私は飛行機に乗っていた。それは宮崎行き午後の便だった。私は実家に帰ろうとしていた。それは母に会うためだった。10月にはいり、空は高く澄んで飛行機からの眺めは気持ち良かった。日ごろの忙しさから離れたくて、自分を見失いそうで、帰りたかったのかもしれない。別に悲しいことがあったのではない。次の正月に帰ればそれでいいのだが、私は母に会いたかった。とにかく、母と話をしたいと。私は誕生日を向かえ21歳になったばかりだった。母は21歳に父と結婚した。今、私は結婚を考えている人がいる。そう思ったら帰りたくなったのだ。盆に帰らなかったせいもあり、祖父母は喜ぶに違いないが、母は無理して帰らなくても、といっていた。機内のイヤホンからは、流行のJ−POPが流れている。宇多田ヒカルの声が心地よかった。「飛行機はまもなく宮崎空港に到着します。皆様座席ベルトをしっかりと締め……。」アナウンスと共に飛行機は着陸体制に入った。太平洋沿いのシーガイヤは、屋根が開いていて、上から見えそうだった。
飛行場につき、荷物を受け取り、そこから到着ロビーに出る。そこには待ち人が沢山いて、出ると一番に多くの視線を浴びなければならず、私はそれがいつも苦手だった。その中には母の姿もあった。背の低い母は周りにうもれていたが、すぐに見つけることができた。私も背が低いからだ。
「おかえり。」
母はそう言ったまま少し笑った。
「ただいま。」
と私も少し笑った。それで会話は終わるのだが、二人にいろんなことばは要らなかった。道沿いのフェニックスが秋風にゆれていた。うちに帰ると、変わらない家と変わらない家族がいた。帰った来たんだと、少し力が抜けた。一人暮しには必ずついてくる、無意識に張っていた緊張が緩んでいった。そこで、たった3日間の帰省だが、帰ってきて良かったと思えた。父は相変わらず頑固で堅物だし、弟は野球に熱中していた。私が好き勝手やれているのもこの家族がいるからなのだと、素直に思えた。口には出せないが、本当にそう思った。
夜になり、父も弟も寝入った時間、私はまだ眠れずにいた。どうしても、一人で暮らしていると夜更かしになるので、癖が抜けない。台所に行くと、母は洗い物をしていた。うちは専業農家だから、小さい頃学校から帰っても母親はいない環境で育った。朝が早いので、仕事から帰ってもバタバタと風呂に入り、晩飯を食べて寝る。その中で、私がゆっくり母と話せるのは、寝る前のほんのちょっとした時間だけだった。のどが乾いたと言って、洗い物をしている母の後姿を見ていた。「もうねらんね。」と言われて「うん。」と言っても私はずっとそこに座っていた。その時のように私は座った。母と話がしたくって帰ってきた。電話ではなくこんな風に。
「お母さん?」
「なに?」
私は何を話そうか分からなくなった。
「なんね?」
聞きなおす母。
「うん。」
私は麦茶をコップに入れた。
「なんかあったとね?」
何もない、けど私は話したいことがあった。
「今ね、付き合ってる人がおるとよ。」
母は振り返り、
「あんたにね?」
「そう。」
今まで、一度も母とこんな話をしたことがなかった。実家にいるときも、それから一人暮しから帰省したときも、「彼氏はおらんとや?」と聞かれても「うんにゃ。」と言いつづけていた。恥ずかしかったのもある。でもずっと思っていた。彼ができたら母に紹介したい、そうできるような付き合い方をしたい。母は手を止めとなりに座った。
「ええ、そうね。」
静かにつぶやいた。驚いている様子はなかった。
「初めてね。」
「いや?」
「えっ。」
それから二人はクスクス笑いあった。
「でも、この人やったらお母さんに言える人やって思ったから……。」
「うん。」
「言ってみた。」
「そうね……。」
母と娘の会話を久しぶりにしていた。
「お父さんにはいわんでね。」
母は黙っていた。当たり前よって言うように。
「でも気づいちょるかもね。」
「なんで?」
「指輪、ほらそんなとこにはめちゅっから。」
母は、左手の薬指を見て言った。
「いいやろ。」
「いくら?」
また二人は笑いあった。
「お母さんもほしいわ。」
「今度言っとく。」
「もっとそれよりよかとが。」
――良かった。母に言ってみて正解だった。私はなんとなく聞いた。
「お母さん、21で結婚したっちゃがね。」
「そうよ。」
「その前におらんかったと?」
「なにがね?」
「彼氏。」
言った後、まずかったかなとは思ったが、聞いてどうなるもないことだ。母はしばらく黙ったが、
