん母さんの笑い声でした。
「お母さん、いま赤ちゃんがわたしのおなかをぼんぼんってけとばしたのよ。」

「姉妹」

森宗 直子

 私は小さい頃、母さんから「姉さんの真似をしなさい。そしたら睦美もいい子になれるよ」と言われてきた。同じ服を着て、同じ学校に行って、同じ様にしていたら、いつか、姉さんの様になれると思っていた。
 最近、姉さんの帰りが遅い。
 「バ−ゲン、始まったし、どっか服買いに行こ」
と言っても、
 「仕事、忙しいからな」って、行くとも行かないとも言わずに、自分の部屋に入ってしまった。今までだったら、姉さんが誘ってくれたのに、今年は。テレビのリモコンを押して、私も部屋に戻った。ベットに飛び込んだ。このベットも、姉さんと買いに行った物だった。あのぬいぐるみも、そう。本棚に納まっている本も、おもしろい本だよって、くれた物がほとんど。
 姉さんが、新しい服を買ってきている。それも、二人が気にいっている店の服を。何で連れて行ってもらえないんだろ。
 下に降りると、母さんと一緒に、姉さんが朝ごはんの用意をしていた。
 「父さん、もう出かけたの」
 ソファーに座り、テレビをつけた。朝は、NHKだけど、父さんがいないから、チャンネルを変えてみた。
 「今日から三日間、旅行よ。言ってたじゃないの。」
 「そっか、お土産たのんどくの忘れた」
 「今更、頼まなくても、二人には買って来るわよ。早く食べなさい」
 用意された、テ−ブルについた。姉さんがご飯をよそって、私の前に置いてくれた。お茶を母さんがいれてくれて、やっと三人がテ−ブルについた。いつもより、明るい音楽がテレビから流れて来る。
 姉さんが母さんをちらちら見ているのに気づいた。母さんは、テレビに気を取られて、その様子に気づいていない。箸を置いて、姉さんが口を開いた。
 「母さん、明日の日曜日に友達連れてきてもいい」
いつもと違う、少し緊張した表情だった。
 「父さんもいないし、いいわよ。そういえば、しばらく、家に友達呼んだことなかったわね。」
 「誰が来るの」
と聞くと、姉さんの顔が赤くなってきた。やっと母さんも気づいたらしく、
 「まさか、男の人」
うつむいたままうなづいた。もう、耳まで赤くなっていた。
 「そうなの。連れていらしゃい。あんたに向いた人かどうか、見極めてあげるから」
 嬉しそうだった。姉さんは、こくんとうなづいて、箸を取った。
 「私も居ていい」
 「いいよ」
 いつもの姉さんの笑顔に戻った。食器を洗う音に混じって、母さんの鼻唄が聞こえてきた。
 日曜日の朝は、みんな遅いのに、珍しく早くて、なんとなくそわそわしていた。
 「迎えにいってくる。」
と言って、約束の時間を待ち切れずに、姉さんは駅に向かった。10分もたたないうちに、玄関のチャイムがなった。姉さんが帰ってきたと思って、急いで玄関のドアを開けた。そこには、姉さんではなく、男の人が立っていた。その人は、笑顔で
 「久美さん、いらしゃいますか」
と聞いてきた。姉さんの好きそうな人の良さそうな感じがした。電話のベルが鳴った。
 「ちょとお待ちください」
と受話器を取りにいった。
 「もしもし、私」
姉さんの声だった。「どこにいるの。姉さんの迎えに言った人来てるよ」
 「待っててもらって。すぐ帰るから、ガチャ ツ− ツ−」
えらく慌ててると思って、受話器を置いた。玄関に戻ってみると、不安げなさっきの人が立っていた。
 「今、ちょっと出てますが、すぐ帰ってきますので、どうぞ上がって下さい」
上がるのを躊躇していて、どうしようかと思っていると、かあさんが奥から出てきた。  「久美、あなたを迎えに駅までいってしまったのよ。悪いけど、上がって待っててくれるかな」
私はスリッパをそろえた。姉さんが帰ってくるまで、2人で質問攻めにした。それでも、嫌がらずに一問一問ていねいに答えてくれた。自転車を飛ばして帰ってきたのか、顔を赤らめてリビングに入ってきた。それからも、母さんと2人で話し、後の二人が相槌を打っていた。いつもあんなに凛としている、姉さんがかわいく見えた。母さんが食事の用意にたったので、私も台所に行った。好い人やなとにまにまして野菜を洗い、まな板を用意した。母さんの鼻唄が始まった。恥ずかしいから注意しようかと思ったがやめた。機嫌のいい証拠だったから、姉さんも嫌がらないだろう。向こうから笑い声が聞こえてくる。
 食事の用意ができると、二人を呼んだ。小さい頃の話や、自慢話をとりとめもなく話していた。
 「姉さんのどこを好きになったんですか」
って聞くと、姉さんと顔を見合わせて、
 「美人だからかな。それよりも、何でもでき、すごい人が僕に惚れてくれたことが嬉しかったんだろうな」
と言って笑っていた。みんな笑っていた。姉さんが褒められると、有頂天になってしまって、また話し続けた。大河ドラマが終わって、時間に気づき帰ると言い出した。まだいいでしょって止めたけど、
 「楽しっかたです。また来させてもらってもいいですか」
 「もちろん」
母さんと声があった。佐伯さんが帰って後片づけをしながら、母さんと好い人だと姉さんに言った。姉さんも今までのデ−トのことを話し始めた。
 佐伯さんの話題が一段落ついた頃、学校の帰りに佐伯さんと会った。こっちに、手を振りながら近づいてきた。
 「今帰り?」
やっぱり優しい笑顔だった。その笑顔見ると甘えたくなってきた。
 「どこか喫茶店でも行きませんか」
慌てて、手で口をふさいだ。佐伯さんはただでさえたれ気味の目尻を下げ
 「いいよ」
と言ってくれた。近くの喫茶店に入って、友達関係の悩みなんかを聞いてもらった。優しいだけではなく、厳しいことも言ってくれて的確なアドバイスをくれる人だった。
 「そろそろ出よっか」
 佐伯さんは立ち上がった。私がうつむいたままでいると、
 「どうしたん」
顔をのぞき込んできた。たまらなくなって
 「また、話聞いてもらえますか」
といってまたうつむいてしまった。頭の上から
 「いいよ。いつでも聞くよ」
上を向くと私の大好きな笑顔があった。
 家に着くと、電話帳を引っ張り出して、名前を探した。
 姉は本当に仕事が忙しく、佐伯さんと余り会うことがなかったらしい。私は、毎晩あの人のところに電話をかけるようになり、姉よりも会う回数が、多くなっていった。家族も誰か好きな人がいることに気づいたらしく
 「とうとう睦美も色気づいたか」
どうとも答えられなくて、笑っていた。
 土曜日に佐伯さんと二人で、梅田の街を歩いた。姉さんとよく来ていた店にワインレッドのシンプルなワンピ−スが飾られていた。
 「このワンピ−スいいな。いっぺんこんなん着てみたいな」
 「着てみたらいい。似合いそうやで」
 「いいわ。こういう服は姉さんのほうが似合うもん」
 「そんなことない。気にいったんだったら買えよ」
 「ううん。いいわ」
 堂島の地下街を通って、中之島に出た。橋の上にたって川を見ていた。公会堂がライトアップされる頃、橋にカップルが増えてきた
 「私らって、外から見たらカップルに見えるんかな」
 「そうやろな」
川がどっちに向かって流れているか分からなかった。場所を考えれば、わかっているけどいくら見ても川の流れが見えなかった。
 「姉さんに言わな」
 「そうやな、言わなな」
流れを見つけるのをあきらめて、橋を渡り、淀屋橋の駅に出た。
 「送ってこか」
と言ってくれたけど、頭を振った。
 「どこ行ってたん。早く片づいたから、もう寝てもうたで。ご飯たべる。」
 姉の声が台所から聞こえてきた。
 「食べてきたからもういいわ」
部屋に入ると、見慣れた袋があった。べりっと破って中を見た。あのワインレッドのワンピ−スだった。つかんだまま台所に向かって走った。
 「ねえさんこれ」
 「きっと似合うわよ」
 「姉さん」
 「どういうつもりなの」
きっと私をにらんだ。いつもの優しい姉さんではなっかった。
 「佐伯さんのことが好き」
 「身勝手よ」
 「わっかてる」
 「分かってたら何でそんなことするの。私の真似ばかりして、いいかげんにして」
ガラスが落ちるかと思うぐらい、ドアを強く閉めた。部屋が震えた。
 姉があんなに興奮したのを見たのは、初めてだった。ソフア−に飛び込んで天井を見つめていた。その夜は電話をかけなかった。少し時間をずらして起きた。姉さんはもうでた後だった。
 「今日、お姉ちゃんめえはらして会社行ったわ。佐伯さんとなんかあったんかな」
ほとんどご飯に口をつけずに、家を出た。学校で、あの人に電話をかけて見た。留守電だった。あたり前のことなのに、目が潤んできた。
 家に帰って電話してみた。まだ留守電。姉さんも帰ってきてない。母さんに呼ばれて下に降りて、お皿を置いていった。父さんを呼んで3人で食事を始めた。食べたくないが、食べなければ父さんがうるさいので、無理やり詰め込んだ。食べ終って、すぐかけてみた。何度かけ直しても出ない。玄関のドアを開いた。この前まで、姉さんが帰ってきたら、下に駆け降りて、その日あったことを報告していたのに。夜中までかけても、誰も出なかった。ボタンを押すと、家中に、ピッ、ピッと機械的な音が響くようだった。
 留守電にメッセ−ジをいれ続けていた。押し慣れた番号のボタンを押した。
 「ピンポンパンポン あなたがお押しになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上、もう一度おかけ直しください」
 かけ直した。同じリズムが聞こえてきた。あの人が電話に出なくなって、一週間。姉さんがあの人に何か言ったんだ。私に何も言わずに、姿を消すなんて、それしか理由がなかった。
 家族全員がそれぞれの部屋に入るのを確かめてから、姉さんの部屋をノックした。中では静かに曲が流れていた。この季節には寒そうな、水色のネグリジェを着て姉さんは座っていた。ドアを後ろで閉めて姉さんを見た。姉さんも私を見た。このまま、横に座って姉さんに甘えたくなった。
 電話が目に入った。
 「姉さん、あの人がいなくなったの知ってるの」
 「ええ」
 「なぜ。どこにいたか知ってるなら教えて」
 「会わなければ、そのうち忘れられるわ」
 落ち着き払って、CDを取り替えた。
 「座りなさいよ。これで私たち、元通りになれるじゃない」
 自分の使っていたクッションを、私のほうに差し出した。払いのけると姉さんの方へ飛んだ。
 「いいかげんにしなさいよ。私の好きだった人を取って何が嬉しいの」
飛んできたクッションを壁に投げつけた。
 「あの人がどこに行ったか知ってるなら教えて。お願いだから」
 「知らないわよ。だけど、もう会わない方がいいって。消えたのはあの人の意志よ」
 「うそ」
 「本当よ。だからあなたに連絡しないんじゃないの。今度の日曜日遊びに行かない」
部屋を出た。
学校から帰ってリビングに入ると
 「手紙来てるわよ。名前書くの忘れたらしくって誰のかわかんないけど」
テ−ブルに新聞と一緒にあった手紙をつかんで、階段を駆け登った。母さんが後ろで何か言っている。
 あの人の手紙だった。中は便箋一枚しかなかった。
 「もう会わないでおこう。自分に自信を持て。おまえだって久美に負けないくらい魅力的な女だ。俺が惚れたんだからな。姉さんと仲良くするんだぞ。」
 会わないって?仲良くしろって?手紙を持ったまま座り込んだ。
 ノックする音が聞こえた。手紙をベットの下に突っ込んで、座っていた。またノックされた。
 「なに」
 「晩ご飯の用意ができたから降りておいで」
今、聞きたくない声だった。
 「食べたくないから、ほっといて」
 「食べたくなったら降りておいで」
あきらめて階段を降りていった。下から笑い声が聞こえてくる。私のことで笑ってるのか気になったが、降りていく気にはなれなかった。何に自信を持てというのか分からなかった。姉さんには何をやってもかなわなくて、両親も私には何も期待してこなかった。叫びたかった。
 お昼になって、みんな、出ていった。手紙をもう一度見直した。居所が分かる言葉はまったくなかった。放り出した封筒を見て、あっと思った。ハンドバッグをひっつかんで、電車に乗った。封筒に消印があった。前とは違う沿線の街の名前だった。どうやったら会えるか考えた。その街にはいくつも駅があって、電車を降りて捜すには、広すぎた。
 電車が止まった。通過待ち。線路の上を走っていきたかった。プシュ−と下から聞こえた。ドアが閉まった。駅の改札で待つことにした。そしたら、半月もしないうちに、確実に会えるだろう。その街に着いた。本屋に行って、その街の地図を買った。あの人が住んでいそうな場所にある駅を捜した。電車に乗り直して、目標の駅に向かった。十時まで待っても、あの人は降りてこなかった。
 その日から、4時限の授業をさぼって、夕方は、駅の改札にたっていた。同じ授業を2回連続で休んだ。そろそろ潮時かもしれない。私たちはそれだけの縁でしかなかったんだ。定期を持ったあの人が、改札を通っていった。追いかけて、ス−ツのすそをひっぱった。
 「どしたんだ。なんでここにいるんだ」
 「会いたかったのよ。捜したのよ」
涙声になってきた。彼は私を駅の隅に引っ張っていった。
 「家に帰り。俺たちはもう会わない方がいいんだ」
 「姉さんが、何をいったの。別れてくれって言ったの、あなたがいなくなったのは姉さんのせい」
泣き出してしまった。彼は私の頭をなでながら
 「君にとって、姉さんは大切な人なんだろ。失えない人なんだ。自分のいるべき場所に戻るんだ」
 「私のいるべき場所?」
 「そうだよ」
 「そこに戻れば、みんなが幸せになれるのかな」
まだしゃくり上げていたら、涙を拭いてくれた。
 「おまえが留守電いれてたとき、俺、久美とに呼び出されて、話しててん。何て言ったか分かるか」
 「ううん」
小さく首を振って、目をのぞき込んだ。
 「元の私たちに戻して。あなたに会っていなかったあの時に。って泣かれたよ。今のおまえみたいにしゃくりあげてな。あいつが泣くとは思ってなっかたよ」
私の好きな笑顔とは違う、さみしい笑いが、彼の顔に浮かんだ。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 「帰る」
 「送ってこうか」
 「いいよ」
 「そしたらここで別れるか」
切符を買って、渡してくれた。
 「それじゃ」
後ろを振り向きたくなかった。何のために姉と争ったのか。私にとってあの人は何だったのか。とにかく私は、姉のもとに戻らなくてはならない。あの憧れてやまない姉のもとへ。

「口唇期症候群」

匿名希望

 今年の夏は例年より暑くはないといっても、久々に太陽が顔を覗かせるとやはりジリジリと焼けつく。梅雨明けと共に連日真夏日が続いた。毎夜寝苦しい夜を過ごし十日もすると台風が上陸した。台風上陸を機に気温が下がり、心地良いとまではいかなくても風が吹くようになった。曇りがちの日が続いたから、久しぶりに快晴だとなおさら今日は暑く感じる。
 日焼けしそうやな、と陽子はかぶっていた帽子を目深くかぶり直した。
「京都は盆地やからよけい暑いんちゃうか。」
慎介はTシャツの胸元をパタパタさせながら言った。二人は阪急大宮駅から二條城に向かって岩上通を歩いている。陽子は日射しを避けて日陰へ日陰へと入って行った。
「はっちゃんも帽子をかぶったほうがええよ。」
二人のいでたちは、白のTシャツにジーンズ、とまるでペアルックのようだった。おまけに暑いからとキャップ帽をかぶっている。駅で待ち合わせたとき、お互いの格好をみて二人はクスッと笑った。

 陽子は慎介をはっちゃんと呼ぶ。名字があずまであるため東八郎にちなんで高校時代そう呼ばれていたからだ。慎介は、細く華奢な体つきで、とても大学生には見えない。キラキラと澄んだに少年のあどけなさが残っていて、それが慎介が素朴で純粋な人間であることを象徴していた。
「俺が帽子かぶったら、ますます高校生にしかみえへんからなぁ。でも暑さにはかえられん。」
慎介は陽子に帽子をかぶるように促されて、しぶしぶかぶった。

