一筋の道山頂へ秋高し 菅原ツヤ子 「九年母」 1992.11 (*1)
A 視点が山中にあるとした場合の景の読みとり | ||
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景 | 愛 | 山登りしていて、山頂へ向かっている時に、上を見上げている。 |
景 | 珠絵 | 登山。一筋につづく道を登ってゆく。すると山頂へ近付くごとに、確実に秋が深まってゆく。 |
景 | 祥子 | 山登りをしている様子 |
B 視点が山中にないとした場合の景の読みとり | ||
景 | 聡里 | 一本の道が山頂へと続いている |
景 | 里香 | 秋の空が高く、山道がまっすぐと山頂へ、空へと向かっているように見える。 |
を | は | と読みとった。 |
視点が山中にあるとして、景を再構築すると、「山頂へ」続く道を見ている視点人物が、道の先にある山頂、その背景の秋空を、下から順に見上げていくという視点の動きを景に組み込むことになる。同時に、足下の道が山頂へ秋空へと、近から遠への視点の動きも景に組み込むことになる。そのような景に直面している視点人物の状況「登山中」も景に組み込まれる。
視点が山中にないとして、景を再構築すると、遠くにある山の山頂に続く道を眼で追う視点人物が、道の先にある山頂、その背景の秋空を、下から順に見上げていくという視点の動きを景に組み込むことになる。再構築された景は、秋空、山、山腹に見える道の遠景である。
視点の位置が再構築される景の違いを生じさせたのであるが、それらの景が触発する情に違いが生ずるであろうか。
A 視点が山中にあるとした場合の情の読みとり | ||
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情 | 愛 | 希望目標への道? |
情 | 珠絵 | 秋を感じている。 |
情 | 祥子 | 達成感・満足度 |
B 視点が山中にないとした場合の情の読みとり | ||
情 | 聡里 | 一本の道に人生を見ているのか? |
情 | 里香 | 視線の動きからあこがれ、希望? |
を | は | と読みとった。 |
近から遠の視点の動きを組み込んだ A では、徐々に山頂に近づいていく視点人物を想定するので、「希望達成の喜び」という情を再構築することになる。(その上での、「豊饒の秋」であろう)
遠景として景を再構築した B では、情の再構築が十分には行われなかったようである。
凡庸に生きつぐ日々や茄子の花 県はつ江 「小鹿」 1992.01
A 「凡庸」の評価を「−」とした場合 | ||
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情 | 里香 | 現在に対する退屈感 |
B 「凡庸」の評価を「±0」とした場合 | ||
情 | 祥子 | ナスビも自分もそうかわらず平凡な毎日を過ごしている。 |
情 | 聡里 | ふと自分の平凡な人生を振り返ってみる |
C 「凡庸」の評価を「+」とした場合。 「茄子の花」の評価(+ 親の意見と茄子の花は千に一つの徒もない=総て実を結ぶ)をもとにして。 | ||
情 | 愛 | 平凡に生きて行くことの良さ |
情 | 珠絵 | 茄子の花の凡庸さをたたえている。 |
を | は | と読みとった。 |
一人乗る回転木馬日脚伸ぶ 川島澄子 「酸漿」 1992.10
視点の位置
観察者の視点の場合、「あの人はひとりで乗っているなぁ」「独りぼっちだなぁ」「孤独だなぁ」「そういえば、自分もそうだなぁ」と自己の孤独をとらえるまでの過程が長い。行為者の視点の場合は、観察者の視点の場合に比べて、自己の孤独をとらえるまでの過程が短い。孤独感と「日脚伸ぶ」春に近づく喜びとの二つの情をどう関係させるか
情 | 愛 | 春が近づく喜び |
情 | 珠絵 | 日が伸びてゆくことを、一人密かに喜んでいる。 |
情 | 祥子 | 季節の移り変わり・春の喜び・ぼっちっち |
読み手が、句作品をどこまで解釈するかによって、読みの違いが生ずる。景を実景ととらえるか幻景ととらえるかで、違いが生ずる。実景ととらえた場合は、情をどこまでとらえるかによる差がさらに生ずる。幻景ととらえた場合は、想像の仕方の面白さを感じ取って完成形としてしまう場合がある。
日天子月天子朴白珠に 中戸川朝人 「方円」 1992.04
実景としてはとらえにくい句である。日天子は太陽の、月天子は月の、擬人化であろう。幻景として解釈すれば、「朴のはの上に白珠のような露が降りていて、それに太陽や月が訪れてくる。それを、露の内部から見上げている」となるか。やや実景よりに解釈すれば、「朴のつぼみに太陽や月が巡り来て、白珠のような花になっていく。それを見上げている」となるか。
どちらにしても、景の再構築終了で完成形としてしまいたいところである。読むためのコストがあるとすれば、この句の場合は、景の再構築時点で、残金がないように思われる。
ひとひらのあと全山の花吹雪 野中亮介 「曙」 1992.01
情 | 愛 | 一部を見て想像を膨らませている。 |
情 | 珠絵 | 景色の美しさ。 |
情 | 聡里 | 花吹雪の美しさ。感動。 |
情 | 祥子 | 物事の始まりの大変さか、自分の老いの表現か、季節の移り変わりか。 |
香水の一滴ほどの日を減らす 塚本久子 「曙」 1992.01
疑 (*3) | 愛 | 日を減らす? |
疑 | 珠絵 | 香水→“わずか”の象徴ととってよいのか? |
疑 | 祥子 | 香水をどのようなものとしてとらえているのか? |
疑 | 聡里 | 「香水の一滴」の意味? |
景 | 珠絵 | わずかづつであるが、かけがえのない日々を過ごしている。毎日を大切に生きようという思い。 |
景 | 祥子 | うううん |
景 | 里香 | 今日も一日が終わった。大切な日々を無駄にしてしまった。 |
情 | 祥子 | むだな時間を過ごしてしまった? 強烈な日を過ごした? |
情 | 里香 | 死への恐れ |
「貴重さ」は、すぐに想定できるけれど、それだけでは、わざわざ「香水の一滴」を持ってきた意味がないようである。「女らしさ」もあるだろうし、「心地よさ」もあるだろう。
比喩の句で読みの差が生じる場合は、いくつまで共通属性を取り上げたかが要因であろう。
俳句の読みに違いが生じる要因を整理しようとする試論の段階である。要因相互の関係に進まなければならないのだが、その手前である。
俳句をどう読むのが正しいか、俳句をどう詠むのが正しいかということに対しての回答は表現論の成しえないところである。なぜなら、正しいかどうかは「美しいかどうか」であるから。ただ単に綺麗という美しさではなく、真実が持つ美しさであり、事実が持つ重さであり、表現主体の繊細さ大胆さである。理解主体の楽しさも含まれるだろう。
「美しく」なるまで推敲を重ね、「美しく」なるまで読み返すのであろう。
「美しい」かどうかは、美学の範疇である。表現論が成し得るのは、もしその句が、その読みが、美しいとするならば、文章表現上のどんな要因がどう関係しているかを整理することであろう。楽しみながらすすめていきたいと思う。
句 | 作者 | 俳誌名 | 『俳句』掲載年月 |
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一筋の道山頂へ秋高し | 菅原ツヤ子 | 「九年母」 | 1992.11 |
「俳句問答」 | 正岡子規 | ちくま日本文学全集 筑摩書房 |
『俳句はこう解し、こう味わう』 | 高濱虚子 | 岩波文庫 |
『漱石俳句集 解説』 | 坪内稔典 | 岩波文庫 |