「お母さんはあなたくらいのときは東京にいてね……。」
と、私の隣に座り話し始めた。
1974年、恵子は集団就職で東京で暮らしていた。狭いが寮の生活は快適で、友達と休みの日には新宿に遊びに行ったりしていた。毎週火曜日と金曜日には、歌声喫茶に行き、いろんな歌謡曲をピアノに合わせ歌った。時には有名人を見にスタジオにも行くほど、恵子は東京生活を満喫していた。
「ねえ、今度のお休みの日、私の友達と遊ぶ約束があるの。来ない?」
山形から来た信子が誘った。
「いいの? 行きたいわ。」
それが彼と出会うきっかけだった。
当日、待ち合わせした場所に来たその友達は男連れ二人だった。恵子はびっくりして「何? 男の人なの?」
と信子に聞いた。
「あら、女って言った?」
そう言い残して彼女は車に乗りこんだ。仕方なく、恵子も乗った。車は北へ北へと進む。男は二人とも東京の人だった。田舎から出てきた恵子は、東京の男の人と話すのがあまり好きではなかった。
「名前は?」
運転しながら一人が話しかけてきた。助手席には信子が座っている。そうか、この人が狙いなのか。恵子は、遊ぶために自分がうまく使われたと思い黙っていた。
「あれ? 聞こえない?」
運転手はルームミラーを覗いた。
「恵子って言うのよ。」
代わりに信子が答えた。
「よろしく、恵子ちゃん。おれ伸二。」
「この人すごいのよ。将来デザイナーになるんだって。ねっ」
聞いてもないのに信子は付け加えた。
「君、静かだね。一言もまだしゃべってない。」
伸二は車を飛ばす。どこへ行くか知らされないまま、のんきにしゃべるなんてできない。恵子は不機嫌のままだった。すると、
「どうしたの? 具合でも悪い?」
隣に座っているもう一人の男が話しかけた。恵子は黙って首を振る。もうすべての人がうっとうしかった。
「俺、亮って言うんだ。何か飲むかい?」
そう言って亮は缶ジュースを何本か出す。すると、
「おれコーヒー。」
「私オレンジがいいわ。」
伸二と信子が口を挟む。
「君は?」
覗きこまれ、機嫌のなおらない恵子は少し体をそらした。
「じゃあ……麦茶で。」
亮は、缶の周りの水滴をふき取り、
「はい。」
と笑って差し出した。
「……ありがとう。」
恵子はそこではじめて相手の顔を見た。色は白く、鼻筋のとおった男性だった。少し釣り目で、薄い唇。恵子は一瞬息を飲んだ。
「格好いいでしょう。」
すかさず信子が代弁するかのように言った。
「亮君もデザイナーを目指してるのよね。」
「いや、おれは伸二と違って建築のほうだけど。」
亮は恵子へ向かって
「やっぱ服のデザイナーのほうがうけるんだ。」
と苦笑いして見せた。恵子は
「そんなことないわ。」
と言いたかったが、もう目は合わせられなかった。さっきまでの怒りも消え、いやまだ僅かにはあるが、隣にいる青年を意識してしまい何もしゃべれずにいた。
「いや、亮のほうがもてるんだ。」
伸二はこちらに聞こえるように大声で話す。車の中はグループサウンズが流れていた。タイガースは恵子も好きなグループだった。
「いや、もてるのは伸二のほうさ。」
「そっかー? そうだな。」
二人は笑った。ただ、信子は面白くない顔をしていた。
「なんだよ。」
伸二は窓の外を見つめ黙っている信子を見て言う。
「なんでも。」
「急に黙り込んで、馬鹿だな。」
「もう! 馬鹿って何よ、馬鹿って。」
伸二はやきもちに気付いているのだろうか。信子はふくれている。亮はうけていた。
「もう……。」
恵子も終いには笑っていた。7月、空は青く晴れ渡っていた。都会の雑踏から離れていくほど、車はスムーズに走っていった。4人は日が暮れるまでドライブを楽しんだ。
「車で旅行でもしたいなぁ」
伸二は車を走らせつぶやいた。
「え? これから行く?」
信子は、目をきらきらさせていった。
「今度、固まって休みができたらな。」
伸二は信子を優しい目で見た。
「いきたいなあ……。」
甘えて見せる。恵子ははじめて信子のこんなところを見てしまい。自分のほうが恥ずかしくなった。田舎の男にはない、軽い感じの話し方や親しみやすさが二人にはあった。信子も田舎から出てきている。この二人とどう知り合ったかは分からないが、同じようなところに引かれていったのだろう。
ドライブは、寮の門限と共に終了し、信子と恵子は車を出た。
「ありがとうね。また行こうよ、伸ちゃん。」
信子は手を振った。恵子も
「ありがとう。」
それだけ言って、チラッと目を亮の方へやった。亮はこちらを見ていたので慌てて顔を伏せたが、彼の