 二條城まで、まだ一キロばかりある。炎天下を歩いているからだろうか、春に来たときよりも陽子には城が遠く感じられる。
そう、達哉と歩いたあの春の日よりも……。

 陽子が渡瀬達哉と出会ったのは三月のコンパであった。その頃の陽子は怠惰な日々をおくっていた。何に対しても無気力・無関心で、バイトもしなければ勿論勉強もしない、ずっと部屋に閉じ込もってだらだらとその日その日を過ごしていた。だから親友の恵子にコンパに誘われても全く関心がなかった。
「あっかんなぁー陽子、あいかわらずの生活やなぁ。まだ何もやる気でんの?」
「……うーん、パワーがでん。誰か後ろから押してー、て感じ。」
「とりあえず外にで、ずっと部屋から出んのがあかんのやで。そうや、明日コンパあるから陽子もおいでよ。」
「……めんどい……。」
「あきません。命令です。明日六時、ビッグマンで。」
ガチャッ、と電話は一方的に切れた。なぜか陽子は昔から恵子に頭が上がらない。いつも恵子のペースに巻き込まれるのだ。しかたない、ひさびさのシャバにでも出るか、と陽子は重い腰をあげた。
 コンパは恵子のクラブのただの飲み会であった。その時陽子の隣に座りあわせたのが達哉だった。二人は同郷という事ですっかり意気投合した。
「やっぱりMちょうもんはええなー、ウマがあうよなー。」
と達哉はニッカリ笑った。達哉のテニス焼けした肌からのぞく歯がいやにさわやかに見える。 
「渡瀬君てなんかおもろいなぁ。これから達ちゃんて呼ばしてもらお。」
「白国さんもええ味持ってるで。気に入った、俺も陽ちゃんて呼ぶ。」
「達ちゃん。」
「陽ちゃん。」
二人はニーッと笑ってビールを酌み交わした。

 達哉も陽子もN区に下宿していた。達哉は阪急R駅のすぐそばに、陽子は阪急R駅とJRのR駅の中間ぐらいに住んでいて、歩いて十五分もかからない距離であった。コンパの後も二人は電話をしたり互いの下宿に遊びに行ったりと、どんどん仲良くなっていった。陽子は、こんなダチが近くに欲しかったんや、という思いで久々に胸を弾ませていた。 
 ある時、誕生日が二人の話題になった。陽子の誕生日が明後日に迫っていたときだった。達哉はどうせ祝ってくれる奴もおらんのやろう、とからかい気味に言った。
「しゃーない、俺が晩メシでもおごってやろ……と言いたいんやけど、いま金が無いねん。しかし酒は俺んちにある。それでどうや?」
「ただで飲める酒ほど嬉しいものはござりません。」
「じゃあ明後日こいや。バイトあるから八時頃な。」
陽子にとってこれほど待ち遠しい誕生日はなかった。フライドチキンを買って、ビールを買い足して、達哉のアパートの階段をカン、カン、カン、と元気よく昇った。戸をたたくと、
「陽ちゃんか?ちょっと待って。」
と達哉の声が聞こえた。
「よし、ええぞー。」
陽子が中にはいると、ちっちゃなバースデーケーキに火が灯されていた。
「二十歳やから特大ろーそく二本なぁ。あぁ、俺ってええ奴。さ、火を消してくれねぇ。」
と達哉はおどけて陽子の背中をたたいた。達哉がこんなことをしてくれるなんて陽子には意外であった。
「サンキュー、達ちゃん。 無茶嬉しいわ。 何だか悪いな。」
「そのかわりプレゼントはないで。俺のときは両方用意しとけよ。」
「ちゃっかりしてる。」
陽子は吹きだした。
 ケーキを食べて、祝杯をあげて、時間はどんどん過ぎていった。その間二人はいろんな話をした。家族の事、学校の事、昔好きだった人の事。普段ふざけてばかりいる達哉がいやに真面目でしっかりしたことを言って、陽子は意外な一面をみたような気がした。
 時間はすでに十二時をまわっていた。
「あっ、こんな時間や。そろそろ帰るね。」
と、陽子が仕度をはじめると、そこまで送ると達哉は戸口に立った。戸を開ける前に振り返ると達哉と目があった。陽子は今日の礼を言おうとしたが、目があった瞬時言葉を失ってしまった。
 時間は止まった。

 そのまま二人はじっと見つめあい、やがてゆっくりと口唇くちびるを重ねた。
 陽子の顔は帰る道々紅潮していった。私っていい加減なんかなぁ。達ちゃんのことダチやと思っていたけど、やっぱり好きになってたんかなぁ、知り合って間もないのに……。うれしいような、悲しいような、複雑な気持ちで陽子は真夜中の道を無我夢中で自転車をこいだ。
 それからも二人は家を行き来した。二人はただ一緒に黙ってすごした。息苦しくない沈黙が心地いい。会ったばかりはいつも冗談を言い合っていて、陽子は騒いでいるのが達哉だと思っていた。けれど今こうして落ち着いて言葉少なな達哉が陽子には本当の自分を見せているようだ。陽子も自分に無理することが無くなっていった。達哉は陽子を大きく包み込む何かを持っていた。

 達哉の練習がオフの日、達哉と陽子は二條城へ行った。それはよく晴れた春の日で、やわらかな光が初めて一緒に出かける二人を優しく取りまく。陽子はカメラを持ってこなかったことをつくづく後悔した。でも写真を撮る事に気を取られてあくせくするより、こうしてゆっくり達哉と二條城を巡って花見をするほうがいいように思われてきた。
二人は天守閣跡に登り街を一望した。京都中が桜色に色づいている。達哉は考えぶかげに黄昏の中をたっていた。深く静かなだった。
「去年の夏、東京に行ってな、新宿にある新都庁にのぼってきた。四十六階に展望ロビーがあるんや。さすが日本一の関東平野や、ずーっとはてしなく平やねん。でもその全てが建物で埋め尽くされていて、高層ビルが立ちはだかって、新宿御苑や皇居のこんもりとした緑がかえって不自然で、息が詰まりそうになった。それから下を見た。ほんまに人間が蟻に見えたわ。それがチョロチョロ歩きよる。下の広場に限らず東京中、日本中その蟻が歩いとんやな。俺もその一匹にすぎんのやなぁて思った。ありふれてるけど、そんなん見たら自分て何なんやろって漠然と思わへんか。俺は何してんのやろ、親のすねかじって大学行かせてもろて、勉強もせんと遊んでばかりや。テニスも中途半端でクラブの連中と遊んでる。こんなんでえんかな。俺自身が一番中途半端や……。」
「……今、京都の景観問題が騒がれとうやろ。やっぱり京都のこの景観は守ってほしいなぁ。十分壊れとるけどこれ以上壊して欲しくない。…けど、実際無理かもしれんな。時代にあったふうに古い家は建て替えられるし、新しいビルも建てられる。景観守ろうという方がエゴかもしれん。いつまでも同じってゆうのは無いんや。……一度築かれたもんはいつか壊されていくねん。何でもそうや、時がたてば変わっていく。……いつかは無くなってしまうんや。」
達哉は東山の方を見ながら独り言のように低い声で言った。そしてしばらく何も喋らなかった。東山を見つめる達哉のはいつのまにか厳しいものになっていて、東山ではなくどこか遠くをみていた。達哉が何を思っているのか陽子には読めず少し不安になった。でも達哉の厳しい瞳のなかに、冷酷さよりも何か未知のものに思いを馳せる若者特有の熱いものを感じた。陽子も東山の方を見た。陽子は達哉のいった事が分からないなりに、共感をおぼえるような気持ちになった。それから再び視線を達哉にもどし、胸のフィルムにそんな達哉の姿をしっかりと焼き付けた。

 その後、達哉からの電話が途絶えだした。陽子が電話をしてもいつも留守電であった。どうしたんだろう、陽子は心配でしかたなくなってきた。直接アパートに行ってみようとしかけたが、何故かその勇気もでない。一週間たってやっと電話がつながった。電話にでた達哉は終始無口で陽子はたまらなく不安になった。
「今、電話やめてくれる?」
不意に達哉が口をきいた。
「私、会いたい。会って話したい事があるんや。前からはっきり言いたかった事。」
「俺ないで。」
「……? で、でも話ししたい。」
「とにかく今やめてくれへんか。」
「何で?」
「………わからんか。今、部屋に彼女来てるねん。」
陽子は何が何だか訳が分からなくなった。確かにはっきり付き合おうっていったわけでないし、陽子からも好きだと言った覚えはない。しかし信じていた。知り合って間もないけど日数なんて関係ない、言葉にしなくても通じあっていると思っていた。陽子は達哉の身辺から付き合っている人がいるなんて、そんな空気の微塵も感じた事はなかった。
 次の日、陽子は達哉と会ったが、達哉の真意をつかむ事が出来なかった。達哉は陽子の目をみなかった。陽子の胸に大きな空洞ができた。泣きながら眠れない夜を何晩もおくった。何もできない。今までの無気力とは違って、何もかもできなくなったのだ。食事も、睡眠も、何もかも……。
 たった一ヶ月たらずの間に、陽子にとって達哉がこんなにも大きな存在になっていた。

 慎介と二條城へ行くことは、昨日まで全く陽子の考えになかった。昨日陽子は高校時代の仲間と久しぶりに飲んだ。慎介もその仲間の一人だ。
 陽子は、今年の夏は大文字の送り火を見に行こうと決めていた。仲間と飲みにいったのは、送り火を明日とひかえた日であった。飲み終わって酔いもさめた頃、夜景を見ようとみんなでドライブに出た。M町の隣町にあるH山から見える夜景は、六甲の夜景にはおよばないがなかなか捨てたものでない。さっきまで騒いでいた陽子たちがしんとなって、じっと夜景を眺めている。陽子は街の灯りを見下ろしながら、明晩の送り火のことを思った。四人で見るこんなちっぽけな夜景でさえ、すこし感傷的になる。明日の送り火を一人で見ることにだんだんと不安が募ってきた。
 帰りの車の中で慎介が明日バイトもないし何をしよう、と話したとき、陽子は咄嗟に
「はっちゃん、明日大文字の送り火を見に行こう。」
と叫んだ。どうしても一人は不安だった。
 河原町行きの特急に乗り込んでから、夜八時の送り火まで京都のどこに行こうか、慎介と陽子は話し合った。慎介は
「俺ちっちゃい時に一通り市内は廻っているから、どこでもええで。」
と遠慮がちに言った。
「………じゃあ、二條城に行こう。」
陽子は自分でも不思議だった。達哉との思い出の詰まった二條城を何故敢えて選んだんだろう。達哉と巡った、たった一つの史跡を……。陽子は他の人と行くことで思い出をこわしたくなかった。でもどうしても、もう一度二條城を目にしたい気持ちで陽子の胸はいっぱいだった。

 二人はようやく二條城東大手門に着いた。もうすっかり汗だくで、帽子の中はムレているが、熱い日射しの中、帽子を脱ぐこともはばかられる。陽子は風を通すため何度も帽子をかぶり直し、額の汗を拭った。
 門を入ると一面白州である。ザクッザクッと小石が靴にくい込むのを感じながら、陽子と慎介は二の丸御殿へ向かった。車寄くるまよせが見学者の
出入口になっており、柳の間、遠侍とおざむらいの間、式台、大広間、黒書院、白書院、と続く。大広間までの廊下を歩くとキュッキュッ、とうぐいす張りの床板が鳴る。床板と根太が〈目かすがい〉でつながっており、重力がかかるとそれが上下して〈針〉とすれあい、音が鳴る。うぐいす張りを陽子に教えたのは達哉だった。床板をきしませながら、陽子は慎介に向かって得意げにうぐいす張りの説明をした。
 各広間には絢爛豪奢な狩野派一門の襖絵が立ち並ぶ。天井を見上げると廊下廊下ですべての文様が異なっている。長年の月日でくすんでみえるが、建築当時はどんなに艶やかだったことだろうか、陽子は達哉と見たときと同じ感想を慎介に繰り返した。
 白書院までたどりつくと折り返しである。行きとは裏側の廊下を歩いて出口へと向かう。裏側は廊下ごとに小さな庭がみられた。すっと息を吸ってみると、古い柱と苔の湿った匂いが鼻を通っていく。息を吸う毎、京の空気になじんでいくような気持ちになる。心が安らかに落ち着いてくる感じだ。陽子は京の空気に染まっていく自分を心地よく思った。
 老中の間を過ぎると、相当に古ぼけた衝立が目に入った。文化財保護のためプラスチック板がその前に張り巡らされている。陽子は衝立の前に立ったが、プラスチック板に光が反射して絵はよく見えず、自分の影が映った。陽子はハッとした。自分の影の後ろに当然の如く達哉が立っていると思っていたからだ。さっきから振り返ればそこに達哉がいるような気がしていた。プラスチック板に映った影は慎介だった。たまらなくなって陽子は出口の車寄へと足早にかけ続けた。
 天守閣跡にのぼって陽子はあたりをみまわし、あの時の達哉が考えていた事がある意味で分かったような気がした。
 二條城はあの時のまま何も変わっていなかった。ただ桜が消え去り、緑がぎらぎら眩しく蝉がうるさく鳴いていた。
 ……そして陽子の隣にいるのは達哉ではなく慎介だった。

 夏の陽はなかなか沈まない。慎介と陽子は北山大橋の西端に立って、夜になるのを待っている。賀茂川の河川敷には、大文字の送り火を見るためにゾクゾクと人が集まっている。なかには浴衣を着たカップルなども目につき、団扇を片手に河川敷に腰をおろす。
 右頬が西陽に当たって熱い。陽子は焼けないように手で顔を覆った。慎介は海水浴で焼けた肌の皮がめくれ始めていて、もうどうでもよいふうだ。二人も河川敷へ降りて行き、木陰に入った。そして黙って西陽の反射する川面かわもを見つめた。
 不意に陽子が口を開いた。
「なぁ、はっちゃん。何で人ってキスするんやと思う?」
突然のそれも突飛な質問に慎介は慌てて、ええっ?と聞き返した。
「何でキスするんかな。性欲の原理って種族保存やん。そのためやったら別にキスという行為なんか直接必要ないなぁて考えたんや。……でもな、最近気が付いたんよ。人間の愛情表現の基本は口なんやなーって。」
慎介はあっけにとられたままだったが、やがて興味深げに陽子を見つめた。陽子はそれに気付くようでもなく、堰をついたように話し続けた。
「人間生まれたとき、まず最初に口から声をあげて泣くでしょ。『ここどこー?こわいよー、なんか不安やー』て発信してるんやなぁ。人間は母胎からの分離から不安を持って生まれてくるねん。生まれたばかりで目が見えへんけど、口に乳房当てがわれると、ピタッと泣き止んで必死でおっぱい飲む。その時に初めて母親の存在を認識する。口でな。おなかすいたら泣けばお母さんがおっぱいくれる。不安やったら声だして泣けばお母さんが来てくれる。こうやって生まれたときからの不安が徐々に解消されていくねん。口が愛情表現の基本やって気付いた。こんなん私が力説せんでも、とっくにフロイトによって言われてるんやけどなぁ。自分で実感してからフロイトのこと知ったんや。
知ってる?リビドー説って?フロイトは性本能の発達を、口唇こうしん期、肛門期、男根期、潜伏期、性器期に分けてるねん。赤ちゃんは口唇を通して他者、つまり母親との信頼、依存、安全確保を確立するって。な、これ男女に置き換えられるやん。キスによってお互いの感情、信頼を確認する。なぁ、あってるやろ?ちゃんと小さい頃の発達段階に基づいているよな。うん、そうやったんか。……うん、そうや。」
陽子は一人納得した。
「……へぇ。そんなん考えるんや、陽ちゃんて。俺は単純に好きやからキスするんやと思とったけど……」
慎介は感服とも、呆れともつけかねる表情をして、ちょっとした興奮から頬を上気させている陽子をまじまじと見つめた。

 人の数がどんどんと増えてきた。東山には、うっすらと大の文字が見える。集まった人々の待ちあぐねる声、必死になって良い場所を確保しようとする声で河川敷一帯はざわめいている。
 人々のどよめきが起こった。
「おっ、ついた、ついた。点火や。」
その声に東山を見上げると、一画一画が交わった大の字の真中心に大きな炎がついて、上へ横へななめへ火はのびていき、真っ黒な夜空に大の字が浮かび上がった。一瞬、辺り一帯に静寂が訪れ、人々は皆息をのんで送り火を見つめた。そしてあちらこちらで送り火を称えるため息が起こっていった。その間陽子はキュッと口唇くちびるを結んで、喰いいるように東山に浮かぶ送り火を見つめ続けた。そして京都は何でこんなに静かな行事が多いんやろう、と思った。後ろから
「京都のお祭は何かにつけこう静かやねぇ。」
と、ある中年の女の声がした。
「同じこといってるなぁ。でも送り火はお祭と違う、送り火は盂蘭盆会の行事や」、と陽子は思い自分ではっとした。
「そうや、盂蘭盆会や。盆に帰ってきた魂を送るんや……。」
 だんだんと煙が立ちのぼり、文字が途切れ途切れになってきた。名残惜しそうに燃える炎が何か寂しげだ。
 陽子は終わった……、と思った。

 慎介とは梅田で別れて、陽子は下宿に帰ろうとしたが、一人になるのが恐く雑踏に紛れていたくなって阪急電車の構内にいた。何台も設置された自動改札機、十連近く並ぶホーム、陽子の目の前を絶え間なく人が通り過ぎていく。電車がホームに入ってきた。長い列の人々が先を争って車両へなだれ込む。陽子は何人にも肩をぶつけられ、ホームに立ったまま何台もの電車を見送った。何十人、何百人、どこからともなく人波が打ち寄せては電車に乗って去っていく。そしてまた人はやってくる。こんなにたくさんの人がいてもやっぱり陽子は一人だった。
 いつのまにか最終電車になった。車両のステップに足をかけ陽子は自動改札機の方を振り向き、発車のベルが鳴るまでずっと見ていた。それからやっと電車に乗って人気の無いR駅で降りていった。

 しばらく閉めきっていたので、部屋に入るとムッと熱気が襲ってくる。陽子は窓を開け放し、電気もつけずに畳の上にドカッと大の字に寝転んだ。今日はよく歩いた。足にじんわりと疲労感が漂う。足の裏がいやに熱い。陽子は右に左にと何度も寝返りをうった。そしてにわかに起きあがり、タバコに火をつけた。フーッと白い煙を吐き出す。一直線にのびた煙は、ゆらゆら広がるように消えていった。
 今日一日、慎介には悪いが心はいつも達哉とあるいていた。達哉と見た二條城、達哉と歩いた京都、ずっと胸がしめつけられているようだった。今タバコを喫い、大きく息を吐き出してやっと呼吸ができたという気がする。タバコの火を見つめた。巻紙がメリメリ白い灰になっていき、中の葉があかあかとマグマ色に燃える。その火を見て、陽子は送り火の炎を思い返した。美しさなんて一瞬のものだった。また、はかなく一瞬にきらめくからこそ美しかったのかもしれない。……だから達哉との思い出がぬぐい去れないのだろうか。一瞬に輝いて消えていった炎が達哉で、煙をあげてくすぶり続ける炎が今こうしてタバコを喫う自分なのか。
 陽子はもう一口タバコを喫った。達哉とのことがあってから覚えたタバコの味にも、もうすっかり慣れてしまった。はじめは苦しかった。けれど喫った空気に変に質量感があってせつなさに張り裂けそうなくらい膨張した胸を満たしていく、達哉の事でいっぱいの頭が達哉以外の事で覚醒していく、そんな気がして止まらなくなった。心はタバコに対する罪悪感にさいなまれながら……。思考力が低下してきた、舌先が麻痺する、でももう一口、もう一口。夜はタバコの煙に染まっていく。
 以前何もかも忘れたくて酔って酔ってふらふらで泣いたとき、慰めていた男友達が陽子にキスをしようとした。陽子は分からなくなった。
 何で達哉は私にキスをしたん?ただの口唇期?

