卒業論文を終えて

石田直子

 卒業論文を何とか提出し終えて、3週間が過ぎようとしている。卒論提出の日に依頼された原稿を、こうして提出前日に研究室に来て書いていることが、わたしの性格をよく表していると思う。この「ギリギリにならないとエンジンのかかりが悪い」という性格は、私の今までの人生でも大きく災いしてきた。小学校の時の夏休みの宿題は、8月31日までに終わらせたことは一回しかなく、冬休みに出た日記の宿題も1月7日にまとめて書いた(しかも、ばれないようにと鉛筆の芯の濃さを毎日変えたことでかえってばれてしまい、げんこつを食らった)。中学校、高校に入っても、大学に入ってもこの性格は治らず、とうとう卒論でも提出時間一分前に滑り込むという事態を招いてしまった。野浪先生がKさんの年賀状に「卒論はその人の人格がわかる」と書かれたという話を聞いたが、つくづくその通りだと思う。この卒論を書いている課程で、自分のいい加減さや弱さを改めて思い知らされることになった。これはとても貴重な経験であったと思う。自分自身を知るなんてことは、よほどの極限状態でなければ経験できない。私はなかなかハードな部活に所属しているが、それほどの極限状態に陥ったことは三年間やっていてたった一度しかない。卒論を書くだけでそれほどの状態に追い込まれたのも、「ギリギリにならないとエンジンのかかりが悪い」性格のなせる技だといえる。
 しかし、そんな理由だけではなく、卒論を書くということはどうしても自分自身と向かい合うことになる。何故なら、この研究室は「国語表現ゼミ」だからである。ここに所属する限り、誰かの本を読んで、それについてまとめて推測して終わるということはできない。そのように推測した根拠からその効果まで、本文から読み取っていかなくてはいけないのである。この「本文から」ということが曲者である。「**氏が言っているから」などというのは通用しない。**氏がそう言っている根拠は、自分自身で「本文から」見つけて来なくてはいけないのである。この作業は、私は大げさにではなく今までの人生を問われていると感じた。「ここでどう読みとれるか」ということは、今まで人生をどう生きてきたかに関わっていると考えられたからである。だからこそ、「卒論はその人の人格がわかる」のではないだろうか。三回生の皆さんは、これから卒論に取り組むわけだが、学問以外のこともたくさん学べる一年だと思う。自分の限界に挑戦しながら精一杯頑張って下さい。
 いろいろと大層なことを書いたが、全体的な感想として卒論を書くという作業はとても楽しかった。私ごときが言うのも何だが、「学ぶ楽しさ」がほんの少しわかった気がする。それもこれも、根気強く、また的確に指導して下さった野浪先生と、私のくだらない相談などを聞いて下さった先輩方、同輩達、そして折に触れて励ましてくれた三回生達、卒業させてくれた家族のお陰である。皆さん、本当に有り難うございました。特に野浪先生には、提出ギリギリまでご指導していただき、感謝してもしきれません。先生や、ゼミのみんなに出会えたことは、私の人生に於いてベスト3に入る貴重な出会いでした。本当に有り難うございました。