「またね。」
ということばに、素直にうなづいてしまった。車は走り去る。信子はまだ手を振っている。うっとりした目で、彼の車を見送っていた。
「……いっちゃったわ。」
不意に淋しそうな顔。信子は本気に好きなんだと、恵子はこのとき思った。恵子も、二人といる時間とても楽しかった。寮に戻って、永遠伸二の話を聞かされるまでは。
部屋に帰ると、母から電話があったと知らされた。かけ直そうとしたが、内容はわかっていた。――帰ってきなさい。早く帰ってきなさい――それだけだった。恵子に父親はいなかった。弟は大学に行くため家を出ていた。家には母一人だった。恵子はやっと都会の暮らしを楽しめるようになって、また宮崎の田舎の暮らしに戻るのが嫌だった。でも、母は一人で自分を待っているのは分かっていた。
恵子は東京でウエイトレスをしていた。東京の人はおしゃれで、芸能人もたまに来るときがあり、店内はいつも華やいでいた。しかし、テレビで見る芸能人より、もっとうれしくて緊張して待ち望む客がいた。亮だった。あれから二人は店に来るようになり、今では亮一人でも来てくれる。
「いらっしゃいませ。」
決まって恵子がオーダーを取りにいった。
「げんき?」
「うん。」
「そう。じゃあ、コーヒー。」
「はい、かしこまりました。」
他の客に見つからないようにことばをかわす。知らず知らず恵子の心は亮に傾き、こんな風にでも会える日をいつも楽しみにしていた。
「ああ、ちょっと。」
亮が後姿に声をかけた。
「はい……。」
恵子はもう一度亮のそばへ寄る。
「あの……。その君の仕事が終わる時間、何時かな?」
「え?」
恵子はなんだかどきどきしながら
「6時……、でおわるけど。」
メニューをぐっと抱きしめていった。
「じゃあ、7時、寮の前で待ってるから。いい?」
「え? うん。」
なぜかも聞けずただうなづいた。ただうれしくてうなづいた。
7時、恵子は他の友達に何も言わず出かけた。外には車が止まっていて、亮が中から手を振った。車に乗る。今日は亮の車だ。
「親父のなんだけど、かっこいいだろ?」
「うん。」
緊張してしゃべれない。
「いこうか。」
「うん。」
しかし、それから、この緊張は少しづつ緩んでいった。何度もこうやって会って行くうちに、一年が過ぎ、亮はどんどん恵子にとって大切な存在になっていった。21歳の誕生日、恵子は初めて亮の部屋につれられた。設計士になる勉強の道具が部屋を占領していた。
「見せたいものがあるんだ。」
そう行って彼は一枚の設計図を広げた。
「俺まだまだだけど、自分で書いてみたんだ。自分の家の設計。」
そこには、直線や曲線で描かれた図があった。数値などが、細かく記されてある。
「将来、きっと成功して、このうちに住みたいんだ。」
「へえ……。」
恵子はうれしそうな目で設計系図を眺めた。
「……、君と。」
一瞬、沈黙が流れた。
「君と住みたい。この家に。」
もう一度亮は言った。恵子は驚いて彼の顔を見つめた。それと同時に大粒の涙がこぼれた。恵子の心は、喜びと同時に深い悲しみで溢れた。自分はすぐにでも田舎に帰らなければいけない。しかし、この人を連れてはいけない。
「ありがとう。」
そう答えるのが精一杯だった。部屋に帰ると、葉書が一枚届いていた。母からだった。母からの葉書なんて初めてだった。恵子からは何度も出したことはあるが、字が汚いことを恥じていた母は筆不精で、決して手紙を書こうとはしなかった。(なんだろう。)恵子は葉書を裏返した。葉書にはこう書かれてあった。
――恵子さん、誕生日おめでとう。東京の暮らしはつらくはないですか。体は壊していませんか? 仕事頑張ってくださいね。お元気で――
短いその文章は、震えた細い字で書かれていた。良く見ると、葉書には蝋がぬってあり、まだ梅雨が開けない季節、雨で濡れないようにしてあった。
「おかあさん。」
恵子は座り込んだ。さっきとは違う涙がほほを伝い止まなかった。帰ろう、母の元へ帰ろう。そう決心した。
「信子。」
恵子は部屋を尋ねた。彼女は一緒の部屋の友達と話していた。
「なあに?」
信子は笑顔で顔を向けた。部屋を出ると、恵子がいつもと違うことに気づき、
「どうしたの? 何かあったの?」
と顔を覗いた。
「うん、あのね。」
恵子はうつむいたまま答えた。
「私、田舎に帰るね。」
明るく打ち明けようと無理に笑って見せた。
「どうして。どうしてなの? 恵子。」
信子は急に言われて動揺している。
「嫌だよ。私、恵子とはなれるなんて嫌だよ。」