 どうしようもない不安感が陽子の周囲を取りまく。皆が皆まわりから去っていくような気がする。空虚、頭が空虚、心が空虚だ。ずっと達哉を思い起こした。どんどん悲しくなって、そのうち達哉のことなんか通り過ぎて、小さい頃からの悲しみが頭の中を駆け巡ってきた。お母さん、陽子を一人にせんといて。真弓ちゃん、私を置いて引っ越さないで。純子、私を無視しないで。お父さん、お母さん、けんかはやめや、人の醜さ見せないで、私の前で泣くのはやめて。陽子を見て、陽子を見てよぉ。お母さん、お母さん、みんなだいきらいや。
 陽子は大声を出して泣いた。なぜだかすべてを母親のせいにしたくなってきた。こんな泣き方をしたのはいつ以来だろう?陽子はわめき散らした。喉の奥のひだが赤く腫れ上がり、泣き声が喉頭に反響して耳にぬけていく。泣きじゃくりが続いて喉がつまって一瞬息がとまった。そして潮が引くかのようにすーっと冷静にたち戻り、何やってるんや、と陽子は自嘲的にうすら笑った。
 陽子はもう一本タバコを取り出した。その時ふと、フロイトの言葉が陽子の頭をよぎった。
「発達段階が口唇期で固着した人は、口唇性格こうしんせいかくと呼ぶものが発達する。食べる事、タバコをすうこと、話すことに快感を持ち、依存的になる……」
気持ちが落ち着かず、タバコを二箱も空けた夜もある。放心状態で食べ続けた日々もある。ああ、あれもこれも口唇性格の現れやったんか、と無理に理由付けて心を落ちつかした。陽子はタバコを口にくわえたが、口唇期、と呟くと火もつけずに放り出した。そしてもう一度大の字に寝転がり、天井を見た。昼間二條城で見たの天井と違う。天井ってこんなに低かったっけ? 焦点が定まらない。部屋全体が圧迫され天井が落ちてくる錯覚におそわれて、陽子はとっさに目を覆った。
 何だか帰りたくなってきた。両親の元ではない、達哉の腕の中でもない。陽子に帰る場所なんか無かった。でもどこなんだろう、どこなんだろう、無性に帰りたい。
陽子は呟きながらそのまま眠りに落ちていった。
「口唇期、口唇、…こうしん……………。」

 朝、目覚めると陽子はいつもの通り今日もまた、小さく小さく、これ以上縮めないというほど丸くなって眠っていた。

「桜月の夜」

沢田 美穂

 「それは、本当に見事な桜の木なんだ」
以前、まだ私たちが高校生だった頃、圭介が話してくれた事がある。
「学校の裏山の奥深くにひっそりとたっているんだけど、そんな山の中に、大きな桜の木があるなんて事、誰も知らない。だけど、この町にあるどんな桜よりも美しい花を咲かすんだ」
「七谷川の桜より?」
私は、こう尋ねた。七谷川というのは、町一番の桜の名所だった。
「もちろんさ。たった一本で咲き誇っているんだ。誰に見せるでもないのに、たった独りで」
そういうと、圭介は何処かしら目を遠くへ向けた。まるで、その山の奥深くにある桜の木を探してでもいるかのように。
「圭介は、見た事があるの?」
「いや、ないよ」
「じゃあ、どうして知っているの?」
「人から聞いた話だよ。小学校の頃入っていたサッカークラブのコーチが言っていたんだ。どこにでもあるお説教話さ。努力は人に認めてもらう為にするんじゃないって事」
「なあんだ」
「本気にしたのかよ。そんな出来過ぎた話、あるわけないだろ」
その後、私が何を言ったのか、圭介がどう答えたか思い出せない。本当になんでもない会話の断片なのに、どうしてこんなに気に掛かるのだろう。何故、今日、こんな時になって思い出したのだろう。私はハイヒールの踵を気にしながら、山道を登っていた。
 時々、何処からか鳥の鳴き声が聞こえてくる。ようやく新芽を身に纏い緑を取り戻し始めた春の木々たちが、頭の上に覆いかぶさっている。ここはまるで下界から閉ざされた異空間のようで、私は現実を忘れてしまいそうになる。今頃、圭介の家は黒い喪服で埋まっている事だろう。圭介は、もうすぐ旅立っていってしまう。圭介は、もう二度と、帰って来ない……。
 わたしは、何故今こんな所に、こんな山の中にいるだろう。自分でもよく分からないのだ。確かに、朝、家を出るまでは式に参列するつもりだった。確かに、圭介の家へ向かう為に家を出た筈なのに、気が付いたら足が懐かしい高校へと向かっていた。そして、圭介が言っていた桜の話を、ふと、思い出したのだ。
 本当は、お葬式へなんか行きたくないという気持ちが、心の何処かにあったのかもしれない。そう、昨日、お通夜で麻衣子に会った時から。
 『せめて、涙の一粒くらい、ケースケ先輩の為に流してあげたっていいじゃないですか。』
という麻衣子の言葉が、昨夜からずっと心に突き刺さっていた。

 圭介の訃報を聞いたのは、おとついの夜だった。私は新学期の準備の為に、下宿に戻っていた。家からの電話で、私は圭介の死を知った。そうして、取るものも取りあえず、翌朝、朝一番でこの町に帰ってきた。何だか、目の前で起こっている物事が全て、現実の事とは思えなかった。全身が薄い膜で覆われてでもいるようで、感覚自体がぼんやりとしていた。悲しい筈なのに、涙も出て来ないのだ。さっきからずっと泣きたいと思っているのに、悲しいと思えば思う程、涙が何処かへ消えていくようだった。ああ、でも、この表現も適切ではないような気がする。悲しいという気持ちすら、湧いてこなかったと言った方がいいかもしれない。とにかく、全ての感覚がじんわりと麻痺しているかのように、ぼんやりしていた。 その夜、わたしはぼんやりとしたまま、母に促されて圭介の家に行った。母がそんなわたしの様子を心配してついていくと言い張ったのだが、わたしは断固としてその申し出を断った。わたしは、圭介の所へ一人で行きたかった。
 圭介の家へと向かう途中で何度か大きなクラクションの音が耳元で鳴り響いていたけれど、それすらも夢の中の出来事のように思えていた。
 圭介の家は親戚の人達で取り囲まれて、異様な雰囲気に包まれていた。まるで、夜の闇に家が飲み込まれてしまっているようだった。昔は何度も訪れて隣近所のように馴染んでいた圭介の家が、今日は他人の顔をしてわたしを迎えた。
 その重々しい雰囲気に背中を押されるようにしてわたしが家に入ると、中から大きな泣き声が聞こえてきた。麻衣子だった。制服の肩を震わせて、大粒の涙をぼろぼろ零しながら、声をあげて泣いていた。傍らでは、圭介のお母さんがその背中をさすっていた。疲れているのか、それともあまりにも大きな悲しみの為なのか、無気力な表情が痛々しかった。私は何も言えずに、黙って頭を下げた。この場にいるのがいたたまれなかった。
「なつきちゃん。なつきちゃん来てくれたのね」
おばさんが顔をあげて、私を見つけた。とたんに、また、涙が溢れてきたのだろう、ハンカチで目元を拭いながら、私にそっと言った。
「なつきちゃんに圭介から言付かっている物があるのよ。後で、圭介の部屋に来てくれる?」
私は麻衣子のいる方に目をやった。麻衣子も涙を拭いながらじっと様子を伺うように私を見ていた。
 御焼香を済ませて、二階に上がった。勝手知ったる……、といった感じだった。何度この家に遊びに来た事だろう。何度圭介の背中について、この階段を上がった事だろう。今でも目の前に圭介の大きな背中があるような気がする。目の前に圭介の踵が撥ねているような気がする。この階段を上り切ると、圭介が部屋で待っているような……。そんな事がある筈ないのに。
 圭介の部屋のドアを開けると、おばさんが待っていた。
「なつきちゃん、まあ、座って」
おばさんは、穏やかに言った。もう、さっきの涙も落ち着いたようだった。おばさんは、そんな私の思いに気付いたのだろう。
「なつきちゃんを見たら、あんまり懐かしくて、ついつい涙が出てしまって……。ごめんなさいね」
私は、おばさんに何も言ってあげる事ができなくて、ただ首を振った。
 この部屋に来るのは、本当に久し振りだった。見渡すと、昔のまま、高校の時のままの圭介の部屋だった。ただ、生前よりもきちんと片付いている所と、机の上に花が飾ってある所だけが、違っていた。後は本棚も、飾ってあるジクソーパズルも、棚の上の飛行機の模型も、みんなあの頃のまま。
「変わってないでしょう?」
おばさんが、少し笑ってそう言った。
「高校の時はよく遊びに来てくれたのに、最近はさっぱり来てくれなかったでしょう?圭介になつきちゃんをつれておいでって言っても生返事ばっかりだし」
私は曖昧に笑ってごまかした。
 私は、このおばさんが好きだった。気さくで、優しくて、人見知りをする私が、このおばさんにはすぐに打ち解けた。おばさんも、私の事をまるで娘のようにかわいがってくれた。おばさんにお料理を習ったり、編み物を習ったりした事もあった。仕事でいつも飛び回っている母よりも、このおばさんに教えてもらった事の方が沢山あるかもしれない。圭介と会わなくなって、この家に来る事もここ数年はなくなっていたので、おばさんに会うのが少し怖いような気がしていたのだけれど、おばさんはちっとも変わっていなかった。
「圭介に頼まれていた物っていうのは、これなのよ」
おばさんが私に差し出したのは、サッカーボールのキーホルダーだった。プラスチックでできているのだけど、口笛を吹くとその音に反応して『喜びの歌』のワンフレーズが流れる仕組みになっていた。圭介が中学校の卒業式にサッカー部の後輩にもらったものだ。圭介は、このキーホルダーをとても大切にしていた。このキーホルダーを持っているとシュートがよく決まると言って、試合の時はいつもポケットに忍ばせていた。
「圭介が、私に、これを」
「どうせあげるなら、もっといいものにしなさいって言ったんだけれどね。これだって、きかないのよ。これを渡したら、分かってくれるって」
「分かる?」
「私にはなんの事だかさっぱり分からないのだけれど、とにかく渡してくれって。結局これが形見になってしまったのねえ。……あの子、分かっていたのかもしれないわね」
おばさんの瞳がまた涙で揺れた。その時、
「母さん、ちょっと」
下から、男の人の呼ぶ声がした。
「ああ、お兄さんも帰って来てらっしゃるんですね」
私は、ぼんやりと呟いた。圭介に四つ違いのお兄さんがいるというのは圭介から聞いて知っていたけれど、会った事はなかった。東京の方の大学へ行って、そのままあっちで就職をしたという事だった。
「そうなの。こんな時にしか帰って来なくって。ごめんなさいね、
ちょっとおりてくるわ。なつきちゃんはゆっくりしていってね」
おばさんはそう言い残すと、階下へとおりていった。
 私は、もう一度ゆっくりと圭介の部屋を見渡すと、圭介の家を後にした。

 「先輩、佐伯先輩」
圭介の家を出てすぐの角を曲がった所で、急に後ろから声をかけられた。麻衣子だった。
「ちょと、いいですか」
「何?」
「話したい事があるんです」
麻衣子がわたしに何かを話す時は、いつもどこか突っ張ったような感じがした。この時は特に、突っ掛かってくるようなそんな声色だった。わたしは気が重かった。わたしには麻衣子に話す事なんて、何もなかった。何より今は、麻衣子と面と向かい合いたくなかった。
 喫茶店に入って、二人とも注文を済ますと、暫く沈黙が続いた。わたしはじっと麻衣子が何か言い出すのを待っていた。麻衣子はまだ感情が高ぶっているらしくて時々しゃくり上げていたが、ふいに、
「結局、それ、佐伯先輩がもらったんですね」
と言った。一瞬何の事か分からなかったのだが、麻衣子の視線を辿ってみると、わたしの右手に行き当たった。そうしてやっと、キーホルダーの事を思い出した。おばさんに貰ってから、ずっと無意識に右手に握り締めていたのだった。
「ああ、これ」
わたしはぼんやりと呟いた。
「一度、ケースケ先輩に返したんじゃなかったんですか」
麻衣子が問い詰めるように言った。
「そうなんだけど、今日、おばさんに貰ったの。圭介……高野君が渡してくれって言ってたらしくって」
「ケースケ先輩は本当に佐伯先輩の事を思っていたんですね」
わたしは、じっと麻衣子を見つめた。麻衣子は、敵を見るようにわたしを睨みつけて、続けた。
「先輩もわたし何かより、ずっと、ケースケ先輩の事を理解しているんでしょう」
「何が言いたいの」
できるだけ、冷静に言ったつもりだった。けれども、思いがけず声が震えた。わたしも、少し情緒が不安定になっているらしかった。
「そんなにお互いの事を想いあって理解しあっているのなら、どうして二人付き合わなかったんですか。ケースケ先輩は、どうしてわたしなんかと付き合ったりなんかしたんですか」
「一体、何が言いたいの?もう少し分かるように話して」
「……ケースケ先輩、ずっと、うわ言で、佐伯先輩の名前を呼んでたんですよ」
「圭介が……」
「何で、病院に来なかったんですか。ケースケ先輩が入院しているって事、知っていたでしょう?」
「行ったわよ。あなたも知ってるでしょう。でも、圭介が、もう、来るなって」
「そんなの、強がりに決まってる。それくらい、分からない訳じゃないでしょう」
「それに、」
「それに、何?」
わたしは一呼吸おいて、一語一語注意して言った。
「あなたがいたから」
麻衣子は、その言葉がひどく引っ掛かったようだった。
「わたしがいたから、来なかったっていうの。わたしが邪魔だって言うの」
「そうじゃない。わたしが邪魔したらいけないって思って……」
「先輩はいっつも、そう。自分の気持ちを押し殺して、傷付かないように予防線を張ってる。はっきり言ったらいいのに。わたしが邪魔だって。ケースケ先輩の事が好きだって」
「麻衣ちゃん、落ち着いて。あなた、何か誤解してるわ。わたしと圭介はただの友達だったのよ。ずっと、そう言ってるでしょう」
「嘘。そんなの嘘だわ」
「何故、嘘だと思うの?」
「そのキーホルダーだって、ずっとわたしが欲しかったのに。ずっとケースケ先輩に頼んでたのに、結局、わたしにはくれなかった」
「それとこれとは関係がないでしょう。それに、頼んでたって言うならわたしの方が先だったし」
「だけど、一度、ケースケ先輩に返したじゃない」
「それは……、それは、このキーホルダーが圭介の大切なお守りだって知っていたから」
「わたし、ずっとずっと悔しかった。ううん、羨ましかった。ケースケ先輩と話していても、佐伯先輩の影が必ず何処かにあるの。ケースケ先輩はとても優しかったけれど、一番大切な事は、何も話してくれなかった。そんな時はいつも、お前は俺の事を本当には分かっていない、本当に分かっているのは佐伯先輩だけだって、言われているような気がした。そんなのって、つらいじゃない。好きだったら、相手の事を本当に理解したいと思うものでしょ。違いますか」
「でも、あなたは圭介の彼女だったじゃない。わたしが知っている中で、圭介が誰かと付き合ったのって、あなただけよ。ちゃんと、最後まで病院に付き添って、長い間圭介の側にいられて、何にも悔いなんてない筈でしょう」
「そんな事を言っているんじゃない。ケースケ先輩が、最期に一番側にいて欲しかったのは、わたしじゃなくて、佐伯先輩だったんです。結局わたしは最後まで、蚊帳の外だった。それが、とてもよくわかったから……。わたし、名前だけの『彼女』になりたかった訳じゃない。わたしはケースケ先輩を一番理解できる人間になりたかった。ケースケ先輩が必要としてくれる存在になりたかった。わたしは、佐伯先輩になりたかった」
 パシンと小気味よい音が静かな店内に響いた。人をぶったなんて初めてだった。手がじんと痺れていた。テーブルの上の冷めたコーヒーがのったりと揺れていた。思いがけないわたしの反応に、麻衣子はびっくりして左の頬を押さえた。
「ご、ごめんなさい。……でも、今日はそんなこと言うべきじゃないでしょ。そんな事、言うべき日じゃないでしょう……」
麻衣子はその大きな瞳でじっとわたしを見据えて、言った。
「……わたし、昔は先輩に憧れていました。しっかりしているし、わたしみたいに感情をすぐに表に出したりしないし、大人だし……。いつか先輩みたいになりたいと思っていました。だけど、こんなのってあんまりじゃないですか。ケースケ先輩はもう……いないんですよ。こういうのはもう冷静って言うんじゃない、ただの意地っ張りです。いつまで意地を張っているつもりなんですか。一体、誰に対して意地を張っているんですか。わたしにですか。そんなの、圭介先輩が可哀想過ぎる。……せめて、涙の一粒ぐらい、ケースケ先輩の為に流してあげたっていいじゃないですか。」
 泣きたくなくて、涙を見せない訳じゃない。そう言い返したかった。ううん、もっともっと、言い返したい事は沢山あった。勝手な文句ばかり言われて、どうして黙っているんだろう、とも思った。……だけど、結局、何一つ言い返す事が出来なかった。……意地を、張っているのだろうか。そうかもしれない。わたしは今まで精一杯意地を張って来たのだ。麻衣子に対して、圭介に対して、そして何より自分自身に対して……。そう、あの時、麻衣子の存在を初めて意識したあの時から。

 わたしたちが高校三年になった時、麻衣子は入学してきた。麻衣子はすぐにサッカー部のマネージャーになった。顧問の先生がマネージャー制度には反対で、今までマネージャーなんていなかったのに、あの子が強引に押し切ってしまったのだった。麻衣子の事は、時々圭介から聞いていたが、実際にあの子に会ったのは夏休みが終わった頃だった。
 授業が終わって、圭介を待っている時、あの子がわたしに向かって子犬のように駆けて来たのだ。そうして、まだ中学生のようなあどけなさが残る瞳でわたしの顔をのぞき込んで、
「先輩、高野先輩とつきあっているって本当ですか?」
と、無邪気に聞いてきた。わたしはそのあまりのストレートさに面食らって、一瞬あぜんとし、そうして、大きく首を振った。
「そんなんじゃないわ。ただの友達よ」
確か、そう答えたと思う。そして、それは本当にその通りだったのだ。圭介は本当に気の合う友人だった。確かにしょっちゅう一緒にいたし、よく登下校も一緒にしていたから、周りではいろいろな噂がたっていた。だけど、二人ともそんな事を気にする性格ではなかったので、否定するでもなく、肯定するでもなく放っておいていた。麻衣子がその噂を聞いてやって来たのであろうという事は、容易に想像がついた。圭介は、サッカー部のエースで目立っていたからよくもてていたし、同級生や下級生が遠巻きにして騒いでいるのは何となく知っていた。けれども、わたしの所に噂の真偽を確かめにやって来たのは、麻衣子が初めてだった。
「本当に?」
麻衣子の黒目がちの大きな瞳がくるくると動いた。
「え……ええ」
「じゃあ、わたしがケースケ先輩に告白してもいいんですね」
全く、あの無邪気さは何処から出て来るのだろう。あの行動力は麻衣子の小柄な身体の一体何処に隠れているのだろう。わたしは麻衣子の勢いに押されっぱなしだった。
 そして、麻衣子のその無邪気さも、その行動力も、そのまま圭介に向かって流れ始めた。その時ちょうどやってきた圭介に向かって、麻衣子はその「告白」とやらをやって見せたのだ。しかも、わたしの見ている目の前で。
 圭介は、少し困ったようにわたしの方を見た。その時、わたしは圭介が断るだろうと思った。どうやって断ろうか、そういう目でわたしを見たのだと思った。
 ところが、その時麻衣子がタイミングよく叫んだのだ。
「佐伯先輩には、さっき、了解をとりましたよ」
本当か、そういう目で圭介はもう一度わたしを見た。そうして、しばらく考え込んだ後、麻衣子の申し入れを受け入れた。
 圭介がわたしを見た瞬間に、わたしに了解を取っていると叫んだ麻衣子のしたたかさに、わたしはあぜんとしてしまって何も言う事が出来なかった。確かに、圭介と付き合っていないとは言ったが、それが圭介とあの子の中を承認した事になるのだろうか。けれども、わたしはその事を圭介に言い訳する事ができなかった。もし、言えていたとしても状態は変わらなかっただろうけれど、わたしの中の蟠りはいつまでも消えずに残った。
 そうして、少しづつ、わたしと圭介の距離が開いていった。その後すぐ、わたしも同じクラスの男の子と付き合う事になった。当然、一緒に帰る事も、互いの家を行き来する機会も減っていった。学校でも、クラスが違った為に、話す機会すら殆どなくなっていた。そうして、そのまま高校を卒業し、それぞれ大学に進んでいった。もう、会う事もなくなっていた。
 麻衣子がいても、別に、私たちの仲が疎遠になる必要なんてなかったのだ。私たちは友達だったのだから、麻衣子とはまた違う形で圭介と繋がっている事も出来た筈だった。けれども、何故だろう。校内で圭介と麻衣子が一緒にいる姿を見るのが、とても辛かった。何時からか、麻衣子に対して、理不尽なまでのコンプレックスを抱いている自分に気付いた時、そんな自分がたまらなく嫌になった。たまに圭介と話していてもそのコンプレックスが必要以上に刺激されて、いつもいらいらしていた。
 わたしが麻衣子に対して持っていたコンプレックスは、やはり、今も変わっていないのだと思う。麻衣子はわたしにないものを沢山持っていた。色白の肌に、栗色の柔らかな髪の毛、くりくりっとした大きな瞳に可愛らしいえくぼといった愛らしい容姿はもちろんの事、感情をはっきりと出す強さや、物怖じしない物言いなどといった性格的な要素は、尚更わたしにはないものばかりだった。それは、憧れであると同時に、わたしにとっては脅威でもあったのだ。
 一瞬、麻衣子にわたしが持っているこういうコンプレックスやら、蟠りやらをぶつけてやりたいという衝動にかられた。そうすれば麻衣子も少しは驚くだろうか……。
 けれども、結局わたしは何も言い返す事が出来なかった。それは、わたしのほうが年上なのだから、という自覚と言うよりも、こうしたもやもやした思いをどう言葉にしていいのか分からなかったからだった。あの時、わたしは本当は何が言いたかったのだろう。

 山道はだんだんきつくなってくる。もうハイヒールなんて履いていられない。わたしは思い切って靴を脱いで、裸足になった。両手にハイヒールを持って歩き始めると、舗装されていない道の小石が足の裏に食い込んで、とても歩き辛い。けれども、すぐになれるだろう。昔、小学生だった頃は裸足で校庭を走り回っていても平気だった。なのにわたしは、何時から靴を履かないと歩けないほどひ弱になってしまったのだろう。昔は一人でも平気だった筈なのに、誰かが側にいてくれないと一人で泣く事もできない程、いつからこんなに心が弱くなってしまったのだろう……。
 それにしても、本当に桜の木なんてあるのだろうか。足元を気にして、大きな石を避けて歩きながら、思わず考えてしまう。桜の木の存在は信じているつもりだけれど、もう、家を出てから数時間は経っている。周りは行けども行けども雑木ばかりで、桜の木なんて一本もない。春の日は短い。もうそろそろ、日が傾こうとしている。早くしないと、日が完全に沈んでしまったら、周りが見えなくなってしまうだろう。そうしたら、桜を探すどころではない。急がなくてはいけない。なんとしても桜の木を探さなくては。わたしは、桜の木に逢わなくてはいけないのだから……。
『何時まで、高校時代に拘っているんだよ。』
突然、村井くんに言われた言葉を思い出した。
『何時まで昔に拘っているんだよ。いくら考えたって、戻れっこなんかないんだよ。時間はどんどんどんどん過ぎて行くんだ。俺たちだって、それに合わせて成長していかなくっちゃならない。いつまでも立ち止まっている訳にはいかないんだ。違うかい』
あの時、村井くんは確かにそう言った。歩いていると、いろんな事が思い出されてくる。いろんな考えが頭を巡る。今は、何も考えたくないのに、考えたくなんか、ないのに……。

 去年の春、高校の頃の同窓会があった。そこで、約一年ぶりに村井くんと再会したのだ。
「久しぶり」
村井くんは、何の屈託もなくわたしに声をかけてきた。わたしは思わず顔を伏せた。そんなわたしの様子に気が付いたのか気が付かないのか、村井くんは明るく続けた。
「元気だった?手紙書いても何の返事もないから、心配していたんだ。ホームシックにでもかかってるんじゃないかって」
「そんな……」
「……話があるんだ。佐伯さんも、話したい事、あるだろう?ここじゃあ何だから、明日もう一度会わないか」
 わたしは、できるなら、このまま、なし崩しにして終わりたかった。今頃は村井くんもわたしの事なんか忘れているに決まってる、と無理やり思い込もうとしていたのに、現実はそんなに甘くなかった。村井くんがはっきりこう言ってきた以上、会わない訳にはいかなかった。自分のいいかげんさが招いた事なのだから、自分でけりをつけなければならない。例えそれが、誰かを、村井くんを傷付ける事になっても。いや、もうすでに十分傷付けて来てしまっているのだ。今までの自分の曖昧な態度のせいで……。
 翌日、重い気分のまま約束の場所に行ったら、村井くんはもう既に来て、待っていた。
「ごめんなさい。遅かった?」
「いいや、少し早い目に来てたんだ」
村井くんは相変わらず優しかった。
 わたしが注文したコーヒーが来るまで、なんとなく二人とも黙っていた。村井くんは何かを考えているようだったし、わたしは昨日から考えていた事をどう切り出そうかと迷っていた。ついに、重苦しい沈黙に耐え切れなくなって、口を開きかけた時、村井くんが言った。
「佐伯さんの言いたい事は、だいたい分かっているよ。だから、俺の方から言わせてもらうね。けじめをつけよう。今まで、佐伯さんを苦しめてきただけだったみたいだけど。……分かっていたんだ。手紙の返事がない理由も、佐伯さんが俺に会いたくない訳も。分かってたけど、気付かない振りしてた」
「ごめんなさい」
わたしは村井くんの顔を見る事が出来なかった。
「あやまンないでくれよ。今までずるずる長引かせてたの、多分、俺のせいだし……」
「そんな……。わたしが悪いの。初めから、もっとはっきりしていれば、」
「俺となんか付き合わなかった?」
「……」
「結局、圭介にはかなわなかったって事か」
「違う。圭介は関係ない。圭介は……。圭介とは、本当にただの友達だったの。ただ……、」
「ただ?」
「ただ、あんなに気が合うって言うか、一緒にいて安心できる人ってなかったっていうだけで」
「安心できる?」
「何て言うのかな。上手く言えないんだけど、ものの感じ方がとても似ていたの」
「それじゃあ、抽象的過ぎてよく分からないよ。……他の人じゃ圭介の変わりになれない?」
「……」
「そう……か」
「わたしね、初めて圭介に逢った時、圭介の事、大っ嫌いだった」
村井くんはわたしが突然話始めた事に、少し面食らったようだった
「わたし、高校に入った時、クラスの女の子と喧嘩して、クラスからういちゃった事があるの」
わたしは一つ一つの事実を確かめながら、ゆっくり話し出した。
「佐伯さんが?」
「そう」
「信じられないな。」
「村井くんとは三年でしか一緒のクラスにならなかったから……。でも、わたし小学校、中学校と結構そういう事あったの。人と適当に合わせるのが下手っていうか、融通が利かないからすぐ人と衝突してしまう。本当は一人ぼっちになるのが怖くてしょうがないくせに、意地張って強がってしまうから。一人でも平気だよって顔して。小学校中学校はそうやって意地を張り通してきたのね。でも、いいかげんもう嫌になって、高校に入ったら自己改革してやろうって思って意気込んでた。なのに入って一カ月で一番仲良かった子と喧嘩してしまって……」
「喧嘩って、取っ組み合いか何かしたの?」
「まさか、流石にそんな事しないわよ。女の子同士だもの。だけど、女の子同士ってかえって怖い所あるのよね。グループがあって、そのリーダー格の子に嫌われたらもうそのグループにはいられなくなるの。たまたまわたしが衝突したのがそういうリーダー格の子だった」
「へえー、バカバカしい」
「そう思うでしょ。わたしも、そう思う。だから今まで無理して仲間に入ろうとしなかったっていう所もある。でも、あの時は自分を曲げてでも仲直りしようとしたの。もう、一人になるのが嫌だった。村井くんは、そんな事考えた事ないでしょう」
「男と女は違うからね」
「そうかしら……。例えばね、村井くんが女の子でも、やっぱりそんな事考えないと思う。村井くんは人の輪を作るのがとっても上手い人だから。自分から人に合わせなくても、自然に村井くんの周りには人の輪が出来るのよね。でも、わたしは違う。そして、圭介も……」
「だけど、佐伯さん、三年の時クラスで友達沢山いたじゃないか。別に浮いてるって気はしなかったけど」
「それはね、圭介がいたから。人間ってね、足場がしっかりと固まると簡単に変われるのよ」
「さっき、初めて会った時は、圭介の事大っ嫌いだったって、言ってたよね。どうして?」
「わたしがね,その友達と仲直りしようとして一生懸命もがいていた時に、圭介が言ったの。『お前、無理してるだろ。やめとけよ。似合わないぜ』って」
「……」
「今でもよく覚えてる。教室移動で、わたしぐずぐずしていたから最後になっちゃって、慌てて教室から飛び出したら、廊下に圭介がいたの。梅雨時の暗い廊下で壁に凭れて立っていた。わたし急いでたから『あっ、高野くんがいるな』って思いながら、通り過ぎようとしたのね。そしたらその時、」
「圭介が言ったんだ」
「そう。『お前、無理してるだろ。やめとけよ。似合わないぜ』って」
「まあ、圭介らしい台詞だよね」
「あのつっけんどんな言い方でね。……人間てね、本当の事言われると腹がたつんだって。あの時、圭介の言葉はまさに図星だったから、わたし俄然腹が立った。高野くんに何が分かるのよって。まだ高校に入ったばかりだったし、男子の事なんて余り知らなかったけど、圭介がサッカー部のホープだって事くらいは噂で聞いていたし。そんな何もかも上手くいっているような人にわたしの気持ちなんて分かる訳ないって、思ったの」 
「それで?」
「ある日ね、たまたまクラブで遅くまで残っていて、帰るのがいつもよりも大分遅くなった事があったの。体育系のクラブの子もみんな後片付けを済まして帰ってしまっていたくらい。わたし、そんなに遅くなったのは初めてだったから、自転車置き場に急いだの。そしたら、そこに圭介がいた。がらんとしたした自転車置き場に、たった独りで佇んでいた。始めは、高野くんまだいたんだ。こんな所で何しているんだろうって思った。近づいて行くとね、何か様子が変なのよ。夕陽を背にして立っていたから、圭介の身体は完全にシルエットになっていて、はっきりと分からなかったんだけど、自転車のサドルに置いた圭介の手がね、小刻みに震えているような気がしたの」
 わたしはちらりと村井くんを見た。村井くんはじっとわたしを見ながら、わたしの話を熱心に聞いていてくれた。わたしは、小さく息をすって続けた。
「その時わたし、圭介が泣いてるのかと、思った」
「圭介が?」
「勿論、はっきり見た訳じゃないから本当はどうだったのか分からない。だけど、その時に圭介の痛みが空気を伝わって感じられたような気がしたの。この人はサッカー部のホープだとか言って騒がれているけど、強気で時に傲慢な態度をとったりしているけど、本当はとても弱い部分を持った、とても不器用な人なんじゃないかと思った。それから何となく気になって、圭介の事を意識して見るようになったの。そうしたら見えてきたのね。クラブで先輩と上手くいっていないらしいとか、クラスではいつも独りでいるとか、そういう事が。圭介にしてみれば、目の前でわたしがじたばたしているのが目障りだったんじゃないかな。圭介は一匹狼を気取っているみたいな所があったから。圭介の事が見えてくるにつれて、圭介に言われた言葉が素直に受け止められるようになって、何て言ったらいいのかな、何かから解放されたような、そんな気がしたの」
「それだけ?」
「え……、それだけって。あっ、そうそう、それから、圭介の家にも行くようになって、圭介のおばさんとも仲良くなったの。圭介のおばさんがとってもいい人で、おばさんに会いに圭介の家に通った事もあるくらい……」
「つまり、そういった事が佐伯さんの言う『安心』って言う事なんだね」
「うん……そう。わたしと圭介は何処か根本が同じだったんじゃないかと思う。圭介とこんな話した事なかったけれど、しなくてもお互いに理解してた。自分が一人じゃないって思えるのって、とっても幸せな事だと思うのね、わたし。圭介が傷ついている時とかつらい時って、わたしにはすぐに分かったし、わたしが落ち込んでいる時も圭介にはすぐに分かったの。分かったからって、お互いに慰めたりなんて事は全然しないんだけど、何か……そう、やっぱり安心できたのね。自分の事を理解してくれる人が側にいるって言うだけで」
 ふと気が付くと、村井くんはわたしの話を聞きながら、何か考え込んでいるようだった。
「村井くん、どうしたの?」
「あ……、ううん別に」
「そう」
「何か、友達って言うより、恋人の説明を聞いているみたいだね」
「そんな、ただ、わたしは……」
「わかるよ。でも、やっぱりわからない所も、ある。つまり、君にとって圭介は理解者だったって訳だ」
「そう、圭介がいたから自分が素直に出せるようになったんだと思う。無理をしなくても人と付き合えるようになった。だからわたし高校ではいろんな事ができたし、本当に楽しかった」
「……確かに、高校の頃って楽しかったよな。楽だったと言うべきかな。真っ只中に要る時は気が付かなかったけど、友達や先生たちや先輩後輩や、いろんなものに囲まれて、そうして守られていたんだよな。ぬるま湯に浸かって、やれ熱いだの冷たいだのって言って、大騒ぎしてた。高校って枠組みを飛び出したら、そんなもんどころじゃないって事も知らずに」
「そうね。……そう。うん、楽しかった」
わたしは村井くんが何を話そうとしているのか、分からなかった。村井くんは、ゆっくりと穏やかに話を続けた。
「だけど、俺たちはもう卒業してしまったんだ。昨日、同窓会でみんなの顔見ただろ。もう、昔の俺たちじゃないんだよ。それぞれに戸惑いながらも、新しい自分たちの世界を見つけ始めている。圭介だって、河合って子と付き合っているんだろ。圭介だってみんなだって、変わっていっているんだ。いや、変わろうとしている」
「わたしだって、変わろうとはしてる。ただ……、」
「高校時代が忘れられない。いや、圭介の事が忘れられない、かな。何時まで高校時代に拘っているんだ。何時まで昔に拘っているだよ。いくら考えたって、戻れっこなんかないんだよ。時間はどんどんどんどん過ぎて行くんだ。俺たちだって、それに合わせて成長していかなくっちゃならない。いつまでも立ち止まっている訳にはいかないんだ。違うかい」
 多分、村井くんの言った事は正しいのだと思う。クラスのみんなも、村井くんも、圭介だって、みんな変わっていっている。周りの環境の変化や、状況の変化についていけていないのは、わたしだけ。わたし一人、後ろを見て振り返っている。だけど、自分でもどうしていいのか分からないのだ。
『いつまで、昔を振り返っているんだ。』
その通りだと思う。そうして、圭介は変わっていっている。確かに、変わっていこうとしていた。