恵子も帰りたくない気持ちは十分にあった。
「ごめんね、ごめんね信子。」
二人とも泣いていた。
「もう、決めたから。帰らなきゃ。」
恵子は母親のこと、手紙のことを話した。
「そう……。でも、亮君は? どうするの?」
そのことについては何も言えなかった。
「今日、プロポーズされたの。」
「返事はしたの?」
恵子は首を振った。
「恵子ぉ。結婚しなよ。そしてここに残ろうよ。ずっといようよぉ。幸せになってよ。」
信子は恵子の肩をつかみ、大きく揺らした。こんなに引き止めてくれる友達がいて、愛してくれる人がいて、恵子は自分を幸せだと思った。田舎から出てきて、悲しかったり、淋しかったり、つらいこともあった。なれない都会で働いて、家に仕送りをして、恵子は強くなっていった。他の友達もこのことを聞き、まわりで泣いている。今では、こんなに温かい人たちに囲まれ生きている。楽しいことばかり思い出されてくる。しかし、もうこれ以上母を一人にしておけなかった。
「みんな、ありがと。今まで、ありがとう。」
恵子はもう十分だった。十分幸せだと思った。21歳の誕生日、その日は恵子にとって決して忘れられない日となった。
宮崎行きのフェリー乗り場では、沢山の友達に見送られた。
「恵子、元気でね。」
信子はまた泣いていた。
「また、会おうね。いつかきっと。」
恵子はそう約束して、信子と抱きしめ合った。そこには伸二もいたが、亮の姿はなかった。恵子は、結婚できないと言う返事の手紙を送り、田舎に帰ることも知らせた。それからは、もう店でも会うことはなかった。
「亮のやつ、来ないな。どうしたんだろう。」
伸二は時計を気にした。
「いいの。私がいけないから、来ないのは当たり前よ。」
恵子は笑ってみせた。
「結婚……。してほしかったな。」
信子はポツリとつぶやいた。
「もう、いいのよ。それよりあなたたち、頑張ってね。」
恵子は伸二に
「信子をお願いね。」
と言った。
「恵子ぉ。」
信子はまた泣き出した。
「もう、そんなに泣かないで。もう、船が出ちゃうから行くね。」
恵子は笑って別れようと決めていたから、泣いている信子を慰めてばかりだった。
「じゃあね、バイバイ。みんな、元気でね。」
大きくてを振る。汽笛が鳴った。船はだんだん港から遠のいていった。だんだん、みんなが小さくなっていった。東京ともバイバイか……。と思ったそのとき、港沿いを走る車を見つけた。まさかと思い、身を乗り出して見ると、それは亮の車だった。猛スピードで走っている。涙があふれてきた。
「亮、亮ごめんなさい。ごめんなさい。」
聞こえはしないが、恵子は何度も声に出していた。車から降りてこちらを見ている。両手をふっている。恵子が出した答えに、亮は怒ってしまったんだろうと思っていた。もう会えないのも仕方がないと諦めていた。でも、今亮はいつまでも手を振ってくれている。見えなくなりそう。恵子は海に飛び込んででも戻りたかった。
「亮……亮……。」
恵子も、いつまでも手を振った。母の葉書を握り締めて。
「それで、帰ったらお父さんがおったと。見合いでね。」
昔をうれしそうに思い出して話す母。普段、働く時には見せない顔に、私は母に初めて女らしさを感じた。
「信子と伸二さんは結婚したかい、よかったとよ。」
今でも東京にいるらしい。夏に届いた、暑中見舞いの葉書を見せてくれた。
「ねえ、おかあさん?」
「ん?」
「その人と……、亮さんと結婚できれば良かったとにね。」
「ううん。そげなことないが。」
母は私の肩を抱いた。
「あんたが生まれたがね。そいでお母さん幸せよ。」
「……、うん。」
私は母のほうにもたれたまま、涙が込み上げてきた。泣きそうになった。
「おかあさん、ありがとう。生んでくれて、ありがとう。」
やっとの思いで言うことができた。
「うん、うん。」
母は私の頭をなぜ、何度もうなずいた。この人が私の母で、本当に良かったと思った。
「あんた、結婚するとね?」
「ううん。まだ分からん。」
私の中で、結婚の意味や幸せの意味が少し変わろうとしていた。「ゆっくり考えなさい。」
「うん、わかった。」
「そのひとかっこいい?」
「えー? どうかな、普通。」
そう、母が恋した人はどんな顔だったのだろう。母はつづけた。
「顔はまあいいから。お金持ちね?」
「えー!?」
二人は顔を見合わせまたクスクス笑い合った。私がおなかにいるとき、男の子だったら亮とつけたかったと母から聞いたことを思い出した。寝る前、母はそっと
「お父さんには言わんでね。」
とささやいた。
終