 麻衣子に会ったのは、村井くんと別れてすぐだった。お陰でわたしは、出たばかりの喫茶店にもう一度戻らなくてはならなくなってしまった。
 村井くんと話していて、すっかり精根尽き果ててしまっていたわたしは、麻衣子のやたらと元気のいい声を聞いて、うんざりした。麻衣子のくったくのない明るさが憎らしかった。けれども、麻衣子がそんなわたしの様子に気付く筈もなく、大きな目をくりくり動かしながら、少し唇を突き出して言った。
「ケースケ先輩ね、学校やめちゃったんですよ」
あっけらかんとした物言いだった。
「やめたって、どうして?」
わたしは全く寝耳に水の話だったので、彼女を問い詰めた。
「どうしてって、まあ一応は足の故障が原因なんですけどね」
麻衣子は、わたしが圭介の退学の事を知らなかったという事が嬉しいのか、もったいぶりながら愛想よく答えた。
「もともと、クラブ内で上手くいってなかったみたいなんですよね。ほら、先輩スポーツ推薦で学校に入ったでしょ。だから、故障してクラブやめてしまったら、学校にいにくくなっちゃって、それで思い切って学校もやめちゃったみたい」
「故障って?」
「何か、膝が悪いみたいですよ。わたしも詳しい事はよく知らないんですけどね。普通に歩くぐらいだったら何ともないそうなんですけど、サッカーってハードなスポーツでしょ。だから、ドクターストップかかっちゃって」
「膝が……そんな、じゃあ、もうサッカーが出来ないの」
「でも、ケースケ先輩、せいせいしているみたいですよ。クラブ内で上手くいってなかったって言ったでしょ。特に、上回生と折り合いが悪かったみたいで、結構辛かったみたい。ほら、先輩あんまり愛想がいいほうじゃないでしょ。付き合いがいいって訳でもないし。体育会系のクラブの雰囲気に馴染みにくかったみたい。高校では結構、先輩のワンマンチームだったから上手くいってたけど……。それに、先輩、入学して数カ月の内にレギュラーになっちゃったから、その事でもやっかまれていたのかもしれませんね」
「かもしれませんねって、そんなに簡単に言うけど……。で、今、彼どうしてるの?」
「もう、こっちに戻ってきて、今のところ家にいますよ。しばらくは先の事考えたくないって。ご両親も黙認してらっしゃるみたいだし……」
「そう、こっちに帰っているの……」
「ほら、ケースケ先輩の学校って、隣の県だけど、先輩寮に入っていたでしょ。なかなか会えないし、連絡も取りづらかったし、結構不便だったから、へへ……、実はわたし、先輩が学校やめて、ちょっとよかったって思ってるんですよね」
「……どうするつもりなんだろう、これから」
「さあ、でも、佐伯先輩、ケースケ先輩から何にも連絡ないんですか」
 圭介から連絡はなかった。圭介が学校やめたなんて、麻衣子の口から聞くまでは全く知らなかった。昨日の同窓会でもそんな話、一言も出なかった。……村井くんは、知っていたのだろうか……。
『先輩、ケースケ先輩から何も連絡ないんですか。』
麻衣子の勝ち誇ったような声音が、いつまでもいつまでも耳につきまとった。

 ああ、駄目、考えるのはよそう。どうしてこう、ろくでもない事ばかり思い出すんだろう。どうせ思い出すんなら、もっと楽しかった事にしたいのに。
 日はだんだん西に沈んで、後もう少しで暮れてしまう。息もしだいに切れて来た。最近、ろくに体を動かしていなかったから、たったこれくらいの山登りで息が切れてしまうのだ。それに、母さんに借りたこの喪服が、少し小さくて、動きにくい。
 こんな所、人に見られたらどう思われるだろう。若い女の子が喪服着て、ハイヒールを両手に持って、裸足で髪の毛振り乱して歩いているのだから、さぞ、びっくりする事だろうな、なんて考えて、思わずくすりと笑った。泣けないのに、笑えるんだなと、自分で少し、悲しくなった。
 頑張らなくてはいけない。確か、貯水池まではあと少し。小学校の遠足で来てからこんな所まで登って来た事なんてないから、記憶が曖昧だけど、きっと、後少し。貯水池から林の中に入って少し登った所に、桜の木があるという。圭介の桜の木があるんだ。ハンドバッグの中で揺れるたびに、キーホルダーがカチャカチャと鳴った。もうすぐだ。もうすぐ、圭介に逢えるんだ。

 あれは、いつ頃だったろう。確か、七月の終わり頃ではなかっただろうか。わたしが夏休みで家に帰っている頃だったから。突然、圭介が家にやって来た。昼下がり、というよりもう日暮れ間近な時だったと思う。西日が強く差し込んで、とても暑かった。ちょうど宿題の本を読んでいたわたしの部屋の窓に、こつんと小石がぶつかる音がした。何だろうと思って窓の外を覗くと、窓の下には、圭介が立っていたんだ。
「久し振り」
圭介が言った。
「ほんと、久し振り」
わたしも言った。
「元気にしてた?」
「うん。そっちは少し……痩せた?」
「少し太った」
「そうかな」
「ちょっと、出られる?」
「いいけど……」
「ドライブしようや」
「ドライブ?」
「バイク買ったんだ」
よく見ると、確かに圭介の後ろにはまだ新しいバイクが立て掛けてあった。
「買ったって……買ってもらったんでしょ」
「違うよ、自分でバイトして買ったんだ」
「ほんとに?」
「本当はまだ親に借金が残ってんだけどね」
「そんな事だろうと思った。ちょっと待ってて、今、下におりるから」
わたしは転げるように階段を駆けおりて、表へ出た。
「お待たせ」
わたしが出てくるのを待ち構えていたかのように、圭介は手に持っていた物を投げた。
「ほい、これかぶって」
わたしはあわてて受け取った。圭介が放ってよこしてくれたヘルメットは、赤い色をしていた。
「これ、麻衣ちゃん用?」
わたしは不自然にならないように、注意深く尋ねた。
「誰用なんて、決めてないさ。何で?」
「赤い色だから、女の子用かって思うじゃない」
「それ、安売りしてたんだ。だから赤しかなかったの」
「安売りって、安全性は大丈夫なの?」
「知らね。だって金がなかったんだから、しょーがねーだろ」
「運転は大丈夫なんでしょうね」
「さーて、ね。まだ免許取ったばっかりなんで、よく分からん」
「ちょっと、そんなので人を乗せていいの?」
「いいんじゃない」
「そんないいかげんな」
 圭介の運転は、実に荒っぽかった。カーブに差しかかると思わずしがみつかずにはいられない程だった。わたしは走っている間中、怖くて目をつぶっていた。 ヘルメットの中にまで響いていたエンジン音がようやく止んで、そっと目を開けると、目の前には黄昏時の町が広がっていた。
「きれいだろ」
圭介が得意げに言った。まるで、目の前の風景が全て自分の手柄だと言わんばかりだった。
「うん」
わたしは素直に頷いた。黄昏の町は本当に奇麗だった。
 それから、わたしたちは暫く黙って町を見つめていた。町の真ん中を流れる国道が淡い光の帯をつくっていた。日は静かに傾いて、空を薄紅に染めながら山の稜線にその姿を隠し始めていた。ゆっくりと時間をかけて日は完全に沈み、町が優しい藍色に染まり始めた。国道と交差して流れる川に数本の橋が掛かっている。その橋々に灯が灯る頃、圭介がポツンと言った。
「俺、学校やめた」
「うん、知ってる」
涼やかな風が、わたしたちの頬をかすめて通り過ぎた。
 町はすっかり群青色した水底に沈んでしまったようだった。ネオンと言えないくらいささやかなネオンがポツリポツリと浮かび上がり始めていた。
「麻衣子ちゃんに聞いたの。春頃だったかな、ばったり出会っちゃって、それで……」
「あいつはお喋りだからな」
圭介は別に怒ったふうでもなかった。
「でも、お前には、きちんと俺から言っておきたかった」
わたしは圭介のほうを見た。けれども、もうすっかり暗くなっていて、その表情を読み取る事はできなかった。
「もう、サッカーできないんだってね」
「お遊び程度なら、まだできるさ」
「でも、それじゃあ嫌なんでしょ」
「もうサッカーも飽ちまったからな。小学校の頃からやってるんだぜ。今度は何か違う事をするよ」
「これから……どうするの」
「どうするかなぁ。親に借金返さなくちゃならないから、暫くはバイトだなあ。金がたまったら、北海道にも行ってみたいし」
「そうじゃなくて、」
「お前の方はどうなんだよ。学校は?」
「わたし?どうって言われても、普通なんじゃない。大学の方も可もなく、不可もなくって感じかな。まあ、授業には真面目に出てるけどね」
「もっとさ、大学でしかできねー事ってないのかよ」
「そんなもの、別にないなあ」
「つまんねぇの」
「そんなもんなんじゃないの?大学なんて。春に同窓会に行った時も、みんな似たような事言ってたよ。授業さぼって、コンパして騒いで、てきとーにサークル活動もして、また騒いで。それで楽しんでる人もいれば、面白くないのもいる」
「つまんねぇの」
圭介は大声でそう叫ぶと、仰向けに寝っころがった。わたしも一緒になって寝っころがった。空には満点の星、とまではいかなかったけれど、両手の指で余るくらいの星たちが、それなりに精一杯瞬いていた。空はまだ明るい群青色で、時々飛行機の小さな光が点滅しながら視界をゆっくりと横切っていった。
 このまま時が止まってしまえば、どんなにいいだろう。このまま、四年前に戻れたらどんなにいいだろう。こうしていると、わたしも圭介もあの頃のまま、変わったものなんて殆どないように思えるのに、どうして時は無情にもわたしたちをどんどん押し流してゆくのだろう。村井くんが言うように、過去にこだわり続ける事はよくないのだろう。だけど、久しぶりに、本当に久しぶりにすぐ側に圭介の存在を感じながら、わたしは、砂が指の透き間からさらさらと零れて行くように、留めようもなく時がながれていってしまう事に、どうしうもなく脅えていた。
「桜の木がさ、」
ふいに、圭介が話始めた。
「前に言った事なかったっけ。桜の話」
「さくら?」
「そう、誰にも知られずに咲いているでっかい桜」
「えーっと、ああ、クラブの監督に聞いた話だ」
「そう。春にさ、探しに行ったんだ」
「え?あれって作り話じゃなかったの」
「見つけた。あったんだ。本当にでっかい桜が」
「本当の話だったんだ」
「それが監督が言っていた木なのかどうかなんて、分からないよ」
「でも、見つけたんでしょ」
「ああ」
「どの辺にあったの?」
「ほら、学校の裏山。山道をずっと登っていくと、貯水池があっただろ。あそこから林の中に入って、もう少し登るんだ。そしたらいきなりボッカリと視界が開ける所があって、そこにたってた」
「へえー」
「奇麗だったなあ。枝下桜なんだ。樹齢はどれぐらいいってるかなぁ。幹だってさ、俺が抱え切れないくらい太いんだぜ。それが、満開の花をつけてるんだ。本当にたった独りで、懸命に咲いてる」
「見てみたいなあ。そうだ、来年連れて行ってよ」
「駄ぁ目」
「どうして」
「自分で見つけな」
「そんなあ」
圭介とどうでもいいような事をこうして話していると、高校の頃に戻ったような、そんな幸せな錯覚に捕らわれた。
「……ねえ、高校の頃さ、帰り道でよく星空を見上げたよね。学園祭の時なんて特に遅くなったから圭介に送ってもらって帰るとさ、空にはいつも星がいっぱい出てた。わたしが一生懸命星座の説明をしても、圭介ったらちっとも覚えないんだもん。……そういえば圭介、上ばっかり見ててどぶに落ちそうになった事あったよね」
「つまんねぇ事覚えてるなあ」
「そうそう、あの年は、圭介と同じクラスだったんだ。圭介休んでいる間に実行委員押し付けられちゃって……。でも、頑張ったよね、人形劇やってさ、賞まで取っちゃったもんね。毎日暗くなるまで準備してさ。……あの時は楽しかったなあ。あの時が一番楽しかった。あんなに楽しい事ってなかった」
「……お前さ」
「ん?」
「いや、いい」
「何?はっきり言ってよ」
「お前、村井とはどうなってんの?」
わたしは、それまでの浮かれた気持ちがすうっと引いて行くのを感じた。
「……どうしたの、急に」
「別に。……そろそろ帰ろうか」
圭介はそう言うと、起き上がってバイクの方へ歩いて行こうとした。
「別れちゃった」
何でもないように言おうとしたのに、語尾が震えるのが自分でも分かった。圭介が立ち止まって振り返った。一言言ってしまうと、後は堰をきったように言葉がボロボロあふれ出した。
「……別れちゃった。ほら、春の同窓会で、久しぶりに村井くんに会って、それで別れたの。村井くんに怒られちゃった。わたしが過去ばっかり振り返ってるって。でも、」
「村井が言い出したのか」
「そうとも言えるし、でも……やっぱり、違うかもしれない」
「そっか」
圭介の声は、何故か、とても優しい声だった。圭介はしばらく町の方へ目をやって何か考えているようだったが、やがて、わたしの方を向いて言った。
「帰ろう」
圭介はわたしに赤いヘルメットを放ってよこした。わたしはしっかりとそれを受け取った。
 帰りは、心なしか安全運転だったような気がした。
 圭介は、わたしの家の近くでバイクを止めた。
「じゃあな」
「家によっていきなよ、聡史も会いたがってるし」
「おう、聡史ってもう高校に入学したんだっけ」
「そう。サッカー部入って頑張ってるわよ」
「そっか……。でも、今日は帰るわ」
「また、会える?」
圭介は少し考えて、言った。
「……多分な」
わたしは圭介の顔を見た。街頭に照らされたその顔は、少し青白く見えた。
「……そうだ、これやるよ」
圭介はふいに思い出したようにポケットに手を突っ込んで、何か小さな物を放ってよこした。それはカラカラと小さな音をたてて、わたしの手のひらの中におさまった。サッカーボールのキーホルダーだった。
「これ……」
「お前、前から欲しがっていただろ。やるよ」
「でも、これ、大切なお守りだって、このキーホルダーを持ってると、シュートがよく決まるんだって、言ってたじゃない」
「もう、俺にはいらないからな。お前にやる。なんなら聡史にやってくれよ」
「本当に、もう、サッカーはしないのね」
「ああ。もうサッカーは卒業だ」
「卒業……」
わたしは口の中で何度もその言葉を繰り返した。なぜか、卒業という言葉によって、自分たちが一緒に過ごした時間までを否定された気ようながした。
「また何か新しいものを見つけるよ。お前も……、」
圭介は何か言おうとして、続きの言葉を飲み込んだ。
「何?」
「いや、なんでもない。じゃあ、帰るよ」
圭介はヘルメットをかぶると、エンジンをふかし始めた。
「ちょっと待ってよ。今、何て言いかけたの?」
けれども、その声は甲高いエンジン音にかき消されて、圭介には届かなかったようだった。圭介がわたしの前から走り去った時、一瞬ヘルメットごしに圭介の目が見えた。何故か、とても寂しい色をしていた。
 後に残されたキーホルダーは、わたしの手の中で小さくカラカラと鳴った。わたしは小さく口笛を吹いてみた。このキーホルダーは口笛の音に反応して、『喜びの歌』のワンフレーズが流れる仕組みになっていた。けれども、一定の高さの音が出ないと反応しないのだ。
 昔、圭介がこのキーホルダーを初めて見せてくれた時の事を思い出した。圭介が口笛を吹くと、まるで返事でもするかのように鳴り出すキーホルダーが、わたしが口笛を吹くと、すねているように黙りこくってしまうのだ。わたしは口笛を吹くのが苦手で、どうしてもかすれたような音しかでない。そんなわたしの目の前で、圭介は実に澄んだ音を出した。
 わたしは何度も何度も口笛を吹いてみた。けれどもキーホルダーが再び歌い出す事はなかった。

 ああ、もう少しだ、もう少し。さっき貯水池を通り過ぎたから、もう少ししたらいる筈だ。圭介の桜の木。桜の木の圭介。逢いたい。逢いたいよ。死んだなんて、嘘。この林を抜けると、そこに圭介はいる筈なんだ。誰も知らないけれど、わたしだけは知っている。わたしと圭介だけは知っているの。樹齢何百年もある大きな桜。圭介でも抱え切れないほど大きな幹を持った桜。
 もう、すっかり日が落ちてしまった。木の枝がゴツゴツしたシルエットを地面に落としている。木の枝の透き間から見える空は、しっとりと暗みを帯びてきた。その空の天頂部分に一番星がかすかに見える。けれども、不思議と怖いという気はしなかった。
 圭介も、こうやって桜の木を探したのだろうか。ふと、そんな事を考えた。圭介も去年の春、こうしてあてどなくさ迷い歩いていたのだろうか。そう考えると、必死になって桜の木を探している圭介の姿が、目の前に見えるような気がした。そして、たった独りで必死に桜を探している圭介が、たまらなく愛しく思えた。圭介は何を考えながら、あるかどうかも分からない桜の木を探し続けたのだろう。何の為に、桜を探そうなんて思いたったのだろう。わたしは一人山道を歩きながら、一年前の圭介の幻影の後を追っていた。
 きっと、圭介も何かを探していたんだね。桜という形をした何か。もっと別の、大切な物。それが何だったのか、わたしには分からないけれど、それを探さずにはいられなかった圭介の気持ちは、何となく分かるような気がする。何故なら、わたしも探さずにはいられないのだから。桜の木の中にある圭介の面影を。実際に、桜の木を目の当たりにすれば、分かるのだろうか。今こうやって曖昧にしか感じられない何かが。圭介の求めていたものが。
 わたしはハンドバッグから圭介のキーホルダーを取り出して、しっかりと握り締めた。大丈夫、桜の木はきっとある。もう少し、きっと、もう少しで………。 
 今年の冬、わたしは圭介を見舞う為に病院へ行った。圭介はわたしに会いに来てすぐ、八月の初めに入院していたのだそうだ。その事をわたしは村井くんから聞いた。冬休みに突然村井くんから電話が掛かってきたのだ。
「もしもし、村井ですけど、なつきさんいらっしゃいますか」
あの時、家には誰もいなかった。だから、わたしが電話をとったんだ。
「あ……わたしですけど。何か?」
電話の相手が村井くんだと分かって、意図していた訳ではないのだけれど、声が堅くなった。
「村井です。久し振り。急に電話して悪かったかな」
「いいえ、別に」
「別にっていう声じゃないね」
「そんな……」
「ま、いいや。用件を言うね。圭介が入院しているの、知ってる?」
「え?」
「圭介、入院してるんだ。やっぱり、知らなかった?」
「嘘……、本当?一体、何時から……」
「何か、夏頃からだってよ。八月って言ってたっけ」
「何故?何処が悪いの?」
「よく分かんないんだけど、足じゃないのかな。前に故障したって言ってたから」「そんな、まだ、直ってなかったのかな。でも、夏に会った時はピンピンしてたのに」
「夏っていつ頃?」
「七月の終わり……かな」
「じゃあそれからすぐだな、きっと」
「何で村井くんが知っているの?」
「偶然にさ、河合さん……麻衣子ちゃんつったっけ、彼女に会ったんだよ。それで麻衣子ちゃんから聞いたんだ」
「村井くんって、麻衣ちゃんと顔見知りだったっけ」
「知ってるよ。俺、高校卒業してからも圭介とはちょくちょく会ってたし、その関係で麻衣子ちゃんともよく顔合わしてたから」
「知らなかったな、村井くんが圭介とそんなに仲良かったなんて」
「そう?結構仲良いいんだよ、俺たち」
「じゃあ、春に会った時圭介が学校やめてた事、知ってたんだ」
「ああ。知ってたよ」
「何で教えてくれなかったの。わたし、麻衣子ちゃんに言われるまで知らなかったんだから」
「俺が言う事じゃないと思ったし、それに、春は自分の事で精一杯だったから」
「ごめんなさい、わたし」
「あ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。本当に」
「村井くん」
「ん?」
「ありがとう。圭介の入院の事教えてくれて」
「……俺も少しは成長したって事かな。春は言い過ぎたって反省してたんだ。ごめんよ」
「そんな……」
「電話した理由の一つに、ついでに謝っちゃおうという下心もあったんだ、本当は。ははは……」
「ねえ、一つ聞いていい?」
「何?」
「どうしてさっき、やっぱりって言ったの?」
「え?」
「わたしが圭介の入院の事知らないって言ったら、やっぱりって言ったでしょ」
「ああ、あれ。だって知ってたら佐伯さん、圭介の所に見舞いに行ってるだろ」
「……」
「圭介に聞いたら佐伯さんは来てないって言ってたから」
 電話を置いてから、何とも言えない淋しさがわたしの心を覆った。疎外感と言ってもいいかもしれない。村井くんが圭介と仲が良かったなんて、知らなかった。高校の頃、いつも圭介と一緒にいた頃は、圭介の事は何でも知っているつもりだったのに、知らない事があったなんて……。もしかしたら、これは一番考えたくない事なのだけれど、わたしは圭介の事を本当は何一つ知らないのかもしれない。見ていたつもりで、実は何も見えていなかったのかもしれない。それは、わたしが何よりも認めたくない事実だった。

 その翌日だったと思う。わたしは圭介の入院している病院へと出掛けた。圭介が入院している病院は市内で一番大きい病院だった。弟が盲腸で入院していた時に何度か来た事があるのだけれど、それでも迷い迷いして、ようやく受付で聞いた圭介の部屋を見つけた。圭介の部屋は一人部屋だった。
 ノックをしたけれど返事がなかったので、しかたなくそっとドアを開けて覗いてみた。部屋は廊下よりもずっと明るくて、清潔な感じがした。冬の光が大きな窓から穏やかに差し込んでいた。その光が、ともすれば冷たく見えがちの白いシーツや壁紙を優しいアイボリーに変えていた。わたしは、そっと、部屋の中に入った。窓の外では常緑樹がゆらゆらと揺れている。穏やかな、冬の日の午後だった。春がもうそこまでやってきている事を思い出させてくれるような、そんな日差しだった。
 わたしはコートを脱いで、そっとベッドに近寄った。ベッドに横たわる圭介を見て、一瞬、ぎょっとした。あれ程黒かった圭介の肌が、すっかり白くなってしまっていた。ふと、壁の白さと、カーテンの白さと、シーツの白さと、そんな白ずくめの中で、圭介は次第に色素を失っていったのではないかと、真剣に思った。このまま白さの中に儚く溶け込んでいってしまいそうだった。かすかに上下する胸元だけが、辛うじて彼が生きているという事を感じさせてくれた。呼吸の音も聞こえなかった。音といえば、冷蔵庫の低いうなり声だけで、後は何もなかった。わたしも息を詰めて、圭介の寝顔を見守っていた。
 すると、突然、圭介はパチリと目を開けて、大きな溜め息を一つついた。そうして、ゆっくりとわたしの方へ顔だけ動かして、言った。
「来てたのか」
「うん」
それだけ言うと。圭介はまた、目を閉じた。まるで、わたしがここにいるのが当然といった感じだった。毎日わたしがここにお見舞いに来ていて、圭介に会っているようなさりげなさ。ここに来るまで、わたしが悩んでいたなんて思いもしていないようだった。わたしは少し悔しくて、でも、やはり嬉しかった。
 圭介は、暫く夢と現の間を行ったり来たりしていたようだったが、やがて再び目を開けて、わたしを見た。
「夢を、見てた」
「どんな夢?」
「昔の夢」
「昔の?」
「ああ」
そうして、圭介は大きな溜め息を一つして、ゆっくり話し始めた。
「文化祭の時さ、そう、お前と同じクラスだった時だよ。人形劇やっただろ。そん時の夢見てた」
「圭介が実行委員だったんだよね」
「そう。俺、クラブがあるって言ってんのに、まいったよ、あの時は。俺が休んでる間に押し付けやがってさ。……それでさ、もう文化祭まで後何日もないって言っているのに、なかなか進まないんだよ。で、こっちはあせってんのに、ちっとも人が集らなくってさ」
「ああ、そうそう。あの時はわたしも地学部の発表の用意でばたばたしてて、クラブの方がやっと落ち着いて、クラスの方に顔出してみたら、誰もいなかったって事あった。でも、最終的にはちゃんとみんな協力してくれて、上手くいったじゃない。確か、賞も貰ったでしょ」
「ところが夢じゃあそう上手くいかなくってさ、明日が本番だって言うのに、教室には誰もいなくて、俺一人人形作ってんの」
「……」
「でさ、日が暮れて来て、もう駄目だって思ってた頃、お前がひょこっとやって来た」
「わたしが?」
「そう。そこで目が覚めた。目が覚めてみたら、お前がいたんでびっくりした」「びっくりしたようには見えなかったけど」
「まだ夢見てんのかなって思った」
「もう、目が覚めた?」
「ああ」
そう言って、圭介はゆっくりと身を起こした。
「起きて大丈夫なの?いいわよ、寝ててよ」
「大丈夫。今日は気分がいいんだ」
「そう?」
「冷蔵庫にジュースか何か入ってると思うから、悪いけど自分で取って。果物も少しは入ってるかもしれない」
「あ、そうだ。リンゴ持って来たんだ。食べない?」
「ん、じゃあ、折角だから少しだけ貰う」
「じゃあ、剥いてあげるね。……花にしようかと思ったんだけど、花って高いのね。びっくりしちゃった。それに圭介ってどっちかっていうと花より団子のほうでしょ?だから食べ物の方がいいかなって思って」
「確かに、花貰ったって食えないもんな」
「あははは……。ねえ、おばさんは?」
「今、家に帰ってる。ここ、一応完全看護だからさ、ずっとついてなくてもいいんだ。毎日覗きに来てるけどね」
「……麻衣子ちゃんも来てるの?」
「ああ」
「そう」
 わたしは袋の中からリンゴを一つ取り出した。病室にリンゴの爽やかな匂いが広がった。消毒液の不安な匂いからほんの一瞬解放されて、わたしはそっと息をついた。軽く洗った後、包丁を借りて丁寧に剥き始めた。丁寧に、丁寧に、出来るだけ薄く、出来るだけ長く。昔、リンゴの皮を一回も切らずに最後まで剥けたら願い事が叶うって話、聞いた事なかったっけ。
「なあ」
「あっ」
圭介が声をかけた途端、手元が狂った。
「もう、急に声かけるからびっくりして切っちゃったじゃないのよ」
「悪い、バンドエイドならそこの引き出しの中に入ってるから」
「ああ、違う違う。切れたのは手じゃなくって、皮」
「皮?」
「そう。リンゴの皮。折角今までつながっていたのに」
「なんだ」
「ねえ、今、何を言いかけたの」
「ああ、お前さ、俺がここに入院してるって誰に聞いたの?」
「何故?」
「お袋にも麻衣子にも口止めしてたからさ、どこで聞いたのかなって思って」
「……どうして口止めしたりなんか、するの?」
「格好悪いだろ。入院しただなんてさ」
「格好悪いって問題じゃないと思うけど」
「そうかな……」
「そうよ。……村井くん。ここに来たんでしょ」
「ああ……、そうか、伸吾から聞いたのか」
「そう。昨日村井くんが電話してきてくれたの」
「そっか」
「ねえ、村井くんと仲良かったっけ?」
「ああ。何で?」
「でも高校の頃、そんなに親しくなかったじゃない」
「そうかなあ。結構気が合うから、仲いいほうだと思うけど」
「知らなかったなあ」
「あいつとは、中学校の頃からの知り合いなんだ」
「え、でも、確か違う中学校でしょ」
「そう。あいつが南中で俺が高中。あいつ中学の時はサッカーやってたんだよ」「サッカーを?そうは見えないなあ。高校では確か、写真部だったよね」
「結構上手かったんだ、これが。市大会でいっつも一緒になってさ、なんとなく話すようになって、高校で一緒になったろ。それからさ」
「知らなかったなあ。村井くんもサッカーやってたなんて」
「お前に話さなかったのか」
「うん。何でやめちゃたんだろう」
「さあ。俺にはわからん」
 わたしは剥けたリンゴをお皿に乗せて、圭介に手渡した。圭介は
「おう」
と言って受け取った。そうして、一切れだけ口にした。わたしは、圭介がリンゴを食べるのをじっと見ていた。リンゴのシャリシャリという音が、とても健康そうに病室に響いた。
「何見てんだよ」
「ん、色が白くなったなあって思って」
「ああ。俺も地黒だと思ってたんだけど、ほとんど日焼けだったみたいだな」
「そうか、これがもとの色だったんだ」
「一時期はホンとに黒かったもんな」
「そうだ。これ、返す」
わたしはポケットからキーホルダーを取り出して、ベッドの上に置いた。
「何で?」
圭介はわたしをじっと見つめた。わたしは圭介から目をそらして答えた。
「大切なお守りでしょ。大事に持ってないから病気になったりするんだから。今はわたしより圭介の方が必要でしょ」
「いらねえよ」
圭介は少し怒ったようだった。だけど、わたしもこのキーホルダーを持っているのが、何故かとても不安だったのだ。
「でも、やっぱりわたし貰えない。ねえ、お願い、圭介が持っていて。その方が何となく落ち着くの」
圭介はもう一度じっとわたしの顔を見て、そして漸くキーホルダーを受け取った。キーホルダーは圭介の手の中でカラカラと軽い音をたてた。
「わたし何回やってもこのキーホルダー鳴らせなかった……」
「ああ、これもう電池がきれかかってんだ」
圭介はそう言うと、ほらね、とでも言うように口笛を吹いてみせてくれた。相変わらずとてもきれいな音が鳴ったが、キーホルダーは反応しなかった。二三回試してみたが、結果は同じだった。
「まあ、今日は口笛何か吹いて、機嫌がいいのね」
看護婦さんがそう言いながら病室に入って来た。
「あら、今日は違う女の子なの。モテルのねー」
「そんなんじゃないよ」
「てれちゃってる。さあ、点滴しますよ。横になって」
看護婦さんは慣れた手つきで圭介を横たわらせると、てきぱきと圭介の腕に点滴用の針を差し込んだ。わたしはその様子を見るともなしに見ていたのだけれど、圭介の腕を見て驚いた。すっかり細くなってしまった腕は青白く、血管が怖いほどに浮き出ていて、何カ所も点滴の痕が残っていた。看護婦さんは手早く点滴の用意をすると、点滴が終わったら必ず呼ぶようにと言い残して、病室を出て行った。出て行く時に、
「ゆっくりしていってね」
とわたしに言った笑顔がとても印象的だった。
「優しそうな看護婦さんね」
「そうでもないぜ」
圭介はベッドの上に横たわって再び目を閉じていた。
 わたしはもう何も言う事がなくなって、点滴の滴が規則正しく落ちる様子をじっと見ていた。もしかしたら、圭介の病気はわたしが思っているよりもずっと重いのかもしれない、という不安が、突如わたしを襲った。
「なつき」
圭介が、わたしを呼んだ。
「ん」
「もう、帰れ」
圭介は目を閉じたまま呟いた。
「……そうね、そうする」
わたしはおとなしく立ち上がって帰り支度を始めた。少し長居しすぎて圭介を疲れさせてしまったかもしれない。そう思いながらわたしはコートを羽織って、もう一度、圭介をじっと見つめた。
「じゃあ、帰るね」
「ああ」
「リンゴの残りはテーブルの上に置いておいたから、おばさんにまた剥いてもらって。それから、」
「なつき」
「何?」
圭介は目を開けて、静かにわたしを見て、そして、言った。
「もう、ここへは来るな」
静かな、落ち着いた声だった。目はまっすぐにわたしを捕らえていた。わたしも静かに圭介の目を見つめ返した。
「わかった」
わたしは素直に頷いた。それがわたしの精一杯の強がりだった。そして、圭介の……。
 できるだけ平静を装って、
「さよなら」
と、わたしは言った。
「ああ」
と、圭介は答えた。
 まさか、これが最期の別れになるなんて、思いもしなかった。
 病室から出た途端に、麻衣子に出会った。麻衣子は口元に笑みをうっすらと浮かべてわたしに会釈すると、
「ケースケ先輩、気分はどうですか?今日はね、リンゴを持って来たんですよぉ」と、甘えたような声を出して、中に入って行った。きっと、わたしと圭介の会話を此処で聞いていたのだろう。わたしは麻衣子の明るい声とそれに答える圭介の声を背中に聞きながら、静かに病室のドアを閉めた。
 何とも言えない寂しさが、胸に込み上げてくるのを、押さえようがなかった。それは、高校三年の時、圭介が麻衣子を選んだ時からずっと感じ続けてきた感情と同種のものだった。わたしは、何時までこうした自分ではどうする事も出来ない、ふいに襲ってくる感情を抱えて生きていかなければならないのだろう。
『何時まで昔に拘っているんだよ。』
ふと、村井くんに言われた言葉が頭をよぎった。村井くんの言うように、昔に拘らなくなれば、こんな嫌な感情から抜け出せるのだろうか。この寂しさから解放されるのだろうか。わたしはそんな事を考えながら、一人、足音の木霊する病院の廊下を歩いていった。

 いきなり、物凄く大きな鳥の羽音がした。すぐ近くで烏の鳴く声がする。カアカアではない、変な鳴き声。まるで泣いているような……。そう言えば聞いたことがある。烏は人の死が見えるのだと言う。空を飛んでいると、亡くなる人がいる家には白い旗がたっているのだそうだ。その白旗を見ると悲しくて、いつもとは違う鳴き声で鳴く……。ほら、また。今度はもっと近くで……。羽音が木の幹にあたってコンコン響いている。夜はすぐそこまできていた。

「もしもし、佐伯さん?」
昨夜、圭介のお通夜から帰ると、村井くんから電話があった。
「圭介の事……」
「ん……知ってる。今も、お通夜行って来たとこ」
「そう。大丈夫?」
「うん。わたしは大丈夫。麻衣ちゃんが、すごかった。すごく、泣いてた」
「圭介、意識失ってから何回か、佐伯さんの名前呼んでいたんだよ」
「麻衣ちゃんから、聞いた」
「そう……」
「圭介、自分の病気の事、知っていたの?」
「ああ」
「いつから?」
「去年の春だって」
「村井くんも、知ってたんだ」
「ああ。圭介から直接聞いた」
「いつ頃?」
「二カ月くらい前」
「そう」
「ごめんな」
「どうして、村井くんが謝るの?」
「こんなに大切な事、知っていたのに佐伯さんに教えなかったから」
「いいの。いいのよ。圭介が、わたしには言いたくなかったんだろうし。それに、何となく分かってたような気もする」
「分かってた……」
「本当に何となくだけどね」
「強いな。えらいよ。佐伯さんも、圭介も」
「強いんじゃないわ。少なくとも、わたしは。今日も麻衣ちゃんに言われちゃった。わたしは意地張っているだけだって。何でお見舞いに来なかったんだって」
「……」
「確かに、お見舞いに行かなかったのは意地もあるけど、でも、それ以上に圭介が精一杯突っ張ってるなら、その気持ちを汲んであげたいと思ったの」
「突っ張ってる?」
「見栄張ってるって言った方がいいかもしれない。圭介の気性から言って、自分が弱っていく姿を人に見られたくないと思っていたんだろうし……」
「後悔しない?」
「わからない。でも、他にどうしていいのか思いつかなかった。それに、」
「それに?」
「わたしもそんな圭介を冷静に見守る自信がなかった」
「……でも、やっぱり強いよ。二人とも。圭介なんてさ、平然とした顔で俺に言ったんだぜ。自分の命がそんなに長くないって事を。俺、その時ほどあいつの事凄いって思った事なかったよ」
「そう」
「一時期さ、アイツ荒れてたんだ。ちょうど学校やめた頃だったかな。きっと、あの頃知ったんだろうな」
「学校やめた頃って、確か去年の今頃だったよね。そう、圭介、荒れてたの」
「佐伯?」
「何?」
「本当に、大丈夫か」
「……大丈夫だよ」
「無理、するなよ」
「うん」
「お前、世界中でたった一人ぼっちになったっていう訳じゃないんだからな」
「うん。大丈夫だよ。変な心配しなくても。バカな事したら、圭介に笑われちゃう」
 バカナコトシタラ ケイスケニ ワラワレチャウ

 ふと気が付くと、辺りはもう真っ暗で、足元どころかすぐ目の前もよく見えなくなっていた。これ以上どうにも進めなくなって途方に暮れてしまった時、鼻先を柔らかなそよ風が通り過ぎていった。風上の方を見ると、ぼんやりと明るいような気がする。わたしは藁にも縋る思いで、木の幹を伝いながらその風上の方へと進んでいった。
「……あった」
ぽっかりと開けた空間の真ん中に、大きな桜の木が一本、今を盛りに咲き誇っていた。里の桜はもう散り始めているというのに、やっぱり山の桜は少し遅いのかもしれない。それは、本当に見事な枝下桜だった。さっき薄ぼんやりと明かりが灯っているように見えたのは、月の光に桜が照らし出されていたのだった。長い枝が、そよ風に時々ゆらゆらと揺れる。その姿がわたしを手招きしているようで、わたしは桜に吸い寄せられるように、ふらふらと歩いていった。
 そっと、桜の幹に触れてみる。ごつごつとした感触が指に伝わる。とても暖かい。両手を広げて、木を抱き締めてみる。大きい、大きい、本当に大きい桜の木。圭介でさえ抱えきれないほどの大きい幹。わたしは木を抱き締めたまま、その木に頬摺をした。木の感触が頬にまで伝わってきて、わたしは何とも言えない安堵感で満たされていた。
「やっぱりいたのね、ここに」
木が
『そうだよ。』
と、答えているかのように、枝をゆらゆらと揺らした。
「圭介」
と、わたしは呟いた。木は、やはり返事をするように 枝を揺らした。
 わたしはその木の反応に満足して、木に向かって話始めた。
「わたし、会いたかったの、会いたかった……あなたに。だって、まだ、伝えてなかった事があるんだもの。どうしても、伝えなくっちゃいけなかった事。どうして、こんなに長い間、自分で気付かなかったんだろう。ここに来る間、ずっと考えてた。いろんな事を考えたんだよ。そして、たくさんの事を思い出した……。そうして、やっとわかったの。今まで、わたしが何を脅えていたのか。わたしが何を望んでいたのか。とても、簡単な事だったのよ。だけど、簡単な事過ぎて、気づかなかった。ううん、これも違う。今までは失うものが大き過ぎて、きっと、気づかない振りをしていたんだ。何よりもあなたを失うのがとても怖かった。わたしが一歩でも踏み出したらあなたを失ってしまう、そんな確信があったから、わたしは精一杯自分の気持ちを押し殺して、何にも気づかない振りしてここまできた。でも、もう、失うものは無くなってしまった。あなたが逝ってしまったから」
わたしは桜の上の方を見上げた。満開の花の透き間から、月の光が零れ落ちていた。
「……わたし、あなたの事が好きだったんだ」
桜の木がさやさやと揺れた。月の木漏れ日が、頬に当たって、地面に落ちた。
「圭介の事が、ずっと、好きだったんだ……」
 自分で口に出して言ってしまってから、ああ、そうだったんだと、今までもやもやしていた感情は全てここから出ていたのだと、改めて納得出来た。
 すると、今まで圭介の死を聞いても、おばさんの涙を見ても、麻衣子に責められた時だって一滴も出なかった涙が、静かに頬を伝って落ちた。幾粒も幾粒も、自分の感情とは無関係に流れていった。自分が泣いているという事に気が付いて、一瞬、何とも言えない充足感に満たされた。わたしも、泣く事が出来たのだと言う安堵感だったのだろうか。
 けれども、次の瞬間、とても耐え切れないような虚無感がわたしを襲った。圭介が好きだと自覚して、どうなるというのだろう。どうにもならない。圭介は、もう、何処にもいないのだ。「死」という動かしがたい事実は、新たに現実的な痛みを伴ってわたしの前に現れた。
「圭介……」
わたしはもう一度、声に出して圭介の名を呼んでみた。けれども、わたしの口から出た言葉は虚空へと消え去り、後には恐ろしい程の静寂が残った。桜の木さえも、もう、その枝を揺らそうとはしなかった。
「圭介、圭介……」
幾ら呼んでも、もう、返事をしてくれる人はいないのだ。そう思った途端に新たな涙が湧いてきて、今度は声をあげて泣いた。子供のように、あらん限りの声を出して泣いた。お腹の底から声を出して泣けば、今までのもやもやしていたものがきれいさっぱりわたしの中から出ていってしまうのではないかと思った。声をあげて泣けば、何もかも嘘になるような気がした。圭介が死んだ事も、わたしが此処でこうやって泣いている事も、何もかも全部。そして、何故かこの時、こうして泣いていれば、いつかきっと、圭介が迎えに来てくれるような気がしたのだ。とても子供じみた考えに、自分でも半ば呆れながら、それでもそう信じずにはいられなかった。
 さすがに泣き疲れたわたしは、やがて桜の木の根元に凭れながら座り込んだ。
 バカナコトシタラ ケイスケニ ワラワレチャウ
わたしはぼんやりと口の中で呟いた。
 バカナコトシタラ ケイスケニ ワラワレチャウ
何もかもが、どうでもいい事のような気がした。何もかもが邪魔くさかった。ここからもう一度立ち上がる事も、しゃくりあげる事も、息をする事も。
 その時何処からか、微かに口笛の音が聞こえた。どこまでも澄んだ口笛の音。
「圭介?」
わたしは辺りを見回した。確かに、圭介の口笛だった。聞き覚えのある、圭介の口笛。
「圭介、圭介いるの?」
わたしは大きな声で叫んだ。けれどもその声はやはり、夜の空の暗闇の中に空しく消えていった。
 そよ風がかすかに桜を揺さぶって、通り過ぎていった。その時、今度は聞き間違えようもないほどはっきりと、口笛の音がした。その音に答えるかのように、わたしの手の中にあったキーホルダーが高らかに鳴り始めた。
「電池がきれていた筈なのに……」
不思議な事に、ワンフレーズしか鳴らないはずのキーホルダーが、繰り返し繰り返し『喜びの歌』を奏で始めたのだ。その音に呼応するように、桜の花びらが降り始めた。月の光を浴びた花びらは、淡く優しい陰を地面に落としながら軽やかに空中を舞って、地面に降り積もっていった。
「圭介なのね」
素直にそう信じる事ができた。圭介がわたしの事を心配してくれている。頑張れよ、と励ましてくれている。そんな気がした。キーホルダーは優しく歌い続ける。花は静かに舞い続ける。わたしは涙を抑える事ができなかった。けれども、今度はさっきまでよりも、もっと暖かい涙だった。月が全てを飲み込んで、優しくわたしを見守ってくれていた。少しずつ、少しずつ、高まっていた気分が落ち着いていくのを、自分で感じ取っていた。
 圭介……、あなたが生きていた間に、もっといろんな事に気づきたかったよ。つまらない意地や、嫉妬で、どれだけ大切な時間を無駄にしていた事だろう。どれだけ他の周りの人を傷つけ、迷惑をかけてきた事だろう。だけどきっと、圭介は気づいていたんだよね。だからわたしに、この桜の木の話してくれたんでしょう?だからわたしに、このキーホルダーを残してくれたんでしょう?今なら、村井くんが言わんとしていた事が本当に理解できるような気がする。圭介が夏に言いかけて止めた事も、わかるような気がする。そして、圭介が一年前に必死で探していたもの、圭介がこの桜の木の中に求めていたものも、今ならほんの少し、分かる。
 「卒業……か」
わたしはポツンと呟いた。圭介が夏に唐突に使った言葉。あの時はわたしたちが一緒に過ごして来た時間を否定されたような気がして、淋しい気がしたけれど、そうじゃなかったんだね。過去を否定するんじゃなくて、過去に積み重ねていくものなんだ。
 じゃあ、これは、わたしの本当の卒業式だね。昨日までのわたしを乗り越える日。バックミュージックが『喜びの歌』なんて、ちょっと出来過ぎてるけど、圭介からの応援歌だと思ってありがたくいただいておくね。わたしの卒業の日が、圭介とのお別れの日なんて淋しすぎるけど、でも、今わたしがこう考えている事、きっと、圭介も喜んでくれるよね。
 気が付くと、キーホルダーの音は止んで、桜だけが音もなくその花びらを散らしていた。わたしは、黙り込んでしまったキーホルダーに口笛を吹いてみた。かすれた音が、空しく宙に消えた。キーホルダーはもう二度と歌い出そうとはしなかった。役目は果たしたとでも言うように、からからと音をたてて、わたしの手の中で揺れた。わたしの為に最後の力を振り絞って、そうして、圭介とともにどこか遠くへ逝ってしまったのかもしれない。
 『桜の木の下には死体が埋まっているんだ。』そう言ったのは、誰だったろう。もしかしたら、昔読んだ本の中にあった言葉かもしれない。桜の花の美しさの根拠を死体に求めたそのイメージが、恐ろしくもあり、美しくもあったから、妙に頭にこびりついて離れない。この桜の木の下に圭介が埋まっている、なんて想像するのは不謹慎かな。だけど、荼毘に付されて冷たい石の下に圭介が入ってしまうと考える
よりずっとましだと思う。
 わたしは、桜の木の根元を一心に掘り始めた。握り拳がすっぽりと埋まる程の穴があくと、その中にキーホルダーを入れて、丁寧に土を被せた。
 こうしておけば、この木がキーホルダーを守ってくれるでしょう。あなたがこのキーホルダーに込めてくれた想いを養分にして、この木も益々美しい花をつけるでしょう。この桜は見る人がいないってあなたは言ったけど、私たちみたいに必死でこの木を探した人達が、きっと幾人かはいたに違いない。そうして、その人達の想いを受けてこれだけの花を咲かせてきたんだと思う。だからわたしも毎年ここに来るね。そして、この木に……、あなたに会うの。でもそれは後ろを振り返る為じゃない。過去に拘っているからでもない。わたしも少しずつでも変わっていくから。きっと。前に進んで見せるから。だから今は、もうしばらくあなたの事を考えていさせて。そして今度は、あなたの為に泣かせて下さい。ここでこうして木にもたれ掛かって座っていると、木の幹を通してあなたの温もりが伝わってくる気がする。枝が空を覆って、まるで花のドームの中にいるみたい。花は静かに降りしきる。枝の透き間から月の光が漏れてくる。涙がゆっくり頬を伝う。花は静かに降っている。月は全てを飲み込んで、優しく全てを照らしている。花は静かに降りしきる……。

《Fin》

「ドライブ」

高松 靖二

 今、私は海岸沿いの道を走っている。残暑の厳しかった九月も過ぎ、窓を全開していると爽やかな風が体全体を吹き抜けていく。ここは、大阪市の南西に位置する泉大津市から府道二十九号線に沿って北上したところ、浜寺水路を越え、阪神高速四号湾岸線を左に見ながら走ってきたので、おそらく南海本線の湊駅前辺りだろう。もうすぐ大和川が見えてくる筈だ。空は秋晴れで雲も疎らしかなく、日も暮れてきたせいか、なんとも言えない様な微妙な色合いに海側から染まっていく。ここからだと、建物の邪魔なしに、太陽が沈んでいくのを見る事が出来る。こんな日には、走りたくて走りたくて、体がうずうずしてくる。今日は、体の調子もすばらしく良い。午前中から体を洗い、昼にはおなかをいっぱいに満たしたせいもあるのだろう。絶好調だ。 美しい夕日を体に受け、これから向かおうとしている所は、南港北である。この道を直進し、大和川を越えてから一・二キロメートル程先の住之江通り、所謂「内環」と交わった交差点を左折し、そのまま道なりに進めば南港南。そこから更に、フェリーターミナルを過ぎ、南港大橋を渡ると、目的地へ達する事が出来るのである。今から行けば、夕景色と夜景との両方が楽しめる。特に南港大橋の灯下や、そこからの眺望が美しい。それが夜景であれば、更に素晴らしいのであるが、夕景色の方もやはり捨て難い。夕焼けの中でぼんやりと浮かび上がり、灯下が輝いている様は、思わずこちらが引き込まれて溶けてしまうのではないかと錯覚してしまう程、幻想的であり蠱惑的である。私の相棒は、そこの景色が好きなのである。ステレオからは、渡辺美里やらドリ・カムやらの歌声が絶え間無く流れている。あまりいい趣味とはいえないが、相棒が好きなら仕方がない。まぁ、この雰囲気に合った曲もあるのでよしとしよう。
 そうこうしている内に、大和川を越えて住之江通りへと入った。右斜め前にライト・アップされた南港大橋が現れてきた。やはり何度来ても美しい。こういったところの趣味はバッチリ合うようだ。心なしか体が震えてくる。これは決してガタがきているからでわない。念のため……。
 ここからが腕ならぬ性能の見せ所、大橋へかかるところから加速し一気に登り切るも良し、ギヤを三速にし、ゆっくり景色を眺めながら橋を越えるも良し、そこは相棒次第なのだが、今の相棒の場合、前者のタイプだろう。というのも、彼はスピード狂だから。これには、大変な被害を受けたわけではあるが、ここでは触れないことにしよう。今は、景色を見るのが先決だ。しかし、本当の目的地は、さっきも言った様に南港北であって、この橋ではない。橋を渡り終えてからぐるっと時計回りに遠回りをし、南港北を北東へと至った所に阪神高速と交わる場所がある。その少し手前にある行き止まりの細い路地を、奥へ入った所が目的地なのだ。ここから望まれるのは、港大橋。そこがまた素晴らしいらしい。らしい、というのは、実は私はその景色を未だ見たことがないのである。
 「よし、着いた。アルト号ごくろうさん。」言い置いて、相棒は意気揚々と広場へ向かう。ここから、入り組んだ石段のある広場を挟んで、その先に、大橋があるのである。さすがに小回りを誇る軽自動車の私でも、そこから先へは入っていけない。残念。
 その間、私はエンジンを切られ、体を休ませながら、もの思いにでもふけって相棒の帰りを待つ。私の車種はS社製造のアルト。先ほどの様に、相棒は私のことを「アルト号」と呼んでいるのですが、はっきり言ってそのままっていうやつです。もっといいネーミングはなかったものか。まったく相棒の趣味は分からない。あっ、それから、スピード狂なる私の相棒ですが、名前を「真亜 望(しんあ のぞむ)」っていいます。彼で私の三代目の相棒となります。年齢は二十一、私は十年前の型だから、一応私の先輩ということになります。まぁ、私の寿命は短く、比べられるものではないのですけれどね。そう、私はもうかなりの歳を経てるわけです。でもまだまだ現役、新型車にも負けません。最近は、オートマチック車なるものが登場し、それ以来その勢いに押されがちなのですが、やはり車は、マニュアル車です。ギア・チェンジで自分の相棒と息を合わせ走るのがいいのです。まぁ、それに至るまでがしんどいのですが。 話はそれましたが、私がもの思いにふけっている時、何を考えていると思いますか。今までの相棒の事、走って来た道路や景色の事、過去に遭遇した危険な体験の事等を、思いだし、懐かしんでいるのです。危険な体験に関しては、死にかけたことも何度もあったのですよ。では、相棒が港大橋から帰ってくるまでの間、それらの経験も含めて、相棒の移り変わりを語ってあげましょう。

 それにはまず、数年も前に逆のぼらなければならない。最初の相棒の名前は、西川 弘子。もちろん、名前から察せられる通り女性です。最初で最後の女性ということになるのですが、又、同時に、最初で最後の購買者という事になります。というのも、お金を出して私を迎えてくれたのは、彼女だかだったのだから。それはともかくとして、彼女に関しては、そんなに荒い運転をすることはなかったのだけれど、ただ、幅の狭い道でもふだんと変わらぬスピードで前進したり後退したりしたのをよく覚えている。あれには、皆まいっていた。初めて体験した人は、ジェット・コースターに乗った気分になれるのではないか。彼女は奈良出身で(つまり私も奈良ナンバーだったわけだけれど)、盆地のせいか肌も日焼けをしたように浅黒い感じで、一見、青年のような印象を受けるくらいボーイッシュな雰囲気でした。運転の力強さもそれを物語っているのだが、やはり女性ということだけあって、パワー・ステアリングなどという便利な機能のついていない私のハンドル操作は、すごくきつそうでした。彼女の狭所でのスピードを出す運転や、ハンドル操作の困難さの為になってしまうのか、私の体の両側には生キズがたえる事はなかった。逆に言えば、思いきりのいい運転という事になるのか。確かにさすがの私も目を閉じたくなってしまう事がある一方、「うまいな」とうならされる運転も多くあった、という事も付け加えておく。そんな彼女には、おかしな癖があった。癖というか、生まれつき持って生まれたものというか、とにかく、彼女の首は常人より長いくらいなのだが、やや左側へ傾いてしまっているのだ。座席に座って、シートベルトを着用すれば、それはよく分かる。顔は、悪くはないのだが、ややかしげている首の事を考えると、思わず吹き出したくなる。今も思い出していると、知らず知らずのうちにニヤついてしまう。失礼な話なのだが…。
 彼女とは、結構長い間つき合って来た。彼女が、これまた更に首の傾げた、色黒の、タレントでいう石坂 浩二に似たような顔の彼と結婚する事になってからも、その彼が、父と祖父と力を合わせて作ったという自家製の駐車場へ置いてくれていた。その時には、夫の乗っていた、これまた十年程前の型のローレルと仲良くなったものだ。その「ローレル」には「のせ号」という呼び名がついていたが、その意味は不明であり、今となっては確認できないことと、あきらめている。
 そんな彼女の手から、二番目の相棒へと受け継がれたのが、ほんの三、四年程前である。今度の相棒の名前は、「中山 正教なかやままさのり」といった。最初の相棒とは、親戚にあたるらしい。当時、彼は大学一年生、免許をとったが自分の乗る車がなく、困っていたところに、この受け継ぎの話が持ち込まれたそうである。全くラッキーな奴だ。
 彼は、私に乗った者の中で一番、安全運転であった。模範的運転といえたかどうかわ分からないが、ぶつけられる事はなかった。彼が私に乗っていた約一年半ぐらいの間での、運転技術の向上というものには、目を見張るものがあり、やはり十八歳という若さがものをいっている様に思えたりもした。しかし、男性でしかも体格のしっかりした、いわゆる大男で熊さんのような彼も“パワステなし”にはてこずったようで、右折・左折の時にも「うりゃ。」だとか「おりゃ。」だとかの奇声を一々発していた。変な奴だった。
 まぁ、運転でぶつける事がなかったのは、姿勢もよかったのだろう。彼には、軽自動車である私は小さすぎた様であったが、わざわざ死角を多くする様に首を傾げていたりはしなかったので、視野は広かったのだろう。ただ、そんな彼に今さらながら苦情を言えたとしたら、言ってやりたいことがある。それは、あまり手入れをしてくれなかったことである。彼の家には、駐車場があり、そこに私は駐車されていたのであるが、なにぶん屋根がないものであるから、汚れは早く、雨など降ればドロドロであった。それでも、あまり掃除をしてくれなかったのは、きれい好きでないのか、単にめんどくさがりなのか。それが、たまにキズであったけれども、結構その間、さまざまな所の景色を見て回ることができて充実していた。最初の相棒の時は、買い物など事務的な用事が多くなりがちであったけれど、やはり大学生となると遊び盛りであり、期間は短かったけれど、あっちこっちをめぐりめぐる事ができた。友人なのか、五人程も乗せて、疲れたときもあったけれど、いい経験になった。
 それから現在の相棒のもとへ受け継がれたわけであるが、そのいきさつはこうである。今の相棒、つまり真亜 望は、免許はとったものの、乗る車がない。というのも、家族で免許をもっているのは彼のみだからである。それゆえに、半年間ほどペーパー・ドライバーとして過ごさなければならなかった。そんな彼に救いの手をさしのべてくれたのが、前の相棒である中山であった。そしてここで述べておかなければならないのは、中山は、私の車検が切れてしまい、維持費もばかにならないので、もとの持ち主へ返そうかどうか、その処置に困っていた、ということである。そこにタイミングよく大学で同じスキー部に属する真亜が困っているのを見つけ、話を持ちかけたのだそうだ。もちろん、そんなチャンスを逃すはずはなく、現相棒が私を手に入れたのである。
 運転技術はというと、今でこそ見れたものであるが、その当時は、ギアがつぶれるんじゃないかと心配になったぐらいだった。そんな相棒がスピード狂なのだからたまったもんじゃない。もともと彼はそんなに気の長い人ではないらしい。例えば、運転に少し慣れてくると、信号が黄でも無理やりわたってしまおうとしたりするものだから、交差点をわたり切らずに信号が変わってしまい、立ち往生仕掛けてしまう、という有様。これには、さすがの私もびくびくしてしまう。又、高速にのって、すいている時なんかは、スピードメーターの百二十キロメートルをふりきって走ったりする。性能には自信のある方だが、何といっても“軽”なのだから、限界は知れている。いくら私でも、限度というものをわきまえているつもりだが、相棒の方はどうもそうではないらしい。こればっかりは、相棒に従うより外はないのだが、体の方がついてきてはくれない。時速百キロメートルを越えると体が振動してくる。これは、紛れもなく性能の限界である。まぁ、天気のいい日は、それでも走れないことはないのであるが、雨天で道路が濡れている時は、こわくてしょうがない。ブレーキがきくとは限らないからね。そこのところをまさか分かっていない訳ではないのだろうけれども、相棒ときたらとばしまくる。 運転技術も慣れる以前はひどいもので、荒くてひどかった。特にバックする時が危なっかしくて見てられない。背中をぶつけられる事も何度かあったぐらいだ。まぁ、そんなことは昔の話。やはり技術というものは誰でも向上するものらしく、だんだんと、私の体にもなじむようになってきた。今では、もう息もぴったり合っている。今では、だけれど。と、いうのもある事があって以来、彼のスピード狂も、少しはましになってきたのだ。ある事、というのは、先に言ったような危険な体験のうちの一つの事であるけれど、そのある事件について、これから話してあげましょう。

 その日、天気予報では梅雨前線の接近が告げられ、夕方ごろから大雨になる、とのことであった。どんよりとした雲のもとで、走り続けていた。相棒はクラブでの打ち合わせが終わったところで疲れていたようだった。天王寺から府道二十八号線を北から南へと下り、南港通りに当たった所で右折し、国道二十六号線と交わるまで直進し、交わった所で左折、そのまま直進を続ければ泉大津へと帰ることができる。いつもの通りだ。雨が降り出しそうだったのと、クラブで疲れて早く帰りたかったこと、更に付け加えて、何かイヤな事でもあったのだろう。いつもにも増して、相棒は、スピード狂の本領を発揮してぐんぐんとばしていた。そうこうしているうち、南港通りの途中で大雨が降り出した。雷も鳴りだし、辺り一面、視界も悪くなってきた。私は何かイヤな予感がした。相棒の方も、それを少しは感じたのあろう、アクセルを少しゆるめ、躊躇したけれども、また思い立ったらしく、アクセルを踏み込んだ。そしてその事件というのは、その後しばらく進み、国道二十六号線を下ってちょうど大和川を越えたところで起こったのである。
 車通りは少なく、相棒は安心しきった様子だった。相変わらずアクセルは踏み込んではいるが、さすがに大雨となって一段と激しさが増してきたせいもあって、時速七十キロメートルぐらいではなかったか。そして、ある交差点に差しかかろうとする頃、前方に見えた信号が黄へと変わりかけた。止まるのか、と思いきや、私の体は前へ投げ出された。アクセルを踏み込んだのである。おそらく、前方を走る車に便乗してわたってしまおうとかんがえたに違いない。前方を行く車は、「ブルーバード」。最近、流行っているという、流線形をした普通車だ。もちろん、性能はこちらを一枚も二枚も上回るものだ。その車のブレーキランプが一度光ったかとおもうと、その車は停止してしまった。ヤバイんじゃない。私は心の中で焦った。しかし相棒は、ハンドルを左へ切ろうとする。この道路は、二車線で、今走っているのは右側。おそらく左側へ移ろうとするのらしい。移る事ができれば間に合う。でも、隣には、併走している車が…。相棒も、やっと気づいた。慌ててハンドルを右に切りながら、ブレーキを踏む。しかし、間に合いそうもない。目の前にブルーバードが迫ってくる。ぶつかる。
 「うわぁっ。」
 『うわぁっ。』
 大雨の降る中、大音響を発してぶつかり合った車が二台。辺りは、再び、雨音を残すのみとなり、二台の車を夜の闇が包んでいる。私はエンストを起こし、気を失っていた。ぶつかった瞬間、相棒の眼鏡がフロントガラスに当たり、はねかえるのを感じたが、大丈夫だったのだろうか。しっかりと、シートベルトで抱いてやった記憶はあるのだが。あとは覚えていない。
 エンジンをかけられ、気が付いてみると、運転席には相棒が座っている。場所を移動するのか。どうやら無事だったらしい。とにかく私を左端へ寄せるつもりらしかった。眼鏡は、まだ座席の下へ落ちたままである。気が付いていないのか。私を止めると相棒は降りて、前の車の人と何か話している。頭を下げているところをみると、謝っているのだろう。ドジを踏んだもんだ。さて、私の体はどうだろうか。おぉ、何か目の前がぼんやりするかと思ったら、左側のヘッドライトが粉々に砕けている。というよりも、車の左前方が大きくえぐり取られたようにへこんでしまっている。痛みはない。よくもまぁ、これで移動できたものだ。相手方の車は。ん、後ろのバンパーが少しへこんでいるだけか。少し悔しいような気もするがこれが現実だ。所詮、そんなものだろう。“シュークリームの皮”と異名をとったぐらいなのだから。向こうから、二人してこちらへ向かってくる。警察へは、もう連絡を済ませたようだ。何をするのだろう。と思っていると、相手方の人が私の中で何か探している。そして、何か拾い上げると、それを相棒へ渡した。眼鏡だ。おい、相棒よ、それは少しなさけないぜ。
 どうやら、これから警察まで移動するらしいが、こんな体で動くのか、と心配するまでもなく、ゆっくりと走りだした。私のエンジンもまんざら捨てたもんじゃないな。でも、通り過ぎる車が、みんなこちらを見て行くのが恥ずかしい。警察では、又、外で待たされることとなった。しばらくして、警官と相棒が連れだって出てきた。警官は、金尺子みたいなものを持っている。と、いきなり私のつぶれた箇所へ定規をあてがい、寸法を計り始めた。それが終わると今度は、相棒へ向かって何か説明しだした。相棒はすっとんきょうな顔をして聞いている。ときには、顔をしかめたり、苛立った表情さえ浮かべている。ここは、おとなしく話を聞いておくのが無難なのに。
 やっと話がついたようで、私達は帰途へ向かった。金属のこすれる音があちこちから聞こえたり、変な音が鳴っていたりするが、何とか走れる。まぁ、家までは無事に帰りつけるだろう。でも、体は完全にイカれてしまっている。もともと型も古い。こりゃ、明日には廃車かな。

 次の日、私は相棒と連れ立って、車検・修理等も兼ねている、S海上火災という所へ行った。保険等の話もしているのだろう、表の方でしばらくの間待たされた。これから一体どうなるのだろうか。昨日から、覚悟はしていたけれどもやはり廃車はイヤだ。しばらくして相棒が出てきた。すると、私の荷物を取り出すと、向こうの会社の車に乗せてもらい、家へと帰ってしまった。やっぱり廃車か…。えーい、ちくしょう!裏切者め。背後霊となってとりついてやる。覚えてろよ。などと思っていると、作業員が近づいて来た。私は観念した。作業員は、ボディを取り外しにかかった。
 それから、数週間たってからであろうか。再び、私と相棒が顔をあわせたのが。私は、新しい体となってもどってきたのだ。相棒よ、ありがとう。この前は、悪態をついてしまったが、あれは本心ではない。許してくれ。と、早合点をしてしまった私は、急に恥ずかしくなって、ブレーキランプを少し赤らめた。
 と、まぁこれが、これまでの相棒との関係と、経験についての話だ。とにかく、体の調子は以前にも増して快調。新しい体も気に入っている。初めは、慣れるのに苦労したけれどね。それからというもの、スピード狂も少しおさまったってわけだ。もちろん、完全に治ったわけではないけれど。今はもう十月、あの事故からはもう、四か月近く経過したことになる。あれからも、いろんな経験もしたし、危険な目にもあったけれど、ここでは触れないでおく。もうすぐ、相棒がもどってくるから。
 そうこうしているうちに、相棒がかえってきた。夜景を満喫した、というような表情である。気のせいか哀愁もただよっているような。一度その港大橋からの景色なるものを私も見てみたいものだ。これからも、何度もここへ通う事になるのだろうけど、そのうちにきっと…。まぁ相棒の様に暇な奴は、一度きてみるといい。
 それじゃあ。さようなら。